アート&バイブル 5:聖母子と聖クララ

オラツィオ・ジェンティレスキ『聖母子と聖クララ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 生没年1563~1639)は、バロック期に活躍したイタリアの画家です。カラヴァッジョ(生没年1573~1610)から大きな影響を受けた画家の一人です。娘のアルテミジア・ジェンティレスキ(生没年1597~1651頃)は、当時としては珍しい女性画家でした。

オラツィオ・ジェンティレスキ作『聖母子と聖クララ』(1615~19年頃、国立マルケ州美術館所蔵)

オラツィオ・ジェンティレスキ、本名オラツィオ・ローミは、ピサに生まれ、1570年代後半からローマに移り住みます。その間、風景画家アゴスティーノ・タッシと交流を持つようになり、ロスピリオシ宮殿、クイリナーレ宮殿などの壁画制作に参加したと推定され、その他にもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(『キリストの割礼』)、サン・ニコーラ・イン・カルチェレ教会、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(『キリストの洗礼』)、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂などでもフレスコ画の制作に携わりました。したがって、ローマの主たる聖堂で、ジェンティレスキの作品を見ることができます。

しかしながら、ジェンティレスキが最も影響を受けた画家は、当時ローマにいたカラヴァッジョでした。ジェンティレスキはカラヴァッジョとともにローマの通りで騒ぎを起こしたことも伝えられており、1603年にはカラヴァッジョに対する訴訟の証人として法廷に立ったという記録があります。

カラヴァッジョがローマから去った後はディティールの正確さや色彩・色調の明るさを発展させてゆき、マニエリスムの影響も見られるようになりました。1613年から1619年にかけてはマルケに滞在、1621~1623年にはジェノヴァに移り、その後、パリに移ってフランス王妃マリー・ド・メディシス(生没年 1573~1642)に仕え、1626年にはイングランドに赴いて国王チャールズ1世(在位1625~1649)のもとで働き、余生をイングランドで送りました。彼の作品は徐々に型にはまったものになりましたが、イングランドの貴族社会からの評判はよかったようです。1639年ロンドンで死去。

(Wikipedia 日本語版、小学館『世界美術大事典』などを参照)

 

カラヴァッジョ作『ロレートの聖母』(1604~1606年、サンタゴスティーノ教会所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)カラヴァッジョの影響を受けたといわれるジェンティレスキですが、人物を照らす光はやわらかく画面左上から、右下へと人物を包んでいます。カラヴァッジョの影響からジェンティレスキ独自の画風へと変わりつつある一枚であり、聖母子と聖クララの親密さが優雅に表されています。幼子の口元と手に注目してみてください。口元は何かを語りかけるように、手がクララの胸元(心)に触れようとしているように見えます。

(2)クララはアッシジのフランシスコの精神を最も純粋に受け継いだ聖人であり、アッシジではフランシスコと並んで称される聖人です。ジェンティレスキも聖クララに特別な尊敬を抱いていたことは、この絵の中で、幼子イエスを包む白い布とクララが身に着けているベールや肩掛けが同じ白(純粋、無垢、清らかさ)であることが強調されていることからわかります。聖母マリアの衣服はクララよりも世俗の人々の服装に近く、カラヴァッジョの描いたロレートの聖母などの姿に似ているように思います。

 


アート&バイブル 4:聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)

シャルル・ル・ブラン『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、第2回で紹介した芸術家です。19歳の若さで宮廷画家としてすでに仕事を依頼されていました。彼の豪華で強烈な個性は絵画だけにとどまらず、下記のようにヴェルサイユ宮殿の装飾など美術工芸品にも影響を与えました。イタリアにおけるルネッサンスの天才たち、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロたちが建築や建築の装飾などを手掛けたことと共通しているかもしれません。

繰り返しになりますが、ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれました。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)とともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学びます。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』(1655年、ルーヴル美術館所蔵)

1658年以降、建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。フーケの失脚後、彼らはヴェルサイユ宮殿を造るのです。ル・ブランは、ルイ14世(在位年 1643~1715)によって、1664年、王の「第一画家」とされ、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。1690年2月22日没。(以上、Wikipedia日本語版ほかを参照)

 

【鑑賞のポイント】

(1)この絵の中心には、聖母マリアと幼子イエスが描かれていますが、眠りに入った幼子に布をかけようとしている人物はアンナ(マリアの母)と思われます。

(2)アンナとマリアの間に両手をあわせて幼子を礼拝する様なポーズをとっている人物はザカリア(洗礼者ヨハネの父)です。

(3)マリアの肩越しにもう一人の幼子・洗礼者ヨハネを心配そうに見守っているのはヨゼフです。

(4)ヨゼフの隣にいて、眠る幼子を指さしながら、我が子ヨハネがイエスを起こさないように腰帯を引いて抑えようとしているのはエリザベト(ヨハネの母)です。幼いヨハネは「ねぇ、あそぼうよ!」という感じでイエスに手をのばしています。

(5)マリアが指を立てて、「あのね。今やっと寝たところなのよ。起こさないでね」とことばが聞こえてきそうです。

(6)よく見るとヨハネがよりかかっているのはヨゼフが作ったゆりかごのようです。

 


ことばの窓 6

 

文学や芸術は、ときに哀しみを浄化するであろう。なかには様々な天気を通り抜けた後に、日向(ひなた)を見出す詩人がいてもいい。日々の出来事を旅人のように味わい、自らを謳歌(おうか)する権利も、人間にはある。「これからのわたしの日々に、神様は一体どんな舞台を用意しているのだろう?」――そんな好奇心と鼓動で歩むように、今日も風は囁いている。

(服部 剛)

※今回の詩は、マエキクリコ著「キリシタン月刊詩」(私家版)・「トンボ(4号)」に掲載されています。

 


アート&バイブル 3:ひわの聖母

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ『ひわの聖母』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(生没年1696~1770)はルネサンス最後期の画家であり、18世紀のイタリアを代表する偉大な画家として知られており、またルネサンス期の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠とも呼ばれています。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ作『ひわの聖母』(1760年頃、ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵)

ティエポロは、1696年3月5日にヴェネツィアに生まれました。6人兄弟の末っ子で、父親は船乗りでした。修業時代は歴史画の大家であるグレゴリオ・ラッザリーニ(生没年1655~1770)に師事しますが、セバスティアーノ・リッチ(生没年1659~1734)やジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(生没年1682~1754)の影響を強く受けました。1719年にはフランチェスコ・グアルディ(生没年1712~1793)の姉妹と結婚しています。1751年まではヴェネツィアで活躍、その後、ヴュルツブルク、ヴィチェンツァで活動したのち、1762年、スペイン王カルロス3世(在位年1759~1788)に招かれて以後マドリードで活躍します。

ティエポロは稀代のフレスコ画の名手であり、瑞々しく壮麗な作風は底抜けに明るく、きらびやかです。宮殿や貴族の館を飾る天井画は、下方から見上げる「仰視法」を取り入れ、イリュージョンの効果を完璧なものとしています。

1770年3月27日、マドリードで死去。バロック的な躍動感とロココ的な優美な装飾性を兼ね備えていた画風は、生前はヨーロッパ全土で名声を博していましたが、没後は、台頭してきた新古典主義が甘美な装飾性を否定するものであったため、評価も急速に低下していきました。彼の息子ジョバンニ・ドメニコ・ティエポロ(生没年1727~1804)とロレンツオ・バルティッセーラ・ティエポロ(生没年 1736~1776)も画家でした。(以上Wikipedia日本語版ほか諸事典参照)

この絵の中で、幼子イエスが手にしているのはゴシキヒワという小鳥です。ラファエロの「ひわの聖母」でも有名なように、小鳥の額の赤い色はカルワリオの丘で十字架にかけられたイエスの茨の冠のとげを引き抜こうとして、イエスの血の一滴がついたものだという伝説があります。とげの多いアザミの種を食べるところから受難のシンボルとして聖母子の絵にもよく描かれ、中世ヨーロッパでは疫病よけのお守りにも用いられたというお話があります。

 

ラファエロ・サンティ作『ひわの聖母』(1507年、ウフィツィ美術館所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスは手にヒワをつかんでいますが、ヒワの下にマリアの左手がヒワを受け取ろうとしているように見えませんか?

(2)マリアの衣服は伝統的な色、身につけている衣服は赤、但し幼子イエスの足を支える袖の部分は光の具合なのか、ピンクに見えます。そしてベールは白、ベールの裾を幼子がつかんでいます。

(3)幼子イエスの視線はどこに向けられているのでしょうか?

(4)マリアの視線はどこに向けられているのでしょうか? マリアの視線とヒワの視線が同じ方向を向いているように見えますが?

 


『彼女が目覚めるその日まで』

抗NMDA受容体脳炎という病気をご存じでしょうか。日本でも年間1000人ほどの人がかかっている病気ということですが、ほとんど知られていない病気のようです。この病にかかった女性を描いた映画が期せずして日本とアメリカで作られ、日本の映画は『8年越しの花嫁』と題して現在公開中です。ともに実話を元に構成されています。残念ながら日本映画はまだ観ていないのですが、アメリカの映画の方は見ることができましたので、皆さんにご紹介したいと思います。

憧れのニューヨーク・ポスト紙で駆け出しの記者として働き始めた21歳のスーザン・キャラハン(クロエ・グレース・モレッツ)の毎日

© 2016 ON FIRE PRODUCTIONS INC.

は、希望と喜びに満ちていました。いつか1面の記事を書くと燃えていました。プライベートでも、プロミュージシャンを目指すスティーヴン(トーマス・マン)とつきあい始め、会うたびに想いを深めていっていました。

そんな中、離婚してしまっていながらも、娘を通して良好な関係を築いている父(リチャード・アーミティッジ)と母(キャリー=アン・モス)がバースデイ・パーティを開いてくれます。それぞれのパートナーと最愛のスティーヴンに囲まれてキャンドルを吹き消そうとしたとき、初めて体調の異変を感じます。皆の声が遠のき、めまいを覚えたのです。

デスクのリチャード(タイラー・ベリー)からスキャンダルを抱えた上院議員のインタビューを任されることになりますが、体調は日に日に悪化し、視界が揺れ、会話も聞き取れず、夜も眠れなくなります。そんな体調ですから、まともな文章が書けるわけがありません。締切を守れなくなるばかりでなく、綴りや文法までミスをしてしまいます。やがて手足がマヒするようになり、病院で診察を受けますが、検査結果はすべて異常なしでした。
そんな中、ついに取り返しの付かない大失態をスザンナは演じてしまいます。上院議員のインタビューの席上、スキャンダルに引っかけた下品なジョークで彼を侮辱してしまいます。リチャードから激しく叱責されますが、なぜそんな言葉出て来たのかスザンナにもわかりません。

その後、激しいけいれんの発作を起こすようになり、両親に付き添われて精密検査を受けますが、そこでも異常は見られないといわれます。劇的な幸福感に包まれたかと思うと、深い絶望感と被害妄想がわき起こり、周囲の人を罵詈罵倒するなど、両親ですら手に負えなくなってしまいます。

© 2016 ON FIRE PRODUCTIONS INC.

何度検査を受けても異常なしの状態で、とうとう精神病院への転院を薦められます。恋人スティーヴンは「絶対治るから、一緒に頑張ろう」と支え続けますが、手足が動かなくなり、全身が硬直し、口もきけなくなってしまいます。
スザンナがどのようにして抗NMDA受容体脳炎という診断に行き着いたのか、そしてその後病は克服できたのか、職場へは復帰できるのかなどは観てのお楽しみです。

私がこの映画をぜひ皆さんに見ていただきたいと思ったのは、訳のわからない病に突き当たったとき、本当に助けてくれる存在が身近にいるということです。心から自分を信頼し、救いの手をさしのべてくれる存在がどれほど心強いものかスザンナを通して感じることができました。「だれか助けて」と声を上げなくても、だれかが見ていてくれるそんな存在を感じられるこの映画は生きようとする私たちの応援歌のような気がします。

中村恵里香(ライター)

12/16(土)より角川シネマ有楽町他全国ロードショー
監督・脚本:ジェラルド・バレット/製作:AJ・ディクス、ベス・コノ、シャーリーズ・セロン、リンジー・マカダム、ロブ・メリリーズ
出演:クロエ・グレース・モレッツ、トーマス・マン、キャリー=アン・モス、リチャード・アーミティッジ、タイラー・ペリー、ジェニー・スレイト
原作:『’脳に棲む魔物』スザンナ・キャハラン著・澁谷正子訳(KADOKAWA刊)
2016年/カナダ・アイルランド/英語/カラー/5.1ch/スコープ/89分/G/字幕翻訳:松浦美奈
公式サイト:http://kanojo-mezame.jp


降誕祭の歌

齋藤克弘

「グレゴリオ聖歌」シリーズが完結していませんが、今回は時節柄「降誕祭の歌」について書くことにしました。12月に入ってから、スーパーやコンビニ、あるいは商店街などでは「クリスマスソング」がBGMで流れるようになりましたね。

洗礼を受けて間もない頃、学生時代に教会の友人から聞いた話ですが、「テレビの街頭インタビューでインタビュアーが呼び込みのお兄さんに『クリスマスに教会にはいかないんですか』と尋ねたら、お兄さんは「え、教会でもクリスマスやるの』」と言っていた、という、笑うに笑えない話がありました。もう40年近い前の話ですが。日本では「クリスマス」というと、予約したケーキやオードブルを買って帰り、みんなで一緒に食べる日という印象が強いですね。

先にも触れましたがBGMで流れているいわゆる「クリスマスソング」も、たまには『讃美歌』(主に1954年版)にあるものもありますが、具体的な曲名はここでは挙げませんが、どちらかというと、クリスマスにちなんだ、ポピュラーソングやフォークソングが主流だと思います。

教会で歌われている聖歌や讃美歌で一番なじみ深い曲は「きよしこの夜(讃美歌)・しずけき(カトリック聖歌集)」でしょう。この曲は1818年に現在のオーストリアのオールベンドルフという村の小教区の助祭だったヨゼフ・モールが作詞した詩に、同じ村の音楽の先生だったフランツ・グルーバーが曲をつけて歌われたのが最初です。元の歌詞は6番まであり、最初はギターの伴奏だったそうです。巷説では、教会のオルガンが壊れたのでモール助祭が急遽、作詞してグルーバー先生がやはり速攻で作曲して、オルガンの代わりにギター伴奏で歌われたと語られていますが、現在の研究によると、そのような事実はなかったようです。この聖歌、最初はこの小さな村の小教区で歌われておしまいになりそうでしたが、さまざまな経緯からドイツ語圏に広まり、さらにヨーロッパ各地の言語に訳されて各国のことばで歌われるようになりました。

この他にも、クリスマスにちなんだ聖歌や讃美歌は数多くありますが、現在、よく歌われているものはほとんどの曲が18世紀あるいは19世紀に作曲されたものです。しかし、よく考えてみると、クリスマスはその頃ようやく祝われるようになったわけではありません。神のひとり子がおとめマリアを通してナザレのイエスとしてこの世に来られた時がその起源です。教会では最初のうちは「クリスマス」という行事は重要視されていなかったようで、現在のように12月25日という日付も定まっていませんでした。詳細を書くと長くなるので簡単にしか触れませんが、この日がキリストの誕生の祝日となったのは325年のニケア公会議の頃以降のこととされています。カトリック教会の場合は「主の降誕」が正式な名称となっています。

さて、話がだいぶ脇道にそれましたが、ナザレのイエスが生まれたその夜に歌われた重要な歌があります。それは聖書にも書かれているもので、現在もその歌詞を歌いだしとして教会では一部の主日(日曜日)を除いたお祝いの日(主日・祝祭日)には必ず歌われているもので「栄光の賛歌=Gloria呼ばれています。イエスが生まれた時に羊飼いたちにその誕生を告げた天使と天の大群が歌った歌で、現在の教会の日本語の歌詞では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」というものです。

そして、教会が伝統的に大切にしてきた歌、それは「主の降誕」や「主の復活」を記念するすべてのミサで歌ってきた大事な歌が「詩編」です。詩編はユダヤ教の時代に編纂されてキリスト教にも受け継がれた150編からなる歌です。ユダヤ教の時代の歌ですから、直接にイエス・キリストの名前が出てきませんし、ユダヤ教時代の神の民のさまざまな出来事が土台になっているものです。しかし、キリスト教会はこの詩編を単なる歴史の出来事に基づく歌ではなく、旧約時代の人々が、自分たちのうちに来られるであろう「キリストに関する預言」、ユダヤ教徒として生活していたナザレのイエスやイエスの弟子たちが会堂や神殿で歌った祈り、キリストが復活してから弟子たちがキリストの復活について証した聖書の歌、という理解のもとに絶えることなく歌い続けているものです。連載でお伝えしている「グレゴリオ聖歌」でも一番重要な歌詞とされているのが、この詩編ですし、「主の降誕」をはじめ、すべてのミサで、グレゴリオ聖歌では詩編が歌われなかったことは一度もありません。巷には様々な「クリスマスソング」が流れていますが、詩編こそイエス・キリストにまでさかのぼる、伝統的な教会の聖歌なのです。

「主の降誕」のミサでは、夜半のミサで詩編96が、日中のミサでは詩編98が先唱者を通して朗唱されます。皆さんもぜひそれぞれのミサで朗唱される詩編を味わい、その前後に歌う答唱句を歌って、キリスト降誕の喜びをかみしめていただきたいと願っています。

(典礼音楽研究家)

 


私は幸福(フェリシテ)

あなたにとって幸福って何でしょうか。ある人はお金というかも知れませんし、人間関係という人もいるかも知れません。いえ、もっと違うものという人もいるでしょう。その形はきっとそれぞれだと思います。

本当の幸福って何だろうと考えさせられる映画に出会いました。その映画を今回はご紹介したいと思います。

舞台は中央アフリカのコンゴ民主共和国です。幸福、祝福という意味の名を付けられたフェリシテ(ヴェロ・ツァンダ・ベヤ)はバーで

© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS – KATUH STUDIO – SCHORTCUT FILMS / 2017

唄うことで生計を立てています。彼女の歌声は、エネルギーそのものといった感じです。ある朝、フェリシテの家の冷蔵庫が壊れます。近所の子供に修理屋を呼んで来させると、そこに来たのは、彼女が唄うバーでいつも酔っ払い、女を口説いているタブー(パピ・ムパカ)でした。冷蔵庫はファンがいかれているというのですが、2週間前にモーターを修理したばかりのフェリシテは、修理より新品を買うほうがいいと渋々ながらタブーにお金を渡し、冷蔵庫を頼みます。

そこに1本の電話がかかります。病院からの電話で、彼女の一人息子、サモ(ガエタン・クラウディア)が交通事故に遭ったというものでした。急いで病院に駆けつけますが、大部屋に寝かされている息子は、意識はあるが、呼びかけても何の反応も見せません。

息子サモは、左足を開放骨折しており、手術が必要な状態で、治療費が100万フランかかるといいます。何としてもお金を集めるので、手術をしてほしいと頼むフェリシテに前払いをしなければ手術は出来ないと医師は告げます。

これまで人に頭を下げることをせず、一人の力で生きてきたフェリシテにとって、それは大変なことでした。

バーではタブーが彼女のために客から金を集め、バンドメンバーもお金を出します。でもそれだけではとても足りないのです。

ここまでのお話ではそんなに魅力のある話には見えないかもしれません。ここから話は佳境に入るのですが、フェリシテの周囲の人間関係が如実に出る作品ですので、見ていただきたいと思います。

なぜ彼女はフェリシテという名前になったのかも大きく関係していきます。幸福とは縁遠いような彼女の生活も息子の事故により大きく変わっていきます。

© ANDOLFI – GRANIT FILMS – CINEKAP – NEED PRODUCTIONS – KATUH STUDIO – SCHORTCUT FILMS / 2017

息子は助かるのか、元旦那さんとの関係や、お金をどうやって集めるのか、タブーとの関係は?

人に頭を下げず、いつも一人でお金に執着していたフェリシテにとって、本当の幸福とは何なのでしょうか。彼女の心の変遷が大きく映画の世界に誘っていきます。

コンゴという私たちにとって、あまりなじみのない土地へ誘い、その国の現状がフェリシテとタブーによって身近に感じられるようになります。

まったく笑うことのないフェリシテの心の変遷をぜひご覧ください。本当の幸福とは何か、心に突き刺さるものがあるはずです。

蛇足になりますが、この映画にはアフリカの音楽が溢れています。その迫力にはなぜか心が揺さぶられます。

中村恵里香(ライター)

 

12月16日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開

監督・脚本:アラン・ゴミス、撮影:セリーヌ・ボゾン、編集:ファブリス・ルオー、アラン・ゴミス、音響監督:ブノワ・ド・クレルク
出演:ヴェロ・ツァンダ・ベヤ、パピ・ムパカ、ガエタン・クラウディア、カサイ・オールスターズ他

原題:Félicité |製作年:2017年|製作国:フランス、セネガル、ベルギー、ドイツ、レバノン

129分| DCP |1.66|5.1ch |カラー:リンガラ語&チルバ語&フランス語

字幕:斎藤敦子 字幕監修:奥村恵子 配給:ムヴィオラ
公式HP:www.moviola.jp/felicite/

 


アート&バイブル 2:聖家族(食前の祈り)

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(食前の祈り)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、フランスの画家、室内装飾家、美術理論家として有名です。ルイ14世の第一画家としてヴェルサイユ宮殿やルーヴル宮殿等の内装を担当したほか、王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)やゴブラン工場の設立運営にも関わり、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えました。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(食前の祈り)』(1656年、ルーヴル美術館所蔵)

ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれます。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)ともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学んでいきました。

1658年以降、ル・ブランは建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手します(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。彼らはフーケの失脚後、ヴェルサイユ宮殿を造ることになるのです。

ルイ14世(在位年 1643~1715)は、ル・ブランのヴォー=ル=ヴィコント城での仕事や、王が依頼したアレクサンドロス大王の歴史画を賞賛し、1664年、彼を王の「第一画家」とし、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。(以上、Wikipedia日本語版を参照)

この絵は、シャルル・ル・ブランの代表的な宗教画の一つです。パリのマレ地区にあるサン・ルイ聖堂の礼拝堂祭壇画として、大工同業組合の依頼により1656年に制作されました。イエスの養父である聖ヨゼフは大工の守護の聖人としても知られており、この絵の下の部分には木槌やのみなどの大工道具も描かれています。

 

ピエール・ミニャール作『葡萄の聖母』(ルーヴル美術館所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)ヨゼフは何故、立ったまま、杖までもっているのか?

(2)ヨゼフの横顔はダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の使徒シモン(最右端に描かれている)に相似していないでしょうか?

(3)イエスの両手のポーズはおもしろい形に組み合わされているのは?

(4)マリアのベールを上げているポーズは、ピエール・ミニャール(生没年1612~1695)の『葡萄の聖母』の影響か?

(5)テーブルの下に置かれている水差し(蓋つきの豪華な物)はフアン・デ・フアネス(生没年1523~1577)の『最後の晩餐』などにも登場していることを考えると、この食卓も最後の晩餐を暗示しているのでは?

(6)パンの後ろに隠れたナイフの柄が見えます。そのナイフの先端は少年イエスの方を指し示しているように見えますが?

(7)テーブルの皿の上に置かれた果物は? リンゴ・洋ナシ・ザクロ?

(8)少年イエスのまなざしはどこに向けられているのでしょうか?

フアン・デ・フアネス作『最後の晩餐』(1560年、プラド美術館蔵)


グレゴリオ聖歌 7

齋藤克弘

 楽譜の発明によって、共通の歌い方が確立され、多くの修道院で歌われるようになったグレゴリオ聖歌ですが、数百年という長きにわたって歌われ続けてきたわけではありませんでした。現代のように、乗り物も人の流れも速すぎる時代ではありませんでしたから、100年以上は歌われていたようですが、次第次第にグレゴリオ聖歌から派生した他の様式、形式の歌にとってかわられていきます。

グレゴリオ聖歌は皆さんもご存じのように、本来は伴奏のない(ア・カペラ)旋律だけ(単旋律)の歌ですが、このグレゴリオ聖歌の旋律を土台として、まず、上に別の旋律をつける、オルガヌムという形式の歌が作られるようになります。いわゆる「ハモる」歌ですね。でも、この時代の「ハモる」というのは、現代のものと音の感覚が違っています。現代の「ハモる」というのは、たとえばドとミという音楽用語でいうところの3度音程ですが、この時代はドとソという5度音程を使っていました。なぜかというと、ドに対して1オクターブ上のドは音の振動(周波数)が二倍になる倍音、その上のソ(最初のドから1オクターブ半)は三倍音という、いわば音の振動が響きあうからです。これはピアノでト音記号の一番上の線の一つ上のソの音の鍵盤を音を出さないように静かに押したままにしておいて、同じト音記号の下の線の一つ下の線のドの音を強くたたくと、ソの音がかすかに鳴ることで確かめられます。ちなみに現代のピアノの調律はこのような倍音がさほど響かない平均律という調律なのでかすかにしか響きませんが、本来の倍音関係にある音ではもっとよく響くはずです。

このような音の響きをよく感じることができた歌い手がいて、興味半分に違う旋律をつけるようになったのかもしれません。そこから、オルガヌム(Organum)という形式ができました。オルガヌムは最初、上の旋律でグレゴリオ聖歌の元の旋律を歌い、下では最初同じ音から歌い始め、途中でこの五度や四度の音程を歌い、最後はまた同じ音で歌終わるという歌い方がされました。しかし、このオルガヌムも誰がいつどこで始めたのかはまったくわかりません。

同時にもう一つオルガヌムの成立に関係あると考えられるのはオルガン(Organ)の導入です。オルガンというと現代では、キリスト

ドイツ・ベネディクト会ボイロン修道院のパイプオルガン

教の(といってもほとんどの場合、西方=欧米の教会)教会音楽にとっては欠かせない楽器ですが、その成立は古く、すでに紀元前3世紀には現在のギリシャでオルガンが作られています。オルガンは当初、キリスト教会では異郷の楽器として使用が禁止されていましたが、最も早い記録では9世紀にヨハネ8世教皇がフライジング(現ドイツ)の司教にオルガン建造の名手を派遣するようにとの手紙を書き送っています。

そして、オルガヌムの成立とオルガンの教会への導入を見てみると、ほぼ、同じ時代であることがわかります。カタカナではわかりにくいですが、オルガヌム(Organum)とオルガン(Organ)ローマ字で比較するとどちらも全く同じ語幹であることがわかります。ですから、オルガヌムの成立とオルガンの導入が何かしらの関係があると考えることもできるのではないでしょうか。オルガンについてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、オルガンのパイプ音列も倍音関係になっています。このことを考えると最初、グレゴリオ聖歌と同じ音を弾いていたオルガンで、人数が多くなったから倍音列のパイプを鳴らしたところ、そこで響いていた倍音を歌う修道士が出てきたのかもしれません。悪い言い方ですが、たまたま伴奏のきちんとした音を歌えなかった「音痴」の修道士の歌がきっかけで、オルガヌムが成立したかもしれませんね。

このように、オルガヌムという複数の旋律を歌う、より複雑な歌い方が次第に普及したことで、単旋律、すなわちメロディーだけのグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなっていきました。他にも、要因はありますが、これが大きな要因の一つではないかと思います。

この後、オルガヌムは二声から三声へと声部が増えていき、歌い方も複雑になっていきます。それと同時にグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなり、楽譜だけでかろうじて生き残ることになります。その楽譜も、16世紀にはメディチ家というイタリアの富豪によって作られた楽譜において勝手に音を変えられることになり、演奏においても楽譜においてもグレゴリオ聖歌は大きな痛手を受けることになってしまいます。このようにして、見失われたグレゴリオ聖歌にもう一度光が当てられるのは、この後、およそ300年後のことです。

(典礼音楽研究家)


「プラハのモーツアルト——誘惑のマスカレード」

モーツアルトという作曲家はあまりに有名で、知らないという人はいないのではないかと思います。ところが、モーツアルトの書いたオペラ作品を映画化されたものは結構あるのですが、モーツアルトを主人公にした映画は存外に少ないのをご存じでしょうか。

今回、モーツアルト自身を主人公にした映画が日本で公開されるというので、すごく楽しみに試写会場に出向きました。

この映画、モーツアルトが「フィガロの結婚」を書き上げ、その後「ドンジョバンニ」を書き上げるまでの1年間を描いた作品です。

1787年、プラハでは、モーツアルトの新作『フィガロの結婚』の話題で持ちきりでした。上流階級の人々は、連日ノスティッツ劇場での上演に詰めかけ、歓喜し、その従僕やメイドまでその一説を口ずさむほどの熱狂振りでした。劇場のパトロン、名門のサロカ男爵(ジェームズ・ピュアフォイ)の邸宅で宴会が開かれ、その場でモーツアルトが話題に上ります。自然とモーツアルトを招待しようということになります。各自が寄付を行い、残りを男爵が持つということになります。

その頃、モーツアルト(アナイリン・バーナード)は失意のどん底にいます。息子ヨハンを病気で失い、妻はその傷を癒やすために温泉へ療養に出かけたため、ウイーンに一人残されていました。孤独に苦しむ彼にとって、プラハで活躍するオペラ歌手ヨゼファ・ドウシェク夫人(サマンサ・パークス)邸に逗留しないかという誘いは、何よりも嬉しいものでした。プラハに赴いたモーツアルトは、『フィガロの結婚』のリハーサルと、新作『ドンジョバンニ』の作曲に取りかかります。ところが、『フィガロの結婚』のケルビーの役の歌手が突然役を降り、ドイツに帰ってしまいます。サロカ男爵の推薦で代役に決まったのがスザンナ・ルプタック(モーフィーッド・クラーク)です。彼女の美貌と溢れるばかりの才能に魅了されるモーツアルトとスザンナ、スザンナをわが物にと狙うサロカ男爵、モーツアルトを亡き者にしたいザルツブルク大司教から派遣されたノフィの暗躍が物語を盛り上げます。

© TRIO IN PRAGUE 2016.

この2人の運命は、そして、『ドンジョバンニ』はどのような展開の物語になるのか人間関係が複雑に絡み合っていきます。

そしてこの物語の一つの魅力は、プラハの町並みです。百塔の都と称されるプラハの美しい街並みが存分に映画を盛り上げています。要所要所に配される『フィガロの結婚』の音楽も映画の魅力となっています。オペラファン、クラッシク好きな方はもちろん、オペラは……、クラッシックは……と思っている方もきっとこの映画を観ればその音楽に魅了されるのではないかと思います。ぜひ映画館で見て下さい。

中村恵里香(ライター)

 

監督・脚本:ジョン・スティーブンソン/脚本:ブライアン・アシュビー、ヘレン・クレア・クロマティ/制作:ヒュー・ペナルット・ジョーンズ、ハンナ・リーダー/美術:ルチャーナ・アリギ 衣装:パム・ダウン

出演:アナイリン・バーナード、モーフィッド・クラーク、ジェームズ・ピュアフォイ、サマンサ・バークス

2016年/UK・チェコ合作/103分/カラー/シネマスコープ/5.1ch/原題:Interlude in Prague/字幕翻訳:チオキ真理/

配給:熱帯美術館提供:熱帯美術館、ミッドシップ

公式ホームページ:Mozart-movie.jp