釜ヶ崎、こどもの里、そして映画『さとにきたらええやん』

伊藤淳(カトリック清瀬教会主任司祭)

『さとにきたらええやん』は愛おしい映画です。

舞台は大阪市西成区の釜ヶ崎。職を求める日雇い労働者と求人を代行する手配師が、ともに多数集まる「寄せ場」として発展してきた街です。

釜ヶ崎の様子

ドヤ街も形成されています。「ドヤ」とは簡易宿所「やど」の倒語です。日雇いといっても、数日から数ヶ月単位で雇われ、飯場で寝泊まりしながら働く場合も多いので、自宅を持たず、釜ヶ崎に戻った時だけドヤに宿泊するほうが経済的だったりするのです。

好景気だと求人も多く、雇われるチャンスが増えますが、景気が悪くなると選別が厳しくなります。屈強な若者から先に雇われるので、怪我人や年配者は仕事にあぶれ、やがて所持金が無くなるとドヤに泊まることができなくなりますが、仕事を得るためには釜ヶ崎に留まるしかなく、結果として野宿を強いられることになります。釜ヶ崎がホームレスの街でもある所以です。

野宿者のために、カトリックをはじめ数多くの支援団体が炊出しや夜回りなどの活動を展開し、行政もそれなりの対策を求められているので、他所と比べればまだマシと言えるのかもしれませんが、そのような環境を頼って、様々な困難を抱えた人々が、さらにまた釜ヶ崎に集まってくる結果にもなっています。

最近では、日雇い労働者や野宿者も高齢化が進み、それに対応して釜ヶ崎も生活保護の街に変貌しつつあります。ドヤの多くは、福祉アパートや外国人観光客用安ホテルに改装されています。

そんな街、釜ヶ崎に「こどもの里」はあります。

釜ヶ崎のこどもたちに健全で自由な遊び場を提供したいとの思いから、前身の「子どもの広場」がスタートしたのは1977年のことでした。集まってきたこどもたちの背後にあるのは、生活の不安定さであり、親が抱える社会的な問題の大きさでした。

基本的な生活習慣を身につけさせ、こどもの生活権を保障し、住まいを確保するなど、こどもが生きていくことへの手助けから始められた活動は、やがて、借金や家庭内暴力から逃げてきた、行き場のないこどもや親の緊急避難場所となっていきます。

1980年、現在の場所に「こどもの里」が開かれ、こどもが安心して遊べる場の提供と生活相談を中心に、常にこどもの立場に立ち、こどもの権利を守り、こどものニーズに応じることをモットーに、活動が続けられてきました。

その後、事業の移行や拡大、事業主体の変更などを経た「こどもの里」ですが、こどもたちが抱えるしんどさ、生きづらさは軽減していない、放課後のこどもたちの行き場だけでなく、生活の場としてのニーズはむしろ高まっているとして、0歳から18歳までのすべてのこどもたちが利用できる遊び場、居場所を守っていく活動を、24時間フル回転で続けているのが現状です。

映画『さとにきたらええやん』は、そんな釜ヶ崎の、そんな「こどもの里」に身を置く三人のこどもを中心に、こどもたちと館長の荘保共子さんをはじめとするスタッフや街の人々とのかかわりを、丁寧にすくい取ったドキュメンタリー作品です。重江良樹監督はボランティアとして「こどもの里」に通い、7年もかけてこの映画を完成させているので、登場人物は誰もが飾り気のない自然な姿をカメラの前に晒していますが、それゆえに、「こどもの里」を必要とするこどもたちの生きづらさ、その親たちのしんどさが赤裸々に表出されていて、観る者に重い問いを突きつけてきます。

しかし、この映画にはまた、彼らのしんどさ、生きづらさにとことん寄り添い、包み込み、なんとか助けになろうとするスタッフやこどもたち同士の愛が滲み出ています。そして、そのような愛に包まれ、支えられ、励まされて、厳しい現実をなんとか乗り越えようと前を向くこどもたちの生きざまとそのエネルギーに、私たちも希望を見出し、そのおすそ分けに与ることになるのです。

社会の現実を突きつけられ、立ち止まって考えさせられると同時に、ほっこりと優しい気持ちにされ、再び前進する力を与えられる映画、それが『さとにきたらええやん』です。

必見!

 

【映画スタッフ】

監督・撮影:重江良樹
音楽:SHINGO★西成
プロデューサー・構成:大澤一生
編集:辻井潔
音響構成:渡辺丈彦
制作協力:神吉良輔(ふとっちょの木)、五十嵐美穂、上田昌宏、吉川諒
機材協力:ビジュアルアーツ専門学校大阪
特別協力:小谷忠典
助成:文化庁文化芸術振興費補助金
企画:ガーラフィルム
宣伝・配給協力:ウッキー・プロダクション
製作・配給:ノンデライコ
2015|日本|100分|カラー|16:9|5.1ch|DCP

公式サイト:http://www.sato-eeyan.com/

 


特集16 「家族」「家庭」への新たなまなざし

2018年の歩みが始まっての最初のテーマを「家族」「家庭」としました。そのきっかけとなったのは、2017年11月に東京で開催された「第5回シグニス東アジア会議」です。SIGNISというカトリック教会のメディア活動に関する組織は世界各国や大陸別にあり、今回の東アジア会議は「家族と希望の物語」をテーマに掲げ、日本をはじめ韓国、台湾、マカオ、香港の教会およびメディア関係者で各国の家族・家庭の状況が報告され、活発な討論が行われました。その内容の一部を紹介するとともに、「家族」や「家庭」に関するいくつかのトピックを扱ってみたいと思います。

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家族と希望の物語

日本における「家族と希望の物語」

聖家族崇敬が生まれた状況

イエスと家族

釜ヶ崎、こどもの里、そして映画『さとにきたらええやん』(2018年2月2日追加)

 


家族と希望の物語

晴佐久昌英(SIGNIS Japan 顧問司祭)

シグニス東アジア会議参加者のみなさん、ようこそ日本へ。

福音宣教のためにメディアの現場で働いている仲間たちが、こうして一つに集まることができて、ほんとうにうれしく思います。

今日このような集いを持つことができたのは、神がそうお望みになったからです。私たちは神の望みどおりに、顔と顔を合わせて一つに集まらなければなりません。なぜなら、私たちは、家族だからです。互いに異なった国で生まれ育ち、異なった活動をしていますが、私たちは、神によって結ばれた家族です。それも、血縁の家族以上の家族です。

キリストは、争い合うこの世界を救うために、新しい家族をもたらしました。血縁を超えた、神が結ぶ家族です。異なった人間同士であっても、無条件に受け入れ合い、無償で与えあい、すべての恵みを分かち合う、キリストの家族です。

使徒言行録の2章にある通り、初代教会のキリスト者たちは、持っている物を分け合い、家々に集まって一緒に食事をしていました。その姿は、見えない神の国が始まっていることの見えるしるしとなって、当時の人々に大きな影響を与えました。キリスト者たちが、血縁ではないのに血縁の家族以上の家族となって助け合い、共に生きる姿は、人々に大きな共感と感動を与え、信頼と尊敬を集め、それゆえに日々仲間が増えていったのです。キリスト教は、その始まりから、とても具体的な、新しい家族運動として広がっていったのです。

キリスト教のそのような本質は、二千年たった今でも変わっていません。もしも現代の教会が、この世の冷たい組織となり、掟と慣習に縛られた原理主義的な宗教となってしまって、人々からの共感と信頼を得られていないならば、もう一度、キリスト教の原点である家族運動に立ち返らなければなりません。すなわち、キリストを中心として、共に祈り、一緒に食事をし、具体的に助け合う、暖かくて普遍的な家族づくりです。

私は今、とても小さな試みではありますが、そのような家族づくりにチャレンジしています。名付けて、「福音家族」づくりです。「福音家族」とは、キリスト者や求道者が、キリストの名のもとに「血縁を超えた福音的家族」をめざす集いのことです。同じ神の子として信頼し合い、最低でも月に一度は一緒に食事をしているならば、「福音家族」と呼ぶことにしています。すでに、心の病を抱えている人たちの福音家族や、福音を語り合う牧師と神父の福音家族、ホームレスと共に食卓を囲む福音家族など、14の家族がいます。

福音家族の合言葉は、「家族ならどうするか」です。すなわち、「今目の前にいる人が、もしも自分の血縁の家族なら、どのように対応するか」を常に考え、そのように行動するということです。家族なら、好き嫌いを越えて一緒に食事するでしょう。家族なら、見返りを求めずに贈り合うでしょう。家族なら、正直に語り合い、けんかしても赦し合うでしょう。家族なら、家族のだれかが困っているなら、当たり前のように助けるでしょう。それは掟などではなく、とても自然な愛情であり、もしも全世界がそのような福音家族になったら、あらゆる問題は解決するはずです。

現代の日本のカトリック教会は、とても閉鎖的で、新しい人を受け入れようとするモチベーションが低いのが現状です。日本では、人口の99パーセント以上がキリストの福音に触れていないにもかかわらず、開かれた教会を目指すことなく、救いを求める人々のニーズにこたえることができない現場が多いのは、教会がキリストの家族になっていないからであり、それゆえに、人々を家族として受け入れ、血縁を超えた家族として共に生きる喜びを知らないからにほかなりません。

晴佐久昌英神父

いうまでもなく、家族を家族たらしめているのは、信頼関係です。したがって、教会が家族として成長していくためにも、この信頼関係が大切です。たとえ裏切られても信じるのが家族であり、試練の時こそいっそう信じ合うのが家族です。そのような信頼関係は、人間の条件や取引で生まれるものではありません。それは、神との信頼関係によって結ばれるものであり、お互いを神が結んでいるという信仰によって生まれるものです。

私は、この信頼関係こそが、最大かつ最良のメディアだと考えます。

メディアとは、何かを伝える道具ではなく、人と人を福音的に結ぶ力だからです。言葉も情報も、単に流せば自動的に伝わるというものではありません。昨今のフェイクニュースを見るまでもなく、信頼関係を持てないメディアが流す言葉や情報は、かえって世界を混乱させ、人々を分断していきます。真のメディアとは、人と人を結ぶメディアであり、人と人の間に信頼関係をもたらすメディアであり、そのようなメディアによって初めて、言葉と情報が意味を持つのです。

そこで、このように言うことができます。キリストこそが最高のメディアである、と。キリストは、神と人を結ぶメディアであり、人と人を結ぶメディアであり、キリストの家族を生み出すメディアです。私たちは、このキリストを信じ、このキリストと結ばれることで、福音的メディアとなることができるのです。

まずは、私たちシグニスの仲間たちが、真の家族になりましょう。共に祈り、共に語り合い、共に食事をして、神の国のしるしとなりましょう。私たちが信頼関係を育てて、私たち自身が福音的メディアとなり、血縁を超えた福音的家族の可能性を示すことができるならば、まさしく現代社会の希望となることでしょう。

それこそが、家族と希望の物語なのです。

 

(この記事は、第5回シグニス東アジア会議のパンフレットより転載しました)

 


日本における「家族と希望の物語」

土屋 至(SIGNIS Japan 会長)

2017年11月に東京で行われた「第5回シグニス東アジア会議」において、日本からは以下のようなことを報告しました(この記事はそのときのレジュメをもとにしています)。

 

1.日本の家族をめぐる環境について

まず、日本の家族をめぐる環境についてですが、やはり大きな問題となっているのは少子高齢化です。2025年には「団塊の世代」が後期高齢者(75歳以上)となり、人口の3分の1が高齢者(65歳以上)となります。そのとき、病院も福祉施設も満杯で、年金や保険もパンク状態となることが予想されます。これが「2025ショック」と呼ばれるものです。

現状としては、医療施設や福祉施設から溢れた分を「地域」が引き受けざるを得ず、在宅介護を中心とする「地域包括ケア」が必要とされています。また、生産にたずさわる人口の減少、競争力の低下、景気の低迷による働き手の不足を、外国人労働者によって補わざるをえなくなっています。

 格差社会とこどもの貧困も大きな問題の一つです。低い給与で長時間働かされている非正規労働者の増大、共働きの増加、母子家庭ならびに貧困家庭の増加、子どもの貧困など、枚挙にいとまがありません。日本は経済大国で裕福だというイメージがありますが、子どもの貧困率は13.2%(2016年)と高く、子どもの約7人に1人が貧困状態にあるというのが現状です。

さらに、いじめや差別、自殺/自死の多さも目立ちます。10年前に比べると全体の自殺率は減少し、年間約21,000人にまで減少していますが(2016年)、若者の自殺は増えています。

最後に、被災地復興の現状についてですが、ボランティアや支援金が減少し、忘れられつつあります。特に福島では、まだ自分の家に戻れずに他県に住む人たちが多く存在しています。復興も停滞していると聞きます。

 

2.日本の教会の現状

次に、日本の教会の現状についてですが、日本の社会と同様に、教会司祭や修道者、信徒の高齢化と減少が問題となっています。

また、教会と地域との関係ですが、これまで特に都市部の教会は地元地域社会とよき関係を築くのがあまり上手でなかったのではないかと感じています。そのため、これからは「地域・福祉・教会」の関係の構築が必要となってくるでしょう。

前述に自殺の話題がありますが、カリタス・ジャパンのキャンペーンテーマは「自殺防止キャンペーン」から「排除のない多様性社会を求めて」と、社会の現状に合わせて変化しています。

 

3.「希望の物語」を紡ぐ人々

このような現状の中で、「希望の物語」を紡いでいる人たちがいます。東アジア会議には、映画『さとにきたらええやん』の舞台となった「こどもの里」館長である荘保共子さん、青少年の居場所づくりをしている「Kiitos」の白旗眞生さん、カトリック片瀬教会の有志の皆さんと片瀬地区に住む有志のチームで活動している「まりあ食堂」の相澤純子さんをお呼びして、話を聞きました。

そのほかにも、晴佐久昌英神父が行っている「福音家族」や「一緒ごはん」、福島から東京などに避難している家族と子どもたちの支援活動にとりくむ「きらきら星ネット」、モンテッソーリ風のこどもの居場所づくりをしている「多世代交流こどものいえ」など、さまざまな団体・活動を通して、「希望の物語」を紡いでいる人たちがいます。

【そのほかの活動例】

・「JLMM(日本信徒宣教者会)」の若者をベトナムやカンボジア、被災地への体験旅行を企画している。

・「癒しの里」福岡県豊津町で老人ホームを造った人たち

・自主夜間中学に関わっている人たち

 

土屋至会長

4.SIGNIS Japanの紡ぐ「希望の物語」

私たちSIGNIS Japanも「希望の物語」を紡ぐ一員として、2016年度日本カトリック映画賞に『この世界の片隅に』を選出しました。これは、戦争中の「家族」を描いた物語です。また、webマガジンAMORを刊行し、「地域・福祉・教会」を生きている人たちの発掘紹介をしていく予定です。

ほかにも、カリタス・ジャパンとのコラボレーションや「地域・福祉・教会」のための教会ホームページの活用など、さまざまな活動を通して、現代における家庭・家族の問題と向き合い、「希望の物語」を紡いでいきたいと思います。

 


聖家族崇敬が生まれた状況

石井祥裕(カトリック東京教区信徒/実践神学者)

「聖家族」という言葉は、カトリック教会では、主の降誕後にある日曜日に祝われる祝日の名前である。その日のミサの集会祈願では、次のように祈られる。「恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。」拝領祈願では、「いつくしみ深い父よ、とうとい秘跡で養われたわたしたちを強めてください。いつも聖家族の模範にならい、生活の労苦を乗り越えて、ともに永遠の喜びに入ることができますように。」

このように繰り返される模範としての聖家族とは、イエス、マリア、ヨセフのこと。『カトリック聖歌集』には聖家族の祝日のための聖歌として「イエズス マリア ヨセフ」という歌があり、「悲しみ 憂いに イエズス マリア ヨゼフ 慰めを賜え」と歌っていく。

このような聖家族観や崇敬はどのように生まれたものなのだろう。その歴史を調べてみると、いかにも、ヨーロッパらしいと思われるようなキリスト教の実態が窺われる。7つのトピックに分けて見ていこう(『新カトリック大事典』、フランスのカトリック事典:Dictionnaire de spiritualité, ascétique et mystique, La Catholicismeなどを参照)。

 

1.中世末期からふくらむナザレの家族への関心

日本も同じかもしれないが、中世まで、「家族」(ラテン語で「ファミリア」)といえば、大家族制度の家族だったようだ。教会では信心会、コンフラリアや兄弟会・姉妹会などの信者の結社をファミリアと呼ぶ慣習もあり、いわば「教会家族」を幅広く意味することばだったようである。父と母と子どもたちという最も親密な血縁家族を意味する家族の概念が生まれるのは、フランス語圏では17世紀だという。「聖家族」崇敬がはっきりと形成されるのは、まさにこのフランス語圏なのである。

その背景をなす、イエスの生涯に対する関心の変化は、やはり中世末期から見られたようである。幼子イエスを囲む母マリアと養父ヨセフの人物像や、その三人によって営まれるナザレの家庭生活についての関心が、1300年頃に成立した『キリストの生涯の観想』という書物(著者不詳)、1350年頃にザクセンのルドルフス(生没年1300~1378)が著した『キリスト伝』に反映されているという。美術の世界では「聖家族」を画題とする絵画が頻繁に描かれるようになるのもこの時期である。聖家族には、これら三人のほか、やがて、エリサベト、その子どもの洗礼者ヨハネ、またマリアの母アンナ(選りすぐり洋書紹介14『中世末期におけるマリアの母・聖アンナ』の紹介文を参照)も含まれるようになる。

 

2.“地上の三位一体”

ムリーリョ作『二つの三位一体』(1675~82頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)

なかでもイエス・マリア・ヨセフのいわば聖なる“核家族”には、三人ということで、神の三位一体との類比を含めて崇敬するという考え方が、16世紀末から17世紀初めの霊性家たちによって説かれるようになった(参考にムリーリョの『二つの三位一体』の画を掲げよう)。フランシスコ会のアンドレ・デ・ソト、イエズス会のオソリオ、そして有名なフランソア・ド・サル(フランシスコ・サレジオ)たちである。この見方とともに、「イエス・マリア・ヨセフ」の名を呼んで、取り次ぎを願うという、カトリック聖歌の歌に表現されているような信心がスペインで生まれた。ミニミ修道会のガスパール・デ・ボノが積極的に提唱していったという。やがてフランス、オランダへと広まっていった。あたかも「イエス・マリア・ヨセフ」という家族そのものが一つの聖人となったかのような祈りにも思える。

ちなみに、イタリアのマルケ州にロレート(フランス語ロレット)という町があり、ここには1291年にエルサレムが陥落した後、ナザレにあるサンタ・カーサ(聖母マリアの家)が1294年に移ってきたという伝承があったことから、マリア崇敬のための巡礼が盛んになっていく。1468年からこのサンタ・カーサの上に聖堂が建設し始められ、16世紀から17世紀にかけてますます巡礼が盛んになり、聖家族ゆかりの地となり、聖家族崇敬の高まりに拍車をかけた。

 

3.カナダ植民地が舞台となった聖家族信心会

中世末期から醸成されてきたこの崇敬が1630年代以降、信心会によって担われるようになる。注目されているのは、ジェローム・ル・ロアイエ・ド・ラ・ドーヴェルシエール(生没年 1597~1659) というフランス人信徒。ラ・フレシュに生まれ、当地の市参事官を務めていたが、1630年に妻、子どもたち含め一家全体を聖家族に献げるほどこの崇敬に熱心だった。彼は、貧しい人や病人、旅人を受け入れ世話をする信心会の創立を志し、故郷のラ・フレシュに昔からあった施設を広げて、1636年に聖家族にちなむ女性たちの信心会を創立。それはのちに聖ヨゼフ病院修道女会に発展することになる。

1639年、ル・ロアイエはパリでジャン・ジャック・オリエ(生没年 1608~1657。サン・スルピス司祭会の創立者)と出会い、彼から示唆を受けて、フランスのカナダ植民地(ヌーヴェル・フランス)のために信心会の派遣を進めた。カナダ植民地は一躍、聖家族崇敬の主要舞台となる。1642年に建設されたモントリオールが都市ごと聖家族に献げられたほどだった。1674年に設立されたケベック司教区の初代司教フランソア・ド・モンモランシー・ラヴァル(生没年1623~1708)は、1684年、教区のために聖家族の祝日を定めた(復活祭後の第3主日)。この祝日の始まりである。こうしたカナダでの聖家族崇敬の推進は、植民地社会の形成にあたって、その核となる入植者の家族の育成が促進され、その模範として奨励されたという意図が明らかに窺える。

 

4.19世紀に再び開花

同じ17世紀半ばから聖家族崇敬は、フランス、ドイツ、オーストリア、ナポリ、シチリアなどに広まっていき、信心会や祝日の形成(期日は多様)が相次いだ。しかし、啓蒙と革命の世紀、18世紀には、いったん衰退する。この崇敬が盛り返し、全教会的なものとなるのは19世紀のカトリック復興の気運の中でのこと。キリスト教的な家族生活の再建が目指され、また貧しい人々の救援、子どもたちの教育、信徒の信仰生活の充実が必要とされるなか、聖家族の姿がまぎれもなく模範と考えられるようになった。

1803年から1900年まで全欧米で聖家族の名を掲げる修道会(男子女子含む)や信心会が60余りも創立される。その推進者としてとくに名前が挙げられるのがピエール=ビエンヴュニュ・ノアイエ(生没年1793~1861)である。1816年にイシーのサン・スルピス司祭会の神学校に入学。ロレート大聖堂をたびたび訪問し、聖家族崇敬に熱心だった彼は、社会を再びキリスト教的なものとするための活動を志し、1819年司祭叙階、以後、聖家族姉妹会、同婦人会を設立、修道女会へと発展させる。近代社会の諸条件の適応した聖家族信心協会(アソシアシオン)といった組織を生み出すなど、19世紀におけるカトリックの霊性復興の一翼を担った。

 

5.ローマ教皇による奨励

ミケランジェロ作『聖家族』(1507年頃、ウフィツィ美術館蔵)

このような潮流にいわば祝福の冠を授けたのが教皇レオ13世(在位年1878~1903)である。教皇は1890年の教令で愛徳の精神、生活の聖性、信仰心の育成のために意義があると認め、聖家族の崇敬を奨励するとともに、各地の多様な聖家族信心会を統合し、総本部をローマに置き、各教区司教には、教区内での信心会の統括者を任命するように定め、聖家族運動を組織化することに努めた。同時に全教会のための任意の祝日として聖家族の祝日を公現後の第3主日と定めた。

その後、1920年、教皇ベネディクト15世(在位年1914~1922)は、これを全教会が守るべき祝日として、主の公現(1月6日)の次の主日と定めた。第2バチカン公会議後の典礼暦の改定(1969年)により、現在は、主の降誕後の年内の主日(それがない場合は12月30日)という決まりになっている。この祝日のために福音朗読箇所は、(主日A年)聖家族のエジプトへの避難(マタイ2:13-15、19-23)、(主日B年)幼子イエスの神殿奉献(ルカ2:22-40)、(主日C年)神殿での少年イエス(ルカ2:41-52 )と、イエスの幼年期、少年期のエピソードを内容としている。

これが、カトリック教会独特の信心形態である聖家族崇敬とその祝日の現在形である。

 

6.歴史が突きつけるもの

近世に形をとった聖家族の崇敬・信心は、幼子イエスへの礼拝意識、マリア崇敬、とくに聖家族崇敬と並行して高まるヨセフへの崇敬と絡み合いながら、展開してきた。近世期の聖堂に幼子イエスを抱く聖ヨセフ像とマリア像が据えられることも慣習化した。狭い意味では、近代社会におけるキリスト教的な霊性の核となる家族・家庭形成を促進するという教会の課題が徐々に強まってきた歴史かもしれないが、ファミリアという単語が中世までもっていた大家族の考え、それに信心会という観念自体が教会家族、信者家族を意味していたことを思い起こすと、関連する範囲はぐっと広がってこよう。

貧しい人々、病気の人、移動者移住者、難民など寄る辺なき人々を受け入れ、世話をする奉仕活動を展開する聖家族信心会は、近世期、とくに19世紀の産業革命による社会の激変のなかでは、キリスト教的社会福祉を増進する重要な役割を担っていた。聖家族は、狭い意味でのキリスト教的家族のモデルというよりも、教会家族、あるいは神の家族、ひいては人類家族を形成するための理念となってきた面のほうが意義深いのではないだろうか。

 

7.“非家族の家族”の模範として

考えてみれば、イエス、マリア、ヨセフの家族は人間的な意味で完全な家族ではない。イエスは神の子であり、マリアは母といわれながらおとめであるという神秘。ヨセフは人間的な意味ではマリアの夫ではなく、イエスの実父ではなく、養父である。いわば神の意志がたえず介入している“非家族の家族”。今日読まれる福音箇所も、すべてが神の意志に生かされ、導かれていることをあかしするものである。

しかし、人間的な意味での家族として完結しない、“非家族の家族”であることによって、今日、聖家族はまさに福音である。伝統的な家族関係が崩れ、個々人のつながりのかたちさえ揺らいでいる現今、イエス・キリストを要としてつながり合う、寄る辺なき人々の新しい家族が、新しい人類家族の糸口となっていく一つのモデルとして、その歴史における変遷をも含めて、聖家族崇敬を見つめ直していく味わいは新鮮である。

 


イエスと家族

カトリック教会ではヨゼフとマリアとイエスの家族を「聖家族」と呼んで、理想の家族のように語られている。たしかにそうだったのだろうが、聖書を読んでいくとイエスは家族に冷たいように思われるところがおもしろい。

それが最もはっきりと読めるところはマタイ12章46~50節「イエスの母、兄弟」という箇所である。

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

こう言われた母と兄弟たちはどういう気持ちだったのだろうか? 穏やかならぬ気持ちでいたに違いない。母と兄弟たちは結局イエスには会えなかったのではないか。

だいたいイエスに兄弟がいたという話は聖書の他の箇所にも出てくるのだが、カトリック教会は「イエスには兄弟がいなかった、ここで兄弟と言われているのは親戚やいとこたちである」と強弁している。

イエスがナザレに帰って会堂で説教を始めたときにナザレの人はこう言う。(マタイ13章55~58節)

この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

ジョン・エヴァレット・ミレー作『両親の家のキリスト』(1849~50年、テート・ブリテン蔵)

イエスは家族では受け入れられてなかったということなのだろうか。ルカではこのあと崖の所に連れて行かれて突き落とされそうになったと書いてあるが(16~30節参照)、このときイエスの母と兄弟たちはどうしていたのだろうか?

またさらにこんな所もある。(ルカ9章61~62節)

また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

これだけ読んでいるとイエスは家族に冷たいと言わざるを得ないのだが、きっとこの背景にはイエスの深い読みがあるのだろう。どなたかうまく解釈していただけないか?

土屋至(聖パウロ学園高校「宗教」担当講師、元清泉女子大学「宗教科教育法」講師)