特集13 島原天草一揆

今月の特集は、島原天草一揆、いわゆる「島原の乱」を取り上げます。今から380年前の1637年、和暦では寛永14年10月25日(西暦1637年12月10日)に起こった、有馬村の百姓が島原藩代官林兵左衛門を殺害した事件が一揆の発端とされるからです。最終的には、寛永15年2月28日(西暦1638年4月12日)、原城陥落をもってこの事件は終結します。

徳川幕藩体制が確立するにあたって大きな転換点となったとされるこの事件への認識を新たにし、日本という国に生きる者の歴史の中で、また日本のキリスト教史に対しても、この一揆がもった意味について、今回の特集を第一歩として問いかけ始めていきたいと思います。

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“静かなる研究ブーム”~~島原天草一揆(島原の乱)をめぐる最近の出版動向

森崎東監督夫妻と歩いた原城祉

日本とキリスト教の道半ば

(写真提供:鵜飼清)

 


日本とキリスト教の道半ば

石井祥裕

所属教会で歴史の学習会を実施している。その中で教会書的に知っていた「島原の乱」に関して、研究が目覚ましい変貌をとげていることを知った(書籍紹介参照)。大きな視野で語ってくれる著者たちから示唆を受けて、目を開かれるところは多いが、島原天草一揆として今は呼ばれるこの事件の全貌も意味もなお捉えがたい。専門の歴史家ではないので、研究者の示唆に頼るしかないが、しかし、それでも、歴史認識を刺激してくるいくつかのポイントがある。

神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ、2010年)

この一揆の主導者たちの意図においては、信仰運動として、宗教運動として、徳川幕府の迫害・禁教政策に抵抗して起こしたものという面が確かにあった。その場合、宣教師の指導がなくなった信徒だけの集団としてのある種の信仰の変質の予兆もあったようだ。同時に、かつての信徒組織(コンフラリア)のきずなの存続という面もある。キリシタン史の転換期の到来である。もちろん圧政下での生活の困窮が動機となった参加者もいた。一揆集団は混成集団で、雑多な人々がいたことは矢文の史料も物語る。その人々を統合するためにも、主導者たちには宗教的(キリシタン的)理念を強調していったようである。そこにはキリシタン宣教黄金期の記憶も投影されたことだろう。キリシタン宣教師と信徒が活躍していた時代が壮絶な終わりに向かっていく。そこには信仰の苦悩と同時に哀しさが漂う。

一揆集団は、客観的には混成体だったかもしれないが、真実の信仰心から参加していた者もいたことはたしかである。矢文史料の一つにみられる「宗門さえお構いなくしていただければいうことはありません」という声。また混成集団をまとめるために腐心した一揆主導者の意識を伝える『四郎法度書』にある「互いを大切に思って意見を交わすべきである。城内の者は、後世までも友達なのだから」という言葉も、原城に籠もった集団の中にある人々の意識の一端を示す。「大切」とか「友達」という言葉の用法はとても近代である。幕藩体制から敵視された原城内の人々には意識や動機の多様性も含めて近代性が感じられる。

幕府のキリシタン弾圧は、この事件後にも一区切りを迎える。1639年のペトロ岐部の処刑もその局面でのことだ。宣教師の時代が終わる。宣教師自身の棄教(転びバテレン)が見られるのもその時期。遠藤周作が『沈黙』で対象とする時代である。キリシタン史は潜伏期に向かう。そうした、キリシタンの活動時代から潜伏時代への転機、日本宗教史の室町戦国時代史から徳川時代史への転機という意味では、この島原天草一揆の位置はとても大きい。

写真は共に島原城内の展示。写真提供:鵜飼清

この事件は、それがどう取り締まられ、どう鎮圧されたかのプロセスにも興味を抱かせる。事件発生からどのような連絡系統で江戸幕府に伝わり、またどのような指揮系統で鎮圧が実行されたのか。ここには軍事体制としての幕藩体制の確立の度合いが試されている感も強い。西南諸藩の大名の原城攻撃の布陣図は、2万人ほど(と最近は思われている)の困窮農民たちを取り締まろうとするには大きすぎる規模だ。実際総攻撃時の虐殺も、幕府統治の圧力のほうをより大きく感じていての所業だったのではないか。

混成集団といわれた人々の思いは、人骨や十字架やメダイ、ロザリオなどの遺物の中にその断片を遺している。彼らが求めたものは、信仰の歴史の「あす」に実現したのだろうか。幕藩体制が近代国家への第一歩であったとするなら、この事件を経験した統治者は、その後、民衆やキリシタンに対してどのように臨んでいっただろうか(浦上信徒迫害事件を思い起こそう)。戦後が日本キリスト教史の「きょう」だとすれば、明治以降~戦前はいわば「きのう」。そして徳川時代は「おととい」になる。こう考えると、島原天草一揆はその「おととい」の始まりである。日本の国もキリスト教も道半ばの大きな事件であり、多くの犠牲であったのだ。民衆史においても、キリスト教史においても、日本の国の歴史においても、この事件にもっと関心を向け、語り合ってよいのではないだろうか。

(典礼神学者・実践神学者)

 


森崎東監督夫妻と歩いた原城祉

鵜飼清

いまから30年も前のことになるのだが、親しくさせてもらっていた映画監督・森崎東さんの実家を訪ねたことがある。森崎さんは長崎県の島原出身であり、お母さんの法事のために帰郷されていた。

ぼくはこのとき、堀田善衛の『海鳴りの底から』を読み始めていて、監督と一緒に原城祉を歩きたいと思っていた。島原の乱を素材にしたこの長編小説は、ストーリーの間にプロムナードを配置した特色を持っている。ムソルグスキーの音楽『展覧会の絵』を意識して挿入したというプロムナードには、堀田の1つの視点から考えが述べられる。この形式にも魅力を感じ、堀田が歴史小説で試みた「現代」に対する問題意識の発露を受け止めたいと思った。

幕府軍12万5千人を相手に、一揆軍3万7千人がたたかったという原城祉を歩くと、島原の乱の説明板に出会う。畑仕事をしている農夫は「いまでも畑から人骨が出るんですよ」と話す。島原の乱が、キリスト教弾圧に抵抗する信徒たちの氾濫とみるか、ある種の経済闘争とみるのかは、別れるところである。

森崎さんは『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』という映画を作ったばかりだった。原発ジプシーが主人公のこの映画では、原発の怖ろしさが描かれる。科学技術文明の行先が、人力を超えたところにあることを知らされる。

原城祉の土を踏みながら、一揆で死んでいった民たちを想った。遠く天草を眺めやる地蔵に、寛永14、15年(1637、8年)の慟哭を聞くようだった。領主や代官の重税に苦しむ民たちの救いとは、なんだったろうか。今の世は地獄でも、やがて天国へ行ける、そう思っていたのだろうか。

『海鳴りの底から』(『堀田善衛全集7』)の解説「状況の全体へ向けて」で松原新一は「『海鳴りの底から』全体をとおして〈近代〉と〈反近代〉との対立・相剋の問題を、島原の乱という歴史事件を借りて剔抉せんとする堀田氏のモティーフが反映していることは確実である。」とし、谷川雁の「原点が存在する」の一節を引用する。「『段々降りてゆく』よりほかはないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギーがある。」森崎映画が発するところと、堀田善衛の試みを感じるとき、この言葉がずしんと腹に落ちた。

原城祉を歩いたあくる日、ぼくは森崎監督と博多へ向かい、千石イエスの「シオンの娘」という店に行った。

(評論家)

 


“静かなる研究ブーム”~~島原天草一揆(島原の乱)をめぐる最近の出版動向

「島原の乱」については、気がつくかぎり2012年以降のBSテレビの歴史番組でも取り上げられることがたびたびありました。歴史家たちの研究が新生面を迎えていることを背景にしています。概説的にこの歴史的出来事を語る専門書・一般書の主なものをここで一覧にしてみます。教科書で「島原の乱」と教えられているこの出来事や「天草四郎」という人の実像について最近はどのような見方がなされているのか、この出来事をどのように考えたらよいのか、近年の書籍は新たな側面に光を当てています。

 

1.1960年代~1970年代の概説書

最近の概説書の中でも参考文献としてしばしば挙げられる1960年代、1970年代の書物に次のようなものがあります。

1960年 岡田章雄『天草時貞』(吉川弘文館)
1967年 海老沢有道『天草四郎』(人物往来社)
1967年 助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』(東出版)
1967年 助野健太郎『島原の乱』(東出版)
1975年 渋江鉄郎『島原一揆』(昭和堂)
1979年 片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』(時事通信社:再刊「片岡弥吉全集1」智書房 2010年)

これらの文献の中でも、この歴史的出来事が「島原の乱」のほかにも「島原一揆」という名前が出てきます。このうち1967年発行の助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』は、2010年にフリープレスから復刻版として『キリシタン迫害と殉教の記録』というタイトルで刊行されました。その上巻の「島原の切支丹」「天草の切支丹」の章でこの「乱」についての叙述がありますが、その中でも「島原一揆」と「島原・天草の乱」という二つの呼称が出てきます。この時代からも名称に諸説あるという事実は、教科書的な「島原の乱」という記憶をまず相対化させてくれます。

 

2.研究史の転換点となった「原城跡」発掘調査(1992年~2008年)

最近の「島原の乱」に関する“静かなる研究ブーム”と呼べる動向は、1992年に始まった長崎県の現南島原市による国指定史跡「原城跡」の発掘調査をきっかけとしています。これらに関連する事象を年譜的に記載します。

1992年   長崎県南高来郡南有馬町[当時]の国指定史跡「原城跡」の発掘調査が開始される

1996年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第2集 原城跡』発行

1998年10月 南有馬町にてシンポジウム開催

2000年   石井進・服部英雄編 長崎県南有馬町監修『原城発掘 西海の王土から殉教の舞台へ』(新人物往来社)発行(上記1998年のシンポジウムの記録)

2004年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第3集 原城跡2』

2006年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第4集 原城跡3』

2008年2月 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定一覧表登録記念シンポジウム「有馬の城・外交・祈り-西欧外交の原点を求めて」が開催される

2008年11月 服部英雄・千田嘉博・宮武正登編 長崎県南島原市監修『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』(新人物往来社)(上記2008年2月のシンポジウム記録)

2008年   「原城跡」発掘調査が終了する

壮大な発掘調査で、テレビの歴史番組でもこのことはよく紹介され、原城の遺跡の写真、実像想像図(CG)や乱終結の際に殺された人々の遺骨写真などは衝撃的でした。この発掘は、すべての史料の見直しをも迫る一大事業として注目されます。その経過を受けての二度のシンポジウムについての記録書籍(新人物往来社発行)には歴史の見直される瞬間が生き生きと収められています。

 

3.新しい展望へ~2000年代の動向

この発掘事業のさなかから、日本中世史・近世史・キリシタン史に関する研究者の間で、「島原の乱」の歴史的実像をめぐって新たな史的展望を描き出す研究が発表されるようになりました。その中でこの出来事の意義を大きな視野から考えさせてくれる研究者・著者は次の三人ではないかと思います。

(1)一人は、神田千里氏(1949年生まれ。東洋大学文学部教授。日本中世史(中世後期の宗教社会史)専攻)。彼は、2004年に『土一揆の時代』(吉川弘文館)、2005年に『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』(中央公論新社)を発表、また2010年の『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)でも「宗教一揆としての島原の乱」について概説しています。広く世界史動向を見据えながら、室町・戦国期の日本の宗教史の上で「宗教一揆として島原の乱」を位置づけていこうという視点を示しています。ただし、一揆であるといいながらも、教科書的な「島原の乱」という呼称を使っています。

(2)次に、大橋幸泰(ゆきひろ)氏(1964年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。日本近世史・近世宗教史専攻)が注目されます。彼は2001年に『キリシタン民衆史の研究』(東京堂出版)を発表。2008年には神田千里氏の所論への批判説も含む従来研究の検証を意図した『検証島原天草一揆』(吉川弘文館)を発表しています。そのなかで名称問題に関して「この一揆は、一揆発生時はもちろん、近世期を通じて『一揆』の典型例として語り継がれてきた。領主と百姓との緊張関係を維持するのに大きな役割を果たした事件として、近世人にとってこの出来事は『一揆』そのものなのであり、『一揆』こそこの事件の呼称としてふさわしい。したがって、一揆の前半を表す「天草」を加えることとあわせて、この事件は『島原天草一揆』と呼ぶのがもっとも自然である」(同書190ページ)としています。大橋氏はその後、2014年『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社選書メチエ)、2017年には『近世潜伏宗教論:キリシタンと隠し念仏』(校倉書房)を発表しています。

神田氏は室町・戦国の宗教史の側から、大橋氏は近世の宗教政策や潜伏キリシタンの史の側から、島原天草一揆を観ているようでもあります。

(3)これら日本史研究者が示した新しい視点からの「島原天草一揆論」は、上智大学のキリシタン文化研究会からも注目され、2010年12月には上智大学キリシタン文化研究会主催・上智大学史学会共催フォーラム『島原天草一揆再考』という催しが行われました。神田氏、大橋氏の諸説提示に積極的にこたえ、キリシタン史研究の伝統の中でも、「島原天草一揆」を再考しようという姿勢は、大変積極的なものと感じられます。このフォーラムについて、主催者の一人である川村信三師(1958年生まれ。イエズス会司祭、上智大学文学部史学科教授)は、『カトリック生活』2011年2月号での連載「キリスト教史)ステップ・バイ・ステップ」第41回「島原・天草一揆(乱)再考」でレポートしており、神田氏、大橋氏の諸説から示唆を受けた点と、さらに補完すべき観点を挙げるとともに、日本史研究家とキリシタン史研究家の交流がこの事件の真実に迫る上では重要と指摘しています。

(4)そのような動向の中でキリシタン史研究のベテランとして、『日本キリスト教史』(吉川弘文館 1990年)や『日本キリシタン史の研究』(同 2002年)、『キリシタンの文化』(同 2012年)などの主著がある五野井隆史氏(1941年生まれ)が2014年に『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館)を発表しました。本書の特徴は、島原天草一揆(教科書的呼称「島原の乱」を著者は使っています)という事件そのものは、ようやく最後の三分の一(160ページ以降の「島原の乱と百姓とキリシタン」という章)になって語られているということです。それまでは「島原におけるキリシタン」「天草におけるキリシタン」とこの出来事の前史にあたる両地方のキリシタン史概説となっています。キリシタン伝来の最初期からの歴史を思い起こさせることで、この事件の地層にあるものを暗示する形をとっています。神田氏、大橋氏が提起するような歴史論には絡むことなく、淡々と概説するものですが、深く歴史を考えさせてくれるのではないかと思います。また、これから島原天草一揆(島原の乱)を知りたいという人にとって、本書の「島原の乱と百姓とキリシタン」がもっとも適度な概説書ではないかと思われます。

神田氏、大橋氏、五野井氏は、それぞれの研究を相互に参照し合っている研究者たちですので、一般向けに書かれた彼らの著作を通じて、わたしたちの見方をいろいろに刺激し、養ってくれるのではないかと思います。

(AMOR編集部)