新ながさきキリシタン地理 3

「宗教改革500年式典」が長崎にもたらしたもの

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

2017年11月23日(木)、カトリック浦上教会(長崎市)にて、
日本福音ルーテル教会・日本カトリック司教協議会共同主催
「宗教改革500年共同記念――平和を実現する人は幸い」が行われた。

2017年は、
マルティン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルクの地にて、
95箇条の提題を発表した1517年から500年の年で、
国内外で様々な催しが企画された。

丘の下から見た当日の浦上天主堂

とくにこの浦上天主堂での式典は、
数ある国内の「宗教改革500年イベント」でも最大級のものであり、
時期も最後ということでまさにクライマックスの様相を呈しており、
ずいぶん前から取材を予定しており楽しみにしていた。

2008年に、同じく11月に長崎で行われた
「ペトロ岐部と187殉教者列福式」があり、それを彷彿とさせた。
この「式典」が長崎にもたらしたものは、
まずは県外からの人であった。
しかし「列福式」の時と違っているのは、
カトリック以外、ルーテル派の信徒もまた集まっていることである。

そのルーテル派の信徒たちを浦上天主堂にて待ち構えていたのは、
午前中の橋本勲神父(カトリック中町教会主任司祭)からのユーモアと笑いであり、
昼食用に浦上教会信徒が無償で振舞ってくれたおにぎり2個とお茶であった。
(東京から来ていた神父さんが感激していた!)

橋本神父の話は、大変貴重なもので、
今式典で一番沸いた場面で、
はじめにしてクライマックスのように思われた。
内容としては、
県外の人にはあまり馴染みのないものであったかもしれないが、
長崎の地の凝縮された「ミクロコスモス」が、
惜しむことなく開陳された。
「沈黙の民」としばしば呼ばれる長崎の人が、
なかなか外の人に話さない貴重な内容だったように思う。

冒頭には「免罪符」についての軽妙洒脱な話で、
ルーテル派の信徒の心をつかみ、
浦上キリシタンの「崩れ」の話、
「浦上五番崩れとしての原爆」の話、
「十字架型の平和」の話へと転じ、
最後に「キリスト一点しぼり」という橋本神父独特の言い回しで、
キリスト教信仰の核心を再確認した。
(ビールは「一番搾り」です、と笑いもとった!)

こちらの式典での橋本神父の講演の詳細は、
『福音宣教』2018年3月号(2月15日発売、オリエンス宗教研究所)
に掲載されている。

会場にはバチカン、ドイツからの来賓も

この式典の後、
私は郷里が長崎であり土地勘があることから、
二組の方々に長崎市内を案内した。

一組目はルーテルの信徒ご一行である。
まずご案内したのは、
同じく浦上の地にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」である。

橋本神父が本島等市長の話を引用した際に出た「被害と加害」ではないが、
原爆においても、
日本による「加害」の歴史もまた存在する。
戦争捕虜だった英米人も、連行された朝鮮人も被爆した。
それに際して、
日本人の手によってこうした碑が建てられていることに救いを感じる。

この碑建立を企画・実行したのがルーテル派牧師で、
長崎市議会議員でもあった岡まさはるであった。

この碑の前にいた際に、
ルーテル派牧師というご縁か、長崎は今も出会いの町ゆえか、
さらに知り合いの東京から来たルーテル派の牧師さんと出会い、合流した。

そこから長崎駅前にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」へ。
こちらも観光ガイドブックに載らないスポットであろう。
まさに「原爆加害の歴史」を伝える場である。

その後夕食をともにし、計らずして「一番搾り」もともにした(笑)。

浦上天主堂から車での帰りに、「主の平和」

翌朝は、もう一組、
東京から来たAMORでもおなじみの同門カトリックの方をご案内。

カトリック関係の方は長崎に来られることが多い。
「たまにはキリシタン関係以外を」とのご所望で、
大村藩蔵屋敷跡地(現中町教会)、
光永寺(福澤諭吉逗留地)、
シーボルト記念館、
亀山社中、
長崎歴史文化博物館などへ。

「十字架型の平和」。
どちらが左右かは知らないが、
カトリックとプロテスタント、
「キリスト一点しぼり」ができただろうか。

そんな想いを胸に、郷里長崎から東京へ戻ってきた年の瀬であった。

 


新ながさきキリシタン地理 2

二つのキリシタン神社――枯松神社と淵神社・桑姫社

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

日本には、そして世界にも勿論、
三つだけのキリシタン神社というものがあるらしい。
その中の二つが長崎市にある。

一つは、最近テレビでも取り上げられるようになった
有名な枯松神社である。

枯松神社(〒851-2326 長崎市下黒崎町枯松頭)

場所は、遠藤周作文学館がある外海・出津地方の
すぐ手前にある黒崎地方にあり、
黒崎教会前のバス停で降りて、
山道を20分ほど登ると枯松神社はある。
バス停前には、「外海潜伏キリシタン文化資料館」があるので、
そこに行けば、枯松神社の話が聞くことができる。

こちらは外海出身の日本人預言者バスチャン
の師であるサン・ジワン(西洋人)を祀った祠であり、
潜伏キリシタンたちが集まり、
オラショ(口承の祈り)を伝承した場である。
禁教時代に箱物は作れないので、
枯松神社は明治に入って建立された。
祈りの岩を前にして、オラショの伝授がなされた。
祈りの岩より上に登ると、
大きな石の上に白い小石がおもむろに置いてある。
皆でその白石を十字架の形に配列して祈り、
祈りが終わると石をばらして立ち去ったという。

キリシタンは目に見える証拠を残さない。

枯松神社への途上の山道に咲くやまゆり

バスチャンと言えば、
日繰り(教会暦)と予言が有名だ。

潜伏キリシタンには、
浦上―外海―五島ルートと、
平戸―生月ルートの二つがあり、
後者には、日繰り(教会暦)が伝わっていないと言われる。
外海地域では、日繰りをたよりにミサが行われた。

バスチャンの予言とは、
迫害が厳しくなった折にバスチャンが遺したもので、
以下の内容である。

「七代経てば、黒船に乗って神父がやってきて、
毎週でもコンヒサン(告解)することができ、
どこででもキリシタンの教えを歌って歩けるようになる」

フランス人宣教師プティジャンの「信徒発見」は、
ちょうどそれから七代後だったということである。
長崎側では、これを「神父発見」と言う。

まさに「彼待つ」神社というところか。
枯松神社はバスチャンの墓という説もある。

黒崎の中心地域は松本地区といい、
住民の姓も、
松本、松下、松山、松森、松谷、松尾などなど、
ほとんど松がつく姓だそうだ。
「枯松」を中心とした地区ということなのだろう。

もう一方のキリシタン神社、
淵神社・桑姫社は、
もっと市街地にある。

淵神社・桑姫社(〒852-8012 長崎市淵町8-1)

桑姫とは、キリシタン大名の大友宗麟の孫娘であり、
桑姫自身も「マギセンシャ」という霊名を持つキリシタンである。

豊後・大分の地から、長崎の淵地区に来て、
養蚕の文化を伝えたため、桑姫の名がついた。

宣教師をはじめ、
キリスト教をもたらした人は同時に、
文明をも、もたらしたように思う。

ある意味、宗旨とは関係なく、
万民に役に立つことを伝えるのであろう。
「ド・ロさまそうめん」などというのは、その典型だ。

ちなみに、三つ目のキリシタン神社は、
東京都にある。

伊豆大島にある、オタイネ明神である。
朝鮮半島から連れてこられて徳川家康の側室となった
キリシタン・おたあジュリアを祀った社である。

東京近郊の方は、行ってみるのもいいかもしれない。

 


新ながさきキリシタン地理 1

「宗教改革500年共同記念礼拝」と浦上キリシタン資料館

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

筆者は長崎から上京し20年になる。
帰省旅行として都合30回以上長崎を訪れたことになるが、
「何度行っても初めて見たものがある、よい博物館」と同じように、
行くたびに、いつも新しい発見がある土地だ。
狭い町のように見えるが、案外奥が深い。

そのすり鉢状の地勢から、
「ながさき円形劇場」とも呼ばれ、
数々の悲劇の舞台となってきたように思える。

今回は、浦上の地について紹介したい。
浦上天主堂(長崎カテドラル)にて、
今年2017年11月23日(木)10時より行われる、
「日本福音ルーテル教会・カトリック教会
宗教改革500年共同記念礼拝」
をご存知だろうか?

日本における「宗教改革500年」関連企画の目玉だが、
知名度はいま一つで、
今夏の帰省の際も、長崎の地元でも知っている人は少なかった。

浦上天主堂の麓には、
浦上の信徒が作り上げた浦上キリシタン資料館がある。
(〒852-8116 長崎県長崎市平和町11‐19 グロリアヒルズ1階)

「信徒発見150年」(2015年)を記念して開館されたもので、
長崎の新しいキリシタン・スポットの一つだ。

キャプション=浦上天主堂廃墟前 被爆死者合同慰霊祭 1945年11月23日

中には原爆で被災した浦上天主堂の写真や、
永井隆博士の事績についてのパネル、
8月9日より前の8月7日に、米軍機が偵察用に、
浦上天主堂の上空を撮った写真なども展示されている。
原爆とキリシタン、
双方の複雑な歴史に思いを馳せられる場である。

長崎と言えば、よく永井隆博士を連想されるが、
永井隆は現・島根県松江の出身であり、
長崎医科大学卒業後、医師として当地にとどまり、
浦上村出身の森山みどりと結婚する。

被爆死者合同慰霊祭では、被爆信徒を代表し、
永井隆が「死者合同葬弔辞」を読んでいる。
その式文本文のパネルが、
浦上キリシタン資料館に展示されている。

「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の霊魂は一瞬にして天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではありません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたものです。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありましたが、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさわしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたのです。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊として神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちはなぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、このような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きものが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではないでしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキリストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致します。そして貴い犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに憩わんことを、アーメン」(永井隆「被爆死者合同慰霊祭 死者合同葬弔辞」より)

読者は、どう感じられただろうか。

地元・浦上では、いわゆる「よそ者」に、

「原爆は神の摂理によって浦上にもたらされた」
「子羊として神の手に抱かれた信者(※筆者注 被爆死した信者)こそ幸福」
「神が浦上を選ばれ燔祭に供えられたことを感謝する」

という趣旨を「浦上の代表として」言われたことによって、
一部の層では大いに混乱し、物議をかもすことになった。

「浦上燔祭説」として、
弟子の秋月辰一郎、被爆者である詩人の山田かん、
長崎大学名誉教授の高橋眞司らによって指摘されたものである。

キリシタンと原爆の交差する浦上は、
とても複雑で重層的な場所である。

幕末まで、長崎は天領(徳川幕府領)、
浦上は大村藩領地であり、
隣り合った土地でありながら、層の異なる歴史を歩んできたように思える。

浦上天主堂の丘は、
元々、踏み絵を行っていた庄屋の家であり、
そこの跡地に教会を建てた歴史がある。
「悲しみの丘」が「歓喜の丘」になったわけである。
そこが再び「悲しみの丘」の変わる
(坂口安吾「長崎チャンポン」『安吾新日本地理』河出文庫、より)。

浦上キリシタン資料館

この「被爆死者合同慰霊祭」と同じ丘で、72年後の今年、
「宗教改革500年共同記念礼拝」が行われることもまた、
忘れてはならない。

長崎は現在、世界遺産候補
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
を申請しているところであり、
遺産観光規制がかかる前の今が、
観光・巡礼にはちょうどいいかもしれない。

「宗教改革500年共同記念礼拝」などで、長崎に行かれる際には、
浦上天主堂の帰りにぜひ、浦上キリシタン資料館にもお運びを。