アート&バイブル 1:結び目をほどくマリア様

今月から「芸術を楽しむ」では、カトリック司祭稲川保明師による美術に関するシリーズ「アート&バイブル」を開始します。これは、主任司祭を務めるカトリック東京教区関町教会(東京都練馬区)にて2014年6月から開講しているキリスト教絵画の鑑賞会の内容を提供してくださるものです。わかりやすい解説、鑑賞のヒントにご期待ください。(編集部)

 

結び目をほどくマリア様

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

2013年3月13日、新教皇フランシスコが選出されました。新教皇が教皇に選ばれた翌朝、8時ごろ、宿舎である「マルタの家」から小さな花束を手に持って出かけました。それはサンタ・マリア・マジョーレ教会(ローマ)の聖堂の奥にあるイコンに描かれた聖母マリアに祈りを捧げるためでした。新教皇は教皇としての最初の日を教会と教皇自身へのご加護を求めて聖母マリアにお祈りすることで始められたのです。

この新教皇様の聖母マリアへの献身的な信心、崇敬心は母国アルゼンチンではよく知られていることでした。まだ若かりし頃、1986年、ホルヘ・マリオ・べルゴリオ神父はドイツのフランクフルト市にあるイエズス会が運営する聖ゲオルグ神学院に在籍していました。その神学院から列車で3時間ほどのところにあるアウグスブルグという町には、ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会があり、そこに「結び目をほどく聖母マリア」の絵があります。ベルゴリオ神父は、その絵に深い感銘を受け、複製を作る許可を得て、故国アルゼンチンに持ち帰り、絵はがきにして、親しい人々に贈っていたのです。

「結び目をほどく聖母マリア」ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会(アウグスブルク)に1700年に寄贈された絵画

後のことですが、この絵はがきに感銘を受けたブエノスアイレスの人々はサン・ホセ・デル・タラール教会に高さ180cm、幅110cmの絵として複製し、この聖母マリアへの信心が広まったとのことです(このエピソードはドン・ボスコ社発行の『カトリック生活』2014年8月号に紹介されています)。

この絵が描かれた背景にあった物語は次のようなものです。ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンテルという人が妻から離婚を望まれたことを悩み、レム神父のところに行き、相談しました。当時、ドイツの結婚式では、生涯添い遂げることを象徴的に表すために結婚の誓いを立てた新郎新婦の二人の手を白いウエディング・リボンで結ぶということをしていたそうです。ところが気がつくと何故か、この夫婦のウエディング・リボンが固く絡まり合っており、レム神父はマリア様のご像の前で、祈りながら、そっとその結び目をほどこうとしますが、なかなかうまくゆきません。それでも祈り続けていると・・・。

聖母マリアは結婚生活の困難だけでなく、人生のあらゆる苦しみや縺れてしまった人間関係を「最初の一歩」に戻そうと手伝って下さるのです。

 


『悪魔祓い、聖なる儀式』

伊藤淳(清瀬教会主任司祭)

 人間vs.悪魔/“エクソシスト”は現代に存在した!/ヴァチカン騒然!1200年も続く秘儀“悪魔祓い”外部に閉ざされてきた神秘の現場、世界初公開/本当に悪魔はいるのか?社会が抱える闇とは?さまよえる現代人必見、究極の「癒し」を体感/神父、我を救い給え/ヴァチカン騒然‼ 現代のエクソシストの実情に迫った衝撃のドキュメンタリー!

…チラシに並べられた宣伝文句の数々である。子供の頃、かの伝説的映画『エクソシスト』を観て夜中にトイレに行けなくなった経験を持つ者(私です)にとって、怖いもの見たさの感情を再燃させるに十分過ぎるこのキャッチーなコピーにのせられ、私はおそるおそる試写室の椅子に身を沈めた。

そして94分後、顔をそむけることも悲鳴を上げることもなく、無事に試写室をあとにすることができた。全然怖くなかった。むしろ面白かった。これなら、時々テレビでやってる日本の除霊の番組の方がよっぽど怖い。

この作品はドキュメンタリーであり、映し出される悪魔祓いの映像はすべて本物である。それなのに、あるいはそれゆえに、恐怖に震え

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

あがるような場面はひとつもない。首がぐるぐる回転したり、ブリッジの体勢で階段を降りたりするような悪魔の所業は、幸か不幸かまったく映っていないのである。この映画に出てくる悪魔憑きに限って言えば、それらは超常現象などではなく、常識の範囲内で説明可能なもののように私には思えた。

監督のフェデリカ・ディ・ジャコモは、本作で第73回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門最優秀作品賞を受賞しているが、審査員も監督自身も、この作品を怪奇現象をとらえたものとして評価しているわけではないだろう。この映画が描こうとしているのは、悪魔祓いのおどろおどろしさではなく、日常の営みの中で負わされてしまった精神的、霊的な悩みや苦しみや痛みを癒してもらうべく、特異なかたちで希求する人々の姿であり、その苦悩になんとか寄り添い力になろうとする、善良で純朴なエクソシストの姿なのだ。それゆえ、テレホン悪魔祓いとか、合同祓魔式とか、国際エクソシスト講習会とかいったアップトゥデイトな悪魔祓いの様子が、当事者たちの真剣さとは裏腹に、時にユーモアさえ醸し出す結果になっている。

それにしても、キャッチコピーにある「ヴァチカン騒然」というのはいったい何事か。何が原因でどのような騒ぎになったのか。そのあたりの説明は映画の中にはないので、一言ふれておく必要があるだろう。

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

この作品、確かにヴァチカンでは評価されなかった。それは、この映画に登場するエクソシスト神父の悪魔祓いが、公式な典礼規定から逸脱しているからであり、しかもそれを映画に撮らせ、公開してしまったからである。つまり、「大変だ!門外不出の悪魔祓いの秘儀が暴かれてしまった‼」と大騒ぎになったわけではなく、「これがカトリック伝統の悪魔祓いだと誤解されると困るなぁ…」と少しだけ心配されたのである。その程度の反応が、「ヴァチカン騒然」の真実なのである。コピーは煽り過ぎなのである。

もう一言、加えておきたい。

友人の精神科医にこの映画の内容を伝えて意見を求めたところ、映っていたような悪魔憑きは、精神医学ではトランス及び憑依障害とされ、適切な治療によって快癒する可能性が十分にあるものだと教えてくれた。そして、悪魔に憑かれた(とされる)人とエクソシスト神父との間に共依存関係が生じて症状が悪化してしまわないか心配だと、同じ神父である私を気遣ってちょっと遠慮がちに付言した。

ヴァチカンより精神医学界の方がよっぽど騒然としそうな問題作ではある。

監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
原題:LIBERAMI/2016年/イタリア・フランス/94分/日本語字幕:比嘉世津子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル

11月渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開


 


グレゴリオ聖歌 6

齋藤克弘

 なかなか話が進まなくてじれったい方もおられるかもしれませんが、もう少し、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃の状況を知っておいていただきたいと思います。

皆さんは、小学校から中学校、つまり、義務教育を受けているとき、学校で教科書を持っていない児童や生徒はいなかったと思います。大きくなった(というとおかしな言い方ですが)皆さんも、自分で本を買ったり、最近は少なくなったかもしれませんが、図書館で本を借りたりしたときにも、自分で本をもって読むのは当然ですね。しかし、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃、今から1100年くらい前は、今のように自分で本を持つということは考えられない時代でした。

この時代、まだ紙でできた書物はヨーロッパにはありませんでした。何か記録をするには羊皮紙といって羊の皮をなめした(きれいにした)ものを使わなければなりませんでした。羊の皮をなめして作ったものですから、大量に作ることもできませんし、それだけの費用も掛かりましたから、到底個人では手に入れることはできませんでした。また、現代のような印刷をする技術もありませんでした。世界史で習われたかもしれませんが、16世紀にドイツでグーテンベルクが活版印刷の機械を作るまでは、大量の印刷物を作ることもできませんでした。ですから、グレゴリオ聖歌が広まりだした時代、楽譜を作るには、羊皮紙を手に入れることができるだけの財力と、そこに、手で楽譜を書いてゆく(あるいは書き写す)ことのできる人材と時間が必要だったわけです。

実際、このようなことができたのは、当時、財力のある修道院だったわけです。修道院は良くも悪くも多くの人の巡礼や貴族たちからの

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

寄進によって富が集まってきました。修道士の人数も多かったので、グレゴリオ聖歌の楽譜をはじめ、ミサや典礼で使われる儀式書を専門に作る修道士がおり、その修道士たちが文字や絵を羊皮紙に書いていきました。その作業は時間と忍耐と根気と集中力がいる作業だったと思います。皆さんの中にも写経や聖書のことばをその通りに書き写す作業をされた方もおられるかもしれませんが、修道士たちが行っていた作業は、一日や数日でできるものではなく、何か月もかかって一冊の本を完成させ、それが完成すると次の本を作るというものだったでしょう。こうしてできたグレゴリオ聖歌の楽譜は今でいえば座布団くらいの大きさがあり、それを暗い聖堂の中で何人かの修道士が楽譜の周りに集まって、練習し、それを暗譜(暗記して楽譜は見ないで歌えるように)したと考えられています。

もう一つ、この時代の儀式のことばはほとんどがラテン語でした。ラテン語はもともとローマ人が話したことば。でも、フランクやゲルマン、あるいはイングランド、スコットランドの人たちがなぜ、自分たちのことばで儀式をしなかったのか疑問ですよね。なぜなら、この時代、ラテン語以外のことばは文字を持たず、字にして書くこと(文書化と言います)ができなかったのです。ちょっと信じられないかもしれませんよね。でも皆さん、ちょっと考えてみてください。皆さんの中で、アイヌ語で書かれた本を知っている方はおられますか。アイヌ語も文字を持たなかったので、文書化して書物を作り、出来事の記録をすることができなかったのです。ここで、一つ断っておきますが、言語が文書化できるかどうかと文化の優劣とは全く関係はありません。

キリスト教が広まった現代のヨーロッパ世界では、このように文書化して文字を記録することのできることばがありませんでした。それは、もう一つ、翻訳ができなかったということにもなります。しかしながら、教会の典礼祭儀(儀式)を文字を持たない言語の文字を作って、その言語の文書化できる状態にして、翻訳するまで待つことはできませんね。そんなことをしていたら、その間、ミサも祈りもできなくなってしまいます。ですから、当時のヨーロッパ世界ではラテン語で典礼を行っていく以外方法がなかったのです。

さらに、この時代には現代のように教育制度がありませんでしたから、ラテン語を勉強できるのは、これも財力や権力、あるいは時間に余裕のある人々に限られていました。すなわち、王侯貴族や修道院などの修道士たちだったのです。このように書くと、教育も読み書きもこのような人たちが独占して、一般の人々を排除したような印象を持つかもしれませんが、先にも書いたように、自分の生活のことばを文字で書き表すことができないということは、すべての人が読み書きをする状況になかったのです。

グレゴリオ聖歌の楽譜が発明されて、グレゴリオ聖歌の楽譜を見て、グレゴリオ聖歌を歌うことができたのは、修道院の修道士やその修道院から楽譜を買うことができた、大きな教会(司教座聖堂)の司祭たちだけだったのです。このような人々の間で歌われたグレゴリオ聖歌、しばらくはその黄金時代を享受しますが、その繁栄も長くは続きませんでした。

(典礼音楽研究家)


ことばの窓 4

 

詩人とは、見者である。多くの人々が通り過ぎてゆく風景にふと立ち止まり、風の囁きに耳を澄まし、詩(うた)を紡ぐ。それは本来、誰もがもつ視力であるが、大人になるにつれて、忘れられてゆく。詩人は日常に隠れた神と対話する。自分でも気づかぬうちに、手にしたペンは走り出す。詩人は時に、〈神〉という言葉を使わず、〈神〉を運ぶ。そして、詩集という本の中から語るだろう。誰もの中に、目には見えない宝が宿っていることを。

(服部 剛)

※今回の詩は、末森英機著『光の礫、音の楔』(港の人)に掲載されています。

 


グレゴリオ聖歌 5

齋藤克弘

カロリング朝フランク王国の政策の一つとして、ガリア典礼とガリア聖歌のローマ化がはかられたわけですが、実際には両方の典礼、聖歌の混合したようなものが広まっていったわけです。楽譜の話でもふれたように、グレゴリオ聖歌がガリアをはじめとするアルプス以北の修道院で広まるにつれて、その中のどこの修道院が起源かはわかりませんが、ネウマ譜が作られるようになります。このころから修道院の数も増えていき、修道院間の交流も活発になっていったことから、楽譜は各地の修道院へ普及していきます。楽譜が普及していくということは、単なる耳覚え(口伝)ではなくなるわけですから、共通の旋律や共通のニュアンスで歌えることになります。現代に続くグレゴリオ聖歌はこうして記録されるようになりました。歴史に「もしも(イフ)」ないのですが、もしも楽譜の発明が教皇グレゴリオ1世、もう少し後の時代、カロリング朝フランク王国の成立前であったら、古いローマ聖歌が現代まで歌い継がれていた可能性もあったかもしれません。

それにしても、どうして教皇グレゴリオ1世時代のローマではなく、カロリング朝フランク王国の時代のアルプス地方の修道院でネウマ譜が発明されたのか。一つだけ言えるのは、ジャレド・ダイアモンドが指摘するように、人口の多いところで発明の可能性が高まったということ以外には結論付けることができません。この場合の人口とはヨーロッパ全体の人口というよりも、修道院の人数(修道士の数)と言ったほうがよいでしょう。

この楽譜の発明に関しても、実は、どこの修道院でどういう修道士が楽譜を発明したかについては全く知ることができません。現代に生きるわたくしたちにはかなり理解が難しいのですが、まず、修道士というのは個人的な私物を所有しません。敷地や建物、祭儀に使う者から始まって、食器や果ては衣服に至るまですべてが修道院の資産です。いわば修道院が一つの人格体となってすべてを所有しています。言ってみれば人間の細胞が意識を持たずわたくしたち一人ひとりが意識を持っているのと同じような感覚ですね。修道士一人ひとりは物も所有せず、修道院あるいは院長の決定したことに必ず従います。ちょっとわたくしたちの生活からは考えられませんがそういうところで発明されたものは、個人の発明・発見であってもその人が今でいう著作権や特許権を主張することはなかったので、誰が発明したのかはわかっていないのです。

さて、このような楽譜の発明はグレゴリオ聖歌を広くヨーロッパ各地に広めるものとなりました。それまで口伝えで歌われていた古

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

ローマ聖歌やそのほかの地方の聖歌でも記録されるようになったものがあったかもしれませんが、グレゴリオ聖歌の場合は楽譜をもって修道士が修道院間を行き来したか、楽譜を知っている修道士が自分の記憶を頼りに他の修道院で楽譜を書いて記録として残したのかもしれません。いずれにしても記録されたものは記憶のみのものに比べて、共有できることが確実であり、共有できる範囲が広くなります。記録されていなかった聖歌は記録された聖歌グレゴリオ聖歌にとってかわられていったとしても致し方のないことだったと思われます。

ところで、いずれこのことについても詳しく触れる機会があると思いますが、この時代の楽譜は「羊皮紙」という羊の皮に書かれました。中国からイスラム世界を通してヨーロッパに紙が伝わるのは11世紀頃です。しかも、まだ貴重品ですから、そうやすやすと手に入れることができるものではありませんでした。それは羊皮紙も同じで、羊の皮で作られているのですから、羊を飼っているか羊の皮を手に入れることができる、財力のあるところでなければなりません。とても一般の個人が手に入れることができるものではありませんでした。

また、印刷技術もありませんでしたから、グレゴリオ聖歌の楽譜もすべて手書きで写さなければなりませんでした。そのためには、相当の時間はもちろんですが、きれいに確実に書くことができる技術も必要でした。修道院ではグレゴリオ聖歌の楽譜以外にも聖書の写本、さらに典礼で用いる様々な儀式書の写本が作られましたが、このような写本は写本専門の修道士が何日も何か月もかかって作っていったようです。

話が少しそれてしまいましたが、グレゴリオ聖歌の楽譜はこのように財力を持つ修道院で専門の修道士によって作られました。それでは、この時代どのような人たちがグレゴリオ聖歌を歌っていたのでしょうか。おそらく、お読みの皆さんには想像がつくとは思いますが、次回はこの点からグレゴリオ聖歌を探っていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


ことばの窓 3

 

(写真提供:中沢恵理)

 

私達は日頃、自分の足で立っていると思っているが、実は、自分の力のみで立っているのではない。心臓の鼓動が鳴っているのも、自分の意思のみではない。人はそれぞれに何処かが欠けた器でありながら、自分が〈大いなる命〉につながって生きることを知る時、被造物であるという存在の歓びを知る。そして、目には見えない〈大いなる命〉と共に生きる感覚を養うなら、日々の素朴な風景も〈何か〉を囁きかけるだろう。

(服部 剛/詩人)

 


ジュリーと恋と靴工場

フランスといえば、サンジェルマン通りやエッフェル塔など、パリをすぐに思い浮かべる人も多いでしょう。かくいう私もその1人です。

今回ご紹介する映画はフランスの片田舎ロマンという土地で職もなく、金もなく、彼氏もいない25歳の女性が主人公の物語「ジュリーと恋と靴工場」です。

不況の中で、これといって特技もなく、恋人に振られ、銀行口座も心も空っぽで、唯一の望みが正社員になることというジュリー(ポーリーヌ・エチエンヌ)は靴屋の売り子をしていますが、試用期間中に契約を打ち切られてしまいます。求人雑誌片手に手当たり次第、面接にいっても正式採用されることはありませんでした。

そんなどん底の状態でようやく試験採用されたのは高級靴メーカーの工場の倉庫管理でした。近代化の波が押し寄せる工場は閉鎖が噂されていました。その波にあらがおうと必死に闘う靴職人たちにまきこまれ、危うくクビになりそうになりながら、ほのかな恋の予感を感じつつ、懸命に生きるジュリーの姿に心打たれるものがあります。

近代化をしようとするオーナーとそれによるリストラを懸念する女性たち攻防には、経営者としての方針に対抗する職人の意地とプライドをかけたたくましい女性たちが描かれています。

この映画の見どころは、ミュージカル調で描かれていることです。かなり前、ある有名人が「ミュージカルは何でこんなところで踊るの? セリフでなく、何で歌なのと感じて好きでない」といって話題になったことがありますが、コメディ仕立てにしたこの映画では、ダンスがすごく光っています。工場の中でストライキを催す女性たちの姿を描くとどうしても重くなりがちですが、ミュージカルにするからこそ、重くならずそれでいて少々滑稽とも思える場面構成ができるのだと、感心しました。それになんといっても、どこにでもいそうな女の子ポーリーヌ・エチエンヌがすごくコケティッシュです。

ジュリーは正式採用されるのか、ちょっと気になる男性との恋の行方は、リストラは本当にあるのか、工場の行方は。気になることが満載のこの映画をぜひ、映画館でご覧ください。

中村恵里香(ライター)

© 2016 LOIN DERRIÈRE L’OURAL – FRANCE 3 CINÉMA – RHÔNE-ALPES CINÉMA

脚本・監督:ポール・カロリ、コスティア・テスチュ

出演:ポーリーヌ・エチエンヌ、オリヴィエ・シャントロー、フランソワ・モレル 他

提供:ギャガ、ロングライド

配給:ロングライド

サウンド・トラック:ランブリング・レコーズ

9/23(土)より、新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座ほか全国公開

 

公式HP:julie-kutsu.com

 


50年後のボクたちは

映画の日本語タイトルに疑問をもったことがありませんか?

今回ご紹介しようと思った映画ははっきり言って、なぜこのタイトルなの? という疑問がいっぱいの映画です。といっても、内容はすごくすてきな友情物語だからご紹介したいと思った次第ですが……。

原題は“Tschick”。なぜこのタイトルが日本のタイトル「50年後のボクたちは」に変わったかは作品を観ていただければ一目瞭然です。この作品には原作があります。ドイツで220万部を超える大ベストセラーになった児童小説“Tschick”です。日本では『14歳、ぼくらの疾走』(小峰書店)となっています。

14歳というと、大人になりっきていないけれども、子供でもない微妙な年頃で、人生に悩みを持ったりする頃です。そんな14歳のマイク(トリスタン・ゲーベル)は、臆病者で、クラスのはみ出しものです。授業でアル中の母親のことを作文にして発表するや同級生からは「変人」扱いされます。

でも、14歳にありがちな、片思いをクラスメイトのタチアナにしています。3週間後にあるタチアナの誕生日に何か特別なプレゼントをと考え、創意工夫を始めます。

そんなある日、転校生がやって来ます。担任に「自己紹介を」といわれれば、「面倒くせぇ」といい、目つきも悪く、変な髪型で、二日酔いというとんでもない奴です。彼の名はチック(アナンド・バトビレグ・チョローンバータル)。ロシアのかなり遠いところから移住してきたようです。マイクの隣の席に座ることになりますが、目を合わせようとはしませんでした。

終業式の日、タチアナの誕生日は明日になっていますが、マイクとチックにはパーティの招待状が届きません。夜、酔い潰れた母を迎えに行くと断酒の専門病院に行くと言い出します。

こうして夏休みが始まります。母は病院へ出発し、父は20ユーロを置いて愛人と2週間の出張旅行に出かけていきます。

突然チックが青いおんぼろのディーゼル車に乗ってやって来ます。嫌がるマイクをよそに2人は招待されなかったタチアナの誕生日パーティに渡せなかったプレゼントを届けに行きます。チックに背中を押されてマイクはプレゼント渡します。中身を見て驚くタチアナをよそにすがすがしい顔で会場を後にします。

ここから2人の旅が始まります。無免許で、チックの祖父が住むというどこにあるかわからない“ワラキア”へ向かう2人。そこにはさまざまなすてきな出会いがあります。無謀とも思える旅ですが、そこには深い友情が芽生えてきます。

旅の詳細はぜひ映画館で見て下さい。そこには深い友情の芽生えとすてきな出会いが待っています。2人の少年の出会いと友情物語に自分も14歳であった時代を思い起こすことでしょう。

中村恵里香(ライター)

 

スタッフ

監督:ファティ・アキン/脚本:ファティ・アキン、ラース・フーブリン/原作:ヴォルフガング・ヘンドルフ他

キャスト:トリスタン・ゲーヘル、アナンド・バトビレグ・チョローンバータル、メルセデス・ミューラー他

2016年・ドイツ・原題:Tschichk/93分/配給:ビターズ・エンド

公式ホームページ:http://bitters.co.jp/50nengo

9月16日よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー

 


グレゴリオ聖歌 4

齋藤克弘

 前二回は音楽の話、聖歌の話というよりも、政治の話、ヨーロッパ史の勉強のようになってしまいましたが、簡単にでも知っておいていただかないとグレゴリオ聖歌誕生の歴史に触れることができないからです。現代の日本や欧米諸国と違って、近代までのヨーロッパでも政治と宗教はある時には密接に強調しあい、またある時には敵対しあうという状況で歴史が進んできました。そもそも、政治を専門にする人々も宗教関連の人たちも、農耕牧畜により余剰生産が蓄積されるようになって初めて現れた階級です。

それはさておき、本題に戻りましょう。

西ローマ帝国滅亡後、政治的な連絡網が弱体化し、中央集権的な支配が弱くなると、それに依存してきた教会も各地で典礼や聖歌が少しずつ独自の歩みを始めるようになりました。特に東方教会からアイルランドへ伝えられた修道院は、この地で独自の発展を遂げ、アイルランドの修道院は教会の中核をなし、神学や芸術が発展しました。このアイルランドから、アルプス以北のヨーロッパに修道院制度がもたらされます。おそらく、それに伴って聖歌も伝えられたでしょう。

ところで、楽譜の発展のところでも書きましたが、この時代はまだ楽譜が発明されておらず、歌詞はともかくも、旋律は修道者が暗記して口伝えで伝えるしかありませんでした。ですから、同じ歌詞の聖歌でも、それぞれの地域の人々の音感によって、歌い方が変わっていったことは十分に考えられることです。わたくしの祖母もいくつかの歌を口ずさんでいましたが、現代でいう長調の曲をなぜか短調で(正確には短調ではなく旋法音楽だったかもしれませんが)器用に歌っていたことを今でも覚えています。本人はそうするつもりではなかったのでしょうが、身についていた曲調で歌うとそうなったのだと思います。

話を戻しますが、ローマからアイルランドへ伝えられ、さらにアルプス以北のガリア(フランク)に伝えられた典礼や聖歌は、伝えられるにしたがって、歌詞が変わったり、旋律もそれぞれの地域の人々の歌いやすいものに変えられていったことは容易に想像できると思います。このようにして、典礼や聖歌は各地域、いわゆる民族や都市ごとに独特のものが発展していったのです。

ところが、この様相を一変させたのが、前回の話で登場したフランク王国の王、特にカール1世でした。カール1世の父のピピン3世も

そうでしたが、彼らはローマとの結びつきを強めると、ガリアの典礼や聖歌もローマ式に改めるようにガリアの司教や修道院に命じます。政治的な影響力では自らが上に立てても、宗教的な権威ではローマ教皇を無視することができず、むしろ、その権威に従うことによってガリアの教会もローマの正統な信仰と典礼を受け継いだ教会とすることを望んだのでしょうか。

そのために、ローマにあったスコラ・カントールムに聖職者を派遣したり、あるいは逆にスコラ・カントールムの聖職者を招聘して、ガリアの典礼と聖歌をローマ式に改めていきます。こうして、ガリア典礼はローマ典礼に統一され、ガリア聖歌もローマ聖歌(学問的には古ローマ聖歌)にとってかわられます。しかしながら、悲しいことに、まだ記譜法(楽譜)が作られる以前だったので、歌い方がローマとガリアでは次第に異なるようになっていきました(歌詞は書き留められていたので変わることはなかったようです)。カール1世がローマ典礼とローマ聖歌をガリアに強制したのが9世紀初頭でしたが、その1世紀あとの10世紀ころにローマからガリアを訪問した聖職者は、同じ聖歌があまりにも異なった曲想で歌われているのを嘆いた書簡が存在します。

そのガリア聖歌も政治的な影響力とともにローマにも逆輸入され、ローマの典礼にもガリアで行われていた華やかな装飾が取り入れられるようになり、聖歌もガリアで歌われていたローマ聖歌の変型判が伝えられ、ローマの聖歌(古ローマ聖歌)にも影響を与えていきます。実はこのようにして、古ローマ聖歌と古ローマ聖歌の変型判のガリア聖歌が融合されて変化したものが実は、現在わたくしたちが知っているグレゴリオ聖歌なのです。ですから、グレゴリオ聖歌はカロリング朝フランク王国の誕生とともに産声を上げたといってもいいもので、カロリング朝フランク王国の成立が現代まで続くヨーロッパの成立であるように、グレゴリオ聖歌もその意味では現代ヨーロッパ音楽の源流という言い方ができるのです。

次回は、グレゴリオ聖歌の発展と衰退の始まりについて見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


スキップ・トレース

ジャッキー・チェンといえば、香港映画を代表するスターですし、世界を股にかけるカンフー映画のスターというイメージの方が多いのではないでしょうか。私は、これまであまりジャッキー・チェンに興味もなく、かなりの数の映画に出演している彼の映画をあまり観ていませんでした。今回なぜか試写状を手にし、いってみようかなという気になりました。

香港のベテラン刑事ベニー・チャン(ジャッキー・チェン)は、相棒ユンを殺した疑いで9年間も香港の犯罪王ヴィクター・ウォンを追っています。その捜査の際、ヴィクター・ウォンにつながる人物たちを追跡中、付近の住宅に甚大な被害を与え停職処分になってしまいます。

一方、ベニーがユンから託され育ててきた娘サマンサ(ファン・ビンビン)は、マカオのカジノで働いていますが、そこでヴィクターの犯罪に巻き込まれてしまいます。サマンサを救うべく、ベニーは事件の鍵を握るアメリカ人詐欺師コナー・ワッツ(ジョニー・ノックスヴィル)を追って一路 ロシアへ向かいます。そこでロシアン・マフィアに拘束されていたコナーを無事救出し、連れ戻そうとしますが、なぜか2人とも追われる身になってしまいます。

©2015 TALENT INTERNATIONAL FILM CO., LTD. & DASYM ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED

まじめなベテラン刑事とあちらこちらのマフィアから狙われている札付き詐欺師が一緒になってロシアから世界各国へと逃走劇が続きます。はたして香港へ帰り着けるのか。そして、サマンサは助かるのか、犯罪王ヴィクター・ウォンとはどんな人物なのかは観てのお楽しみです。

アクションあり、笑いあり、ハラハラドキドキありといったまさにジャッキー・チェンの映画らしい映画です。でも、ここでご紹介しようと思ったのは、そんな娯楽映画の部分ではありません。まじめなベテラン刑事のベニー・チャンと、行き当たりばったりで札付きの詐欺師コナー・ワッツは、一見水と油のようですが、家族と縁の薄い孤独という共通点があります。1人でいることを愛しているように装っている2人にも、切望する愛と家族への憧れがありました。この映画の裏に潜む孤独と愛への切望を、そして驚くようなエンディングを楽しみに観ていただければと思います。

原題・英題 :skiptrace

©2015 TALENT INTERNATIONAL FILM CO., LTD. & DASYM ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED

監督:レニー・ハーリン
出演:ジャッキー・チェン、ジョニー・ノックスヴィル、ファン・ビンビン
提供:カルチュア・パブリッシャーズ KADOKAWA
配給:KADOKAWA  2016年/アメリカ・中国・香港合作/107分

公開日 :2017年9月1日より現在公開中

公式サイト :skiptrace-movie.jp