一本足打法から生まれた快挙——王貞治

鵜飼清(評論家)

メジャーで活躍する大谷翔平選手に注目が集まっています。二刀流をメジャーで実現する大谷選手は、きっとベーブルースの記録を超えてくれることでしょう。

私が野球で記録ということを意識するときに浮かんでくるのは、王貞治選手のことです。私たちの世代では、巨人軍のV9を達成した立役者として、ON(王と長嶋)は忘れられない存在です。

『スポーツニッポン』号外(1980年11月4日)

王さんは、早稲田実業高校のピッチャーとして甲子園のマウンドを踏みました。そして、1954年に巨人軍に入団しました。そのとき投手から一塁手になったのです。

それまで巨人軍の一塁手は川上哲治さんが守っていて、ここに名実ともにホームランバッターのバトンタッチが行われたわけです。しかし、王さんのバッティングは最初3年間振るいませんでした。そこで荒川博コーチとの特訓がはじまります。

「やる気があるなら、3年間は俺のいうことを黙って聞けッ」と言われ頷く王さん。

「お前のヒッチ(もう一度余計にキャッチャーの方へ身体をひねってしまう)の癖は直りそうもない。とすればだ。最初から打っていく構え、もうこれ以上はヒッチのできない構えで打つ方法もあるのだ」「こういうホームではどうだ」荒川コーチは片足で立って素振りをしました。この奇想天外の打法が「一本足打法」のはじまりでした。

そして王さんは「もう、これ以上底がないというところまでいっていたから、一本足打法なんて、誰もやったことのないものに踏み切れたのだと思います。これが、2割7、8分の打率で、ホームランを20本ぐらい打っていたら、大打者とまではいかなくても、まあ、プロ選手として通ります。そこそこプロ生活ができていれば、そういう冒険はできなかったでしょうね。一本足で、初めてやった日(1962年7月1日対大洋戦)に、3本ヒットが打てたんです。うち一本は、ホームランでした。この日、4-0をくっていれば、一本足打法はなかったかもしれない」と語ります。

どん底からの起死回生には、こんなエピソードが残っているのです。

『劇的人間』(安部敏行編著 マルジュ社 1981年刊)より

私が王さんのファンだったから、このようなエピソードが印象にあるのはまちがいないのですが、それにはもう1つの理由があります。私が編集した『劇的人間』(安部敏行編著 マルジュ社 1981年刊)で安部さんが王さんに聞き書きした文章が載せられているからです。そのなかから、王さんの回想として、1つ紹介しましょう。

「いつも若々しくて、なにかXめいたものを秘めていると人に感じさせ、自分ではそうあるべく努力するのが、プロにとっては大事な条件であるとともに、コンスタントに高成績を上げることができるポイントじゃないかって、ぼくは考えています。それで、74年型とか、75年型という、その年の打法をやることにしているわけです。年とともに、顔も考え方も違ってくるでしょ。それと同じようにバッティングも変える。65年のときの成績が最高だったからといって、そのときのバッティングを、いまやるのは無理があります。それから10年という経験を積んできているし、肉体的にも違ってきています。現在は、現在の最高のバッティングをやる、という方がいいんです」

王貞治選手は1980年に現役引退をしました。首位打者5回、本塁打王15回(連続13回を含む)、打点王13回、三冠王2回(2年連続)、終身打率3割1厘、通算本塁打868本などの大記録を残してユニホームを脱いだのです。

 


マザー・テレサにあずかるご復活とは

末森英機(ミュージシャン)

その昔、カルカッタ。今はコルカタ。中心街にほど近い、ボウズロードという、比較的、イスラム教の人々が多い、そのメインストリート沿いに、マザー・テレサの本部がある。その一階に、マザーの棺が納められる部屋。質素(じみ)で、まったく飾り気のない安置所が設けられている。履き物をぬいで、はだしになり、その敷居をまたぐと、毎回、込み上げてくるのは、いったい、なんだろう。悲しみではない。苦しみではない。喜びとも違う。つつましいものに、ならざるをえない、という涙に似たもの。あるいは、魂のゆくえが、知らせてくれる言葉にならない、祈りのようなもの。それとも、迷いの眠りから、はっと目覚める、ひとが神の御計らいと呼ぶようなもの。いただける復活。たしか神は、善悪を復活の日に与えると、約束されていたけれど。

毎朝、夜明け前の祈りの時間を過ごす。たくさんの、さまざまな国から見えた、ボランティアに参加する老若男女。祈りの場の1階にある、マザーのお墓に、一歩足を踏み入れるたび、胸に込み上げてくる。のどをつまらせる。もうとっくにマザーは亡くなられているのに、こんなにもたくさんの人々が、あとを絶たない。神の心にかなう心と、かなわぬ心というものが、あるだろうか? 神のことで、苦しみを覚えた瞬間、たったひとつの小さな埃でさえ、神の蒔く砂糖の粒をえられるものなのか? マザーはその答えとなった。いただける復活を生きる、生きなさいとほほえんでいらっしゃる。

なにが、人を幸せにしたいと思っているのか? それを知ることができるのか、復活を生きれば、生まれ変わるというのが、この岐路にあるということに気づかされるのだ。当時、マザーがカーリーテンプルを巡るスラムに漂いでたときに、飢え渇く者たちを、満たそうとすることは、正気の沙汰ではなかった。復活というステージを与えられたとき、彼女は思った。本当に憎まなければならないものが、何かを知ることで、罪人(つみびと)を罰しないというキリストの声を自分のものにできると。それが、復活を呼び寄せると。神はみずからを贈ると。だから、わたしたちは、光でできていると。

花びらで「JESUS I TRUST IN YOU」と書かれたマザー・テレサの墓。毎朝シスターによって書かれ、その日ごとに言葉が変わる(写真提供:町田雅昭)

わたしたちは、少しの混乱と、無とその闇を破ることのできない、あいまいなまなざしをいつも捨てることができないでいる。いただく復活。否、それが共通の人間性を持たせているということもできる。だから、宗教が生まれ、祈りをもらい、疑わしい選びに振り回され、衝突と沈黙を常とする。人に刻印される裏(面)と表(面)、それすらも申し分のない奇跡ではないか。いかしいただける復活。信じられるものすべては、存在する。数え挙げることもできないほどの。あずかる復活。

与え、そして激しく奪う、人は肉体を脱ぎ捨て、灰に変わる。肉体は死そのもの。神のみ言葉はいつも、時と場所にふさわしく、神に奪ってきてもらうもの。力ずくで奪ってきてもらうもの。マザーはそのとき、深くこうべを垂れる。とげを抜くために、使ったとげを捨てるような神のため。それは、マザーのほほえみのように、神がまるで、風のなかを行き来するように。主のみ名がとなえられる。それはいただける復活。心がやさしく、やわらぐことができないのなら、その人の心は石。

かつて生まれてきた、また、今生まれつつあり、やがて生まれてくる、普通の人にとっては、神のなされようは、とても解釈のおよばぬものとなり。けれど、このマザー・テレサの前で、こみあげてきて、喉をつまらせるもの。復活にあずかる。人の望むすべてが、得られる場所。

 


特集19 復活のリアル

復活節も終わりに近づく今、復活というテーマに向けての思いを寄せていきます。普通の生活感覚、言語感覚で、教会でいわれる言葉を考えるとどうなるのか、そんなアプローチが必要となる最大のテーマの一つが「復活」ではないでしょうか。キリスト教の真理の中心を示す言葉、しかし、そこから人生のリアリティーに迫るには一つも二つも発想の展開と視野の拡大が必要となるのかもしれません。

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「起こされて生きる」こととしての復活

母と暮せば

マザー・テレサにあずかるご復活とは(2018年5月15日追加)

一本足打法から生まれた快挙——王貞治(2018年5月25日追加)

 


「起こされて生きる」こととしての復活

「立ち上がる/起き上がる」という動詞

「復活」は、キリスト教の重要な信仰内容を表す代表的な言葉とされています。「キリストの死と復活」、あるいは信条(使徒信条)中で宣言する「からだの復活を信じます」というところなど。典礼で聞く言葉としても、聖書の訳語としても「復活」は用語として定着しています。かつて「よみがえり」ということばが使われていたのに対して、「復活」に統一されたという経緯もあったようです。

とはいえ、こうキリスト教のある意味で“定番用語”になりきってしまうと、逆にキリスト教の教えの奥座敷に鎮座しているようでもあり、それが、わたしたち一人ひとりの生き死に痛烈にかかわっているという実感が湧いてこない一面もあるのではないでしょうか。

「復活」という日本語(訳語)で意味されることのリアリティーはどうしたら見いだせるのでしょうか。ちょっと調べてみると、なかなか刺激的です。新約聖書で「復活する」を表す動詞は二つあり(アニステーミとエゲイロー)、どちらも「立ち上がる」「起き上がる」あるいは「立ち上がらせる」「起き上がらせる」「起こす」という意味のものです。エゲイローには「目を覚ます」という意味もあるとすれば、日本語の「起こす」「起きる」がそれだけで対応します。復活とは「起こされること」。基本の語義がそこにあるとすると、いろいろな事象への連想が広がっていきます。

参考にラテン語で復活を表すレスレクティオ (resurrectio) はレスルゴーという動詞に対応するものです。スルゴー(立ち上がる・起き上がる)に「レ」がついて「再び立ち上がる・起き上がる」の意味になっています。「再興する・復興する」という大きな事柄も指す語です(フランス語や英語もこのラテン語をそのまま導入して、キリスト教の「復活」を指す言葉として定着しています)。

もう一つドイツ語を見てみるとキリスト教の「復活」を表す単語は「アオフエアシュテーウング」(Auferstehung)。これもキリスト教用語「復活」の定番用語ですが、動詞アウフエアシュテーエンは (auferstehen) はやはり「立ち上がる/起き上がる」で、病気から「立ち直る」、廃墟から「復興する」などの意味でも使われるのです。こうしてみると、だいたい同じような現象に触れる単語であることがわかります。

 

「再」と「リ」の時代への福音

なぜ新約聖書で、復活が「立ち上がる/起き上がる」という語で表現されるかについては、聖書の背景にある死生観を見る必要があり、そこでは、死ぬということが、しばしの間、横たわること、眠ることと考えられています。それでこそ、その状態から「起こされ、立ち上がる」ことがまさしく命への回帰・復帰、復活だということになるのです。

さて、復興という意味が復活を表す単語に含まれていることを見るとき、わたしたちには、すぐさま震災からの復興、戦災からの復興という歴史と、今も直面している震災と原発事故からの復興という社会全体の命題が目の前に迫ってきます。全体的な復興の中にある、災禍を被った一人ひとりの人生における絶望や再起をかけてのそれぞれの歴史に思いを向けさせられずにはいられません。また、いうまでもなく、イエスの時代も今の時代も、病や負傷、ハンディある状態からの再起やリハビリということも、社会をかたちづくる本質的な側面であることが意識化されるようになっています。

社会のメジャーな体制、正規の階段から落ちこぼれたり、はなから疎外されたりするマイナーの存在、非正規の存在が互いに反射し合いながら、社会の実相を創り出している時代。いつの世もそうだったのかもしれませんが、イエスのまなざしは、やはり、そのようなマイナーな存在にこそ向かっていました。そしてその十字架からの復活への展開は、一人ひとりの中にある不安や絶望からの再起、立ち直りの不断の原動力として、今も人々に働きかけている、と考えるとき、ようやくキリストの死と復活が現実味を帯びてきます。

最近では「レジリエンス」 (resilience またはレジリアンス)という言葉が頻繁に聞かれます。回復力・耐久力を意味する物理の世界でも使われる言葉が、心理学の次元で、心のもろさ、折れやすさに対する回復力、要するに立ち直る力という意味になり、その力をどのように培うことができるかというテーマに展開しています。このようなアプローチにも、キリストの復活の意味と力を新たに見いだすヒントがあるのかもしれません。

どのような人の人生にもある「再起の物語」に目を向けていくこと、それがひいてはキリストの復活の反照として見えくるとき、この信仰と世の中のひとりの人生がはじめて絡み合っていくようになるのでしょう。さまざまな再起の物語を照らし出し、語り継いでいくことのうちに、復活と呼ばれる神秘の真のあかしを見いだせるのではないでしょうか。「AMOR-陽だまりの丘」にそのようなあかしをこれから集めていけたらと思います。

(石井祥裕/AMOR編集長)

 


母と暮せば

復活というテーマで思い出す映画はたくさんありますが、キリストの生涯を描いたものを外して死者が復活するということで映画を探すとこれまたたくさんあります。その中で、今回は、小説家で劇作家の井上ひさしが、広島を舞台にした戯曲「父と暮せば」と対になる作品として長崎を舞台にしたものを書こうと思いながらかなわなかった物語を山田洋次監督が映画化した作品「母を暮らせば」をご紹介します。

第二次世界大戦中の1945年8月9日、長崎医科大学に通う医大生の福原浩二(二宮和也)は普段通り、自宅を出て大学の講 義を受けている途中で長崎に投下された原爆によって命を落としてしまいます。3年後、助産師として働く福原伸子(吉永小百合)は一瞬にして消えてしまった 浩二が亡くなった事実を受け入れることができませんでした。浩二の恋人・町子(黒木華)や上海のおじさん(加藤健一)、近所の人たちに支えられ、浩二の死を受け入れ始めたある日、死んだはずの浩二が亡霊としてひょっこり現れます。

伸子の前に現れた浩二は生前と変わらぬ様子でいろいろな思い出話を懐かしそうに話しては伸子の支えとなります。浩二は 幼馴染で恋人だった町子のことが気にかかりますが、町子がやってくるときに浩二は姿を現すことがありません。

死者となった浩二と母・信子はその後どうなるのか、町子は……。これは観てのお楽しみです。この映画、親しき人の突然の死をどう受け入れるのか、その後の人生をどう進めるのかを定義している作品ですが、とても予定調和の感が強く、突っ込みどころが満載です。たとえば、長崎=カトリックの図式で、家庭祭壇があり、教会に行って祈るシーンもあるのですが、なぜかカトリック信徒のように見えません。ただ、長崎だからカトリックという感じしか与えないのです。また、母・信子が教会でミサ中に倒れてしまうのですが、私たち信徒がミサ中にだれかが具合が悪くなって倒れてしまったら周りの人が誰か助けるか救急車を呼びますが、近所の親しい人しか気がつかないのです。そんなことがあるでしょうか。

そして、映画全体のストーリーも井上ひさしさんならこう描くだろうと推測して作品作りをしたという山田洋次氏の言葉がありますが、井上ひさし氏がこんな作品を書くだろうかと疑問をもたらざるを得ないのです。これはあくまでも私的感想です。すでにDVDになっていますので、ご覧になって皆さんの感想をお聞かせいただければと思います。

(中村恵里香/ライター)

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=hvrs_103jRw

監督・脚本:山田洋次/脚本:平松恵美子/音楽:坂本龍一
製作年:2015年/製作・配給:松竹
出演:吉永小百合、二宮和也、黒木華、浅野忠信、加藤健一、広岡由里子ほか