ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』

バチカン市国サン・ピエトロ大聖堂を訪れたことのある人ならば、すぐに思い出すあの独特な制服をまとった衛兵たち。スイス衛兵として知られているが、なぜ、彼らがその役割についているのか……500年に及ぶその歴史を説く書を紹介しよう:

ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』
Robert Royal, The Pope’s Army: 500 Years of the Papal Swiss Guard (New York: Crossroad, 2006), xi+210 pages.

本書は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でだれもが目にする、あのスイス衛兵の歴史を取りあげている。彼らの本当の任務は儀式の華麗さを際立たせるためのものではなく、文字通り教皇を守ることにある。教皇は現在と違って19世紀末のイタリア統一まではイタリア各地に領土をもつ世俗君主でもあった。これらの領土を守るために教皇は君主として傭兵を抱えていた。歴史をたどると、スイス人衛兵隊は中世末の対立教皇の時代から宗教改革後のヨーロッパの国際政治情勢の中で弱体となった教皇の地位を再び高める政策の一環としてユリウス2世(在位年 1503~1513)によって結成されたものである。

枢機卿としてスイス傭兵の優秀さを知っていたユリウス2世はスイス政府に200人の傭兵隊がほしいと頼み込んだ。傭兵に対する報酬、贅沢品、略奪品の分け前という点で教皇庁は不利に立たされたが、150人限定で傭兵募集が認められた。ユリウス2世は150人のスイス護衛隊をパヴィアの戦闘で中核として投入し、勝利を得てミラノを占領した。この時、教皇はスイス人護衛兵たちを公に「教会の自由の守護者」と宣言し、教皇の鍵と教皇領の紋章の旗と自分の家であるロヴェーレ家の紋章の付いた旗を与えた。彼が死の床でスイス衛兵隊について「彼らは余に奉仕し、ローマ教会の信仰が今日あるようにしてくれた」と語ったとされている。

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ローマ略奪(1527)を経て定着

ユリウス2世の次の教皇レオ10世(在位年 1513~1521)は、オスマン帝国の勢力拡大に脅威を感じ、スイスに1万3000の兵力を派遣するように要請した。スイス政府は一万まで承認したが、神聖ローマ帝国皇帝の選挙が間近いことがあって実際には兵力を送らなかった。レオ10世の死去とともにオランダ人の教皇ハドリアヌス6世が即位したが、彼が目指した教会改革はまったく実現せず、その死後の教皇選挙では、フランスに支持されたメディチ家出身のクレメンス7世が1523年に選ばれた。その頃までにローマは美しい姿を取り戻し、有力貴族の館ができ、ピアッツァ・ノヴァのサピエンツィア大学の建物がミケランジェロの設計に基づいてラファエロによって完成された。しかしクレメンス7世は、神聖ローマ帝国皇帝と対立し、戦争となる。皇帝は北イタリアのパヴィアでフランス軍を打ち破り、フランス王を捕虜としたのち南下してローマを占領した。ローマ市は1526年と1527年の2度にわたる略奪を受ける。教皇はカステロ・サンタンジェロ城に逃れ、籠城した。ことに1527年の略奪は熾烈を極め、クレメンス7世は囚われる寸前にバチカンから42名のスイス衛兵に守られて、ほうほうの体で城に逃げ込んだ。スイス衛兵隊はスペインとドイツの傭兵からなる皇帝軍との戦いで、この一日の戦闘だけで隊長を含む4分の3の兵力を失った。華麗なルネサンス都市の容貌は変わり果て、ローマ市民はこの大殺戮・略奪の間、恐怖のどん底に陥れられた。クレメンス7世は、7ヶ月間籠城したのち、農夫に変装して抜け出し、ローマの北のオルヴィエトに逃れた。彼はそこで偶然、英国のヘンリー8世から派遣された使節と出会った。自らの離婚に関する件でのことである。1530年、和議が成立し、教皇はスイス衛兵に守られてボローニャに赴き、カール5世の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式に出席した。

他国介入に対する抑止力として

クレメンス7世の後継者パウロ3世(在位年1534~1549)は、フィロナルディ枢機卿の強い勧めで、やっと1537年、スイス衛兵隊再建に乗り出した。枢機卿がこれを勧めたのは、オスマン帝国に対する備えと当時強力な軍事力をもつスイスとの結びつきがあれば、他国が教皇庁に圧力をかけることを抑止できるという理由からであった。この背景には、ローマ略奪の悪夢から解放されるために教皇庁が取った施策があった。クレメンス7世は皇帝軍がローマを去ったあと、ミケランジェロをローマに呼び、システィナ礼拝堂の最後の審判の仕事を完成させた。それはあたかも略奪時のローマ市民の苦難を反映しているかのようであったが、後任のパウロ3世にとっては悲劇の記憶の浄化となった。1546年、パウロ3世は、ドイツ兵にかわって、スイス人兵士を護衛部隊として望むことを表明し、おりしもローマに滞在していたスイス軍人フォン・メッゲンにそれを依頼した。ルツェルンの市長だったメッゲンは、人文主義者で、中近東での軍事経験のあった甥のヨストを司令官候補として推薦した。ヨスト・メッゲンは有能な司令官であると同時に外交官であり、教皇庁とカトリック諸国の絆を強めさせ、カトリック改革の推進役を果たした。彼のもとでスイス衛兵隊は安定期に入ったのである。

フランス革命とナポレオンの時代の変遷

教皇庁がフランス革命政府とナポレオンとの対応に苦慮する時代を迎える。ローマは革命軍に占領され、革命軍は不人気にもかかわらず共和主義を押しつけ、市民は反発した。ピウス6世、7世ともにローマから連れ去られて幽閉され、不利な政教条約を押しつけられた。この時期の革命政府によってスイス衛兵隊は解散させられた。しかし、ピウス7世がローマに帰還すると、スイス衛兵隊の再建を企図した。ローマにはまだ36人の元衛兵と5人の隊長が残っていたので、この仕事は簡単であった。ナポレオンはローマをフランス帝国の「自由な帝国都市」にし、教皇と教会を支配下に置こうとしていた。1809年、フランス軍司令官ラデ大佐の指揮でフランス軍がクイリナーレ宮殿に現れ、ピウス7世を幽閉所に連れていったが、その時、彼は無駄に血が流されないよう、スイス衛兵に武装解除を受けることを命じた。1814年、ナポレオン帝国が崩壊し、教皇がローマに戻ったとき、スイス衛兵隊は直ちに再建された。

イタリア統一から現代まで

1870年、北部からイタリア統一軍がローマに進軍してきたのは、ちょうど第1バチカン公会議の開催時であった。教皇の不可謬性についての決議後の状況下、教皇ピウス9世はスイス衛兵隊に統一軍が城壁を破った際には降伏するように命じた。領土を失い、サン・ピエトロ大聖堂周辺のわずかな土地に閉じこもる「バチカンの囚人」になることによって、かつての教皇領とローマ市の実効支配はイタリア王国に移ったが、教皇がそれらに対する主権を放棄したのでなく、事態はいわゆる「ローマ問題」として残存した。1929年にムッソリーニ政権との間でラテラノ条約が締結されたことで、教皇はそれらの領土権の主張を放棄し、正式にバチカン市国が成立する。教皇の夏の別荘であったクイリナーレ宮殿は、王宮から第2世界大戦後は大統領官邸に変貌する。ラテラノ条約締結後、スイス政府はスイス衛兵隊が外国の軍隊でなく、単に警察力でもなく、誰でも衛兵となるために政府の許可を必要としないと宣言した。しかしバチカン市国はれっきとした主権国家であり、教皇所有の土地は治外法権の下に置かれた。

教皇の身辺警護とバチカン市国領域の警護がスイス衛兵隊の最大の使命となったのは、第2次世界大戦後半のナチスドイツ軍のローマ占領期間であった。バチカン上層部とスイス衛兵隊幹部はナチス政権が教皇ピウス12世を拉致しようと試みた場合、どうしたらよいかと憂慮していた。すでに連合軍がローマに迫りつつあった1944年3月12日、ピウス12世は教皇在位5周年を祝っていた。ファシスト政権の集会禁止令は及ぶことなく、サン・ピエトロ広場には数万の人々が教皇の演説を聴きに押しかけていた。バチカン当局は、イタリア解放戦線の地下組織が教皇演説終了と同時にドイツ軍撤退を要求するデモ行進を行う準備をしているとの情報を得ていた。広場の要所要所にバリケードを設け、スイス衛兵を配備することによって衝突は回避された。

1960年代、第2バチカン公会議には世界中から2000人以上の司教が集まることとなり、警備が最大の問題となった。パウロ6世は、スイス人衛兵隊を除く他の警備隊を1970年に廃止したため、警護のすべての責任がスイス人衛兵隊の責任となった。しかしパウロ6世がこのことを発表する直前の1970年12月アジア歴訪の旅で、マニラを訪れたとき、ある人から刀で斬りつけられた事件があったばかりであった。スイス衛兵隊はそれから近代的組織に生まれ変わったが、それでも今度は1981年サン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2に対する暗殺未遂事件が起こる。教皇の警備という任務がますます現実性を持つことになった一面である。こうしてスイス衛兵隊の任務は、表面的には伝統的な儀式を華麗に彩るところにあるが、各国情報機関と緊密に協力・連携して教皇を警護する役割も持つようになっているのである。

(高柳俊一/英文学者)


キム・パフェンロス著『ユダ・失われた弟子のイメージ』

イエスを裏切った弟子として有名なユダ。最後の晩餐の絵でも、その裏切りが予告されるとあって、その場でも注目される登場人物である。しかし、その存在、意識、思いなどどのように解釈されるべきであるか、ユダ像について果敢な挑んだ著作の紹介:

キム・パフェンロス著『ユダ・失われた弟子のイメージ』

Kim Paffenroth, Judas: Images of the Lost Disciple (Louisville: Westminster John Knox Press, 2001) xv+207 pages.

福音書の人物、イエスを裏切ったユダと聖書の後の文学における変貌についてはいくつかの研究書がすでに存在する。その他にも、著者が指摘するように、ユダの行動についての文学的考察が存在する。著者は福音書の記述を精査することによって、ユダが実際にどのような人物であったかという「史的ユダ」の問題を突きつめるのではなく、福音書とそれ以後の物語世界の歴史の中でユダがどのように取り扱われ、そのイメージがどのように多様化されていったかを探ろうとしている。本書は、こうして、ユダ伝承がどのように編集されて福音書の受難物語に組み入れられたのかというような聖書学的研究というよりは、福音書のユダが後の文学の中でどのような変貌をとげたかを探究した研究書である。

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著者はまず福音書の記述を分析し、それらの間の差異を検討し、それぞれを後のユダ像の展開に結びつける。「罪人の原型・恐怖の対象」、「悪人・憎悪と嘲笑の対象」はすでに福音書の記述にその起源がある。「悲劇の主人公」は福音書には見られない要素が加えられたものであり、「改悛者・希望と模倣の対象」はマタイにかすかな起源をもつものである。

ユダの裏切りはパウロによってまったく言及されていないし、彼の神学においてその意義も考察されていない。ユダの物語の発端はマルコ福音書の受難物語のはじめの彼の裏切りについての簡単な記述(マルコ14・10〜11)とイエス逮捕時の役割の記述(同14・44〜45)である。ここからすでに新約聖書の正典内でも、ルカによって、さらにその後もユダの伝承は発展していく。しかし史実的には彼の裏切りと彼の死に結びつけて伝えられた「血の畑」(マタイ27・7および使徒言行録1・18)の由来伝承以外は何も知らないのである。

著者によれば、始源的物語には後の物語の展開を可能にした曖昧性がある。ユダの裏切りは救済史における神秘であるとともに、人間の本質の影の側面についての根源的な暗示であると言える。多くの場合、キリスト教の伝統においてユダは典型的な悪人、サタンの力に完全に捉えられた罪人とみなされている。

マタイやルカが彼の物語をそのような方向に向け、ダンテは『神曲』において、ユダを永遠に地獄で苦しむ人物に見立てている。ヨハネはユダの物語に公金横領の要素を付け加えたが、そこから中世になると反ユダヤ人主義的伝承が生まれる。

しかしこれらばかりではない。グノーシス主義者たちは彼をイエスの真実な弟子とみなし、彼が他の弟子たちとは違ってイエスが何者であるかを知っていた人物で、彼が神のもとに行くのを早める助けをしたと考えた。中世ではユダの伝承がオイディプスの悲劇と重なり、ユダがその行動によって自分の運命に自分で貢献したと考えられた。こうした伝承の中にはユダが自分の運命を知って、それを避けようと試みたのだとするものも現れた。

19世紀と20世紀、世俗化現象が進むと、芸術家たちは伝統的なユダ像に捕らわれず、ユダの裏切りについて近代人の精神にも受け入れられるような心理的説明を行い、彼が地上での王国建設を拒否したイエスに失望した革命家あるいは愛国主義者と描くようになった。マタイだけが描く、意味が曖昧なユダの後悔による自殺は、伝統的には彼を呪われた者としてきたが、後に、ユダは後悔の故に赦されるのだとするものが現れた。それ故、彼は究極的罪人として、罪人の模範と見なされ、11世紀ビザンティン帝国の偉大な聖書釈義家でオフリドの大主教テオフュラクトス(生没年 1050頃~1107/08)、近代では18世紀のバッハにおいて、この罪人は称賛されるべき人物だということになった。

著者はこのようなユダ像を一概に排斥するのではなく、救済におけるユダの必要な役割はキリスト者の霊的黙想の主題に値すると述べている。短い終章で著者が言いたいのは、おそらくユダは、我々普通の人間の中にも巣くっているということであろう。ところで、著者の整理と現代に至る包括的考察の中で教父たちのことはほとんど言及されていない。読者には教父たちがユダの問題をどう考えていたのかは気になる課題である。

(高柳俊一/英文学者)


アダム・シュウォールツ著『第3の春』

前回は、英訳聖書の歴史に関する本を紹介したが、今回は、イギリスにおけるカトリック文学者・著作家についての書に目を向けてみよう。19世紀におこるカトリック復興を受けて20世紀初期~半ばに活躍した作家たちはどのようにして時代と信仰に向かい合ったのであろうか:

アダム・シュウォールツ著『第3の春』
Adam Schwartz, The Third Spring: G. K. Chesterton, Graham Greene, Christopher Dawson and David Jones (Washington D.C.: The Catholic University of America, 2005), xv+416 pages

ジョン・ヘンリー・ニューマン(生没年 1801~1890。1846年カトリックに転会。後に枢機卿となる)は、英国にキリスト教がもたらされた「第1の春」に対して、19世紀の英国におけるカトリック教会の復活を「第2の春」と呼んだ。それを受けて、本書の著者は20世紀にカトリック文学者が数多く輩出するようになった現象を「第3の春」と名付けている。著者によると、「第2の春」がニューマンに始まったとするならば、「第3の春」はギルバート・キース・チェスタトン(1874~1936。1922年カトリックに転会)から始まった。そして彼に続く主要な文学者・文筆家がグレアム・グリーン(1904~1991。1926年カトリックに転会)、クリストファー・ドーソン(1889~1970。1916年カトリックに転会)、ディヴィッド・ジョーンズ(1895~1974。1921年カトリックに転会)だということになる。著者は序論に続いてグリーン、ドーソン、ジョーンズそれぞれに一つの章を設け、彼らの転会への道とそれを反映する文学を論じ、最後にジョーンズを中心に「第3の春」のカトリック文学隆盛の時代を現代の状況と比較している。

著者の主張は、彼らが皆チェスタトンと直接あるいは間接的に関係があり、チェスタトンから刺激を受け、手本にしたというところにある。19世紀の「第2の春」の知識人や文学者たちは、すでに世俗化が始まり、またカトリック解放法が議会を通過したとはいえ英国社会ではカトリックに対する根強い偏見があったなか、カトリック信仰を弁護した。それに対して、20世紀の「第3の春」を担った人々はいずれも転会者で、ポスト・キリスト教社会と呼ばれるようになっていった英国社会における宗教に対する無関心の雰囲気の中に置かれたカトリック文化の形成に寄与した。本書がとりあげるのはそのうちの4名だが、実はもっと多くのカトリック作家がおり、今もいる。

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あの才気ある雑文書き、チェスタトンは今も読まれているが、早くからカトリックに共感してはいたが、じっさいにカトリック教会に転じたのは中年期だった。彼は今もよく読まれているが、その作品の護教的な内容よりも機知と逆説に富んだ文体のゆえであろう。詩人・芸術家のジョーンズは、今日でもその詩のいくつかがアンソロジーに収録されているが、英文学の教室で読まれてはいないだろう。歴史家ドーソンは1960年代、せいぜい1970年代までの一時期、日本でも読まれたが、英語圏の若いカトリック信者の記憶に残るかどうかは疑問であろう。グリーンは今でも知られている。おそらくそれは映画『第3の男』が古典的なものになり、そのBGMの調べのゆえであろう。彼が伝えようとした核心的問題は、後のカトリック教会の変化によって前提状況を失い、彼自身、新しい関連状況を見いだそうとしたが、完全に見いだしたとは思われない。もちろん、彼の円熟期の小説の神義論的な根本問題は今日でも重要性をもっているが、1960年代以後、時代状況も教会の事情も大きく変わってしまった。これら4人の作家たちが輝いていたのは主に二つの大戦間および第2次大戦直後の1920年代初め頃から1960年代までのことだったのである。

チェスタトンは、ある意味で、19世紀のローマ・カトリック教会が英国社会の中で懸命に地歩を得て宗教的にも知的にも認知を受けるように努力していたときの構えを引きずっていたようである。ある批評家に言わせれば、彼とヒレア・ベロック(1870~1953)の文学は信仰宣伝の雑文であった。このような見方は、上流社会に属した伝統主義的キリスト教の背景からのものである。ローマ・カトリックの信仰は、まだこの階級の認知を受けていなかったのである。

第2次世界大戦の前後から、ローマ・カトリック教会は社会的に英国のものと認められ始めた。チェスタトン以外の3人はこのような環境の産物である。全ヨーロッパ的視点ではナチズムと共産主義の脅威に直面して、キリスト教的伝統への評価が高まっていった。特に、第2次世界大戦直後は、カトリック小説家が目立って優れた作品を発表するカトリック文学の隆盛期を迎え、ドーソンの歴史書は西欧全体の伝統を意識し、それがどのようにして失われたかをテーマに書かれた。ドーソンのエキュメニカルな関心はよく知られているが、彼は宗教改革を近代の世俗化と重ね合わせていたという印象を残す。グリーンはカトリック作家と呼ばれるのを嫌った。カトリックになって見えてきた人間の問題をテーマにするが、狭い意味での信心文学者でないという意識を彼はもっていたのである。

ともかく3人は、転会して加入したローマ・カトリック教会を他の人々に対して弁護する必要がなかった。グリーンの親友イヴリン・ウォー(1903~1966。1930年カトリックに転会)は、第2バチカン公会議後にカトリック教会で推進されるようになった改革をすべて嫌悪した。彼の嫌悪の的となったのは、それまで開花したカトリック文学を不可能にする時代の変化であった。チェスタトンはすでに1936年に没していたから、第2次世界大戦後のカトリック文学隆盛期を見ることはなかった。他の3人は当初は、第2バチカン公会議を歓迎していたのである。

(高柳俊一/英文学者)


ディヴィッド・ノートン著『文学としての英訳聖書の歴史』

聖書の新しい日本語訳が2018年暮れに登場するという。『聖書-日本聖書協会 共同訳』となるらしい。現代日本語訳聖書もずいぶん増えてくることになるが、この機会に、聖書の国語訳というものがその国の歴史の中でどのような意味をもつことになるのか、英訳聖書の事例に目を向けてみよう:

ディヴィッド・ノートン著『文学としての英訳聖書の歴史』
David Norton, A History of the English Bible as Literature(Cambridge: Cambridge University Press, 2000, xii+484pp)

本書は著者が1993年に世に問うた『文学としての聖書の歴史』全2巻を圧縮・改訂して1巻本にしたものである。その中心となっているのは17世紀に出来上がった、いわゆる「欽定英訳聖書」(Kings James Version)の文学史・批評史における運命である。それ以前の英訳聖書と20世紀になってからのこの訳の改訂、新しい聖書の翻訳はあくまでも著者が本題を語るための前備であり後日談といえよう。それは英文学史における「欽定訳聖書」の「正典化」のプロセスとそのプロセスからはじき出された英訳聖書の物語である。

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イエズス会司祭である詩人ジェラールド・マンリー・ホプキンズ(生没年1844~1889)は、カトリックに転会したとき、英国教会の聖書つまり欽定訳を使うことができなくなり、「ドゥエー・ランス訳聖書」を使わなければならなくなったため詩作に支障をきたしたことを嘆いたといわれている(「ドゥエー・ランス訳聖書」とは、トリエント公会議によってカトリック公認訳と宣言された「ラテン語ウルガタ訳」に基づいて作られたカトリックの英訳聖書。イングランドでの弾圧を避けてフランスのドゥエーに移転していたカトリック神学校の教授マーティンが中心となって翻訳され、1582年に新約聖書、1609~10年に旧約聖書がランスで出版されたためドゥエー・ランス訳と呼ばれる)。今日、厳密な聖書本文校訂を反映した数々の公的、私的英訳によって、「欽定訳聖書」の圧倒的に権威付けられた地位は消滅している。

当初この英訳聖書の評判はたいしたものではなかったようで、数々の批判があったが、それでも、その渦中から19世紀までの間に、「欽定訳聖書」は英文学史上の傑作としての動かざる地歩を確立していった。ちょうどそれはロマン主義の時代にあたり、「欽定訳聖書」はロマン主義の詩人たちに愛読され、彼らの作品に影響を与え、称えられた。さらにそれ以後の聖書の英訳においても、この聖書はすべてのものを対比的に見るための規準とみなされ、影響を与え続けた。この評価の変遷史は、それぞれの時代の文学観、批評における意識づけが関係している。

近代における聖書英訳の歴史はまずナショナリズムを背景にした英国民の統一的言語、国語の創出への動きと密接な関係にある。著者はその歴史物語を中世の詩人・神秘家であるリチャード・ロール(1300頃~1349)の英訳詩編書とウィクリフ(1320/30~1384)の名が付されている英訳聖書から始める。近世ではティンダル(1494頃~1536)による訳からカンタベリー大司教クランマーと護国卿クロムウェルの命によって作られた「大聖書」(Great Bible, 1539~41年)等の欽定訳以前の翻訳の意図が問題にされている。「大聖書」と「ドゥエー・ランス訳聖書」が生まれる時代は、そもそも国語としての英語がどのようなものにならなければならないかをめぐる論争が背景にあった。つまり、アングロサクソン系統の語彙とラテン語起源の語彙をどう混合させるかの問題であり、それはまた聖書翻訳が宗教改革をめぐる政治的神学的論争を反映していたことも示している。

やがて現れた「ジェネーヴ訳聖書」(1557~60年。メアリ・テューダーによって迫害され、ジュネーヴに亡命した国教会聖職者ホイッティンガムによる翻訳)と国教会主教団によって作られた「主教聖書」(1568年)が加わって、それぞれの支持グループの間で論争が巻き起こる。それぞれの宗教的立場の違いによって翻訳が正確かどうか、あるいは相手の支持する翻訳が英語らしいかどうかが、たとえば「ドゥエー・ランス訳聖書」の訳者マーティンと「主教聖書」支持のファルクの間で戦わされた。

このような経過を背景にして「欽定訳聖書」が英国教会の公的聖書として現れたが、それでも1644年の最後の版まで「ジュネーヴ訳聖書」は流布し続けた。しかしやがて「欽定訳聖書」が「ジュネーヴ訳聖書」を駆逐し、反王党的傾向をもつとみなされた「ジュネーヴ訳聖書」に代わって事実上、英国民の公的聖書の地位を獲得した。ただ、このことは欽定訳の文学性が直ちに承認されたことを意味しない。その後、欽定訳は「雄弁な聖書」と絶賛され始め、詩人ジョン・ダン(1572~1631)がすべての古典を凌駕すると評価し、ミルトン(1608~1674)、バニヤン(1628~1688)によっても称えられたが、新古典主義の時代にはそれが文体のモデルになりうるかどうかをめぐって論争が起こった。

18世紀半ばロバート・ラウスが『ヘブライ人の聖なる詩について』によって聖書がローマ古典とは異なる基準で書かれており、その観点から評価するようになってから、その文学性が認められ、欽定訳の訳者たちが神からの霊感を受けていたという神話とそれが原文の文学的改訂であるとする神話が広まった。それと同時に、著者は、第3の神話、すなわち、欽定訳が出版と同時に絶大な人気を得たとする神話が現れたと述べている。しかしとにかく、ブレイク(1757~1827)、ワーズワース(1770~1850)、コールリッジ(1772~1834)、シェリー(1792~1822)、シャーロット・ブロンテ(1816~1855)らは聖書の中に文学的可能性を見つけた。バイロン(1788~1824)でさえも聖書を読み、作品中の人物のヒントを得ていた。それよりも、批評家ハズリット(1778~1830)が随筆の中で報告しているように、19世紀になってますます重要なのは一般読者による欽定訳評価の声であろう。これはヴィクトリア朝時代を通じて深まり、一歩では非国教徒の間での欽定訳使用の定着と他方では文学としてそれが優れた作品であるとの評価の定着につながった。D・H・ローレンス(1885~1930)の小説を読めば、「欽定訳聖書」なしにそれらが書かれなかったことがわかるであろう。

これら一連のことは別の聖書に依存したカトリック信者たちを、カトリック解放法にもかかわらず、そして19世紀後半の「カトリック・ルネサンス」と呼ばれたカトリック文学者の活躍にもかかわらず、英国文化の主流から疎外することになったことは、ホプキンズの話から想像できよう。

欽定訳は聖書をますます文学的傑作にしていった。また19世紀から20世紀にかけて学校制度が整備されていくと、特に米国で聖書が学校や大学で文学として教えられるようになる。今日「文学としての聖書」は、大学では一つの学科目になっているが、すでに19世紀末にはそれについての教科書や選集が現れていたのである。

※『新カトリック大事典』第3巻 「聖書の翻訳:英語」参照

(高柳俊一/英文学者)


ヴァージニア・ニクソン著『中世末期におけるマリアの母・聖アンナ』

聖家族の絵画にもしばしば登場するマリアの母アンナは聖書外典で登場する人物だが、熱心な崇敬が向けられ、美術にも盛んに描かれるようになった。聖アンナ像を生み出した中世末期の人々の信仰心に目を向けた書を紹介しよう:

ヴァージニア・ニクソン著『中世末期におけるマリアの母・聖アンナ』
Virginia Nixon, Mary’s Mother: Saint Anne in Late Medieval Europe (University Park: The Pennsylvania University Press, 2004), xiii+216 pages

聖母マリアの母、聖アンナなる人物は聖書正典の中に出てくることはなく、2世紀の外典『イエスの幼児物語』における救い主キリストの誕生物語に付属する、母マリアの系図の一部として初めて語られた。そこでは、イスラエルの12部族の一人であった裕福なヨアキムに子孫がなく、神殿で捧げ物をすることを禁じられていたことや、彼が妻アンナの顔を見ずに荒野で40日40夜断食をし、アンナも悲しみにくれていたとき、天使によって子どもを産むであろうと告げられ、マリアを産んだことなどが語られる。ルカ福音書の初めの物語と旧約聖書の長い間子どもを産むことができなかった妻の物語からヒントを得て書かれたものであろう。

本書は聖アンナに対する信心の起こりと初期の段階から最盛期と終焉に至る過程を、信心の対象であった主要な造形作品の特徴の時代的変遷を見ながら分析し、それを通じて背後にあったジェンダー観を最後に明らかにしようとしている。

【さらに読む】
外典福音書の一つ『ヤコブ原福音書』に、ヨアキムの妻として現れたキリストの祖母アンナの物語は、彼女に関してもっと知りたいとする一般民衆の欲求にこたえてさらに詳しいものになっていった。以後、東方、西方の両キリスト教圏で聖アンナの物語は語り続けられ、聖人伝説に成長していった。中世の作家たちは、アンナが3度結婚し、すべてマリアという同じ名を与えられる3人の娘を産んだと語っている。

アンナの娘たちは救い主イエスばかりでなく、多くの子どもを産み、それらの中には、洗礼者ヨハネの他5人の使徒と一人の弟子、ラインラント地方の初期(4世紀末)の司教セルウァティウスとマテルヌスが含まれていたことになる。このような物語は興味深いものであったが、聖アンナは中世盛期においてはまだ、多くの聖人のうちの一人にすぎず、中世末期になって初めてヨーロッパで彼女への信心が確固とした位置を占め、特に1470~1530年の間にドイツと低地地方で広まり、盛んになった。彫刻師と画家たちは、需要にこたえて多種多様な彫刻・絵画・版画の作品を生み出した。この人気は16世紀の宗教改革時代初期にまで続いたが、やがて衰える。

聖アンナ信心の隆盛には中世末期の社会的経済的背景があったといわなければならない。それは経済的繁栄に伴う都市商人からなる市民階級が社会の表舞台に登場したことであった。聖アンナへの信心は、富裕な商人家庭の理想像と女性たちの意識を反映したものでもあったのである。15世紀と16世紀初期のオランダでは、聖アンナが幼子イエスと聖母マリアを抱く様子が彫刻のモチーフとなっている。それらは、後期ゴチックのリアリズムと経済的豊かさを窺わせるようにして、当時の玩具・衣装・装身具で飾られ、裕福な中流市民の生活を映し出している。このようなタイプの作品はフランス、スペイン、イタリアではあまり見られず、ポーランド、ボへミア、北欧スカンディナヴィアで広く見られる。大量生産の版画の存在は聖アンナのイメージが一般民衆によっても求められ、もてはやされたことを示している。それらの造形作品の存在は、当時「一つの現象」があったことを示していると、著者は考えている。

聖アンナを描いた立像や彫刻、あるいは絵画に表現された信心の隆盛はどのようにして起こされたのであるか。誰がそれを推進したのであろうか。当時のそれぞれ都市には多くの教会、施療施設をもつ修道院あるいは女子修道院等の宗教施設が飽和状態であった。それは施設拡充や補修のために莫大な資金を要し、台頭してきた富裕市民階層の家庭を切り盛りし、商売を助けた女性からそのための寄進を集められることに着目した。こうして聖職者たちは教会・巡礼地・祭壇を聖アンナに捧げ、このような家庭の女性たちばかりでなく、その夫たちにもアンナを家庭の模範、家庭の保護者として崇めるように推奨したのであった。彼らの娘たちの多くにアンナの洗礼名が与えられ、謙虚で慎み深い家庭の主婦のイメージをもつ聖アンナ像が定着していった。

中世末期は信徒の信心会が生まれ、広がった時代でもあった。聖職者層は聖アンナ信心をこのような運動によって教会の枠内にとどめ、指導できるようにしたと思われる。多くの信心会が結成されたが、聖アンナ信心会がそれに新しく加わった。イエスの祖母の話は有名な『黄金伝説』にも出てくるが、そのあたりまでの中世の救済論ではアンナに救済における何の役割も与えられていなかった。しかし、聖アンナ信心が広がっていくと、彼女にその役割が与えられるようになる。宗教改革者になる以前の修道士マルティン・ルターは聖アンナに誓願を立てるほど、彼女の信心に熱心だったが、やがてそれに距離を置くようになり、聖人崇拝には否定的となっていく。聖アンナ信心が盛んに見られたのは、16世紀の宗教改革運動が広がった地域でもある。宗教改革が歴史に明白な影響を及ぼすようになったとき、聖アンナ信心を反映した造形作品の制作は終わりを告げる。

聖アンナと幼子イエスを抱く聖母マリアのモチーフには初期から近代に一層近づいた時代までに描き方に大きな変化があった。初期のものでは聖アンナが中心に大きく描かれ、主役である。時代を経るとともに、彼女は男性の縁者たちを背景にして一歩後退し、聖母子を後ろから見守るようにして描かれるようになる。著者は最近の研究を紹介しながら、聖アンナ像が経済的変化と女性の役割の変化を反映してきていたことを指摘している。それは中世的女性像から近代的女性像への変貌なしには理解できないと、著者は考えている。

カトリック圏では、北方バロック美術は短い期間であったが、聖アンナを厳格な風格をもった預言者の姿をしたキリストの祖母として描くようになった。そのような聖アンナ像は北フランスのブルターニュ地方で一般的に描かれ、その後、フランス語カナダのケベック地方にもたらされ、特に母親たちの守護の聖人とみなされるようになった。フランスから彫像が聖遺物ともにもたらされ、今でもサント・ド・ボプレの巡礼地は米国からの巡礼者によってにぎわっていることを指摘して、著者は本書を結んでいる。

(高柳俊一/英文学者)


ウールリック・L・レーナー『カトリック啓蒙主義:ある地球規模の運動の忘れられた歴史』

「近代」と「カトリシズム」とはしばしば対決の構図ないし「カトリシズムの近代に対する自己防衛」という見方で語られることが多い。しかし近代を象徴する啓蒙主義的精神はカトリック世界にも確実に胎動していた。そんな新鮮な歴史展望を告げる書:

ウールリック・L・レーナー『カトリック啓蒙主義:ある地球規模の運動の忘れられた歴史』
Urlich L. Lehner, Dialektik the Catholic Enlightment : The Forgotten History of a Global Movement (Oxford : Oxford University Press, 2016) 257 pages

本書の著者は、ドイツのレーゲンスブルクで博士号を取得し、現在、米国ウィスコンシン州ミルウォーキーにあるイエズス会経営のマーケット大学で教職にある若手の研究者で、ドイツ教会史学会で定着した「カトリック啓蒙主義」という概念を英語圏の歴史学会に認知させた立役者である。2011年には、ドイツ語圏での啓蒙主義時代のベネディクト会修道院における改革運動に関する専門書『啓蒙化された修道僧――ドイツのベネディクト会士 1740-1803』を世に問うている。さらにジェフリー・バーソン(Jeffrey D. Burson)との共編『ヨーロッパにおける啓蒙主義とカトリシズム:国境を超えた歴史』(2014年)がある。後者の副題「国境を超えた歴史」と本書の副題「地球規模の運動の忘れられた歴史」は、共通の展望をもちながらも、それぞれの視点が微妙に異なることを暗示している。

【さらに読む】
著者は、カトリック啓蒙主義が近代化を推進する汎ヨーロッパ的な運動としてばかりでなく、近代ヨーロッパ文明がアフリカやインドから中国に及び、新大陸発見を通して中南米に拡大し、全地球を覆うようになった過程において、発見や学び、かつそれぞれの宣教地での信仰の基礎として理性と教義の総合をめざす試みを推進したことを指摘し、カトリック信者以外の人々の人権を認め、推奨する積極的な姿勢が究極においてヨーロッパ本国のカトリック啓蒙主義の運動に結びつくことを指摘する。

こういった観点から、著者は、教会のあり方に批判的な人物としてこれまでネガティブに評価されてきた啓蒙主義思想家を自由と人権の擁護者として彼らの思想が近代化に果たした役割を評価し、カトリック思想史における彼らの位置づけを肯定的なものに正すべきだと考えているようである。

究極的に、カトリシズムは近代世俗社会と折り合いをつけることができるかどうか。カトリック啓蒙主義者たちは、教会の位階制度の権威に反対したかもしれないが、それはカトリック信仰を否定したのではなかった。しかし、教会当局者は、すでに旧態化している制度を変革し、自由な弾力をもって近代の精神的動向に敏感に反応し、それを取り入れることよりも、教会の既得権益護持にエネルギーを費やしてきた、と著者は考えているようである。

聡明な教皇ベネディクト14世(在位年1740〜1758)は、教会内の改革による信徒の思想の自由を推進しようとしたが、それは妥協の産物であった。カトリック国の植民地における奴隷や従に僕たちの地位の向上に尽力した「啓蒙的」先駆者や修道者、また国内でも女性の地位向上を働きかけた先進的な修道女もいたが、その実現は遅々としていた。

結局のところ、自由、他宗教・他教派の人々の人権尊重は体制護持の風潮によって阻まれ、改革は思うように進んでいなかったというのが実情であったといいうる。著者によれば、それは、フランス革命の性格が過激化し、その状況に対して恐怖を抱いた穏健な教会当局者と彼らを支持した信徒の思想家たちが啓蒙主義に反対し始めたからであった。

強固な反啓蒙主義の防波堤が教会の周りに張りめぐらされた結果、啓蒙主義は教会の敵に仕立てあげられてしまった、と著者は考える。この状況がはっきりと姿を現し、教会制度に「受肉」してしまった結果、「カトリック啓蒙主義」は終焉し、啓蒙主義はカトリシズムと相容れないということになってしまった。こうしてカトリック教会内の啓蒙主義に対する評価や受容は頓挫したというのである。

著者は、こうした変化が起こるのは、18世紀末から19世紀にかけての全ヨーロッパに広まったロマン主義的復古の時代風潮によってであると断定している。その新しい時代精神のもとに、カトリシズムは「教皇中心的カトリシズム」へと変貌し、その頂点といえる第1バチカン公会議の教皇の不可謬性の教義理宣言に至る。その結末として、20世紀前半にはモデルニスムス(近代主義)の排斥とこの思想に対する神経質な探索という事態がひき起こされた。こうした状況の改善は、第2バチカン公会議による教会の方向転換によってようやく始まったのである。

第2バチカン公会議後の教会は、カトリック啓蒙主義がトリエント公会議(1545〜1563年)による改革をさらに推し進めて近代精神とカトリックの教義との間を調停し、カトリック教会と近代精神の相互受容を始めた。この姿勢を復興させる必要があるということを著者は、強く示唆しているといってよい。

(高柳俊一/英文学者)


ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー著『世俗化の弁証法:理性と宗教について』

名誉教皇ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーはどの立場から評価するにしても、第2バチカン公会議後の時代に足跡を残した神学者であることは間違いない。教皇として彼が発信したメッセージの背後にある精神を覗かれる一書の紹介:

ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー『世俗化の弁証法:理性と宗教について』
Jürgen Habermas/Joseph Ratzinger, Dialektik der Säkuralisierung: Über Vernunft und Religion (Freiburg: Herder Verlag, 2005), 64 pages

本書は、小冊子であるが、教理省長官ラッツィンガー枢機卿(生年1927)が教皇に選出され、ベネディクト16世となる2年ほど前(2003年)にドイツ、バイエルン州カトリック・アカデミーで、批判哲学のフランクフルト学派の一人ハーバマス(生年1929)と、現代社会における宗教の貢献をめぐって討論した時のそれぞれの発題を収めたものである。

ハーバマスはコミュニケーション理論、社会理論において同じフランクフルト学派の創立者であるマルクス主義的なテオドール・アドルノ(生没年1903~1969)やマックス・ホルクハイマー(生没年1895~1973)の次の世代の哲学者であり、本来プロテスタント・福音主義教会の背景をもっているため、この二人からはある距離を保っている。それでも、すでにカトリック教会の保守派という評判の神学者ラッツィンガーがハーバマスと同じ会合に出席し、友好裡に議論を行ったことは一般の人々から驚きをもって受けとめられた。

【さらに読む】
本書は、バイエルン州カトリック・アカデミーの会長フロリオン・シュラーの前置きで始まっているが、2人が用意し、まず自らの立場を語った発題内容を収録したもので、二人が交わした討論の部分はない。討論内容と雰囲気は『ライニシャー・メルクール』2004年1月22日号の詳細な記事と要約を読まなければよくつかむことができないと思われる(『ライニシャー・メルクール』は1946年から2010年までボンで発行されていた保守的カトリック系週刊新聞。2010年以降は『ディー・ツァイト』紙の中の「キリスト者と世界」という折込付録の形をとっている)。シュラーはほとんど同年輩の2人の知的巨人の出会いと友好裡に行われた議論がもたらす意義を強調している。

テーマは、いわゆるポストモダン市民社会における共通の倫理価値と基準の必要性をめぐるものであった。ハーバマスはそれを伝統的な教会に求め、多元的な市民社会に通用するように教会がもっている倫理的認識を今日に訴える言語で表現するように求めた。それに対してラッツィンガーは、現代の宗教的空白において台頭しつつある宗教的病理現象に憂慮の念を表明しながら、理性の側に立つ世俗思想と伝統的立場に立つ教会が互いに聴く力をもつようにならなければならないと応答している。

それまで、ラッツィンガー枢機卿が神学者として、キリスト教とカトリック教会の立場から政治的社会的な根本問題に関心を示していたことは、彼が教皇になってから出版された論文集『信仰・真理・寛容』の中の諸論文を読めばわかる。だから、彼がこのような討論会で、世俗的理性を代表する市民社会の弁護者ハーバマスの挑戦を受けて立ったのは決して突飛なことではない。彼はハーバマスに対して18世紀の啓蒙主義的理性を基礎とする古典的西欧市民社会が他の世界観をもつ宗教の脅威を受けるばかりでなく、人間存在の尊厳の保持が生命科学の進歩によって限界に来ていることを指摘した。ラッツィンガーが代表したキリスト教的立場からの主張の核心は、多元化した市民社会を分裂から救うものは、市民的価値に先行し、それを裏付ける根底が何であるかの認識であるという点にある。

(高柳俊一/英文学者)


ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』

前々回紹介した『トリエント――公会議で何が起こったか?』の著者オマリーが2008年に発表した第2バチカン公会議についての書を紹介する。日本では、司教団によって『第二バチカン公会議公文書』の改訂公式訳が2013年に出ており、この公会議の経緯や意義についての新しい視点が求められるところである。その刺激の一つにしたい:

ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』
John W. O’Malley, What Happened at Vatican II, Cambridge, Massachusetts. : The Belknap Press of Harvard University Press, 2008,xi+380 Pages.

第2バチカン公会議の経過については、1965年から2006年にかけて各国語に翻訳されて出版されたジュセッペ・アルベリゴの『第2ヴァティカン公会議史』をはじめ、日本語に翻訳された小史を含めて、いく冊の本がすでにある。カール・ラーナー(生没年1904〜1984)は、公会議後数十年経た時点を「教会の冬の時代」と呼んだが、半世紀を経た今日、この公会議で意図されたものは何であったかをあらためて考える必要がある時期が来ているようである。

公会議は教皇ヨハネ23世(在位年1958〜1963)が開催のスローガンとしてアジョルナメント(教会の現代化)をあげたが、今日では公会議のルスースマン(〔仏〕Ressourcement =源泉回帰)が教会当局によってスローガンとして折に触れて強調される時代となっている。ルスースマンとは手っ取り早く言えばリサイクルのことである。確かに、ルスースマンは本書の著者オマリーがあげる三つ、アジョルナメント(現代化)、デヴェロプメント(未来志向)とともに過去との連結を保証するものであるが、今日盛んに使われる意味では、第2バチカン公会議から純正な要素をリサイクルして再解釈するということ、それがスローガンになっているのである。

【さらに読む】
イエズス会司祭である教会史家オマリーは、教会史における幾多の公会議を歴史的に概観し、近代、特に、「長かった19世紀」の背景をふり返ったあと、4会期にわたった第2バチカン公会議の成果を分析している。そして個々の論点を超えて、この公会議が教会のために何を達成し、将来にどのような方向を示しているかを語ろうとしている。

「長かった19世紀」は、間にレオ13世(在位年1878〜1903)のやや開放的な時期もあったが、グレゴリウス16世(在位年1831〜1846)の治世に始まる、近代主義に包囲された教会のカルチャーから理解されなければならない。イヴ・コンガール(生没年1904〜1995)が日記で記しているように、冷戦時代においてこのカルチャーのゆえに、教皇庁は、イタリア国内での共産主義政府樹立によるバチカン包囲への恐怖感によって、世俗世界への対立姿勢を強めていた。だから「長かった19世紀」は、20世紀が後半に入りまもなくの第2バチカン公会議開催直前まで続いたと言える。その姿勢は、数々の近代主義的傾向の排斥に見られるものである。

著者は、教会典礼用語としてのラテン語がすべてを統括する普遍主義を象徴していたことを指摘する。ハンス・キュング(生年1928)は自叙伝の中で、公会議の最初の文書がもっと重要であるはずのテーマでなく、典礼についての憲章であったことに対して滑稽感ともに幻滅感をもったと回想しているが、著者は『典礼憲章』の採択は、公会議において重要な、象徴的出来事として受け止めている。それは、以後、公会議で「起こったこと」、特に19世紀に高揚した教会の中央集権的メンタリティとの決別を象徴しているからである。

ヨハネ23世の「アジョルナメント」は、「現代世界を恐れるな」ということであった。当時もっぱら進歩的若き神学者として評価が高かったラッツィンガー(生年1927。教皇ベネディクト16世としての在位年2005〜2013)は、『第二バチカン公会議をふり返って』(原著1966年、再版2009年)という小著の結論として、「教会は喜ばしい時にも、悲しむべき状況でも、心の単純な人々の信仰に生きている。……彼らこそが新約の希望の灯火を後世に伝えるのである」と述べている。しかし「単純な人々の信仰」には、たしかに信徒のローマと教皇に対する強い愛着がつきものであるが、ローマ中枢の聖職者主義的カルチャーとは無縁であったのではなかろうか。オマリーの説明をたどれば、公会議の結末をなす重要な文書『現代世界憲章』は『典礼憲章』から出発したうねりの帰着、大団円であったのである。

『現代世界憲章』は、もっとも激しい議論を経て出来上がった文書であった。ルター派の義認論的人間観を意識したドイツ司教団は、フランス語圏の顧問が作成した原案に賛成しなかった。おそらくその背後には、よく言われるようにアウグスティヌスから出発するラッツィンガーの考え方があったのかもしれない。彼は公会議閉幕の典礼が「バロック的」雰囲気を醸し出したとコメントし、以下のように述べている。「しかし、公会議後の仕事はもっと深いところに及ぶ。ローマで起こったことは与えられた使命の公文書化にすぎない。その遂行が今や始まるのである」。つまり、それらの文書が現実に教会の制度に受肉されていくかどうかが問題なのだということであろう。

近代世界は、技術の次元にとどまるものではない。重要なのはそこに生きる人々である。著者によると、第2バチカン公会議は、外面的様相においても内面的姿勢においても、第1バチカン公会議とはまったく異なる教会の姿を夢想する一種のユートピアを掲げた。第2バチカン公会議で起こったのは、長すぎた「19世紀」の影と決別し、近代世界に対して識別の眼差しをもって積極的に関わらなければならないと考えた多数の司教たちの考え方が優位に立ったということである。しかし『教会憲章』で打ち出された司教の「共同性=コレジアリタス」の原理は、世界代表司教会議(シノドス)の制度化へと矮小化され、結果的にはそれを超えることなくとどまり、一極集中型の制度自体を本質的に変えるためにはさほどの影響を与えなかった。

オマリーの冷徹な歴史眼は、この公会議がそれまでと同様の権力中枢で開かれ、その名前(バチカン)を戴き、その組織の助けによらなければ成果を上げることができなかったという矛盾を内包していた事実を見抜いている。保守派は、かつて国務長官だったパウロ6世の後ろ盾によって最後まで結束を保っていた。ハンス・キュンクは、保守派の頭目オッタヴィアーニ(生没年1890〜1979)枢機卿が公会議閉幕時に「我々は勝利した」と喝破した、と記している。その後、改革を推進しようとするならば、さらに保守派の助けによって行わなければならないというジレンマが第2バチカン公会議の行く手にはあったというのである。

(高柳俊一/英文学者)


ヘレン・K・ボンド著『ポンティオ・ピラト:歴史と解釈における』と『カイアファ:ローマの友、イエスの裁判官?』

福音書が物語るイエスの受難史の中で、大きく立ちはだかるローマとユダヤそれぞれ体制の代表者総督ピラトと大祭司カイアファ。この二人の人物の歴史的実像はどのようなものなのだろうか。特にピラトは使徒信条を唱える際に繰り返し名を告げるだけに興味深い。近年の研究の様相を伝える2書を紹介ししよう:

ヘレン・K・ボンド著『ポンティオ・ピラト:歴史と解釈における』
同著『カイアファ:ローマの友、イエスの裁判官?』
Helen K. Bond, Pontius Pilate: in History and interpretation (Cambridge: Cambridge University Press, 1998) (Society for New Testament Studies Monograph Series 100), xxv+249 pages.
Helen K. Bond, Caiaphas: Friend of Rome and Judge of Jesus? (Louisville: Westminster John Knox Press, 2004), x+220 pages.

以上の2点は同じ女性新約学者によるイエスの裁判におけるそれぞれローマ行政官とユダヤ教大祭司であった2人の当事者についての研究である。

『ピラト』では、著者はまずローマの歴史家タキトゥスらの資料に基づいて、この第5代ユダヤ総督の政治・行政的状況をシリアとパレスティナの関係についての地政学的見地から説明している。すでにこの問題については多くの研究者の研究対象となっており、意見が分かれる点が多い。著者は序論で研究・学説史を展望して自分の立場を明らかにしようとする。ついで、新約時代におけるギリシア化したユダヤ人著作家フィロンとヨセフスの著書におけるピラトの記述を出発点として、彼らそれぞれの立場からのこのローマ総督に対する見方を紹介している。続いて、マルコから始めて第4福音書ヨハネまでのそれぞれの福音書の神学からなされたピラトの性格解釈を引き出す方法が取られ、最後に総括として、福音書の受難物語の背後に何があったのか、いわばイエスの史的裁判ともいうべきものを再現しようと試みている。著者は『ピラト』を発表した後、このローマ総督に対してイエスの受難史におけるもう一方の立役者エルサレムの大祭司長カイアファの研究を著している。

ピラトとカイアファ。両者のついての見方は、ピラトが東方教会では聖人とまで考えられるほどの高い評価を与えたのに対して、西方教会では反対にピラトに対する評価は低く、その死が恐ろしいものであったとしている。カイアファについては多くの場合、彼の人物はユダヤ人一般のイメージの中に取り込まれ、キリスト教徒の想像力をかき立てるものにはならなかった。

【さらに読む】
『ピラト』において、著者はローマ属領史とその行政的区分と関係の問題、さらには当時のユダヤ側資料としてのフィロン(生没年 前25~後45)の著書やヨセフス(生没年 37/38頃~100頃)の『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』については多くの研究がなされていることを指摘し、そのおおかたの意見をまとめるが、福音書が描くピラトを細かく検討した研究は英語圏ではほとんど見られないと述べている。二人のユダヤ人著作家によるピラト像はそれぞれの立場や利害関係の網をとおして解釈されたものである。福音書におけるピラト像もその記述者の背景や意図のリトマス紙を通したものである。つまり、著者が言うには、共観福音書マタイとルカのものがどのようにマルコのものから違ったものになっているかが重要になってくる。あるいはヨハネ福音書の場合はどうであるのか。そして、それが1世紀のそれぞれ異なったキリスト教団がもっていたローマ当局に対してもっていた態度にどのように反映されているのかを見ることは重要である。

共観福音書の最初であるマルコは原始的な段階のものとされてきたが、著者はこのような古典的聖書学の見方には反対のようである。マルコの目的は、彼の教団の信者たちを来るべき迫害の困難のために準備させることであった。ピラトはこうしていわば強い性格の迫害者の原型としてマルコによって描かれる。マルコにとってイエスは何の非もなく処刑された救い主である。ピラトは有能な政治家で、けっして優柔不断な弱い性格の持ち主ではない。イエスは彼の前で沈黙したが、その沈黙が彼を十字架の刑に導いたのである。著者はこの点に関してマルコ4章17節と8章34~38節に言及している。すべての責任はユダヤ人祭司の側にある。ピラトによる処刑はねたみと誤解に由来する。マルコの福音は無実な人の子が決して失敗した政治的指導者などではなく、多くの人のために命を代価として支払った救い主であるとするものである。

マタイはこのテーマを受け取ったが、ユダの自殺の話や、ピラトの妻が見た夢、バラバのことなどを加えて語りとして引き立つようにした。著者はマタイにおいて群衆の役割とその責任を強調する。ある意味でマタイは反ユダヤ人主義的である。著者はピラトが総督ピラトと呼ばれることに注意を喚起する。裁判はあくまでもローマ当局による裁判である。しかしマルコに較べてマタイでは、ピラトの裁判での役割はあまり重要でなくなる。マタイの関心事はキリスト教徒とユダヤ教の関係の断絶であり、イエスの死の責任はユダヤ人祭司階級と群衆にある。ピラトにまったく責任がないのではないが、マタイの記述には、ピラトがローマとユダヤ人との微妙な関係を背景にして、事件の責任をユダヤ人側に押しつけようとしたことがうかがわれる。

ルカは受難物語の前にすでに3度ピラトの名前を出している。(ルカ3・1、13・1、20・20以下)。著者はルカがマルコの記述を大いに書き換えたと考える。ルカのキリスト教弁明の中心路線は23章1~25節で披瀝(ひれき)されているが、それはピラトをイエスの無実についての公的証言者として利用し、イエスの十字架刑の責任をユダヤ人の代表である大祭司たちの陰謀に結びつけることであった。最終的には群衆がローマの正義に勝つことになる。

ルカは初めてピラトを弱いローマ総督として描いたのに対して、ヨハネにおけるピラトは優柔不断の支配者ではなく、イエスを直ちに裁判し、彼がローマの支配にとって脅威であることを見抜く総督である。しかし彼はイエスを嘲ることを最後までやめない。ヨハネ福音書においてユダヤ人もピラトもともにイエスに敵対的である。イエスのこの世のものでない支配とカエサルの権力のはっきりとした対照は、この福音書の読者の教団が帝国主義的ローマの力をつねに意識していたことを暗示する。

聖書外からの証言は、ピラトが強力な行政官であり、同時に地域の平和を維持するために柔軟であったことを示し、水道の建設は彼が大祭司たちと協力関係をもつことができた有能な政治家であったことを示している。イエスの処刑は過越祭というもっとも手腕と緊張を要求する時期に行われた。ここでもピラトは、神殿当局と協力して秩序を守ることができることを示している。ヨセフスは彼が反乱を抑圧するのに容赦しない残忍な人物であると述べているが、フィロンが述べているように、過越祭のエルサレムで、兵士たちの盾から帝国のイメージを消させたような配慮ができる行政官であった。

次に『カイアファ』を紹介しよう。カイアファは代々大祭司を出していた一族であった。なぜ彼が長くこの職に就くことができたかはヘロデ・アンティパスの政策とのかかわりがある。著者はまず1990年11月の終わり頃、エルサレムの南で行われていた公共工事の現場で偶然発見された墓の石棺の文字からそれがカイアファ一族のものである可能性が取りざたされた墓について語る。その中にあった60歳前後の男性の骨は不確かだが、カイアファのものの可能性はある。それが、カイアファが実際の歴史の中で重要な人物であったことを示す証拠になりうると著者は述べている。

5世紀の外典『ピラトの言行録』では、彼と叔父のアンアは一貫してイエスの裁判で彼を糾弾するが、イエスの神性が証明されると、彼は回心して敬虔なキリスト教徒になる。アラビヤ語の幼児福音とも呼ばれる『ヨセフ・カイアファの本』は同じような見方をしている。しかし、この人物に対する好意的見方はキリスト教の中で一般的にならなかった。中世の神秘劇ではカイアファはおきまりの登場人物となったが、彼の滑稽さだけが強調された。そして後の時代でも現代に至るまで彼を好意的に見る者はいない。

カイアファは、裁判でイエスに出会う以前に彼自身の歴史をもち、それがイエスの裁判で大きな役割を演じた。この裁判はエルサレムの大祭司一族に生まれ育った人物とガリラヤの農村部で生まれ育った人物の文化的衝突であったことを著者は暗示する。カイアファはその生涯中多くのメシアや反乱者を経験し、大祭司として神殿で公的中心人物として生き、その政治的に重要な役目はローマ軍を彼の同胞に近づけないようにすることであった。その観点で彼とピラトとの関係は見られなければならない。こうして本書で著者はヨセフスと他のユダヤ教文書、死海文書やクムラン文書さらには後世のユダヤ教文書、考古学的知見を福音書に照らしあわせて「史的カイアファ」にたどりとこうとする。

まずカイアファという名前だが、それが「籠」を意味するようであるので、著者は祖先がおそらく市場で籠を売っていた商人か、ロバで籠を運ぶ運搬業者だったのではないかと推測する。しかし紀元前1世紀頃からエルサレムとその周辺に土地をもつ富豪になっていて、周辺の土地管理は代理人に任せてエルサレム市内に住む貴族となっていた。そのような貴族の中から、彼はエルサレム神殿で奉仕する大祭司に上り詰めるのだが、もともと祭司の一族でなかった彼がその地位に着くことができたのは彼が結婚によって大祭司アンナスの一族とつながりができたためであった。

ローマ属領、ヘロデ・アンティパスの支配の時、大祭司の第1の使命は神殿の行事がスムースに運ぶようにすることであり、そのために、ローマ当局と複雑で広い神殿構内の運営が任されるように微妙な妥協をすることであった。カイアファが受けた教育は当時の文書から知られるものであったはずである。ローマ支配時代はすべてのユダヤ人にとって困難なものであったが、彼は政治的現実を受け入れなければならず、ローマ当局が要求するところと神への義務の間を調整しなければならなかった。カイアファが19年間も大祭司でありえた事実は、彼の調整能力と外交的手腕のほどを暗示している。ある意味でそれが可能であったのはピラトとの良好な関係であった。ピラトがローマに召還され、パレスティナの現地を離れたとき、彼は大祭司の地位を失う。その後、彼はどうなったのか、彼の死はその誕生がヴェールに包まれているように神秘に包まれている。

著者は以上の考察の後、それぞれに1章をふりあてて4つの福音書における「文学的カイアファ」がどのようなものであり、どう違うかを詳しく分析する。最初のマルコ福音書は大祭司を名指しすることを拒否し、イエスの死刑が神殿の祭司団の責任であったことを暗示する。ルカは歴史的人物カイアファに興味をもったように見えるが(ルカ3・2、使徒言行録4・6)、実はマルコと同じで、カイアファの名前を出していないし、大祭司は使徒言行録の初めのペトロと弟子たちが神殿で起こす騒動には姿を見せない。マタイとヨハネにおいては、イエスの裁判をめぐって彼とイエスの対決の図式が使われている。マタイではまだ萌芽の段階だが、ヨハネはそれをはっきりと打ち出している。4人の福音書記述者とも「史的カイアファ」についての歴史的正確さには興味をもたず、なぜイスラエルの指導者、祭司たちがイエスを受け付けなかったのか、教会がどのようにして「新しいイスラエル」なのか、誰がそのメンバーなのかに興味を寄せるだけなのである。

(高柳俊一/英文学者)


ジョン・オマリー『トリエント――公会議で何が起こったか』

今年は、宗教改革500年にあたり、ルターに始まるあの運動が盛んに回顧され論じられている。この歴史的反省は、やがては、近代カトリック教会の揺籃といえるトリエント公会議にまで広げられていくであろう。更新された史料状況に基づく検証を示す書を紹介しよう:

ジョン・オマリー『トリエント――公会議で何が起こったか』
John O’Malley, Trent: What Happened at the Council,
(Cambridge Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press) 2013, 335 pages.

本書の著者オマリーは米国の著名な教会史家であり、イエズス会創立時代と第2バチカン公会議についての著書もある。今回は、トリエント公会議についての著書である。

15世紀末の低迷ぶりに教会の聖職階級内外から改革を求める声が上がっていた。コンスタンツ公会議(1414〜18年)は、俗人諸侯が3人の教皇座主張者の出現による教会分裂(西方教会大分裂)を解消し、教会規律の再確立をめざした公会議であった。しかし、教会分裂が解消され、教皇と教皇庁がローマに戻り、教皇の権威が再び確立されたのちも、神聖ローマ帝国領ドイツと中央ヨーロッパでは、ルターの追従者による改革の叫びが大きくなったので、皇帝カール5世(在位年1519〜56)は、教皇に新たに公会議を開くように強く要求した。当初、消極的であった教皇側もこれに応じざるを得なくなったが、公会議開催の場所をめぐって両者の交渉は長引いた。教皇側は、当初イタリア中部の都市、どちらかといえばローマに近いマントヴァで公会議を開こうとしていたが、ルターを支持するシュマルカルデン同盟の諸侯が反対し、帝国都市とはいえ皇帝の影響を受けないであろう、北イタリアのトリエントでの開催ということで合意し、公会議が開かれることになった。

著者は、この公会議の経緯を検証し、本来のトリエント公会議それ自体と、それ以後に派生し蓄積されたトリエント公会議以後の現象としての「トリエント(公会議的伝統)」を区別し、この公会議にまとわりつく誤解を歴史学的に払拭しようとしている。

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著者はこの町が現在では中規模の都市になっていると書いているが、評者は、昔クリスマスに近いある日、ミュンヘンを朝6時に発ちローマに夜9時に着く列車で旅行したとき、トリエントの駅が小さく、ここがあのトリエントかと思ったことを今でも記憶している。半世紀前のことである。今では、ローマやイタリアの主要都市に行く旅行者の大部分は航空機を使うから、トリエント公会議に関心があっても実際にその町を通る者は少ないであろう。

16世紀当時、この町は帝国都市とはいえ、今よりもっと小さな山岳地帯の町であった。まず、このような小さな町に、ヨーロッパ各地から教会の高位聖職者と皇帝使節、随員、召使、それに聖職者顧問らのための宿泊施設や食料補給が可能なのか、ローマが本気で公会議を開くつもりなのかを疑う者も多かった。しかし、教皇パウルス3世(在位年1534〜49)の決意は堅く、フランス国王フランソア1世(在位年1515〜47)の軍隊を打ち破り、パリ近くまで侵攻していたカール5世は、スペインを含むヨーロッパ全土から配下の司教を送り込み、ベネディクト会修道院の院長や托鉢修道会の長上、諸国の大使が加わって、教皇使節モローネ枢機卿(生没年1509-80)の司式によって聖霊のミサが荘厳に祝われ、その5日後、最初の総会が開かれ、議事日程と議題が決められ、審議が始まった。

こうしてトリエント公会議は、1545〜47年、1551〜52年、1562〜63年の3つの会期を通じて18年にわたって続けられた。回を重ねるごとに参加者の数は増え、そのことは宿泊と食料補給の問題をいっそう差し迫ったものとした。加えて、この町の冬の寒さと夏の暑さに参加者は悩まされ、身体的疲労は長期にわたって、いつ終わるか先行きのわからない議論の連続に対する倦怠感を助長した。

この18年の間に、教皇はパウルス3世からユリウス3世(在位年1550〜55)、そしてピウス5世(在位年1566〜72)へと受け継がれ、神聖ローマ皇帝は、カール5世からフェルディナント1世(在位年1558〜64)の時代へと移り、フランスではフランソア1世とアンリ2世(在位年1547〜59)、スペインではフェリペ2世(在位年1556〜98)が頭角を現し、顧問神学者の中でアウグスチノ会のセリパンド(生没年1492〜1563)が最初の2期、イエズス会のライネス(生没年1512〜65)は最初の2期は教皇顧問神学者として、第3会期では総会長として、同じくイエズス会士サルメロン(生没年1515〜85)は全会期を通して教皇顧問神学者として抜きんでた活躍をした。数人の教皇代理の中で最後までその任にとどまったのはモローネ枢機卿であり、彼こそがさまざまな障害と行き詰まりを、卓越した能力によって克服し、トリエント公会議を成功裏に終了に導いた功労者であった。彼の成功は、第3期の途中にやっと姿を現したフランス勢の中心的人物シャルル・ド・ギーズ枢機卿(生没年1524〜74)の協力のおかげであった。そして、第3期まで常時200名だった参加者は、最後には280人になっていた。

なぜ、そのような緩慢な始まりだったのだろうか。アルプス以北のヨーロッパは政情、社会状況とも不安定であった。派遣する司教を選ぶ領主は、当然のことながら費用を抑えるために派遣司教の数を最小限にしていた。最後の会期では、イタリア勢がフィレンツェ、ハプスブルク家領のミラノ公とナポリを含めて多数を占め、アイルランド、中央ヨーロッパのハンガリー、チェコ、クロアチアからもごく少数の参加者があったが、ドイツ国内の宗教問題による騒動を終結させるのが、この公会議の当初の目的であったにもかかわらず、第2期をのぞいてドイツ勢はほとんど無に近かった。

コンスタンツ公会議では、諸侯つまり聖職者を含む諸国の大使が「オラトーレス」と呼ばれ、すべての会議に出席する権利を与えられており、会議の決定に大きな影響力をもっていた。しかし、ともかくも、コンスタンツ公会議に比べて、トリエント公会議は、聖職者が主導権をもった公会議であった。教皇はローマに在住し、枢機卿たちを集めた枢密院会議を定期的に開いていたので、教皇代理としてトリエントに派遣されていた数人をのぞいて大部分の枢機卿はローマにとどまっていた。教皇代理たちは、トリエントからローマへ議事録を送ったり、教皇から指令を仰いだりするために、多くの日時を要した。

18年もかかった公会議は、教皇にとって財政的に重い負担を背負わされる、結末の見えない事業であった。だから、彼らは教皇代理にしばしば強い調子で議事促進の指令を出した。それで「昔の公会議は聖霊が天から司教たちに降って進行したが、この公会議では聖霊がローマ教皇の指令の郵便袋によって到着する」と皮肉をささやかれたものである。

トリエント公会議についての書物といえば、ドイツの教会史家イェディン(生没年1900〜80)の『トリエント公会議史』全4巻(刊行年間1949〜75)が学問的な権威ある書物である。著者はイェディンに多くを依存しつつも、第2バチカン公会議以後の教会の現状に対する歴史的展望を読者に提供しようとしたと述べている。確かに、トリエント公会議は、ヨーロッパ内の不安定な状況に加えて、中央ヨーロッパと地中海へのイスラム(オスマン帝国)の進出による脅威の中で続けられた、教会刷新をめざした公会議であった。J.H.ニューマン(生没年1801〜90)が長い間、ローマ・カトリックへの改宗をためらった理由は、彼自身の言葉によれば、トリエント公会議がそれまでのキリスト教の伝統を捨てて、教会が昔の姿とは似ても似つかない代物に変わったと考えたからであった。

しかし、カトリック教会はまさにトリエント公会議によって近代への対応ができる教会になったのである。トリエント公会議は「祭具室の中での話し合い」では決してなく、近代に向かいつつある社会に対応する教義と制度に基づいて教会生活を確立しようとしたものであった。著者には、ぜひ19世紀末の第1バチカン公会議の評価も書いてもらいたいと思う。

(高柳俊一/英文学者)