ことばの窓 6

 

文学や芸術は、ときに哀しみを浄化するであろう。なかには様々な天気を通り抜けた後に、日向(ひなた)を見出す詩人がいてもいい。日々の出来事を旅人のように味わい、自らを謳歌(おうか)する権利も、人間にはある。「これからのわたしの日々に、神様は一体どんな舞台を用意しているのだろう?」――そんな好奇心と鼓動で歩むように、今日も風は囁いている。

(服部 剛)

※今回の詩は、マエキクリコ著「キリシタン月刊詩」(私家版)・「トンボ(4号)」に掲載されています。

 


ことばの窓 5

 

限りある時間のなかで生きる現代の私たちにとって、本当に必要なことを選択して生きることは、大切である。だが、「むげんの」という詩のなかでは、さらに深い次元で〈すべてをすてたとき〉にこそ、視える領域のあることが語られている。詩人は目に見えないものを視る、ということのみならず、信仰を生きることを通じて、〈目には見えない無上の歓び〉があることをも、分かち合っている。

(服部 剛/詩人)

 


ことばの窓 4

 

詩人とは、見者である。多くの人々が通り過ぎてゆく風景にふと立ち止まり、風の囁きに耳を澄まし、詩(うた)を紡ぐ。それは本来、誰もがもつ視力であるが、大人になるにつれて、忘れられてゆく。詩人は日常に隠れた神と対話する。自分でも気づかぬうちに、手にしたペンは走り出す。詩人は時に、〈神〉という言葉を使わず、〈神〉を運ぶ。そして、詩集という本の中から語るだろう。誰もの中に、目には見えない宝が宿っていることを。

(服部 剛)

※今回の詩は、末森英機著『光の礫、音の楔』(港の人)に掲載されています。

 


ことばの窓 3

 

(写真提供:中沢恵理)

 

私達は日頃、自分の足で立っていると思っているが、実は、自分の力のみで立っているのではない。心臓の鼓動が鳴っているのも、自分の意思のみではない。人はそれぞれに何処かが欠けた器でありながら、自分が〈大いなる命〉につながって生きることを知る時、被造物であるという存在の歓びを知る。そして、目には見えない〈大いなる命〉と共に生きる感覚を養うなら、日々の素朴な風景も〈何か〉を囁きかけるだろう。

(服部 剛/詩人)

 


ことばの窓 2

時に誰もが、人知れず悩みや哀しみの夜を過ごすことがあり、今夜もこの世界の何処かに、悲嘆の人がいる。人が人を救うことは容易(たやす)くないが――もし、信仰があるならば?と、呟(つぶや)いてみる。深夜の暗闇から「ひかりの朝」へと転換されてゆく〈信仰の目〉をもって、生きること。夜明けの青空に薄っすら浮かぶ、イエスの澄んだ瞳が〈私をじっとみつめている…〉と心から信じる時、悲嘆の人はゆっくり、立ちあがる。

(服部 剛/詩人)

 

※今回の詩は、斎藤菜穂子著『霧の町を訪ねる日』(土曜美術社出版販売)に掲載されています。

 


ことばの窓 1

今から約二千年前、イエス・キリストは人々に「歓びの知らせ」を語った。聖書には「御言葉(みことば)は人となられた」と記されているように、イエス自身が「神の御言葉(メッセージ)そのもの」である。そのイエスが語る喩え話の節々には、詩が存在する。

「歓びの知らせ」とは福音のことだが、日本人に、その言葉の意味は伝わりにくい。もし、キリスト教の言葉が、日本人の感性に響く言葉に変換されなければ、イエスのメッセージが日本に花開くことはないであろう。

しかし、詩情(ポエジー)というものは、深い宗教性をも伝え得る――そんな願いをこめて「AMOR」の読者の皆様が、これから始まる「ことばの窓」の画面の前で、ふと立ち止まり、思いを巡らせるひと時となれば幸いである。

(服部 剛/詩人)