スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 38

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(1)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

昨日偵察済みだったので、薄暗い6時に無事に町を出た。町の中で途切れていたプラタナスの並木がまた続く一本道だ。麦畑は少なくなり、播種の準備で掘り返された赤土の広がりが目に付くようになってきた。左側にビジャ・マルコに道を分ける辺りに小さな飛行場があり、その先で休憩。ここまで1時間45分歩いたが、だれにも会わなかったし平行するローカル自動車道にも4台の車しか走ってこなかった。はるか右奥に山並みが見えてきた。右側に長い貨物列車が走ってきたので鉄道線路が近くにあることに気づいた。まもなく線路をくぐり、今日最初の村であるレリエゴスに到着した。バルを見つけることができず村はずれのベンチで手持ちのおやつ休憩をしただけで先に進んだ。

すごい規模の立体交差が建設中で巡礼路も一部高いところを通過する。周囲の村が遠望でき、そろそろ人臭くなってきた。マンシージャ・デ・ラス・ムラスに近づいたあたりで、道端の草むらの中に異様なものを発見。なんと、大きな豚の死骸だった。恐らく脱走してきて自動車道に飛び出して車にはねられたのだろう。この巨体だと車の方の衝撃も大きかったのではないか。あるいは荷台から振り落とされたのか? スペインでは総じて町中の運転マナーはよいが、郊外ではスピードを出しているような気がする。それにしても早く始末しないと・・・と心配になる。

標高800m、人口1800人ほどのマンシージャ・デ・ラス・ムラスでカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳の道「トラハナの道」)が合流する。12世紀には修道院といくつもの教会や救護院を持つ大きな町だったようだ。川の小石と石灰で作られたずんぐりした城壁が今も残る。地図で見るとエスラ川の緩やかな囲繞地(いにょうち:他の土地を囲む周囲の土地)で、この立地条件がうまく生かされた要塞だったのだろう。13世紀建立のサンタ・マリア教会の塔にはコウノトリが営巣していた。

この日は町の中心のポソ広場で盛大な野菜市が開かれていた。買うものもない私たちもワクワクする雰囲気だ。ざっと目に付いたものだけでもナス、ズッキーニ、トマト、ネギ、カリフラワー、ブロッコリー、ピメントス、インゲン、マッシュルーム、オレンジ、スイカ、ピカピカのはち切れんばかりの大きな新鮮野菜だ。切り花はカラーやアルストロメリア。様々な野菜の苗もある。6月に入ると専業農家だけでなく家庭菜園愛好者も農作業を始めるのか、手に提げて持てる程度の苗を求める人も多い。

そしてお年寄りも含めて殆どの人がとてもめかしこんでいる。今日は社交を兼ねた「ハレの日」らしい。私たちは広場脇のバルで遅めの朝食にしたが、その時間で既にスピリッツで盛り上がっている人たちも多かった。ここの雰囲気が面白かったので、せっかくの歴史的遺産の方は熱心に見ないまま崩れたサン・アグスティン門を出てエスラ川を渡った。道沿いも都市近郊の畑らしく、葉物やトウモロコシになる。

さて、寄らなかったところについては記録に入れるのは筋ではないが、マンシージャ・デ・ラス・ムラスを出て巡礼路から北東に分かれた16km先の人家もない野原の高台にあるというサン・ミゲル・デ・エスカラーダ教会はこのあたりの文化・歴史を理解する上では興味深いところで、行って見たかったが徒歩では遠すぎて諦めた。ちょっと心残りなので書いておきたい。前述の村田栄一先生はここを「荒野のモサラベ真珠」と表現されている。「モサラベ」とはキリスト教徒でありながら言語文化的にはアラブ化した人あるいはその文化をさす。

8世紀前半にイベリア半島を支配したイスラムの宗教政策は寛容だった。イスラム教に改宗しなくても納税によって共存が可能だった。これは前に建築様式のところで使った「ムデハル」(キリスト教支配地で納税によって残留を認められたイスラム教徒)と対をなす。このような仕組みの中で当時は高水準だったイスラム圏の文化が特に中部以南でキリスト教徒に取り込まれた。しかし9世紀後半、レコンキスタの進行によって劣勢に陥ったイスラムは支配地におけるモサラベを迫害するようになった。そのため多くのモサラベは北部のキリスト教圏内に逃れてきた。そして10世紀にはこの地にモサラベ様式の教会が建てられた。貴重なキリスト教の文献の写本もこの教会で作られた。

イベリア半島は陣取り合戦の歴史を経験してきた。領土を争うのは宗教ではなくアイデンティティと利益で結ばれた集団の政治支配力だが、宗教もその下で時に寛容、時に偏狭になり人を翻弄してきた。エル・カミーノを歩くことによって文化の共存、衝突、包摂、排除等の変転を改めて考えることにもなった。

 


神さまの絵の具箱 28

末森英機(ミュージシャン)

わたしたちは、神さまの道具になりたい? わたしたちは、神さまの奇跡の、道具になる。

十字架と復活は、ほんとうの、つまずき。そう言ったのは、キルケゴールだったかしら? この十字架と、復活の前に、わたしたちは、粉々に、打ち砕かれること! ときならぬ、終わりにも、ときならぬ、始まりにでさえも。のりこえるため、だとか、のりこえられる、だとか。沈みに沈んでも、わたしたちは、とげのついた棒を、サウルのように、旅を続けるならば、蹴りつづける。神さまの、道具に、なりたい?たとえば、重い皮膚病を患う者を、抱きしめる、使徒。あくまでも、文字ではなく、霊の乞食たる、使徒。喜びが、満たされて、それが、熱病のように広まってゆく、使徒。もうひとつの、世界を歩く、靴の使徒。若い命の、自殺で終わる、使徒。魂について、いくつかの転生を語る、使徒。ユダヤ教のラビたちわたしたちはが、集まる使徒。パルチザン運動の、使徒。ブッダと、マハーヴィーラと友情を結んだ、使徒。クリシュナやアヴァターラと歌う、使徒。神の愛が、先になければ、わたしたちが存在しない、使徒。パレットと絵筆を、持った使徒。ギターを持った使徒。ふつつかなしもべ。馬と鹿。ロバとウマのあいだの、ダバと呼ばれる、使徒。パレスチナの駆けつける、深い思いやりの、イエスの使徒。わたしたちは、傲慢にも、こうして、神さまに向かって、斧を振り上げる。それでも、はなはだよい、と神さまは、おっしゃられる。神の相続人よ(ガラテヤ4:5〜6、エペソ1:5)。ねたみ深い、神だからこそ!


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 37

古谷章・古谷雅子

5月29日(月) テラリージョス・デ・ロス・テンプラリオス~エル・ブルゴ・ラ・ネーロ(2)

歩行距離:31.7km
行動時間:8時間40分

3km先でレアル・カミーノ・フランセス(本来のフランス人の道)とカルサダ・ロマーノ(ローマ時代の石畳道)が分かれる。30km先で合流するが、後者には途中に宿泊施設が少ないので心惹かれるものの今日の行程では無理だ。サアグンの15km先のエル・ブルゴ・ラ・ネーロを宿泊地にしたかったので大方の巡礼に倣ってこちらをとった。ヒナゲシと麦畑と牧草地の中をほぼ直進する雰囲気のよい道で、若いプラタナスの並木が見事にエル・ブルゴ・ラ・ネーロまでの14kmの南側に植えられている。

但しプラタナスの葉が全部ヘンだ。若葉の時の大きさのまま秋のように薄茶色に枯れて丸まっている。地面に落ちている昨年の葉は赤ん坊の顔ぐらい大きいのに。これは日本でも問題になっている北米から広がりつつある害虫プラタナスグンバイにやられているのではないか。枯れた葉の間に緑色の新葉がところどころに再生はしている。せっかく巡礼路に植えられたこの並木が勢いを盛り返すことを祈る。なおこの若い並木はエル・ブルゴ・ラ・ネーロの先も街中や新幹線の敷設で途切れた部分を除いて、さらに続いてエル・カミーノを行く人を導き守っている。

またところどころにベンチとテーブルを備えたちょっとしたスペースがあるが、並木と同様、自治体の施策らしい。しかしトイレも作ってほしいものだ。維持管理や犯罪対策等の問題があるのだろうが。いくつかのベンチには2015年の総選挙の名残のスローガンや政党名が書かれたままになっていた。昼頃、道の左側に「梨の木の聖母礼拝堂 Ermita de Vergen de perales」。広い草地にノバラ、ヒナギク、ブタナ(ブタクサではない。黄色い可憐な花)などが咲き乱れ、その奥に煉瓦造り瓦葺の平屋の古い建物があるが、ここも入り口は封じられていた。閉じられていても教会や礼拝堂の敷地内の雰囲気はどこも清澄で敬虔な気持ちを喚起させる。サアグンで買ってきたリンゴやビスケットを食べながらしばし休憩。

次のベルシアノス・デル・レアル・カミーノはただ通過し先を目指した。まもなく道の右側に湿原や沼沢が見られるようになった。これまでには見られなかった種類の鳥もいた。立ち止まって湿原を見ていた先行者が興奮気味に大きな鳥を指さして「見えるかい? コウノトリ(stork)だよ」と教えてくれた。コウノトリは使われなくなった教会の鐘楼等に大きな巣を作って辺りを睥睨(へいげい)しているのをよく見かけたが、実際に自然の中でエサを食べているのは初めて見た。厳密にはstorkというのは東アジアの絶滅危惧種のコウノトリとは少し違うシュバシコウという鳥らしいが、サギよりもずっと大きい。巣は何代も使うらしい。

エル・ブルゴ・ラ・ネーロは歴史的な建造物は少ないようだが、思ったよりも観光客の多い町でレストランや宿泊施設も複数ある。快適な個室滞在に味をしめるともうドミトリーは辛くなってきた。二人だと個室もそれほどの贅沢ではない。こちらで入手したアルベルゲ一覧に+chambresと備考欄にあるものには個室がある。それを見て町はずれの沼(la laguna)のほとりにあるその名もずばり「ラ:ラグーナ」というアルベルゲに行ってみると、ありがたいことに小さいがシャワー・トイレ付きの個室に入れた。点灯しない電気スタンドや天井灯を直してくれたり、庭に干してあったウェスかと思うようなタオルを取り込んで持ってきてくれたり、オスピタレロも感じがよい。というより、このアルベルゲ全体がちょっと浮世離れしたパラダイスだ。美しい広々した芝生にいくつものパラソルやカウチが並べられ、殆どの泊り客が外でゴロゴロして読書、昼寝、スマホいじりをしている。気持ちがよいという理由もあるが、掲示板に free Wi-Fi が屋内では入りづらいので、庭で送受信しろと書いてあった。自炊キッチンはあるが飲食施設はないので、皆シラフで落ち着いた雰囲気なのだ。

日課作業後とりあえず街に出てバル「エル・カミーノ」でトルティージャとカーニャ。町並みや教会や沼地(自然保護区になっている)を見てからアルベルゲに戻り、私たちも庭で寛いだ。田舎だからなのか観光客が多いせいなのか、夕食は早めに食べられる。「エル・ペルグリーノ」というレストランで定食。まず一皿目の選択肢にあったアーティチョークの蕾の芯の煮込み、カリオン・デ・ロス・コンデスで美味しさに感動したので即決した。味付けは前のとは違い酸味が強かったが地元の味なのだろう。二皿目はパプリカにタラとチーズを詰めて焼いたもの。パプリカ自体の甘味に驚く。デザートはメロンにした。勿論パン、ワイン、ミネラルウォーターがついて€10だ。

レオンは射程圏内に入った。なんとなく気が楽になり、就寝は9時過ぎ。

 


神さまの絵の具箱 27

末森英機(ミュージシャン)

疵(きず)のない善。それを言うのは、滅びることのない悪である。その言葉をあらわすのは、イエスが、足の骨を折らずに、殺された、というしるしである。砕かれる者と、砕く者がいる。そして、にもかかわらず、その骨は、ひとつも砕かれないと聖書に3回も出てくる。その道しるべ的な、しるしを、3回も受け取っているのに。人間には、やがて、悪魔に都合のよい時間だけが、訪れるようになる。欲望過多症に苛まれる全世界。かなうということは、疵のない善を自己実現することだから。ならば、かなうということは、ありえないのか? 神理の言葉も、根を張らなければ、実りは幻。慈悲にのみ、満たされようとする人間の体には、罪だけが、宿り続ける。悪いことが、起きたときには、その不運を当然のことと思わず、嘆き苦しむ。汝の敵を、愛せよ! おまえの愛で、相手がうんざりするほど、愛してやればいい! 愛はどこを取っても喜び! 愛し愛されすぎて、地上に天敵がいなくなってしまったら、悪はどうなる? 愛を閉じ込める閂(かんぬき)が、枷(かせ)があるものか? あなたはほんとうに、隣人(となりびと)の塩と薄粥(うすがゆ)になれるのか。人間は、知れば知るほど、無知であることを知るようになったことに、感謝しなければならないことを、いつかしら悟る。いつ? あのとき、創り主の呼びかけに。裸の姿を、隠そうとしたのは、無知のなせる業で、あったろうか。善と悪を、語ることこそ、浅ましい生まれを生む。わずかな塩と、澄んだ水のような粥を、隣人からいただくとき、きっと「その骨は、ひとつも砕かれない」(ヨハネ19:33)。『神は誰の行ないが優れているか見るために、生死を創った』(コーラン第67:2)。
*その骨はひとつも砕かれない(出エジプト12:46、民数記9:12、詩篇34:20)


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 36

古谷章・古谷雅子

5月29日(月) テラリージョス・デ・ロス・テンプラリオス~エル・ブルゴ・ラ・ネーロ(1)

歩行距離:31.7km
行動時間:8時間40分

今日の行程は24kmでもよいのだが、休養十分なので調子がよければもう8kmを歩けるかもしれないと5時50分薄暗い中を発つ。アルベルゲには早発ち用無人出口が必ずあるので前夜に確認しておくことが肝要だ。大部分が標高850mあたりの平らな麦畑の中なので日差しが強い。早く出るのが賢明だ。もっともこの日は結果として雨模様で涼しかったが。30分ほど行くと道の片側がポプラの並木で守られる。小さな集落をいくつか通ってまずは巡礼路の宿駅として中世に発展したサアグンを目指した。

途中のモラティノスあたりにはこじんまりした横穴貯蔵庫が丘の斜面いくつも作られている。この辺りは石材に乏しく煉瓦建築が多い。村の広場の木には色とりどりの毛糸で編んだ腹巻みたいなものが巻かれていた。日本でマツケムシ駆除のために巻くコモのようなものかとも思ったが、季節はずれだ。アートかもしれないが不明だ。次のサン・ニコラス・デル・レアル・カミーノは比較的大きな村で、古い煉瓦の教会の前に早朝からやっているバルがあった。2つの鐘がある鐘楼を見ながら定番の朝食。

8時10分、パレンシア県からいよいよレオン県に入った。このあたりから、国道とは別に「autovia el camino」と表示されているローカルな自動車道路が巡礼路と並んでいる。県境から小1時間で小川に沿って行くと小さなローマ橋の向こうのひらけた草地に「橋の聖母礼拝堂 Ermita de Vergen del Puente」があった。ロマネスク・ムデハル様式、12世紀に煉瓦で建てられ救護院を兼ねていたそうだ。この形式は徒歩で1時間ほど先のサアグンの文化圏であることを示している。入り口は閉ざされているが、南側に後世に建てられた立派な門柱がある。一つは聖人、もう一つは武人が彫られていた。

雰囲気がよいので一服していると雨が降ってきた。雨衣やザックカバーの出番がようやく回ってきた。この後は小雨が降ったり止んだりだが、清々しく快適だった。40分ほどでサアグン到着。

サアグンは11世紀末にクリュニー派がカスティージャの重要拠点としたので巡礼路都市として急成長した。○○派といっても私たちには知識がないが、(長い引用になるが)饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)には次のような分かりやすい記述がある。

「十世紀に修道院として組織的にはじまったものにブルゴーニュ地方、クリュニーから出たクリュニー修道会がある。ピラミッド形態で、教皇にのみ属し、地方の貴族領主の支配をうけず、他方で多くの土地の寄進によって成長していったが、特徴として典礼、儀式が煩雑で、「代祷」(貴族や金持ちの依頼)が多かった。しかしこの修道会によってキリスト教が日常の水準で洗礼と終油をほどこし、教会記録や文書をつくり戸籍をととのえ、かつサンチアゴ・デ・コンポステーラまでの大巡礼を組織した。その附帯条件としては当時、西欧にはいっていたイスラム勢力と対峙することであった。

もう一つ十一世紀末に、そのような儀式や寄進によってうるおったクリュニー修道院を批判しながらあらわれた修道会にシトー派がある。当然彼らは典礼を簡素化し、奴隷付きの土地寄進は受けず、自給自足のため、植林、牧畜、養魚、鉱山その他の産業にたずさわり、労働と信仰を中心にしたストイックな道を歩もうとした・・・(中略)・・・森の中、泉のほとり、山の頂き、谷の奥、川のそばなどに建物をつくった。人里から遠く離れた隠修にふさわしい隠修修道院となったのである。

この二つの隠修修道院は十世紀から十二世紀において大きな成長をとげる。しかし進んで大衆の中に入らず・・・(中略)・・・啓蒙的なことはしなかった。それはむしろあとにくる十三世紀の托鉢修道会である聖フランチェスコ修道会や聖ドミニコ修道会が行うことになる。この二つの会はともに反キリスト者の多い都市にその力をもった。・・・(中略)・・・都市の力が増大した時代であり、人口もふえ、商人を中心とする力が支配的になりつつあったからである。」

この説明に呼応するような変遷が形に残っているのがサアグンの町ともいえる。寂れたとはいえ、いくつもの時代を跨ぐ様々な遺跡が次々と目に入り、小1時間を街歩きに費やした。煉瓦造りのサン・ディルソ教会とサン・ロレンソ教会が残っているが、前者はロマネスク期の四角い塔が印象的だ。修道院は隠修的ではなく高い塀はない。サン・ベニート門をくぐりセア川に架かる11世紀に再建された石造りのローマ橋を渡って町を出てさらに進む。町はずれまで見事なポプラ科の大木の並木があり綿毛が飛んでいた。水豊かな川・緑豊かな木々の中の寂寥感漂う遺跡の町が、うまく観光資源を生かして活気を取り戻すことができるだろうか。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 35

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(2)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

この日も、終点のレオンまでの配分にメドがたったので、カルサディジャ・デ・ラ・クェサから9km先のテラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスで切り上げることにした。そうなると昼頃には着くので、たまにはきちんとした昼食を食べようということになり、次の村レディゴスはバルにも入らずに通過した。道中や宿泊予定地に城も教会もないというのは珍しい。体を休めろということかもしれない、と都合よく考えた。

テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスという地名は、12世紀にエルサレムを守るために組織されたテンプル騎士団の支配下にあったことによる。その頃の巡礼路は現在よりも700mほど南にあったという。2つのアルベルゲがあるが、村の手前の新しい建物の方に入ってみた。最近できたアルベルゲは個室があるものが多い。ここも自動車旅行の家族やグループも想定していて、快適そうだ。早く着いたのでシャワー・トイレ付きの2人部屋を確保できた。広い庭に洗濯場、物干場が整備されている。

日課作業を済ませてから村の中に行ってみた。人口は90人ほどなので、独立したバルやレストランがあるわけではなくそれぞれのアルベルゲで食べることになる。村の中のアルベルゲは田舎風で質素だが楽しいしつらえで、メニューも地元食が主だ。昼食はこちらでとることにした。ジャガイモ入りトルティージャ(卵焼き)や季節の野菜とチーズの入った田舎風パイ、パン、ビール。既に食堂は祝祭かと思うほどたくさんの人がビールやワインでデキ上がっていたが、この人たちは1日にどれくらい歩いているのだろうか?

ランチタイムが一段落したところで私たちのそばのテーブルでシェフ自身が昼食を始めたが、グラスに赤ワインを注いで周りを気にせず優雅に食べることに専念していたのも日本人には珍しく思われた。村を歩いてみたが、目当てにしていた6月末には使徒サン・ペドロ祭が行われるという煉瓦造りの教会の入り口は漆喰で塗り込められ普段は使われている様子はなかった。

この国には2時頃の昼食後シエスタ(午睡)の習慣があるが、貧乏性な私たちはその間も活動し、その代りに早々と就寝してきた。この日は部屋に戻り、初めてノンビリとシエスタをした。またレオンに到着する日もほぼ見通しがたったので、インターネットのホテル予約サイト経由でレオンの宿泊の予約を済ませた。前々回レオンでは当日見つけたアルベルゲのドミトリーに泊まったが、設備も雰囲気も非常によくないところだった。大きな街に着いて解放感からけじめのなくなりがちの若い巡礼者たちを避け、今回はブルゴスのオスタルで薦めてくれたところを予約できた。

夕食はアルベルゲの食堂で一斉開始だが、テーブルはグループ別。本日の定食はサラダかカスティージャ風豆スープ、メルルーサ筒切りのソテーか肉、ヨーグルトかアイスクリーム、ミネラルウォーターやワインはいつも通り好きなだけ。ワインが飲み放題といっても、理由はある。巡礼路に限らず、スペインは水事情がよくない。中世の「巡礼案内」には「巡礼は、悪しき水を飲まぬことが肝要である」と書かれているそうだ。ところによっては水が有毒で命にかかわった。旅人は煮沸などもできない。だから得体のしれない水ではなくワインやビールが日常の飲み物になっていたのだろう。「悪しき水」は追剝(おいはぎ)や野犬と並んで巡礼が出会う危険の一つでもあったのだ。昔から整備されていた泉でも、今は「飲めない」と表示されていることも多い。私たちは必ず水のボトルを購入し、持ち歩いた。

ついでに言えば、昔は渡河も難儀だった。渡し守はしばしばわざと船をひっくり返して盗賊と化したそうだ。巡礼路の架橋は寄進の対象になるほどのありがたい事業だった。昔の巡礼が異様に長い杖を持っていたのは縋りつくためだけではなく、追剥や野犬と戦う武器であり、渡渉する時の道具でもあったからだ。

 


エンドレス・えんどう 10

服部 剛(詩人)

先日、静岡・修善寺で行われた川端康成についてのイベントに行きました。『伊豆の踊子』をベースにしながら川端の生涯を辿る映像がスクリーンに映し出され、主人公の書生がトンネルの闇に入っていくことで、物語は旅の次元に入っていきます。

遠藤周作の『深い河』も、遠藤自身が意識して書いたかどうか定かではありませんが、同じ次元に入っていく場面があります。それは各々の人生の答を探してインドまで来た旅人たちを乗せたバスがトンネルに入ってゆく、次の場面です。

真暗な樹のトンネルをしばらく通ると、突然、遠くに光の一点が見えはじめた。臨死体験者たちは闇のトンネルの奥に光の一点を見るが、その体験と同じように闇の遠くで蛍火のような明りが少しずつ大きくなる。(*1)

聖地・ヴァーラーナスィという町に入ると同時に、登場人物らの脳裏にはそれぞれの過去の記憶が甦ってきます。 「人に歴史あり」と誰かが言ったように、私達一人ひとりの道を想うとき、歴史になっていることに気づきます。そこには人知れず喜びも悲しみもあるでしょうが、時にはそっと自分に〈今までよく歩いてきたねぇ…〉と囁いてみてもいいと思います。それは自分が歩いてきた道を味わい深く肯定する心となり、さらなる明日への道となってゆくでしょう。

「記憶」について、もう一つ大切なことは、「もしも、あの時――」という人生の岐路を思い返すと、忘れ得ぬ場面が今の自分につながっている、とわかります。その体験を自分の意識にのぼらせることで、現在を輝かせることができる気がします。

僕の例で言うと、高校三年生の時の失恋を思います。(惨めで、情けなくて、格好わるかった、でも、あの頃のどん底の自分がいたからこそ、僕は詩を書き始めた)など、人それぞれに歴史を振り返ると、過去の出来事から密かな深いメッセージを感じることでしょう。

『深い河』の登場人物たちのように、時には旅に出ることが人生の大事なきっかけを生むものです。それと同時に、一見、何の変哲も無い日々を歩むことが、実は<旅そのもの>であり、あなたをあなたの物語へと誘う<密かなトンネル>は、日常の中に潜んでいるのです。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 34

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(1)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

快適な個室だったので、朝もいつもよりのんびり過ごした。6時20分出発。昨日確認しておいたカリオン川を渡る道を進む。国道を横切ってからは静かな田舎道になる。国道を行けば途中にムデハル建築の教会や古代ローマ時代の遺跡があるのだが、やはり静かな田園の中の巡礼路を行くことにした。水が近いせいか思ったよりも木立があり樹種も多様だ。ニセアカシヤもある。カッコウの鳴き声を聞きながら10kmを順調に歩き、8時15分大休止。この先は木々がなくなりまた一面の麦畑で右側は刈入れ間近な色だ。

17km近く歩きカルサディジャ・デ・ラ・クェサの町。カルサダとは古代ローマ時代の石畳の道のことだそうだ。ベンチと泉があり、一休みしていると太ったネコが何匹も走ってきて私たちの食糧を取ろうとする。最初はおねだりだったのが次第に暴力的になり辟易して早々に出発した。樹木や建物がないと黄色い矢印はないが、道中にはモホンというホタテ貝の意匠でエル・カミーノを示す石の道標がある。それでも迷いやすいところもある。しかし今はGPSが解決してくれる。

章はいわゆるガラケーなるdocomo携帯を持っていった。これは家族との間の緊急事態や万が一の場合の通信用で、基本的には無料のWORLD WINGを申し込んであれば使った分だけの安い料金で済む。その他には雅子がAndroidスマホ、章がiPad miniタブレットを持っていたが、特別な料金契約はせず、契約電波を使う通信機能は切っておいた。こうしておけば料金は日本での例月分だけだ。スペインでは大方の宿舎でfree Wi-Fiがあり、宿泊手続きの時にパスワードを教えてくれる。それでインターネットがつながるのでメールや新聞も日本と同様に受送信できる。

問題は屋外、特に平原や山を歩いている時だ。道案内には地図が必要だが、Google mapはインターネット環境がないとみられないし、ダウンロードして保存できない。しかし、事前にダウンロードしておける優秀な無料地図もある。GPS機能は契約電波とは無関係にタダで キャッチできるので地図と連動させれば現在地は常に確認できた。スマホにはOpenCycleMap、タブレットにはMAPS.MEという地図を出発前に入れていった。特に前者は自転車旅行者用に細い道や水場などのポイントが入っている。

「Geographica」というアプリで一日の距離、高低差、時間、トラック(軌跡)等の行程を記録することもできた。余りに便利だと昔のような読図の醍醐味や心細さがないのが贅沢な悩みになってしまう。とはいえ、バッテリーが無くなれば使えないのだから、基本はやはり紙の地図とコンパスということになる。「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の詳細なガイドブックと初回に現地で入手したミシュランの地図こそが頼もしい道連れとなった。アルベルゲやホテルの場所や収容人数、距離数が予め分かるのでペース配分、日程調整に無駄がでない。

 


神さまの絵の具箱 26

末森英機(ミュージシャン)

世界でいちばん不運で、幸せな、わたし。とは、どんなことがあろうとも、変えたくて、変えられなくて、でも、始まりだけが、春だと覚えていること。きれいに、疑うことを、知らないこと。酔っぱらいの、ユメでもいい。なぜ、わたしに。イエスのあかしが、なされたのか?エゴがしぼんでゆくように、わたしには、見えている。イエスのスケッチが。イエスのポートレートが。イエスのスクリーンを見るように。すると、エゴはしぼみ、かれてゆくばかりだ。なぜなら?彼とともに、彼のうちにある、ということはそのことだから。きく耳を、つくってくださったのは、そのためだったから。最高、実在の化身ではない。ただ、唯一、不可分のイエス。と、わたし。祭服などまとわずに、花を集められる。いつでも、どこでも、異邦人になれる、わたし。たとえ、異教の香りのなかでさえ。頭のてっぺんから、爪先まで、すっかり変わっても、彼をして、自由。もはや、時を告げる鐘もいらない。だって、始めのない、時間から「先にガリラヤに行っている」(マタイ26:32)と、ひとつの火の粉を目印にされたイエスだから。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 33

古谷章・古谷雅子

5月27日(土) ボアディージャ・デル・カミーノ~カリオン・デ・ロス・コンデス(2)

歩行距離:25km
行動時間:7時間5分

シルガから宿泊地カリオン・デ・ロス・コンデスまでは県道を6kmほどだ。ここは人口2400人、ブルゴスに葬られている英雄武人エル・シッドゆかりの古い大きな町だ。彼の3人の娘たちがこの地の公爵達(コンデス)に嫁いだものの大切にされなかったことに立腹したエル・シッドが婿たちを皆殺しにしてしまったそうだ。中学生の頃観たチャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンのハリウッド映画『エル・シド』のイメージよりも相当暴れん坊だったようだ(映画は父を決闘で殺したエル・シッドへの憎しみと彼への恋心に苦しむヒメーネスとのラブロマンス)。

小さな画像はクリックで拡大

この町ではサンタ・クララ修道院とサンタ・マリア教会にそれぞれアルベルゲがあるのだが、私たちは前者に泊まるつもりだった(後者は歌うシスターとの夜の集いで有名だ)。前者には別棟にシャワー・トイレ付きの個室オスタル部があるはずなので、前期高齢者としてはここらでゆっくり休息したかった。早く着いたこともあり2人部屋が取れた(2人で€50、私たちにはかなり贅沢だが喜捨と考えよう)。塀の中には広い中庭を囲んでロの字に建物があり、正面は受付、右手はアルベルゲ部、左手がオスタル部で、居室から全体が見下ろせる。自炊設備や洗濯場・物干し場はアルベルゲ部にあるので、そちらへ入るための鍵の隠し場所などをオスピタレロ(宿泊の世話人)が説明してくれたが修道院だけあって非常に管理が行き届いている(居室に行くまで3か所の錠を開けなければならない)。

個室は極めて簡素だが清潔で静かだ。西英仏独伊語で規則が表示されていた(静寂を守ること、使用したシーツやタオル類は廊下の籠に入れて出立することなど)。日課作業も自分のペースで快適に終わらせ町に出た。修道院には飲食施設はない、またスペインの宿泊施設では珍しく Wi-Fi もない。オスピタレロが教えてくれた「ラ・ムラージャ」というレストランとバルを兼ねた店で free Wi-Fi が使えるというのでまずはそこでカーニャ(生ビール)と軽食。地元でも人気の店のようだ。

町の地形はメセタの中では高低差がある方で複雑だ。高台にいくつか教会があるが、反対側は木々の緑豊かなカリオン川に落ち込んでいる。まずサンタ・マリア教会を見てから、町を出るルート偵察を兼ねて立派な石のカリオン橋を渡ってみた。サン・ソイロ修道院という歴史的な建物の中庭の回廊を見たかった。しかし私たちとは無縁の富裕層が宿泊する豪華な五つ星ホテルに改造されて、奥までは入れなかった。町に戻り、丘の上のロマネスク様式の教会とルネッサンス様式の教会を外側から見る。

町中では楽しみにしていたサンティアゴ教会(今は資料館)の正面装飾を見ることができた。やや長くなるが、前述の村田先生の書物から引用すると

「扉口上部に、エバンゲリストの象徴に囲まれたキリストを中心に12使徒の彫像が横一列に並び、その下に、タンバンを欠いたアーチがある。その単純な構成がみごとだ。それがすっきりしているだけに、彫刻が引き立つ。12世紀末、ゴシックへ移行しつつあるときの制作だけあって、立体的であり、リアルな訴求力がある。そして、ここで注目すべきは、その弧帯に、ロマネスクにはめずらしい職人たちの姿が刻まれているということだ・・・」

ふつうは楽器を持った老人が並ぶところに、コンパスを持った建築家、鋏を持った美容師、ロクロを回す陶工など当時の職人の姿が彫られている。先生は、巡礼宿駅の発展による都市化に伴う様々な職業の市民の蝟集と、ギルド成立への動きの反映ではないかと述べられている。このような地理的・時間的発展の痕跡が道中の楽しみでもある。

夕食はまた「ラ・ムラージャ」で。田舎では早めの時間でも定食(メヌー・デル・ディア)を食べることが出来た。庶民向けの定食ではしばしば地元の季節ものが出てくる。この日も不思議な野菜と生ハムの煮込みが出てきた。大きめの芽キャベツのような球が6、7個。わあ、美味しい!これはアーティチョーク(アザミの蕾)の芯だった。デザートもフワフワのホイップクリームに大きなイチゴがたっぷりで満足した。

ここではちょっと興味を引くことがあった。次々と杖や車椅子の高齢の男女が入ってくる。介助人がついている人もいる。殆どの人が楽しげにアルコール飲料を飲んでいる。窓際の席だったので様子を見ていると道路の反対側の「Nuestra Señora de las Mercedes(慈悲の聖母マリア)」と正面壁に掘られた美しい建物からやってくるのだ。(おそらく教会が経営している)老人施設だったのだ。今日は土曜日の午後だから外出も自由らしい。高齢者もおしゃれをしてバルに来る、ということが当たり前のお国柄らしい。

この日は到着後の街歩きと見物が長く、合わせれば30kmを超す距離を歩いた。しかし夜は話し声も聞こえない修道院らしい完璧な静寂の中でゆっくりと休むことが出来た。