特集9 聖霊

今年の教会暦はこの6月に聖霊降臨の主日(4日)、続いて三位一体の主日(11日)がやってきました。そこで、今月の特集は、父と子と聖霊という三位のうちの「聖霊」をテーマにしてみました。「目に見えない自由な風」である聖霊、とらえにくいことはもちろんですが、その意味や働きの豊かさを各記事が垣間見させてくれます。あなたはどれに興味を惹かれますか?

風に吹かれて

目には見えない神の心

聖霊のしずく

パラクレートス(助け主)である聖霊

聖霊なんてわけがわからないよ、という人のために

 


風に吹かれて

竹内 修一(イエズス会司祭)

薫風――それは、私たちに、いつも初夏の香りとその輝きを伝えてくれる。青葉若葉の香り、川面に照り映る日の光、さらには、生けるすべてのものの息遣いまでもが、記憶の彼方から蘇ってくる。聖霊もまた、同様に体験されるのではないか、とそう思う。おそらく、私たちは、御父についてまたイエスについて、何らかのイメージを浮かべることはできるかもしれない。しかし、聖霊については、なかなかその顔を思い浮かべることができない。しかし、体験することはできる。それは、特に、祈りにおける体験である。つまり、聖霊は、祈りにおいて私たちを、イエスを通して父なる神へと促してくれるのである。

 

いのちの息

自分は、生きている。というよりも、生かされているといった方が相応しいであろう。この事実に気づかされるとき、次の言葉は静かに自分の奥深くへと降りてくる。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。生きるとは、こういうことなのか。そこには何の力みも焦りも衒(てら)いもない。このいのちの息が与えられている限り、人は生きる。それ以上でもそれ以下でもない。それは、素朴な日常生活において体験される事実である。

 

すべてが一つとなるように

祈りにおいて、私たちは、自分自身と一つになる。それによって、また、神とも一つになる。神のいのちに与ると言ってもいい。それゆえ、イエスは、私たちのために執り成しの祈りをされた。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)。それによって、私たちは、神のいのちの中へと招かれる。すべてのものは、その多様性を失うことなく、一つとなる。それはひとえに聖霊によるものであり、その事実を私たちは、愛のはたらきと呼ぶ。

 

愛ははたらき

この世を去る時、イエスは、一つの約束をされた。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)。この「弁護者」(パラクレートス)は、「真理の霊」(14:17)とも言われ、それによって私たちは、今もなお、イエスとともに生きている。この「真理」(アレーテイア)は、決して無機質なものではなく、神の「まこと」(エメト)であり、真心である。それによって、私たちは、真のいのちを味わい自らのいのちを生きて行く。

 

真理による自由

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)――と、イエスは語った。さらに、彼は、自らを真理であるとも語られた。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(14:6)。イエスは決して、自己実現を目指したのでも、また自分の思いを主張したのでもない。彼が旨としたのは、ただ一つ。それは、彼を遣わされた方の思いを実現することである。そこに、彼の自由はある。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)。真理における自由の遂行。それを可能にするもの、それが聖霊にほかならない。「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)。「聖霊」(プネウマ)は、まさに「風」(プネウマ)のように、私たちのいのちの中を吹き抜ける。

 

赦しから平和へ

復活の後、イエスは、弟子たちに現れこう語られた――「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19、21、26)。この「平和」(シャローム/エイレーネー)とは、本来、「神がともにいること」にほかならない。自分の心の中に、人と人との間に、そしてこの宇宙そのものに神がともにいる――それが、真の平和の謂いである。この平和はまた、聖霊によって与えられる。しかもそれは、神からの赦しによってこそ可能となる。それゆえ、イエスは、弟子たちに「息」(プネウマ)を吹きかけてこう語る――「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)。真の平和は、ここから生まれる。

 

風薫るさとや千尋の竹の奥   高桑 闌更

 

※高桑 闌更(たかくわ・らんこう):1726-1798年。江戸時代中期~後期の俳人。

 


目には見えない神の心

鈴木 隆(日本CLC(クリスチャン・ライフ・コミュニティ)代表世話人)

キリスト教の祈りは、十字架のしるしで始まります。右手の指(通常は中指)で額に触れ、その手を胸に向けて動かしながら「父と子と」と唱えます。胸の真ん中(肋骨の谷間)に触れた後、今度は右手の指で左肩を触れ、胸を横切って右肩に触れながら「聖霊」と唱え、その後に合掌して「の、み名によって、アーメン」と唱えます。キリスト教の神は、この祈りで象徴されるように、「父」と「子」と「聖霊」の3つの品格(ペルソナ)が、特別なかたちで、つまり互いに深く愛し合う関係を保ちながら、「三位一体」の唯一の神として存在していると捉えられています。「父」とは、天におられる神を指します。「子」とは、人類を救うために神がこの世に遣わされたイエス・キリストのことです。「聖霊」については、神学的にさまざまな定義がありますが、それを学んだ私が思うに「神の思い、つまり、目には見えない神の心」と言うことができるでしょう。

約2000年前のイスラエルでの出来事ですが、「イエス」という人が、形骸化していた当時の信仰のあり方を憂いて、愛と正義と平和を生きるために神に立ち返ることを説き、貧しくされ、虐げられている人々ために働きました。しかし当時の人々は、人民裁判のような方法で死刑を宣告し、十字架に付けて殺してしまったのです。このイエスは墓に葬られるのですが、墓から遺体が消えてしまったばかりか、特別な姿となって生前親しかった人々の間にあらわれるという出来事が続きました。この、到底普通の人間とは思うことができない「イエス」という人物は、天の父が人類を救うためにこの地上に遣わした「神の子」であると確信し、死んだ後に特別な姿となったことを「復活」と呼び、キリスト教の教えの枠組みができあがったのです。

神の存在を証明することは、誰にもできません。死後の世界を垣間見た人は誰もいません。証明できないからこそ、私たちキリスト者は「信じる」とい言葉を用いて、「神が存在し、人は死後にイエスと同じように復活して永遠のいのちを生きる」という考えを基とした生活に賭けて、日々暮らしているのです。

このようなキリスト教の信仰を生きる上で、聖霊の働きに敏感になることがとても大切になります。キリスト教は悪の存在を前提とした宗教です。私たち人間は、「神の思い」つまり、聖霊に促されて善を行うようになりますが、同時に悪霊に促されて罪を行うようにもなります。聖霊の促しなのか、悪霊の促しなのかは、なかなか見分けができません。ですから、日頃から聖霊の促しにしたがったときの「後味」をしっかりと心に刻み、それを積み上げておいて、また一方で悪霊の促しにしたがったときの「後味」も心に刻んでおいて、これから行おうとしている大切な選びが、どちらの促しなのかを見定める、教会の言葉では「識別する」ことが求められるのです。

聖霊の働きに敏感になるためには、柔らかい心をもつことが必要となります。神の心は、私たちの心に触れることでその思いを伝えてくれます。世間体にとらわれたり、名誉や地位を得たいという気持をもったり、より美しくより健康になりたいと願ったり、つまり、人間の欲望を満たすことだけが心の大部分を占めると、心はカチカチに固くなります。偏りのない心をもって、神が聖霊をとおして何を伝えようとしているのかを感じ取ることができる、柔らかい心で日々を過ごすことができますように。

 


聖霊のしずく

カトリック教会のミサの祈りに次のようなものがあります。

 

「神よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉。

どうか、あなたの霊の滴で、この供えものを聖なるものとしてください。

わたしたちのために、主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」

 

カトリック信者の人は、「あれっ。どこかで聞いたことがある!」と思うかもしれません。実は、これ、ミサの「感謝の典礼」のところで、もっともよく使われている「第二奉献文」の冒頭の一節で、そのラテン語原文を直訳調にしたものです。

いまの日本の教会の『ミサ典礼書』では、次のように唱えられています。

 

「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ。

いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。

わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」

 

信者さんは「ああ、これこれ」と得心することでしょう。でも、それですぐに通り過ぎないでください。それよりもっと大切なことがこの祈りにはあるのです。

たぶんラテン語原文は言うはずです。「ここには大切なイメージがこめられているんです! 冒頭の直訳文をご覧ください。『泉』(fons:源泉とも訳せる)とか『滴』(ros : 露とも訳せる)とか、水にまつわるイメージが含まれているでしょう。それが、日本語の典礼文では略されてしまっているので、それでは味もへったくれもなくなっているともいうものです!」と。

少し補いながら砕いてみると、こうなります。

 

「父である神は、すべて聖なるものの聖なるあり方がこんこんと湧き出る泉です。であるならば、どうかそこから、あなたの霊の露を、ここに供えたパンとぶどう酒の上に滴らせてください。それによって、わたしたちにとって、まことのいのちとなる主イエス・キリストの御からだと御血、すなわち聖体となりますように。」

 

父と子と聖霊の三位が水のイメージでつながっているのは一目瞭然でしょう。聖霊とは、たしかに「風」や「息吹」を意味するプネウマから来ていますが、ここでは「露・滴」です。聖書に親しんでいる方なら、思い起こしてください。

 

「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を降らせよ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業がともに芽生えるように。わたしは主、それを創造する。」

 

イザヤ書45章8節(新共同訳)で、待降節の入祭の歌として知られるラテン語聖歌「ロラーテ・チェリ」、『典礼聖歌』では「天よ、露をしたたらせ」の詞となっているところです。救いの到来を約束し、その実現を天から滴る露、雲から来る正義の雨と表現しているのです。

滔々と流れる大河の水などとは違って、露の一滴も雨も、長い時をかけた準備の結実として、にじみ出てくるもの。このイメージを溶かし込んだ第2奉献文の祈りには、神と人のかかわりの長い経緯の末、そこでの苦難と忍耐、一途な待望のあとに、ようやく神のはからいの実りとしてイエス・キリストにおいて救いが実現したという感動が込められています。いまは恵み・祝福・喜びの時。そのしるしとして聖体が与えられる……こんな感慨がこもった実に濃い祈りなのです。それでこその、三位一体なる神への賛美と感謝です。

(石井祥裕/典礼神学者)


パラクレートス(助け主)である聖霊

聖霊とはなにか、とてもわかりにくいとされている。そもそも「聖霊とはなにか?」という問いかけにクレームがきそうである。「聖霊は人格(ペルソナ)だからなにかではなくてだれかではないか」と。ま、そうカタイこといわずによんでほしい。

そんななかで最もわかりやすく説明されているのが、聖霊降臨の日曜ミサのなかで歌われる「聖霊の続唱」ではないかと思う。

 

エル・グレコ『聖霊降臨』(1605-1610年頃、プラド美術館、マドリッド)

聖霊の続唱

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、

わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。

やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。

苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。

恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、

だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。

固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。

あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、

終わりなく喜ぶことができますように。

アーメン。

 

これを読んでどんな感じであろうか? すこしはぴんときただろうか?

確かにこれを読むとこんな存在があったらいいなと思わせるものである。これを素直に信じることができたらどれほど「尊い力を授かって」心強いことか。

こころに直接働きかける存在、コミュニケーションを助ける存在、感情を動かす存在…..

聖霊のことを最もよく語っているのはヨハネである。

 

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14章26節)

 

この中の「助け主」という言葉のギリシャ語が「パラクレートス」であるが、これがおもしろいことに翻訳によって「弁護者」「いやし主」「なぐさめ主」だったりする。

ま、そのすべてが正しいのであろう。「聖霊の続唱」で歌われていることと一致するではないか。

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


聖霊なんてわけがわからないよ、という人のために

アニメやゲームの主人公には、特別な力や能力を持っている場合が少なくありません。それは作中人物の中でも他の誰にも使えない能力で、主人公およびその仲間たちにしか用いることができません。作品によりけりですが、惑星一つ簡単に破壊できるビームを放つキャラクターもいれば、身近な問題解決にそれを役立てるキャラクターもいます。

最近の流行で言えば「魔法少女もの」がその典型です。もちろん、新しい作品は既存の番組との差異化を目指して変わっていきますから、ジャンルそのものが進化します。その結果、最近では主人公が悪者を倒す単なる勧善懲悪に収まらない設定が人気を呼んでいます。たとえば、そのような魔法の能力を得るためにとてつもない代償を払うことになったり、特に外来の敵が現れるのではなく特殊能力を持った人間同士が戦う羽目になる悲しい物語もあります。他にも魔法の力で兵器を動かすパターンや、さらには舞台を第二次世界大戦のヨーロッパに移した作品、一人前の魔法使いになるための学校での生活を舞台にしたファンタジーな作品もあります。

主人公たちはこのような能力を先天的に持っている場合もありますが、ある時突然なにかの出来事やきっかけによってその能力に目覚めたり、与えられたり、あるいは避けられない運命として付与されることもあります。

「主の霊が彼の上に臨んだ」、「主の霊がギデオンを覆った」、「主の霊がサムソンを奮い立たせ始めた」。これらは旧約聖書で登場人物が「霊」によって特別な力が与えられるときの典型的な表現です(それぞれ士師記3章10節、6章34節、13章25節)。「霊」と鍵括弧をつけたのは、実はこの言葉が空気の動きや風を表す言葉でもあるからです。ヘブライ語では「ルアッハ」と言います。旧約聖書に380回ほど出てくるこの言葉ですが、おおよそ3分の一ほどは風の意味で用いられています。呼吸の「息」の意味でも用いられます。しかしここでは風ではなく、神から与えられる力、というような意味です。正確に翻訳するのは不可能ですが、「神の息吹き」とも訳せます。風と無関係ではありません。他の宗教やサブカルチャーなら、自然を含めた世界のどこか、あるいは地球の外からやってくるであろう不思議な力は、旧約聖書の世界観ではすべて主なる神から与えられるのです。

さて、士師記での彼らはリーダーとなってイスラエルの民を統率します。神によって選ばれた指導者としてイスラエルの民の苦境を救うのです。イザヤやエゼキエルたち預言者も神からの霊を受けます。

夜の秋葉原にて

このような霊を受ける者の最たるは、王になる人物です。「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(サムエル記上巻16章13節)。このダビデ王の即位の様子は聖書の中の歴史上、決定的な出来事として描かれます。主の霊とは、地上の歴史の只中で神の計画を実現するために働き、行動させる活力なのです。そして新約聖書のマタイ福音書によれば、このダビデの子孫からイエス・キリストが生まれます。

最後に、ヨエルという預言者はこんなことを言っています。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」(ヨエル3章1-2節)。すべての諸民族に神の霊が降るというわけです。新約聖書の使徒言行録2章に記されて今も教会が祝っているペンテコステ(聖霊降臨)は、この預言の成就です。これもまた歴史上決定的な瞬間です。教会の中では、主の霊はみんなに開かれているのです。もちろん教会の信者は魔法少女みたいに変身したりはしませんが。

文・写真=石原良明(AMOR編集部・サブカルマニア・聖書読み)