プロローグ

齋藤克弘

皆さん初めまして。

わたくしは長野県の上田市に在住、横浜教区の上田教会で典礼係、オルガン奏者を務めています。また、日本の教会の司祭を養成する学校、日本カトリック神学院の東京キャンパスで「典礼音楽入門」という授業と神学生たちの典礼音楽の指導を担当しています。
今回、この「AMOR――陽だまりの丘で」でキリスト教と音楽や関連する文化のことを書くことになりました。皆さんは「音楽」というとどんなことを思い描くでしょうか。人それぞれだということは間違いがないと思います。

わたしたちが今楽しんでいる音楽、どいういう風に今のような音楽になったのかとか、ご両親やあるいは祖父祖母の方から昔の音楽の話(どういう再生方法を使っていたとかでも、どういう歌手や演奏家がいたとかでも)をきいて驚いたことはありませんか。そんな音楽の隠された部分を探ってみると、結構、面白いことがあるものです。

21世紀に生きるわたしたちはインターネット経由で様々なメディアを使っていつでもどこでも音楽を楽しめるようになっていますが、実はこのように簡単に音楽を聴くことができるようになったのは本当につい最近のことなのです。エジソンがレコードの前身である「フォノグラフ」を発明する前は演奏を録音するすべはありませんでした。ですから、音楽を聴くのも実際に演奏する人がいないと聞くことができませんでした。b85cfdd08810032f05c009eba48c44a5_m

しかし、もっと大切なことがあります。その昔、音楽は娯楽だけではなく社会の様々なことと関連があったとうこと、個人的に楽しむものだけではなかったということです。人が生まれたとき、共同体に迎え入れられるとき、結婚するとき、いろいろなお祝いのとき、そしてこの世からさるとき。人生のさまざまな節目のとき(難しい言葉でいうと「通過儀礼」と言います)には必ずと言っていいほど音楽が演奏され、その際、その時、その場にいる人が皆、演奏者でありまた聴衆であったのです。

このようなことはどの民族でもどの共同体でも同じだと思いますが、特に、人々が人生の指針として信じること、宗教においては重要なものでした。もちろんそれはキリスト教でも同じでしたし、キリスト教で演奏された音楽の中で、現代にまで影響を与えているものが数多くあります。

そんな、キリスト教を土台にして発展してきた音楽のこと、またそれを取り巻く文化のことを少しずつお話ししていくことにしましょう。(典礼音楽研究家)