特集14 メメント・モリ(死を覚えよ)

11月――カトリックでは「死者の月」とする伝統があり、追悼行事や墓参が行われます。もちろん、11月1日の「諸聖人」(祭日)、11月2日の「死者の日」から始まる季節の感覚です。この慣習が生まれたヨーロッパでは日が格段と短くなり、冬の準備を始める季節。それは1年のサイクル、すなわち生活全体の更新期とも考えられ、死者の国との交わりの季節とも感じられていたようです。
そこで生まれた慣習の一つが10月末のハロウィンです(「オール・ハーロウズ・イヴ=諸聖人前夜祭」からその名が由来)。この日本ではまだ“新しい”風物詩との関連も探りながら、生者と死者の交わり、「生と死」というテーマについての思索を始めてみましょう。「メメント・モリ」(死を覚えよ)の心で……

.

ハロウィンと諸聖人をめぐる謎

アメリカでのハロウィンの一日

いのちへのケアとキリスト教の核心

(写真提供:松橋輝子)


ハロウィンと諸聖人をめぐる謎

いったいハロウィンとは何なのか。キリスト教とは関係があるのかないのか。その起源を調べてみると、どうしても教会の祭日「諸聖人」との関係を見なくてはならない……。そう思って両方を調べていくとどちらも謎めいてくるのだ。少し長くなるが、それぞれの起源に関する情報を吟味してみよう。

 

1.ハロウィンの起源をめぐる謎

(1)一般的な起源論

一般的に信じられている概要という情報は、こんな次第である。ハロウィンは、古代ケルト人の祭りに起源がある。それはもともと「サーウィン祭(サムハイン)」と言う。ケルト人の暦では、新年は11月1日に始まり、その前日10月31日の夜は聖なる日とされていた。その日死者の霊がこの世とあの世の境界を自由に往来する。中には悪さをする霊魂が来ることもあり、それらをだますために魔女や骸骨などに扮装するのだ。簡単にいえばそのような宗教的起源をもつ。そして、この祭りがキリスト教の諸聖人の祝日とつながり、諸聖人前夜祭と位置づけられて広まり、現在に至るのだ……という。ハロウィンという今日の名前自体、オール・ハーロウズ・イブ(=諸聖人前夜祭)から来るのもそのような経緯を示している。しかし、ハロウィンという習俗を教会が受け入れていることは少ない。

ケルト人の祭りは、その後ブリテン諸島で伝承されていたが、17世紀以後は、イングランド南部で廃れたのに対して、スコットランド、アイルランドを中心に続けられていた。19世紀になるとアメリカ合衆国に移住したスコットランド人やアイルランド人を通じてハロウィンの慣習が持ち込まれ、最初は違和感をもたれていたようだが、20世紀には全米的に受け入れられ、コマーシャリズムとも連動し現在に至るという。1990年代からこの米国型ハロウィンがヨーロッパにも進出しているらしい。

 

(2)近代の民俗復興の産物らしい

ハロウィンとキリスト教の関連を強く論ずる説は、宗教民族学や民俗学でいわれているもの。11月から新年を数えるケルト人のいわば生命更新儀礼として死者にまつわる祭りがあり、この日を教会が諸聖人、ひいては死者の日の規準になったのだと見ている。

しかし、最近は、このようなハロウィンのケルト由来を疑わしいとする説が有力になりつつある。サーウィン祭=サムハイン自体、史料的に不確かだという。ケルト人の死者の祭りは、逆に、中世後期にすでに西方教会で一般化していた11月1日の諸聖人や11月2日の死者の日の影響を受けて生まれたとまでいうのである。アイルランドは、もっとも早くキリスト教が浸透した地域だからである。ハロウィンは、むしろ、近代のケルト文化ルネサンスの産物で、19世紀に取り上げられて結晶し、20世紀に普及したというのは、教会や家庭、地域での世俗的習俗としての展開ぶりから、この説は納得できるものがある。教会との疎遠感もわかる。

 

2.諸聖人の祭日の起源をめぐる謎

このように、ハロウィンの起源論に関してつねに参照される11月1日の諸聖人の祭日。実はこの祭日の起源論にもケルト起源説がたびたび浮かび上がる。ところで、「諸聖人」の祭日は、現在の日本のカトリック教会の名称。ラテン語では、Sollemnitas Omnium Sanctorum, 英語では、Sollemnity of All Saints, またはAll Saint ‘s Day、ドイツ語でもAllerheiligen と「すべての聖人の祭日」なので全聖人祭ともいえるので、そうしてみる。以下、ドイツや米国の主要なカトリック大事典から起源論情報を整理してみると:

 

(1)聖霊降臨の主日の次の主日

すべての聖人のことをまとめて祝うという慣行の最初の証言は、400年前後のヨアンネス・クリュソストモスという教父のもの。アンティオキアかコンスタンティノポリスで聖霊降臨の主日の次の主日が「全聖人の主日」と呼ばれていた。どの程度普及していたかは不詳だが、復活節の趣旨を引き継ぎ、キリストの復活に全聖人が参与しているという意味をよく示すものであることは確かで、ビザンティン典礼の教会では、現在もこの日を全聖人の主日として祝う。日本のハリストス正教会の用語では「衆聖人の主日」と呼ばれている。西方でもこの聖霊降臨の主日の次の主日を「諸聖人の日」として祝う慣行が伝わっていたことが5世紀から7世紀の史料に見える。

 

(2)5月13日というローマの記念伝統

しかし、ローマでは別な伝統が浮かび上がる。609年か610年に教皇ボニファティウス4世(在位年608~615)がビザンティン皇帝フォカス(在位年602~610)からパンテオン(万神殿)を譲り受け、教会堂に建て替えて「おとめマリアと全殉教者のための聖堂」として建設、5月13日に献堂された。以後、5月13日に全殉教者ひいては全聖人を記念したという。ただし、単なる献堂記念日だったという説もあるし、この日付の起源についても二つの説がある。ローマ古来のレムリアという5月9、11、13日に祝われる死者の悪霊を宥める祭祀に関連があるという説、他方、5月13日は以前からシリアで全殉教者を記念する日であり、それを踏まえてこの日がその聖堂の献堂日になったという説もある。ただこの聖堂との関係でローマには5月13日の記念日が伝統となっていったようだ。

 

(3)11月1日の全聖人祭は8~9世紀に成立

ヨーロッパの教会で11月1日という日が浮かび上がるのは8世紀末のこと。

一つにはアイルランドの司教・修道院長であったオエングス(生没年750頃~824頃)が書いたアイルランドやローマの諸聖人に関する『祝日考』という書物。7~8世紀のアイルランドでは、4月20日にヨーロッパの全聖人を祝っていたが、800年に近い頃から11月1日の全聖人祭が生まれたと報じている。

トリーアの黙示録写本。黙示録7章9-11節の挿絵。あらゆる民族から選ばれた人々によってたたえられる小羊。キリストと諸聖人の集いの原風景といえる。

同じ8世紀末にイングランドのヨークで作られた暦にも11月1日の全聖人祭の記録がある。これを有名なアルクイン(生没年730~804)が奨励し、友人のザルツブルクのアルノ(785年より司教、798年より大司教)も当地で11月1日に諸聖人祭を祝った。ヴィエンヌ司教アド(在職860頃~866)がルートヴィヒ1世敬虔王(生没年778~840、皇帝在位814~40) にこれをフランク王国(西ローマ帝国)全土に広めるように請願。これを受けてルートヴィヒ1世が835年の勅令で11月1日を全聖人の祝日とするよう全国に義務づけた。その後、ローマでも教皇グレゴリウス7世(在位年1073~85)がローマ伝来の記念日5月13日より11月1日を優先するように定め、以後、ヨーロッパで一般化した。こう見ると、アイルランド、イングランドの慣行が全ヨーロッパに流入し、やがてローマに逆輸入されていったという景色が見える。

なお、11月1日の全聖人祭の翌日11月2日は10世紀の終わりからベネディクト会クリュニー修道院でのすべての死者を追悼する日としての実践が始まり、やがて全ヨーロッパに浸透するようになる。

ちなみに教皇シクストゥス4世(在位年1471~1484)が全聖人の祭日に八日間の祝いを付加し、1955年まで続いていた。日本語の旧称「万聖節」という呼び名はこの八日間を含めてのものであったわけだ。

 

(4)なぜ11月1日になったかは闇の中

では、なぜ、ヨーロッパで11月1日が全聖人祭として定着したのだろうか。11月1日の祝いの起源はどこにあるのか。これについてはおおまかにケルト起源説とローマ起源の説の二つがある。

ケルト起源説は、ハロウィンの起源として論じられるケルト暦での新年への移行儀礼「サーウィン祭(サムハイン)」を前提として、この日にアイルランドの教会で全聖人祭が設定され、そこからイングランドを経て、大陸ヨーロッパへ伝わったのではないかという説。

それに対してローマ起源だったという説もある。きっかけとして言及されるのは教皇グレゴリウス3世(在位年731~741)が732年にローマの聖ペトロ大聖堂(現サン・ピエトロ大聖堂)に「すべての使徒、殉教者、信仰告白者、そして全世界のすべての義人と完徳の人々のため」の礼拝堂を献堂したという事実。献堂式の日が定かではないが、当時イングランドのヨーク司教エグベルト(在職732~766)がグレゴリウス3世から大司教の位を授けられるというやりとりがあり、彼がローマの上述の礼拝堂の献堂日を踏まえて11月1日の全聖人祭を移入したのではないかという説である。

 

3.謎が謎を呼ぶ、ハロウィンと諸聖人

こういうわけで、11月1日の諸聖人祭(全聖人祭)の起源が最終的にはどこにあるのかは不明というしかない。ケルト暦との関連性は自然なので、それを重要視すれば、現在11月全体を死者の月と考える慣習までそこに由来するのかと思ってしまうが、はたして? いずれにしても、アイルランドやイングランドからヨーロッパ全土に広まっていたという流れは当時のキリスト教のヨーロッパでの広がり具合から見て、肯定できるものがある。ただし、アイルランド土着の宗教を何とかキリスト教化しようとして発生したわけではどうやらないらしい。ハロウィンが土着宗教の要素をもっていたにしても、ハロウィンという名前が11月1日の諸聖人祭(全聖人祭)の存在を前提としているのであり、そのかぎりはやはり再構成的な祭礼行事ではないのかと考えられる。

一方、教会の諸聖人祭も今日ではいささかインパクトが弱い。特別なことが行われるわけではなく、ただミサの祈りや聖書朗読がそれをテーマにしているだけである。どうしてか、それは、ミサはいつも奉献文の中で、諸聖人やすべての死者のことを祈っているからである。ミサがいつでもキリストの復活祭(死と復活の神秘の祝い)であるように、これとの関係の中で諸聖人祭でもあり、すべての死者の追悼ミサでもある。

起源論としては、謎めいているハロウィンと諸聖人の関係だが、少なくとも諸聖人の記念はキリストの神秘でいつも息づいている。

(石井祥裕/典礼神学者)

 


アメリカでのハロウィンの一日

一昔前までは、アメリカの映画かテレビの中でしか見られなかったハロウィンが最近ではへ急に巷でブレーク。あの「お化けカボチャ」ジャックオーランタンが“目を光らせ”、和菓子屋にも「ハロウィン」ののぼりが立つ始末。仮装行列が派手に行われ、保育園の年中行事にも10月がハロウィンの月。
でも、由来元のアメリカでは、どのように行われるものなでしょう。小学校低学年のころに米国在住経験のある方に、写真とともに思い出を語っていただきました。(編集部)

 

アメリカでのハロウィンの一日

松橋輝子(東京藝術大学大学院修士課程在学)

ジャック・オー・ランタン(日本で作ったものですが、サイズ、方法は、アメリカのときと同じです)

ハロウィンの季節になると、9月末ころからスーパーにはたくさんのハロウィンかぼちゃが並びます。農家などでは、ハロウィン・カボチャと一緒にあつあつのアップル・サイダーを売っており、これもまた、秋の到来を印象づけます。

そして各家庭で、ハロウィン・カボチャをくり抜き、ジャック・オー・ランタンを作ります。夜になると、中にろうそくを入れます。ハロウィン当日の衣装は、数週間前くらいから考え、魔女やドラキュラ、その他の思い思いのキャラクターの衣裳を、かつら、フェイスペイントなども含めて用意します。

ハロウィン当日は、学校に仮装して行きます。そして校庭で全校生徒による大規模なパレードを行います。先生方も仮装します。保護者ももちろん見に来ることができます(授業がはたして当日あったのかは、忘れてしまいました)。

魔女の衣裳の友達

放課後、小学生は仮装したまま、お菓子を入れるハロウィン柄のバケツなどをもって近所を回ります。近所の家に行っては、「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」)と言ってお菓子をもらうのです。各家庭では、いつ子どもたちが来てもいいようにたくさんのお菓子を袋詰めして用意しています。お菓子は市販のハロウィンっぽいもの、いわゆる「ジャンキーなお菓子」がほとんどです。

帰って、お菓子を広げますが、あまりに数が多いので、各家庭のベビーシッターに持って帰ってもらうことが多いです。

いくつか写真を紹介します。米国ニュージャージー州ショート・ヒルズ(Short Hills)の ディアフィールド(Deerfield)小学校での様子です。(クリックで拡大)

写真1

写真2

写真3

写真1:店頭に並ぶハロウィン・カボチャ
写真2:ミニー・マウスの格好をした私、隣は姉
写真3:校庭でクラスメート勢ぞろい。先生もてんとう虫の仮装。心地よい気候の季節の行事です

 


いのちへのケアとキリスト教の核心

田畑邦治(白百合女子大学学長、NPO法人 生と死を考える会副理事長)

1.哲学・教育・ケアの接点を探して

いのちの現場に問われて

今日まで35年余りにわたる私の教職の経験は、ケアの哲学・死生観の教育とキリスト教精神の出会いを探るものであったように思います。私は大学の研究所での事務の仕事を経て、最初の教職の場は、看護系の短期大学でした。そこで、キリスト教学や人間学を担当することとなったのですが、相手は臨床の場で働くことを目指す看護学生でしたから、果たして自分の専門用語が通用するものかどうかについて、いつも問われるばかりでした。

他方、社会活動の場としては、死別体験者の悲しみの分かち合いから発足したNPO法人「生と死を考える会」において、教養講座の講師や会の役員として、こちらもまたある意味で臨床的かつ実践的な人生との関わりの中で、自分の死生観が問われるということを経験してきました。

 

いのちの問題と哲学の使命

哲学・教育・ケアという分野の根源にあるキーワードともいうべきものは、やはり「いのち」であると思います。哲学史の流れからも、20世紀以降の現代哲学は、「現象学」や「生の哲学」や「実存哲学」に代表されるように、人間の現に生きているいのちの事実から出発して人間存在を考えるようになりました。

そういう20世紀西洋哲学の現場に身を置いた日本人哲学者・九鬼周造(1888-1941)は、哲学は決して「乾燥した抽象の学」ではなく、「生の鼓動を聞き、生の身ぶるいを感じる」ことにその本領がある、といった趣旨の発言をしています(九鬼周造「仏蘭西哲学の特徴」、『九鬼周造全集』第3巻、岩波書店、1981年)。

20世紀哲学の中で、私がもっとも刺激を受けた哲学者はエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)です。彼の哲学は「他者」の問題に集中していますから、教育やケアを考える上で無視できないのはもちろんですが、これまでの哲学のありかた全般を問いに付すほどの革命的な意義をもっていると思われたのでした。

レヴィナスの難解な哲学を明晰に解説したイギリスの哲学者コリン・デイヴィスは、レヴィナスの哲学は「哲学の企て全体の方位修正」であったとし、次のように言います。

「(レヴィナスにおいて)哲学的テクストの任は、「他者」について語ることではなく、「他者」に声を与え、「他者」の声がそれをかき消すノイズを通してなお聴きとられるような、語法を見いだすために自ら行動することになったのである。……レヴィナスの提示する倫理……そこにあるのは、「他者」の声は聴き取られなければならないという、一つの情熱的な道徳的確信だけである。」(コリン・デイヴィス『レヴィナス序説』p.268‐269)

哲学の本来の姿が、そういう他者の声を聴く語法の発見である、ということは、日本で臨床の哲学の中心的な役割を果たしてきた鷲田清一もまた強調しているところです。哲学はこれまで「語ること」を本業としてきたが、それは正しいことであったか。むしろ「聴くこと」にこそ、哲学が真の力を発揮できる場があるのではないか、と(鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』阪急コミュニケーションズ)。

 

生と死の尊厳に背く時代と教育の課題

ところで、一人一人のいのちの声がケアの心で聞き届けられるために、教育の責任は大きいと思います。教育現場は「競争」原理に浸透されて、いのちへのケアの側面がなおざりにされてはいないでしょうか。この問題にいち早く気づいていたアメリカの数学者・教育哲学者であるネル・ノディングスは『学校におけるケアの挑戦―もう一つの教育を求めて』(佐藤学監訳、ゆみる出版)の中で、人間の生存にとって何よりも大切なケアの精神が教育の場で教えられていないことに警鐘を鳴らしたのでした。教育の場にいる私自身、これははっとさせられることでした。

「ケアすることとケアされることは根本的な人間のニーズである。私たちは誰もが他の人からケアされる必要がある。幼いとき、病気のとき、老いたとき、その必要性は緊急かつ、いたるところにある。……(しかし)患者は医療制度の中でケアされていないと感じている。クライアントは福祉制度の中でケアされていないと感じている。老人はそれらの制度が提供する施設の中でケアされていないと感じている。子どもたち、特に青年たちは学校の中でケアされていないと感じている。」(11-12頁)

 

2.いのちの哲学―隠れたるいのち

哲学も教育も、第一義的にまず人間のいのちに向かい合い、そのいのちの声調に傾聴し、いのちのケアへの励ましになるべきだ、という認識は私の中でますます強くなってきました。しかし、この課題が至難なものであることは誰にも明らかなことです。その至難さの前で、諦めずに、理想を追求することができるのは、私にはキリスト教の福音とその伝統を汲む哲学の刺激が何よりの力となっています。キリスト教は何にも増していのちの尊厳とその偉大な完成を伝えるものだからです。

ところで、あまりに頻繁に使われる「いのち」はそれがあまりに多義的であるため、有意義な共通理解は難しいのですが、こと人間のいのちに限定してみるとき、いのちはただ生物学的な要素だけで語りつくされることはできず、一人ひとりの人格・感情・意志など、独特なニュアンスを有するものである、ということが注目されるべきです。いのちはこの意味で、隠れたるものであり、丁重な聴取の心をもった人にだけその内面の秘密を打ち明けてくれる、そういう内的でデリケートなものです。

ミシェル・アンリ(1922‐2002)という哲学者は晩年の名著『キリストの言葉―いのちの現象学』(武藤剛史訳、白水社)の中で、人間のいのちのこうした内面性を重視して、人間のいのちは、外面(世界一般の視野)からは直ちに見ることのできない「心」という情感性(受苦・喜び)を持って生きている存在であり、たんなる「理性」的存在ではない、と繰り返し述べています。

アンリの思想から意識させられることは、われわれは世界内的なものばかりに眼を向けて、他のすべてのものよりもはるかに価値あるはずのこのいのちを忘れ去り、優先順位を逆転させていないか、ということです。

 

3.〈いのち〉とキリスト教

聖書における〈いのち〉

われわれはいのちをまず身体的なものと考える習性を持っていますが、聖書では当然ながらもっと広く高い意味をもっています。ヨハネ福音書では「永遠のいのち」と頻繁に言われますし、それは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では「神の国」と同じ意味を持ちます。つまり、人間のいのちは生物学的・医学的意味を超えて、深まりゆくものであるとされています。いのちは神の内に生きているものであり(ルカ20:27‐38ほか)、いのちは単なる器官(モノ)ではない。それは根源的に神(超越)との密接なつながりをもっており、したがって。対象化(モノ化)できない尊厳を有するものです。

 

おわりに―愛によって完成するいのちの神秘

先日、私は通っている教会のミサの中で、当日の典礼が用意してくれた次の祈りに心が惹きつけられました。ミサや礼拝では、聖書の言葉が中心になるのは当然ですが、御言葉の前後に祈られる祈りが、その日の御言葉の神学を短く要約している場合があって、それはとても助けになるものです。

「愛の源である神よ、神と人々を愛し抜かれたキリストを思い起こして祈ります。主の死と復活の神秘にあずかるわたしたちが、その愛の勝利を力強くたたえることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」(奉納祈願)

愛の源である「神」と、その愛を極みまで生きた「キリスト」。そのキリストの死と復活にあずからせていただく「私たち」の人生の目的が「愛の勝利」の「賛美」である、と。

 


特集13 島原天草一揆

今月の特集は、島原天草一揆、いわゆる「島原の乱」を取り上げます。今から380年前の1637年、和暦では寛永14年10月25日(西暦1637年12月10日)に起こった、有馬村の百姓が島原藩代官林兵左衛門を殺害した事件が一揆の発端とされるからです。最終的には、寛永15年2月28日(西暦1638年4月12日)、原城陥落をもってこの事件は終結します。

徳川幕藩体制が確立するにあたって大きな転換点となったとされるこの事件への認識を新たにし、日本という国に生きる者の歴史の中で、また日本のキリスト教史に対しても、この一揆がもった意味について、今回の特集を第一歩として問いかけ始めていきたいと思います。

.

“静かなる研究ブーム”~~島原天草一揆(島原の乱)をめぐる最近の出版動向

森崎東監督夫妻と歩いた原城祉

日本とキリスト教の道半ば

(写真提供:鵜飼清)

 


日本とキリスト教の道半ば

石井祥裕

所属教会で歴史の学習会を実施している。その中で教会書的に知っていた「島原の乱」に関して、研究が目覚ましい変貌をとげていることを知った(書籍紹介参照)。大きな視野で語ってくれる著者たちから示唆を受けて、目を開かれるところは多いが、島原天草一揆として今は呼ばれるこの事件の全貌も意味もなお捉えがたい。専門の歴史家ではないので、研究者の示唆に頼るしかないが、しかし、それでも、歴史認識を刺激してくるいくつかのポイントがある。

神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ、2010年)

この一揆の主導者たちの意図においては、信仰運動として、宗教運動として、徳川幕府の迫害・禁教政策に抵抗して起こしたものという面が確かにあった。その場合、宣教師の指導がなくなった信徒だけの集団としてのある種の信仰の変質の予兆もあったようだ。同時に、かつての信徒組織(コンフラリア)のきずなの存続という面もある。キリシタン史の転換期の到来である。もちろん圧政下での生活の困窮が動機となった参加者もいた。一揆集団は混成集団で、雑多な人々がいたことは矢文の史料も物語る。その人々を統合するためにも、主導者たちには宗教的(キリシタン的)理念を強調していったようである。そこにはキリシタン宣教黄金期の記憶も投影されたことだろう。キリシタン宣教師と信徒が活躍していた時代が壮絶な終わりに向かっていく。そこには信仰の苦悩と同時に哀しさが漂う。

一揆集団は、客観的には混成体だったかもしれないが、真実の信仰心から参加していた者もいたことはたしかである。矢文史料の一つにみられる「宗門さえお構いなくしていただければいうことはありません」という声。また混成集団をまとめるために腐心した一揆主導者の意識を伝える『四郎法度書』にある「互いを大切に思って意見を交わすべきである。城内の者は、後世までも友達なのだから」という言葉も、原城に籠もった集団の中にある人々の意識の一端を示す。「大切」とか「友達」という言葉の用法はとても近代である。幕藩体制から敵視された原城内の人々には意識や動機の多様性も含めて近代性が感じられる。

幕府のキリシタン弾圧は、この事件後にも一区切りを迎える。1639年のペトロ岐部の処刑もその局面でのことだ。宣教師の時代が終わる。宣教師自身の棄教(転びバテレン)が見られるのもその時期。遠藤周作が『沈黙』で対象とする時代である。キリシタン史は潜伏期に向かう。そうした、キリシタンの活動時代から潜伏時代への転機、日本宗教史の室町戦国時代史から徳川時代史への転機という意味では、この島原天草一揆の位置はとても大きい。

写真は共に島原城内の展示。写真提供:鵜飼清

この事件は、それがどう取り締まられ、どう鎮圧されたかのプロセスにも興味を抱かせる。事件発生からどのような連絡系統で江戸幕府に伝わり、またどのような指揮系統で鎮圧が実行されたのか。ここには軍事体制としての幕藩体制の確立の度合いが試されている感も強い。西南諸藩の大名の原城攻撃の布陣図は、2万人ほど(と最近は思われている)の困窮農民たちを取り締まろうとするには大きすぎる規模だ。実際総攻撃時の虐殺も、幕府統治の圧力のほうをより大きく感じていての所業だったのではないか。

混成集団といわれた人々の思いは、人骨や十字架やメダイ、ロザリオなどの遺物の中にその断片を遺している。彼らが求めたものは、信仰の歴史の「あす」に実現したのだろうか。幕藩体制が近代国家への第一歩であったとするなら、この事件を経験した統治者は、その後、民衆やキリシタンに対してどのように臨んでいっただろうか(浦上信徒迫害事件を思い起こそう)。戦後が日本キリスト教史の「きょう」だとすれば、明治以降~戦前はいわば「きのう」。そして徳川時代は「おととい」になる。こう考えると、島原天草一揆はその「おととい」の始まりである。日本の国もキリスト教も道半ばの大きな事件であり、多くの犠牲であったのだ。民衆史においても、キリスト教史においても、日本の国の歴史においても、この事件にもっと関心を向け、語り合ってよいのではないだろうか。

(典礼神学者・実践神学者)

 


森崎東監督夫妻と歩いた原城祉

鵜飼清

いまから30年も前のことになるのだが、親しくさせてもらっていた映画監督・森崎東さんの実家を訪ねたことがある。森崎さんは長崎県の島原出身であり、お母さんの法事のために帰郷されていた。

ぼくはこのとき、堀田善衛の『海鳴りの底から』を読み始めていて、監督と一緒に原城祉を歩きたいと思っていた。島原の乱を素材にしたこの長編小説は、ストーリーの間にプロムナードを配置した特色を持っている。ムソルグスキーの音楽『展覧会の絵』を意識して挿入したというプロムナードには、堀田の1つの視点から考えが述べられる。この形式にも魅力を感じ、堀田が歴史小説で試みた「現代」に対する問題意識の発露を受け止めたいと思った。

幕府軍12万5千人を相手に、一揆軍3万7千人がたたかったという原城祉を歩くと、島原の乱の説明板に出会う。畑仕事をしている農夫は「いまでも畑から人骨が出るんですよ」と話す。島原の乱が、キリスト教弾圧に抵抗する信徒たちの氾濫とみるか、ある種の経済闘争とみるのかは、別れるところである。

森崎さんは『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』という映画を作ったばかりだった。原発ジプシーが主人公のこの映画では、原発の怖ろしさが描かれる。科学技術文明の行先が、人力を超えたところにあることを知らされる。

原城祉の土を踏みながら、一揆で死んでいった民たちを想った。遠く天草を眺めやる地蔵に、寛永14、15年(1637、8年)の慟哭を聞くようだった。領主や代官の重税に苦しむ民たちの救いとは、なんだったろうか。今の世は地獄でも、やがて天国へ行ける、そう思っていたのだろうか。

『海鳴りの底から』(『堀田善衛全集7』)の解説「状況の全体へ向けて」で松原新一は「『海鳴りの底から』全体をとおして〈近代〉と〈反近代〉との対立・相剋の問題を、島原の乱という歴史事件を借りて剔抉せんとする堀田氏のモティーフが反映していることは確実である。」とし、谷川雁の「原点が存在する」の一節を引用する。「『段々降りてゆく』よりほかはないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギーがある。」森崎映画が発するところと、堀田善衛の試みを感じるとき、この言葉がずしんと腹に落ちた。

原城祉を歩いたあくる日、ぼくは森崎監督と博多へ向かい、千石イエスの「シオンの娘」という店に行った。

(評論家)

 


“静かなる研究ブーム”~~島原天草一揆(島原の乱)をめぐる最近の出版動向

「島原の乱」については、気がつくかぎり2012年以降のBSテレビの歴史番組でも取り上げられることがたびたびありました。歴史家たちの研究が新生面を迎えていることを背景にしています。概説的にこの歴史的出来事を語る専門書・一般書の主なものをここで一覧にしてみます。教科書で「島原の乱」と教えられているこの出来事や「天草四郎」という人の実像について最近はどのような見方がなされているのか、この出来事をどのように考えたらよいのか、近年の書籍は新たな側面に光を当てています。

 

1.1960年代~1970年代の概説書

最近の概説書の中でも参考文献としてしばしば挙げられる1960年代、1970年代の書物に次のようなものがあります。

1960年 岡田章雄『天草時貞』(吉川弘文館)
1967年 海老沢有道『天草四郎』(人物往来社)
1967年 助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』(東出版)
1967年 助野健太郎『島原の乱』(東出版)
1975年 渋江鉄郎『島原一揆』(昭和堂)
1979年 片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』(時事通信社:再刊「片岡弥吉全集1」智書房 2010年)

これらの文献の中でも、この歴史的出来事が「島原の乱」のほかにも「島原一揆」という名前が出てきます。このうち1967年発行の助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』は、2010年にフリープレスから復刻版として『キリシタン迫害と殉教の記録』というタイトルで刊行されました。その上巻の「島原の切支丹」「天草の切支丹」の章でこの「乱」についての叙述がありますが、その中でも「島原一揆」と「島原・天草の乱」という二つの呼称が出てきます。この時代からも名称に諸説あるという事実は、教科書的な「島原の乱」という記憶をまず相対化させてくれます。

 

2.研究史の転換点となった「原城跡」発掘調査(1992年~2008年)

最近の「島原の乱」に関する“静かなる研究ブーム”と呼べる動向は、1992年に始まった長崎県の現南島原市による国指定史跡「原城跡」の発掘調査をきっかけとしています。これらに関連する事象を年譜的に記載します。

1992年   長崎県南高来郡南有馬町[当時]の国指定史跡「原城跡」の発掘調査が開始される

1996年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第2集 原城跡』発行

1998年10月 南有馬町にてシンポジウム開催

2000年   石井進・服部英雄編 長崎県南有馬町監修『原城発掘 西海の王土から殉教の舞台へ』(新人物往来社)発行(上記1998年のシンポジウムの記録)

2004年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第3集 原城跡2』

2006年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第4集 原城跡3』

2008年2月 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定一覧表登録記念シンポジウム「有馬の城・外交・祈り-西欧外交の原点を求めて」が開催される

2008年11月 服部英雄・千田嘉博・宮武正登編 長崎県南島原市監修『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』(新人物往来社)(上記2008年2月のシンポジウム記録)

2008年   「原城跡」発掘調査が終了する

壮大な発掘調査で、テレビの歴史番組でもこのことはよく紹介され、原城の遺跡の写真、実像想像図(CG)や乱終結の際に殺された人々の遺骨写真などは衝撃的でした。この発掘は、すべての史料の見直しをも迫る一大事業として注目されます。その経過を受けての二度のシンポジウムについての記録書籍(新人物往来社発行)には歴史の見直される瞬間が生き生きと収められています。

 

3.新しい展望へ~2000年代の動向

この発掘事業のさなかから、日本中世史・近世史・キリシタン史に関する研究者の間で、「島原の乱」の歴史的実像をめぐって新たな史的展望を描き出す研究が発表されるようになりました。その中でこの出来事の意義を大きな視野から考えさせてくれる研究者・著者は次の三人ではないかと思います。

(1)一人は、神田千里氏(1949年生まれ。東洋大学文学部教授。日本中世史(中世後期の宗教社会史)専攻)。彼は、2004年に『土一揆の時代』(吉川弘文館)、2005年に『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』(中央公論新社)を発表、また2010年の『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)でも「宗教一揆としての島原の乱」について概説しています。広く世界史動向を見据えながら、室町・戦国期の日本の宗教史の上で「宗教一揆として島原の乱」を位置づけていこうという視点を示しています。ただし、一揆であるといいながらも、教科書的な「島原の乱」という呼称を使っています。

(2)次に、大橋幸泰(ゆきひろ)氏(1964年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。日本近世史・近世宗教史専攻)が注目されます。彼は2001年に『キリシタン民衆史の研究』(東京堂出版)を発表。2008年には神田千里氏の所論への批判説も含む従来研究の検証を意図した『検証島原天草一揆』(吉川弘文館)を発表しています。そのなかで名称問題に関して「この一揆は、一揆発生時はもちろん、近世期を通じて『一揆』の典型例として語り継がれてきた。領主と百姓との緊張関係を維持するのに大きな役割を果たした事件として、近世人にとってこの出来事は『一揆』そのものなのであり、『一揆』こそこの事件の呼称としてふさわしい。したがって、一揆の前半を表す「天草」を加えることとあわせて、この事件は『島原天草一揆』と呼ぶのがもっとも自然である」(同書190ページ)としています。大橋氏はその後、2014年『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社選書メチエ)、2017年には『近世潜伏宗教論:キリシタンと隠し念仏』(校倉書房)を発表しています。

神田氏は室町・戦国の宗教史の側から、大橋氏は近世の宗教政策や潜伏キリシタンの史の側から、島原天草一揆を観ているようでもあります。

(3)これら日本史研究者が示した新しい視点からの「島原天草一揆論」は、上智大学のキリシタン文化研究会からも注目され、2010年12月には上智大学キリシタン文化研究会主催・上智大学史学会共催フォーラム『島原天草一揆再考』という催しが行われました。神田氏、大橋氏の諸説提示に積極的にこたえ、キリシタン史研究の伝統の中でも、「島原天草一揆」を再考しようという姿勢は、大変積極的なものと感じられます。このフォーラムについて、主催者の一人である川村信三師(1958年生まれ。イエズス会司祭、上智大学文学部史学科教授)は、『カトリック生活』2011年2月号での連載「キリスト教史)ステップ・バイ・ステップ」第41回「島原・天草一揆(乱)再考」でレポートしており、神田氏、大橋氏の諸説から示唆を受けた点と、さらに補完すべき観点を挙げるとともに、日本史研究家とキリシタン史研究家の交流がこの事件の真実に迫る上では重要と指摘しています。

(4)そのような動向の中でキリシタン史研究のベテランとして、『日本キリスト教史』(吉川弘文館 1990年)や『日本キリシタン史の研究』(同 2002年)、『キリシタンの文化』(同 2012年)などの主著がある五野井隆史氏(1941年生まれ)が2014年に『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館)を発表しました。本書の特徴は、島原天草一揆(教科書的呼称「島原の乱」を著者は使っています)という事件そのものは、ようやく最後の三分の一(160ページ以降の「島原の乱と百姓とキリシタン」という章)になって語られているということです。それまでは「島原におけるキリシタン」「天草におけるキリシタン」とこの出来事の前史にあたる両地方のキリシタン史概説となっています。キリシタン伝来の最初期からの歴史を思い起こさせることで、この事件の地層にあるものを暗示する形をとっています。神田氏、大橋氏が提起するような歴史論には絡むことなく、淡々と概説するものですが、深く歴史を考えさせてくれるのではないかと思います。また、これから島原天草一揆(島原の乱)を知りたいという人にとって、本書の「島原の乱と百姓とキリシタン」がもっとも適度な概説書ではないかと思われます。

神田氏、大橋氏、五野井氏は、それぞれの研究を相互に参照し合っている研究者たちですので、一般向けに書かれた彼らの著作を通じて、わたしたちの見方をいろいろに刺激し、養ってくれるのではないかと思います。

(AMOR編集部)

 


歓喜の街カルカッタ

私はこの『歓喜の街カルカッタ』(ドミニク・ラピエール著、長谷泰訳、河出書房新社、1987年)を見つけて読んだときにとても感動した。フランクルの『夜と霧』を読んだときと同じような感動だった。どうしてこの本を見つけたかは覚えていない。誰かに薦められて読んだという記憶もない。

『夜と霧』がそうであるようにこの本も読みにくい本である。この目を覆いたくなるような過酷な現実に満ちた世界最大のスラムがなぜ「歓喜の街」と呼ばれているのか、この本を読むと納得がいく。

以下はこの本の紹介文である。

 

サッカー場を3つ合わせたくらいの場所に7万人が住む、カルカッタ有数のスラム「歓喜の街」―。皮肉にもそう呼ばれる場所で彼らは、ゴミあさりや人力車を引きながら、1日20円ほどで家族を支えている。「20世紀に生きるわれわれにとって最も刺激的な体験は、月旅行をのぞけば、この『歓喜の街』で過ごすことである」と登場人物の一人は語る。

「パリは燃えているか?」の著者がマザー・テレサの国インドで体験した愛とヒロイズムの大型ノンフィクション! 全世界で12か国語に翻訳、300万部の大ベストセラー。日本語版ついに刊行!(単行本下巻帯より)

この街には、西欧の豊かな町のどこよりも、ヒロイズム、思いやり、そして喜びと幸福があった――確かに彼らは何も持っていない。しかし、この人たちはすべてを所有しているともいえるのだ!(単行本上巻帯より)

 

さらにこの本を原作とした映画がある。1992年作ローランド・ジョフィー監督の「シティ・オブ・ジョイ」。その紹介文はこちら。

 

貧困のシンボルの様な町カルタッタに、一人の少女の手術の失敗から立ち直れない青年外科医が吸い寄せられる。容赦なく彼を襲う“歓喜の町”の厳しい現実。年端もいかぬ少女の売春、顔役の息子の非情な搾取、暴力……。そして彼は、干ばつの北インドを逃れてこの大都会に家族共々職を求めに来た男ハザフに出会う。その友情を軸に、町の腐敗に立ち上がる主人公の、自力更生していく様をドラマティックに描く。

 

小説の方には農村からコルカタに出てきて人力車の車夫をしているバザリ、マイアミの裕福な家庭に育ったユダヤ系アメリカ人の医学生のマックス、そしてこのスラムにすみたいと言ってやってきたフランス人のカトリック神父ランベール。この3人が主人公となって物語が展開する。

映画の方には残念ながらカトリック神父は出てこない。だから宗教色はほとんど消されている。

小説の方がずっといいのだが、映画の方も決して悪くはない。私はこの映画を高校2年生の「宗教研究」のクラスの修道院泊まり込みの夜に見ることにしていた。感想については聴かないことにしているが、きっと生徒の心の奥深いところに感動を刻み込んだはずである。

小説の上巻の最後の部分にランベール神父が、マザーテレサを訪ねる場面がある。映画にはない。マックスがハンセン病の患者の施設を作りたいので助けてほしいとマザーに頼む。

 

「ユー・アー・ドゥーイング・ゴッズ・ワーク(あなたは神の望まれる仕事をなさっている)。わかりました。ハンセン氏病患者の世話をしつけたシスターを、三人行かせましょう」
ひとの身体がずらり並んだ部屋に目をやり、さらにマザー・テレサはいいたした。「あの人たちはわたしたちがあたえる以上のものを、あたえてくれます」
   (中略)
 ポール・ランベールは感無量の思いだった。
「カルカッタよ、たたえられてあれ。禍(わざわい)のなかにも、おまえは聖者たちを生みだしたのだ」

 

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


特集12 マザー・テレサ帰天20年

昨年9月4日に列聖されたコルカタの聖テレサことマザー・テレサを、帰天20年にあたり思い起こします。今、世界では、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』(2015年発布)によって、「ともに暮らす家」であるこの地球を大切にと呼びかけられ、同じく教皇の提唱により、貧しい人々のことを覚える世界祈願日が今年の年間第33主日(11月19日)から始められます。これらの動きの背景にはやはりマザー・テレサの姿がくっきりと浮かび上がってきます。たえず人の心を動かしてやまない、その影響の跡を見つけてゆきたいと思います。

 

マザーテレサ帰天20年

Missionaries Of Charity Brothers CAVITE, MaNILAのこと

眼差しの向こうにはいつも「地球家族」がある

宇宙をホスピスにしたい

歓喜の街カルカッタ(2017年9月30日追加)

(写真提供:千葉茂樹)