アート&バイブル 8:聖カタリナの神秘の結婚

ロレンツォ・ロット『聖カタリナの神秘の結婚』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

図1:『レカナーティのお告げ』(1534年頃、レカナーティ市立絵画館所蔵)

ロレンツォ・ロット(生没年1480頃~1556)はベネツィアに生まれました。家族や友人、弟子も持たず、イタリア各地を放浪しました。存命中は作品に評価が与えられず、経済面でも苦労が絶えなかったというエピソードが残っています。晩年はロレートの修道院(ロレートは「聖母の家」があることで有名な町。特集16「聖家族崇敬が生まれた状況」参照)にて穏やかに暮らしたといわれています。彼の作品で比較的知られているのは、お告げの絵(図1)です。マリアが驚いて逃げ出そうとしているような姿は当時としては奇想天外な描き方で、それゆえ奇妙に感じられていたことでしょう。

 

【鑑賞のポイント】

本日、紹介する作品『聖カタリナの神秘の結婚』(図2)では、アレクサンドリアの聖カタリナに指輪を渡す幼子イエスの姿とそれを敬虔に拝跪(はいき:ひざまずいて拝むこと)して受け取るカタリナの姿が描かれています。アレクサンドリアの王女カタリナは、美貌と博識でもって名高い女性でした。

図2:『聖カタリナの神秘の結婚』(1523年、ローマ、国立古典絵画館所蔵)

彼女は、砂漠の隠者によってキリストの花嫁に迎えられると告知されます。しかしそのとき洗礼を受けていなかったのでキリストに拒まれます。カタリナはその後、洗礼を受けて心の平安を得て、キリストと“神秘の結婚”をします。この“神秘の結婚”は幼児のキリストがカタリナに結婚指輪を授ける姿で表されます。カタリナは王女であるため、通常は王冠を被り豪華な身なりで描かれています。

カタリナは時のローマ皇帝に見初められ求婚されますが、キリストの花嫁たることを誓った彼女は、異教徒である皇帝との結婚を拒みます。皇帝は100人の哲学者をカタリナのもとへ遣わして議論させ、彼女の信仰を打ち破ろうとしますが、逆に哲学者たちが論破され、キリスト教に帰依することとなりました。

怒った皇帝はカタリナを刺のある車輪に縛りつけ、車裂きにしようとしますが、天使が現れて車輪を粉砕してしまいます。最後には、彼女は斬首され、殉教します。古代から中世にかけて尊敬を受け、祭壇画などに数多く描かれ、愛された聖女です。

 


ミサ曲 2 「あわれみの賛歌 Kyrie」Ⅰ

齋藤克弘

 前回は「ミサ曲」全体の基本的なことについて書いてみました。今回からは「ミサ曲」それぞれの由来などについて書き進めていきたいと思います。

「ミサ曲」の中で最初に歌われるのが「あわれみの賛歌 Kyrie」です。前回も書いたように「あわれみの賛歌」の歌詞 Kyrie eleison Christe eleison はギリシャ語がそのまま歌詞として残りました。ということは「あわれみの賛歌」はどうやらギリシャ語を話す地域の教会が起源ではないかということが容易に推測できますね。事実その通りです。ローマを中心とするローマカトリック教会のことばは昔からラテン語だったと思われているかたがおられるかもしれませんが、実は、ローマに教会ができた頃は、ローマの教会の典礼や聖書の朗読のことばはギリシャ語でした。ちなみに使徒パウロがローマの教会への手紙を書いたのが紀元58年頃と言われていますので、ローマにはかなり早くから教会共同体ができていたようです。以後、しばらくの間ローマの教会はギリシャ語を用いていましたが、3世紀に入るとギリシャ語を理解できない人たちも多く教会共同体の中に加わったことも一因にあるからでしょうか、ローマの教会では典礼や聖書の朗読のことばをギリシャ語のまま残すのか、ラテン語に変えるかで大きな議論があったようです。最終的にはローマの教会はラテン語を使うことになりましたが、それまでもギリシャ語など地中海地方の教会でも残されていた「アーメン」「アレルヤ(ハレルヤ)」「ホザンナ」というヘブライ語の短い言葉はそのままヘブライ語で残されました。

さて、本題に戻りましょう。3世紀には式文もラテン語になったローマの教会ですが、簡単なしかし重要なヘブライ語の単語が残ったのと同様に、ギリシャ語の祈りのことばも残ることになります。5世紀の終わり(492年から496年)にローマ司教(教皇)としてゲラジウス1世が在位していた時に、東方、おそらくギリシャ教会からミサの冒頭に嘆願の祈りが導入されます。最初の嘆願の祈りは助祭(東方教会では輔祭)が唱え、会衆は最後に Kyrie eleison と応唱していたようです。ローマの教会では同じ嘆願の祈りである「信徒の祈り」(現代の共同祈願)が後の部分(説教の後)にあったことから、嘆願の祈りが重複しないように、この嘆願の祈りが省略されて、Kyrie eleison と Christe ekeison の祈りだけが唱えられるようになりました。この祈りは主キリストにあわれみを乞う祈りとして司式する司教が合図をするまで何回も繰り返されていましたが、8世紀の頃には 最初のちKyrie eleison 次のChriste ekeison 最後のKyrie eleison をそれぞれ3回繰り返して終わるようになります。
9世紀になるとこの3回ずつの唱え方を最初のKyrie は父である神への祈り、次は文字通りキリスト(子)への祈り、最後のKyrie は聖霊への祈りというように、三位一体の神への祈りと解釈されるようになり、それが信心書で広まっていきました。しかし、元来、初代教会からKyrie とはナザレのイエスに対して特にパウロが好んで用いた尊称でした。実はこのKyrie という尊称はローマ皇帝にだけ用いることが許されたもので、それをナザレのイエスに対する呼び方としたことは、ローマ皇帝に対する反逆とみなされ、初代教会時代の迫害の原因の一つとなったものだったのです。

さて、同じことばの繰り返しだけの「あわれみの賛歌」でしたが、グレゴリオ聖歌の時にもお話した「トロープス」という様式で作られるようになります。これもグレゴリオ聖歌のところでもお話ししたかもしれませんが、もともと「ミサ曲」は会衆の歌として歌われていましたが、北から南へと移動してきた人々が教会共同体へ加わり、あるいはキリスト教自体がアルプスよりも北へと広まっていくと、まったく異なったことばを話す人々にはラテン語を理解することはできず、「ミサ曲」は次第にラテン語を学ぶことができた修道者や教役者(聖職者)が歌うものとなっていきました。音楽的にも訓練を受けたこれらの人々にとって、同じことばの繰り返しでは満足できなかったことが「トロープス」を生み出す要因の一つになったのでしょう。詩を作ることにも曲を作ることにもつながった「トロープス」によって歌い方はどんどん複雑になっていきました。この頃になると聖歌は皆がこころを一つにして一緒に祈るものではなく、一部のエリートが神様だけに聞かせる歌になってしまったのです。今のわたしたちの常識から考えれば残念なことですが。

(典礼音楽研究家)


アート&バイブル 7:玉座の聖母子

フラ・アンジェリコ『玉座の聖母子』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

フラ・アンジェリコには「べアート(至福の人)」という呼称が冠されることがあります。これは彼を讃えるものですが、カトリック教会は正式に彼を「福者」としたことがなかったにもかかわらず、「ベアート・アンジェリコ」の呼称は広く流布されていました。ヨハネ・パウロ2世はこの現実に気付き、1982年10月3日、正式に彼を「福者(べアート)」に列しました。名前の通り、彼の描いた作品は、見る人を祈りに誘います。心に清らかな光を受けたように感じられるのは、祈りながら描いた彼の生活に根ざしていると思います。

彼の代表作品は、今もフィレンツェのサン・マルコ(修道院)美術館で見ることができ、修道院の各部屋に仲間の修道士の祈りの題材を描いたという点でとてもユニークな修道院・美術館です。またこの修道院に世界で一番、有名な「受胎告知」のフレスコ画があります。

フラ・アンジェリコ作『玉座の聖母子』(1437年、ウンブリア国立美術館所蔵)

この『玉座の聖母子』はペルージアのサン・ドメニコ修道院の小聖堂の祭壇のために描かれたもので、三連祭壇画の中央の部分に「玉座の聖母子」が置かれ、その左右には「聖ドメニコと聖ニコラオ」と「洗礼者ヨハネとアレキサンドリアの聖カタリナ」が配置されていました。

 

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスの頭の後ろに描かれている光背には赤い十字架があり、フラ・アンジェリコの作品の特徴となっています。

『玉座の聖母子』中央部

(2)子イエスは右手をあげ、2本の指を立てて祝福を与える姿です。左手には赤いバラの花を一本携えています。

(3)左右に立つ天使たちがバラの花が入った籠を捧げており、これはイエス・キリストの与える祝福が数多く用意されていることを示しています。

(4)左右に立つ天使の服の色彩も赤(愛と情熱)と青に金の星(知性・落ち着き)というマリアの服と同じ色彩で描かれています。

(5)イエスを抱きかかえる聖母の顔も、幼く見えるほどに若く、お告げの時のマリアが少女に近い年齢であったことが伺えます。

(6)フラ・アンジェリコの描く天使は、清らかで、かつ女性の姿です。天使を女性の姿で描くことはフラ・アンジェリコの残した影響の一つです。

(7)天使の服や羽根は鮮やかな色彩で描かれており、また額には聖霊の炎が描かれています。

 


エターナル

韓国映画というとすぐに思い出すのが韓流ブームですが、私自身、あの大騒ぎに違和感を感じこれまで避けてきたのですが、なぜか今回試写会場に足を向けてみる気になりました。なので、韓国映画については初心者同然で、主演のイ・ビョンホンなる役者も観たことがあるようなないような状況です。韓国映画大好きな人には怒られるかも知れませんが、韓国映画をちょっと見直したので、皆さんにもぜひ観ていただきたいと思い、ご紹介します。その作品は『エターナル』です。でもこの作品は、超大作でも、ハデな宣伝をするような作品でもありません。

証券会社の支店長カン・ジェフン(イ・ビョンホン)は、いわゆる日本でいえばエリートサラリーマンです。韓国の狭い社会の中で教育を受けさせるより英語教育をきちんと受けさせたいと、息子と妻スジン(コン・ヒョジン)をオーストラリアに留学させ、自分は家族のために 仕事に励んでいました。

そんななか、会社が膨大な不良債権を出した末に破綻してしまいます。決して損をさせない。この証券は絶対に儲かると勧めたにもかかわらず、不良債権と化したことに土下座し、債権者に謝る姿は、バブル崩壊後の日本の証券会社の姿を思い出しました。

安定した収入も、社会的地位も、人としての信用も、一瞬にして失ってしまった。カン・ジェフンは、虚 しい心の穴を埋めるかのように、家族が暮らすシドニーの家を初めて訪れます。しかし、そこで見たものは、隣家の男性と親しく過ごす妻の姿でした。ショックのあ まりその場から立ち去った彼は、深夜営業のレストランで空港から降りたときに知り合ったジナ(アン・ソヒ)と再会します。ワーキングホリデーを利用し、オーストラリアの農場で働いていたジナは、韓国に帰るため、貯金を韓国のお金に換えるため、同じ韓国人のグループに欺かれ、お金もパスポートもだまし取られてしまいます。

カン・ジェフンの家族の様子とジナの連れ込まれた家を探すことが二人をつなぐ絆となります。カン・ジェフンはこれまでの人生に思いを馳せ、やがて残酷な真実と向き合うことになっていきます。ある意味、すごくセンチメンタルな映画です。

でも、最後のどんでん返しは衝撃的でした。これ以降は皆さんが観て下さい。

この映画で、イ・ビョンホンは、「決してハデな映画でも、何万人も動員する映画でもありません。でも、この映画で本当に大切なものは何かを感じてもらえれば」といっています。

本当に大切にすべきものは何か、深く考えさせられる映画です。バブル時代、24時間戦えますかといったコマーシャリズムに踊らされ、必死に働いてきた後に向かえたバブル崩壊をちょっと思い出すような場面も多々ありますが、この映画の本質は、愛する人、大事なもの、大事な時間を振り返ってみてほしいというメッセージのような気がします。

中村恵里香(ライター)

スタッフ
監督:イ・ジェヨン/脚本:イ・ジェヨン
キャスト
イ・ビョンホン、コン・ヒョジン、アン・ソヒ
原題:Single Rider/製作年:2016年/製作国:韓国
配給:ハーク/上映時間:97分

2月16日からTOHOシネマズ 新宿ほか全国ロードショー


ミサ曲 1

齋藤克弘

 教会の音楽というと一番なじみの深いものは「ミサ曲」ではないかと思います。音楽を専門に勉強されていない皆さんも「ミサ曲」という名前はご存じでしょう。モーツァルトのミサ曲、特に「戴冠ミサ曲」をはじめ、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」、あるいは、バッハの「ロ短調ミサ曲」など、どこかで聞いたことがあるかもしれませんね。モーツァルトでは映画「アマデウス」で有名になった「レクイエム」も正式には「死者のためのミサ曲」と言います。他にも古くは14世紀ごろから現代まで、多くの作曲家が「ミサ曲」を作曲しています。
名前もご存じで聞いたこともある「ミサ曲」。その実態については意外とご存じないことが多いのではないでしょうか。そこで、今回からこの「ミサ曲」について少しうんちくを傾けてみたいと思います。

「ミサ曲」と言っても現代のミサは式次第(式文)すべてを歌うことが原則ですからミサ自体が一つの曲のようになっているわけですが、1962年から開催された「第二バチカン公会議」による典礼の刷新以前、式次第のほとんどの部分は司祭が一人で、場合によっては沈黙で祈っていたので、信徒が唱えたり歌ったりする部分はほんのわずかでした。その中で特に信徒が大きな役割を担えたのが「ミサ曲」だったのです。今は一般的なことばである「信徒」と書きましたが、当時、すなわち典礼の刷新以前は「信徒」と言っても「ミサ曲」を歌ったのは、多くの場合「聖歌隊」だったようです。その理由は、といったことはおいおい書いていくことにして、まず、ちょっと固い言い方ですが「ミサ曲」の定義についておさらいしておきたいと思います。

「ミサ曲」(ラテン語=Missa)は「あわれみの賛歌(Kyrie)」「栄光の賛歌(Gloria)」「信仰宣言(Credo)」(ニケア・コンスタンチノープル信条)「感謝の賛歌(Sanctus 、後半の Benedictus を別曲とする時代もあり)」「平和の賛歌(Agnus Dei)」の五曲を総称する呼び名です。時代によっては派遣のことば Ite Missa est (行きなさい ミサは終わった)を加える場合もありました。最初にも触れた「レクイエム=死者のためのミサ曲」の場合は構成が異なりますが「レクイエム」についてはこのシリーズの中で何回か触れる機会を作って、そこで詳しく書きたいと思います。なお、「ミサ曲」五曲の「信仰宣言」が入っていないものを「Missa blevis(短いミサ曲)」と呼ぶこともあります。また、プロテスタント教会の場合は、式文の中に「感謝の賛歌」と「平和の賛歌」がないことから「あわれみの賛歌」と「栄光の賛歌」の2曲だけを「MIssa blevis」と呼びます。

もう一つ、現在ではほとんど使うことがないことばですが、「ミサ曲」をはじめとする一年を通じて基本的にことばが変わることのないし気分を「通常式文(ordinarium)」、その日の典礼によってことばが変わるものを「固有式文(proprium)」と呼びます。前者には「ミサ曲」のほかに「主の祈り」などがあり、後者は「入祭の歌(入祭唱 introitus)「答唱詩編(昇階唱 graduale)」「アレルヤ唱(alleluia)」などがあります。現在では奉献文もそこに含まれる叙唱も季節や典礼の種類に応じて使い分けをすることなどから、この「通常式文」と「固有式文」という名称は用いられなくなっています。ただ、音楽史などの勉強をする場合には、まだ、この名称が使われる場合がありますので、覚えておくこと便利かもしれませんね。

最後になりますが、今までの記述の仕方を見ていただいてわかると思いますが、「ミサ曲」は基本的に、第二バチカン公会議の典礼の刷新以前は基本的にラテン語の歌詞が用いられていました。「基本的に」と書いたのは最初に歌われる「あわれみの賛歌」Kyrie leison Criste eleison はギリシャ語の借用、感謝の賛歌の中の Hosanna はヘブライ語からの借用です。ほかにミサの式次第の中では「アーメン」と「アレルヤ(元はハレルヤ)」がヘブライ語からの借用なので、ここからも「ミサ曲」は相当古い起源をもつ歌ではないかと想像できると思います。このようなことを基本にして、次回から「ミサ曲」のいろいろな側面を見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)

 


アート&バイブル 6:天上の小園

上部ライン地方の画家『天上の小園』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

この絵は、ドイツの南西部に位置する上部ライン地方の画家が描いたとされる作品です。アルプスの向こう側には独自の文化がありました。この絵はドイツなどの地方でよく見られるテーマ「閉ざされた庭」(Hortus Conclusus ホルトゥス・コンクルースス)です。

上部ライン地方の画家『天上の小園』(1420年頃、フランクフルト市立美術館所蔵)

中世後期とルネッサンス期の画家たちは塀などで囲まれたあるいは閉ざされた庭で、腰を下ろす聖母を好んで描きました。フラ・アンジェリコ(生没年1400頃~1455)の描くお告げの場面も、この「閉ざされた庭」が舞台となっています。これは世俗的な汚れから完全に離脱していながらも、子どもを授かるという聖母を暗示するものでした。この「閉ざされた庭」は、旧約聖書の雅歌の一節(4・12「わたしの妹、わたしの花嫁は閉ざされた庭」)が出典元となっているのです。

上部ライン地方の画家たちもこのテーマやモチーフを好んで描きました。ケルンにある「バラ園の聖母」もこのテーマに沿ったものです。この上部ライン地方は、ローマ帝国時代にいち早くローマ文化が流れ込んだ地方であり、有名なラインヘッセンと呼ばれるドイツのワインの産地でもあります。

聖母のいる庭が楽園と同一視されたことにより、中世に入ると趣向を凝らした寓意的な花、果物、その他の物に宗教的な意味が付与されました。但し、注意深く見ると聖母の庭には動物は描かれていません。この絵にも様々な小鳥が描かれ、庭の外にある木の枝や壁や塀のところに羽を休めていたり、空を飛んでいたりしますが、聖母のいる庭に降りている姿は描かれていません。

 

【鑑賞のポイント】

(1)この中に登場している人物の中で一番上に描かれ、宝冠を被り、青い衣服を身につけ読書をしている女性が聖母マリアです。優美でやさしい表情で描かれています。

(2)その聖母の足元にいる幼子イエスはハープを奏でています。この幼子の相手をしているのは聖セシリアです。彼女は音楽の保護の聖人であり、ハープや楽器が彼女のアトリビュート(その聖人を表す持ち物)です。いたずらっぽい目をしている幼子の表情はとてもかわいらしいと思います。

フラ・アンジェリコ作『受胎告知』(1430~32年頃、プラド美術館所蔵)

(3)セシリアの背後に二人の女性が描かれています。一人は立ち上がって、手を伸ばし、サクランボを収穫しているようです。足元にはカゴが置かれており、その中にもたくさんのサクランボが入っています。サクランボは「天国の果実」と呼ばれることがあり、天国の報酬を暗示する果物として、聖母子とともに描かれることがあります。サクランボは二つの実が対になって実ります。楽園の真ん中にあった二本の木、「知恵の木の実」と「永遠のいのちの木の実」を表すものとして描かれたのでしょう。

(4)もう一人の女性は石の桶のようなところから柄杓で汲み出しています。ライン地方であることを考えると、これは石の酒舟(ブドウを踏んで絞り、ワインを作る)ではないでしょうか? またイエスを葬ったお棺を暗示するものとも……。

 


グレゴリオ聖歌 8

齋藤克弘

 クリスマスの話題二題で中断しましたが、グレゴリオ聖歌の話題を続けます。音楽史でいうルネッサンスの頃から歌われなくなったグレゴリオ聖歌は、数百年の時を経て現代によみがえりました。フランス革命で廃墟になっていたフランスのソレーム修道院を再興したベネディクト修道会の修道士たちによってこの修道院でグレゴリオ聖歌による典礼が行われるようになりました。グレゴリオ聖歌の研究・復興運動はすでにほかの研究機関などでも行われていましたが、再興されたソレーム修道院では、グレゴリオ聖歌が本来歌われていたのは典礼の場であるから、典礼の祈りとして歌うことで本来の姿を表すことができるという考えに基づいて、グレゴリオ聖歌を自分たちの生活の一部である典礼の場で歌うことで復興したということが大きな特徴といえるでしょう。

ソレーム修道院で復興されたグレゴリオ聖歌は、典礼や聖歌の改革に力を注いでいたピオ10世の助力もあり、教会の最も重要な成果と

ピオ10世

して位置づけられます。そして、20世紀の初めにはグレゴリオ聖歌の規範版(教会の公式の書物)が発行され、ソレーム修道院の歌唱法が教会の標準的なグレゴリオ聖歌の歌い方として全世界の教会に広まりました。ソレーム修道院で確立された歌唱法が広まった理由はいくつかあげられると思いますが、まず、音符の長さが八分音符という、とてもシンプルなものであったことでしょう。その他にこれは音楽的なことではありませんが、グレゴリオ聖歌の誕生期とは違って、印刷した楽譜をだれもが簡単に手にすることができたこと、また、録音技術の発達によって、同じように多くの人が録音されたグレゴリオ聖歌を聞くことができ、楽譜と録音されたものを聞いて歌えるようになったことが考えられます。

その後、四線譜ばかりではなく、最初期の楽譜である「ネウマ譜」の研究が進み、四線譜による八分音符だけの音価(音の長さ)よりも微妙なニュアンスで歌われていたのではないかという推測がされるようになりました。グレゴリオ聖歌を研究する人々の中では、ソレームの歌い方は本来の歌い方ではないということが共通した認識となっています。

では、グレゴリオ聖歌の今後はどうなるのでしょうか。第二バチカン公会議という教会が現代にふさわしいあり方を議論した会議の後、祈りのことばはそれぞれの国や地域の言語で行われるようになり、各地で歌われる聖歌もその地域のことばや音楽で作られて歌われるようになりました。それでもグレゴリオ聖歌は基本的に教会の最も基本的な聖歌であることには変わりありません。

もう一つはグレゴリオ聖歌の歌唱法の問題です。ソレームの歌唱法は誰もが歌いやすいものであったことから教会に広まりました。しかし、この歌唱法はあくまでも19世紀の終わりのフランスの一修道院で考案されたものであり、歴史的にさかのぼることができるものではありません。ですから、グレゴリオ聖歌の本来の歌い方とは異なることもまた事実です。とはいえ、研究者の提案する歌い方も、多くの人が簡単に歌えるような歌い方ではありませんし、四線譜でしか書かれなくなった時代のグレゴリオ聖歌は、ネウマ譜の歌い方では歌うことができず、祈りの整合性(典礼という一つの祈りの流れ)を考えると、異なる歌い方で祈りを統一するということはできません。加えて、ネウマ譜を研究していったとしても、録音が残っていない以上、ネウマ譜の確立期の歌い方とまったく同じ歌い方を再現することができるという保証もありません。

こういうふうに書くと、否定的なように思われるかもしれませんが、やはり一番大切にしなければならないのは、グレゴリオ聖歌の復興に力を入れた教皇ピオ10世が願ったように、祈りに集まった人がこころを一つにして歌える歌い方が大切なのだと思います。人類(ホモ・サピエンス)の本来の食が肉食だったからと言って、現代の人類が昆虫や野生動物の肉を生で食べることができないように、グレゴリオ聖歌の誕生期の歌い方が現代の教会の祈りとしての歌い方としてふさわしいかどうかも考えてみることも必要でしょう。

教会がグレゴリオ聖歌を祈りの歌として最もふさわしいものであると考えているのは、そこで歌われる祈りのことばを最も美しく表現する品位ある音楽であることが一番の理由ではないかと思います。その反面、グレゴリオ聖歌で使われていることばはほとんどがラテン語であり、だれもが生活のことばとしては使っていない言語です。それはどの民族にも国家にも帰属しない客観的な言語であると同時に、だれもが話さない生活とはかけ離れた言語とも言うことができます。この点も長所と短所が併存しますが教会が祈りの歌として勧める一つの理由と考えることができるでしょう。

グレゴリオ聖歌についてのお話、少し尻切れトンボのようですが、今後のことは研究者の努力と教会の実践に委ねることにしましょう。次回からは、皆さんも名前はよくご存じの「ミサ曲」についての話をしていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


アート&バイブル 5:聖母子と聖クララ

オラツィオ・ジェンティレスキ『聖母子と聖クララ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 生没年1563~1639)は、バロック期に活躍したイタリアの画家です。カラヴァッジョ(生没年1573~1610)から大きな影響を受けた画家の一人です。娘のアルテミジア・ジェンティレスキ(生没年1597~1651頃)は、当時としては珍しい女性画家でした。

オラツィオ・ジェンティレスキ作『聖母子と聖クララ』(1615~19年頃、国立マルケ州美術館所蔵)

オラツィオ・ジェンティレスキ、本名オラツィオ・ローミは、ピサに生まれ、1570年代後半からローマに移り住みます。その間、風景画家アゴスティーノ・タッシと交流を持つようになり、ロスピリオシ宮殿、クイリナーレ宮殿などの壁画制作に参加したと推定され、その他にもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(『キリストの割礼』)、サン・ニコーラ・イン・カルチェレ教会、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(『キリストの洗礼』)、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂などでもフレスコ画の制作に携わりました。したがって、ローマの主たる聖堂で、ジェンティレスキの作品を見ることができます。

しかしながら、ジェンティレスキが最も影響を受けた画家は、当時ローマにいたカラヴァッジョでした。ジェンティレスキはカラヴァッジョとともにローマの通りで騒ぎを起こしたことも伝えられており、1603年にはカラヴァッジョに対する訴訟の証人として法廷に立ったという記録があります。

カラヴァッジョがローマから去った後はディティールの正確さや色彩・色調の明るさを発展させてゆき、マニエリスムの影響も見られるようになりました。1613年から1619年にかけてはマルケに滞在、1621~1623年にはジェノヴァに移り、その後、パリに移ってフランス王妃マリー・ド・メディシス(生没年 1573~1642)に仕え、1626年にはイングランドに赴いて国王チャールズ1世(在位1625~1649)のもとで働き、余生をイングランドで送りました。彼の作品は徐々に型にはまったものになりましたが、イングランドの貴族社会からの評判はよかったようです。1639年ロンドンで死去。

(Wikipedia 日本語版、小学館『世界美術大事典』などを参照)

 

カラヴァッジョ作『ロレートの聖母』(1604~1606年、サンタゴスティーノ教会所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)カラヴァッジョの影響を受けたといわれるジェンティレスキですが、人物を照らす光はやわらかく画面左上から、右下へと人物を包んでいます。カラヴァッジョの影響からジェンティレスキ独自の画風へと変わりつつある一枚であり、聖母子と聖クララの親密さが優雅に表されています。幼子の口元と手に注目してみてください。口元は何かを語りかけるように、手がクララの胸元(心)に触れようとしているように見えます。

(2)クララはアッシジのフランシスコの精神を最も純粋に受け継いだ聖人であり、アッシジではフランシスコと並んで称される聖人です。ジェンティレスキも聖クララに特別な尊敬を抱いていたことは、この絵の中で、幼子イエスを包む白い布とクララが身に着けているベールや肩掛けが同じ白(純粋、無垢、清らかさ)であることが強調されていることからわかります。聖母マリアの衣服はクララよりも世俗の人々の服装に近く、カラヴァッジョの描いたロレートの聖母などの姿に似ているように思います。

 


アート&バイブル 4:聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)

シャルル・ル・ブラン『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、第2回で紹介した芸術家です。19歳の若さで宮廷画家としてすでに仕事を依頼されていました。彼の豪華で強烈な個性は絵画だけにとどまらず、下記のようにヴェルサイユ宮殿の装飾など美術工芸品にも影響を与えました。イタリアにおけるルネッサンスの天才たち、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロたちが建築や建築の装飾などを手掛けたことと共通しているかもしれません。

繰り返しになりますが、ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれました。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)とともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学びます。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』(1655年、ルーヴル美術館所蔵)

1658年以降、建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。フーケの失脚後、彼らはヴェルサイユ宮殿を造るのです。ル・ブランは、ルイ14世(在位年 1643~1715)によって、1664年、王の「第一画家」とされ、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。1690年2月22日没。(以上、Wikipedia日本語版ほかを参照)

 

【鑑賞のポイント】

(1)この絵の中心には、聖母マリアと幼子イエスが描かれていますが、眠りに入った幼子に布をかけようとしている人物はアンナ(マリアの母)と思われます。

(2)アンナとマリアの間に両手をあわせて幼子を礼拝する様なポーズをとっている人物はザカリア(洗礼者ヨハネの父)です。

(3)マリアの肩越しにもう一人の幼子・洗礼者ヨハネを心配そうに見守っているのはヨゼフです。

(4)ヨゼフの隣にいて、眠る幼子を指さしながら、我が子ヨハネがイエスを起こさないように腰帯を引いて抑えようとしているのはエリザベト(ヨハネの母)です。幼いヨハネは「ねぇ、あそぼうよ!」という感じでイエスに手をのばしています。

(5)マリアが指を立てて、「あのね。今やっと寝たところなのよ。起こさないでね」とことばが聞こえてきそうです。

(6)よく見るとヨハネがよりかかっているのはヨゼフが作ったゆりかごのようです。

 


ことばの窓 6

 

文学や芸術は、ときに哀しみを浄化するであろう。なかには様々な天気を通り抜けた後に、日向(ひなた)を見出す詩人がいてもいい。日々の出来事を旅人のように味わい、自らを謳歌(おうか)する権利も、人間にはある。「これからのわたしの日々に、神様は一体どんな舞台を用意しているのだろう?」――そんな好奇心と鼓動で歩むように、今日も風は囁いている。

(服部 剛)

※今回の詩は、マエキクリコ著「キリシタン月刊詩」(私家版)・「トンボ(4号)」に掲載されています。