アート&バイブル 5:聖母子と聖クララ

オラツィオ・ジェンティレスキ『聖母子と聖クララ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 生没年1563~1639)は、バロック期に活躍したイタリアの画家です。カラヴァッジョ(生没年1573~1610)から大きな影響を受けた画家の一人です。娘のアルテミジア・ジェンティレスキ(生没年1597~1651頃)は、当時としては珍しい女性画家でした。

オラツィオ・ジェンティレスキ作『聖母子と聖クララ』(1615~19年頃、国立マルケ州美術館所蔵)

オラツィオ・ジェンティレスキ、本名オラツィオ・ローミは、ピサに生まれ、1570年代後半からローマに移り住みます。その間、風景画家アゴスティーノ・タッシと交流を持つようになり、ロスピリオシ宮殿、クイリナーレ宮殿などの壁画制作に参加したと推定され、その他にもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(『キリストの割礼』)、サン・ニコーラ・イン・カルチェレ教会、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(『キリストの洗礼』)、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂などでもフレスコ画の制作に携わりました。したがって、ローマの主たる聖堂で、ジェンティレスキの作品を見ることができます。

しかしながら、ジェンティレスキが最も影響を受けた画家は、当時ローマにいたカラヴァッジョでした。ジェンティレスキはカラヴァッジョとともにローマの通りで騒ぎを起こしたことも伝えられており、1603年にはカラヴァッジョに対する訴訟の証人として法廷に立ったという記録があります。

カラヴァッジョがローマから去った後はディティールの正確さや色彩・色調の明るさを発展させてゆき、マニエリスムの影響も見られるようになりました。1613年から1619年にかけてはマルケに滞在、1621~1623年にはジェノヴァに移り、その後、パリに移ってフランス王妃マリー・ド・メディシス(生没年 1573~1642)に仕え、1626年にはイングランドに赴いて国王チャールズ1世(在位1625~1649)のもとで働き、余生をイングランドで送りました。彼の作品は徐々に型にはまったものになりましたが、イングランドの貴族社会からの評判はよかったようです。1639年ロンドンで死去。

(Wikipedia 日本語版、小学館『世界美術大事典』などを参照)

 

カラヴァッジョ作『ロレートの聖母』(1604~1606年、サンタゴスティーノ教会所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)カラヴァッジョの影響を受けたといわれるジェンティレスキですが、人物を照らす光はやわらかく画面左上から、右下へと人物を包んでいます。カラヴァッジョの影響からジェンティレスキ独自の画風へと変わりつつある一枚であり、聖母子と聖クララの親密さが優雅に表されています。幼子の口元と手に注目してみてください。口元は何かを語りかけるように、手がクララの胸元(心)に触れようとしているように見えます。

(2)クララはアッシジのフランシスコの精神を最も純粋に受け継いだ聖人であり、アッシジではフランシスコと並んで称される聖人です。ジェンティレスキも聖クララに特別な尊敬を抱いていたことは、この絵の中で、幼子イエスを包む白い布とクララが身に着けているベールや肩掛けが同じ白(純粋、無垢、清らかさ)であることが強調されていることからわかります。聖母マリアの衣服はクララよりも世俗の人々の服装に近く、カラヴァッジョの描いたロレートの聖母などの姿に似ているように思います。

 


アート&バイブル 4:聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)

シャルル・ル・ブラン『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、第2回で紹介した芸術家です。19歳の若さで宮廷画家としてすでに仕事を依頼されていました。彼の豪華で強烈な個性は絵画だけにとどまらず、下記のようにヴェルサイユ宮殿の装飾など美術工芸品にも影響を与えました。イタリアにおけるルネッサンスの天才たち、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロたちが建築や建築の装飾などを手掛けたことと共通しているかもしれません。

繰り返しになりますが、ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれました。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)とともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学びます。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』(1655年、ルーヴル美術館所蔵)

1658年以降、建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。フーケの失脚後、彼らはヴェルサイユ宮殿を造るのです。ル・ブランは、ルイ14世(在位年 1643~1715)によって、1664年、王の「第一画家」とされ、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。1690年2月22日没。(以上、Wikipedia日本語版ほかを参照)

 

【鑑賞のポイント】

(1)この絵の中心には、聖母マリアと幼子イエスが描かれていますが、眠りに入った幼子に布をかけようとしている人物はアンナ(マリアの母)と思われます。

(2)アンナとマリアの間に両手をあわせて幼子を礼拝する様なポーズをとっている人物はザカリア(洗礼者ヨハネの父)です。

(3)マリアの肩越しにもう一人の幼子・洗礼者ヨハネを心配そうに見守っているのはヨゼフです。

(4)ヨゼフの隣にいて、眠る幼子を指さしながら、我が子ヨハネがイエスを起こさないように腰帯を引いて抑えようとしているのはエリザベト(ヨハネの母)です。幼いヨハネは「ねぇ、あそぼうよ!」という感じでイエスに手をのばしています。

(5)マリアが指を立てて、「あのね。今やっと寝たところなのよ。起こさないでね」とことばが聞こえてきそうです。

(6)よく見るとヨハネがよりかかっているのはヨゼフが作ったゆりかごのようです。

 


アート&バイブル 3:ひわの聖母

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ『ひわの聖母』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(生没年1696~1770)はルネサンス最後期の画家であり、18世紀のイタリアを代表する偉大な画家として知られており、またルネサンス期の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠とも呼ばれています。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ作『ひわの聖母』(1760年頃、ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵)

ティエポロは、1696年3月5日にヴェネツィアに生まれました。6人兄弟の末っ子で、父親は船乗りでした。修業時代は歴史画の大家であるグレゴリオ・ラッザリーニ(生没年1655~1770)に師事しますが、セバスティアーノ・リッチ(生没年1659~1734)やジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(生没年1682~1754)の影響を強く受けました。1719年にはフランチェスコ・グアルディ(生没年1712~1793)の姉妹と結婚しています。1751年まではヴェネツィアで活躍、その後、ヴュルツブルク、ヴィチェンツァで活動したのち、1762年、スペイン王カルロス3世(在位年1759~1788)に招かれて以後マドリードで活躍します。

ティエポロは稀代のフレスコ画の名手であり、瑞々しく壮麗な作風は底抜けに明るく、きらびやかです。宮殿や貴族の館を飾る天井画は、下方から見上げる「仰視法」を取り入れ、イリュージョンの効果を完璧なものとしています。

1770年3月27日、マドリードで死去。バロック的な躍動感とロココ的な優美な装飾性を兼ね備えていた画風は、生前はヨーロッパ全土で名声を博していましたが、没後は、台頭してきた新古典主義が甘美な装飾性を否定するものであったため、評価も急速に低下していきました。彼の息子ジョバンニ・ドメニコ・ティエポロ(生没年1727~1804)とロレンツオ・バルティッセーラ・ティエポロ(生没年 1736~1776)も画家でした。(以上Wikipedia日本語版ほか諸事典参照)

この絵の中で、幼子イエスが手にしているのはゴシキヒワという小鳥です。ラファエロの「ひわの聖母」でも有名なように、小鳥の額の赤い色はカルワリオの丘で十字架にかけられたイエスの茨の冠のとげを引き抜こうとして、イエスの血の一滴がついたものだという伝説があります。とげの多いアザミの種を食べるところから受難のシンボルとして聖母子の絵にもよく描かれ、中世ヨーロッパでは疫病よけのお守りにも用いられたというお話があります。

 

ラファエロ・サンティ作『ひわの聖母』(1507年、ウフィツィ美術館所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスは手にヒワをつかんでいますが、ヒワの下にマリアの左手がヒワを受け取ろうとしているように見えませんか?

(2)マリアの衣服は伝統的な色、身につけている衣服は赤、但し幼子イエスの足を支える袖の部分は光の具合なのか、ピンクに見えます。そしてベールは白、ベールの裾を幼子がつかんでいます。

(3)幼子イエスの視線はどこに向けられているのでしょうか?

(4)マリアの視線はどこに向けられているのでしょうか? マリアの視線とヒワの視線が同じ方向を向いているように見えますが?

 


アート&バイブル 2:聖家族(食前の祈り)

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(食前の祈り)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、フランスの画家、室内装飾家、美術理論家として有名です。ルイ14世の第一画家としてヴェルサイユ宮殿やルーヴル宮殿等の内装を担当したほか、王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)やゴブラン工場の設立運営にも関わり、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えました。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(食前の祈り)』(1656年、ルーヴル美術館所蔵)

ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれます。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)ともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学んでいきました。

1658年以降、ル・ブランは建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手します(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。彼らはフーケの失脚後、ヴェルサイユ宮殿を造ることになるのです。

ルイ14世(在位年 1643~1715)は、ル・ブランのヴォー=ル=ヴィコント城での仕事や、王が依頼したアレクサンドロス大王の歴史画を賞賛し、1664年、彼を王の「第一画家」とし、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。(以上、Wikipedia日本語版を参照)

この絵は、シャルル・ル・ブランの代表的な宗教画の一つです。パリのマレ地区にあるサン・ルイ聖堂の礼拝堂祭壇画として、大工同業組合の依頼により1656年に制作されました。イエスの養父である聖ヨゼフは大工の守護の聖人としても知られており、この絵の下の部分には木槌やのみなどの大工道具も描かれています。

 

ピエール・ミニャール作『葡萄の聖母』(ルーヴル美術館所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)ヨゼフは何故、立ったまま、杖までもっているのか?

(2)ヨゼフの横顔はダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の使徒シモン(最右端に描かれている)に相似していないでしょうか?

(3)イエスの両手のポーズはおもしろい形に組み合わされているのは?

(4)マリアのベールを上げているポーズは、ピエール・ミニャール(生没年1612~1695)の『葡萄の聖母』の影響か?

(5)テーブルの下に置かれている水差し(蓋つきの豪華な物)はフアン・デ・フアネス(生没年1523~1577)の『最後の晩餐』などにも登場していることを考えると、この食卓も最後の晩餐を暗示しているのでは?

(6)パンの後ろに隠れたナイフの柄が見えます。そのナイフの先端は少年イエスの方を指し示しているように見えますが?

(7)テーブルの皿の上に置かれた果物は? リンゴ・洋ナシ・ザクロ?

(8)少年イエスのまなざしはどこに向けられているのでしょうか?

フアン・デ・フアネス作『最後の晩餐』(1560年、プラド美術館蔵)


アート&バイブル 1:結び目をほどくマリア様

今月から「芸術を楽しむ」では、カトリック司祭稲川保明師による美術に関するシリーズ「アート&バイブル」を開始します。これは、主任司祭を務めるカトリック東京教区関町教会(東京都練馬区)にて2014年6月から開講しているキリスト教絵画の鑑賞会の内容を提供してくださるものです。わかりやすい解説、鑑賞のヒントにご期待ください。(編集部)

 

結び目をほどくマリア様

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

2013年3月13日、新教皇フランシスコが選出されました。新教皇が教皇に選ばれた翌朝、8時ごろ、宿舎である「マルタの家」から小さな花束を手に持って出かけました。それはサンタ・マリア・マジョーレ教会(ローマ)の聖堂の奥にあるイコンに描かれた聖母マリアに祈りを捧げるためでした。新教皇は教皇としての最初の日を教会と教皇自身へのご加護を求めて聖母マリアにお祈りすることで始められたのです。

この新教皇様の聖母マリアへの献身的な信心、崇敬心は母国アルゼンチンではよく知られていることでした。まだ若かりし頃、1986年、ホルヘ・マリオ・べルゴリオ神父はドイツのフランクフルト市にあるイエズス会が運営する聖ゲオルグ神学院に在籍していました。その神学院から列車で3時間ほどのところにあるアウグスブルグという町には、ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会があり、そこに「結び目をほどく聖母マリア」の絵があります。ベルゴリオ神父は、その絵に深い感銘を受け、複製を作る許可を得て、故国アルゼンチンに持ち帰り、絵はがきにして、親しい人々に贈っていたのです。

「結び目をほどく聖母マリア」ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会(アウグスブルク)に1700年に寄贈された絵画

後のことですが、この絵はがきに感銘を受けたブエノスアイレスの人々はサン・ホセ・デル・タラール教会に高さ180cm、幅110cmの絵として複製し、この聖母マリアへの信心が広まったとのことです(このエピソードはドン・ボスコ社発行の『カトリック生活』2014年8月号に紹介されています)。

この絵が描かれた背景にあった物語は次のようなものです。ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンテルという人が妻から離婚を望まれたことを悩み、レム神父のところに行き、相談しました。当時、ドイツの結婚式では、生涯添い遂げることを象徴的に表すために結婚の誓いを立てた新郎新婦の二人の手を白いウエディング・リボンで結ぶということをしていたそうです。ところが気がつくと何故か、この夫婦のウエディング・リボンが固く絡まり合っており、レム神父はマリア様のご像の前で、祈りながら、そっとその結び目をほどこうとしますが、なかなかうまくゆきません。それでも祈り続けていると・・・。

聖母マリアは結婚生活の困難だけでなく、人生のあらゆる苦しみや縺れてしまった人間関係を「最初の一歩」に戻そうと手伝って下さるのです。