第42回日本カトリック映画賞レポート

2018年5月12日、第42回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、なかのZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の授賞作は、長谷井宏紀監督『ブランカとギター弾き』です。また、シグニス特別賞が松本准平監督『パーフェクト・レボリューション』に贈られました。

 

『パーフェクト・レボリューション』授賞理由

SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は『パーフェクト・レボリューション』の予告編を観て、「初めてこの映画を観たときの感動がよみがえりました」と話し始め、続けて「人間は素晴らしい。可能性がある。人と人が出会うことは素晴らしい。未来がある。私たちは本当に何があっても神様によって出会わされている、そのような家族なんだ。そんな思いを持たせてもらった映画です」と語りました。

シグニス特別賞『パーフェクト・レボリューション』の松本准平監督

この映画は、体の障害を持っている人と心の障害を持っている人の出会いを描いた作品ですが、私たちにも躊躇や恐れ、ひるむ気持ちがあり、障害を持っている人たちと上手くつながったり向き合ったりできないことから、「もしかして、私たちみんな恐れているという意味では障害者なんじゃないか」と晴佐久神父は指摘します。

そして、「そこを超えてつながることができたら、この世界はどんなに変わっていくだろうと。まさにパーフェクト・レボリューション。完璧な、完全な革命。神の国はもうすぐそこだ。私たちが障害を超えて、恐れを超えて、つながるならば」と、そのような可能性を見せてくれたことに対する感謝を述べました。

 

『ブランカとギター弾き』授賞理由

次に『ブランカとギター弾き』の授賞理由について、最近涙もろくなったという晴佐久神父は「もう何か申し上げるまでもないという思いでここに立っております」と言い、「今の自分にとって、私たちにとって、教会にとって、この世界にとって、一番大事なことがこの映画の中にこめられている。それを今観て改めて感じて、やっぱり私たちにとって人と人が本当に家族としてつながる、それが何より価値のあることなんだという、当たり前と言えば当たり前なんだけれども、一番この世界が忘れてしまっていることを思い起こさせてくれた」と力強く語りました。

第42回日本カトリック映画賞『ブランカとギター弾き』の長谷井宏紀監督

また、「最後にまったく血縁じゃない三人が、血縁の家族以上につながっているシーンは、私たちにとって本当に大きな励まし、希望、私たちもできるはずというようなそんな力になると、そう感じました」とも述べています。

この作品は上映前にSIGNIS JAPANの土屋至会長から紹介があったように、舞台も役者も言語もすべてフィリピンであり、唯一の日本的な要素は監督が日本人だということです。それについて晴佐久神父は、現在ご自身が力を入れている「福音家族」について説明したあとで、「この映画がそのような本当の家族をもたらす力を私たちに与えてくださるという思いで、この作品に自信をこめて、皆さんも納得していただけたと思いますけれども、シグニスから日本カトリック映画賞を差し上げることといたしました」と、この映画の授賞理由を述べました。

 

ピーターとの出会いと奇跡

晴佐久神父と長谷井監督の対談は、「いつもですと、もうちょっと冷静にお話しができるんですけど」という晴佐久神父のあふれる想いから始まりました。上映が終わったあとの休憩時間に初めて監督とお会いしたという晴佐久神父は、感激で涙が止まらなかったそうです。

話はまず、晴佐久神父の「どうしても聞きたいこと」であったピーターの話題から。映画の中のピーターを演じているのは、キャラクターと同じ名前のピーター・ミラリという人物です。生まれつき盲目だった彼は、8歳で両親を亡くして孤児となり、生きるためにお金を道端で集めて回ることから人生が始まったといいます。

そんなピーターと長谷井監督の出会いは、マニラにあるキアポ教会の地下通路でした。「彼は小っちゃい子にお金の番をさせて歌ってたんですけど、そのときに『この人と映画を作ってみたいな』と」監督は思ったそうです。それは、偶然にも短編映画の登場人物である盲目のギター弾きを演じる役者を探していたときでした。その後、『ブランカとギター弾き』を撮影するためにピーターを一ヶ月半かけて探し、再会。見つけたときは非常に嬉しかったし、ピーターも「また帰ってきたんだね」と喜んでいたそうです。

授賞式の様子

晴佐久神父が「監督とピーターとの出会いがね、すべてじゃないですか。ほかの誰か、役者がやってもこういう映画にならなかったと思うし、最後に『ピーターの魂は映画と共に全世界を旅している』っていうのを読んで、またぐっときて」「神がかってるっていうか、特別な力がすごく働いている作品だなっていうのは観ていてとっても思いました」と述べると、長谷井監督も同意し、「ぼくも撮影する日々の中で、本当にそういう奇跡がきらきらと毎日見えていたので、本当に良い時間を過ごさせてもらったなって」と話しました。

この映画と同じようなことがピーターの人生に起こっていたというのも、奇跡の一つでしょう。ピーターがキアポ教会の前でギターを弾いていると、11歳の女の子が毎日自分の近くに来て歌を歌い始めたそうです。ピーターは「自分はそれでお金を稼いでいるから来るんじゃない」と言ったそうですが、それでも毎日女の子が来るので一緒に稼ごうということになり、教会の前で一緒に歌っていました。そのうち、マカティのクラブのオーナーに誘われてそこでパフォーマンスをしていると、その女の子は大阪から来たカップルに養子に迎えられていった、ということがあったそうです。

何も知らずに脚本を書いていた監督は「そのときはもう鳥肌が立つというか。結局自分が書いてることに何かを招き入れたのか、それとも、何かある場所に招かれたのか、それはちょっとどっちなのかわからないですけど」と言うと、「何かそういうものを呼び込む力というか、選らばれし者みたいなオーラがあるような気がしますけどね」と晴佐久神父はコメントしました。

 

セバスチャンがいた!

ジョマル・ピスヨ演じるセバスチャンは晴佐久神父のお気に入りキャラクターですが、彼を見つけるまでに二ヶ月かかったそうです。「11歳の歌を歌える少女ブランカ」の役に「25歳のアクロバットができる男性」が来るなど、オーディションがなかなか上手くいかず、最終的には監督自ら街を歩きながら役者を探したとのこと。

最初は通り過ぎてしまったそうですが、何かぴんと来るものがあったらしく、引き返して演技をしてもらったところ、「アドリブがどんどん入ってきちゃって止まらない」「フィリピンのクルーも驚いていて、『彼は本当に才能がある役者だ』と言っていた」というほど天性の才能を持っていたと言います。そのとき、監督は「セバスチャンいた。いたんだ」と思ったとか。撮影中に急にいなくなるというトラブルもありましたが(海で泳いでいたそうです)、撮影を始めると一発OKというプロフェッショナルぶりも発揮したそうです。

SIGNIS JAPAN顧問司祭の晴佐久昌英神父

晴佐久神父は「自由で、やさしくて、そして一番大切なことを本人が知らずににじませている存在みたいな、とても新鮮なものを感じました。セバスチャン見つけてくれてありがとう。だから最後にセバスチャンが一緒にいて、またあれがツボでね」と嬉しそうに語りましたが、当初そのラストシーンにセバスチャンは出てこない予定だったそうです。「あの最後のカットはブランカの笑顔と涙っていうのは決めてたんですけど、あそこにセバスチャンはいなかった。ただ撮影をしていく中で、セバスチャンっていうものが本当に大きくなって」と監督は言います。

そのほかにも即興の演技やシーンがいくつも生まれたとのことですが、現場には通訳の人がいなかったため、「本当に言葉じゃなくて、映画って感覚っていうか感情っていうか、それが本当にとても重要」だと感じたとのことでした。

 

子どもたちの本当の豊かさや幸せを伝えたい

「今、日本の若い人たちはすごく狭い世界で常識の中にとらわれていますが、監督自身もお若いのに、こういう自由な発想があったり、フィリピンのストリートチルドレンの中に飛び込んでいったりして、神が降りてくる映画を作っちゃう。その秘密がね、どこにあるんだろうってすごく不思議な気がするんですよね」と疑問を投げかけた晴佐久神父。

それに対して長谷井監督は、基本的にお金を持たない旅なので、いろんな国のスラムや道端で人と出会ってきたと言い、中でもフィリピンのゴミの山で出会った8歳の少年のエピソードを挙げました。なんでも、ゴミの山で仕事をしていた子どもたちにアイスクリームを買うためにポケットから財布を出そうとしたところ、その少年に止められ、「コウキの分は俺がおごるよ」と言われたそうです。そのとき、監督は「この人たちかっこいいなって。世代っていうか、年齢ではないというか。本当にぼくはあそこの子どもたちの力に素晴らしいものを見た」と思い、「それをやっぱりお伝えしたいなっていう気持ちで(この映画を作った)」と言います。

さらに、「子どもたちの中に本当にすごく光る美しいものがあって、彼らの視点から社会を見たときに、何か伝えられるものはないかなっていうのがこの映画で」とも語り、「やっぱり子どもたちの本当の豊かさというか幸せ、そういうことを訴える映画っていうのが監督の今後の一つの(目標ですか)」と晴佐久神父が問いかけると、「そうですね。一つ、それは続けていきたいなと」と監督は答えていました。

 

対談の様子

長谷井監督の不思議な魅力

会長挨拶の中で、『パーフェクト・レボリューション』の松本監督がクリスチャンであることが紹介されましたが、実は長谷井監督もクリスチャンです。「先ほどうかがったんですけど、洗礼を受けてらっしゃる?」と晴佐久神父が尋ねると、「そうなんですよ。セルビア正教」と答えた長谷井監督。

長谷井監督の短編映画を気に入った映画監督がセルビアでリゾート経営をしており、そこで2年ほど食事と寝る場所を提供してくださったそうです。そのときに「コウキ、洗礼を受けてみる?」と言われ、「やってみようかな」と思ったのだとか。「セルビアの新聞の一面に載ったんですよ。日本人が正教の洗礼を受けたっていうのが、本当にもう新聞の一面にばーんと。セルビアにいた日本の大使館からも電話がかかってきて、長谷井さん今めっちゃ注目受けてますよって(言われた)」と当時のことを振り返りました。

そんな監督について、晴佐久神父は「何か最初ぱっとお会いしたときに、イエスさまに会ったような雰囲気が漂っていて。不思議な方ですよね」と印象を語り、「今ここの会場内のみんながきっとこの監督を応援したいってね、心から思っている」と続けると、会場からは拍手が起こりました。

最後に、晴佐久神父は「是非一層の素晴らしい作品を送り出してほしいと思いますし、ともかくピーターに会わせてくれてありがとう。ブランカに、セバスチャンに会わせてくれてありがとう。そういう思いでいっぱいです」と感謝を述べました。そして、「私たちももうちょっと街角ではっと出会うね、セバスチャンと深いかかわりを持ちたいし、通り過ぎるんじゃなく、ピーターと何かこう家族のように触れ合えるそんな恵み」を大事にしたいと言うと、「そうですね。それが広がっていけばどんどん幸せな力が広がっていって、過ごしやすい日常がどんどん増えていくんじゃないかなと」と長谷井監督も同意し、対談を終えました。

(文:高原夏希=AMOR編集部/写真提供:生川一哉)

 


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 5

戦争の消えない傷

伊藤 直接クメール・ルージュはご存じないにしても、その直後ぐらいからカンボジアの激動みたいなものは見ていらしたんですね。

後藤 そうです。一人ひとりはほとんどしゃべらないんですけれども、例えば、私の子どもだった子は、ベトナム兵をナイフで殺しているとか、同じ村の中で、あの人がポル・ポトについた、自分の親はあの人たちに殺されたというのがあります。でも、今はみんな黙ってしまって、心の中に持っていてもお互いに話しません。やはりトラウマとして残っています。あれはどうやって解決していくんでしょうか。この方たちもいつか亡くなっていくでしょうから、そこまでいかないと消えないのかなという不安はあります。彼ら一人ひとりの中にある心の傷というのは、私が戦災にあって、すごい傷を受けて、それは今でも残っています、死ぬまで消えないと思っています、そのトラウマと同じようなものを彼らもみな持ち合わせています。ただ、平和に暮らすためにそれを表に出さないというだけです。

伊藤 ラーさんと神父様とのやりとりで、誰が考えてもラーさんの両親は殺されていると思うのを……。

後藤 それは失礼だと、生きているかも知れないのにというのは、彼の実感なんですね。

伊藤 人を3人殺したという話もありましたね。

後藤 鬱になってしまって、自殺寸前までいったんです。それで放っておいたら自殺するというので、精神病院に入れたんです。精神病院なら監視がついています。自殺させないために半年まではいきませんでしたが、入れました。

伊藤 戦争というのは、殺す殺されるという単純なものではない、深いものがありますね。

後藤 これは死ぬまで持ち続けなければならないんでしょうね。

伊藤 それを学校づくりということで、癒やしとおっしゃっていましたけれども……。

後藤 それしか方法がありませんでした。いくら言葉で慰めても、効き目ないでしょうね。

伊藤 ある意味学校をつくるということで、確実に癒やしはできるということでしょうか。

後藤 そんなことで、少しお手伝いできたかなと思っています。それは同時に私の癒やしなんですね。

伊藤 映画の最後に、自分の幸せを求めていると、他人を不幸にしてしまう。でも他人の幸せを求めていると、自分が幸せになっているとおっしゃっていますね。

後藤 それは実感ですね。

伊藤 司祭職の前にキリスト者、あるいはキリスト者ではなくても、人間というのは、そういう生き方をすることで、全員が幸せになれるということなんでしょうか。

後藤 そうですね。ですから、私の中では理屈はないです。戦争絶対反対なんです。戦争によって物事は何一つ解決しないどころか、戦争によって傷を負った人は、その傷を死ぬまで持ち続けますし、それで死んでいった人たちは無念だったと思います。だから戦争による解決というのは、私は信じません。

伊藤 理屈なしに絶対反対。

後藤 反対。何が何だって反対です。

伊藤 何が何でもですね。イエスさまもそういう生き方をなさっていますね。

後藤 よく、本当のキリスト教かと言われるんです。どうも阿弥陀の匂いがすると言われます。お前のキリスト教は阿弥陀のキリスト教ではないかと言われるんです。僕は小学校6年生まで、毎晩お経の練習をさせられて、阿弥陀様の前でお経を上げて、私の中には骨の髄までしみ込んでいて、そのしみ込んだ阿弥陀様の信仰を突き抜けてキリスト教に出会った。だから僕は仏教を否定してキリスト教になったのではなく、それを受け入れて、その向こうでキリスト教に出会ったと言っています。

父に対しても同じ。最後には死ななければならない。公会議の前でしたから、あの頃は洗礼を受けなければ救われないと私もそう教えていました。父が死んだ時は、公会議の前だったんです。その時はもう神父をやっていました。そうなると、父になんとか洗礼を授けなければならないということで、いよいよ危なくなってきたという時に、「坊主何年やった」「60年やった」「何をやっているんだ。新聞配達や牛乳配達をやっているのと同じだ。お経配達して、お布施もらって生活をしてきた」。

父は、法然、親鸞、蓮如のお三方が大好きでした。私も今好きなんですよ。そこで、「法然、親鸞、蓮如は極楽にはいらっしゃらないよ」。父はびっくりしてしまって、「どこにいるんだ」と言います。「当たり前だ。あんな立派な方は極楽を突き抜けて天国だ。お父さん、あなたは無理です。あなたは極楽止まりです」と言いました。すると、「俺はどうしたらいいんだ」と。ひどいですね。それは偽りの計画ですが、「あなた、そのままじゃダメです。洗礼を受けなさい」と言いました。だまして洗礼を受けさせたようなものですが、神様は許してくださるでしょうね。そういうわけで親不孝は一つ償ったつもりです。

母の方は全身焼けただれて、川に横たわっていたわけですから、この母はどうなるのかいつも心配でした。この母を天国に行ったときには探さなければならないと、キリスト教的なことを言っています。やはりすごく気になります。

伊藤 意図して仏教、真宗とキリスト教を融合したということではないんですね。

後藤 細胞にしみ込んでいて、何にも矛盾がありません。坊主が妻帯するとか、大いに結構ではないですか。その上で私がいるんですから。

伊藤 本日はいろいろとお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 4

善意の人たちに囲まれて

伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。

後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。

伊藤 では、養父として……。

後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。

あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。

「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。

そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。

今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。

伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。

後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。

伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。

後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。

それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。

伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。

後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。

伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。

後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。

伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。

後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。

伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。

後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。

 

 


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 3

父との関係

伊藤 今のお話ですと、お父様ですが、帰って来いと言われるまでは勘当だったわけですか。映画に、お母様のことを思うあまりにというエピソードがありましたけれど……。

後藤 父が再婚すると言った時に、親父をぶん殴っちゃったんです。親を殴るもんじゃないですね。今でも僕の方がトラウマを受けてしまっています。親を殴って平気で神父業をやっているというのは、非常に恥ずかしいですね。

伊藤 映画の中で、お父様は叙階式に来て下さっていますよね。

後藤 それも行かないと言っていたんですが、その日の朝、御聖堂に入るまで父が来ているのを知りませんでした。前の日に急に気が変わって行ってやろうということになったらしいんですね。

父はその時初めてカトリックの式に与ったんです。司式は京都の司教様だったんですが、「なんだ、あのスルメの帽子。ぜんまいの杖を持って。しかもあの指輪はヤクザの指輪ではないか」と言うんです。「あれは誰なんだ」と言うんです。「あれはカトリック教会の中でもえらい司教様というんだ」と説明しましたが、その程度でした。

関係は悪い関係ではないけれども、気持ちのどこかに父を疑っていました。つまり、同じ防空壕に入っていたのに、生きているのは父だけです。後は全員死にました。私と兄は家にいませんでした。ですから全責任は親父にあるというわけで、あんた自分だけ一番先に逃げたんだろうと、責めたんです。やはり本当のことを言っていないなという疑いの気持ちはずっと続きました。だからどうしてもずれるといいますか、確執がありました。

伊藤 その確執があったから、浄土真宗のお寺の息子さんなのにカトリック司祭になった。

後藤 そうです。それは親父に社会的ダメージを与えてやろうという気持ちもあったんです。つまり、坊主の子が耶蘇になるというのは、あんな小さな町では、すぐに評判になります。実際に父は私が洗礼を受けたときに、非常に怒ったわけです。結局「お前のおかげで、自分の立場がない」というようなことでした。その時僕は殉教者気取りですから。

ちょうどその次の年にフランシスコ・ザビエルの聖腕が来ました。1949年のことです。昔の侍者服、真っ赤な袴はいて、オープンカーの前に立って香をもって、ザビエルの右腕に献香しながら、後ろ向きに町中を歩きました。それをたまたま隣のお坊さんが私を見つけて親父に言いつけました。「お前の家のバカ息子が耶蘇になってチンドン屋みたいな格好をしてなんかやっていたぞ」と。それで親父がまた怒りまして、ざまぁみろと思いました。非常に親不孝でした。ま、その償いを今しているんでしょうかね。

伊藤 そんなことがあって、カンボジアの子どもたちを引き受けた時には、必死になっていくわけですね。

後藤 償いですね。

伊藤 「father」というタイトルも、神父のファーザーと父親のファーザーがかけ合わさっているわけですね。

後藤 ですから小文字にしました。大文字にすると、私個人になってしまいます。小文字にしておけば、お父さんですし、神父であるということにもなります。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談2

女性観

伊藤 映画では子供の頃のお母様の思い出とか、おっぱいを吸ったとかいうことをおっしゃっていましたが……。

後藤 あれは小学校の5年生ぐらいのことだったろうか。兄妹がたくさんいたものですから、親の関心が生まれてくる小さい子にいきます。母の愛情をこちらにひきつけたかったんでしょう。そういうこともありました。恥ずかしいですね。

伊藤 ドミニコ会の押田神父様が同じようなことをおっしゃっていました。お母ちゃんの垂乳根が……と。

後藤 押田神父さんのお母さんも、ここの所属だったんです。よく知っています。そうですか、垂乳根の師ですか。

伊藤 後藤神父様が司祭になろうと決めた時に、彼女からの手紙に返事を書かなかったということですが、押田神父様も同じようにドミニコ会に入る時に、お母様が駅に見送りに来てホームでずっと手を振っていたのに、見もせずに去ったというようなことをおっしゃっていました。

後藤 映画の場面ではかわいいお嬢さんでしたが、あんなにかわいいお嬢さんではなかったんです。田舎の男にとって、東京で焼け出されてきた女性でしょう。東京の女性というのはすごくきれいに見えるんです。あの頃は相合い傘だって許されないわけでしょう。だから、僕はその彼女をたった1回だけ抱きしめたの。それは昭和天皇が地方巡幸なさった時、天皇を見に行きました。彼女は私より背が低くて見えないわけです。その時に思う存分後ろから抱き上げて「見えるか」としたわけです。後にも先にも1回だけです。

伊藤 断ち切るというのは、後藤神父様や押田神父様の世代では、司祭職に向かうという時には、もう帰らないという決意だったわけですよね。

後藤 そうですね。一刀両断の元に断ち切ったという感じでした。だからそれっきり行き来もしないし……。全部断ち切ったつもりだったのに、夏休みがきて、僕は勘当されたもんですから、家に帰れなかったんですね。みんな家に帰ってしまって、神学校は、私1人になってしまいました。淋しくなって家に手紙を出しました。すると、親父がすぐ帰って来いと言ってくれました。

そして帰って行きますと、親父が今日、あいつが帰ってくるからとビールを3本買って来て、当時は冷蔵庫がありませんから、朝、籠の中にビールを入れて、井戸の中に吊して冷やして置いてくれました。1杯飲めというので、出してきて1杯飲んで、「おい、お前、彼女から手紙が来ているぞ」と言って束になった手紙をドンと出してきました。あれで助かったんです。もしあれを転送していたら、指導司祭に呼ばれて「この女は何者か」と言われ、それでクビになっていた奴もいるんです。あの頃は手紙が来ると、指導司祭がみんな封を切って見てしまいます。それでいつもいつも来ると、これは何者かということになってしまいます。

伊藤 神父様は司祭になるために断ち切っても、彼女の方は、思っていたわけですよね。

後藤 手紙を出しても何も返事は来ないし、最初の頃は熱烈な手紙ですが、だんだんトーンが下がっていくわけです。そんなわけで全部読んで、初めて悪いことをしたなと思い、その手紙をかまどにくべて焼き、ハガキで返事を書きました。あの頃のハガキは小さかったんです。その小さいハガキの表に半分線を引いて、そこから書き始めて、どうしても書き切れないので、ハガキ5枚にその1、その2、その3と番号を振って、投函しました。なぜハガキに書いたかというと、家族みんなに見てもらいたかったんです。それで終わりです。

これには後日談がありまして、今から10年ぐらい前、NHKのラジオ深夜便に2晩続けて出たんです。1ヵ月後に評判がいいからと再放送がありました。再放送が終わった次の日にインタビューをしたオリンピックをやった花形アナウンサーの川村さんが「彼女から電話ありましたか」と電話してきました。「彼女が生きているか、死んでいるか、どこにいるか知りません」と答えました。「おかしいですね。300万人の人が聞いているんですから、生きていれば聞いているはずです」というんです。連絡もないし、もし生きていて連絡をしてきたって、70何年も何の行き来もしていないのに、急に出て来たって、話題もないし、続かないし、迷惑ですよ。そういうわけでそれっきりになりました。

伊藤 神父様の方は返事も書かないのに、そんなにたくさん手紙を書いてくれたものを読んで、心は揺れなかったんですか。

後藤 その時は無我夢中で、この道しかないと思って、ちょっとでも脇見したら、不埒な心構えだと思っていました。

あの頃は「聖アルージョの模範」というのがありまして、アルージョは女性の顔は絶対見なかった。お母さんの顔も見なかったと。それをそのまま信じて、私は大学に行っても、女の子たちがいっぱいいても、女性の顔を絶対見ませんでした。見たら心揺れ動くでしょ。

神学校でブラスバンドをやっていたんです。指導者に「日本楽器に行って楽譜とラッパのピースを買ってこい」と言われました。僕は悪魔の殿堂に入るようなつもりでした。あの頃、名古屋の栄にある日本楽器は美女をそろえていたんです。悪魔の館に入るものですから、顔を見ないようにして、必要なものだけを取って、「これください」と相手の顔を見たんです。そしたら、バーンと印象を受け、しまったと思いました。家に帰るバスの中でもそのイメージが出て来ますし、その日の晩の夕の祈りの時にも、「あの子に会いたいな」と。次の日、ミサの時も「どうしたらあの子に会えるのかな。何か用事がないかな」と思うようになりました。それで私は弱いんだなと思い、この道を行くためには、女性は悪魔の手先だと位置づけたんです。悪魔の手先と位置づけたら楽なんです。

今は違いますよ。今は女性は天使の手先だと思っています。

伊藤 そうですよね。映画の中で「じいさんでも女性の足のアキレス腱を見ると心が躍る」とおっしゃっていますよね。どこで変わったんですか。

後藤 どこで変わったんでしょうか。長いこと働いていますと、悪魔みたいな人よりも天使みたいな人がいっぱいいます。これは考え違いだったなと思い、それからは天使の手先ですよ。天使の手先だから迷うこともありません。

映画の中にルオーのベロニカが出てきます。ベロニカというのは聖書の中に出てこないんです。十字架の道行きに出てくるだけです。そこで僕はハッと思いついたんです。僕はこの絵が好きだったんです。じっと見ていて気がついたんですが、小学校に上がる前に大好きだったむつこさんという一緒に遊んでいた子がいました。この子から始まって、僕の心を揺れ動かすような女性がいっぱいいたわけです。僕はその女性たちを無意識の中でベロニカの中に押し込んだんです。だから今でもベロニカを見ると、「あぁ、あの子どうしているかな」ということも出てくることがあるんですが、非常に心は穏やかで、揺れ動きません。

(第3話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談

吉祥寺教会の後藤文雄神父様をご存じでしょうか。現在ドキュメンタリー映画「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」で話題になっている神父様です。この映画公開を記念して、AMORでは、編集委員に参加していただいている清瀬教会の伊藤淳神父様との対談を実現しました。神父様同士の対談は、映画の裏側を少しのぞくことができると思います。映画を観てからお読みになっても決して飽きさせることのない面白い対談になっています。4回にわたって、連載する形になりますが、その後、実際の対談現場の映像も流させていただく予定です。ぜひお楽しみください。(編集部)

カンボジアの子供たちの支援を始めるまで

伊藤 一番最初に後藤神父様を存じ上げるようになったのは、私がまだカトリックの女子校で教員をやっていた時のことで、神父様は毎月母親たちのための講話をしに来ておられました。その頃から「カンボジアの神父様」というのがキャッチフレーズのようになっていました。カンボジアに関わる活動自体を始められたのは1981年ですね。映画の中で私がすごく感銘を受けたというか、そうかと思ったのは、大和の定住促進センターの女性が神父様のところに援助のお願いに来て、神父様は吉祥寺という大きい教会で……。

後藤 信者さんにお願いしても、誰も応じてくれませんでした。

伊藤 私も、まったく同じ経験ではないですけれども、神父をやっていますと、そういうことはありますよね。信者さんにお願いして、いいことだと思うのに全然反応がないということは。その時、神父様の横にいた支援者の女性は恨めしげに……。

後藤 教会にはこんなにたくさん部屋があるのに、何で引き取れないのかというようなことを言われました。信者の皆さんにはお願いはするけれども、私自身がやるという発想はまったくありませんでした。信者にお願いしようと思ったのですが、誰も応えてくれない。そして、「この教会、部屋がたくさんありますね」と言われ、そうかと思いました。皆さんにお願いするよりも、まず自分でやらなければいけないのではないかと気づいて、始まったんです。

伊藤 映画の中でその話をなさっているときに、その女性がじっと見ていて、教会のお部屋のこととかを言い出したときに、神父さんが心底憤慨したとおっしゃっているのを聞いて、後藤神父でもそんな気持ちになることがあるのかと思ったのですが、それは本当だったのですか。

後藤 それは本当で、その時は自分でやるつもりはありませんでした。

伊藤 私が、さすがは後藤神父様と感ずるのは、自分もこの女性と同じことを信者にしていたんだと気づかれたのですよね。

後藤 そうなんですよね。それがことの始まりでした。それが最後にこういう形まで辿り着くとは思っていませんでしたけれども。

伊藤 私なんかですと、憤慨して、腹立って、言葉に出すかどうかは別にしても、「いい加減にしてください」とか、「今日はこれでおしまい」ということになりそうなところを、よく続けられましたね。

後藤 それは、私自身戦災に遭って、一晩で家族から何から何までなくしてしまい、住む場所も何もない、ただ人の情けに頼る以外に生きる道がなかったものですから、そういう経験が中に響いていたと思います。

でも僕はカンボジアがどこにあるのか知らなかったんです。あの辺だろうというのは分かったんですけれども、タイとベトナムに挟まれた小さな国というのも知りません。歴史も全然知りませんでした。そういうのが突然現れてきたわけです。ですから彼らを受け入れるというのも、全部分かった上で受け入れたのではなく、全然分からないままに、来てしまった彼らに居場所がないというのは気の毒だということだけでした。

伊藤 ここは神言会の修道院でもあるわけですよね。部屋が空いているということは、物理的にはその子供たちを受け入れ可能だったわけですね。修道会の方はどうだったのですか。

伊藤 特には問題にならなかったんですね。

後藤 ええ、全然。問題にはならなかったんですが、あいつが勝手にやっているんだから、というわけで、1981年から子供たちを預かっている94年までの間に、1回だけある管区長が「お前大変なことをやって、えらいな」とポケットマネーをくれましたが、あとは一切援助はなかったです。

伊藤 では、良くも悪しくも自由にどうぞということだったわけですね。

後藤 そうそう。あの頃カンボジアに行くと言ったら、まだポル・ポトが全国土の3分の1もしくは、半分ぐらい支配していた時ですから、勝手に行くんだったら、勝手に死んでも勝手にしろと言われました。

伊藤 そこまで言いますか。でも、広い意味では会の理解はあったということですか。

後藤 あったんでしょうね。やめろとか、出て行けとは言われませんでしたからね。

(第2話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中


日本カトリック映画賞 決定!

毎年5月に行われている日本カトリック映画賞の授賞式と上映会をお知らせいたします。

今年は長谷井宏紀監督の「ブランカとギター弾き」に決定いたしました。
受賞式と上映会は、5月12日土曜日午後1時から中野ZERO大ホールにて開催されます。

チケットは聖イグナチオ教会案内所、スペースセントポール、サンパウロ書店、ドン・ボスコ社、天使の森で販売しています。
もしくは、SIGNIS JAPANのホームページからも申込みができます。
メールでのお申し込みは、info@signis-japan.orgまでお願いいたします。


第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展

いとうあつし(清瀬教会主任司祭)

 いささか旧聞に属する話ではありますが、寒風吹きすさぶ1月23日、外国人観光客で賑わう浅草吾妻橋のたもと、墨田公園リバーサイドギャラリーで開催されていた「第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展」に行ってきました。
「アリの街」とは、戦後間もない1950年から1960年までの間、現在の隅田公園の一角にあった廃品仕切場の呼称です。戦災によって経済的に困窮し、廃品回収で生計を立てていた人たちが集まり、「蟻の会」という生活共同体をつくって、互いに協力し合いながら家族ともども共同生活を送っていました。

ゼノさんはポーランド人で、コンベンツアル聖フランシスコ会の修道士でした。のちにアウシュヴィッツ収容所で他人の身代わりとなって処刑された聖マキシミリアノ・コルベ神父らと、1930年に来日しました。長崎で『聖母の騎士』誌の出版を通して宣教に努め、戦後は戦災孤児らの救援活動に尽力していましたが、求められてアリの街に関わり、その支援に力を注ぐようになりました。

北原怜子さんは、東京の恵まれた家庭に生まれ育ちました。20歳で受洗、さらに修道生活を志しましたが、肺結核に倒れて断念、失意のうちにあったところでゼノさんと出会い、アリの街の特に子どもたちのために奉仕するようになりました。彼女の活動は「蟻の街のマリア」としてマスコミにも取り上げられ、その名を知られるようになります。結核の療養のため、一度はアリの街を離れましたが、さらに病状が悪化するとアリの街に移り住み、そこで28年の生涯を終えました。

資料展では、そんなアリの街の様子やゼノさんと北原怜子さんの姿を収めた写真約70枚、当時の新聞や雑誌の記事、さらには北原怜子さんの胸像をはじめとするアリの街ゆかりの物品が数多く展示され、大勢の来場者が見入っていました。

この資料展を企画したのは地元浅草の方々で、彼らはカトリック信者ではありません。それどころか、最初はゼノさんのことも北原怜子さんのことも知らなかったそうです。しかし、ルポ『風の使者ゼノ』(石飛仁著)を読んで感銘を受け、このような素晴らしい人たちの存在と活動を、若い人たちにぜひ伝えたいとの思いで企画し、ポーランド大使館やローマ教皇庁からの協力も得て実現させたのだそうです。

 この日は、北原怜子さんが亡くなって60年目の命日ということで、資料展の最後に全員で隅田公園内にあるアリの街の跡地まで移動し、追悼式を行いました。写真を飾り、ろうそくを灯し、聖歌を歌い、献花をしました。

ストラだけ掛けてそこにいればいいと言われていた私は、端の方でお飾りとしてボサッと突っ立っていたのですが、突然司会者に祈れと言われ、へどもどしてしまいました。しかし、そのおかげで心に残る思い出深い追悼集会になりました。


「えきゅぷろ!」はどう作られるのか? 実行委員カトリック代表が抱く、想いと展望

宗教改革500周年を迎えた2017年。教会が対立から対話への大きな足跡を残しつつある中、日本でもそれを象徴するイベントが数多く開催された。中でも「えきゅぷろ!」は次代の諸教派を担う青年たちが活躍したことで大いに注目された。当日の様子はすでにキリスト教各メディアで詳しく報道されている。

前回に引き続き、実行委員会カトリック代表の黒須優理菜(くろす・ゆりな)さんにイベントの今後の展望についての話を聞く。これからのエキュメニカル運動、教会一致運動の姿と困難、やりがいについて考えたい。

※前回の内容はこちらです。

 

来年度からの話が出てきました。
展望のようなものはありますか?

次回以降の方針はまだこれからです。実行委員会の代表も、2017年はカトリックでしたが毎年各教派で回していきたいですね。代表が決まれば方針も決めていくことになります。開催日も遅くとも2月にはお知らせできると思います。

また、2017年はカトリックの教会が会場でしたが、他教派の教会にも行ってみたいですね。諸教派のたくさんの青年に集まってほしいので、どこででもというわけにはいきませんが……それに教会のスケジュールもありますよね。次回のことはこれからですね。

礼拝のスタイルも毎回変わるかもしれないし。一回目だったからこそ成功したのだとも思うし、二回目以降もうまくいくかはわからない。

次がまだ二回目ですからこれからの話になりますけれど、今できているのは東京だけですが、場合によって全国展開するのかな、とか、そんな話もちょっとは出ています。今の段階では無理なんですが、地方開催や、あるいは参加者が増えていけば支部を作るとか、各地でいろんなイベントができるようになるかもしれません。

 

当日の黒須さん(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

野心的な展望ですね。
各地の青年たちにとって参考例になれるといいですね。

はい。ですから、その礎になるためにも私たちは続けていかなればなりません。私たちが全国規模のイベントを計画するというよりは、このようなイベントが東京だけでなく各地でも開催されたらいいと思います。

「えきゅぷろ!」のような大きなイベントは年一回ですが、月一回でも、たとえばみんなで他教派の礼拝に出席してみるということもしてみたいですね。お互いに呼びかけて。

 

超教派の青年会が出来たら、多くの教会からお呼ばれされそうです。

招いてもらえるなら行きやすいですしね。

カトリックがエキュメニカルな活動に入ってくること自体がルーテル教会や日本基督教団の人たちには新鮮だったみたいです。「まさかカトリックがオッケーしてくれるとは」みたいな。本当にそういう反応があったんです。全体の顔合わせのときに、向こうの青年たちとしてはカトリックに負担を押し付けちゃったんじゃないか、カトリックは拒絶するんじゃないかと、すごく心配していたようです。しかしカトリックの青年が乗り気だと知って、堂々と前に進んでいける仲間になったと思います。

 

次回以降、イベントをよくするためにもトークセッションのテーマは大事だと思います。
やりたいことはありますか?

今回(2017年)も、トークセッションのテーマを決めるのはとても大変だったんです。
幅が広すぎたり、逆にあんまりセンシティブな話題には踏み込めなさそうとか。

先生方や神父様に、キリスト者の恋愛観や結婚観についてのテーマを提出したときに、「これって私たちに聞くことなの?」って言われたりして。必ずしも聖職者や教職者だから語るものということでもなかったんです。

宗教改革やエキュメニズムや日本社会とキリスト者などは大きなテーマですけど、若者向けのテーマをどう話し合っていくかっていうのは意外と難しくて。結局、当日語ってもらった内容は、牧師や司祭の人たちの召命とか、どうしてその道に進んだのかとか、なぜその教派だったのかとか、そういう話になりましたね。

しかし、そもそもイベントというのは毎年同じプログラムを繰り返していては意味がありません。トークセッション、パンの分かち合い、合同礼拝は欠かしたくはないとは思いますが、しかしどう変化させていくか、どう飽きずにみんなでやっていくかは考えていかないといけないと思います。

お互いが学びあうことをしないと意味がないから、トークセッションも二回目三回目となれば少しずつ踏み込んで、お互いがちょっと「うっ」てなる部分やちょっと嫌だなと思うこともあるかもしれないけど、ちょっとずつ踏み込んでいきたいなとは思います。

 

今回の「えきゅぷろ!」を通して、黒須さん自身の中で起きた変化のようなものはありましたか?

合同礼拝後の集合写真(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

実は、私自身もこの一年でやっと他教派の皆さんと接することへの恐れがなくなったんです。怖かったんです。私はカトリックしか知りませんでしたが、神学部に入る前は信仰の形っていろいろあってもいいじゃんと素朴に思っていました。しかしカトリックのことを勉強し始めてからいつの間にか譲れないものがしっかり出来ていて。

私は秘跡をすごく大事にしたい。ゆるしの秘跡や病者の塗油がないと辛い。実際にそれで私は救われたなと感じているので、それを否定されると思うと怖かった。そして別の教派の人たちの前で自分が排他的な人間になってしまうんじゃないかというのがもっと怖くて。場合によっては、他の教派の青年たちと接するときにちょっとした発言で相手を傷つけてしまうんじゃないかとか。

自分が傷つく分にはまだいいんですけど、相手に嫌な思いをさせるんじゃないかっていうのは一番怖かった。実は、すごくビクビクしながらヤンフェスも出てたんです(笑)。「えきゅぷろ!」のミーティングのときだってお互いの考え方が読めないから、まさに手探りでした。聖餐の考え方について話し合っていたときもすごく辛くて。他教派のみんなが割りとあっけらかんとしていてくれたからどうにかなりましたけど……。

そんな思いが、やっと「えきゅぷろ!」を通して乗り越えられたかな。今は他教派の青年たちのことも大好きだし、彼らの信仰の熱さというか、熱量というものを感じるし、向こうも私たちの活動をすごく評価してくれるし。お互いが尊重し合うことで、「それは違うよね」というような言い方をしなかったから、怖くなくなったかなと思います。

 

20世紀のエキュメニズムの議論を実体験として経験したイベントになったのかもしれませんね。

視界が広くなりました。私の狭まっていたカトリック観が、広がっていったような。深まりながら広がりました。

「教会の外に救いなし」って言葉がありますよね(注)。でも、第二バチカン公会議(『教会憲章』16項)も言っていますが、自分の落ち度なく教会を知らない人は、この言葉にはあてはまりません。「カトリック」という言葉を知っていても中身を知らない人はこの言葉には当てはまらないというのが、今回私が見出した意味です。

キリスト教の諸教派に限らず様々な諸宗教も存在しますけど、中身を知らなかったら選びようがないじゃないですか。まず私たちはお互いが何を大事にしているかを知るべきだし、その中で、やっぱり同じ福音に生きているんだと感じられるなら、やり方が異なっていても、同じ生き方をしてるんだと。そう分かれば、向こう側には救いはないんだなんて思う必要もないんです。わたしがカトリックの教義を譲ってしまったら私が救いにあずかれないかもしれない、その逆に私がカトリックの教義にこだわることで他教派の人たちが救いにあずかれなくなるかもしれない、そんな発想にこだわる必要はないんだと、そんな恐れもなくなるんだなと。そんなことを考えました。

 

注:「教会の外に救いなし」 救いのために教会が必要であることを主張するために、近代まで用いられた教理上の公理。ノアの箱舟にいた者だけが救われたことを述べる1ペトロ書3章20節を根拠に、3世紀の教父キプリアヌスらによって述べられた。当初この言葉は教会外の洗礼の無効など、異端と教会の一致を説く文脈で用いられたが、5~6世紀の教父ルスペのフルゲンティウスはこの言葉を異端、異教徒らの破滅を説く否定的な文脈で使用し、同様の文脈で長く用いられた。19世紀の教皇ピウス9世、20世紀の教皇ピウス12世らにより徐々に方針転換、第二バチカン公会議『教会憲章』16項は「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないとはいえ、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神のみ心を、恵みの働きのもとに行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」と説き、もはやこの言葉を用いることなく「教会は救いの普遍的秘跡」(同48項)とする。

 

諸教派に分かれた地上の教会の痛みを肌で感じたわけですね。
他教派の青年たちにもそういう変化はあったのでしょうか。

想いを語ってくださった黒須優理菜さん

実際のところはあまりわからないですけど……。新しいところに踏み込んでいくって、怖いじゃないですか。これから新しい教派を招き入れるようになったら、同じような痛みを毎回経験するんだろうと思うんですけど、最初に比べれば緩和されていくのかな。

遠い将来、教会が本当に一致していくことになったり統合されることになったら、きっとみんなとまどうだろうし、自分がなくされるか相手をなくすかのどっちかになるのかもしれませんよね。でも教派を超えた繋がりで協働を続けていれば、そういう恐れ自体や垣根をなくしていくことに結果的にはなるんじゃないかと思うんです。

私はこの一年そういう感じで本当に距離感を計りながらやってきた感じです。

その後のかかわりの中で、「優理菜もルーテルになっちゃえば」って言われたりして(笑)。あ、そういう軽い気持ちで教会に行ってもいいんだって思ったりもしました。そのくらい気軽にお互いの教会に足を運べる仲になれたんだなって。

 

熱い想いを聞かせていただきました。

スタッフ同士でも話していますが、今回の「えきゅぷろ!」は歴史的な一歩だと思っています。キリスト教が一致していく動きがどんどん大きくなって、何十年後、何百年後かの教科書や神学書に、日本でこんな「えきゅぷろ!」のような動きがあったのだと、本当に端っこにでも書いてもらえたら嬉しい。青年たちがこうして教派を超えて活動するのは日本ではもしかしたら初めてでしょうし、自分たちが歴史を動かしているんだって感覚でやっていけることってすごくありがたい。これからもそういうやりがいを持って進んでいけたらいいなと思っています。

(了)

聞き手(文責):石原良明(webマガジンAMOR編集部)