荒野をぶどう畑に(前編)―インターネットの荒野に飛び込もう

ニコラオ(カトリック北見教会信徒)

\ ✚ 主の平和 ✚ /

……さて、どうしたものか、まさかWebマガジンに寄稿文を出すことになるだなんて思ってもいなかったんです……。自己紹介が遅れました。僕は札幌教区、北見地区のカトリック北見教会信徒ニコラオと申します。ちょっとした悪乗りで教会のtwitterアカウントを運営しております。最近はカーリング日本女子の活躍で話題になったので、北見市という名前をご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか? 現在270人強の信徒と、地区の5教会約500人の信徒に対して1人の常駐司祭が居ます。うーん、やっぱり少ないですよね?

記事の寄稿に至った事の始まりは、カトリック長崎大司教区の『カトリック教報』の6月号の記事「教会はいつも新しくなる⑥ 日頃感じていること、伝えたいこと」に関して思うところtweetしていたところからはじまります。記事の概要はネガティブでありますが、「若いクリスチャンとして青年会を、自分たちをどう支援してもらうか?」というものです。あらかじめ目を通していただけると、僕の思うところが分かりやすくなるかと思います。

緑ヶ丘霊園からの眺め。2年前に亡くなったカリシモ神父様お気に入りの散歩コースでした。今もここから私たちを見守ってくださっています。(写真提供:筆者。以下同じ)

成人洗礼の僕はクリスチャンとしてはまだまだ若輩で、洗礼を受けたのは去年の3月でした。同じ世代の信徒は多くないどころか少ないと言わざるを得ず、また家庭を持っている兄弟姉妹たちのことを考えると、今から教会内で青年会の旗振り役をやっても逆にみなさんの家庭に障るのではないか?という心配も先立ちます。このことは僕にとってとてももどかしい事です。教会のあり方として青年会があるべきかどうかより、興味があれど既に青年会がないまま、青年として取り残されてしまいました……実際はもう壮年なんですけど……。もちろん諸先輩方と話して、世代が離れているからこその楽しい話はあるのですが、同じ世代、同じ立場の兄弟姉妹がいたら一体どんな話をするのだろうか?という想いはどんどん膨らんでいきます。そんな中で思ったのは「自分の教会だけで無理なのであれば、教会をまたげばいいのではないか?」ということでした。

カトリックの教会は大司教区、司教区、地区と組織的に管轄が決まっています。またぐ先の教会はどうしてもそれなりに遠くになり、上手く連動するのは大変なことです。もしくは「エキュメニズムだ」と言い張って近くのプロテスタントの兄弟の門を叩くという方法もあると思います。僕も実際にプロテスタントの教会にお伺いしています。が、勢いでアポなし訪問をして牧師先生を困らせ、さすがに簡単ではなさそうだと思い知ることとなりました……悪いのは僕なんですけど。牧師先生、その節は大変ご迷惑をおかけしました。

冷静に考えれば、それぞれの教会にそれぞれの立場があります。信仰に燃えて飛び込むのもアリだと思うのですが、しっかり考えをまとめないと信徒一人で始められるサイズのお話にはなかなか収まらないのです……もちろんご協力を快諾いただければ幸いなのですが。何にしろ、地域ベースで教会をまたぐのは物理的な距離の問題やコミュニケーションの間合いの問題を、すべてクリアにする必要があります。これは長期的に取り組むべき課題です。きっかけなしに簡単に踏み込める方法ではないと感じました。では、何がきっかけになるのでしょうか?

北見駅からすぐ近くの小公園にて。暑い日には近くの子どもたちが集まって水遊びをしています。

長期的なコミュニケーションの円熟を見据え、きっかけとしてまず軽く通じ合う……例えば「ただそこにいる」と発信してみるのはどうだろう?  僕にとって幸いだったのは、教会がライトに発信してしまうという想定外がすでにあったことでした。はい、上馬キリスト教会さんです。「これはいい口実になる」と内心ほくそ笑んで神父様に話を持ちかけに行きました。謙遜で「悪乗り」と自己紹介したのではなく、本当に最初から「悪乗りだ」と確信犯で始めてしまったのです。

態度はどうであれ、「地方教会のSNS伝道」というまっさらの荒野に飛び込むことになりました。今年の5月21日、聖霊降臨の主日の次の日です。その後多少後悔することとなるのですが……

(後編につづく)

 


エンドレス・えんどう 15

服部 剛(詩人)

日本人は外国人から見ると無表情に見える、という話を聞いたことがあります。逆に日本人から外国人を見るとYesとNoがはっきりしている、と感じるかもしれません。日本人の心は白か黒かというよりも灰色で、いつも心にグレーの領域があるようです。それは宗教観にも表れており、西欧キリスト教の一神教は日本人には受け入れ難く、八百万神(やおよろずのかみ)を自然に信じる心をもっています。私の師であるカトリックの哲学者・小野寺功先生は以前、「日本人の宗教性は〈無宗教の宗教〉なのです」と言っていたのが、印象に残っています。

確かに日本人は、日常会話のなかで宗教的な話を好まないわりには、いざ寺や神社にお参りすると自然な心で手を合わせます。そんな日本人を客観的に見ると、何だか不思議な民族に思えます。

では「愛」については、どうでしょうか? 日本人にとって「愛」という言葉ほど曖昧なものはないかもしれません。男女の愛・親子の愛・友愛から師弟愛まで「愛」という文字の裏側には、実にいろいろな「愛」の姿があるのも、日本人の性質なのでしょう。また、キリスト教の神の愛は、見返りを求めず無償で与えるアガペーと言い、男女のように互いに求めあう愛をエロスと言います。

『深い河』の八章を読み、私は改めて〈愛とは何か?〉と考えました。若き日に美津子を愛し、深い関わりをもち、棄てられた大津は、やがて大学内の無人の聖堂でみつめる十字架のイエスから〈おいで〉*1 という内面に響く呼び声を聴き、その密かな導きに応じて歩み続け、辿り着いたのがインドでした。そこで、大津はガンジス河へ遺体を運ぶ仕事をするようになります。世間の価値観では無駄と思われる行為でも、大津の姿からは〈イエスに倣(なら)い、愛を生きる〉という静かな決意が伝わってくるのです。そして、かつて一度は犬のように大津を棄てた美津子はほんものの愛を探して、インドへやってくる――。

* * *

私は今日、お腹の調子の悪いダウン症児の息子の食事介助をしました。ふだんは凸凹だらけで欠点のある父親ですが〈小さな愛〉をこめて食事をすくったスプーンを小さな口へ運びました。ガンジス河で黙して遺体を運ぶ大津の姿を思い浮かべながら。

日々の場面のすき間で〈小さな愛〉を生きることはきっと、目には見えない神との内面の繋がりを深めることであり、その時、体の無いイエスの面影は、人と人の間に働くでしょう。

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用しました。

 


エンドレス・えんどう 14

服部 剛(詩人)

『深い河』の中で描かれるインドの旅も、いよいよ登場人物たちがガンジス河と出逢う場面に入っていきます。

私たちはたいてい、朝起きて、いつもの道を駅へと歩き、時間通りの電車に乗り、日中は働き、日が暮れた後、家路に着く。そんな繰り返しの毎日を生きている人が多いと思います。もし、当たり前の日常を、あくせく生きる世の人々を、慈しみの眼差しで見つめるならば、一人ひとりは本来、かけがえのないものだと気づくでしょう。それと同時に、私たちが生きる日本という島国にいるだけでは見えない領域の世界があることを、『深い河』に描かれるインドという国は語っています。

僕は先ほど、スマートフォンを手に<メメント・モリ>の言葉を検索すると、その意味は「死を想え」というものでした。確かに、人は心から「死を意識する」とき、真の意味でかけがえのない一日を生き始めるでしょう。しかしながら、日々の繰り返しを生きているような私たちが「死を想い」ながら生きることは、なかなか難しいことです。そんな私自身が「日々の中で意識していることは何だろうか?」と考えると、「世界にたった一人の自分」という存在の不思議さについて思い巡らせていることに気づきます。「自分という存在は、時代も国も両親も、自ら選んで生まれてきたわけではない」のですが、「“今、ここ”に自分がいて、息を吸っては吐き、存在していること自体が、よく考えると不思議だな…」という感覚になり、心の奥から「自分という存在は天に創造された固有の存在である」という密かな確信が芽生えてくるのです。

人生の最期の場所を求める人々が辿り着くガンジス河の畔(ほとり)では、今日も遺体が火葬されており、河には遺灰が流され、その河にインドの人々や巡礼者が沐浴して、河の夕景を染める西陽に向かい、無心で手と手を合わせている――。そこには、大自然の彼方からこの世に働きかける<神>と<私>の命の繋がりを感じながら「生かされている」と実感する、人間本来の魂の歓びがあるのではないか、と私は思うのです。


新ながさきキリシタン地理 3

「宗教改革500年式典」が長崎にもたらしたもの

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

2017年11月23日(木)、カトリック浦上教会(長崎市)にて、
日本福音ルーテル教会・日本カトリック司教協議会共同主催
「宗教改革500年共同記念――平和を実現する人は幸い」が行われた。

2017年は、
マルティン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルクの地にて、
95箇条の提題を発表した1517年から500年の年で、
国内外で様々な催しが企画された。

丘の下から見た当日の浦上天主堂

とくにこの浦上天主堂での式典は、
数ある国内の「宗教改革500年イベント」でも最大級のものであり、
時期も最後ということでまさにクライマックスの様相を呈しており、
ずいぶん前から取材を予定しており楽しみにしていた。

2008年に、同じく11月に長崎で行われた
「ペトロ岐部と187殉教者列福式」があり、それを彷彿とさせた。
この「式典」が長崎にもたらしたものは、
まずは県外からの人であった。
しかし「列福式」の時と違っているのは、
カトリック以外、ルーテル派の信徒もまた集まっていることである。

そのルーテル派の信徒たちを浦上天主堂にて待ち構えていたのは、
午前中の橋本勲神父(カトリック中町教会主任司祭)からのユーモアと笑いであり、
昼食用に浦上教会信徒が無償で振舞ってくれたおにぎり2個とお茶であった。
(東京から来ていた神父さんが感激していた!)

橋本神父の話は、大変貴重なもので、
今式典で一番沸いた場面で、
はじめにしてクライマックスのように思われた。
内容としては、
県外の人にはあまり馴染みのないものであったかもしれないが、
長崎の地の凝縮された「ミクロコスモス」が、
惜しむことなく開陳された。
「沈黙の民」としばしば呼ばれる長崎の人が、
なかなか外の人に話さない貴重な内容だったように思う。

冒頭には「免罪符」についての軽妙洒脱な話で、
ルーテル派の信徒の心をつかみ、
浦上キリシタンの「崩れ」の話、
「浦上五番崩れとしての原爆」の話、
「十字架型の平和」の話へと転じ、
最後に「キリスト一点しぼり」という橋本神父独特の言い回しで、
キリスト教信仰の核心を再確認した。
(ビールは「一番搾り」です、と笑いもとった!)

こちらの式典での橋本神父の講演の詳細は、
『福音宣教』2018年3月号(2月15日発売、オリエンス宗教研究所)
に掲載されている。

会場にはバチカン、ドイツからの来賓も

この式典の後、
私は郷里が長崎であり土地勘があることから、
二組の方々に長崎市内を案内した。

一組目はルーテルの信徒ご一行である。
まずご案内したのは、
同じく浦上の地にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」である。

橋本神父が本島等市長の話を引用した際に出た「被害と加害」ではないが、
原爆においても、
日本による「加害」の歴史もまた存在する。
戦争捕虜だった英米人も、連行された朝鮮人も被爆した。
それに際して、
日本人の手によってこうした碑が建てられていることに救いを感じる。

この碑建立を企画・実行したのがルーテル派牧師で、
長崎市議会議員でもあった岡まさはるであった。

この碑の前にいた際に、
ルーテル派牧師というご縁か、長崎は今も出会いの町ゆえか、
さらに知り合いの東京から来たルーテル派の牧師さんと出会い、合流した。

そこから長崎駅前にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」へ。
こちらも観光ガイドブックに載らないスポットであろう。
まさに「原爆加害の歴史」を伝える場である。

その後夕食をともにし、計らずして「一番搾り」もともにした(笑)。

浦上天主堂から車での帰りに、「主の平和」

翌朝は、もう一組、
東京から来たAMORでもおなじみの同門カトリックの方をご案内。

カトリック関係の方は長崎に来られることが多い。
「たまにはキリシタン関係以外を」とのご所望で、
大村藩蔵屋敷跡地(現中町教会)、
光永寺(福澤諭吉逗留地)、
シーボルト記念館、
亀山社中、
長崎歴史文化博物館などへ。

「十字架型の平和」。
どちらが左右かは知らないが、
カトリックとプロテスタント、
「キリスト一点しぼり」ができただろうか。

そんな想いを胸に、郷里長崎から東京へ戻ってきた年の瀬であった。

 


エンドレス・えんどう 13

服部 剛(詩人)

ある神父さんと久々に再会し、お互いの近況報告をしているうちに、僕はさまざまな場面を思い起こしました。話題はひょんなことから、かつて深層心理に興味を持ち、読みふけったユングの学説に及びました。「我々が今、見ている風景というのは、深層心理の現れなのです」と、神父さんはユングの著書の記憶を辿るように語りました。

遠藤はユングの思想に影響を受け、人間の魂の領域に拡がる無意識の世界について思いを巡らせました。

『深い河』の7章では、インドを旅する登場人物たちがナクサール・バガヴァティ寺の地下へと入っていきます――。そのとき、すり減った石段を下りる美津子は心の中の世界に入っていくような感覚を受けました。暗がりの中で旅人たちを待ち受けていたのは、女神・チャームンダーの像で、添乗員の江波は、次のように語ります。

「彼女は……印度人の苦しみのすべてを表しているんです。長い間、彼等が苦しんできたすべての病気にこの女神はかかっています。コブラや蠍の毒にも耐えています。それなのに彼女は……喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている。」(*1)

この箇所を読んだ僕の心に、人々の苦しみを共に背負うチャームンダーの姿は、遠藤文学で描かれている<無力なイエス像>のイメージに通じる、という思いが湧いてきました。『深い河』の3章を振り返ると、十字架上で頭を垂れるイエスの姿に重ねて、旧約聖書のメッセージが引用されています。

「彼は醜く、威厳もない。
みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見すてた
忌み嫌われる者のように、
彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った」

遠藤は『深い河』を書くための取材旅行でインドを訪れたとき、美術館に展示されたチャームンダー像の前で思わず足を止め、しばらく立ち止まっていたそうです。遠藤は、その悲愴なる女神の姿に、女手ひとつで自分を育ててくれた、在りし日の母の姿を重ねていたのかもしれません――。そして同時に、あまねく人の心の底に宿るであろう<母なるもの>の囁く声に、遠藤は静かに耳を澄ましていたのでしょう。

 

*1 遠藤周作『深い河』(講談社)より引用。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 46

古谷章・古谷雅子

6月5日(月) ビーゴへの遠足、日常への回帰そして締めくくり

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の巨大振り香炉ボタフメイロを吊るすロープは摩擦による摩耗のため定期的に交換されるが、それでも過去に何度か切れて落下したり窓を破って外へ飛び出したりしたことがあるそうだ。このロープは2004年からは人工繊維になったそうだが、それまでは麻とイネ科のエスパルト草でスペイン西端の港町ビーゴで作られていた。よく見かけるスペイン製のサンダル(エスパドリーユ)にも用いられている丈夫な繊維だ。儀式の後、そのロープ(持ち手の部分)は柱に括り付けられているので見ることができたが、一見天然繊維のようだった。見た目は伝統的に作ってあるようだ。ビーゴには漁網や帆船の綱を作る高い技術があったのだろう。

サンティアゴから鉄道で1時間半、86km南下したポルトガルとの国境近いリアス式湾内にあり、ガリシア州最大の30万人都市で、またスペイン最大の漁港でもある。近年急速に発展した工業都市でもある。景気のよい街なのだ。しかも風光明媚、「世界で最も美しいビーチ」とのキャッチフレイズで有名になった無人島「イスラス・シエス」までは40分のクルーズだ。フィステーラ遠足で一緒だったC子さんも島に行くように勧めてくれたが、今日こそは慌ただしいことは避けることにして、renfeのローカル線で往復し、旧市街と要塞跡にのみ行くことにした。

駅からまず海岸近くのインフォメーションオフィスに行った。ここはイスラス・シエスへのフェリー会社も営業していて、島に行かないことが不思議がられる雰囲気だ。街の地図をもらい、要塞(カストロ城)や旧市街(カスコ・ベーリョ)への行き方を教えてもらった。その時に「籠細工の通り」という場所も教えてくれた。やはり漁具から発展した縄・網・籠などは今も伝統品として残っているらしい。

ビーゴは16世紀ごろからイギリスの海賊を始めとして海から様々な攻撃を受けてきた。そのため海を一望できる丘の上に城塞がある。見張り台、砲台等が残されている。展望台で海を見ていると郷土史家という雰囲気の男性が近づいてきて親切に(そして誇らしげに)解説してくれた。こういうことがあると嬉しい。次は丘を下って「籠細工の通り」に行って見た。今は観光土産品が多いが、入った店は手作りの丁寧な製品ばかりだ。エスパルト草を紙縒りのようにねじった細い紐で編んだパン籠を買った。ボタフメイロのロープの街の記念だ。

帰路、駅に向かう海岸通りにはジャカランダの木が美しい紫色の花をつけていた。たくさん置かれたモニュメントの中に大蛸の上に座っている男性の銅像があった。おや、こんなところで『海底二万里』の作者ジュール・ヴェルヌに会うとは。彼はビーゴが好きでよく訪れたらしい。こんな風に気ままに歩き、港近くで観光客相手のガリシア料理を食べているうちに巡礼の視点は薄れ、消え去り、日常に戻る準備が次第に出来ていくようだ。

明日はマドリッドへ、そして明後日は日本へ帰るのだ。

陳腐なたとえかもしれないが、現代の巡礼旅は、一種の音楽のようだ。先人のおかげで旋律や和音の記された五線譜はできている。その楽譜の音符を辿る、時間経過のパフォーマンス。時に劇的、時に抒情的、解釈もテンポも自由だ。「フランス人の道」は3つの楽章からできている。ピレネーからブルゴスまでの第一楽章(急)、ブルゴスからレオンまでの第二楽章(緩)、レオンからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの終楽章(急)だ。一気に歩きとおせば空間と時間の流れに自分を仮託してより深く理解できたことがあっただろう。私たちのように成り行きで緊張感ある終楽章から始めて第一楽章に戻り、優雅だが緊張感のない第二楽章で終わるというのは巡礼路歩きとしては変則的すぎたかもしれない。3回に分けることによって予備知識が充実して明確に見えたものもあるが、連続して歩かなかったことによって見そこなったもの、感じそこなったことも、またあるのだろう。

巡礼路を歩く者の分限は(にわか巡礼もどきの私たちの身の程を言えば)、よく見、聞き、感じ、清廉な心を持ち誠実にその時その時を過ごす、ということまでだ。言葉で表現できるような成果があるわけではない。しかし文化が宗教と表裏一体となり、宗教が文化として具現化しているこの特別な国の中でもとりわけ特別な道「エル・カミーノ」を歩くことは、本当に面白い体験だった。

(part3 完)

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 45

古谷章・古谷雅子

6月4日(日) サンティアゴ市内見物

2015年と2016年の旅では、エル・カミーノ歩きと、それ以外の活動との組み合わせで最初から欲張りな日程を決めていた。2015年はピレネー山脈での登山や渓谷歩き、トレド、コルドバ、バルセロナ、マドリッドの美術館巡り等。2016年はセゴビア、クエンカ、アビラ、そしてまたプラド美術館等。歩くことをどれだけ続けられるか確信が持てなかったし、エル・カミーノに対する私たちの気持ちが中途半端だったこともある。

今回はエル・カミーノの完歩と巡礼路にまつわることを見聞きするだけと割り切ってきたが天気にも恵まれて日程にあと2日のゆとりができた。港町ビーゴへの遠足は明日にして、今日は休養を兼ねてサンティアゴ市内で過ごすことにした。

まず市内のインフォメーションオフィスで、市街の南、サル川河畔にある「サンタ・マリア・ラ・レアル・デ・サル参事会教会 Colegiata de Santa Maria la real de Sar」、通称サル教会のことを尋ねた。資料館が開くのが11時だということなので、旧市街西にあるアラメダ公園を散策しながら行くことにした。16世紀に貴族が寄贈したものが時代を追うごとに拡張され、様々なモニュメントや聖堂が建てられている。起伏があり眺望が素晴らしい。大聖堂と街並みが一望できる。公園内を通る3つの歩道は、建設当時は庶民用、貴族用、学者や聖職者等の知識階級用とに峻別されていたという。

公園の南西出口から3kmほど、途中鉄道を横切るとサル教会はすぐだ。12世紀に建てられた小ぢんまりしたロマネスク建築でサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の「栄光の門」を作ったマテオ師匠の工房が請け負ったという。素朴な中にも洗練された趣があるが、なんといっても建物全体が土台ごと著しく傾いていて、外壁を17~18世紀に補強した力強いアーチ状の柱(飛び梁)が支えているのが個性的だ。おかしいと言えばおかしいが、石の建築というのはこのような異様なものも時間を吸い取って調和していくものだと感心した。

着いた時ミサが始まったところで途中から入るのはためらわれたので、先に外観と資料館を見た。資料館からはひっそりとした中庭の回廊に出ることが出来た。整備などしていない庭だがそれがかえって古い回廊を引き立て、きわめて瞑想的、抽象的な空間となっていた。そしてマテオ工房の作の柱頭の装飾は本当に美しく、また面白く、好ましい。ただ、傾きを抑えるための後世の補強が回廊にも施されていて、専門家が見ればロマネスクの真髄がやや損なわれているかもしれない。

面白かったのはミサの後だった。内部は自由に見られる。日曜日なので土地の人々があまた参集していたが、大人がぞろぞろ外に出て社交をしている間、子供たちが中に残る。スペインでは普段から子供たちのオシャレ度が高いと思っていたが、教会ファッションは一段と可愛らしい。さあ、楽しいことがはじまるよ、という雰囲気の中、まずは歌だ。聞いたことがあるなあ、あっ、「幸せなら手をたたこう」だ(帰国して調べてみたところ、このメロディーはアメリカ民謡ではなく実はスペイン民謡、日本語の作詞者の木村利人氏によれば聖書の詩編第47編の1節からヒントを得たものだそうだ)。歌で盛り上がった後は大人のリーダー1名に子供が5~6人ずつのグループに分かれ、聖書の理解を問答したり工作をしたりしていた。外に出ると、敷地内にチュロス(細い揚げパン)の屋台が出ていた。これも子供たちの楽しみなのだろう。こうやってこの教会は住民に支えられていることがわかる、ほのぼのとした時間だった。

市街に戻ると、バリアフリーのレースが行われていて大聖堂前のオブラドイロ広場がゴールになり大にぎわいだった。午後は街中、図書館、歴史的建造物に囲まれた自然公園サンドミンゴス・ボナバル公園等を回り、結局20km以上歩き回ったことになった。貧乏性のせいで休養になっていない。エル・カミーノを歩いている方が楽なくらいだ。夜は宿近くのイタリア料理店で早目の夕食、8時前に戻り、帰国に向けて荷物の整理をした。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 44

古谷章・古谷雅子

6月3日(土) フィステーラやムシアへの遠足

宿題の三つ目は、新大陸発見前までは「陸の果てるところ」と思われていた岬へ行くことだった。NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会著『聖地サンティアゴ巡礼(増補改訂版)』(ダイヤモンド社、2013年)から引用すると

「スペインの最西端にある岬フィステーラは地の果てという意味を持つ。中世ではガリシアのこの地が生と死の境目となる場所と考えられていた。巡礼の旅の締めくくりに昔の人は、まず海で身を清め、身に着けていた衣類を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたという」

サンティアゴからフィステーラまでは、100km近くある。さらにムシアまでは30km、歩くと4日かかる。そのまま巡礼者として徒歩で向かう人もいるが、アルベルゲやモホン等は十分ではない。私たちは一人€40、スペイン語と英語の両方の説明付きのガイドツアー(バス)で行くことにした。30人ほどの参加者だが、徒歩でエル・カミーノを終えた人もいれば一般観光客もいる。ガイドのセニョリータの人柄と素晴らしい天候のおかげで10時間の強行遠足も和気藹々として楽しかった。

バスで走るとガリシア州が如何に緑豊かなところかよく分かる。建物の外見はもちろん異なるが、雨が多いので農村のたたずまいは日本に似ている。途中、14世紀の石橋を残す静かな村プエンテ・マセイラ、海に直接滝がなだれ込むエサロの滝に寄り、昼頃港町フィステーラに到着。海鮮を食べさせる店が軒を並べている。昼食は各自なので、私たちは旅行社の日本人研修生のC子さんと3人でSさんが推奨した「エル・プエルト」という景気のよい店に入った。テントの下のテラス席に座りスペイン語の堪能なC子さんのおかげで首尾よく名物のスープ、盛り合わせ、白ワインを注文した。塩茹でしてオリーブオイルをかけただけの魚貝の美味しいこと、さすがガリシアの海辺だ。ペルセベス(カメノテ)と奮闘していると隣のテーブルの現地の人が親切に食べ方(剥き方)を教えてくれた。最後にリキュールのサービスもあり、昼間から解放感いっぱい。内容は違うだろうが、昔の巡礼もここまで来た人たちは(おそらくパンとチーズぐらいしか食べていなかったのではないか)、海の幸で精進落としをし、ホタテの貝殻を持ち帰ったのだろうか。

それぞれに満足した客を再びバスに乗せ灯台の近くまで行く。まさに陸の果てるところだ。岩場を歩き、岬のモホン0km地点の先で大西洋に向き合う。中世の人はどんな感慨を持ってこの「地の果て」に立ったのだろう。昔のしきたりをなぞる巡礼がいるのだろう、岩場には衣類を燃やすことを禁じる看板があった。それにしても午後の日差しにきらめいて眼下に広がる海は期待以上に美しかった。もし徒歩で来たならこの感激はさらに倍加しただろう。

さらにバスはムシアを目指した。時間の関係からか町で下車せずに岬の駐車場へ。ここが本当のゴールだ、という人もいる。聖母マリアが舟に乗って出現して伝道に行き詰っていた聖ヤコブを励ましたところと伝えられ、「舟のマリア聖堂 Santuario de Nuestra Señora da Barca」がある。新しい建築のような印象には訳がある。2013年12月25日クリスマスの朝、雷がこの教会に落ちて燃え上がり、屋根や内部は丸焼けになってしまったのだ。この年は前述したように7月にrenfeの鉄道事故があり、ガリシアにとっては胸の痛む劇的な年として記憶されているようだ。

今は修復され、また近くの丘には落雷を象徴する割れ目の入った高さ10m以上の巨大な石のモニュメントが作られている。丘から紺碧の海に向かって白い石畳が続いて、フィステーラと同様、というかそれ以上に美しく緊張感のある風景を成していた。茫々たる大西洋、雄大に湧き上がる雲、押し寄せては砕ける波、髪を逆立たせるような強い風。波や風のように激しい動きにシンクロナイズし、日常では感じることのないざわざわとした説明のつかない激情が湧いてくるのだった。

バスがサンティアゴ市内に戻ったのは夜の(といっても明るいが)7時過ぎ。ランチでも見学でもお腹と胸がいっぱい、ということで、宿の近くのレストランで定食を軽く食べる。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 43

古谷章・古谷雅子

6月2日(金)

モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)再訪
ボタフメイロ(吊り香炉)の焚かれるミサ参列

最初の旅でレオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いた時は、到着の翌日にはマドリッドに戻らなければならない日程だった。最終日は到着後に巡礼認定事務所で証明書を受けたり(かなり時間がかかる)、列車のチケットの購入もしたりしなければならないので、モンテ・ド・ゴソはスタンプを押しただけで通過してしまった。しかしここは東からの巡礼路上で初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が遠望でき、下っていけばあと5kmで長い旅が終わるという心にとめるべき地点ではあったのだ。それで、もう一度訪れることにしたのだ。

市内からモンテ・ド・ゴソ行きの路線バスで20分ほど。車道から傾斜地に造成された住宅街を抜けて巨大なモニュメント(元ローマ法王の訪問記念碑)のある丘に登った。今一つ明澄でない空の下、尖塔を認識するのは難しかったが、ここにたどり着いた人々の解放感と感動の雰囲気に満ちている。中には帰途上の人もいる。往復を徒歩という人はかなりいるようだ。前の旅でも自宅の前から歩きだした人、帰りも歩く人に会った。丘の下方にはアルベルゲが兵舎のように何棟も並んでいる。大部分の人はここに泊まり、翌朝に余裕をもって市内に入る。11時までに巡礼証明書を受けた人の国名や人数が大聖堂で行われる12時のミサで読み上げられ祝福されるのだ。

さて、そのミサだが、世界最大と言われる吊り香炉ボタフメイロ(ガリシア語で「煙をまき散らすもの」)によって聖堂内に清めのお香が振り撒かれる儀式を是非見たかった。

儀式は決められた記念日や団体や個人が寄   進する場合しか行われない。二日後の聖霊祭では行われるらしいので事前偵察のつもりで大聖堂に行ってみた。すると入堂待ちする長蛇の列ができている。これから特別なミサが始まるらしい。もしかしたら最後にボタフメイロ儀式もあるかもしれない。入って分かったことだが、軍隊を祝福するミサのようだ。この国ではよくあることなのか? 大掛かりな合同演習があったのか、各連隊旗(?)を直立不動で支える兵士の一群が前に配置され、横には軍楽隊が並んでいる。兵士たちが既に着席しているところへ一般人がぎっしり入り、ミサが始まった。

私たちは祭壇の左手翼廊に立ったが参列者が多くて祭壇付近の様子は見えないしミサはすべてスペイン語(カスティージャ語)で執り行われるので私たちには分からない。しかし非常に厳粛な雰囲気だ。1時間ほどでミサが一段落すると中央に吊り下げられていたボタフメイロがするすると降りてきた。人の高さまで降りたら火を着け、はじめだけ人の手で、それからは滑車の反対側のロープを強めたり弱めたりして揺らしていくということだ。細部は見えないが白い煙が勢いよく噴出し始めた。パイプオルガンが朗々と鳴り響き、合唱が始まる。滑車の反対側のロープは5本の持ち手に分かれていて、それを深紅色の特別な僧衣をまとった5人のティラボレイロス(ガリシア語で「香炉持ち」)が巧妙に操って次第に振れ幅を増大させていく。なんと力強く見事なチームワークだろう。

参列者が固唾をのんで見守る中、ボタフメイロが20m程の高さまで上り、意志が乗り移った生き物のように凄まじい勢いで翼廊両端の天井にほぼ達する弧を描きながら往復して煙と香りを振り撒き、堂内の人々を清める。振れ幅がだんだん小さくなりながら降りてきたところで最後は別のティラボレイロスが抱え込んでボタフメイロを止めた。堂内の緊張が一気に解けた。この間5、6分であったと思うが恐ろしいほどの緊張と感動で参列者は完全に一体化していた。この儀式は長旅の果てにたどり着いた巡礼者の異臭を消すために11世紀に始まったと書いてあるものが多くみられるが、むしろ魂の浄化を劇的に体験化する儀式だろう。

これでミサの終了である。しかし今日はこの後に、軍楽隊の演奏が続いた。ワグナーの「楽劇タンホイザー序曲」、教会内でこの曲を聞くとは思わなかった。このあと堂内を巡ってから、日に照らされた現実世界へと外に出た。

二つの課題が1日で済んだのは望外の幸運か。しかし疲れた。宿に戻ってしばし休憩してからSさんに会い、フィステーラへの遠足の相談等を済ませた。明日の日帰りバスツアーの予約が取れた。スーパーマーケットで朝食や遠足のおやつを買って帰る。宿のキッチンには冷蔵庫も電子レンジも食器も揃っているので、朝食はずっと自炊で済ませることができた。

ようやく時間的なゆとりもできたので完歩祝いをすることにして、Sさんに教えてもらった「ペティスコス・ド・カルデアル」というしゃれたバルレストランに行った。カウンター席だったがリオハのワインを頼み、隣のオランダ人一行と話しながら美味しいタパスやコメ料理を食べた。スペイン在住だという日本人の女性画家も話しかけてきて(美味しいものを食べに時々サンティアゴに来るそうだ)、久々ににぎやかな夕食を楽しんだ。

 


エンドレス・えんどう 12

服部 剛(詩人)

遠藤文学について時々語らう年上の友とバーへ行き、カウンターで『深い河』についての話になりました。

文学に造詣の深い彼は、グラスを傾けながら少し眉間にシワを寄せて、「なぜ遠藤さんは晩年になってインドに赴き、仏教的な世界観を書くに至ったのだろうか?」と、僕に問いかけました。クリスチャンではない彼にカトリック信仰を押しつけたくはないと思う一方、彼が「遠藤さんは最終的に浄土宗のことを書いた」と結論的に述べるので、僕は小さな疑問を感じていました。

僕は彼に反論するでもなく、彼と僕の間にあるものを探るように本音を静かに語りました。「もし、クリスチャンの僕が<キリスト教のみが正しい>と言ったら、それはナンセンスだと思います。人間は得てしてカテゴライズしたがりますが、遠藤さんは宗教について、すべての人間にとっての<カテゴリーを越えた世界>を探しに、インドへの旅に出たのでは、と思うのです」

空のグラスをカウンターに置くと、彼は「そう言われると、何も返せないなぁ…」と、ため息をつきました。しばし沈黙の間、遠藤の同志である井上洋治神父と生前に数回、お会いした時の面影が、ふと僕の心に浮かびました。その時、井上神父が穏やかに語られたメッセージを思い出し、僕は彼に伝えました。「すべての人にとって山の上の空は、一つです」――目を閉じて、深く頷く彼の横顔を見ると、在りし日の遠藤の真意が少し、届いた気がしました。

遠藤は『深い河』の主人公・大津に井上神父を投影しています。そして、大津の手紙には、遠藤と井上神父が生涯探究した<信仰の本音>が込められています。若き日に大津を棄てた美津子が自らを<愛の火種のない女>と思っていることについて、大津は手紙の中で次のように記します。

玉ねぎ(神)は成瀬(美津子)さんのなかに、成瀬さんのそばにいるんです。成瀬さんの苦しみも孤独も理解できるのは玉ねぎだけです。あの方はいつか、あなたをもう一つの世界へ連れていかれるでしょう。それが何時なのか、どういう方法では、どういう形でかは、ぼくたちにはわかりませんけれども。玉ねぎは何でも活用するのです。(*1)

* * *

『深い河』の登場人物たちが導かれてゆくように、目に見えない<玉ねぎ>は僕たち一人ひとりに今日もかかわろうとしているのかもしれません。それぞれの日々が他の誰でもない、その人独自の道となってゆくように。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用、括弧内は筆者注。