「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 5

戦争の消えない傷

伊藤 直接クメール・ルージュはご存じないにしても、その直後ぐらいからカンボジアの激動みたいなものは見ていらしたんですね。

後藤 そうです。一人ひとりはほとんどしゃべらないんですけれども、例えば、私の子どもだった子は、ベトナム兵をナイフで殺しているとか、同じ村の中で、あの人がポル・ポトについた、自分の親はあの人たちに殺されたというのがあります。でも、今はみんな黙ってしまって、心の中に持っていてもお互いに話しません。やはりトラウマとして残っています。あれはどうやって解決していくんでしょうか。この方たちもいつか亡くなっていくでしょうから、そこまでいかないと消えないのかなという不安はあります。彼ら一人ひとりの中にある心の傷というのは、私が戦災にあって、すごい傷を受けて、それは今でも残っています、死ぬまで消えないと思っています、そのトラウマと同じようなものを彼らもみな持ち合わせています。ただ、平和に暮らすためにそれを表に出さないというだけです。

伊藤 ラーさんと神父様とのやりとりで、誰が考えてもラーさんの両親は殺されていると思うのを……。

後藤 それは失礼だと、生きているかも知れないのにというのは、彼の実感なんですね。

伊藤 人を3人殺したという話もありましたね。

後藤 鬱になってしまって、自殺寸前までいったんです。それで放っておいたら自殺するというので、精神病院に入れたんです。精神病院なら監視がついています。自殺させないために半年まではいきませんでしたが、入れました。

伊藤 戦争というのは、殺す殺されるという単純なものではない、深いものがありますね。

後藤 これは死ぬまで持ち続けなければならないんでしょうね。

伊藤 それを学校づくりということで、癒やしとおっしゃっていましたけれども……。

後藤 それしか方法がありませんでした。いくら言葉で慰めても、効き目ないでしょうね。

伊藤 ある意味学校をつくるということで、確実に癒やしはできるということでしょうか。

後藤 そんなことで、少しお手伝いできたかなと思っています。それは同時に私の癒やしなんですね。

伊藤 映画の最後に、自分の幸せを求めていると、他人を不幸にしてしまう。でも他人の幸せを求めていると、自分が幸せになっているとおっしゃっていますね。

後藤 それは実感ですね。

伊藤 司祭職の前にキリスト者、あるいはキリスト者ではなくても、人間というのは、そういう生き方をすることで、全員が幸せになれるということなんでしょうか。

後藤 そうですね。ですから、私の中では理屈はないです。戦争絶対反対なんです。戦争によって物事は何一つ解決しないどころか、戦争によって傷を負った人は、その傷を死ぬまで持ち続けますし、それで死んでいった人たちは無念だったと思います。だから戦争による解決というのは、私は信じません。

伊藤 理屈なしに絶対反対。

後藤 反対。何が何だって反対です。

伊藤 何が何でもですね。イエスさまもそういう生き方をなさっていますね。

後藤 よく、本当のキリスト教かと言われるんです。どうも阿弥陀の匂いがすると言われます。お前のキリスト教は阿弥陀のキリスト教ではないかと言われるんです。僕は小学校6年生まで、毎晩お経の練習をさせられて、阿弥陀様の前でお経を上げて、私の中には骨の髄までしみ込んでいて、そのしみ込んだ阿弥陀様の信仰を突き抜けてキリスト教に出会った。だから僕は仏教を否定してキリスト教になったのではなく、それを受け入れて、その向こうでキリスト教に出会ったと言っています。

父に対しても同じ。最後には死ななければならない。公会議の前でしたから、あの頃は洗礼を受けなければ救われないと私もそう教えていました。父が死んだ時は、公会議の前だったんです。その時はもう神父をやっていました。そうなると、父になんとか洗礼を授けなければならないということで、いよいよ危なくなってきたという時に、「坊主何年やった」「60年やった」「何をやっているんだ。新聞配達や牛乳配達をやっているのと同じだ。お経配達して、お布施もらって生活をしてきた」。

父は、法然、親鸞、蓮如のお三方が大好きでした。私も今好きなんですよ。そこで、「法然、親鸞、蓮如は極楽にはいらっしゃらないよ」。父はびっくりしてしまって、「どこにいるんだ」と言います。「当たり前だ。あんな立派な方は極楽を突き抜けて天国だ。お父さん、あなたは無理です。あなたは極楽止まりです」と言いました。すると、「俺はどうしたらいいんだ」と。ひどいですね。それは偽りの計画ですが、「あなた、そのままじゃダメです。洗礼を受けなさい」と言いました。だまして洗礼を受けさせたようなものですが、神様は許してくださるでしょうね。そういうわけで親不孝は一つ償ったつもりです。

母の方は全身焼けただれて、川に横たわっていたわけですから、この母はどうなるのかいつも心配でした。この母を天国に行ったときには探さなければならないと、キリスト教的なことを言っています。やはりすごく気になります。

伊藤 意図して仏教、真宗とキリスト教を融合したということではないんですね。

後藤 細胞にしみ込んでいて、何にも矛盾がありません。坊主が妻帯するとか、大いに結構ではないですか。その上で私がいるんですから。

伊藤 本日はいろいろとお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 4

善意の人たちに囲まれて

伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。

後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。

伊藤 では、養父として……。

後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。

あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。

「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。

そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。

今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。

伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。

後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。

伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。

後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。

それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。

伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。

後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。

伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。

後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。

伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。

後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。

伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。

後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。

 

 


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 3

父との関係

伊藤 今のお話ですと、お父様ですが、帰って来いと言われるまでは勘当だったわけですか。映画に、お母様のことを思うあまりにというエピソードがありましたけれど……。

後藤 父が再婚すると言った時に、親父をぶん殴っちゃったんです。親を殴るもんじゃないですね。今でも僕の方がトラウマを受けてしまっています。親を殴って平気で神父業をやっているというのは、非常に恥ずかしいですね。

伊藤 映画の中で、お父様は叙階式に来て下さっていますよね。

後藤 それも行かないと言っていたんですが、その日の朝、御聖堂に入るまで父が来ているのを知りませんでした。前の日に急に気が変わって行ってやろうということになったらしいんですね。

父はその時初めてカトリックの式に与ったんです。司式は京都の司教様だったんですが、「なんだ、あのスルメの帽子。ぜんまいの杖を持って。しかもあの指輪はヤクザの指輪ではないか」と言うんです。「あれは誰なんだ」と言うんです。「あれはカトリック教会の中でもえらい司教様というんだ」と説明しましたが、その程度でした。

関係は悪い関係ではないけれども、気持ちのどこかに父を疑っていました。つまり、同じ防空壕に入っていたのに、生きているのは父だけです。後は全員死にました。私と兄は家にいませんでした。ですから全責任は親父にあるというわけで、あんた自分だけ一番先に逃げたんだろうと、責めたんです。やはり本当のことを言っていないなという疑いの気持ちはずっと続きました。だからどうしてもずれるといいますか、確執がありました。

伊藤 その確執があったから、浄土真宗のお寺の息子さんなのにカトリック司祭になった。

後藤 そうです。それは親父に社会的ダメージを与えてやろうという気持ちもあったんです。つまり、坊主の子が耶蘇になるというのは、あんな小さな町では、すぐに評判になります。実際に父は私が洗礼を受けたときに、非常に怒ったわけです。結局「お前のおかげで、自分の立場がない」というようなことでした。その時僕は殉教者気取りですから。

ちょうどその次の年にフランシスコ・ザビエルの聖腕が来ました。1949年のことです。昔の侍者服、真っ赤な袴はいて、オープンカーの前に立って香をもって、ザビエルの右腕に献香しながら、後ろ向きに町中を歩きました。それをたまたま隣のお坊さんが私を見つけて親父に言いつけました。「お前の家のバカ息子が耶蘇になってチンドン屋みたいな格好をしてなんかやっていたぞ」と。それで親父がまた怒りまして、ざまぁみろと思いました。非常に親不孝でした。ま、その償いを今しているんでしょうかね。

伊藤 そんなことがあって、カンボジアの子どもたちを引き受けた時には、必死になっていくわけですね。

後藤 償いですね。

伊藤 「father」というタイトルも、神父のファーザーと父親のファーザーがかけ合わさっているわけですね。

後藤 ですから小文字にしました。大文字にすると、私個人になってしまいます。小文字にしておけば、お父さんですし、神父であるということにもなります。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談2

女性観

伊藤 映画では子供の頃のお母様の思い出とか、おっぱいを吸ったとかいうことをおっしゃっていましたが……。

後藤 あれは小学校の5年生ぐらいのことだったろうか。兄妹がたくさんいたものですから、親の関心が生まれてくる小さい子にいきます。母の愛情をこちらにひきつけたかったんでしょう。そういうこともありました。恥ずかしいですね。

伊藤 ドミニコ会の押田神父様が同じようなことをおっしゃっていました。お母ちゃんの垂乳根が……と。

後藤 押田神父さんのお母さんも、ここの所属だったんです。よく知っています。そうですか、垂乳根の師ですか。

伊藤 後藤神父様が司祭になろうと決めた時に、彼女からの手紙に返事を書かなかったということですが、押田神父様も同じようにドミニコ会に入る時に、お母様が駅に見送りに来てホームでずっと手を振っていたのに、見もせずに去ったというようなことをおっしゃっていました。

後藤 映画の場面ではかわいいお嬢さんでしたが、あんなにかわいいお嬢さんではなかったんです。田舎の男にとって、東京で焼け出されてきた女性でしょう。東京の女性というのはすごくきれいに見えるんです。あの頃は相合い傘だって許されないわけでしょう。だから、僕はその彼女をたった1回だけ抱きしめたの。それは昭和天皇が地方巡幸なさった時、天皇を見に行きました。彼女は私より背が低くて見えないわけです。その時に思う存分後ろから抱き上げて「見えるか」としたわけです。後にも先にも1回だけです。

伊藤 断ち切るというのは、後藤神父様や押田神父様の世代では、司祭職に向かうという時には、もう帰らないという決意だったわけですよね。

後藤 そうですね。一刀両断の元に断ち切ったという感じでした。だからそれっきり行き来もしないし……。全部断ち切ったつもりだったのに、夏休みがきて、僕は勘当されたもんですから、家に帰れなかったんですね。みんな家に帰ってしまって、神学校は、私1人になってしまいました。淋しくなって家に手紙を出しました。すると、親父がすぐ帰って来いと言ってくれました。

そして帰って行きますと、親父が今日、あいつが帰ってくるからとビールを3本買って来て、当時は冷蔵庫がありませんから、朝、籠の中にビールを入れて、井戸の中に吊して冷やして置いてくれました。1杯飲めというので、出してきて1杯飲んで、「おい、お前、彼女から手紙が来ているぞ」と言って束になった手紙をドンと出してきました。あれで助かったんです。もしあれを転送していたら、指導司祭に呼ばれて「この女は何者か」と言われ、それでクビになっていた奴もいるんです。あの頃は手紙が来ると、指導司祭がみんな封を切って見てしまいます。それでいつもいつも来ると、これは何者かということになってしまいます。

伊藤 神父様は司祭になるために断ち切っても、彼女の方は、思っていたわけですよね。

後藤 手紙を出しても何も返事は来ないし、最初の頃は熱烈な手紙ですが、だんだんトーンが下がっていくわけです。そんなわけで全部読んで、初めて悪いことをしたなと思い、その手紙をかまどにくべて焼き、ハガキで返事を書きました。あの頃のハガキは小さかったんです。その小さいハガキの表に半分線を引いて、そこから書き始めて、どうしても書き切れないので、ハガキ5枚にその1、その2、その3と番号を振って、投函しました。なぜハガキに書いたかというと、家族みんなに見てもらいたかったんです。それで終わりです。

これには後日談がありまして、今から10年ぐらい前、NHKのラジオ深夜便に2晩続けて出たんです。1ヵ月後に評判がいいからと再放送がありました。再放送が終わった次の日にインタビューをしたオリンピックをやった花形アナウンサーの川村さんが「彼女から電話ありましたか」と電話してきました。「彼女が生きているか、死んでいるか、どこにいるか知りません」と答えました。「おかしいですね。300万人の人が聞いているんですから、生きていれば聞いているはずです」というんです。連絡もないし、もし生きていて連絡をしてきたって、70何年も何の行き来もしていないのに、急に出て来たって、話題もないし、続かないし、迷惑ですよ。そういうわけでそれっきりになりました。

伊藤 神父様の方は返事も書かないのに、そんなにたくさん手紙を書いてくれたものを読んで、心は揺れなかったんですか。

後藤 その時は無我夢中で、この道しかないと思って、ちょっとでも脇見したら、不埒な心構えだと思っていました。

あの頃は「聖アルージョの模範」というのがありまして、アルージョは女性の顔は絶対見なかった。お母さんの顔も見なかったと。それをそのまま信じて、私は大学に行っても、女の子たちがいっぱいいても、女性の顔を絶対見ませんでした。見たら心揺れ動くでしょ。

神学校でブラスバンドをやっていたんです。指導者に「日本楽器に行って楽譜とラッパのピースを買ってこい」と言われました。僕は悪魔の殿堂に入るようなつもりでした。あの頃、名古屋の栄にある日本楽器は美女をそろえていたんです。悪魔の館に入るものですから、顔を見ないようにして、必要なものだけを取って、「これください」と相手の顔を見たんです。そしたら、バーンと印象を受け、しまったと思いました。家に帰るバスの中でもそのイメージが出て来ますし、その日の晩の夕の祈りの時にも、「あの子に会いたいな」と。次の日、ミサの時も「どうしたらあの子に会えるのかな。何か用事がないかな」と思うようになりました。それで私は弱いんだなと思い、この道を行くためには、女性は悪魔の手先だと位置づけたんです。悪魔の手先と位置づけたら楽なんです。

今は違いますよ。今は女性は天使の手先だと思っています。

伊藤 そうですよね。映画の中で「じいさんでも女性の足のアキレス腱を見ると心が躍る」とおっしゃっていますよね。どこで変わったんですか。

後藤 どこで変わったんでしょうか。長いこと働いていますと、悪魔みたいな人よりも天使みたいな人がいっぱいいます。これは考え違いだったなと思い、それからは天使の手先ですよ。天使の手先だから迷うこともありません。

映画の中にルオーのベロニカが出てきます。ベロニカというのは聖書の中に出てこないんです。十字架の道行きに出てくるだけです。そこで僕はハッと思いついたんです。僕はこの絵が好きだったんです。じっと見ていて気がついたんですが、小学校に上がる前に大好きだったむつこさんという一緒に遊んでいた子がいました。この子から始まって、僕の心を揺れ動かすような女性がいっぱいいたわけです。僕はその女性たちを無意識の中でベロニカの中に押し込んだんです。だから今でもベロニカを見ると、「あぁ、あの子どうしているかな」ということも出てくることがあるんですが、非常に心は穏やかで、揺れ動きません。

(第3話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

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「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談

吉祥寺教会の後藤文雄神父様をご存じでしょうか。現在ドキュメンタリー映画「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」で話題になっている神父様です。この映画公開を記念して、AMORでは、編集委員に参加していただいている清瀬教会の伊藤淳神父様との対談を実現しました。神父様同士の対談は、映画の裏側を少しのぞくことができると思います。映画を観てからお読みになっても決して飽きさせることのない面白い対談になっています。4回にわたって、連載する形になりますが、その後、実際の対談現場の映像も流させていただく予定です。ぜひお楽しみください。(編集部)

カンボジアの子供たちの支援を始めるまで

伊藤 一番最初に後藤神父様を存じ上げるようになったのは、私がまだカトリックの女子校で教員をやっていた時のことで、神父様は毎月母親たちのための講話をしに来ておられました。その頃から「カンボジアの神父様」というのがキャッチフレーズのようになっていました。カンボジアに関わる活動自体を始められたのは1981年ですね。映画の中で私がすごく感銘を受けたというか、そうかと思ったのは、大和の定住促進センターの女性が神父様のところに援助のお願いに来て、神父様は吉祥寺という大きい教会で……。

後藤 信者さんにお願いしても、誰も応じてくれませんでした。

伊藤 私も、まったく同じ経験ではないですけれども、神父をやっていますと、そういうことはありますよね。信者さんにお願いして、いいことだと思うのに全然反応がないということは。その時、神父様の横にいた支援者の女性は恨めしげに……。

後藤 教会にはこんなにたくさん部屋があるのに、何で引き取れないのかというようなことを言われました。信者の皆さんにはお願いはするけれども、私自身がやるという発想はまったくありませんでした。信者にお願いしようと思ったのですが、誰も応えてくれない。そして、「この教会、部屋がたくさんありますね」と言われ、そうかと思いました。皆さんにお願いするよりも、まず自分でやらなければいけないのではないかと気づいて、始まったんです。

伊藤 映画の中でその話をなさっているときに、その女性がじっと見ていて、教会のお部屋のこととかを言い出したときに、神父さんが心底憤慨したとおっしゃっているのを聞いて、後藤神父でもそんな気持ちになることがあるのかと思ったのですが、それは本当だったのですか。

後藤 それは本当で、その時は自分でやるつもりはありませんでした。

伊藤 私が、さすがは後藤神父様と感ずるのは、自分もこの女性と同じことを信者にしていたんだと気づかれたのですよね。

後藤 そうなんですよね。それがことの始まりでした。それが最後にこういう形まで辿り着くとは思っていませんでしたけれども。

伊藤 私なんかですと、憤慨して、腹立って、言葉に出すかどうかは別にしても、「いい加減にしてください」とか、「今日はこれでおしまい」ということになりそうなところを、よく続けられましたね。

後藤 それは、私自身戦災に遭って、一晩で家族から何から何までなくしてしまい、住む場所も何もない、ただ人の情けに頼る以外に生きる道がなかったものですから、そういう経験が中に響いていたと思います。

でも僕はカンボジアがどこにあるのか知らなかったんです。あの辺だろうというのは分かったんですけれども、タイとベトナムに挟まれた小さな国というのも知りません。歴史も全然知りませんでした。そういうのが突然現れてきたわけです。ですから彼らを受け入れるというのも、全部分かった上で受け入れたのではなく、全然分からないままに、来てしまった彼らに居場所がないというのは気の毒だということだけでした。

伊藤 ここは神言会の修道院でもあるわけですよね。部屋が空いているということは、物理的にはその子供たちを受け入れ可能だったわけですね。修道会の方はどうだったのですか。

伊藤 特には問題にならなかったんですね。

後藤 ええ、全然。問題にはならなかったんですが、あいつが勝手にやっているんだから、というわけで、1981年から子供たちを預かっている94年までの間に、1回だけある管区長が「お前大変なことをやって、えらいな」とポケットマネーをくれましたが、あとは一切援助はなかったです。

伊藤 では、良くも悪しくも自由にどうぞということだったわけですね。

後藤 そうそう。あの頃カンボジアに行くと言ったら、まだポル・ポトが全国土の3分の1もしくは、半分ぐらい支配していた時ですから、勝手に行くんだったら、勝手に死んでも勝手にしろと言われました。

伊藤 そこまで言いますか。でも、広い意味では会の理解はあったということですか。

後藤 あったんでしょうね。やめろとか、出て行けとは言われませんでしたからね。

(第2話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中


日本カトリック映画賞 決定!

毎年5月に行われている日本カトリック映画賞の授賞式と上映会をお知らせいたします。

今年は長谷井宏紀監督の「ブランカとギター弾き」に決定いたしました。
受賞式と上映会は、5月12日土曜日午後1時から中野ZERO大ホールにて開催されます。

チケットは聖イグナチオ教会案内所、スペースセントポール、サンパウロ書店、ドン・ボスコ社、天使の森で販売しています。
もしくは、SIGNIS JAPANのホームページからも申込みができます。
メールでのお申し込みは、info@signis-japan.orgまでお願いいたします。


第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展

いとうあつし(清瀬教会主任司祭)

 いささか旧聞に属する話ではありますが、寒風吹きすさぶ1月23日、外国人観光客で賑わう浅草吾妻橋のたもと、墨田公園リバーサイドギャラリーで開催されていた「第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展」に行ってきました。
「アリの街」とは、戦後間もない1950年から1960年までの間、現在の隅田公園の一角にあった廃品仕切場の呼称です。戦災によって経済的に困窮し、廃品回収で生計を立てていた人たちが集まり、「蟻の会」という生活共同体をつくって、互いに協力し合いながら家族ともども共同生活を送っていました。

ゼノさんはポーランド人で、コンベンツアル聖フランシスコ会の修道士でした。のちにアウシュヴィッツ収容所で他人の身代わりとなって処刑された聖マキシミリアノ・コルベ神父らと、1930年に来日しました。長崎で『聖母の騎士』誌の出版を通して宣教に努め、戦後は戦災孤児らの救援活動に尽力していましたが、求められてアリの街に関わり、その支援に力を注ぐようになりました。

北原怜子さんは、東京の恵まれた家庭に生まれ育ちました。20歳で受洗、さらに修道生活を志しましたが、肺結核に倒れて断念、失意のうちにあったところでゼノさんと出会い、アリの街の特に子どもたちのために奉仕するようになりました。彼女の活動は「蟻の街のマリア」としてマスコミにも取り上げられ、その名を知られるようになります。結核の療養のため、一度はアリの街を離れましたが、さらに病状が悪化するとアリの街に移り住み、そこで28年の生涯を終えました。

資料展では、そんなアリの街の様子やゼノさんと北原怜子さんの姿を収めた写真約70枚、当時の新聞や雑誌の記事、さらには北原怜子さんの胸像をはじめとするアリの街ゆかりの物品が数多く展示され、大勢の来場者が見入っていました。

この資料展を企画したのは地元浅草の方々で、彼らはカトリック信者ではありません。それどころか、最初はゼノさんのことも北原怜子さんのことも知らなかったそうです。しかし、ルポ『風の使者ゼノ』(石飛仁著)を読んで感銘を受け、このような素晴らしい人たちの存在と活動を、若い人たちにぜひ伝えたいとの思いで企画し、ポーランド大使館やローマ教皇庁からの協力も得て実現させたのだそうです。

 この日は、北原怜子さんが亡くなって60年目の命日ということで、資料展の最後に全員で隅田公園内にあるアリの街の跡地まで移動し、追悼式を行いました。写真を飾り、ろうそくを灯し、聖歌を歌い、献花をしました。

ストラだけ掛けてそこにいればいいと言われていた私は、端の方でお飾りとしてボサッと突っ立っていたのですが、突然司会者に祈れと言われ、へどもどしてしまいました。しかし、そのおかげで心に残る思い出深い追悼集会になりました。


「えきゅぷろ!」はどう作られるのか? 実行委員カトリック代表が抱く、想いと展望

宗教改革500周年を迎えた2017年。教会が対立から対話への大きな足跡を残しつつある中、日本でもそれを象徴するイベントが数多く開催された。中でも「えきゅぷろ!」は次代の諸教派を担う青年たちが活躍したことで大いに注目された。当日の様子はすでにキリスト教各メディアで詳しく報道されている。

前回に引き続き、実行委員会カトリック代表の黒須優理菜(くろす・ゆりな)さんにイベントの今後の展望についての話を聞く。これからのエキュメニカル運動、教会一致運動の姿と困難、やりがいについて考えたい。

※前回の内容はこちらです。

 

来年度からの話が出てきました。
展望のようなものはありますか?

次回以降の方針はまだこれからです。実行委員会の代表も、2017年はカトリックでしたが毎年各教派で回していきたいですね。代表が決まれば方針も決めていくことになります。開催日も遅くとも2月にはお知らせできると思います。

また、2017年はカトリックの教会が会場でしたが、他教派の教会にも行ってみたいですね。諸教派のたくさんの青年に集まってほしいので、どこででもというわけにはいきませんが……それに教会のスケジュールもありますよね。次回のことはこれからですね。

礼拝のスタイルも毎回変わるかもしれないし。一回目だったからこそ成功したのだとも思うし、二回目以降もうまくいくかはわからない。

次がまだ二回目ですからこれからの話になりますけれど、今できているのは東京だけですが、場合によって全国展開するのかな、とか、そんな話もちょっとは出ています。今の段階では無理なんですが、地方開催や、あるいは参加者が増えていけば支部を作るとか、各地でいろんなイベントができるようになるかもしれません。

 

当日の黒須さん(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

野心的な展望ですね。
各地の青年たちにとって参考例になれるといいですね。

はい。ですから、その礎になるためにも私たちは続けていかなればなりません。私たちが全国規模のイベントを計画するというよりは、このようなイベントが東京だけでなく各地でも開催されたらいいと思います。

「えきゅぷろ!」のような大きなイベントは年一回ですが、月一回でも、たとえばみんなで他教派の礼拝に出席してみるということもしてみたいですね。お互いに呼びかけて。

 

超教派の青年会が出来たら、多くの教会からお呼ばれされそうです。

招いてもらえるなら行きやすいですしね。

カトリックがエキュメニカルな活動に入ってくること自体がルーテル教会や日本基督教団の人たちには新鮮だったみたいです。「まさかカトリックがオッケーしてくれるとは」みたいな。本当にそういう反応があったんです。全体の顔合わせのときに、向こうの青年たちとしてはカトリックに負担を押し付けちゃったんじゃないか、カトリックは拒絶するんじゃないかと、すごく心配していたようです。しかしカトリックの青年が乗り気だと知って、堂々と前に進んでいける仲間になったと思います。

 

次回以降、イベントをよくするためにもトークセッションのテーマは大事だと思います。
やりたいことはありますか?

今回(2017年)も、トークセッションのテーマを決めるのはとても大変だったんです。
幅が広すぎたり、逆にあんまりセンシティブな話題には踏み込めなさそうとか。

先生方や神父様に、キリスト者の恋愛観や結婚観についてのテーマを提出したときに、「これって私たちに聞くことなの?」って言われたりして。必ずしも聖職者や教職者だから語るものということでもなかったんです。

宗教改革やエキュメニズムや日本社会とキリスト者などは大きなテーマですけど、若者向けのテーマをどう話し合っていくかっていうのは意外と難しくて。結局、当日語ってもらった内容は、牧師や司祭の人たちの召命とか、どうしてその道に進んだのかとか、なぜその教派だったのかとか、そういう話になりましたね。

しかし、そもそもイベントというのは毎年同じプログラムを繰り返していては意味がありません。トークセッション、パンの分かち合い、合同礼拝は欠かしたくはないとは思いますが、しかしどう変化させていくか、どう飽きずにみんなでやっていくかは考えていかないといけないと思います。

お互いが学びあうことをしないと意味がないから、トークセッションも二回目三回目となれば少しずつ踏み込んで、お互いがちょっと「うっ」てなる部分やちょっと嫌だなと思うこともあるかもしれないけど、ちょっとずつ踏み込んでいきたいなとは思います。

 

今回の「えきゅぷろ!」を通して、黒須さん自身の中で起きた変化のようなものはありましたか?

合同礼拝後の集合写真(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

実は、私自身もこの一年でやっと他教派の皆さんと接することへの恐れがなくなったんです。怖かったんです。私はカトリックしか知りませんでしたが、神学部に入る前は信仰の形っていろいろあってもいいじゃんと素朴に思っていました。しかしカトリックのことを勉強し始めてからいつの間にか譲れないものがしっかり出来ていて。

私は秘跡をすごく大事にしたい。ゆるしの秘跡や病者の塗油がないと辛い。実際にそれで私は救われたなと感じているので、それを否定されると思うと怖かった。そして別の教派の人たちの前で自分が排他的な人間になってしまうんじゃないかというのがもっと怖くて。場合によっては、他の教派の青年たちと接するときにちょっとした発言で相手を傷つけてしまうんじゃないかとか。

自分が傷つく分にはまだいいんですけど、相手に嫌な思いをさせるんじゃないかっていうのは一番怖かった。実は、すごくビクビクしながらヤンフェスも出てたんです(笑)。「えきゅぷろ!」のミーティングのときだってお互いの考え方が読めないから、まさに手探りでした。聖餐の考え方について話し合っていたときもすごく辛くて。他教派のみんなが割りとあっけらかんとしていてくれたからどうにかなりましたけど……。

そんな思いが、やっと「えきゅぷろ!」を通して乗り越えられたかな。今は他教派の青年たちのことも大好きだし、彼らの信仰の熱さというか、熱量というものを感じるし、向こうも私たちの活動をすごく評価してくれるし。お互いが尊重し合うことで、「それは違うよね」というような言い方をしなかったから、怖くなくなったかなと思います。

 

20世紀のエキュメニズムの議論を実体験として経験したイベントになったのかもしれませんね。

視界が広くなりました。私の狭まっていたカトリック観が、広がっていったような。深まりながら広がりました。

「教会の外に救いなし」って言葉がありますよね(注)。でも、第二バチカン公会議(『教会憲章』16項)も言っていますが、自分の落ち度なく教会を知らない人は、この言葉にはあてはまりません。「カトリック」という言葉を知っていても中身を知らない人はこの言葉には当てはまらないというのが、今回私が見出した意味です。

キリスト教の諸教派に限らず様々な諸宗教も存在しますけど、中身を知らなかったら選びようがないじゃないですか。まず私たちはお互いが何を大事にしているかを知るべきだし、その中で、やっぱり同じ福音に生きているんだと感じられるなら、やり方が異なっていても、同じ生き方をしてるんだと。そう分かれば、向こう側には救いはないんだなんて思う必要もないんです。わたしがカトリックの教義を譲ってしまったら私が救いにあずかれないかもしれない、その逆に私がカトリックの教義にこだわることで他教派の人たちが救いにあずかれなくなるかもしれない、そんな発想にこだわる必要はないんだと、そんな恐れもなくなるんだなと。そんなことを考えました。

 

注:「教会の外に救いなし」 救いのために教会が必要であることを主張するために、近代まで用いられた教理上の公理。ノアの箱舟にいた者だけが救われたことを述べる1ペトロ書3章20節を根拠に、3世紀の教父キプリアヌスらによって述べられた。当初この言葉は教会外の洗礼の無効など、異端と教会の一致を説く文脈で用いられたが、5~6世紀の教父ルスペのフルゲンティウスはこの言葉を異端、異教徒らの破滅を説く否定的な文脈で使用し、同様の文脈で長く用いられた。19世紀の教皇ピウス9世、20世紀の教皇ピウス12世らにより徐々に方針転換、第二バチカン公会議『教会憲章』16項は「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないとはいえ、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神のみ心を、恵みの働きのもとに行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」と説き、もはやこの言葉を用いることなく「教会は救いの普遍的秘跡」(同48項)とする。

 

諸教派に分かれた地上の教会の痛みを肌で感じたわけですね。
他教派の青年たちにもそういう変化はあったのでしょうか。

想いを語ってくださった黒須優理菜さん

実際のところはあまりわからないですけど……。新しいところに踏み込んでいくって、怖いじゃないですか。これから新しい教派を招き入れるようになったら、同じような痛みを毎回経験するんだろうと思うんですけど、最初に比べれば緩和されていくのかな。

遠い将来、教会が本当に一致していくことになったり統合されることになったら、きっとみんなとまどうだろうし、自分がなくされるか相手をなくすかのどっちかになるのかもしれませんよね。でも教派を超えた繋がりで協働を続けていれば、そういう恐れ自体や垣根をなくしていくことに結果的にはなるんじゃないかと思うんです。

私はこの一年そういう感じで本当に距離感を計りながらやってきた感じです。

その後のかかわりの中で、「優理菜もルーテルになっちゃえば」って言われたりして(笑)。あ、そういう軽い気持ちで教会に行ってもいいんだって思ったりもしました。そのくらい気軽にお互いの教会に足を運べる仲になれたんだなって。

 

熱い想いを聞かせていただきました。

スタッフ同士でも話していますが、今回の「えきゅぷろ!」は歴史的な一歩だと思っています。キリスト教が一致していく動きがどんどん大きくなって、何十年後、何百年後かの教科書や神学書に、日本でこんな「えきゅぷろ!」のような動きがあったのだと、本当に端っこにでも書いてもらえたら嬉しい。青年たちがこうして教派を超えて活動するのは日本ではもしかしたら初めてでしょうし、自分たちが歴史を動かしているんだって感覚でやっていけることってすごくありがたい。これからもそういうやりがいを持って進んでいけたらいいなと思っています。

(了)

聞き手(文責):石原良明(webマガジンAMOR編集部)

 


「えきゅぷろ!」はどう作られたのか? 実行委員カトリック代表がふりかえる、本音と葛藤

宗教改革500周年を迎えた2017年。教会が対立から対話への大きな足跡を残しつつある中、日本でもそれを象徴するイベントが数多く開催された。中でも「えきゅぷろ!」は次代の諸教派を担う青年たちが活躍したことで大いに注目された。当日の様子はすでにキリスト教各メディアで詳しく報道されている。

「えきゅぷろ!」は本年2018年も開催される見通しとなっており、その実行委員会でカトリック青年代表の黒須優理菜(くろす・ゆりな)さんに、イベントを振り返りつつ今後の展望について話を聞いた。これからのエキュメニカル運動、教会一致運動の姿と困難、やりがいについて考えたい。

 

 まず、「えきゅぷろ!」(エキュメニカルプロジェクト)について詳しく教えてください。

2017年8月19日にカトリック成城教会で開催された、超教派の青年によるイベントです。当日は120人以上の青年を様々な教派からお迎えしました。

えきゅぷろ!実行委員会・カトリック青年代表の黒須優理菜さん

そもそも、宗教改革500年の2017年、いろんな教派の青年が集まって活動しようということになったのですが、発端はルーテル教会の青年たちでした。私は2016年のヤンフェス(注1)にカトリックの青年として招かれました。そのときにルーテル教会の意志として2017年に向けてエキュメニズムの活動をしていきたいと聞かされ、カトリック側にその後持ち帰った際、学び合えたらいいよねという話になりました。私はそもそもプロテスタントのことはよく知りませんでしたし、存在や違いは知ってはいたけど対立しているイメージが先行して敢えて触れてこなかったんです。

それと同じ頃にカトリック清瀬教会で、カトリックとプロテスタントについての勉強会をしようという動きがあって、そこの青年から私に協力してほしいという話が来たんです。もし可能ならばということで。その話をルーテル教会の青年に繋いだところ、せっかくなら大きなイベントをやろうということになりました。

あんなに大きい大会になるとは夢にも思っていなかったですね。せいぜい交流イベントくらいかと。ちなみに日本基督教団の青年たちとの繋がりもヤンフェスが一つのきっかけでしたし、それ以前から交流してきた青年たちもいました。

 

注1:「ヤング・フェスティバル」 1977年に日本福音ルーテル教会市ヶ谷教会高校生会を中心に始まり、その後名称変更。2012年に市ヶ谷教会の宣教60周年を記念する形で復刻、2016年に行われた5回目のイベントでは他教派にも広く参加を呼びかけた。

 

それでイベントに向けて体制を整えて行ったわけですね。
当日のプログラムはずいぶん練りこまれていて、考え抜かれた内容でした。

私は礼拝とパンの分かち合いプログラムの担当チームでした。当初から礼拝は何かしらの形でしたかったんです。それをしないと意味がないですから。それに先生方のトークセッションを加えての二本立てにしていくことになりました。

礼拝のプログラムを作る段階はすごく大変でしたね。毎回ミーティングでは4~5時間ぶっ通しで議論しました。それでもまとまらなくて。

一番の問題は聖餐式、パンの扱いです。これをどうするか。三教派しかいないのに聖餐の頻度も意味合いもぜんぜん違うわけですし、私たちカトリックとしては譲れないところのものがあったんです。これはキリストの体である、という教義を否定したくなかった。どうして一緒に聖餐できないのかというと、実体変化によってパンではなくなるからです(注2)。キリストの体になります。ルーテル教会ではパンでもありキリストの体であるという共在説を採ります。日本基督教団からは象徴説という言葉を教えてもらいましたが、でも教団内部の教派によってさらにそれぞれの理解がある。

当日のグループディスカッションの様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

他教派の青年たちは、カトリックさえ良ければ礼拝の中で聖餐できるよねっていう立場だったのですが、同じものを食べていることにならないじゃないですか、それって。それでは意味がないと思ったんです。カトリックのミサの感謝の典礼でパンを分かち合うというのは神と人との繋がりとともに、教会の中の私たちが同じものにあずかるということに意味があると思うんです。同じものを食べていても違う理解で食べているとしたら、それは別のものを頂いていることになると思いました。それでは意味がなくなってしまうんです。私たちカトリックとしては、パンをご聖体、キリストの体ではないと考えるのには抵抗がありました。譲れませんよね。

それで礼拝の中では聖餐はしない方向が決まりました。世界的な大きな合同礼拝でやってないものを青年だけで決めてできるわけがありません。やってしまって教義的に大丈夫なのかも判断できないし。それで礼拝と分けたんです。

 

注2:「実体変化」 聖変化、化体説とも。主の晩餐の制定句(1コリント11章23~25節、ルカ22章14~20節、マタイ26章26~29節、マルコ14章22~25節)に基づいて、キリスト者は古代から、祭儀で拝領されるものはイエスの体と血であると確信してきた。その神学的説明は早くから哲学用語を用いて行われ、「実体」が変化するという表現は5世紀後半から現れる。12世紀から教会公文書にも用いられ、トマス・アクィナスによってアリストテレス哲学の用語で補強された。宗教改革者たちは思弁的に過ぎるとしてこれを退け新たな聖餐論を展開したが、カトリック教会はトリエント公会議で「パンとぶどう酒の聖別の後、キリストが真に、現実に、実体的に (substantialiter) パンとぶどう酒の形色 (species) のもとにあり」、「聖別によってパンの実体がことごとくキリストの体の実体に変化し、ぶどう酒の実体がことごとくその血の実体に変化する」と宣言し、実体変化説の路線を確認。パンとぶどう酒の究極的な現実は、人間にご自身をお与えになるキリストご自身であるということが表明されている。

 

そういったこだわりがイベントそのものを一段と深めたと思います。

使徒言行録(2章46~47節)にある通りですが、同じ場所で同じ食卓を囲んで祈るというのは教会の原点だから、せめてそれはしたいよねって話し合いを続けました。

教会の原点に立ち戻りたい。そこでは教派になんか分かれてないし、もちろん「キリスト教」が確立していたかという別の問題はありますけど、やっぱり一緒に食卓を囲んで祈るという原点に立ち戻るということで、種無しパンを焼いて、礼拝の外で、一緒に食べるという企画になりました。

逆に、礼拝の中で同じものを食べることにこだわるなら、パン以外なら何を食べても抵触しないんじゃないかって意見もあったくらいです。疲れてましたね。そうしてようやく礼拝の外でならみんなでパン食べれるじゃんって気付いたんです。

そのような話し合いがあったからこそ、お互いがパンや聖餐式をどう考えているのか、知る機会になったのだと思います。

「えきゅぷろ!」の収穫は、お互いの違いがわかったことです。何が違って対立していたのか。500年間、私たちの間で壁になっていたのは何だったのか。その壁そのものを知ることができました。それがあっても、結局最終的に同じものを信じていたんだってことにたどり着けたかなって。教義の統一は青年の仕事ではないかもしれませんが、私たちが信じてるのは同じキリストです。そこへの道が違うだけなんだろうなって思った。全部を一致させるというよりは、協働することができるというのが私たちにとっての答えです。教義的にどっちかにそろえることも将来的にはありえるのかもわかりませんけど、青年の段階では、やり方は違っても同じ方向を向いているんだ、ということを再確認することにすごく価値があるんじゃないかと思っています。

 

当日までこぎつけるのは大変だったことと思います。

実は私はあんまり(笑)。むしろいろんな人たちと連絡を取り合っていたメインの方々は大変だったと思います。代表は走り回っていましたし。青年だけではできなかったことです。チームプレーでやれたことはもちろんですが、先生方(カトリック:福島一基神父、シスター原敬子、日本福音ルーテル教会:浅野直樹牧師、日本基督教団:堀川樹牧師)が協力的だったのが大きいですね。パンフレットの宗教改革についての説明とか。これ作るの、めちゃくちゃ大変だったんですよ。私は上智で習ったことしか知らなかったから。作った文章を半分削られました。カトリックの人が書いたと丸わかりになるので、たとえ事実として合っていたとしても、視点が変われば別の見え方になるし、反発も出るかもしれません。それでルーテル教会の浅野直樹先生にご同席頂いて、書きながら校閲して頂きました。トークセッションでご登壇頂いたシスター原先生(上智大学神学部助教)にもご覧頂いたんですけど、シスターからは、全面的に向こうに合わせろということでした。逆にそこでカトリックが譲れないとか言ったら「えきゅぷろ!」が台無しになっちゃうし。お互いが歩み寄るためにはそれが本当に重要かなって。

当日の様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

宗教改革についての説明をはじめ、合同礼拝の式次第もそうなんですが、どこの教派にも寄りすぎていないんです。それで批判的な感想はほとんどなかったですね。すごく良かったとみなさん言って下さいました。

礼拝の話に戻りますが、3つの教派のスタイルから引っ張って作り上げたんです。日本基督教団の「証し」、礼拝を挟む前奏と後奏、聖書朗読があって祈って歌ってを繰り返すスタイルや、さらに全体のバランスに合わせてそれを3回に収めようとか、信仰宣言はルーテル教会に合わせるとか、主の祈りはカトリックと聖公会が使ってるものに合わせようとか。

聖歌の選曲もその姿勢で貫いています。今回の実行委員会の三教派からバランスよく採用しています。

それで、どの教派の人にとってもパンフレットを見ないとわからないものに仕上がりました。それが公平でよかったかなって思います。カトリックからは共同祈願を「教会の祈り」として取り入れてもらえました。そしたら他の教派のみんなが「カトリックに合わせて祈りは短くしよう」って。

お互いにすり合わせた結果ですね。

 

すり合わせるというより、お互いに高めあって、新しい合同礼拝のスタイルが出来たのではないでしょうか。

今後は、もっと他の教派にも入ってもらって豊かにしていきたいですね。

しかし、そもそもルーテル教会とカトリックが元々すごく近いから出来たことなのもかもしれません。それに日本基督教団も理解のある人たちが関わってくれていたんです。来年度は、聖公会やもっといろいろな教派、たくさんの方と交わる機会にできたらと思います。

つづく

聞き手(文責):石原良明(webマガジンAMOR編集部)


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」3

前回の内容はこちらです。

 

4.スコセッシが伝えたかったものとは

私はこの映画を試写室で観たのですが、この試写会はキリスト教関係者の試写会でしたので、私の他にプロテスタントの牧師先生たちも来ておられました。そのうちの一人が映画を見終わって私に、「映画、どうでした?」と聞くのです。おそらく、「これが晴佐久か」と思って、面白半分に反応を見ていたのでしょう。そこで私は思いの丈を、今申し上げたようなことを声高に言いました。「こういう話って、今もありますよね? こういう原理主義的な教えで、人びとを縛り付けている教会って沢山ありますよね?」と。私は正直、少々苛立っていたのです。映画が終わったときに、前に座っていた別の牧師さんが、「いやー、こんな迫害に合ったら、私は自分の信仰を守れるかどうか不安ですね」と言って、もう一人が、「そんなことがないように、お祈りいたしましょう」と答えるのです。

私はこの二人の感想を聞いて愕然としました。私は全く違う感想だったのです。私は自分の信仰が守れるかどうかなんてまったく関心がなくて、「この人たちを、どうやったら救えるだろうか」ということしか頭にありませんでした。「信仰が守れるかどうか」なんて、結局自分の話だからです。果たして、これらの発言に愛があるでしょうか。少なくとも、スコセッシが伝えたかったこととは違うと思います。スコセッシは、かつてこうした苛烈な現実があったということを取り上げながら、現代の分断の世界に問題提起をしているのです。スコセッシが映したのは、同時代人としてのキリシタンです。「あなた方は何を信じているのか」「愛はあるのか」と。キチジロー以上に苦しんで、うちのめされた主人公ロドリゴは、まったく完全な無力に陥って、そうしてはじめてイエスの愛、真の普遍主義的なキリスト教に目覚め始めた、というところで映画は終わるのだと思います。

スコセッシはアメリカのカトリック信者です。イタリアのシチリア島出身の移民の家に生まれています。以前若いころに、ちょっと挑発的なキリスト教映画を作っていたことがあり、しばらくカトリック教会から批判されていたのですが、彼自身、人生の苦しみの中で、宗教的な考え方も変わっていったのです。スコセッシは、カトリックの側の原理主義的な教え、「イスラームの人は救われない」といったような教えと直面して、思うところがあったようです。「本当の福音とは何か」「この時代を救えるのは何か」ということを問い、私の言う普遍主義的な宗教を希求しつつも、「この教えの他に救いはない」という原理主義的なキリスト教には距離をとっていたと思います。「宗教はどれも原理主義的なものばかりで、他の宗教を認めず、このままで戦争と暴力が世に満ちてしまうではないか。いったいどうすればいいのか」と、悩んでいたわけです。あれだけの賢い監督ですから、当然そのような思惟を持っていたわけです。

そういう時期に、日本を代表するカトリック作家である遠藤周作の『沈黙』を読んで感銘を受け、お互いカトリック同士でもある遠藤周作とスコセッシが会ったときに意気投合し、「この作品を必ず映画にする」と約束をしたのです。それから四半世紀以上経って、遠藤は天上の人になりましたが、スコセッシはついに遠藤との約束を果たしたのです。さすがはシチリア系、約束を破りません。イタリアのマフィア映画のようにです(笑)。

 

5.原理主義に陥ることなく、透明な思想同士の連帯を

私は以前より、縦割りの宗教ではなく横割りの宗教を提唱しています。縦割りというのは、「私はイスラームです」「私はカトリックです」「私はプロテスタントです」「私は仏教です」「私はヒンドゥー教です」などといった、宗教や教派、宗派別にとらえる方法です。原理主義的な傾向というのは、どの宗教の中にもあるもので、各宗教の中にグラデーションがあるように思います。どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。ここに愛はありません。

カトリックは1960年代の第二バチカン公会議を経て、普遍主義的な透明感のある教えを極めようとしていますが、その一方で、その反動からか、「教会の他に救いなし」を地で行くような原理主義的なカトリックもまたあるように見えます。しかし大多数は、透明に近いカトリックであると信じたい。透明になると横同士つながることができるのです。対話することができるのです。見通しがいいからです。一緒に物事を見たり考えたりすることができるわけです。各宗教の透明な者同士の連帯が生まれてきます。いわゆる横の線です。これが私の言う横割りの宗教です。ある意味、この横の線で見てみると、同じ教派でも、この透明と黒は別の宗教のように見えます。この透明な者同士の連帯、普遍主義同士の連帯をきちんとやっていけるようにするのが私の仕事であると思っていますし、またイエスこそがこうした普遍主義の徹底をやっていたのではないでしょうか。

パウロも「ユダヤ人もギリシャ人もない」と言っていますが、「主人か奴隷か」「男か女か」という二元論的な縦の線に囚われるのではなく、「皆、神様に愛されている、赦されている」という横の線を大切にしましょうということなのです。決して、宗教を透明と黒とに二分するのではありません。透明に近い思想の人たちは、暗黒な原理主義に苦しんでいる人たちを救い出さなければならないのです。黒から透明に近いグラデーションに近づけなければなりません。イエスはそうした、透明へと向かうベクトル、普遍主義へと向かうベクトルを示しています。私はそれが愛だと考えています。普遍主義者が原理主義者を救わなければ、ますます原理主義が世の中に増えて、すべての人を敵味方に分ける二元論的な発想が世を支配し、しまいには核ミサイル合戦になって世界は終わってしまいます。そうした破局を防ぐのが、普遍主義者の使命だと考えています。皆さんも、普遍主義の同志、レジスタンス、あるいは「福音家族」として、ともに闘いましょう。

(了)

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)