沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(2)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか

(前回の記事はこちらです)

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

カトリック石垣教会。海色の屋根が印象的だ

沖縄の人びとの想いが集約されているのは島唄――土着の問題

沖縄の事柄は、内地の日本人にとっては特殊なことが多く把握するのが難しいので心が向きにくい事情もあるだろう。沖縄の人びともすべてを日本人(ないちゃー)に語るわけではない。そんな際に、内地日本人が沖縄の人びとの心情を知るのに有用なのが島唄(沖縄民謡)だ。余談だが、沖縄の民衆思想を知る上で沖縄の音楽(特に歌詞)を研究することが肝要として、米国CIAが研究レポートを発表していると沖縄の地元日刊新聞である「沖縄タイムス」が報道した。皮肉にも、アメリカの方が日本内地よりよっぽど「沖縄に心を向けている」と言えるだろう。

【参照】米CIA、BEGINやモンパチ分析していた 沖縄世論研究で(沖縄タイムス2018年5月28日付)

日本から見て沖縄本島の先にある八重山諸島(石垣島、宮古島など)の有名な島唄にデンサー節がある。「デンサー」とは、「伝承」の訛りで、年長者から年少者への諫め、処世術を伝承する内容で、とくに嫁入りに力点が置かれているように思われる。歌詞と、日本語訳を紹介する。


デンサー節(八重山民謡)

デンサー節ちゅくてぃ
わらびんちゃにゆまちぃ
しきんのいましみなゆしどぅ
わんねいにがゆる
デンサー

うふやぬなんてんばなくなだ
ぬきやぬなんてんばなくなだ
きむぐくるみやでぃくまにゆみくだ
デンサー

うやふぁかいしゃふぁから
きょうだいかいしゃうとぅとぅから
きないむつかいしゃゆみぬふぁから
デンサー

むぬいいざばつつしみよ
ふつぬふかからんだすなよ
んだてぃからやまたやぬみやならぬ
デンサー

いきがややぬなかばしら
いなぐややぬかがん
くるちばしらとかがんやたげいにすなわり
デンサー


日本語訳

教訓歌(伝承)を作って
子供たちに読ませて
世間で大切に伝えられている戒めを、
教え諭すことが私の望みです
このことを伝えておきますよ

お金持ちだからと嫁にきたのじゃない
貧乏だからと嫁にきたのじゃない
貴方の心映えの良いのを見て、わたしは嫁にきたのです
このことを伝えておきますよ

親子の関係の良し悪しは、子どもの姿を見れば、わかる
兄弟の間柄の仲の良さは、弟がどれだけ兄を尊敬しているかで、わかる
家庭の仲睦まじさは、嫁の育てる子どもの様子を見ていれば、わかる
このことを伝えておきますよ

人の文句を言いたくなった時は、口を慎むことです
たとえ思っていても、言葉を口から外へ出してはいけない
一旦口に出してしまってからは、もう一度、その言葉を呑み込むことはできないのです
このことを伝えておきますよ

男は、一家を支える大切な中柱・大黒柱です
女は、家庭の中の様子を映し出す鏡のようなものです
立派な黒木の柱と磨いた鏡とは、良き家庭には、常に互いに備わっているものなのです
このことを伝えておきますよ


八重山では有名なこのデンサー節に、波照間永伴という学校の校長が歌詞を充てて、「愛の源」という聖歌を作っている。このデンサー節聖歌「愛の源」の歌詞板は、沖縄県石垣市内にあるカトリック石垣教会の内側にある。これもまた、沖縄の精神風土とキリスト教の土着化(インカルチュレーション)と言えるだろう。

石垣教会内にあるデンサー節聖歌「愛の源」の歌詞板。これに会いに、石垣島に行くのもいいかもしれない

さらに、沖縄の聖歌としては、「マラナタ」「大波のように」「ごらんよ空の鳥」などで知られる新垣壬敏(つぐとし)さん(白百合女子大学教授)のものが有名なほか、カトリック、日本聖公会双方に、2つの「命どぅ宝」(ぬちどぅたから=「命こそ宝」の意)という聖歌がある。カトリックの方の歌は、6月23日の「平和巡礼」でも歌われていた歌で、日本聖公会の方は、下地薫さんという沖縄の方作曲の歌だ(和名タイトルは「沖縄の磯に」「日本聖公会聖歌集」第423番)。こちらは音階が西洋音階でも日本音階でもなく、明らかに琉球音階で大変珍しい。ぜひ聴いていただきたい。このあたりにも、キリスト教の土着化のヒントがありそうだ。

話は逸れるが、石垣島にはカトリック石垣教会の隣に海星学園幼稚園・小学校というカトリック学校がある。沖縄本島には沖縄カトリック中学校・高等学校があり、場所は沖縄国際大学(宜野湾市)のすぐそば、つまり普天間基地の近接地である。昨年は、沖縄カトリック高等学校(カト高)に硬式野球部が発足して、甲子園に出場した豊見城高校OBを指導者として招聘し、甲子園を目指していると話題になった。

高等教育においても、沖縄キリスト教学院大学(中頭郡)というプロテスタント系の学校があり、幼小中高大と、キリスト教学校が用意されている。沖縄キリスト教学院大学(以前は短大のみで、通称キリ短と言われていた)には沖縄キリスト教平和研究所が併設しており、「6・23」前後にはもちろん講演会がなされるほか、平和研究・平和教育の拠点となっている。

沖縄キリスト教学院大学。地元のOBの友人はドラキュラ城と呼んでいた

 

現実に還って

以上、「なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか」というテーマを念頭に置き、「沖縄キリスト教史」を概観しながら考察してみたが、なかなか難しい。筆者も沖縄から東京に戻って2週間。すっかり都会の日常に埋没しつつある。そんな今も当然、沖縄の人びとの頭上には脅威が迫っている。

沖縄と東京との間には平均所得が2倍以上の差がある経済的実情と社会的構造は覚えておくべきことだ。一人当たりの都道府県別年収では、1位はもちろん東京都で、47位は沖縄県、長らく46位は筆者の郷里・長崎県である。「46位と47位」ということではいないが、同じく東京から見て「貧しくされた」辺地である沖縄には関心を持ってきた。ともに日本史の中で「捨て石」とされた地のようにも見える。戦争被害も大きかった地である。

都市に住む人には、「都会で稼いだ金を地方に落とす」というライフスタイルがいいかもしれない。東京には銀座を中心に各県のアンテナショップがあるし、そこからお中元やお歳暮なども送れるようだ。また、自分の郷里でなくても「ふるさと納税」ができる。今はネットで簡単だ。どちらも地方を支える営みといえよう。

日本のカトリック教会では、8月に入って「広島原爆の日」の8月6日から「終戦」の8月15日までを平和旬間としているが、「拡大平和旬間」として、平和旬間を「沖縄慰霊の日」の6月23日から始めるというのも、「沖縄に心を向ける」ための一助となるかもしれない。

沖縄から戻り東京で見つけたポスター。中央からもこのような声がある

石垣島で見つけた「マリヤソフト」(マリヤ乳業)

 (写真提供:筆者)

 


沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(1)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

本年2018年は、6・23の「沖縄慰霊の日」にあわせて沖縄を訪れた。今年は2月にも沖縄本島と八重山諸島を訪問していたので4か月ぶりの再訪となる。6・23は沖縄戦が終わった日で、沖縄の人びとにとっては、内地の8・15よりも影響力が大きい特別の日だ。しかしながら、この「6・23」を一体どれだけの内地日本人が認識しているかというと、答えは相当に怪しい。そもそも戦後73年が経って、「8・6」(広島原爆の日)と「8・9」(長崎原爆の日)、あまつさえ「8・15」(終戦の日)が何の日かさえ知らない日本人成人(18歳以上)が近年たくさんいる。以前は「八月や 六日九日 十五日」という被爆者による句が、よく紹介されていたはずだが……。

今年は二度の沖縄滞在を機に、大いに沖縄に思いを馳せることができた。

 

沖縄キリスト教史をひもといて

フランシスコ・ザビエルの一行は1549年に中国経由で鹿児島の坊津に上陸し来日したと言われる。ザビエル一行と沖縄との関係は史料には記されていない。

石垣永将殉教地(火刑跡地)にある祠(〒907-0024 沖縄県石垣市新川54)

沖縄の史料に最初にキリシタンが出てくるのは、日本で禁教令が出された後の1624年に琉球王国支配下の八重山(石垣島)で起こった八重山キリシタン事件である。石垣永将という島の有力者(宮良頭)が主人公であり、この人物は、善政をなして島民から評判がよかった人物で、「琉球最初のキリシタン」「琉球最初の殉教者」と言われている。ことのおこりは、1624年の夏にスペイン人のドミニコ会宣教師のルエダ(Juan de los Angeles Rueda)が八重山に漂着してきたことである。そのルエダら遭難者を石垣永将が保護したことから、石垣永将がキリシタンの教えを受けたと疑いをかけられ流罪となり、さらに1635年には火刑に処された。ルエダも琉球王府に連行されたのちに粟国島に流され、処刑された。この事件以降、琉球においても宗門改が実施されることになり、日本による禁教政策下となる。青山玄『石垣永将の殉教――琉球最初のキリシタン』(聖母文庫)に詳しい。青山さんによると、石垣永将をキリシタンとしながらも、外国側(宣教師側)の史料には、石垣永将が洗礼を受けたという記録はないとしている。

石垣永将の殉教地には現在も祠があり祀られている。向かって左が石垣永将、右が弟を記念する石である。祠にはよく見ると十字架にも見える紋があり、祠の入口には今は教会らしい装飾がなされているが、以前は鳥居が設置してあったようだ。長崎のキリシタン史蹟にも似ており、複雑な歴史的背景があるようだ。

八重山キリシタン事件によって沖縄が禁教下になって以降、沖縄においてキリスト教が白日の下に現れるのは、幕末を待つことになる。

日本のプロテスタントの側で、2009年を「日本プロテスタント宣教150年」として祝おうとした際に批判が入れられ、急遽「/沖縄プロテスタント宣教163年」などと併記されたことがあった。ベッテルハイムというユダヤ系の聖公会宣教師が、1846年に英国人として沖縄に到っていたからだ。沖縄への配慮は当然なされなければならないし、厳密に言うならば、聖公会をプロテスタントと区分すること自体に聖公会の側から異論もあろう。祝賀イベントには慎重を要する。

石垣永将殉教地にある碑

カトリックの側でも、昨今「再宣教150年」関連の祝賀イベントが開かれている。プティジャンは1862年に横浜の土を踏むが、それより前の1844年に、同じくパリ外国宣教会のフォルカード(のちの司教)が沖縄を訪れている。2年間ほど那覇・天久の聖現寺に滞留し、『琉仏辞典』を執筆するも、琉球語が日本では使えないことを知ると怒り悲しみ、その辞書を海に棄ててしまったエピソードは有名である。残っていれば、一級史料になったであろうに。その後1855年に、同じくパリ外国宣教会のフューレ、ジラール、メルメ・デ・カションらが那覇を訪れ、プティジャンはそれより遅れて1860年に来琉する。「日本カトリック再宣教150年」などとやるとプロテスタントと同じ轍を踏むので、「〇〇教区再宣教150年」などと工夫しているようだ。今年2018年は「大阪教区再宣教150年」である。

カトリックにとってもプロテスタントにとっても、幕末期において沖縄は「要石」であったわけだ。日本開国の契機となったペリー提督も、浦賀に現れる前の1853年6月に沖縄を訪れている。その後、琉米修好条約という条約を締結している。欧米列強の各勢力が、日本開国をにらんで沖縄に滞在していたわけである。

2につづく

 


ルエダ神父と石垣永将の殉教

【素朴な質問2】

「1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、以後キリシタン宣教の時代が始まり、やがて徳川時代初めには激しい弾圧と殉教の時代になることは知られていますが、あの当時、キリシタンの宣教は琉球王国の島々にも及んでいたのでしょうか?」

 

【探してみました】

そんな問いかけをもって文献を探していると、青山玄著『琉球最初のキリシタン――石垣永将の殉教』聖母文庫(聖母の騎士社、1997年)という本に出会いました。わずか178ページ。文字も大きく読みやすい小さな書。著者は、神言会の司祭で、キリシタン史、日本キリスト教史研究者の青山玄(1930年生まれ)師です。

青山玄『琉球最初のキリシタン――石垣永将の殉教』聖母文庫(聖母の騎士社、1997年)

1970年代、沖縄の日本復帰(1972)頃に高まっていた石垣永将という人物についての関心を受けて、1973年から現地で調査を始めた研究の成果が簡潔にまとめられ、1997年に出版されました。学術論文風ではなく全体として、自身の研究ドキュメンタリーのような書となっています。関係の文書・史料、関係者談話、後世に作られた系譜・伝説、先行研究書、現代作家による小説などをあらゆるものをつぶさに批判検討しながら史実に迫ろうとするところにサスペンス感もあり、専門家ではない読者にとっても興味深く、広く歴史研究を志す人にとっても参考になる事例紹介といえるかもしれません。

この本からは、二人の人物が浮かび上がります。ドミニコ会宣教師ルエダ神父と石垣島の人、石垣永将です。その足跡を探るなかで、あのキリシタン宣教の時代における琉球の位置が浮かび上がってもくるのです。ひとまずは、その研究の成果から、二人の人物の足跡をたどってみます。

 

ルエダ神父の足跡

フアン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父は1578年頃、スペインのブルゴス地方に生まれ、ドミニコ会の学校で育ち、同会に入会し、司祭になったようです。バリャドリードのサン・パブロ修道院にいた1603年、ドミニコ会が極東宣教のために設立した「ロザリオの聖母管区」の宣教師募集に応じ、第8次宣教師派遣団の一員として同年6月セヴィーリヤを出発。大西洋を渡り、西インド諸島に入り、メキシコに到着して滞在。1604年6月マニラに到着しました。日本で、ドミニコ会宣教師は、1602年から薩摩領主島津忠恒に招かれて甑島の長浜村に滞在しており、1604年7月、ルエダ神父もここに来て日本語を学習。1606年2月からは川内町の京泊に移り、日本語学習を継続します。1607年、肥前国浜町に赴任。当時肥前佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂がドミニコ会の活動に好意を示したため、宣教は順調に進み、修道院や教会堂の建設も実現しました。

ところが1613年から徳川幕府の宣教師弾圧の方針が及び、肥前佐賀藩主からも追放令が出され、ルエダ神父らはこれに従い、佐賀を出ます。が、その後も1620年まで薩摩・日向以外の九州全域で潜伏しながら司牧活動を続けます。神父はこの活動中の見聞を書簡や報告書に記しており、それはこの時期のキリシタン信徒に対する弾圧・拷問・処刑の様子にとって貴重な史料となっています。しかし、潜伏活動の労苦がたたり、慢性的な病にかかり、ルエダ神父は1620年12月、長崎を去り、マニラに戻ります。

 

石垣島へ、石垣永将との出会い、そして殉教

マニラでも、ルエダ神父は歴史に残る重要な仕事をしました。ドミニコ会司祭を志願者していた日本人神学生ヤコボ朝長五郎兵衛、トマス西六左衛門(二人は後に殉教し、トマス西と15殉教者聖人に数えられます)の入会を支援したこと、そして、日本にいるキリシタンを励ますために『ろざりよ記録』(1622)、『ろざりよの経』(1623)を出版したことです。そのような中、日本に戻りたいという気持ちを高めていたルエダ神父でしたが、当時は徳川幕府の支配が徹底され、宣教師が追放されただけでなく、外国船の渡来そのものも厳しく制限され、禁じられていく時代。その中で日本に再渡航するための方策として、ルエダ神父はまず「薩摩の殿に所属している琉球の島」に向かい、1624年8月末か9月初めに石垣島に到着。ここで、港の管理を司っているこの地区(宮良、読み:みやら)の行政責任者である「宮良頭」を務めていた石垣永将と出会います。

石垣永将という人は、八重山きっての名家である嘉善姓の出で、父・石垣永正(生没年1550~1620)は石垣頭職という八重山最高の役職(在職年1601~15)にあった人でした。永将は1580年代初めに永正の次男として生まれます。側室の子でしたが、優秀な青年だったようで、30歳代初め、1611年頃に宮良頭職に抜擢されます。そこでルエダ神父の来島を迎えたのでした。神父が20日間あまり滞在していた間、おそらくこの神父から永将は洗礼を受けただろうと考えられます。

やがて、永将の家にキリシタンの宣教師が匿われているという通報が琉球王国王府になされ、王府は薩摩藩に対応を打診したところ、結局薩摩藩からの命令で、派遣された役人によって石垣永将は火刑に処せられました。彼の火刑の具体的な様子はわかりませんが、この刑を受けるときの態度は、深くキリシタンの人々の心に残っていたようです。事実、同じくキリシタンとなっていた彼の二人の弟も、キリシタン弾圧の激化する1634年、1638年に殉教を遂げることになるのです。

他方、ルエダ神父の最期については、トマス西神父の書簡に書いてあります。それによると、ルエダ神父は、ある寺の僧侶と議論になり、僧侶が琉球王に訴えたことから、その命令により、粟国という島にいったん追放されます。その土地で、神々にささげられた森に、神父は入っていったところ、琉球王に訴えが行き、王によって死刑の宣告が与えられます。ルエダ神父は、他の島へ連れて行くといわれて船に乗せられ、船から海に投げ込まれたか、あるいは船で斬首されて、遺体が海に投げ棄てられるかたちで、殉教を遂げたと伝えられています。1625年か1626年のことでした。

 

琉球とキリシタン

16世紀半ば、1543年にポルトガル人が種子島に来て、鉄砲を伝え、1549年にフランスシコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の布教が始まります。その頃、宣教師から琉球諸島はどのように見られていたのでしょうか。青山師は、ジョージ・H・カー著『琉球の歴史』(琉球列島米国民政府発行、1956年)、岸野久『西欧人の日本発見――ザビエル来日前日本情報の研究』(吉川弘文館、1989年)などを参考にしつつさらに推論を加えています。ポルトガル人は、インドのゴアを1510年から支配、1511年にマラッカを占領し、交易拠点とし、東アジアへの進出の足掛かりとします。この時代まで、琉球の貿易船がスマトラ、ジャワ、マラッカに来ていたようですが、ポルトガル人占領後、諸民族の対立感情が新たに強まると、ここを退き、タイとの交易に限定していくようになっていたそうです。この頃、琉球人の存在が西洋人に知られ、琉球は「レキア」などと呼ばれます。

岸野久『西欧人の日本発見――ザビエル来日前日本情報の研究』(吉川弘文館、1989年)

種子島来航に先立つ1542年に琉球諸島がポルトガル人に知られたと推測されますが、その後、種子島、鹿児島と、ポルトガル人が日本本土に盛んに来航するようになった反面、琉球には接触がありません。それは、明国を宗主国とし、官立貿易を旨とする琉球王国自体が、明国から排斥された中国人や日本人の倭寇、また密貿易に従事していたポルトガル人との接触を避けていたからではないかと考えられています。16世紀半ばになると、明国政府もポルトガル人との交易を許容するようになり、そうなると明国との交易で、琉球人にとってポルトガル人は競争相手になります。ポルトガル人のほうでも日本や中国との関係が広がると、あえて琉球に接触する必要もなかったといえるようです。

そのような中、中国や日本の情勢も変わり、一時的停泊港として琉球にやってくるポルトガル人も増えて、琉球のことがだんだんと知られるようになり、とくに後発のスペイン船やスペイン人の宣教師にとって、琉球は日本に向かう足掛かりとなっていきます。そして、1613年以降、日本でキリシタン禁教令、宣教師追放令が強化されると、薩摩の支配下にあるとはいえ距離的に遠く、また表向きは、明国の属国であるというその特殊な性格の国であったため、日本に潜入するための糸口となっていたと考えられています。

そうした変転の果てに、ドミニコ会スペイン人宣教師ルエダ神父と、琉球最初のキリシタン石垣永将との出会い、そして二人の殉教という出来事が生まれたのです。詳細の不明なところが多い二人の歴史ですが、たしかにキリスト教と琉球、ひいてはキリスト教の近世日本の関係を垣間見せてくれるものとして記憶にとどめられています。青山師は「あとがき」で本書を結ぶにあたり、ルエダ神父と石垣永将について、「彼らは今も隠れた所からそっと琉球の人々に伴い、祈り、導き、手助けをしているのではなかろうか」と記しています。当時の宣教がもっていた信仰心のあり方までも問いかける本書は、さまざまなヒントに富んでいます。

やがて時は流れ、19世紀の前半、琉球と宣教師の出会いの第二の歴史が始まります。

 

【参考文献】
D. アドゥアルテ 『日本の聖ドミニコ: ロザリオの聖母管区の歴史』 佐久間正, 安藤弥生訳, ロザリオ聖母管区本部 1990: D. Aduarte, Historia de la Provincia del Santo Rosario, O.P., Manila, 1640.

(AMOR 編集部)

【関連記事】
質問1:琉球王国とは?
質問3:幕末にやってきた宣教師とは?……フォルカードとベッテルハイム(近日公開予定)

 


沖縄の雲に魅せられた人

喜屋武貞男(きやたけ・さだお)さんに会っていると、いつも気持ちがリラックスしてくる。話をしているうちに、こころがほんわかしてきて、なんだかいままで思っていたわずらわしいことがどうでもいいやという気分になってくる。これは、いいかげんな気持ちにさせられるということではなく、ゆったりとしたとても心地よい気分ということだ。

喜屋武貞男さん

ぼくが喜屋武さんに初めて会ったころ、喜屋武さんは千葉と沖縄を行き来していた。それは千葉に住みながら沖縄にもアトリエをつくって、絵を描いていたからだ。沖縄の雲の美しさを感じて、ずっと雲を描き続けていた。

喜屋武さんは、大阪市此花区という沖縄出身者が多く住んでいる場所で生まれた。昭和11年(1936年)のことである。大阪で育ち、東京学芸大学美術学部彫刻科を卒業して、千葉県内の公立学校で美術の教員になった。喜屋武さんの専門は彫刻だが、退職してからは風景画も描き始めていた。西伊豆の風景画を描いていたとき、沖縄で見た風景と美しさにちがいがあることに気づいた。

遠近法の常識として、〈手前はあざやか遠くはぼかす〉ものと決めていたのは実は空気のよごれだったのだ。空気のよごれを私は美しいと思って描いていたことに気がついてしまったわけだ。そうすると、西伊豆で得意になって美しいと思って描いていたのはなんだったのか、と疑問をもってしまったのである。私は美しいものを描いているつもりで、知らなかったこととはいえ、実はよごれを描いていたことになり、それが呪縛になって、それから日本本土では風景画が描けなくなっていた。それで60歳をすぎて、また、絵を描くのであれば、私に呪縛をかけた沖縄の風景から、もう一度やり直そうと思ったのである」

喜屋武さんに呪縛をかけた沖縄。ぼくは喜屋武さんが沖縄人としてのルーツの話をされたとき、その呪縛の意味がぼくなりに理解できたのである。

喜屋武さんの先祖は琉球人で、毛氏(もううじ)の護佐丸(ごさまる)盛春という15世紀の人だと言う。沖縄中部の山田城、座喜味(ざきみ)城、中城(なかぐすく)城の城主だった。護佐丸盛春に悲劇が起こるのは、尚泰久王(しょうたいきゅうおう)が琉球を治めていた時だった。勝連という文化の栄えた豊かな地域の首長である阿麻和利(あまわり)は首里城を攻め落とし王位につこうとしていた。それに気づいた尚泰久王は娘を阿麻和利に嫁がせ、忠臣の武将・護佐丸を中城城の按司(あじ、首長)に据えて阿麻和利を牽制する。尚泰久王は護佐丸の娘を妻にしていた。阿麻和利は護佐丸が兵馬を訓練して城塞を固めるなどして王府に反逆を企てていると讒言(ざんげん)した。尚泰久王はこれを疑いながらも阿麻和利に護佐丸討伐を命ずる。護佐丸はもとより謀反の気持ちはなかったので、何の抵抗もせずに自刃した。そこで阿麻和利は首里城を攻撃しようとするが、妻(尚泰久王の娘)と付き人に悟られ国王軍の反撃で敗れ去ったのだった。

護佐丸の最期の日は十五夜で、城内で家臣たちと月見の宴をしていた。周囲を阿麻和利の軍に囲まれては、国王に無実の罪だと伝えることもできず、「官軍に刃向うは臣下の道にあらず、これも運命なり」と護佐丸は家来や妻子たちに言い含め、一矢も放たず、夫人と2子と共に自刃し、家来たちもこれに殉じた。時に1458年のことであった。

「自刃して果てて全滅したのに、なぜ私まで代が続いたのか。それは長男、次男は一緒に死んでしまったけれど、乳呑み児だった3男だけはどうしても殺せず、乳母に城から逃げのびさせたからだと伝わっています。一族が滅びてから、国王が攻めたのがまちがいだったと気づき、護佐丸は忠義者だったということになりました。それでゆかりの者を家来に取り立てたのです。私で18代目ぐらいになります」と笑いながら話してくれる。

メビウス・ドラム

喜屋武さんにはれっきとした沖縄人の血が流れている。しかし、喜屋武さんは大阪にいても、大阪人ではなく、東京や千葉県に居てもそこの人ではない。人からは「沖縄に帰れ」と言われたこともあったのだ。だからと沖縄に行って「ウチナンチュー」にもなれない。自らを「異邦人」になる要素があるのだなあと言う。

「沖縄でながめた雲は、空の青色とあいまって、雲が身近に見えることがとてもうれしい。私は雲を通して人間を見、雲を通して世の中を見て、これからの生き方を考えたりしようと思っています」

喜屋武さんの雲には哀愁が感じられる。それはぼくが喜屋武さんの呪縛としての「沖縄」を考えるからなのか。

喜屋武さんは70歳を過ぎてから「悲風の丘」に彫刻をつくった。「メビウス・ドラム」という14個のドラム缶を組み合わせた作品だ。1つ1つのドラム缶が風鈴のようになっていて、風が吹くと音がするのだそうだ。「悲風の丘」は戦時中に沖縄陸軍南風原壕があったところである。ひめゆり学徒を思い出す場所でもある。

「メビウス・ドラム」に風が流れ、その風にのった音はなんと聞こえるのだろうか。ぼくは、その風(プネウマ)に、吹きぬけてくる神の愛の息吹を感じるだろう。また、沖縄に行かねばならない。

鵜飼清(評論家)

 


特集21 「沖縄とキリスト教」に心を向けて

6月23日を心に刻んで……「カトリック新聞」7月1日号では、一面トップで「6・23 沖縄慰霊の日 犠牲者悼み不戦祈る」として、那覇教区の平和巡礼のことが報じられています。この日を迎えつつ、「沖縄とキリスト教」というテーマに心を向けてみたいと思います。沖縄の「今」を占める基地問題の最前線と、沖縄とキリスト教の関係についての歴史探訪、一から学ぶための素朴な質問と文献紹介……などを通して、「沖縄」そのもの、そして「キリスト教」そのものについても、新たな関心の“大海原”が広がっていきます。

.

沖縄の「今」――基地問題の最前線

「沖縄とキリスト教」を知るために~~素朴な質問・文献探索
1.琉球王国とは?
2.ルエダ神父と石垣永将の殉教(2018年7月9日追加)

沖縄の雲に魅せられた人

沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(1)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか(2018年7月11日追加)

沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(2)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか(2018年7月12日追加)

 


沖縄の「今」――基地問題の最前線

緒方真理子(聖パウロ女子修道会)

沖縄県で最初に建立された慰霊碑「魂魄の塔」

6月23日沖縄慰霊の日。県人口の4分の1の人びとが犠牲になった沖縄戦が終結したこの日、沖縄県民こぞって慰霊と平和を祈念する。毎年、全戦没者追悼式が最後の激戦地、摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園で行われ、正午に慰霊と平和を願って黙祷し、知事が平和宣言を読む。73年目の今年は、14歳の相良倫子さんが書いた、心に深く響く「私は生きている」で始まる「平和の詩」が朗読された。「ひめゆりの塔」近くの、沖縄県で最初に建立された慰霊碑「魂魄の塔」には、早朝那覇市内を徒歩で出発するカトリックの巡礼団を始め多くの市民の方々が集まり、それぞれの宗旨に従って順に祈りが捧げられる。

この2週間前の11日朝、那覇市沖80キロの海上に、飛行訓練中だった嘉手納基地所属のF15戦闘機が墜落した。沖縄県は安全確認が取れるまでの飛行停止を求め、地元は原因究明も求めていたが、それを明らかにしないまま、安全性に問題がないとして事故2日後の13日早朝から、米軍はF15だけでなくF22ステルス戦闘機の訓練を、轟音をたてて開始した。さらにその翌14日、航空自衛隊のF15戦闘機が2機、那覇空港の管制官の指示に従わずに滑走路に進入。すでに着陸態勢に入っていた民間機は着陸を回避することで難を逃れている。

「命どぅ宝」とは、沖縄語で「命こそ宝」という意味

昨年12月には相次いで普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターからの落下物や窓枠が、小学校や保育園に落下。昨年1年米軍機の緊急着陸や不時着炎上などの事故もたびたび起きている。しかし訓練飛行は今も学校上空を回避することなく行われ、園児や児童の教育現場が脅かされている。

私が最後に沖縄を訪問したのは昨年2月。まだ辺野古新基地建設反対への暴力的排除が始まる前で、ゲート前の座り込みも、機材や土砂搬入に対しての体をはった非暴力の阻止行動ではなかった。駐機していたオスプレイの飛行震動も体感はしていない。先日出会った沖縄の方は、「オスプレイの訓練飛行は低空で、体の芯に、ズンズンズンと重く耐えがたい震動を与えます」と語られた。それが深夜まで及ぶ。今、沖縄県以外にも米軍のオスプレイが配備されつつあるが、配備反対に留まらず、日本全体から戦争の道具であり、危険きわまりないオスプレイを排除しなくては。しかし自衛隊もオスプレイ配備を予定しており、足下から平和構築の道が崩れていく思いだが、鎮魂と、今もいのちを尊び平和を願う辺野古新基地建設に非暴力で抗している方々との連帯を思い、黙祷した。

米軍の辺野古新基地建設費用は6000億円。その全額を日本が負担する。辺野古の埋め立て予定地には、絶滅危惧種(レッドリスト)に掲載されているサンゴ群体が発見されている。だが7月に大量の土砂を投入するため、6月27日28日と400台を超えるトラックが土砂を搬入。反対して座り込んでいた男性、女性が逮捕され、去る4月の座り込みでは80歳近い知り合いの元市議ともう一人の女性2人が機動隊の暴力で鎖骨や肋骨などを骨折する大けがを負っている。

2018年8月11日(土)11時~12時、3万人越えの集会「土砂投入許すな県民大会」(仮称)が、那覇市奥武山陸上競技場(ゆいレール「壺川」下車)で予定され、本土からの多数の参加が期待されている。

(写真提供:筆者)

 


琉球王国とは?

今回のテーマは「沖縄とキリスト教」、そこにはキリスト教の日本伝来、日本への布教の歴史と「沖縄」そのものの歴史への問いが重なり合っています。問いを開き、文献をたどっていこうとするとき、そこは不思議な飛び石のような世界でもあります:

 

【素朴な質問1】

「現在の沖縄県は、昔は日本とは異なる琉球王国という独立国だったそうですが?」……キリスト教伝来の頃の沖縄がどのような国・地域だったのか、現在の米軍基地問題の深い背景ともなる、沖縄と日本のそもそもの関係を学ぶ必要が強く感じられます。かいつまんでいうと、どのようなものだったのでしょうか。「琉球王国」とは?……

 

【探してみました】

そんな問いかけをもって探してみるとズバリ『琉球王朝のすべて』(河出書房新社。2012年初版、2015年新装改訂版)という本に出会いました。「知れば知るほど面白い」と銘打つシリーズの一冊。著者は沖縄の歴史・文化に詳しい上里隆史氏(うえざと・たかふみ、1976年生まれ)、喜納大作氏(きな・だいさく、1984年生まれ)。キリスト教伝来の頃(キリシタン時代から幕末からの再宣教の頃を含め)の沖縄は琉球王朝の時代でした。この王朝の歴史・体制・文化に絞って解説してくれる本書はこんな構成です。

「ようこそ琉球王国へ」
「第1章 王宮・首里城の秘密」
「第2章 琉球王国の政府『首里王府』のしくみ」
「第3章 国王と士族、庶民のくらし」
「第4章 琉球の神様と文化、風俗のふしぎ」
「王朝の終焉と波乱の歴史」

上里隆史・喜納大作『知れば知るほどおもしろい 琉球王朝のすべて:新装改訂版』(河出書房新社、2015年)

その解説によれば、何万年も狩猟採集の生活が続けられていた沖縄諸島、そこに12世紀頃から本格的な農耕が始まり、やがて「按司」(あじ)と呼ばれる地域リーダーが登場。彼らが「グスク」(城)を築き、勢力争いをする時代が日本史でいえば鎌倉時代から室町時代初期まで続いていきます。

中でも、沖縄本島の北部・中部・南部にほぼ重なる「北山」「中山」「南山」の三つの勢力が有力となり「三山」時代とも呼ばれるようです。15世紀初め頃のこと。1429年、中山王(第一尚氏王朝)の第2代、尚巴志(しょうはし)が三山を統一し、琉球王国が成立します。しかし、権力基盤が弱く、1470年尚氏の家臣がクーデターによって第二尚氏王朝を始めます。グスク時代から第二尚氏王朝の初めまでは中国明朝を中心とする冊封・朝貢体制に加わり、交易が盛んとなります。

ところが1609年、第二尚氏王朝、第七代の尚寧王のとき、薩摩藩の侵攻を受け、以後、薩摩藩の支配下に置かれます。それでも独立国の体裁と中国との関係は保たれていくことなります。琉球史研究では、グスク時代から薩摩藩侵攻までを「古琉球」時代、1609年から1879年の明治政府による沖縄県設置までを「近世琉球」時代と呼ぶのだそうです。

この「近世琉球」時代が現在の沖縄文化の開花期だということです。そして、琉球がキリスト教と出会うのもこの時代でした。

(AMOR編集部)

【関連記事】
質問2:キリシタン宣教の足跡とは?……ルエダ神父と石垣永将の殉教
質問3:幕末にやってきた宣教師とは?……フォルカードとベッテルハイム(近日公開予定)

 


若者とメディアと召命

2018年4月27日、カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で第四回召命担当者の集い「青年と召命」が行われました。この記事は、その中のプログラムの一つ、講演『若者とメディアと召命』(講師:聖パウロ修道会 井手口満修道士)をまとめたものです。

 

メディアとは

まず、「メディア media」とは「medius」の複数形で、「仲介」や「媒体」を意味しています。最初は巫女やシャーマン、預言者などのように「神と人とを媒介する」という意味で使われていましたが、産業革命によって電話や印刷機などが発明されたことにより、18~19世紀には今のような意味で「メディア」と使われるようになりました。

メディアには、一方通行的なマス・メディアと、双方向的なソーシャル・メディアがあります。前者はテレビ、新聞、ラジオ、映画など、後者はTwitter、LINE、Facebook、Instagramなどが挙げられます。そのほかにも、人や空間もメディアと言うことができます。

 

教会とメディア

カトリック教会では、1962~65年に行われた第2バチカン公会議において、『広報メディアに関する教令』が公布されました。そこでは「出版、映画、ラジオ、テレビおよびこれに類するものは、その性質上、個々の人間だけでなく大衆や人間社会全般に影響を及ぼし、これらを動かしうる手段であるから、それらの発明の中でもとくに優れており、まさしく広報メディアと呼ばれる」(1項)と述べられています。

メディアが正しく活用されるなら、憩いとなり、精神を富ませ、神の国を宣べ伝え、人類に大きく貢献しますが、創造主の計画に反してメディアを用いるなら、人類の損失となります(2項参照)。例えば、今年の「世界広報の日」の教皇メッセージにもフェイクニュースが取り上げられています。

さらに、第2バチカン公会議は「広報のメディアに関する主要な問題を取り扱うことをその任務と考える」(2項)としており、メディアの正しい使用について人々に教示することや、あらゆる種類の広報メディアを利用し、また所有することなどが教会の任務として挙げられています(3項)。そして、「これらのメディアを正しく利用するには、それに携わる人が皆、道徳秩序の規範をよくわきまえ、この分野でそれらの規範を忠実に実践することが必要」(4項)なのです。

それは教会だけではなく、私たち一人ひとりの信徒にも当てはまります。「教会のすべての子らは……使徒職のさまざまな活動に際し、種々の有害な企画に打ち勝つために、倦まず弛まず全力を挙げて一致協力し、事由と時節の状況に応じて広報メディアを活用すること」(13項)とあるからです。

また、「メディアに携わる信徒も、精力的にキリストをあかししなければならない」(同上)とあります。現在カトリック教会には、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)という団体や、カトリック新聞やカトリック生活といった出版物、心のともしびやカトラジ、このwebマガジンAMORなど、多数のメディアが存在しています。

 

メディアを使った福音宣教

聖パウロは、手紙というメディアを使って宣教した最初の人でしょう。そんな聖パウロの名前を冠した聖パウロ修道会は、産業革命によって生活の価値観が変わり、自由主義や近代主義によって神と宗教が否定され、人々が教会から離れてしまった時代に創立されました。創立者であるアルベリオーネ神父(Giacomo Alberione, 1884~1971)は、共産党の印刷物を使ったプロパガンダを参考にして、印刷物による福音宣教を試みます。1914年に少年たちの印刷学校が開始され、これが聖パウロ修道会となりました。

翌1915年にはテクラ・メルロという女性に協力してもらい、聖パウロ女子修道会を創立。そこに託された最初の仕事は、イタリア北部アルバ教区の教区新聞発行でした。さらに1924年には師イエズス修道女会を創立しましたが、この修道会は「人類とパウロ家族(樹)が豊かな恵み(樹液)を得るために、教会とパウロ家族の中で祈り、自己を捧げ、教会と人々に奉仕する『根』の役割」をしています。つまり、活動ばかりしていると枯渇してしまうので、祈りをもって養分を与えるということです。

この後もアルベリオーネ神父は修道会や在俗会を次々と創設し、合計10の修道会は「聖パウロ家族修道会」と呼ばれています。日本には名前を挙げた3つの修道会が来日しており、出版やインターネットショップ、売店などを通して宣教活動をしています。

 

新しいメディアと若者

総務省の調査によると、携帯電話やスマートフォン、パソコン、タブレットなど、何らかの情報通信端末の世帯保有率はほぼ100%に達します。その中で、近年、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(social networking service、以下SNSと略)が急速に発達してきました。SNSとは、インターネットを介して人間関係を構築できるスマートフォン、パソコン用のサービスの総称で、情報の発信・共有・拡散に重きを置いているのが特徴です。代表的なSNSに、前述のTwitter、LINE、Facebook、Instagramが挙げられます。

SNSを利用している年代は、20代以下~40代が多く、LINEがよく使われているようです。一方、50~60代以上はFacebookやTwitterの利用率が高くなります。自分で発信もしますが、他人が発信したものに対して「いいね」をクリックし、情報を共有するという使い方が多いようです。また、20代以下~30代が「内容が面白い」というときに多く「いいね」をクリックするのに対して、50~60代以上は「情報の信憑性が高いかどうか」「社会的に重要な内容かどうか」というときにクリックすることが多いという傾向が見られます。

 

SNSを使った召命活動

各修道会では、さまざまなSNSを使って召命活動をしています。ここでは例として、サレジオ会、イエズス会、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会、聖パウロ修道会のサイトが紹介されました。

サレジオ会のサイトには、「神父・修道士として生きる」という召命に関するページや、サレジオ家族の教会や学校の活動情報、ドン・ボスコ社の最新情報などをお知らせするTwitterがあります。イエズス会のサイトには、召命チームのブログや「イエズス会ボケーション」というFacebookがあり、新司祭の写真や講義の動画、召命プログラムや黙想会のお知らせなどが載っています。コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会のサイトには「シスターになる」というページがあり、それぞれのシスターが語る「CND召命ものがたり」を動画で見ることができます(※CND:Congrégation de Notre-Dameの略号)。また、Facebookで世界のいろんな召命の情報を見ることもできます。

そして、聖パウロ修道会は最近、管区でSNSグループを作り、若いブラザーを中心にホームページを制作し、森司教様の主日の黙想などを行っています。また、神父様やブラザーに9枚のカードの中から3枚をめくって出たカードの質問に答えるというような動画や、ミサのライブ中継の動画なども配信しています。

 

ネットの中にキリストが

『広報メディアに関する教令』2項からもわかるように、SNSやインターネットを使うことは諸刃の剣であり、インターネットを危険視する人も多くいます。同じように、アルベリオーネ神父が印刷を使って福音宣教をした当時は、それをタブー視したり、どうしてそんなことをするんだと言ったりする人がいました。

しかし、聖パウロ家族修道会の聖堂には「恐れるな わたしがあなたたちと共にいる わたしはここから照らそうと望む 悔い改めの心を保ちなさい」という言葉が掲げられています。「SNSやインターネットが危険だから排除する、使わないというのではなく、SNSを使って福音宣教もできる、ネットの中にもキリストはいるということを考えたいと思います」と井手口さんは話し、特定非営利活動法人BONDプロジェクトを例に挙げました。

SNSで「死にたい」「消えたい」「必要とされたい」「寂しい」と発信し、助けを求めている10~20代の女性がたくさんいます。彼女たちに対して、「声をあげていいんだよ」「一人じゃないよ」「一緒に考えていこうよ」と応えてくれるのが、BONDプロジェクトなのです。これはまさにインターネット上における福音です。さらにBONDプロジェクトでは、その子の場所がわかればそこに駆けつけて話を聞き、シェルターで一時保護をして安心を与えるなどの活動をしています。「ここにはキリストが存在しているのではないでしょうか」と井手口さんは語りました。

 

終わりに

ヨハネによる福音書に「イエスはまことのぶどうの木」という箇所があります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15章4~5節)。

井手口さんはこのたとえを受けて、「本当につながっていたい。それは枝としての私たちの思いでしょう。インターネットを通じて真にキリストにつながるならば、また、私たちがいい真実をインターネットで発信するならば、それは大きな実を結ぶのではないでしょうか」と講演を締めくくりました。

 

まとめ

井手口さんの講演は、今月の特集「福音を伝えるメディアとは?」にも関係する、非常に興味深い内容でした。インターネットメディアが普及した今、教会や修道会にもホームページがあり、召命に関するページも豊富になっています。こちらの記事で、教会ホームページ制作会社代表の丸山泰地さんは「ホームページは教会の玄関」だとおっしゃっていますが、同様に、修道会の玄関もホームページなのです。教会や修道会が近くになかったり、まだ一歩踏み込むことができない場合でも、そのようなページがあればイメージしやすいでしょう。

また、世の中には、インターネット上でしか世界や他者とつながることができない人や、そこで助けを求めている人がたくさんいます。それを逆手にとった悲惨な事件が起こったこともありますが、そのような人たちのために、インターネット上でも他者とつながり、声をかけることや、恐れずに福音的な内容を発信することが大事なのではないでしょうか。

(まとめ:高原夏希/AMOR編集部)

 


「教会とインターネット」セミナー —インターネットが拓く新・福音宣教— が築いたもの

土屋至(SIGNIS Japan インターネットチーム)

第1回「教会とインターネット」セミナー

SIGNIS Japan は2003年より「教会とインターネット」セミナーを23回開催してきた。過去の開催場所とテーマ、講師などの履歴はこちらに掲載されている。

第13回 田園調布教会

実は私は第1回目のセミナーの講師だった。第1回目が開催されたとき、私は SIGNISの会員ではなかった。当時の事務局長であった平林冬樹神父が、勤務先のカトリック学校でホームページ(以下HPという)を先駆けて構築し、「情報」の授業と教科書の執筆も担当した私を講師として呼び出したのである。

第1回の講演で提示したことに情報の10の特質福音の10の特質がある。「3.福音は分かち合えば分かち合うほどに価値を生み出す」「4.福音にコピーライト(著作権)はない。どこにでも移植可能である」「5.福音は『センス オブ ワンダー』という心の動きとともにやってくる」というような福音の特質は今のSNSの特質を予感していた。

 

年2回のセミナー

このセミナーは当初は年2回計画された。そのうちの1回は「教会HP担当者交流会」、あと1回は「インターネットが拓く新・福音宣教」というテーマで行われた。

まずターゲットを「教会HP」に定め、全国の教会や修道会のHPの「定点観測」を4年に1回くらいのペースで過去3回行ってきた。全国のカトリック教会を検索して自前のHPの紹介であるかどうかとか更新の頻度とかそのHPの特徴などを調査した。セミナーではそうして見つけた特徴あるHPの担当者を呼んでそれぞれのHPを紹介してもらったこともある。

第15回 目黒教会

他の1回は教会HPと離れて「インターネットと福音宣教」をテーマとした。著作権の問題、大震災とインターネット、殉教者・列聖・列福をどう取りあげるか、SNS と福音宣教などをテーマとして講師の話を聞くなどの勉強会が企画された。また、これまで押川司教、菊地司教(現東京大司教)、郡山司教、勝谷司教、幸田司教を講師として講演を行った。仙台と神戸でセミナーが行われたこともあった。

ただし現在は年1回のペースとなっている。テーマも教会HPに関することよりも「SNSと福音宣教」というテーマが多くなるであろう。

 

教会HPの進化の3段階

第16回 田園調布教会 交流会

3回の「教会HP定点観測調査」を行いながら気がついたことだが、教会HPは次の3つの段階を経て進化してきたと思う。

第1期 教会の中のコンピューター技術者が担当して見栄えは今ひとつだが個性豊かなHPがうまれた。なにをコンテンツとするか考えるために、こういう技術者たちが聖書を読み出したり、神学の勉強をはじめたりというにわか勉強がはじまった。内向け(信者向け)の内容と外向けの内容とが混在しているHPが多かった。

第2期 当初の始めた人の個性豊かなページの内容が問題となり、そういう人たちを排除して主任司祭の監督の下に広報担当者が外注する「公式HP」がつくられた。教会によっては二つのHPが現れてトラブルになったところもあった。見栄えはよくなったが、おもしろい内容のないHPとなってしまった。内向けと外向けが分離して住み分けが明確になった。

第3期 公式HPは維持に経費がかかりすぎ、迅速なアップがしにくいというところから、WordPress などを使い、初期設定は業者に発注するが、更新は教会の人がするという形のHPがつくられるようになった。HPは外向けのものと割り切り、特に近隣の人が教会に訪れたくなるような内容を作り、内向けには Facebook などのSNS がもちいられるようになった。

 

教会HPのコンテンツに関して

2017年2月に開かれた第22回のセミナーは、講師として八木谷涼子さん、第23回ではBREADFISHの丸山泰地さんをお招きして話を伺った。二人の講師ともに、教会HPを新しく教会を訪れようとしているひとにフレンドリーにするためにはどうしたらいいかというとても具体的な話をされた。

第18回 平塚教会

たとえば言葉のつかいかた、教会のなかでしか通じないような言葉を多用するのはNGだとか、新しく教会をおとずれようとしているひとたちがもっとも知りたいことにこたえているか、HPで新しく来るひとをやさしく歓迎してくれそうな雰囲気がつたわってくるかどうか、そういう視点からいろいろな教会のHPを例にだして説明された。

教会HPの目的はその教会をおとずれてみたいという気にさせることであり、福音をつたえるということはそれを目的にしたサイトにリンクを貼ればいいと言いきっている。たとえば牧師や司祭の説教を音声や映像で流しているところもあるが、そのほとんどは自己満足でしかないと八木谷さんはいっておられた。

実はこの点については、私たちのセミナーとはちょっと考えがちがうと思ったのである。これまでこのセミナーでは、教会HPにはどのようなコンテンツをのせたらいいのかということに主眼がおかれてきた。それは第18回、第22回のときにシグニスレポートとして発表した「教会HPを活性化するための12の原則」として凝縮されている。


教会ホームページを活性化するための12の原則

1.教会が活性化すればするほど、教会ホームページも活性化する。そうでない場合、つまり教会ホームページは活性化しているが、教会は沈滞しているという羊頭狗肉なケースも「あり」。教会ホームページが教会を活性化することもありうる。

2.教会の建物や設備よりも、そこにどれだけ「信仰の喜び」が表現されているか、それを読み取れるホームページでありたい。

第19回 神戸中央教会

3.教会ホームページは、教会メンバーを対象とするのではなく、キリスト教を知りたいという人、教会を知りたい、行ってみたいという人の「目線」で表現され、そのニーズに親切に応えるものでありたい。

4.その教会ホームページの、ほかにはどこにも書かれていない個性的でユニークなコンテンツこそが《たから》である。どこにでも書かれているようなことは書かれているどこかとリンクをはればいい。

5.教会の信徒の《いきざまと信仰》があふれ出ている、この教会に行ってこの人と会ってわかちあってみたいと思うような内容をあふれさせよう。

6.教会と地域との関係を表した記事も貴重な《福音=good news》である。町おこしや地域行事への参加、地域で活躍している人の紹介など。その地域を知るために調べているうちに教会ホームページに迷い込んでしまったというケースが生じるのが理想的である。

7.たとえば、キリスト教や信仰についての質問が投稿されるとする。それに神父さんだけが応えるのではなく、いろいろな人があれこれと異なった答えをできるシステムがあったらいい。

8.教会で行われている「入門講座」と連動しているホームページでありたい。

9.他の教会ホームページで行われていること、かかれていることを自分の教会でもやってみて、リンクを張る。他の教会のコンテンツもあたかも自分の所のもののように取り込むというのがかしこいやりかたである。

10.教会ホームページに笑顔の写真を溢れさせよう。人の顔をぼかしたり、顔のない写真をアップするのは《愚の骨頂》である。プライバシー恐るるに足らず。

第23回 上野教会

11.ホームページに掲載する記事を主任司祭の事前検閲制ではなく、アップしたらそれをチェックするという事後報告制にする。

12.その教会の独自なテーマがあったらいい。たとえば「家族」たとえば「教会と音楽」たとえば「祈り」。そのことを知りたいならそのホームページにいけばいいというふうになったらいい。リンク集だけでもいい。たとえば「キリシタンを主人公とする小説リンク集」みたいなもの。


ここには23回の「教会とインターネット」セミナーが蓄えてきた「極上の福音」が凝縮されていると自負しているが、これを読まれているみなさんはどのように思われるだろうか。

 


特集20 福音を伝えるメディアとは?

今回は、広い意味でキリスト教とメディアの関わりに目を向けます。ウェブマガジンにとっても宿命的なテーマです。イエスが弟子たちや人々との間で行ったこと、語ったことは、やがて新約聖書という言語世界になり、以来、生きた言葉と書かれた言葉を通して福音は今日まで伝えられています。手写本の時代から印刷本の時代、やがて新聞・雑誌の時代になり、加えて映画・ラジオ・テレビの時代、そして今やインターネットやSNSと、メディアの世界は多彩かつ重層的に広がっています。そんななかで忘れられてはならないものは何なのか? ――根源にある福音への問いかけ、キリスト、神、教会への問いかけが今新たな顔を見せ始めています。その一端に目を注ぎ、問いかけの窓を開けていきましょう。

.

第23回「教会とインターネット」セミナーレポート

第42回日本カトリック映画賞レポート

「教会とインターネット」セミナー —インターネットが拓く新・福音宣教— が築いたもの(2018年6月2日追加)

若者とメディアと召命(2018年6月7日追加)