スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 44

古谷章・古谷雅子

6月3日(土) フィステーラやムシアへの遠足

宿題の三つ目は、新大陸発見前までは「陸の果てるところ」と思われていた岬へ行くことだった。NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会著『聖地サンティアゴ巡礼(増補改訂版)』(ダイヤモンド社、2013年)から引用すると

「スペインの最西端にある岬フィステーラは地の果てという意味を持つ。中世ではガリシアのこの地が生と死の境目となる場所と考えられていた。巡礼の旅の締めくくりに昔の人は、まず海で身を清め、身に着けていた衣類を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたという」

サンティアゴからフィステーラまでは、100km近くある。さらにムシアまでは30km、歩くと4日かかる。そのまま巡礼者として徒歩で向かう人もいるが、アルベルゲやモホン等は十分ではない。私たちは一人€40、スペイン語と英語の両方の説明付きのガイドツアー(バス)で行くことにした。30人ほどの参加者だが、徒歩でエル・カミーノを終えた人もいれば一般観光客もいる。ガイドのセニョリータの人柄と素晴らしい天候のおかげで10時間の強行遠足も和気藹々として楽しかった。

バスで走るとガリシア州が如何に緑豊かなところかよく分かる。建物の外見はもちろん異なるが、雨が多いので農村のたたずまいは日本に似ている。途中、14世紀の石橋を残す静かな村プエンテ・マセイラ、海に直接滝がなだれ込むエサロの滝に寄り、昼頃港町フィステーラに到着。海鮮を食べさせる店が軒を並べている。昼食は各自なので、私たちは旅行社の日本人研修生のC子さんと3人でSさんが推奨した「エル・プエルト」という景気のよい店に入った。テントの下のテラス席に座りスペイン語の堪能なC子さんのおかげで首尾よく名物のスープ、盛り合わせ、白ワインを注文した。塩茹でしてオリーブオイルをかけただけの魚貝の美味しいこと、さすがガリシアの海辺だ。ペルセベス(カメノテ)と奮闘していると隣のテーブルの現地の人が親切に食べ方(剥き方)を教えてくれた。最後にリキュールのサービスもあり、昼間から解放感いっぱい。内容は違うだろうが、昔の巡礼もここまで来た人たちは(おそらくパンとチーズぐらいしか食べていなかったのではないか)、海の幸で精進落としをし、ホタテの貝殻を持ち帰ったのだろうか。

それぞれに満足した客を再びバスに乗せ灯台の近くまで行く。まさに陸の果てるところだ。岩場を歩き、岬のモホン0km地点の先で大西洋に向き合う。中世の人はどんな感慨を持ってこの「地の果て」に立ったのだろう。昔のしきたりをなぞる巡礼がいるのだろう、岩場には衣類を燃やすことを禁じる看板があった。それにしても午後の日差しにきらめいて眼下に広がる海は期待以上に美しかった。もし徒歩で来たならこの感激はさらに倍加しただろう。

さらにバスはムシアを目指した。時間の関係からか町で下車せずに岬の駐車場へ。ここが本当のゴールだ、という人もいる。聖母マリアが舟に乗って出現して伝道に行き詰っていた聖ヤコブを励ましたところと伝えられ、「舟のマリア聖堂 Santuario de Nuestra Señora da Barca」がある。新しい建築のような印象には訳がある。2013年12月25日クリスマスの朝、雷がこの教会に落ちて燃え上がり、屋根や内部は丸焼けになってしまったのだ。この年は前述したように7月にrenfeの鉄道事故があり、ガリシアにとっては胸の痛む劇的な年として記憶されているようだ。

今は修復され、また近くの丘には落雷を象徴する割れ目の入った高さ10m以上の巨大な石のモニュメントが作られている。丘から紺碧の海に向かって白い石畳が続いて、フィステーラと同様、というかそれ以上に美しく緊張感のある風景を成していた。茫々たる大西洋、雄大に湧き上がる雲、押し寄せては砕ける波、髪を逆立たせるような強い風。波や風のように激しい動きにシンクロナイズし、日常では感じることのないざわざわとした説明のつかない激情が湧いてくるのだった。

バスがサンティアゴ市内に戻ったのは夜の(といっても明るいが)7時過ぎ。ランチでも見学でもお腹と胸がいっぱい、ということで、宿の近くのレストランで定食を軽く食べる。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 43

古谷章・古谷雅子

6月2日(金)

モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)再訪
ボタフメイロ(吊り香炉)の焚かれるミサ参列

最初の旅でレオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いた時は、到着の翌日にはマドリッドに戻らなければならない日程だった。最終日は到着後に巡礼認定事務所で証明書を受けたり(かなり時間がかかる)、列車のチケットの購入もしたりしなければならないので、モンテ・ド・ゴソはスタンプを押しただけで通過してしまった。しかしここは東からの巡礼路上で初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が遠望でき、下っていけばあと5kmで長い旅が終わるという心にとめるべき地点ではあったのだ。それで、もう一度訪れることにしたのだ。

市内からモンテ・ド・ゴソ行きの路線バスで20分ほど。車道から傾斜地に造成された住宅街を抜けて巨大なモニュメント(元ローマ法王の訪問記念碑)のある丘に登った。今一つ明澄でない空の下、尖塔を認識するのは難しかったが、ここにたどり着いた人々の解放感と感動の雰囲気に満ちている。中には帰途上の人もいる。往復を徒歩という人はかなりいるようだ。前の旅でも自宅の前から歩きだした人、帰りも歩く人に会った。丘の下方にはアルベルゲが兵舎のように何棟も並んでいる。大部分の人はここに泊まり、翌朝に余裕をもって市内に入る。11時までに巡礼証明書を受けた人の国名や人数が大聖堂で行われる12時のミサで読み上げられ祝福されるのだ。

さて、そのミサだが、世界最大と言われる吊り香炉ボタフメイロ(ガリシア語で「煙をまき散らすもの」)によって聖堂内に清めのお香が振り撒かれる儀式を是非見たかった。

儀式は決められた記念日や団体や個人が寄   進する場合しか行われない。二日後の聖霊祭では行われるらしいので事前偵察のつもりで大聖堂に行ってみた。すると入堂待ちする長蛇の列ができている。これから特別なミサが始まるらしい。もしかしたら最後にボタフメイロ儀式もあるかもしれない。入って分かったことだが、軍隊を祝福するミサのようだ。この国ではよくあることなのか? 大掛かりな合同演習があったのか、各連隊旗(?)を直立不動で支える兵士の一群が前に配置され、横には軍楽隊が並んでいる。兵士たちが既に着席しているところへ一般人がぎっしり入り、ミサが始まった。

私たちは祭壇の左手翼廊に立ったが参列者が多くて祭壇付近の様子は見えないしミサはすべてスペイン語(カスティージャ語)で執り行われるので私たちには分からない。しかし非常に厳粛な雰囲気だ。1時間ほどでミサが一段落すると中央に吊り下げられていたボタフメイロがするすると降りてきた。人の高さまで降りたら火を着け、はじめだけ人の手で、それからは滑車の反対側のロープを強めたり弱めたりして揺らしていくということだ。細部は見えないが白い煙が勢いよく噴出し始めた。パイプオルガンが朗々と鳴り響き、合唱が始まる。滑車の反対側のロープは5本の持ち手に分かれていて、それを深紅色の特別な僧衣をまとった5人のティラボレイロス(ガリシア語で「香炉持ち」)が巧妙に操って次第に振れ幅を増大させていく。なんと力強く見事なチームワークだろう。

参列者が固唾をのんで見守る中、ボタフメイロが20m程の高さまで上り、意志が乗り移った生き物のように凄まじい勢いで翼廊両端の天井にほぼ達する弧を描きながら往復して煙と香りを振り撒き、堂内の人々を清める。振れ幅がだんだん小さくなりながら降りてきたところで最後は別のティラボレイロスが抱え込んでボタフメイロを止めた。堂内の緊張が一気に解けた。この間5、6分であったと思うが恐ろしいほどの緊張と感動で参列者は完全に一体化していた。この儀式は長旅の果てにたどり着いた巡礼者の異臭を消すために11世紀に始まったと書いてあるものが多くみられるが、むしろ魂の浄化を劇的に体験化する儀式だろう。

これでミサの終了である。しかし今日はこの後に、軍楽隊の演奏が続いた。ワグナーの「楽劇タンホイザー序曲」、教会内でこの曲を聞くとは思わなかった。このあと堂内を巡ってから、日に照らされた現実世界へと外に出た。

二つの課題が1日で済んだのは望外の幸運か。しかし疲れた。宿に戻ってしばし休憩してからSさんに会い、フィステーラへの遠足の相談等を済ませた。明日の日帰りバスツアーの予約が取れた。スーパーマーケットで朝食や遠足のおやつを買って帰る。宿のキッチンには冷蔵庫も電子レンジも食器も揃っているので、朝食はずっと自炊で済ませることができた。

ようやく時間的なゆとりもできたので完歩祝いをすることにして、Sさんに教えてもらった「ペティスコス・ド・カルデアル」というしゃれたバルレストランに行った。カウンター席だったがリオハのワインを頼み、隣のオランダ人一行と話しながら美味しいタパスやコメ料理を食べた。スペイン在住だという日本人の女性画家も話しかけてきて(美味しいものを食べに時々サンティアゴに来るそうだ)、久々ににぎやかな夕食を楽しんだ。

 


エンドレス・えんどう 12

服部 剛(詩人)

遠藤文学について時々語らう年上の友とバーへ行き、カウンターで『深い河』についての話になりました。

文学に造詣の深い彼は、グラスを傾けながら少し眉間にシワを寄せて、「なぜ遠藤さんは晩年になってインドに赴き、仏教的な世界観を書くに至ったのだろうか?」と、僕に問いかけました。クリスチャンではない彼にカトリック信仰を押しつけたくはないと思う一方、彼が「遠藤さんは最終的に浄土宗のことを書いた」と結論的に述べるので、僕は小さな疑問を感じていました。

僕は彼に反論するでもなく、彼と僕の間にあるものを探るように本音を静かに語りました。「もし、クリスチャンの僕が<キリスト教のみが正しい>と言ったら、それはナンセンスだと思います。人間は得てしてカテゴライズしたがりますが、遠藤さんは宗教について、すべての人間にとっての<カテゴリーを越えた世界>を探しに、インドへの旅に出たのでは、と思うのです」

空のグラスをカウンターに置くと、彼は「そう言われると、何も返せないなぁ…」と、ため息をつきました。しばし沈黙の間、遠藤の同志である井上洋治神父と生前に数回、お会いした時の面影が、ふと僕の心に浮かびました。その時、井上神父が穏やかに語られたメッセージを思い出し、僕は彼に伝えました。「すべての人にとって山の上の空は、一つです」――目を閉じて、深く頷く彼の横顔を見ると、在りし日の遠藤の真意が少し、届いた気がしました。

遠藤は『深い河』の主人公・大津に井上神父を投影しています。そして、大津の手紙には、遠藤と井上神父が生涯探究した<信仰の本音>が込められています。若き日に大津を棄てた美津子が自らを<愛の火種のない女>と思っていることについて、大津は手紙の中で次のように記します。

玉ねぎ(神)は成瀬(美津子)さんのなかに、成瀬さんのそばにいるんです。成瀬さんの苦しみも孤独も理解できるのは玉ねぎだけです。あの方はいつか、あなたをもう一つの世界へ連れていかれるでしょう。それが何時なのか、どういう方法では、どういう形でかは、ぼくたちにはわかりませんけれども。玉ねぎは何でも活用するのです。(*1)

* * *

『深い河』の登場人物たちが導かれてゆくように、目に見えない<玉ねぎ>は僕たち一人ひとりに今日もかかわろうとしているのかもしれません。それぞれの日々が他の誰でもない、その人独自の道となってゆくように。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用、括弧内は筆者注。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 42

古谷章・古谷雅子

6月1日(木) レオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラ

移動距離:鉄道で400km
行動時間:5時間半

予約した列車は午後2時過ぎ発車なので、午前中にレオン大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ大聖堂)に行った。ブルゴス大聖堂に次ぐ、スペイン・ゴシック様式の優れた聖堂建築と言われている。壁を最小限に減らし、内部には世界最大級の規模のステンドグラスの窓から光が降り注いでいる。ステンドグラスの合計面積は1700㎡以上に及ぶそうだ。洗練された美しい煌めきはこの世ならぬところとこの世をつなぐ橋のような力そのものだと感じる。殆ど思考の逡巡や吟味の余地を残さない圧倒的な空間だ。

聖堂を出て、一転して世俗的な「市場」に行ってみた。卸ではなく誰でも買える。食材を見るのはどこでも興味深く楽しい。豚足をはじめ豚のさまざまな部位が多いのにちょっと驚く。

オスタルは12時チェックアウトなので荷物を取りに戻り、車中のおやつや飲み物をスーパーマーケットで調達しがてら駅に向かった。1度目の旅の後、サンティアゴからマドリッドまで一等車に逆方向で乗った。その時は疲れて殆ど寝てしまい途中の記憶がない。今回は二等車。座席は日本のように回転はしない。車両の真ん中だけ向かい合わせで半分が進行方向と逆向きになる。私たちの席はその真ん中逆向きで、大きなテーブルがあるものの向かいの人にはちょっと気を使うが、途中で結構入れ替わりが無駄なくある。renfeの運営は効率よし、である。

道中後半にかなり高齢の素朴な雰囲気のご夫婦が座った。列車が大きな川に差し掛かると、男性が突然「Rio Sil!」と指差した。私たちに教えてくれたのだ。シル川は1度目の旅でポンフェラーダの町から出る時に渡ったはずだ。しかし鉄道で渡るところは町中ではなく自然の中の歴々たる流れにかかる高架橋だ。男性はこの川にとても感動しているようだ。それからは堰を切ったように風景の説明をしてくれた。私たちは挨拶と食べ物の注文以外のスペイン語は分からないのだ。そのことは通じたようだがモノともせずに迸るようにスペイン語で話してくれる。スペインの東、西、そして南のポルトガルへの三叉路である地点、植物が枯れている現象、さらに話は長崎と広島の原爆のこと、アメリカへの批判など、私たちも引き込まれ何故かかなりのことが理解できたのは今考えると不思議だ。またまさにスペイン現代史を生き抜いてきたにちがいないお歳の方の話を聞きたかった。共通の言葉がないことを心から残念に思った。ついに列車が緑麗しいガリシア州に入った。男性は景色に見入り、「Galicia!」と感動的にうなずき、まもなく下車して行かれた。

さて、2015年の旅で7月22日にサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた時、大聖堂の前で抗議集会らしきものを見た。翌日マドリッドのホテルのテレビで、それが2013年7月24日にここで79名の死者を出した鉄道脱線事故の補償を求めるものだとわかった。聖堂の中で追悼ミサが行われていたらしい。そんなことを思い出しているうちに私たちの乗った高速列車は無事に定刻に到着。駅には日本人女性Sさんが待っていてくださった。

実は出発前に、この地に住み、ガリシアのことを紹介しているSさんと連絡を取っていた。私たちは前回時間がなくてできなかった3つのことを体験したいと思っていた。

1 「モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)」再訪
2 「ボタフメイロ(香炉)」の焚かれる巡礼者のためのミサ参列
3 「フィステーラ(地の果て)」訪問

順調に歩き予備日が余れば、という不確定要素が大きいので、宿や交通機関について問い合わせたのだ。大変親身に相談にのってくださり、この後すべて順調に行ったのはSさんのお陰であった。この時期に大規模な医学学会がこの地であるために早くから宿泊施設が満杯になり、Sさんのお知り合いの方が所有されているアパートの一室、いわゆる「民泊」を手配してくださっていた。実際アルベルゲすらあぶれるほどだったらしい。

宿は大聖堂に近い便利なところだ。3つの居室の中のシャワー・トイレ付きの部屋に5泊できることになった。共用のタブ付きバスルームやキッチンもある。オーナーはここにはいないが、毎日掃除、タオルの交換もあるしWi-Fiも使えるし、他の同宿者も静かで、大変快適に過ごせた。

この日は宿に落ち着いた時刻が遅く、近所のバルで簡単に夕食を済ませた。

これで、「エル・カミーノのフランス人の道」を不規則な順ではあるが歩きとおしたことになり、記録は終わりとなるのだが、前述した3つ宿題は巡礼路と分かちがたいことなので、これらを含む最後の4日間のことも補足として記録に入れようと思う。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 41

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

さていよいよ今回のゴール、標高838mのレオン到着だ。トリオ川に架かる橋プエンテ・カストロを渡ると歓迎の小さな案内所があり、係員がスタンプを押したり地図を配ったり、アルベルゲの手配を手伝ったりしていた。私たちは     大聖堂のそばに宿が決まっていたので黄色い矢印と歩道に埋め込まれたホタテ貝のレリーフを辿りながらセントロ(旧市街中心)に向かった。人口15万人の都会だ、入り口から中心地までかなり歩く。

そもそも2015年にエル・カミーノの最後の300kmだけを体験するつもりで歩き始めたのはここレオンからだった。その時はマドリッドからバスで到着したのが午後で、アルベルゲを探し、翌日の準備をしてから街に出たものの、ざっと街並みと近代のガウディ設計のカサ・デ・ロス・ボティネスを見ただけ、翌朝は暗いうちから西に向かった。だから巡礼路上で最も充実した施設で栄えたという中世からの古都については殆ど知らなかった。

キリスト教徒最初の王国であるアストゥリアスの首都が10世紀にレオンに遷都されレオン王国となり、レコンキスタに対するイスラムの反攻に備えるために城壁をめぐらした。その城壁は今も旧市街を部分的に取り囲んでいる。その中に歴史の多重堆積を表す魅力的な場所がたくさんある。今回はそれらのいくつかを見るつもりで11時前に予約済みのオスタルに行き、荷物を預かってもらった。しかし見物前にしなければならないことは、翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きの鉄道の手配である。ベルネスガ川を渡って新市街のレオン駅に行って見ると、伝統建築の旧駅舎が閉鎖されて機能的だが味のない新駅舎に代わっていた。鉄道好きの章もちょっとがっかりしていた。

旧スペイン国鉄は2005年に解体し、スペイン国鉄(略称:renfe)とスペイン鉄道インフラ管理機構(略称:adif)の2つの会社になった。renfeは輸送、販売など運営を担当、adifは鉄道のインフラ(路線や駅など)を担当ということで、新駅舎外壁にはadifと書かれている。窓口運営はrenfeだ。日にち、時間、下車駅をメモした紙をだし、無事希望通り翌日午後発の切符が買えた。近くのバルで軽く到着祝いをして宿に戻った。この路地一帯は聖堂と同様ローマ時代の遺構の上だ。宿の名称も「カスコ・アンティゴ(旧住宅街)」で、地下の自炊キッチンの床は一部が透明になっていて遺構が見られる。外観は中世の路地だが建物内部は現代的に改装されている。表通りに出れば大きなスーパーマーケットもあり便利至極。

見る時間も限られているので、レオンではサン・イシドロ教会(ロマネスク)、大聖堂(ゴシック)、旧サン・マルコス修道院(ルネッサンス)の三つを見ることにした。すべて宿から徒歩圏内だ。教会は4時まで休憩に入ってしまったので、今は5つ星パラドールとなったサン・マルコス修道院から始めた。荘厳華麗な建物は16世紀に建てられ完成は18世紀という。もともとは12世紀にサンティアゴ騎士団の本拠で巡礼の救護所でもあったそうだ。正面100mにも及ぶファサード中央に「マタモロス(モーロ人殺しのサンティアゴ)」が彫られ、たくさんのホタテ貝の装飾とともにエル・カミーノの中間宿駅であったことを誇っている。一昨年はアストルガに向かって払暁前の暗い中この前を通り過ぎたのだった。

一休みして、一番見たかったサン・イシドロ教会へ。ここは聖イシドロ(6~7世紀、セビージャ大司教としてスペインのカトリック教会の基盤を作ったという)が祀られている。ガイドツアーに参加しないと内部が見られない。スペイン語はハナから諦め、消去法で英語のツアーに申し込んだ(一人€5)。10人ほどのグループだ。11世紀にロマネスク・モサラベ様式で建造されたがその後改修が加わり原形は正面入り口にのみ見られる。回廊の雰囲気も気にいった。しかし圧巻は同時代ここに建てられたパンテオン・レアル(レオン王家の霊廟)で内部は当時のフレスコ画で埋め尽くされている。宗教的な故事のみならず民衆の労働も描かれていて題材の面白さにも強い感銘を受けた。

ガイドツアーでかなり聴き取りにエネルギーを使い疲れ果てたのと、感性が限界に達したような気がして大聖堂は翌日の午前中に行くことにした。スーパーで翌朝用食品を買い、宿に戻って自炊キッチンの冷蔵庫に入れておく。一休みして、夕食は街中で€9.9の定食。パスタ、卵のミートソースかけポテト添え、フルーツサラダ。卵の本体が目玉焼きだったのでちょっと意外だったが、スペインでは単純な卵料理を侮るなかれ。ミートソースのしっかりした味に感心した。

今日はこれまでの旅と合わせて「フランス人の道」800kmを完歩したのだからもう少し贅沢をしてもよいのだが、私たちのエル・カミーノ歩きにはまだ宿題が3つも残っているのだ。それを果たしに明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラを再訪する。決して単調でも退屈でもなかったブルゴス~レオン間の楽しい経験を反芻しながらの鉄道旅だ。

 


神さまの絵の具箱 30

末森英機(ミュージシャン)

「あなた以外の、生き物が、流す涙を、あなたは見たことがないのですか?」

「身体を蹴られているんですよ」

「他人(ひと)の不幸は、あなたの不幸ではないのですか?」

「ひとが苦しめば、あなたも苦しい?」

「ひとの痛みは、わたしの痛み、主人を守る犬のようにぶつかってゆくことはありますね?」

「寒さのなかで、置き去りにされた、よそ者をどうしますか?」

6年間、通わせていただいた、東北の被災地で、しっかりと胸に結びつけて帰京した言葉。けっして、忘れられない言葉のひとつひとつに、それを語っていらっしゃる、ひとりひとりの胸にも、最後の審判のような朝がきっと来る。そのためにも、苦しんでいるひとと、苦しむ。悩んでいるひとと、悩む。喜んでいるひとと喜ぶ。それが、おおきな弱さをたすける。ひとの、幸せのために生きるという、確信になる。愛は、ほかのひとのなかに、住まうということが、見えてくる。ひとびとの、なかの神。こころを、没頭することができる。愛ゆえに、流れる涙をこらえなければならない、ひととの邂逅(であ)いもある。

信じることで、奇跡をもったひとびとがいる。神にふれることも、見ることも、ぢかに知ることもなく、ただ信じることで。ひとのすばらしいところ、神を愛することができるということ。「目が見もせず、耳が聞きもせず、ひとの心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(Ⅰコリント2:9)愛ゆえに、愛ゆえに。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 40

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン(1)

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

 6時半起床、7時20分出発。ビジャレンテから緩い登りで880mのアルト・デル・ポルティージョの丘を越えてレオンに降りていく。まず国道沿いに町を出ると、分かれ道に久々にモホン(石の道標)があり右の田舎道に入った。ゴミ箱が設置されていてもあふれていたり草が茫々だったりだが、しばらくは昨日の国道歩きのような危険はない。4km先のアルカウエハの村には塔のそばにアルベルゲを兼ねたバルがあり、朝食にした。

さらにバルデラフエンテを抜け丘まで登りきる。ここに新しい大きな十字架があるはずなのだが見つけられなかった。レオン市内に入るには新しい自動車道路の通過がややこしかったが無事に巨大な青い歩道橋を渡って市内に入るルートを確認できた。入り口の道標には巡礼のコスチュームをつけたライオンが描かれていた。語感が似ているがレオンはローマ帝国がここに置いたLegion(軍団)から発した地名だそうだ。とは言えライオンはレオン王国の時代から国章にあしらわれレオンの象徴になっている。

ガイドブックや記録を読むと、マンシージャ・デ・ラス・ムラスからレオンまでの道があまりにも殺伐として危険だ、との苦情が多い。私たちもそのことは同感だが、さりとて巡礼の道がすべて快適で安全であるはずはない。現代は現代なりの危険も不快も受け入れなければなるまい、と思い直した。そもそもエル・カミーノは命懸けの道だったのだから。これまでの旅の中でいくつもの墓標に出会った。頓死(とんし:突然死ぬこと。急死)した人たちの屍を越えて道があると言えば大げさだが、饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)からまた引用すると、

「中世の西欧では巡礼に先立って遺言をしたため、司教から推薦状をもらい、施しをする金をもち、『もっと遠くへ(エ・ウルトレイア)!それっ!神はわれわれを助けたまう』と人々ははげましの言葉をかけ合って歩いて行ったのである。これはサンチァゴ・コンポステーラへの旅立ちの様子である……」

(「エ・ウルトレイア」は歌になっている。2回目の旅でログローニョのサンティアゴ教会に泊まった時、食堂の正面に五線譜と歌詞が大きく飾られていて夕食前に静かに合唱した)

巡礼路と周辺の文化的整備は進行中だ。今や世界中から多くの人(2010年は27万2135人)が訪れるが、1985年には2491人だった。バックパッカーとしてフランコ政権時代(1939~75年)にスペインを体験している章は、暗い抑圧された強烈な記憶と2015年に40数年ぶりに訪れた時の明るさとの対比に驚いたそうだ。1975年にフランコが死去するまで独裁体制の中で巡礼路がもてはやされることはなかっただろう。政治体制が整い開明化して外国からの巡礼者を迎え統計を取り始めるまでに10年かかったことになるが、その時点でも今の盛況ぶりを予測はできなかったろう。

車社会である現代なりの危険性はあるにしろ悲壮感はなく、人々は「エ・ウルトレイア」ではなく、ただ「ブエン・カミーノ(よい道程を)!」と挨拶を交わす。でも昨年の旅でブルゴス手前の難所モンテ・デ・オカ(1162m)を越えた時、まだ薄暗い丘の上に現代のモニュメントを見た。フランコ政権時代に殺害された人々の遺体が埋められた跡に建てられた哀悼と平和への祈念を表す碑だ。エル・カミーノは信仰だけを感じさせるのではない。良くも悪くもスペインの様々な時代が厚く降り積もり、歩く者の心を刺激する。

 


神さまの絵の具箱

末森英機(ミュージシャン)

死が近づく。呼吸は出口を求める。そのとき、ひとりひとりの人間は、その胸に、最後の審判の朝を、はたして、見ているのだろうか。それとも、底なしの闇の時間を、さらに、眠り続けて、いるのだろうか。

あのとき、あなたは、美しい恋人のために、極上のギフトをするために、胸にすばやく、十字を切ると、アザラシの子どもを、撃ち殺した。

欲望にただ、苛まれる、全世界で起こることだ。

夕べ、人を殺した手は、次の朝、食卓で妻や子どもたちのために、祈りのあと、パンを裂く。いつでも、悪魔に都合のよい時間が、訪れる。

奴隷にされた者。奴隷になった者。奴隷の奴隷になった者。そして、奴隷に生まれた者。人間は、主への、信仰によって、この世に住むことを許されたのでは、なかったのか?心を込めて、主を思いつづけた。辛抱は、報われるから。

愛のもっとも気高いかたちである、赦し。身に覚えのある、暗闇。そして、人ならば、こみあげる、愛の想いに、涙の海にも浸かってしまうこともあるだろう。目の光は、虹となる。

闘うということ。洗い場の女が、酔って騒ぐ、男たちに、棒で殴られる。すぐさま「殺しあうなら、裏のお庭で、やってちょうだい!ここは、洗ったばかりなんだ!」と女将の怒鳴り声がぴしゃり。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 39

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(2)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

さて、途切れることなく並木が続くがニセアカシヤに樹種が変わった。やがて樹種がデタラメに多様になる辺りから国道と巡礼路の間にあったローカル自動車道がなくなる。国道は大型車がビュンビュン通り、今までの長閑な巡礼路は一変してレオンまで雑然としたほこりだらけの危険な道になってしまった。レリエゴス付近の工事中だったあの巨大な立体交差は今後バイパスを整備するためのものなら巡礼路にとってはありがたいのだが。道端の豚の死骸を思い出す。あのような目に合わないように気をつけて歩こう。

間もなく古代ローマ時代の遺構(国道の反対側で横断が難しく行かず)、小さな集落ビジャモロスを過ぎ、ポルマ川に架かる橋プエンテ・デ・ビジャレンテの向こうが今日の目的地だ。上を通過しただけでは何の変哲もない橋だが、橋脚をつなぐアーチは古くからのローマ橋を上手く残している。17ものアーチは異なる時代の遺物(3~4世紀)だと書いてあるので河原に降りてみた。なるほど、見事だが個々の違いはよく分からなかった。

巡礼路はこの橋の下に架かる木の橋を渡って村に入る。ここには2つのアルベルゲがあるが、村の入り口にあるエル・デルフィン・ベルデに行ってみた。オスピタレロにダメもとで個室の有無を聞いたら、ここはドミトリーだけだが同じ敷地内にオスタルがあると教えてくれた。1階がレストランなので気づかなかった。行って見ると若い主人は感じがよいし夕食もどのみちそこでとることになるので泊まることにした。古い建物をリフォームした小ぎれいな宿で水回りもよい。ベランダに出てみると国道の車がうるさいが、扉を閉めれば遮音は大丈夫。さすが石の建物だ。物干し場はアルベルゲと共用。日課作業を手早く終えて町の探検に出た。

この町は国道沿いに店が並んでいるだけでなんの趣もないと記録に書いている人が多いが、現代の生活もそれなりに面白い。小屋ほどもあるゴミ箱を巨大な収集車の荷台に積みかえる作業を見たり、パン屋で土地の人の買うものをチェックしつつ簡易席でビールを飲んだりした。おまけのタパスはタダでは申し訳ないほど大きくて美味しいブルスケッタだった。ニンニクとチーズとポテトをたっぷりのせてキツネ色に焼いてある。半端な時間のおやつには立派過ぎるほどだった。

夕食はオスタルで。はち切れんばかりに太った可愛い幼女が、おばあちゃんと「せっせっせ」のような手遊びをしている(ママは料理しているので)のを見ながら定食を食べた。ヌードル入りの野菜スープかひよこ豆の煮込み、ポークチョップか魚煮込み(アサリやエビも入っている)。いつも通り別々に頼んで分けたが、どれも本当に美味しくて、とても食べきれないと思えた量がすべて胃袋に収まった。デザートはチョコレートとホイップクリームがたっぷりの自家製シュークリーム。巡礼路の田舎料理はこの日が最後だ。

巡礼路では普通の食事が滋味に富み何とも美味しかった。特に豆の煮込み料理(コシード)は何度も出てきたが飽きなかった。川成洋編『スペイン文化読本』(丸善出版、2016年)の中でスペイン料理研究家の渡辺万里先生はその特徴をあまたの保存食の発展したものと説明している。カルタゴ人によってスペインにもたらされたガルバンソ(ひよこ豆)は痩せた土地でも栽培でき保存も可能なのでイベリア半島全域に広がった。魚介類の干物も広まった。過酷な自然条件が保存食による兵糧の確保を強いたのだが、その伝統が長く引き継がれているのだ。もう一つ面白かったことに豚肉のことがある。田舎料理ではメニューに牛、羊、兎等もあったが、なんといっても主役は豚だった。前記の本から引用すると、

「ところで、現代のコシードには豚肉が欠かせないが、昔からそうだったわけではない。カスティーリャ王国が徹底的な異教徒の排斥に取り掛かると、彼らがスペイン国内に残るには、キリスト教へ改宗するしかなくなった。そこで、改宗者の真偽を問う手段として、イスラム教徒もユダヤ教徒も宗教上の戒律で食べない豚肉が用いられるようになったのである。すなわち、豚肉を入れたコシードを食べることは、改宗者たちにとって一種の踏み絵となり、豚肉を食べていないと密告されると過酷な異端審問が待っているという時代が始まる。こうして、以後のスペインの食卓には、それまで以上に豚肉の存在が重要なものとなっていく。……」

モサラベ建築のところでもふれたが、宗教についての政策はどちらの側でも時代により寛容と偏狭、共存と排斥が揺れ動いた。その結果が料理にまで及んだ、というのも興味深いことである。

明日はレオンまで13km歩くだけだ。夜更かし寝坊もできるのに、習慣づいた眠気が襲ってきて9時30分、外はまだ明るいが就寝。

 


エンドレス・えんどう 11

服部 剛(詩人)

以前に聴いたラジオ番組で、遠藤周作の担当をしていた編集者が、在りし日の思い出を語っていました。その中で「遠藤周作という作家はいくつもの顔を持つ、不思議な人でしたねぇ」と言っていたのが、今も印象に残っています。

作家が個性的であることは想像しやすいことですが、「ひとりの人間の中には、いくつもの顔がある」というのは、身近な人でも感じられることです。後で怒られるかも(?)しれませんが、僕の妻を例に挙げてみましょう。母親業というのは大変なもので、我が家の場合、ダウン症を持つ、ゆっくり成長の息子・周の育児で、彼女はてんやわんやの毎日を送っています。愛する息子のために、自らの生き甲斐を手離す姿を見ていると、心の中で(母というものは、愛それ自身で生きているのだな…)と感じる瞬間が多々あります。そして、大人の面(つら)をして日々を過ごす僕もまた、自分の母親の愛情なしに、今の自分はないでしょう。

僕の妻は心根の優しい女性です。普段、僕はどれほど助けられていることか、と感謝ばかりです。しかしながら(ココダケノ話デスガ)、この世には天気というものがあるように、前日には快晴だったかと思うと、翌日には雨嵐になっている…というようなことが、時折あるわけです。それは雨嵐というよりも、噴火と表するほうがよろしく、その噴火もまともに受けると、自分の存在は虫ケラのように姿形も視えなくなるほど小さくなり――気がつくと布団に包まっています。一呼吸の後、自分の感情は脇に置いて、(日ごろ頑張ってくれているのだ)と心の中で呟き、そんな妻の一面をも、ひとりの時間には静かに受け入れることも世の夫の大事な役割である、と己に言い聞かせている僕であります。

さて、少々筆が走り過ぎましたが、『深い河』の六章で、美津子はインドの女神像を見つめながら、(私の中に“二人の私”がいる…)と感じている瞑想的な場面があります。僕は個人的には、多面的な顔について考える時、阿修羅像を連想します。僕自身も人間である以上、心の奥底には「笑い」「涙」「怒り」「聖い面」「醜い面」など、いくつもの顔があるのを感じます。実際の顔は一つですが、人間にはいくつもの<内面の顔>があることを思うと、自分という人間の不思議さと同時に、日々接する誰かへの視野が、少し寛がるかもしれません。