スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 46

古谷章・古谷雅子

6月5日(月) ビーゴへの遠足、日常への回帰そして締めくくり

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の巨大振り香炉ボタフメイロを吊るすロープは摩擦による摩耗のため定期的に交換されるが、それでも過去に何度か切れて落下したり窓を破って外へ飛び出したりしたことがあるそうだ。このロープは2004年からは人工繊維になったそうだが、それまでは麻とイネ科のエスパルト草でスペイン西端の港町ビーゴで作られていた。よく見かけるスペイン製のサンダル(エスパドリーユ)にも用いられている丈夫な繊維だ。儀式の後、そのロープ(持ち手の部分)は柱に括り付けられているので見ることができたが、一見天然繊維のようだった。見た目は伝統的に作ってあるようだ。ビーゴには漁網や帆船の綱を作る高い技術があったのだろう。

サンティアゴから鉄道で1時間半、86km南下したポルトガルとの国境近いリアス式湾内にあり、ガリシア州最大の30万人都市で、またスペイン最大の漁港でもある。近年急速に発展した工業都市でもある。景気のよい街なのだ。しかも風光明媚、「世界で最も美しいビーチ」とのキャッチフレイズで有名になった無人島「イスラス・シエス」までは40分のクルーズだ。フィステーラ遠足で一緒だったC子さんも島に行くように勧めてくれたが、今日こそは慌ただしいことは避けることにして、renfeのローカル線で往復し、旧市街と要塞跡にのみ行くことにした。

駅からまず海岸近くのインフォメーションオフィスに行った。ここはイスラス・シエスへのフェリー会社も営業していて、島に行かないことが不思議がられる雰囲気だ。街の地図をもらい、要塞(カストロ城)や旧市街(カスコ・ベーリョ)への行き方を教えてもらった。その時に「籠細工の通り」という場所も教えてくれた。やはり漁具から発展した縄・網・籠などは今も伝統品として残っているらしい。

ビーゴは16世紀ごろからイギリスの海賊を始めとして海から様々な攻撃を受けてきた。そのため海を一望できる丘の上に城塞がある。見張り台、砲台等が残されている。展望台で海を見ていると郷土史家という雰囲気の男性が近づいてきて親切に(そして誇らしげに)解説してくれた。こういうことがあると嬉しい。次は丘を下って「籠細工の通り」に行って見た。今は観光土産品が多いが、入った店は手作りの丁寧な製品ばかりだ。エスパルト草を紙縒りのようにねじった細い紐で編んだパン籠を買った。ボタフメイロのロープの街の記念だ。

帰路、駅に向かう海岸通りにはジャカランダの木が美しい紫色の花をつけていた。たくさん置かれたモニュメントの中に大蛸の上に座っている男性の銅像があった。おや、こんなところで『海底二万里』の作者ジュール・ヴェルヌに会うとは。彼はビーゴが好きでよく訪れたらしい。こんな風に気ままに歩き、港近くで観光客相手のガリシア料理を食べているうちに巡礼の視点は薄れ、消え去り、日常に戻る準備が次第に出来ていくようだ。

明日はマドリッドへ、そして明後日は日本へ帰るのだ。

陳腐なたとえかもしれないが、現代の巡礼旅は、一種の音楽のようだ。先人のおかげで旋律や和音の記された五線譜はできている。その楽譜の音符を辿る、時間経過のパフォーマンス。時に劇的、時に抒情的、解釈もテンポも自由だ。「フランス人の道」は3つの楽章からできている。ピレネーからブルゴスまでの第一楽章(急)、ブルゴスからレオンまでの第二楽章(緩)、レオンからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの終楽章(急)だ。一気に歩きとおせば空間と時間の流れに自分を仮託してより深く理解できたことがあっただろう。私たちのように成り行きで緊張感ある終楽章から始めて第一楽章に戻り、優雅だが緊張感のない第二楽章で終わるというのは巡礼路歩きとしては変則的すぎたかもしれない。3回に分けることによって予備知識が充実して明確に見えたものもあるが、連続して歩かなかったことによって見そこなったもの、感じそこなったことも、またあるのだろう。

巡礼路を歩く者の分限は(にわか巡礼もどきの私たちの身の程を言えば)、よく見、聞き、感じ、清廉な心を持ち誠実にその時その時を過ごす、ということまでだ。言葉で表現できるような成果があるわけではない。しかし文化が宗教と表裏一体となり、宗教が文化として具現化しているこの特別な国の中でもとりわけ特別な道「エル・カミーノ」を歩くことは、本当に面白い体験だった。

(part3 完)

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 45

古谷章・古谷雅子

6月4日(日) サンティアゴ市内見物

2015年と2016年の旅では、エル・カミーノ歩きと、それ以外の活動との組み合わせで最初から欲張りな日程を決めていた。2015年はピレネー山脈での登山や渓谷歩き、トレド、コルドバ、バルセロナ、マドリッドの美術館巡り等。2016年はセゴビア、クエンカ、アビラ、そしてまたプラド美術館等。歩くことをどれだけ続けられるか確信が持てなかったし、エル・カミーノに対する私たちの気持ちが中途半端だったこともある。

今回はエル・カミーノの完歩と巡礼路にまつわることを見聞きするだけと割り切ってきたが天気にも恵まれて日程にあと2日のゆとりができた。港町ビーゴへの遠足は明日にして、今日は休養を兼ねてサンティアゴ市内で過ごすことにした。

まず市内のインフォメーションオフィスで、市街の南、サル川河畔にある「サンタ・マリア・ラ・レアル・デ・サル参事会教会 Colegiata de Santa Maria la real de Sar」、通称サル教会のことを尋ねた。資料館が開くのが11時だということなので、旧市街西にあるアラメダ公園を散策しながら行くことにした。16世紀に貴族が寄贈したものが時代を追うごとに拡張され、様々なモニュメントや聖堂が建てられている。起伏があり眺望が素晴らしい。大聖堂と街並みが一望できる。公園内を通る3つの歩道は、建設当時は庶民用、貴族用、学者や聖職者等の知識階級用とに峻別されていたという。

公園の南西出口から3kmほど、途中鉄道を横切るとサル教会はすぐだ。12世紀に建てられた小ぢんまりしたロマネスク建築でサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の「栄光の門」を作ったマテオ師匠の工房が請け負ったという。素朴な中にも洗練された趣があるが、なんといっても建物全体が土台ごと著しく傾いていて、外壁を17~18世紀に補強した力強いアーチ状の柱(飛び梁)が支えているのが個性的だ。おかしいと言えばおかしいが、石の建築というのはこのような異様なものも時間を吸い取って調和していくものだと感心した。

着いた時ミサが始まったところで途中から入るのはためらわれたので、先に外観と資料館を見た。資料館からはひっそりとした中庭の回廊に出ることが出来た。整備などしていない庭だがそれがかえって古い回廊を引き立て、きわめて瞑想的、抽象的な空間となっていた。そしてマテオ工房の作の柱頭の装飾は本当に美しく、また面白く、好ましい。ただ、傾きを抑えるための後世の補強が回廊にも施されていて、専門家が見ればロマネスクの真髄がやや損なわれているかもしれない。

面白かったのはミサの後だった。内部は自由に見られる。日曜日なので土地の人々があまた参集していたが、大人がぞろぞろ外に出て社交をしている間、子供たちが中に残る。スペインでは普段から子供たちのオシャレ度が高いと思っていたが、教会ファッションは一段と可愛らしい。さあ、楽しいことがはじまるよ、という雰囲気の中、まずは歌だ。聞いたことがあるなあ、あっ、「幸せなら手をたたこう」だ(帰国して調べてみたところ、このメロディーはアメリカ民謡ではなく実はスペイン民謡、日本語の作詞者の木村利人氏によれば聖書の詩編第47編の1節からヒントを得たものだそうだ)。歌で盛り上がった後は大人のリーダー1名に子供が5~6人ずつのグループに分かれ、聖書の理解を問答したり工作をしたりしていた。外に出ると、敷地内にチュロス(細い揚げパン)の屋台が出ていた。これも子供たちの楽しみなのだろう。こうやってこの教会は住民に支えられていることがわかる、ほのぼのとした時間だった。

市街に戻ると、バリアフリーのレースが行われていて大聖堂前のオブラドイロ広場がゴールになり大にぎわいだった。午後は街中、図書館、歴史的建造物に囲まれた自然公園サンドミンゴス・ボナバル公園等を回り、結局20km以上歩き回ったことになった。貧乏性のせいで休養になっていない。エル・カミーノを歩いている方が楽なくらいだ。夜は宿近くのイタリア料理店で早目の夕食、8時前に戻り、帰国に向けて荷物の整理をした。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 44

古谷章・古谷雅子

6月3日(土) フィステーラやムシアへの遠足

宿題の三つ目は、新大陸発見前までは「陸の果てるところ」と思われていた岬へ行くことだった。NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会著『聖地サンティアゴ巡礼(増補改訂版)』(ダイヤモンド社、2013年)から引用すると

「スペインの最西端にある岬フィステーラは地の果てという意味を持つ。中世ではガリシアのこの地が生と死の境目となる場所と考えられていた。巡礼の旅の締めくくりに昔の人は、まず海で身を清め、身に着けていた衣類を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたという」

サンティアゴからフィステーラまでは、100km近くある。さらにムシアまでは30km、歩くと4日かかる。そのまま巡礼者として徒歩で向かう人もいるが、アルベルゲやモホン等は十分ではない。私たちは一人€40、スペイン語と英語の両方の説明付きのガイドツアー(バス)で行くことにした。30人ほどの参加者だが、徒歩でエル・カミーノを終えた人もいれば一般観光客もいる。ガイドのセニョリータの人柄と素晴らしい天候のおかげで10時間の強行遠足も和気藹々として楽しかった。

バスで走るとガリシア州が如何に緑豊かなところかよく分かる。建物の外見はもちろん異なるが、雨が多いので農村のたたずまいは日本に似ている。途中、14世紀の石橋を残す静かな村プエンテ・マセイラ、海に直接滝がなだれ込むエサロの滝に寄り、昼頃港町フィステーラに到着。海鮮を食べさせる店が軒を並べている。昼食は各自なので、私たちは旅行社の日本人研修生のC子さんと3人でSさんが推奨した「エル・プエルト」という景気のよい店に入った。テントの下のテラス席に座りスペイン語の堪能なC子さんのおかげで首尾よく名物のスープ、盛り合わせ、白ワインを注文した。塩茹でしてオリーブオイルをかけただけの魚貝の美味しいこと、さすがガリシアの海辺だ。ペルセベス(カメノテ)と奮闘していると隣のテーブルの現地の人が親切に食べ方(剥き方)を教えてくれた。最後にリキュールのサービスもあり、昼間から解放感いっぱい。内容は違うだろうが、昔の巡礼もここまで来た人たちは(おそらくパンとチーズぐらいしか食べていなかったのではないか)、海の幸で精進落としをし、ホタテの貝殻を持ち帰ったのだろうか。

それぞれに満足した客を再びバスに乗せ灯台の近くまで行く。まさに陸の果てるところだ。岩場を歩き、岬のモホン0km地点の先で大西洋に向き合う。中世の人はどんな感慨を持ってこの「地の果て」に立ったのだろう。昔のしきたりをなぞる巡礼がいるのだろう、岩場には衣類を燃やすことを禁じる看板があった。それにしても午後の日差しにきらめいて眼下に広がる海は期待以上に美しかった。もし徒歩で来たならこの感激はさらに倍加しただろう。

さらにバスはムシアを目指した。時間の関係からか町で下車せずに岬の駐車場へ。ここが本当のゴールだ、という人もいる。聖母マリアが舟に乗って出現して伝道に行き詰っていた聖ヤコブを励ましたところと伝えられ、「舟のマリア聖堂 Santuario de Nuestra Señora da Barca」がある。新しい建築のような印象には訳がある。2013年12月25日クリスマスの朝、雷がこの教会に落ちて燃え上がり、屋根や内部は丸焼けになってしまったのだ。この年は前述したように7月にrenfeの鉄道事故があり、ガリシアにとっては胸の痛む劇的な年として記憶されているようだ。

今は修復され、また近くの丘には落雷を象徴する割れ目の入った高さ10m以上の巨大な石のモニュメントが作られている。丘から紺碧の海に向かって白い石畳が続いて、フィステーラと同様、というかそれ以上に美しく緊張感のある風景を成していた。茫々たる大西洋、雄大に湧き上がる雲、押し寄せては砕ける波、髪を逆立たせるような強い風。波や風のように激しい動きにシンクロナイズし、日常では感じることのないざわざわとした説明のつかない激情が湧いてくるのだった。

バスがサンティアゴ市内に戻ったのは夜の(といっても明るいが)7時過ぎ。ランチでも見学でもお腹と胸がいっぱい、ということで、宿の近くのレストランで定食を軽く食べる。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 43

古谷章・古谷雅子

6月2日(金)

モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)再訪
ボタフメイロ(吊り香炉)の焚かれるミサ参列

最初の旅でレオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いた時は、到着の翌日にはマドリッドに戻らなければならない日程だった。最終日は到着後に巡礼認定事務所で証明書を受けたり(かなり時間がかかる)、列車のチケットの購入もしたりしなければならないので、モンテ・ド・ゴソはスタンプを押しただけで通過してしまった。しかしここは東からの巡礼路上で初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が遠望でき、下っていけばあと5kmで長い旅が終わるという心にとめるべき地点ではあったのだ。それで、もう一度訪れることにしたのだ。

市内からモンテ・ド・ゴソ行きの路線バスで20分ほど。車道から傾斜地に造成された住宅街を抜けて巨大なモニュメント(元ローマ法王の訪問記念碑)のある丘に登った。今一つ明澄でない空の下、尖塔を認識するのは難しかったが、ここにたどり着いた人々の解放感と感動の雰囲気に満ちている。中には帰途上の人もいる。往復を徒歩という人はかなりいるようだ。前の旅でも自宅の前から歩きだした人、帰りも歩く人に会った。丘の下方にはアルベルゲが兵舎のように何棟も並んでいる。大部分の人はここに泊まり、翌朝に余裕をもって市内に入る。11時までに巡礼証明書を受けた人の国名や人数が大聖堂で行われる12時のミサで読み上げられ祝福されるのだ。

さて、そのミサだが、世界最大と言われる吊り香炉ボタフメイロ(ガリシア語で「煙をまき散らすもの」)によって聖堂内に清めのお香が振り撒かれる儀式を是非見たかった。

儀式は決められた記念日や団体や個人が寄   進する場合しか行われない。二日後の聖霊祭では行われるらしいので事前偵察のつもりで大聖堂に行ってみた。すると入堂待ちする長蛇の列ができている。これから特別なミサが始まるらしい。もしかしたら最後にボタフメイロ儀式もあるかもしれない。入って分かったことだが、軍隊を祝福するミサのようだ。この国ではよくあることなのか? 大掛かりな合同演習があったのか、各連隊旗(?)を直立不動で支える兵士の一群が前に配置され、横には軍楽隊が並んでいる。兵士たちが既に着席しているところへ一般人がぎっしり入り、ミサが始まった。

私たちは祭壇の左手翼廊に立ったが参列者が多くて祭壇付近の様子は見えないしミサはすべてスペイン語(カスティージャ語)で執り行われるので私たちには分からない。しかし非常に厳粛な雰囲気だ。1時間ほどでミサが一段落すると中央に吊り下げられていたボタフメイロがするすると降りてきた。人の高さまで降りたら火を着け、はじめだけ人の手で、それからは滑車の反対側のロープを強めたり弱めたりして揺らしていくということだ。細部は見えないが白い煙が勢いよく噴出し始めた。パイプオルガンが朗々と鳴り響き、合唱が始まる。滑車の反対側のロープは5本の持ち手に分かれていて、それを深紅色の特別な僧衣をまとった5人のティラボレイロス(ガリシア語で「香炉持ち」)が巧妙に操って次第に振れ幅を増大させていく。なんと力強く見事なチームワークだろう。

参列者が固唾をのんで見守る中、ボタフメイロが20m程の高さまで上り、意志が乗り移った生き物のように凄まじい勢いで翼廊両端の天井にほぼ達する弧を描きながら往復して煙と香りを振り撒き、堂内の人々を清める。振れ幅がだんだん小さくなりながら降りてきたところで最後は別のティラボレイロスが抱え込んでボタフメイロを止めた。堂内の緊張が一気に解けた。この間5、6分であったと思うが恐ろしいほどの緊張と感動で参列者は完全に一体化していた。この儀式は長旅の果てにたどり着いた巡礼者の異臭を消すために11世紀に始まったと書いてあるものが多くみられるが、むしろ魂の浄化を劇的に体験化する儀式だろう。

これでミサの終了である。しかし今日はこの後に、軍楽隊の演奏が続いた。ワグナーの「楽劇タンホイザー序曲」、教会内でこの曲を聞くとは思わなかった。このあと堂内を巡ってから、日に照らされた現実世界へと外に出た。

二つの課題が1日で済んだのは望外の幸運か。しかし疲れた。宿に戻ってしばし休憩してからSさんに会い、フィステーラへの遠足の相談等を済ませた。明日の日帰りバスツアーの予約が取れた。スーパーマーケットで朝食や遠足のおやつを買って帰る。宿のキッチンには冷蔵庫も電子レンジも食器も揃っているので、朝食はずっと自炊で済ませることができた。

ようやく時間的なゆとりもできたので完歩祝いをすることにして、Sさんに教えてもらった「ペティスコス・ド・カルデアル」というしゃれたバルレストランに行った。カウンター席だったがリオハのワインを頼み、隣のオランダ人一行と話しながら美味しいタパスやコメ料理を食べた。スペイン在住だという日本人の女性画家も話しかけてきて(美味しいものを食べに時々サンティアゴに来るそうだ)、久々ににぎやかな夕食を楽しんだ。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 42

古谷章・古谷雅子

6月1日(木) レオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラ

移動距離:鉄道で400km
行動時間:5時間半

予約した列車は午後2時過ぎ発車なので、午前中にレオン大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ大聖堂)に行った。ブルゴス大聖堂に次ぐ、スペイン・ゴシック様式の優れた聖堂建築と言われている。壁を最小限に減らし、内部には世界最大級の規模のステンドグラスの窓から光が降り注いでいる。ステンドグラスの合計面積は1700㎡以上に及ぶそうだ。洗練された美しい煌めきはこの世ならぬところとこの世をつなぐ橋のような力そのものだと感じる。殆ど思考の逡巡や吟味の余地を残さない圧倒的な空間だ。

聖堂を出て、一転して世俗的な「市場」に行ってみた。卸ではなく誰でも買える。食材を見るのはどこでも興味深く楽しい。豚足をはじめ豚のさまざまな部位が多いのにちょっと驚く。

オスタルは12時チェックアウトなので荷物を取りに戻り、車中のおやつや飲み物をスーパーマーケットで調達しがてら駅に向かった。1度目の旅の後、サンティアゴからマドリッドまで一等車に逆方向で乗った。その時は疲れて殆ど寝てしまい途中の記憶がない。今回は二等車。座席は日本のように回転はしない。車両の真ん中だけ向かい合わせで半分が進行方向と逆向きになる。私たちの席はその真ん中逆向きで、大きなテーブルがあるものの向かいの人にはちょっと気を使うが、途中で結構入れ替わりが無駄なくある。renfeの運営は効率よし、である。

道中後半にかなり高齢の素朴な雰囲気のご夫婦が座った。列車が大きな川に差し掛かると、男性が突然「Rio Sil!」と指差した。私たちに教えてくれたのだ。シル川は1度目の旅でポンフェラーダの町から出る時に渡ったはずだ。しかし鉄道で渡るところは町中ではなく自然の中の歴々たる流れにかかる高架橋だ。男性はこの川にとても感動しているようだ。それからは堰を切ったように風景の説明をしてくれた。私たちは挨拶と食べ物の注文以外のスペイン語は分からないのだ。そのことは通じたようだがモノともせずに迸るようにスペイン語で話してくれる。スペインの東、西、そして南のポルトガルへの三叉路である地点、植物が枯れている現象、さらに話は長崎と広島の原爆のこと、アメリカへの批判など、私たちも引き込まれ何故かかなりのことが理解できたのは今考えると不思議だ。またまさにスペイン現代史を生き抜いてきたにちがいないお歳の方の話を聞きたかった。共通の言葉がないことを心から残念に思った。ついに列車が緑麗しいガリシア州に入った。男性は景色に見入り、「Galicia!」と感動的にうなずき、まもなく下車して行かれた。

さて、2015年の旅で7月22日にサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた時、大聖堂の前で抗議集会らしきものを見た。翌日マドリッドのホテルのテレビで、それが2013年7月24日にここで79名の死者を出した鉄道脱線事故の補償を求めるものだとわかった。聖堂の中で追悼ミサが行われていたらしい。そんなことを思い出しているうちに私たちの乗った高速列車は無事に定刻に到着。駅には日本人女性Sさんが待っていてくださった。

実は出発前に、この地に住み、ガリシアのことを紹介しているSさんと連絡を取っていた。私たちは前回時間がなくてできなかった3つのことを体験したいと思っていた。

1 「モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)」再訪
2 「ボタフメイロ(香炉)」の焚かれる巡礼者のためのミサ参列
3 「フィステーラ(地の果て)」訪問

順調に歩き予備日が余れば、という不確定要素が大きいので、宿や交通機関について問い合わせたのだ。大変親身に相談にのってくださり、この後すべて順調に行ったのはSさんのお陰であった。この時期に大規模な医学学会がこの地であるために早くから宿泊施設が満杯になり、Sさんのお知り合いの方が所有されているアパートの一室、いわゆる「民泊」を手配してくださっていた。実際アルベルゲすらあぶれるほどだったらしい。

宿は大聖堂に近い便利なところだ。3つの居室の中のシャワー・トイレ付きの部屋に5泊できることになった。共用のタブ付きバスルームやキッチンもある。オーナーはここにはいないが、毎日掃除、タオルの交換もあるしWi-Fiも使えるし、他の同宿者も静かで、大変快適に過ごせた。

この日は宿に落ち着いた時刻が遅く、近所のバルで簡単に夕食を済ませた。

これで、「エル・カミーノのフランス人の道」を不規則な順ではあるが歩きとおしたことになり、記録は終わりとなるのだが、前述した3つ宿題は巡礼路と分かちがたいことなので、これらを含む最後の4日間のことも補足として記録に入れようと思う。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 41

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

さていよいよ今回のゴール、標高838mのレオン到着だ。トリオ川に架かる橋プエンテ・カストロを渡ると歓迎の小さな案内所があり、係員がスタンプを押したり地図を配ったり、アルベルゲの手配を手伝ったりしていた。私たちは     大聖堂のそばに宿が決まっていたので黄色い矢印と歩道に埋め込まれたホタテ貝のレリーフを辿りながらセントロ(旧市街中心)に向かった。人口15万人の都会だ、入り口から中心地までかなり歩く。

そもそも2015年にエル・カミーノの最後の300kmだけを体験するつもりで歩き始めたのはここレオンからだった。その時はマドリッドからバスで到着したのが午後で、アルベルゲを探し、翌日の準備をしてから街に出たものの、ざっと街並みと近代のガウディ設計のカサ・デ・ロス・ボティネスを見ただけ、翌朝は暗いうちから西に向かった。だから巡礼路上で最も充実した施設で栄えたという中世からの古都については殆ど知らなかった。

キリスト教徒最初の王国であるアストゥリアスの首都が10世紀にレオンに遷都されレオン王国となり、レコンキスタに対するイスラムの反攻に備えるために城壁をめぐらした。その城壁は今も旧市街を部分的に取り囲んでいる。その中に歴史の多重堆積を表す魅力的な場所がたくさんある。今回はそれらのいくつかを見るつもりで11時前に予約済みのオスタルに行き、荷物を預かってもらった。しかし見物前にしなければならないことは、翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きの鉄道の手配である。ベルネスガ川を渡って新市街のレオン駅に行って見ると、伝統建築の旧駅舎が閉鎖されて機能的だが味のない新駅舎に代わっていた。鉄道好きの章もちょっとがっかりしていた。

旧スペイン国鉄は2005年に解体し、スペイン国鉄(略称:renfe)とスペイン鉄道インフラ管理機構(略称:adif)の2つの会社になった。renfeは輸送、販売など運営を担当、adifは鉄道のインフラ(路線や駅など)を担当ということで、新駅舎外壁にはadifと書かれている。窓口運営はrenfeだ。日にち、時間、下車駅をメモした紙をだし、無事希望通り翌日午後発の切符が買えた。近くのバルで軽く到着祝いをして宿に戻った。この路地一帯は聖堂と同様ローマ時代の遺構の上だ。宿の名称も「カスコ・アンティゴ(旧住宅街)」で、地下の自炊キッチンの床は一部が透明になっていて遺構が見られる。外観は中世の路地だが建物内部は現代的に改装されている。表通りに出れば大きなスーパーマーケットもあり便利至極。

見る時間も限られているので、レオンではサン・イシドロ教会(ロマネスク)、大聖堂(ゴシック)、旧サン・マルコス修道院(ルネッサンス)の三つを見ることにした。すべて宿から徒歩圏内だ。教会は4時まで休憩に入ってしまったので、今は5つ星パラドールとなったサン・マルコス修道院から始めた。荘厳華麗な建物は16世紀に建てられ完成は18世紀という。もともとは12世紀にサンティアゴ騎士団の本拠で巡礼の救護所でもあったそうだ。正面100mにも及ぶファサード中央に「マタモロス(モーロ人殺しのサンティアゴ)」が彫られ、たくさんのホタテ貝の装飾とともにエル・カミーノの中間宿駅であったことを誇っている。一昨年はアストルガに向かって払暁前の暗い中この前を通り過ぎたのだった。

一休みして、一番見たかったサン・イシドロ教会へ。ここは聖イシドロ(6~7世紀、セビージャ大司教としてスペインのカトリック教会の基盤を作ったという)が祀られている。ガイドツアーに参加しないと内部が見られない。スペイン語はハナから諦め、消去法で英語のツアーに申し込んだ(一人€5)。10人ほどのグループだ。11世紀にロマネスク・モサラベ様式で建造されたがその後改修が加わり原形は正面入り口にのみ見られる。回廊の雰囲気も気にいった。しかし圧巻は同時代ここに建てられたパンテオン・レアル(レオン王家の霊廟)で内部は当時のフレスコ画で埋め尽くされている。宗教的な故事のみならず民衆の労働も描かれていて題材の面白さにも強い感銘を受けた。

ガイドツアーでかなり聴き取りにエネルギーを使い疲れ果てたのと、感性が限界に達したような気がして大聖堂は翌日の午前中に行くことにした。スーパーで翌朝用食品を買い、宿に戻って自炊キッチンの冷蔵庫に入れておく。一休みして、夕食は街中で€9.9の定食。パスタ、卵のミートソースかけポテト添え、フルーツサラダ。卵の本体が目玉焼きだったのでちょっと意外だったが、スペインでは単純な卵料理を侮るなかれ。ミートソースのしっかりした味に感心した。

今日はこれまでの旅と合わせて「フランス人の道」800kmを完歩したのだからもう少し贅沢をしてもよいのだが、私たちのエル・カミーノ歩きにはまだ宿題が3つも残っているのだ。それを果たしに明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラを再訪する。決して単調でも退屈でもなかったブルゴス~レオン間の楽しい経験を反芻しながらの鉄道旅だ。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 40

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン(1)

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

 6時半起床、7時20分出発。ビジャレンテから緩い登りで880mのアルト・デル・ポルティージョの丘を越えてレオンに降りていく。まず国道沿いに町を出ると、分かれ道に久々にモホン(石の道標)があり右の田舎道に入った。ゴミ箱が設置されていてもあふれていたり草が茫々だったりだが、しばらくは昨日の国道歩きのような危険はない。4km先のアルカウエハの村には塔のそばにアルベルゲを兼ねたバルがあり、朝食にした。

さらにバルデラフエンテを抜け丘まで登りきる。ここに新しい大きな十字架があるはずなのだが見つけられなかった。レオン市内に入るには新しい自動車道路の通過がややこしかったが無事に巨大な青い歩道橋を渡って市内に入るルートを確認できた。入り口の道標には巡礼のコスチュームをつけたライオンが描かれていた。語感が似ているがレオンはローマ帝国がここに置いたLegion(軍団)から発した地名だそうだ。とは言えライオンはレオン王国の時代から国章にあしらわれレオンの象徴になっている。

ガイドブックや記録を読むと、マンシージャ・デ・ラス・ムラスからレオンまでの道があまりにも殺伐として危険だ、との苦情が多い。私たちもそのことは同感だが、さりとて巡礼の道がすべて快適で安全であるはずはない。現代は現代なりの危険も不快も受け入れなければなるまい、と思い直した。そもそもエル・カミーノは命懸けの道だったのだから。これまでの旅の中でいくつもの墓標に出会った。頓死(とんし:突然死ぬこと。急死)した人たちの屍を越えて道があると言えば大げさだが、饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)からまた引用すると、

「中世の西欧では巡礼に先立って遺言をしたため、司教から推薦状をもらい、施しをする金をもち、『もっと遠くへ(エ・ウルトレイア)!それっ!神はわれわれを助けたまう』と人々ははげましの言葉をかけ合って歩いて行ったのである。これはサンチァゴ・コンポステーラへの旅立ちの様子である……」

(「エ・ウルトレイア」は歌になっている。2回目の旅でログローニョのサンティアゴ教会に泊まった時、食堂の正面に五線譜と歌詞が大きく飾られていて夕食前に静かに合唱した)

巡礼路と周辺の文化的整備は進行中だ。今や世界中から多くの人(2010年は27万2135人)が訪れるが、1985年には2491人だった。バックパッカーとしてフランコ政権時代(1939~75年)にスペインを体験している章は、暗い抑圧された強烈な記憶と2015年に40数年ぶりに訪れた時の明るさとの対比に驚いたそうだ。1975年にフランコが死去するまで独裁体制の中で巡礼路がもてはやされることはなかっただろう。政治体制が整い開明化して外国からの巡礼者を迎え統計を取り始めるまでに10年かかったことになるが、その時点でも今の盛況ぶりを予測はできなかったろう。

車社会である現代なりの危険性はあるにしろ悲壮感はなく、人々は「エ・ウルトレイア」ではなく、ただ「ブエン・カミーノ(よい道程を)!」と挨拶を交わす。でも昨年の旅でブルゴス手前の難所モンテ・デ・オカ(1162m)を越えた時、まだ薄暗い丘の上に現代のモニュメントを見た。フランコ政権時代に殺害された人々の遺体が埋められた跡に建てられた哀悼と平和への祈念を表す碑だ。エル・カミーノは信仰だけを感じさせるのではない。良くも悪くもスペインの様々な時代が厚く降り積もり、歩く者の心を刺激する。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 39

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(2)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

さて、途切れることなく並木が続くがニセアカシヤに樹種が変わった。やがて樹種がデタラメに多様になる辺りから国道と巡礼路の間にあったローカル自動車道がなくなる。国道は大型車がビュンビュン通り、今までの長閑な巡礼路は一変してレオンまで雑然としたほこりだらけの危険な道になってしまった。レリエゴス付近の工事中だったあの巨大な立体交差は今後バイパスを整備するためのものなら巡礼路にとってはありがたいのだが。道端の豚の死骸を思い出す。あのような目に合わないように気をつけて歩こう。

間もなく古代ローマ時代の遺構(国道の反対側で横断が難しく行かず)、小さな集落ビジャモロスを過ぎ、ポルマ川に架かる橋プエンテ・デ・ビジャレンテの向こうが今日の目的地だ。上を通過しただけでは何の変哲もない橋だが、橋脚をつなぐアーチは古くからのローマ橋を上手く残している。17ものアーチは異なる時代の遺物(3~4世紀)だと書いてあるので河原に降りてみた。なるほど、見事だが個々の違いはよく分からなかった。

巡礼路はこの橋の下に架かる木の橋を渡って村に入る。ここには2つのアルベルゲがあるが、村の入り口にあるエル・デルフィン・ベルデに行ってみた。オスピタレロにダメもとで個室の有無を聞いたら、ここはドミトリーだけだが同じ敷地内にオスタルがあると教えてくれた。1階がレストランなので気づかなかった。行って見ると若い主人は感じがよいし夕食もどのみちそこでとることになるので泊まることにした。古い建物をリフォームした小ぎれいな宿で水回りもよい。ベランダに出てみると国道の車がうるさいが、扉を閉めれば遮音は大丈夫。さすが石の建物だ。物干し場はアルベルゲと共用。日課作業を手早く終えて町の探検に出た。

この町は国道沿いに店が並んでいるだけでなんの趣もないと記録に書いている人が多いが、現代の生活もそれなりに面白い。小屋ほどもあるゴミ箱を巨大な収集車の荷台に積みかえる作業を見たり、パン屋で土地の人の買うものをチェックしつつ簡易席でビールを飲んだりした。おまけのタパスはタダでは申し訳ないほど大きくて美味しいブルスケッタだった。ニンニクとチーズとポテトをたっぷりのせてキツネ色に焼いてある。半端な時間のおやつには立派過ぎるほどだった。

夕食はオスタルで。はち切れんばかりに太った可愛い幼女が、おばあちゃんと「せっせっせ」のような手遊びをしている(ママは料理しているので)のを見ながら定食を食べた。ヌードル入りの野菜スープかひよこ豆の煮込み、ポークチョップか魚煮込み(アサリやエビも入っている)。いつも通り別々に頼んで分けたが、どれも本当に美味しくて、とても食べきれないと思えた量がすべて胃袋に収まった。デザートはチョコレートとホイップクリームがたっぷりの自家製シュークリーム。巡礼路の田舎料理はこの日が最後だ。

巡礼路では普通の食事が滋味に富み何とも美味しかった。特に豆の煮込み料理(コシード)は何度も出てきたが飽きなかった。川成洋編『スペイン文化読本』(丸善出版、2016年)の中でスペイン料理研究家の渡辺万里先生はその特徴をあまたの保存食の発展したものと説明している。カルタゴ人によってスペインにもたらされたガルバンソ(ひよこ豆)は痩せた土地でも栽培でき保存も可能なのでイベリア半島全域に広がった。魚介類の干物も広まった。過酷な自然条件が保存食による兵糧の確保を強いたのだが、その伝統が長く引き継がれているのだ。もう一つ面白かったことに豚肉のことがある。田舎料理ではメニューに牛、羊、兎等もあったが、なんといっても主役は豚だった。前記の本から引用すると、

「ところで、現代のコシードには豚肉が欠かせないが、昔からそうだったわけではない。カスティーリャ王国が徹底的な異教徒の排斥に取り掛かると、彼らがスペイン国内に残るには、キリスト教へ改宗するしかなくなった。そこで、改宗者の真偽を問う手段として、イスラム教徒もユダヤ教徒も宗教上の戒律で食べない豚肉が用いられるようになったのである。すなわち、豚肉を入れたコシードを食べることは、改宗者たちにとって一種の踏み絵となり、豚肉を食べていないと密告されると過酷な異端審問が待っているという時代が始まる。こうして、以後のスペインの食卓には、それまで以上に豚肉の存在が重要なものとなっていく。……」

モサラベ建築のところでもふれたが、宗教についての政策はどちらの側でも時代により寛容と偏狭、共存と排斥が揺れ動いた。その結果が料理にまで及んだ、というのも興味深いことである。

明日はレオンまで13km歩くだけだ。夜更かし寝坊もできるのに、習慣づいた眠気が襲ってきて9時30分、外はまだ明るいが就寝。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 38

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(1)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

昨日偵察済みだったので、薄暗い6時に無事に町を出た。町の中で途切れていたプラタナスの並木がまた続く一本道だ。麦畑は少なくなり、播種の準備で掘り返された赤土の広がりが目に付くようになってきた。左側にビジャ・マルコに道を分ける辺りに小さな飛行場があり、その先で休憩。ここまで1時間45分歩いたが、だれにも会わなかったし平行するローカル自動車道にも4台の車しか走ってこなかった。はるか右奥に山並みが見えてきた。右側に長い貨物列車が走ってきたので鉄道線路が近くにあることに気づいた。まもなく線路をくぐり、今日最初の村であるレリエゴスに到着した。バルを見つけることができず村はずれのベンチで手持ちのおやつ休憩をしただけで先に進んだ。

すごい規模の立体交差が建設中で巡礼路も一部高いところを通過する。周囲の村が遠望でき、そろそろ人臭くなってきた。マンシージャ・デ・ラス・ムラスに近づいたあたりで、道端の草むらの中に異様なものを発見。なんと、大きな豚の死骸だった。恐らく脱走してきて自動車道に飛び出して車にはねられたのだろう。この巨体だと車の方の衝撃も大きかったのではないか。あるいは荷台から振り落とされたのか? スペインでは総じて町中の運転マナーはよいが、郊外ではスピードを出しているような気がする。それにしても早く始末しないと・・・と心配になる。

標高800m、人口1800人ほどのマンシージャ・デ・ラス・ムラスでカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳の道「トラハナの道」)が合流する。12世紀には修道院といくつもの教会や救護院を持つ大きな町だったようだ。川の小石と石灰で作られたずんぐりした城壁が今も残る。地図で見るとエスラ川の緩やかな囲繞地(いにょうち:他の土地を囲む周囲の土地)で、この立地条件がうまく生かされた要塞だったのだろう。13世紀建立のサンタ・マリア教会の塔にはコウノトリが営巣していた。

この日は町の中心のポソ広場で盛大な野菜市が開かれていた。買うものもない私たちもワクワクする雰囲気だ。ざっと目に付いたものだけでもナス、ズッキーニ、トマト、ネギ、カリフラワー、ブロッコリー、ピメントス、インゲン、マッシュルーム、オレンジ、スイカ、ピカピカのはち切れんばかりの大きな新鮮野菜だ。切り花はカラーやアルストロメリア。様々な野菜の苗もある。6月に入ると専業農家だけでなく家庭菜園愛好者も農作業を始めるのか、手に提げて持てる程度の苗を求める人も多い。

そしてお年寄りも含めて殆どの人がとてもめかしこんでいる。今日は社交を兼ねた「ハレの日」らしい。私たちは広場脇のバルで遅めの朝食にしたが、その時間で既にスピリッツで盛り上がっている人たちも多かった。ここの雰囲気が面白かったので、せっかくの歴史的遺産の方は熱心に見ないまま崩れたサン・アグスティン門を出てエスラ川を渡った。道沿いも都市近郊の畑らしく、葉物やトウモロコシになる。

さて、寄らなかったところについては記録に入れるのは筋ではないが、マンシージャ・デ・ラス・ムラスを出て巡礼路から北東に分かれた16km先の人家もない野原の高台にあるというサン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会はこのあたりの文化・歴史を理解する上では興味深いところで、行って見たかったが徒歩では遠すぎて諦めた。ちょっと心残りなので書いておきたい。前述の村田栄一先生はここを「荒野のモサラベ真珠」と表現されている。「モサラベ」とはキリスト教徒でありながら言語文化的にはアラブ化した人あるいはその文化をさす。

8世紀前半にイベリア半島を支配したイスラムの宗教政策は寛容だった。イスラム教に改宗しなくても納税によって共存が可能だった。これは前に建築様式のところで使った「ムデハル」(キリスト教支配地で納税によって残留を認められたイスラム教徒)と対をなす。このような仕組みの中で当時は高水準だったイスラム圏の文化が特に中部以南でキリスト教徒に取り込まれた。しかし9世紀後半、レコンキスタの進行によって劣勢に陥ったイスラムは支配地におけるモサラベを迫害するようになった。そのため多くのモサラベは北部のキリスト教圏内に逃れてきた。そして10世紀にはこの地にモサラベ様式の教会が建てられた。貴重なキリスト教の文献の写本もこの教会で作られた。

イベリア半島は陣取り合戦の歴史を経験してきた。領土を争うのは宗教ではなくアイデンティティと利益で結ばれた集団の政治支配力だが、宗教もその下で時に寛容、時に偏狭になり人を翻弄してきた。エル・カミーノを歩くことによって文化の共存、衝突、包摂、排除等の変転を改めて考えることにもなった。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 37

古谷章・古谷雅子

5月29日(月) テラリージョス・デ・ロス・テンプラリオス~エル・ブルゴ・ラ・ネーロ(2)

歩行距離:31.7km
行動時間:8時間40分

3km先でレアル・カミーノ・フランセス(本来のフランス人の道)とカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳道)が分かれる。30km先で合流するが、後者には途中に宿泊施設が少ないので心惹かれるものの今日の行程では無理だ。サアグンの15km先のエル・ブルゴ・ラ・ネーロを宿泊地にしたかったので大方の巡礼に倣ってこちらをとった。ヒナゲシと麦畑と牧草地の中をほぼ直進する雰囲気のよい道で、若いプラタナスの並木が見事にエル・ブルゴ・ラ・ネーロまでの14kmの南側に植えられている。

但しプラタナスの葉が全部ヘンだ。若葉の時の大きさのまま秋のように薄茶色に枯れて丸まっている。地面に落ちている昨年の葉は赤ん坊の顔ぐらい大きいのに。これは日本でも問題になっている北米から広がりつつある害虫プラタナスグンバイにやられているのではないか。枯れた葉の間に緑色の新葉がところどころに再生はしている。せっかく巡礼路に植えられたこの並木が勢いを盛り返すことを祈る。なおこの若い並木はエル・ブルゴ・ラ・ネーロの先も街中や新幹線の敷設で途切れた部分を除いて、さらに続いてエル・カミーノを行く人を導き守っている。

またところどころにベンチとテーブルを備えたちょっとしたスペースがあるが、並木と同様、自治体の施策らしい。しかしトイレも作ってほしいものだ。維持管理や犯罪対策等の問題があるのだろうが。いくつかのベンチには2015年の総選挙の名残のスローガンや政党名が書かれたままになっていた。昼頃、道の左側に「梨の木の聖母礼拝堂 Ermita de Vergen de perales」。広い草地にノバラ、ヒナギク、ブタナ(ブタクサではない。黄色い可憐な花)などが咲き乱れ、その奥に煉瓦造り瓦葺の平屋の古い建物があるが、ここも入り口は封じられていた。閉じられていても教会や礼拝堂の敷地内の雰囲気はどこも清澄で敬虔な気持ちを喚起させる。サアグンで買ってきたリンゴやビスケットを食べながらしばし休憩。

次のベルシアノス・デル・レアル・カミーノはただ通過し先を目指した。まもなく道の右側に湿原や沼沢が見られるようになった。これまでには見られなかった種類の鳥もいた。立ち止まって湿原を見ていた先行者が興奮気味に大きな鳥を指さして「見えるかい? コウノトリ(stork)だよ」と教えてくれた。コウノトリは使われなくなった教会の鐘楼等に大きな巣を作って辺りを睥睨(へいげい)しているのをよく見かけたが、実際に自然の中でエサを食べているのは初めて見た。厳密にはstorkというのは東アジアの絶滅危惧種のコウノトリとは少し違うシュバシコウという鳥らしいが、サギよりもずっと大きい。巣は何代も使うらしい。

エル・ブルゴ・ラ・ネーロは歴史的な建造物は少ないようだが、思ったよりも観光客の多い町でレストランや宿泊施設も複数ある。快適な個室滞在に味をしめるともうドミトリーは辛くなってきた。二人だと個室もそれほどの贅沢ではない。こちらで入手したアルベルゲ一覧に+chambresと備考欄にあるものには個室がある。それを見て町はずれの沼(la laguna)のほとりにあるその名もずばり「ラ:ラグーナ」というアルベルゲに行ってみると、ありがたいことに小さいがシャワー・トイレ付きの個室に入れた。点灯しない電気スタンドや天井灯を直してくれたり、庭に干してあったウェスかと思うようなタオルを取り込んで持ってきてくれたり、オスピタレロも感じがよい。というより、このアルベルゲ全体がちょっと浮世離れしたパラダイスだ。美しい広々した芝生にいくつものパラソルやカウチが並べられ、殆どの泊り客が外でゴロゴロして読書、昼寝、スマホいじりをしている。気持ちがよいという理由もあるが、掲示板に free Wi-Fi が屋内では入りづらいので、庭で送受信しろと書いてあった。自炊キッチンはあるが飲食施設はないので、皆シラフで落ち着いた雰囲気なのだ。

日課作業後とりあえず街に出てバル「エル・カミーノ」でトルティージャとカーニャ。町並みや教会や沼地(自然保護区になっている)を見てからアルベルゲに戻り、私たちも庭で寛いだ。田舎だからなのか観光客が多いせいなのか、夕食は早めに食べられる。「エル・ペルグリーノ」というレストランで定食。まず一皿目の選択肢にあったアーティチョークの蕾の芯の煮込み、カリオン・デ・ロス・コンデスで美味しさに感動したので即決した。味付けは前のとは違い酸味が強かったが地元の味なのだろう。二皿目はパプリカにタラとチーズを詰めて焼いたもの。パプリカ自体の甘味に驚く。デザートはメロンにした。勿論パン、ワイン、ミネラルウォーターがついて€10だ。

レオンは射程圏内に入った。なんとなく気が楽になり、就寝は9時過ぎ。