スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 41

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

さていよいよ今回のゴール、標高838mのレオン到着だ。トリオ川に架かる橋プエンテ・カストロを渡ると歓迎の小さな案内所があり、係員がスタンプを押したり地図を配ったり、アルベルゲの手配を手伝ったりしていた。私たちは     大聖堂のそばに宿が決まっていたので黄色い矢印と歩道に埋め込まれたホタテ貝のレリーフを辿りながらセントロ(旧市街中心)に向かった。人口15万人の都会だ、入り口から中心地までかなり歩く。

そもそも2015年にエル・カミーノの最後の300kmだけを体験するつもりで歩き始めたのはここレオンからだった。その時はマドリッドからバスで到着したのが午後で、アルベルゲを探し、翌日の準備をしてから街に出たものの、ざっと街並みと近代のガウディ設計のカサ・デ・ロス・ボティネスを見ただけ、翌朝は暗いうちから西に向かった。だから巡礼路上で最も充実した施設で栄えたという中世からの古都については殆ど知らなかった。

キリスト教徒最初の王国であるアストゥリアスの首都が10世紀にレオンに遷都されレオン王国となり、レコンキスタに対するイスラムの反攻に備えるために城壁をめぐらした。その城壁は今も旧市街を部分的に取り囲んでいる。その中に歴史の多重堆積を表す魅力的な場所がたくさんある。今回はそれらのいくつかを見るつもりで11時前に予約済みのオスタルに行き、荷物を預かってもらった。しかし見物前にしなければならないことは、翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きの鉄道の手配である。ベルネスガ川を渡って新市街のレオン駅に行って見ると、伝統建築の旧駅舎が閉鎖されて機能的だが味のない新駅舎に代わっていた。鉄道好きの章もちょっとがっかりしていた。

旧スペイン国鉄は2005年に解体し、スペイン国鉄(略称:renfe)とスペイン鉄道インフラ管理機構(略称:adif)の2つの会社になった。renfeは輸送、販売など運営を担当、adifは鉄道のインフラ(路線や駅など)を担当ということで、新駅舎外壁にはadifと書かれている。窓口運営はrenfeだ。日にち、時間、下車駅をメモした紙をだし、無事希望通り翌日午後発の切符が買えた。近くのバルで軽く到着祝いをして宿に戻った。この路地一帯は聖堂と同様ローマ時代の遺構の上だ。宿の名称も「カスコ・アンティゴ(旧住宅街)」で、地下の自炊キッチンの床は一部が透明になっていて遺構が見られる。外観は中世の路地だが建物内部は現代的に改装されている。表通りに出れば大きなスーパーマーケットもあり便利至極。

見る時間も限られているので、レオンではサン・イシドロ教会(ロマネスク)、大聖堂(ゴシック)、旧サン・マルコス修道院(ルネッサンス)の三つを見ることにした。すべて宿から徒歩圏内だ。教会は4時まで休憩に入ってしまったので、今は5つ星パラドールとなったサン・マルコス修道院から始めた。荘厳華麗な建物は16世紀に建てられ完成は18世紀という。もともとは12世紀にサンティアゴ騎士団の本拠で巡礼の救護所でもあったそうだ。正面100mにも及ぶファサード中央に「マタモロス(モーロ人殺しのサンティアゴ)」が彫られ、たくさんのホタテ貝の装飾とともにエル・カミーノの中間宿駅であったことを誇っている。一昨年はアストルガに向かって払暁前の暗い中この前を通り過ぎたのだった。

一休みして、一番見たかったサン・イシドロ教会へ。ここは聖イシドロ(6~7世紀、セビージャ大司教としてスペインのカトリック教会の基盤を作ったという)が祀られている。ガイドツアーに参加しないと内部が見られない。スペイン語はハナから諦め、消去法で英語のツアーに申し込んだ(一人€5)。10人ほどのグループだ。11世紀にロマネスク・モサラベ様式で建造されたがその後改修が加わり原形は正面入り口にのみ見られる。回廊の雰囲気も気にいった。しかし圧巻は同時代ここに建てられたパンテオン・レアル(レオン王家の霊廟)で内部は当時のフレスコ画で埋め尽くされている。宗教的な故事のみならず民衆の労働も描かれていて題材の面白さにも強い感銘を受けた。

ガイドツアーでかなり聴き取りにエネルギーを使い疲れ果てたのと、感性が限界に達したような気がして大聖堂は翌日の午前中に行くことにした。スーパーで翌朝用食品を買い、宿に戻って自炊キッチンの冷蔵庫に入れておく。一休みして、夕食は街中で€9.9の定食。パスタ、卵のミートソースかけポテト添え、フルーツサラダ。卵の本体が目玉焼きだったのでちょっと意外だったが、スペインでは単純な卵料理を侮るなかれ。ミートソースのしっかりした味に感心した。

今日はこれまでの旅と合わせて「フランス人の道」800kmを完歩したのだからもう少し贅沢をしてもよいのだが、私たちのエル・カミーノ歩きにはまだ宿題が3つも残っているのだ。それを果たしに明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラを再訪する。決して単調でも退屈でもなかったブルゴス~レオン間の楽しい経験を反芻しながらの鉄道旅だ。

 


神さまの絵の具箱 30

末森英機(ミュージシャン)

「あなた以外の、生き物が、流す涙を、あなたは見たことがないのですか?」

「身体を蹴られているんですよ」

「他人(ひと)の不幸は、あなたの不幸ではないのですか?」

「ひとが苦しめば、あなたも苦しい?」

「ひとの痛みは、わたしの痛み、主人を守る犬のようにぶつかってゆくことはありますね?」

「寒さのなかで、置き去りにされた、よそ者をどうしますか?」

6年間、通わせていただいた、東北の被災地で、しっかりと胸に結びつけて帰京した言葉。けっして、忘れられない言葉のひとつひとつに、それを語っていらっしゃる、ひとりひとりの胸にも、最後の審判のような朝がきっと来る。そのためにも、苦しんでいるひとと、苦しむ。悩んでいるひとと、悩む。喜んでいるひとと喜ぶ。それが、おおきな弱さをたすける。ひとの、幸せのために生きるという、確信になる。愛は、ほかのひとのなかに、住まうということが、見えてくる。ひとびとの、なかの神。こころを、没頭することができる。愛ゆえに、流れる涙をこらえなければならない、ひととの邂逅(であ)いもある。

信じることで、奇跡をもったひとびとがいる。神にふれることも、見ることも、ぢかに知ることもなく、ただ信じることで。ひとのすばらしいところ、神を愛することができるということ。「目が見もせず、耳が聞きもせず、ひとの心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(Ⅰコリント2:9)愛ゆえに、愛ゆえに。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 40

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン(1)

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

 6時半起床、7時20分出発。ビジャレンテから緩い登りで880mのアルト・デル・ポルティージョの丘を越えてレオンに降りていく。まず国道沿いに町を出ると、分かれ道に久々にモホン(石の道標)があり右の田舎道に入った。ゴミ箱が設置されていてもあふれていたり草が茫々だったりだが、しばらくは昨日の国道歩きのような危険はない。4km先のアルカウエハの村には塔のそばにアルベルゲを兼ねたバルがあり、朝食にした。

さらにバルデラフエンテを抜け丘まで登りきる。ここに新しい大きな十字架があるはずなのだが見つけられなかった。レオン市内に入るには新しい自動車道路の通過がややこしかったが無事に巨大な青い歩道橋を渡って市内に入るルートを確認できた。入り口の道標には巡礼のコスチュームをつけたライオンが描かれていた。語感が似ているがレオンはローマ帝国がここに置いたLegion(軍団)から発した地名だそうだ。とは言えライオンはレオン王国の時代から国章にあしらわれレオンの象徴になっている。

ガイドブックや記録を読むと、マンシージャ・デ・ラス・ムラスからレオンまでの道があまりにも殺伐として危険だ、との苦情が多い。私たちもそのことは同感だが、さりとて巡礼の道がすべて快適で安全であるはずはない。現代は現代なりの危険も不快も受け入れなければなるまい、と思い直した。そもそもエル・カミーノは命懸けの道だったのだから。これまでの旅の中でいくつもの墓標に出会った。頓死(とんし:突然死ぬこと。急死)した人たちの屍を越えて道があると言えば大げさだが、饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)からまた引用すると、

「中世の西欧では巡礼に先立って遺言をしたため、司教から推薦状をもらい、施しをする金をもち、『もっと遠くへ(エ・ウルトレイア)!それっ!神はわれわれを助けたまう』と人々ははげましの言葉をかけ合って歩いて行ったのである。これはサンチァゴ・コンポステーラへの旅立ちの様子である……」

(「エ・ウルトレイア」は歌になっている。2回目の旅でログローニョのサンティアゴ教会に泊まった時、食堂の正面に五線譜と歌詞が大きく飾られていて夕食前に静かに合唱した)

巡礼路と周辺の文化的整備は進行中だ。今や世界中から多くの人(2010年は27万2135人)が訪れるが、1985年には2491人だった。バックパッカーとしてフランコ政権時代(1939~75年)にスペインを体験している章は、暗い抑圧された強烈な記憶と2015年に40数年ぶりに訪れた時の明るさとの対比に驚いたそうだ。1975年にフランコが死去するまで独裁体制の中で巡礼路がもてはやされることはなかっただろう。政治体制が整い開明化して外国からの巡礼者を迎え統計を取り始めるまでに10年かかったことになるが、その時点でも今の盛況ぶりを予測はできなかったろう。

車社会である現代なりの危険性はあるにしろ悲壮感はなく、人々は「エ・ウルトレイア」ではなく、ただ「ブエン・カミーノ(よい道程を)!」と挨拶を交わす。でも昨年の旅でブルゴス手前の難所モンテ・デ・オカ(1162m)を越えた時、まだ薄暗い丘の上に現代のモニュメントを見た。フランコ政権時代に殺害された人々の遺体が埋められた跡に建てられた哀悼と平和への祈念を表す碑だ。エル・カミーノは信仰だけを感じさせるのではない。良くも悪くもスペインの様々な時代が厚く降り積もり、歩く者の心を刺激する。

 


神さまの絵の具箱

末森英機(ミュージシャン)

死が近づく。呼吸は出口を求める。そのとき、ひとりひとりの人間は、その胸に、最後の審判の朝を、はたして、見ているのだろうか。それとも、底なしの闇の時間を、さらに、眠り続けて、いるのだろうか。

あのとき、あなたは、美しい恋人のために、極上のギフトをするために、胸にすばやく、十字を切ると、アザラシの子どもを、撃ち殺した。

欲望にただ、苛まれる、全世界で起こることだ。

夕べ、人を殺した手は、次の朝、食卓で妻や子どもたちのために、祈りのあと、パンを裂く。いつでも、悪魔に都合のよい時間が、訪れる。

奴隷にされた者。奴隷になった者。奴隷の奴隷になった者。そして、奴隷に生まれた者。人間は、主への、信仰によって、この世に住むことを許されたのでは、なかったのか?心を込めて、主を思いつづけた。辛抱は、報われるから。

愛のもっとも気高いかたちである、赦し。身に覚えのある、暗闇。そして、人ならば、こみあげる、愛の想いに、涙の海にも浸かってしまうこともあるだろう。目の光は、虹となる。

闘うということ。洗い場の女が、酔って騒ぐ、男たちに、棒で殴られる。すぐさま「殺しあうなら、裏のお庭で、やってちょうだい!ここは、洗ったばかりなんだ!」と女将の怒鳴り声がぴしゃり。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 39

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(2)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

さて、途切れることなく並木が続くがニセアカシヤに樹種が変わった。やがて樹種がデタラメに多様になる辺りから国道と巡礼路の間にあったローカル自動車道がなくなる。国道は大型車がビュンビュン通り、今までの長閑な巡礼路は一変してレオンまで雑然としたほこりだらけの危険な道になってしまった。レリエゴス付近の工事中だったあの巨大な立体交差は今後バイパスを整備するためのものなら巡礼路にとってはありがたいのだが。道端の豚の死骸を思い出す。あのような目に合わないように気をつけて歩こう。

間もなく古代ローマ時代の遺構(国道の反対側で横断が難しく行かず)、小さな集落ビジャモロスを過ぎ、ポルマ川に架かる橋プエンテ・デ・ビジャレンテの向こうが今日の目的地だ。上を通過しただけでは何の変哲もない橋だが、橋脚をつなぐアーチは古くからのローマ橋を上手く残している。17ものアーチは異なる時代の遺物(3~4世紀)だと書いてあるので河原に降りてみた。なるほど、見事だが個々の違いはよく分からなかった。

巡礼路はこの橋の下に架かる木の橋を渡って村に入る。ここには2つのアルベルゲがあるが、村の入り口にあるエル・デルフィン・ベルデに行ってみた。オスピタレロにダメもとで個室の有無を聞いたら、ここはドミトリーだけだが同じ敷地内にオスタルがあると教えてくれた。1階がレストランなので気づかなかった。行って見ると若い主人は感じがよいし夕食もどのみちそこでとることになるので泊まることにした。古い建物をリフォームした小ぎれいな宿で水回りもよい。ベランダに出てみると国道の車がうるさいが、扉を閉めれば遮音は大丈夫。さすが石の建物だ。物干し場はアルベルゲと共用。日課作業を手早く終えて町の探検に出た。

この町は国道沿いに店が並んでいるだけでなんの趣もないと記録に書いている人が多いが、現代の生活もそれなりに面白い。小屋ほどもあるゴミ箱を巨大な収集車の荷台に積みかえる作業を見たり、パン屋で土地の人の買うものをチェックしつつ簡易席でビールを飲んだりした。おまけのタパスはタダでは申し訳ないほど大きくて美味しいブルスケッタだった。ニンニクとチーズとポテトをたっぷりのせてキツネ色に焼いてある。半端な時間のおやつには立派過ぎるほどだった。

夕食はオスタルで。はち切れんばかりに太った可愛い幼女が、おばあちゃんと「せっせっせ」のような手遊びをしている(ママは料理しているので)のを見ながら定食を食べた。ヌードル入りの野菜スープかひよこ豆の煮込み、ポークチョップか魚煮込み(アサリやエビも入っている)。いつも通り別々に頼んで分けたが、どれも本当に美味しくて、とても食べきれないと思えた量がすべて胃袋に収まった。デザートはチョコレートとホイップクリームがたっぷりの自家製シュークリーム。巡礼路の田舎料理はこの日が最後だ。

巡礼路では普通の食事が滋味に富み何とも美味しかった。特に豆の煮込み料理(コシード)は何度も出てきたが飽きなかった。川成洋編『スペイン文化読本』(丸善出版、2016年)の中でスペイン料理研究家の渡辺万里先生はその特徴をあまたの保存食の発展したものと説明している。カルタゴ人によってスペインにもたらされたガルバンソ(ひよこ豆)は痩せた土地でも栽培でき保存も可能なのでイベリア半島全域に広がった。魚介類の干物も広まった。過酷な自然条件が保存食による兵糧の確保を強いたのだが、その伝統が長く引き継がれているのだ。もう一つ面白かったことに豚肉のことがある。田舎料理ではメニューに牛、羊、兎等もあったが、なんといっても主役は豚だった。前記の本から引用すると、

「ところで、現代のコシードには豚肉が欠かせないが、昔からそうだったわけではない。カスティーリャ王国が徹底的な異教徒の排斥に取り掛かると、彼らがスペイン国内に残るには、キリスト教へ改宗するしかなくなった。そこで、改宗者の真偽を問う手段として、イスラム教徒もユダヤ教徒も宗教上の戒律で食べない豚肉が用いられるようになったのである。すなわち、豚肉を入れたコシードを食べることは、改宗者たちにとって一種の踏み絵となり、豚肉を食べていないと密告されると過酷な異端審問が待っているという時代が始まる。こうして、以後のスペインの食卓には、それまで以上に豚肉の存在が重要なものとなっていく。……」

モサラベ建築のところでもふれたが、宗教についての政策はどちらの側でも時代により寛容と偏狭、共存と排斥が揺れ動いた。その結果が料理にまで及んだ、というのも興味深いことである。

明日はレオンまで13km歩くだけだ。夜更かし寝坊もできるのに、習慣づいた眠気が襲ってきて9時30分、外はまだ明るいが就寝。

 


エンドレス・えんどう 11

服部 剛(詩人)

以前に聴いたラジオ番組で、遠藤周作の担当をしていた編集者が、在りし日の思い出を語っていました。その中で「遠藤周作という作家はいくつもの顔を持つ、不思議な人でしたねぇ」と言っていたのが、今も印象に残っています。

作家が個性的であることは想像しやすいことですが、「ひとりの人間の中には、いくつもの顔がある」というのは、身近な人でも感じられることです。後で怒られるかも(?)しれませんが、僕の妻を例に挙げてみましょう。母親業というのは大変なもので、我が家の場合、ダウン症を持つ、ゆっくり成長の息子・周の育児で、彼女はてんやわんやの毎日を送っています。愛する息子のために、自らの生き甲斐を手離す姿を見ていると、心の中で(母というものは、愛それ自身で生きているのだな…)と感じる瞬間が多々あります。そして、大人の面(つら)をして日々を過ごす僕もまた、自分の母親の愛情なしに、今の自分はないでしょう。

僕の妻は心根の優しい女性です。普段、僕はどれほど助けられていることか、と感謝ばかりです。しかしながら(ココダケノ話デスガ)、この世には天気というものがあるように、前日には快晴だったかと思うと、翌日には雨嵐になっている…というようなことが、時折あるわけです。それは雨嵐というよりも、噴火と表するほうがよろしく、その噴火もまともに受けると、自分の存在は虫ケラのように姿形も視えなくなるほど小さくなり――気がつくと布団に包まっています。一呼吸の後、自分の感情は脇に置いて、(日ごろ頑張ってくれているのだ)と心の中で呟き、そんな妻の一面をも、ひとりの時間には静かに受け入れることも世の夫の大事な役割である、と己に言い聞かせている僕であります。

さて、少々筆が走り過ぎましたが、『深い河』の六章で、美津子はインドの女神像を見つめながら、(私の中に“二人の私”がいる…)と感じている瞑想的な場面があります。僕は個人的には、多面的な顔について考える時、阿修羅像を連想します。僕自身も人間である以上、心の奥底には「笑い」「涙」「怒り」「聖い面」「醜い面」など、いくつもの顔があるのを感じます。実際の顔は一つですが、人間にはいくつもの<内面の顔>があることを思うと、自分という人間の不思議さと同時に、日々接する誰かへの視野が、少し寛がるかもしれません。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 38

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(1)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

昨日偵察済みだったので、薄暗い6時に無事に町を出た。町の中で途切れていたプラタナスの並木がまた続く一本道だ。麦畑は少なくなり、播種の準備で掘り返された赤土の広がりが目に付くようになってきた。左側にビジャ・マルコに道を分ける辺りに小さな飛行場があり、その先で休憩。ここまで1時間45分歩いたが、だれにも会わなかったし平行するローカル自動車道にも4台の車しか走ってこなかった。はるか右奥に山並みが見えてきた。右側に長い貨物列車が走ってきたので鉄道線路が近くにあることに気づいた。まもなく線路をくぐり、今日最初の村であるレリエゴスに到着した。バルを見つけることができず村はずれのベンチで手持ちのおやつ休憩をしただけで先に進んだ。

すごい規模の立体交差が建設中で巡礼路も一部高いところを通過する。周囲の村が遠望でき、そろそろ人臭くなってきた。マンシージャ・デ・ラス・ムラスに近づいたあたりで、道端の草むらの中に異様なものを発見。なんと、大きな豚の死骸だった。恐らく脱走してきて自動車道に飛び出して車にはねられたのだろう。この巨体だと車の方の衝撃も大きかったのではないか。あるいは荷台から振り落とされたのか? スペインでは総じて町中の運転マナーはよいが、郊外ではスピードを出しているような気がする。それにしても早く始末しないと・・・と心配になる。

標高800m、人口1800人ほどのマンシージャ・デ・ラス・ムラスでカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳の道「トラハナの道」)が合流する。12世紀には修道院といくつもの教会や救護院を持つ大きな町だったようだ。川の小石と石灰で作られたずんぐりした城壁が今も残る。地図で見るとエスラ川の緩やかな囲繞地(いにょうち:他の土地を囲む周囲の土地)で、この立地条件がうまく生かされた要塞だったのだろう。13世紀建立のサンタ・マリア教会の塔にはコウノトリが営巣していた。

この日は町の中心のポソ広場で盛大な野菜市が開かれていた。買うものもない私たちもワクワクする雰囲気だ。ざっと目に付いたものだけでもナス、ズッキーニ、トマト、ネギ、カリフラワー、ブロッコリー、ピメントス、インゲン、マッシュルーム、オレンジ、スイカ、ピカピカのはち切れんばかりの大きな新鮮野菜だ。切り花はカラーやアルストロメリア。様々な野菜の苗もある。6月に入ると専業農家だけでなく家庭菜園愛好者も農作業を始めるのか、手に提げて持てる程度の苗を求める人も多い。

そしてお年寄りも含めて殆どの人がとてもめかしこんでいる。今日は社交を兼ねた「ハレの日」らしい。私たちは広場脇のバルで遅めの朝食にしたが、その時間で既にスピリッツで盛り上がっている人たちも多かった。ここの雰囲気が面白かったので、せっかくの歴史的遺産の方は熱心に見ないまま崩れたサン・アグスティン門を出てエスラ川を渡った。道沿いも都市近郊の畑らしく、葉物やトウモロコシになる。

さて、寄らなかったところについては記録に入れるのは筋ではないが、マンシージャ・デ・ラス・ムラスを出て巡礼路から北東に分かれた16km先の人家もない野原の高台にあるというサン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会はこのあたりの文化・歴史を理解する上では興味深いところで、行って見たかったが徒歩では遠すぎて諦めた。ちょっと心残りなので書いておきたい。前述の村田栄一先生はここを「荒野のモサラベ真珠」と表現されている。「モサラベ」とはキリスト教徒でありながら言語文化的にはアラブ化した人あるいはその文化をさす。

8世紀前半にイベリア半島を支配したイスラムの宗教政策は寛容だった。イスラム教に改宗しなくても納税によって共存が可能だった。これは前に建築様式のところで使った「ムデハル」(キリスト教支配地で納税によって残留を認められたイスラム教徒)と対をなす。このような仕組みの中で当時は高水準だったイスラム圏の文化が特に中部以南でキリスト教徒に取り込まれた。しかし9世紀後半、レコンキスタの進行によって劣勢に陥ったイスラムは支配地におけるモサラベを迫害するようになった。そのため多くのモサラベは北部のキリスト教圏内に逃れてきた。そして10世紀にはこの地にモサラベ様式の教会が建てられた。貴重なキリスト教の文献の写本もこの教会で作られた。

イベリア半島は陣取り合戦の歴史を経験してきた。領土を争うのは宗教ではなくアイデンティティと利益で結ばれた集団の政治支配力だが、宗教もその下で時に寛容、時に偏狭になり人を翻弄してきた。エル・カミーノを歩くことによって文化の共存、衝突、包摂、排除等の変転を改めて考えることにもなった。

 


神さまの絵の具箱 28

末森英機(ミュージシャン)

わたしたちは、神さまの道具になりたい? わたしたちは、神さまの奇跡の、道具になる。

十字架と復活は、ほんとうの、つまずき。そう言ったのは、キルケゴールだったかしら? この十字架と、復活の前に、わたしたちは、粉々に、打ち砕かれること! ときならぬ、終わりにも、ときならぬ、始まりにでさえも。のりこえるため、だとか、のりこえられる、だとか。沈みに沈んでも、わたしたちは、とげのついた棒を、サウルのように、旅を続けるならば、蹴りつづける。神さまの、道具に、なりたい?たとえば、重い皮膚病を患う者を、抱きしめる、使徒。あくまでも、文字ではなく、霊の乞食たる、使徒。喜びが、満たされて、それが、熱病のように広まってゆく、使徒。もうひとつの、世界を歩く、靴の使徒。若い命の、自殺で終わる、使徒。魂について、いくつかの転生を語る、使徒。ユダヤ教のラビたちわたしたちはが、集まる使徒。パルチザン運動の、使徒。ブッダと、マハーヴィーラと友情を結んだ、使徒。クリシュナやアヴァターラと歌う、使徒。神の愛が、先になければ、わたしたちが存在しない、使徒。パレットと絵筆を、持った使徒。ギターを持った使徒。ふつつかなしもべ。馬と鹿。ロバとウマのあいだの、ダバと呼ばれる、使徒。パレスチナの駆けつける、深い思いやりの、イエスの使徒。わたしたちは、傲慢にも、こうして、神さまに向かって、斧を振り上げる。それでも、はなはだよい、と神さまは、おっしゃられる。神の相続人よ(ガラテヤ4:5〜6、エペソ1:5)。ねたみ深い、神だからこそ!


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 37

古谷章・古谷雅子

5月29日(月) テラリージョス・デ・ロス・テンプラリオス~エル・ブルゴ・ラ・ネーロ(2)

歩行距離:31.7km
行動時間:8時間40分

3km先でレアル・カミーノ・フランセス(本来のフランス人の道)とカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳道)が分かれる。30km先で合流するが、後者には途中に宿泊施設が少ないので心惹かれるものの今日の行程では無理だ。サアグンの15km先のエル・ブルゴ・ラ・ネーロを宿泊地にしたかったので大方の巡礼に倣ってこちらをとった。ヒナゲシと麦畑と牧草地の中をほぼ直進する雰囲気のよい道で、若いプラタナスの並木が見事にエル・ブルゴ・ラ・ネーロまでの14kmの南側に植えられている。

但しプラタナスの葉が全部ヘンだ。若葉の時の大きさのまま秋のように薄茶色に枯れて丸まっている。地面に落ちている昨年の葉は赤ん坊の顔ぐらい大きいのに。これは日本でも問題になっている北米から広がりつつある害虫プラタナスグンバイにやられているのではないか。枯れた葉の間に緑色の新葉がところどころに再生はしている。せっかく巡礼路に植えられたこの並木が勢いを盛り返すことを祈る。なおこの若い並木はエル・ブルゴ・ラ・ネーロの先も街中や新幹線の敷設で途切れた部分を除いて、さらに続いてエル・カミーノを行く人を導き守っている。

またところどころにベンチとテーブルを備えたちょっとしたスペースがあるが、並木と同様、自治体の施策らしい。しかしトイレも作ってほしいものだ。維持管理や犯罪対策等の問題があるのだろうが。いくつかのベンチには2015年の総選挙の名残のスローガンや政党名が書かれたままになっていた。昼頃、道の左側に「梨の木の聖母礼拝堂 Ermita de Vergen de perales」。広い草地にノバラ、ヒナギク、ブタナ(ブタクサではない。黄色い可憐な花)などが咲き乱れ、その奥に煉瓦造り瓦葺の平屋の古い建物があるが、ここも入り口は封じられていた。閉じられていても教会や礼拝堂の敷地内の雰囲気はどこも清澄で敬虔な気持ちを喚起させる。サアグンで買ってきたリンゴやビスケットを食べながらしばし休憩。

次のベルシアノス・デル・レアル・カミーノはただ通過し先を目指した。まもなく道の右側に湿原や沼沢が見られるようになった。これまでには見られなかった種類の鳥もいた。立ち止まって湿原を見ていた先行者が興奮気味に大きな鳥を指さして「見えるかい? コウノトリ(stork)だよ」と教えてくれた。コウノトリは使われなくなった教会の鐘楼等に大きな巣を作って辺りを睥睨(へいげい)しているのをよく見かけたが、実際に自然の中でエサを食べているのは初めて見た。厳密にはstorkというのは東アジアの絶滅危惧種のコウノトリとは少し違うシュバシコウという鳥らしいが、サギよりもずっと大きい。巣は何代も使うらしい。

エル・ブルゴ・ラ・ネーロは歴史的な建造物は少ないようだが、思ったよりも観光客の多い町でレストランや宿泊施設も複数ある。快適な個室滞在に味をしめるともうドミトリーは辛くなってきた。二人だと個室もそれほどの贅沢ではない。こちらで入手したアルベルゲ一覧に+chambresと備考欄にあるものには個室がある。それを見て町はずれの沼(la laguna)のほとりにあるその名もずばり「ラ:ラグーナ」というアルベルゲに行ってみると、ありがたいことに小さいがシャワー・トイレ付きの個室に入れた。点灯しない電気スタンドや天井灯を直してくれたり、庭に干してあったウェスかと思うようなタオルを取り込んで持ってきてくれたり、オスピタレロも感じがよい。というより、このアルベルゲ全体がちょっと浮世離れしたパラダイスだ。美しい広々した芝生にいくつものパラソルやカウチが並べられ、殆どの泊り客が外でゴロゴロして読書、昼寝、スマホいじりをしている。気持ちがよいという理由もあるが、掲示板に free Wi-Fi が屋内では入りづらいので、庭で送受信しろと書いてあった。自炊キッチンはあるが飲食施設はないので、皆シラフで落ち着いた雰囲気なのだ。

日課作業後とりあえず街に出てバル「エル・カミーノ」でトルティージャとカーニャ。町並みや教会や沼地(自然保護区になっている)を見てからアルベルゲに戻り、私たちも庭で寛いだ。田舎だからなのか観光客が多いせいなのか、夕食は早めに食べられる。「エル・ペルグリーノ」というレストランで定食。まず一皿目の選択肢にあったアーティチョークの蕾の芯の煮込み、カリオン・デ・ロス・コンデスで美味しさに感動したので即決した。味付けは前のとは違い酸味が強かったが地元の味なのだろう。二皿目はパプリカにタラとチーズを詰めて焼いたもの。パプリカ自体の甘味に驚く。デザートはメロンにした。勿論パン、ワイン、ミネラルウォーターがついて€10だ。

レオンは射程圏内に入った。なんとなく気が楽になり、就寝は9時過ぎ。

 


神さまの絵の具箱 27

末森英機(ミュージシャン)

疵(きず)のない善。それを言うのは、滅びることのない悪である。その言葉をあらわすのは、イエスが、足の骨を折らずに、殺された、というしるしである。砕かれる者と、砕く者がいる。そして、にもかかわらず、その骨は、ひとつも砕かれないと聖書に3回も出てくる。その道しるべ的な、しるしを、3回も受け取っているのに。人間には、やがて、悪魔に都合のよい時間だけが、訪れるようになる。欲望過多症に苛まれる全世界。かなうということは、疵のない善を自己実現することだから。ならば、かなうということは、ありえないのか? 神理の言葉も、根を張らなければ、実りは幻。慈悲にのみ、満たされようとする人間の体には、罪だけが、宿り続ける。悪いことが、起きたときには、その不運を当然のことと思わず、嘆き苦しむ。汝の敵を、愛せよ! おまえの愛で、相手がうんざりするほど、愛してやればいい! 愛はどこを取っても喜び! 愛し愛されすぎて、地上に天敵がいなくなってしまったら、悪はどうなる? 愛を閉じ込める閂(かんぬき)が、枷(かせ)があるものか? あなたはほんとうに、隣人(となりびと)の塩と薄粥(うすがゆ)になれるのか。人間は、知れば知るほど、無知であることを知るようになったことに、感謝しなければならないことを、いつかしら悟る。いつ? あのとき、創り主の呼びかけに。裸の姿を、隠そうとしたのは、無知のなせる業で、あったろうか。善と悪を、語ることこそ、浅ましい生まれを生む。わずかな塩と、澄んだ水のような粥を、隣人からいただくとき、きっと「その骨は、ひとつも砕かれない」(ヨハネ19:33)。『神は誰の行ないが優れているか見るために、生死を創った』(コーラン第67:2)。
*その骨はひとつも砕かれない(出エジプト12:46、民数記9:12、詩篇34:20)