スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 35

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(2)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

この日も、終点のレオンまでの配分にメドがたったので、カルサディジャ・デ・ラ・クェサから9km先のテラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスで切り上げることにした。そうなると昼頃には着くので、たまにはきちんとした昼食を食べようということになり、次の村レディゴスはバルにも入らずに通過した。道中や宿泊予定地に城も教会もないというのは珍しい。体を休めろということかもしれない、と都合よく考えた。

テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスという地名は、12世紀にエルサレムを守るために組織されたテンプル騎士団の支配下にあったことによる。その頃の巡礼路は現在よりも700mほど南にあったという。2つのアルベルゲがあるが、村の手前の新しい建物の方に入ってみた。最近できたアルベルゲは個室があるものが多い。ここも自動車旅行の家族やグループも想定していて、快適そうだ。早く着いたのでシャワー・トイレ付きの2人部屋を確保できた。広い庭に洗濯場、物干場が整備されている。

日課作業を済ませてから村の中に行ってみた。人口は90人ほどなので、独立したバルやレストランがあるわけではなくそれぞれのアルベルゲで食べることになる。村の中のアルベルゲは田舎風で質素だが楽しいしつらえで、メニューも地元食が主だ。昼食はこちらでとることにした。ジャガイモ入りトルティージャ(卵焼き)や季節の野菜とチーズの入った田舎風パイ、パン、ビール。既に食堂は祝祭かと思うほどたくさんの人がビールやワインでデキ上がっていたが、この人たちは1日にどれくらい歩いているのだろうか?

ランチタイムが一段落したところで私たちのそばのテーブルでシェフ自身が昼食を始めたが、グラスに赤ワインを注いで周りを気にせず優雅に食べることに専念していたのも日本人には珍しく思われた。村を歩いてみたが、目当てにしていた6月末には使徒サン・ペドロ祭が行われるという煉瓦造りの教会の入り口は漆喰で塗り込められ普段は使われている様子はなかった。

この国には2時頃の昼食後シエスタ(午睡)の習慣があるが、貧乏性な私たちはその間も活動し、その代りに早々と就寝してきた。この日は部屋に戻り、初めてノンビリとシエスタをした。またレオンに到着する日もほぼ見通しがたったので、インターネットのホテル予約サイト経由でレオンの宿泊の予約を済ませた。前々回レオンでは当日見つけたアルベルゲのドミトリーに泊まったが、設備も雰囲気も非常によくないところだった。大きな街に着いて解放感からけじめのなくなりがちの若い巡礼者たちを避け、今回はブルゴスのオスタルで薦めてくれたところを予約できた。

夕食はアルベルゲの食堂で一斉開始だが、テーブルはグループ別。本日の定食はサラダかカスティージャ風豆スープ、メルルーサ筒切りのソテーか肉、ヨーグルトかアイスクリーム、ミネラルウォーターやワインはいつも通り好きなだけ。ワインが飲み放題といっても、理由はある。巡礼路に限らず、スペインは水事情がよくない。中世の「巡礼案内」には「巡礼は、悪しき水を飲まぬことが肝要である」と書かれているそうだ。ところによっては水が有毒で命にかかわった。旅人は煮沸などもできない。だから得体のしれない水ではなくワインやビールが日常の飲み物になっていたのだろう。「悪しき水」は追剝(おいはぎ)や野犬と並んで巡礼が出会う危険の一つでもあったのだ。昔から整備されていた泉でも、今は「飲めない」と表示されていることも多い。私たちは必ず水のボトルを購入し、持ち歩いた。

ついでに言えば、昔は渡河も難儀だった。渡し守はしばしばわざと船をひっくり返して盗賊と化したそうだ。巡礼路の架橋は寄進の対象になるほどのありがたい事業だった。昔の巡礼が異様に長い杖を持っていたのは縋りつくためだけではなく、追剥や野犬と戦う武器であり、渡渉する時の道具でもあったからだ。

 


エンドレス・えんどう 10

服部 剛(詩人)

先日、静岡・修善寺で行われた川端康成についてのイベントに行きました。『伊豆の踊子』をベースにしながら川端の生涯を辿る映像がスクリーンに映し出され、主人公の書生がトンネルの闇に入っていくことで、物語は旅の次元に入っていきます。

遠藤周作の『深い河』も、遠藤自身が意識して書いたかどうか定かではありませんが、同じ次元に入っていく場面があります。それは各々の人生の答を探してインドまで来た旅人たちを乗せたバスがトンネルに入ってゆく、次の場面です。

真暗な樹のトンネルをしばらく通ると、突然、遠くに光の一点が見えはじめた。臨死体験者たちは闇のトンネルの奥に光の一点を見るが、その体験と同じように闇の遠くで蛍火のような明りが少しずつ大きくなる。(*1)

聖地・ヴァーラーナスィという町に入ると同時に、登場人物らの脳裏にはそれぞれの過去の記憶が甦ってきます。 「人に歴史あり」と誰かが言ったように、私達一人ひとりの道を想うとき、歴史になっていることに気づきます。そこには人知れず喜びも悲しみもあるでしょうが、時にはそっと自分に〈今までよく歩いてきたねぇ…〉と囁いてみてもいいと思います。それは自分が歩いてきた道を味わい深く肯定する心となり、さらなる明日への道となってゆくでしょう。

「記憶」について、もう一つ大切なことは、「もしも、あの時――」という人生の岐路を思い返すと、忘れ得ぬ場面が今の自分につながっている、とわかります。その体験を自分の意識にのぼらせることで、現在を輝かせることができる気がします。

僕の例で言うと、高校三年生の時の失恋を思います。(惨めで、情けなくて、格好わるかった、でも、あの頃のどん底の自分がいたからこそ、僕は詩を書き始めた)など、人それぞれに歴史を振り返ると、過去の出来事から密かな深いメッセージを感じることでしょう。

『深い河』の登場人物たちのように、時には旅に出ることが人生の大事なきっかけを生むものです。それと同時に、一見、何の変哲も無い日々を歩むことが、実は<旅そのもの>であり、あなたをあなたの物語へと誘う<密かなトンネル>は、日常の中に潜んでいるのです。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 34

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(1)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

快適な個室だったので、朝もいつもよりのんびり過ごした。6時20分出発。昨日確認しておいたカリオン川を渡る道を進む。国道を横切ってからは静かな田舎道になる。国道を行けば途中にムデハル建築の教会や古代ローマ時代の遺跡があるのだが、やはり静かな田園の中の巡礼路を行くことにした。水が近いせいか思ったよりも木立があり樹種も多様だ。ニセアカシヤもある。カッコウの鳴き声を聞きながら10kmを順調に歩き、8時15分大休止。この先は木々がなくなりまた一面の麦畑で右側は刈入れ間近な色だ。

17km近く歩きカルサディジャ・デ・ラ・クェサの町。カルサダとは古代ローマ時代の石畳の道のことだそうだ。ベンチと泉があり、一休みしていると太ったネコが何匹も走ってきて私たちの食糧を取ろうとする。最初はおねだりだったのが次第に暴力的になり辟易して早々に出発した。樹木や建物がないと黄色い矢印はないが、道中にはモホンというホタテ貝の意匠でエル・カミーノを示す石の道標がある。それでも迷いやすいところもある。しかし今はGPSが解決してくれる。

章はいわゆるガラケーなるdocomo携帯を持っていった。これは家族との間の緊急事態や万が一の場合の通信用で、基本的には無料のWORLD WINGを申し込んであれば使った分だけの安い料金で済む。その他には雅子がAndroidスマホ、章がiPad miniタブレットを持っていたが、特別な料金契約はせず、契約電波を使う通信機能は切っておいた。こうしておけば料金は日本での例月分だけだ。スペインでは大方の宿舎でfree Wi-Fiがあり、宿泊手続きの時にパスワードを教えてくれる。それでインターネットがつながるのでメールや新聞も日本と同様に受送信できる。

問題は屋外、特に平原や山を歩いている時だ。道案内には地図が必要だが、Google mapはインターネット環境がないとみられないし、ダウンロードして保存できない。しかし、事前にダウンロードしておける優秀な無料地図もある。GPS機能は契約電波とは無関係にタダで キャッチできるので地図と連動させれば現在地は常に確認できた。スマホにはOpenCycleMap、タブレットにはMAPS.MEという地図を出発前に入れていった。特に前者は自転車旅行者用に細い道や水場などのポイントが入っている。

「Geographica」というアプリで一日の距離、高低差、時間、トラック(軌跡)等の行程を記録することもできた。余りに便利だと昔のような読図の醍醐味や心細さがないのが贅沢な悩みになってしまう。とはいえ、バッテリーが無くなれば使えないのだから、基本はやはり紙の地図とコンパスということになる。「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の詳細なガイドブックと初回に現地で入手したミシュランの地図こそが頼もしい道連れとなった。アルベルゲやホテルの場所や収容人数、距離数が予め分かるのでペース配分、日程調整に無駄がでない。

 


神さまの絵の具箱 26

末森英機(ミュージシャン)

世界でいちばん不運で、幸せな、わたし。とは、どんなことがあろうとも、変えたくて、変えられなくて、でも、始まりだけが、春だと覚えていること。きれいに、疑うことを、知らないこと。酔っぱらいの、ユメでもいい。なぜ、わたしに。イエスのあかしが、なされたのか?エゴがしぼんでゆくように、わたしには、見えている。イエスのスケッチが。イエスのポートレートが。イエスのスクリーンを見るように。すると、エゴはしぼみ、かれてゆくばかりだ。なぜなら?彼とともに、彼のうちにある、ということはそのことだから。きく耳を、つくってくださったのは、そのためだったから。最高、実在の化身ではない。ただ、唯一、不可分のイエス。と、わたし。祭服などまとわずに、花を集められる。いつでも、どこでも、異邦人になれる、わたし。たとえ、異教の香りのなかでさえ。頭のてっぺんから、爪先まで、すっかり変わっても、彼をして、自由。もはや、時を告げる鐘もいらない。だって、始めのない、時間から「先にガリラヤに行っている」(マタイ26:32)と、ひとつの火の粉を目印にされたイエスだから。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 33

古谷章・古谷雅子

5月27日(土) ボアディージャ・デル・カミーノ~カリオン・デ・ロス・コンデス(2)

歩行距離:25km
行動時間:7時間5分

シルガから宿泊地カリオン・デ・ロス・コンデスまでは県道を6kmほどだ。ここは人口2400人、ブルゴスに葬られている英雄武人エル・シッドゆかりの古い大きな町だ。彼の3人の娘たちがこの地の公爵達(コンデス)に嫁いだものの大切にされなかったことに立腹したエル・シッドが婿たちを皆殺しにしてしまったそうだ。中学生の頃観たチャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンのハリウッド映画『エル・シド』のイメージよりも相当暴れん坊だったようだ(映画は父を決闘で殺したエル・シッドへの憎しみと彼への恋心に苦しむヒメーネスとのラブロマンス)。

小さな画像はクリックで拡大

この町ではサンタ・クララ修道院とサンタ・マリア教会にそれぞれアルベルゲがあるのだが、私たちは前者に泊まるつもりだった(後者は歌うシスターとの夜の集いで有名だ)。前者には別棟にシャワー・トイレ付きの個室オスタル部があるはずなので、前期高齢者としてはここらでゆっくり休息したかった。早く着いたこともあり2人部屋が取れた(2人で€50、私たちにはかなり贅沢だが喜捨と考えよう)。塀の中には広い中庭を囲んでロの字に建物があり、正面は受付、右手はアルベルゲ部、左手がオスタル部で、居室から全体が見下ろせる。自炊設備や洗濯場・物干し場はアルベルゲ部にあるので、そちらへ入るための鍵の隠し場所などをオスピタレロ(宿泊の世話人)が説明してくれたが修道院だけあって非常に管理が行き届いている(居室に行くまで3か所の錠を開けなければならない)。

個室は極めて簡素だが清潔で静かだ。西英仏独伊語で規則が表示されていた(静寂を守ること、使用したシーツやタオル類は廊下の籠に入れて出立することなど)。日課作業も自分のペースで快適に終わらせ町に出た。修道院には飲食施設はない、またスペインの宿泊施設では珍しく Wi-Fi もない。オスピタレロが教えてくれた「ラ・ムラージャ」というレストランとバルを兼ねた店で free Wi-Fi が使えるというのでまずはそこでカーニャ(生ビール)と軽食。地元でも人気の店のようだ。

町の地形はメセタの中では高低差がある方で複雑だ。高台にいくつか教会があるが、反対側は木々の緑豊かなカリオン川に落ち込んでいる。まずサンタ・マリア教会を見てから、町を出るルート偵察を兼ねて立派な石のカリオン橋を渡ってみた。サン・ソイロ修道院という歴史的な建物の中庭の回廊を見たかった。しかし私たちとは無縁の富裕層が宿泊する豪華な五つ星ホテルに改造されて、奥までは入れなかった。町に戻り、丘の上のロマネスク様式の教会とルネッサンス様式の教会を外側から見る。

町中では楽しみにしていたサンティアゴ教会(今は資料館)の正面装飾を見ることができた。やや長くなるが、前述の村田先生の書物から引用すると

「扉口上部に、エバンゲリストの象徴に囲まれたキリストを中心に12使徒の彫像が横一列に並び、その下に、タンバンを欠いたアーチがある。その単純な構成がみごとだ。それがすっきりしているだけに、彫刻が引き立つ。12世紀末、ゴシックへ移行しつつあるときの制作だけあって、立体的であり、リアルな訴求力がある。そして、ここで注目すべきは、その弧帯に、ロマネスクにはめずらしい職人たちの姿が刻まれているということだ・・・」

ふつうは楽器を持った老人が並ぶところに、コンパスを持った建築家、鋏を持った美容師、ロクロを回す陶工など当時の職人の姿が彫られている。先生は、巡礼宿駅の発展による都市化に伴う様々な職業の市民の蝟集と、ギルド成立への動きの反映ではないかと述べられている。このような地理的・時間的発展の痕跡が道中の楽しみでもある。

夕食はまた「ラ・ムラージャ」で。田舎では早めの時間でも定食(メヌー・デル・ディア)を食べることが出来た。庶民向けの定食ではしばしば地元の季節ものが出てくる。この日も不思議な野菜と生ハムの煮込みが出てきた。大きめの芽キャベツのような球が6、7個。わあ、美味しい!これはアーティチョーク(アザミの蕾)の芯だった。デザートもフワフワのホイップクリームに大きなイチゴがたっぷりで満足した。

ここではちょっと興味を引くことがあった。次々と杖や車椅子の高齢の男女が入ってくる。介助人がついている人もいる。殆どの人が楽しげにアルコール飲料を飲んでいる。窓際の席だったので様子を見ていると道路の反対側の「Nuestra Señora de las Mercedes(慈悲の聖母マリア)」と正面壁に掘られた美しい建物からやってくるのだ。(おそらく教会が経営している)老人施設だったのだ。今日は土曜日の午後だから外出も自由らしい。高齢者もおしゃれをしてバルに来る、ということが当たり前のお国柄らしい。

この日は到着後の街歩きと見物が長く、合わせれば30kmを超す距離を歩いた。しかし夜は話し声も聞こえない修道院らしい完璧な静寂の中でゆっくりと休むことが出来た。

 


新ながさきキリシタン地理 2

二つのキリシタン神社――枯松神社と淵神社・桑姫社

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

日本には、そして世界にも勿論、
三つだけのキリシタン神社というものがあるらしい。
その中の二つが長崎市にある。

一つは、最近テレビでも取り上げられるようになった
有名な枯松神社である。

枯松神社(〒851-2326 長崎市下黒崎町枯松頭)

場所は、遠藤周作文学館がある外海・出津地方の
すぐ手前にある黒崎地方にあり、
黒崎教会前のバス停で降りて、
山道を20分ほど登ると枯松神社はある。
バス停前には、「外海潜伏キリシタン文化資料館」があるので、
そこに行けば、枯松神社の話が聞くことができる。

こちらは外海出身の日本人預言者バスチャン
の師であるサン・ジワン(西洋人)を祀った祠であり、
潜伏キリシタンたちが集まり、
オラショ(口承の祈り)を伝承した場である。
禁教時代に箱物は作れないので、
枯松神社は明治に入って建立された。
祈りの岩を前にして、オラショの伝授がなされた。
祈りの岩より上に登ると、
大きな石の上に白い小石がおもむろに置いてある。
皆でその白石を十字架の形に配列して祈り、
祈りが終わると石をばらして立ち去ったという。

キリシタンは目に見える証拠を残さない。

枯松神社への途上の山道に咲くやまゆり

バスチャンと言えば、
日繰り(教会暦)と予言が有名だ。

潜伏キリシタンには、
浦上―外海―五島ルートと、
平戸―生月ルートの二つがあり、
後者には、日繰り(教会暦)が伝わっていないと言われる。
外海地域では、日繰りをたよりにミサが行われた。

バスチャンの予言とは、
迫害が厳しくなった折にバスチャンが遺したもので、
以下の内容である。

「七代経てば、黒船に乗って神父がやってきて、
毎週でもコンヒサン(告解)することができ、
どこででもキリシタンの教えを歌って歩けるようになる」

フランス人宣教師プティジャンの「信徒発見」は、
ちょうどそれから七代後だったということである。
長崎側では、これを「神父発見」と言う。

まさに「彼待つ」神社というところか。
枯松神社はバスチャンの墓という説もある。

黒崎の中心地域は松本地区といい、
住民の姓も、
松本、松下、松山、松森、松谷、松尾などなど、
ほとんど松がつく姓だそうだ。
「枯松」を中心とした地区ということなのだろう。

もう一方のキリシタン神社、
淵神社・桑姫社は、
もっと市街地にある。

淵神社・桑姫社(〒852-8012 長崎市淵町8-1)

桑姫とは、キリシタン大名の大友宗麟の孫娘であり、
桑姫自身も「マギセンシャ」という霊名を持つキリシタンである。

豊後・大分の地から、長崎の淵地区に来て、
養蚕の文化を伝えたため、桑姫の名がついた。

宣教師をはじめ、
キリスト教をもたらした人は同時に、
文明をも、もたらしたように思う。

ある意味、宗旨とは関係なく、
万民に役に立つことを伝えるのであろう。
「ド・ロさまそうめん」などというのは、その典型だ。

ちなみに、三つ目のキリシタン神社は、
東京都にある。

伊豆大島にある、オタイネ明神である。
朝鮮半島から連れてこられて徳川家康の側室となった
キリシタン・おたあジュリアを祀った社である。

東京近郊の方は、行ってみるのもいいかもしれない。

 


神さまの絵の具箱 25

「今は、鏡に映して見るようにおぼろに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るだろう」(コリントⅠかみさま13:12)
語るに、まことにふさわしいこと。わき腹の傷口に、手をいれるまでもない。
主を、間近に見られたなら。主に対して、生きることは、生つまり命に対して、生きることだから。主の体に、触れる。主への愛に、心を結ばれる。主の香りを、感官は味わう。ともに語る、機会を得る。すべての涙は、主の頬に戯れる。おさなごのように、膝枕で、髪をなでられる、まぶたに、くちずけされる。
さらに、主とともに、眠り、憩い、集う。主とともに座り、休む。きっと、食事も摂る。そうなれば、心とからだのすべてを、尽くして主にささげることを、もっと学べる。なにも、囁き合うこともせずに、サマリアの女のときのように、見つめ見つめ合う。風のひとかけらのような、気息(いき)を、唇に受けて。心で、生を追いながら、生で主の心を追おうとする。
主の毛髪、大地の髪。愛ゆえに流れよう、こぼれようとする涙を、こらえきれない。太陽のまつ毛、月の光のまぶた。なぜ、ひとが、互いに、責め合い、攻め合い、戦いばかりを好み、競り合って、盗っ人になったのか? 主への愛に、むすばれたい! 贈り物を、手渡したい! 主の耳で、なにかを、聞こうとする。主の音に、心を、没頭したい。
立ち昇る、犠牲の煙は、ますます、穢れ。だれもが、じぶん以外の生き物の、流す涙を見ようとしない。主のまなざしは、魂のなかに光り。重荷を和らげるためだけに、降誕された。
主に奪ったもの。主から、力ずくで、奪ったものを、返したい。生ける死! 「わたし」と「わたしのもの」を放棄したい。主の姿を、見たなら、わたしたちの目は、無上の喜びを味わう。心を喜びで、満たしまでした、あの蜘蛛の巣のように薄い、マナのように。わたしたちの表情(かんばせ)は、きっと、主の心を、魅了するだろう。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 32

古谷章・古谷雅子

5月27日(土) ボアディージャ・デル・カミーノ~カリオン・デ・ロス・コンデス(1)

歩行距離:25km
行動時間:7時間5分

外のテラスで簡単な腹ごしらえをして5時40分出発。6時半を過ぎれば完全に明るくなるが、その前はまだ薄暗い。前日に黄色い矢印を確認しておいたので問題なく村を出た。

平原に並木が続き朝は涼しい。25分でカスティージャ運河沿いになる。カスティージャの産物を北の港町サンタンデールに運ぶために18世紀に建設が始まったが完成することなく終わった。しかし部分的には使われてきたし今も用水路として機能している。運河に沿ってしばらく行くと複雑な構造の閘門(こうもん:運河・放水路などで水量を調節するための水門/船舶を通過させるために水をせき止めておく装置)があり、渡るとかつては宿駅として栄えたフロミスタの町に入った。人口1000人というのは巡礼路では今でも大きな町と言える。

目当てはサン・マルティン教会だ。巡礼路上の多くの教会が長い年月の中で時代ごとの改築増築により様式混在しているのだが、ここは11世紀ロマネスク様式の典型がそのまま保存されている。1904年に厳密な修復も行われているので、経年による儚い美しさはないのだが、すっきりした質実剛健なたたずまいを控えめに軽やかに見せる軒飾りやチェックのリボン様の縁飾りが好ましい。

建築様式などと書いているが、私たちの知識は赤ん坊程度だ。ただ、これまでの旅で、何も知らなかったロマネスク様式との出会いがあった。そして、村田栄一著『石も夢見るスペインロマネスク』(社会評論社、2007年)という素晴らしい手引きを得て、今回は以前の感動の正体を意識的に見てみたくなったのだ。

村田先生は「ロマネスクというのは、12世紀をその最盛期とする約千年前のこと、その規模は、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどほぼヨーロッパ全域にわたって同時多発的に展開された、教会建築とそれにかかわる美術における様式」と説明されている。

そして「ゴシック期以降の建築や彫刻と比べると、技術的に劣っていてずんぐりと低いし、壁は厚いだけでステンドグラスもないから暗いし、彫刻なども稚拙である。しかしロマネスクの造形の底に流れる美意識は、見えるものの内面の見えないものを、かたちにこだわることなく表現しようとするもので、外観無視の自由奔放な形態表現には、ただ幼稚というだけではないそれなりの美意識があった、ロマネスク建築は極めて美しく個性的で自由で幻想的である」と書かれている。巡礼路とその周辺にはこの古い建築がちりばめられているのだ。

教会を見てからいい気分でバルに入りのんびり朝食。ここから20km先のカリオン・デ・ロス・コンデスが今日の目的地だ。昨日に引き続きやや短い行程だが、それより先は17km以上宿泊施設がないのでカリオン・デ・ロス・コンデスに泊まるしかない。しかもこの町には早めに到着して是非見たいサンチャゴ教会の正面装飾がある。

また麦畑が広がる。暑くなってきた。ウシエサ川にぶつかるとパブラシオン・デ・カンポス。ここからの道は二つある。私たちは他の巡礼者の忠告通り県道を離れた静かなウシエサ川沿いの道をとった。距離は少し長くなるが、麦畑でも川沿いは美しい木立があってほっとする。「晴日暖風生麦気 緑陰幽草勝花時」(王安石)の世界だ。途中でビジョビエコの橋を渡る。さらに先に「川の聖母礼拝堂 Ermita de Virgen del Rio」という赤い煉瓦の建物がある。そこで川と離れて木陰もない畑の中を進み県道と再び合流した町がビジャル・カサール・デ・シルガだ。

この町のサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会は圧倒的な規模で、もとはロマネスク建築だったが現在のものはゴシック様式で、さらにさまざまな時代の様式を残す。時間的な余裕があるので1人€1を納め、彫像やゆかりの王族貴族の立派な石棺がたくさんある内部を見た。

 

 


神さまの絵の具箱 24

末森英機(ミュージシャン)

あるとすれば、正義の戦(いくさ)に、〝奇跡〟は、瞬間の出来事(もの)。露で顔を洗ってくれるような〝癒(い)やし〟は、進行するもの。
「主は、主のときにわたしをいやす」(ルカ17:12-19)
神の時まで、待つ!
子どもにする、おやすみの、小さなキスのようなもの。だれかの手が、やわらかい髪に触れるのを感じ、それから、ひたいにうっすらとした、ほおに、小さなくちづけを受ける。両方の腕で、受けとめてくれる。
世界の一方のはずれから、世界のもう一方のはずれまで、主とともに、過ごすならば。信じる者にとって、足りないものは、なにひとつない、と聖書は言っています。
踏みつけられた花にも、しおれた花にも、摘み取られた花にも、襲いかかる混沌(カオス)さえ、愉(たの)しみにかえる愛ににているもの。けれど、癒やしは、わたしたちのやり方で、起こりません。〝とげ〟のある美しさを、恵みという力でいただく。わたしたちが、「はい」と、深くうなずいたときに、覚えるもの。
天国か地獄か!それは、わたしたちしだい。水のなかに、苦しみがふしぎとなく、おぼれてゆくようなもの。主の時に。


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 31

古谷章・古谷雅子

5月26日(金) オンタナス~ボアディージャ・デル・カミーノ(2)

歩行距離:26km
行動時間:7時間55分

ここからは県境の川リオ・ピスエルガに向かって下り坂になる。イテロ橋(イタリア人の橋)を渡るとブルゴス県からパレンシア県のイテロ・デ・ラ・ベガという集落に入るが、橋の手前には巡礼者のための救護院だった古い建物(サン・ニコラスの避難所)がある。

中は東側に祭壇、西側には中二階も含めて10台ほどの簡易ベッドが置かれ、今もアルベルゲとして巡礼者を受け入れていた。宿泊費の定めは無く、ドナティーボ(喜捨)。オスピタレーロ(宿の管理人)はイタリア人だった。今はバックヤードに別棟のトイレとシャワーがあるようだが、食事は各自川向こうのイテロ・デ・ラ・ベガで食べるか調達してくるようだ。このような寝るためだけの簡素な施設が本来のアルベルゲだったのだろう。

川の付近は緑豊かだ。また農業用水として取水され、農地には恐竜の骨格のような巨大な散水設備によりトウモロコシや野菜も作られていた。

ピスエルガ運河を過ぎるとまた麦畑がどこまでも広がり、地平線ならぬ麦平線とでも言いたくなるスケールだ。

今日の調子では、フロミスタまで行くことは体力的には十分可能だったが、敢えて6km手前の小さな村ボアディージャ・デル・カミーノを宿泊地とした。その理由はこの先のフロミスタにあるスペインロマネスク建築の代表と言われるサン・マルティン教会を翌日ゆっくりと見たかったからだ。巡礼中は昼過ぎに着いて、あとは暇なようだが実は思いのほか忙しい。

空きのあるアルベルゲを探し、ベッドの確保(条件のよいアルベルゲは早く着かないと泊まれない。到着順が原則だが、昨年は10人ほどの巡礼手帳を預かって一人で先回りしてベッドをグループで取ってしまう者が私たちとほぼ同じ行程で歩いていて残念な結果になった日もあった)、ドミトリー泊の場合は電気のコンセントの確保と電子機器の充電、シャワーの順番待ち、洗濯と干し物、翌日の水分や軽食の購入等…。もう1時間半歩くとなると、これらの日課作業の後の見学はせわしない。また翌日充分明るくなるまで待つのも効率が悪い。それなら手前でゆっくり泊まって夜明けから歩き、明るくなるころフロミスタに到着しようというわけだ。

ボアディージャ・デル・カミーノにはホテルもあるが空きはなし。「アルベルゲ・エン・ネル・カミーノ」はドミトリーだけですべて2段ベッド。一人€8。割り振られたのは比較的静かな6人部屋でシャワーやトイレは廊下を挟んで全体で共用。シャワールームは男女別だ(昨日のアルベルゲは小さかったせいか男女共用で気を遣った。男性はパンツ1枚でうろついていたが女性はそうもいかないし)。同室はアルゼンチンから来た壮年の自転車カップルと、道中で仲良しになったらしいスペイン女子とポーランド男子のカップル。

このアルベルゲは美しい中庭があり気持ちがよい。広いテラスで活気あるバルも営業していて、ベッドを既に確保した人たちで盛り上がっていた。私たちも一段落してから遅い昼食を兼ねてカーニャ(生ビール)とケソ(チーズ)盛り合わせで仲間入りした。

突然日本語で「日本の方ですか」と女性から声をかけられた。年配のご夫婦で全行程を一気に歩く予定とのこと。「もう81歳でこれが最後のチャンスですから」とおっしゃるが、お元気そうだ。私より一回りも上だ!トラブルなしにご無事に旅を全うされますように。

村を一回りしてみた。古いロマネスク様式の教会は封鎖されていた。村から巡礼路への出口を確認し、明朝に備えた。

夕食は6時半開始というのがありがたかった。長テーブルで一斉開始のペリグリーノス・メヌーだ。定番の豆の煮込みスープは鍋ごとテーブルに置かれた。食器類はこの地方産の厚手の陶器で楽しい。またメインの肉と魚を二人で取り換えっこして味わう。

同じテーブルはフランスからの自動車旅行の年配のグループだ。英語を話さない人たちなので、微笑と手振りでのコミュニケーションだったが、仲間内でも殆ど話をしない静かな人もいるので、あまり会話に拘泥しなくてもよいのだ、と気が楽になった。

明朝は早出のため、他の人を起こさないで済むように寝袋以外の荷物をまとめて部屋の出口に置き、早々ベッドに入った。