ミサはなかなか面白い 53 「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

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答五郎 さて、いよいよ狭い意味での奉献文を見ていくことにしよう。「感謝の賛歌」が「天のいと高きところにホザンナ」という句で終わって、いよいよ、ひとまとまりの長い祈りを始めるところだ。

女の子_うきわ

美沙 何かとてもあらたまって、厳粛に感じられるところですね。

 

 

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答五郎 その感覚はどこから生まれるのか。ここで行われることの大切さ、深さといったものを感じさせ
るところだね。それは見学しているだけでも感じられるだろう。では、はじめの一括りの祈りを、問次郎くん、読んでもらえるかな。

 

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問次郎 はい。「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」ですね。

 

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答五郎 ぜひ味わってほしい。まず冒頭の父である神への呼びかけの部分「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」だ。ここで示されていることは、奉献文全体が、父である神に向かう祈りであるということだよ。

 

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問次郎 それはわかりますが、「父よ」を修飾する句が、少しわかりにくいですね。「まことにとうとく」というのは、「ほんとうに大切な」という意味でしょうか。それに「聖性」(せいせい)という言葉も抽象的な感じがします。

 

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答五郎 それは正直な疑問だと思うよ。自分も長い間同じように思っていた。「とうとい」は、普通漢字で書くと「貴い」や「尊い」だから、大切なとか、尊重されるべき存在を連想するだろうね。だが実は、ここにも日本語訳の問題があって、ここの意味を味わうには、ほんとうは原文を見る必要が出てくるのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「とうとい」を平仮名にしているところに意味があるのではないかしら。

 

 

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答五郎 ともかくここの原文は、“Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis.”となっている。はじめの「とうとく」はサンクトゥス、聖性と訳されている言葉もそれに関連するサンクティタスだよ。今は「聖なる」と訳されることばを、かつて「とうとい」と訳していたことがあって、それが使われている部分といえる。ちなみに、「源」と訳されていることばは直訳だと「泉」で、つまり「源泉」と訳してもよいようなのだよ。つまり「主よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉です」というのが、現代語風の直訳になる。

 

女の子_うきわ

美沙 ということは、直前の「感謝の賛歌」の賛美の調子が続いていることになりますね。「聖なるか
な、聖なるかな、聖なるかな」と歌っていた流れが受けられているのですね。

 

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答五郎  まったくそうだ。神の聖なるあり方を実感して、重ねた賛美しているという句になる。

 

 

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問次郎 「聖なる」というのはどういうことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 キリスト教ではいろいろなところで、この「聖なる」ことが神についていわれる。主の祈りでもそうだろう。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」とね。「聖」であることは、神とはどんな方かを示す重要な側面なのだが、ことばでは説明しにくいかな。

 

女の子_うきわ

美沙 厳かさとか、清さとかを感じて聞いていますが。

 

 

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答五郎 人間を超えた存在という意味もある。この言葉で神に呼びかけるということは、なにか人間を超えた、深く、高い存在を感じていることの表れであり、畏れ多い気持ちとセットになっていることに気づかないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 ミサ全体の厳かさは、聖なる神への祈りだからなのですね。

 

 

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問次郎 神が聖なる方であるということは、人間を超えていて近づき難い、畏れ多い存在だということを
強調しているのでしょうか。

 

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答五郎 ところがね。キリスト教の神は、ただ、ひとり聖なる方で、人間が近づいてはいけないような方、「神聖不可侵」という言葉があるけれど、そのような触れられない方、近づけない方というわけではないのだよ。そのことを示すことばがこの最初の句の中にあるのだけれど。

 

女の子_うきわ

美沙 「聖性」ですね。神は、「聖性の源」「聖性の泉」ですから、他のいろいろなものも「聖」になるための源泉が神だということがいわれているのですね。

 

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答五郎 新約聖書のパウロの手紙の中で、たとえば、ローマの信徒への手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(1章7節)としばしば書かれている。キリスト者となった人たちは神によって、そしてキリストによって、聖なる者とされた人たちだということなのだ。

 

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問次郎 神は近づき難い方ではなく、神から人に近づいてきてくれて、人を聖なるものとしたということ
になるのか。

 

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答五郎 そうなのだよ! 神は、もちろん人間とは異なる、人間を超えた存在なのだけれども、近づき難い方ではなく、人間に近づいてきて、その聖性という本質を分け与えてくれたというところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるのだ。

 

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問次郎 神は、超えた方であるけれど、わたしたちの中に入り込んできた方でもあるのですね。遠いのに近い……逆説的なのに、なにか深い感じもします。

 

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答五郎 そこで、聖霊の働きということが出てくるのだよ。それは次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 52 奉献文の「文」って何?

奉献文の「文」って何?

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答五郎……季節はもはや初夏という感じだね。ミサの「感謝の典礼」に入ってだいぶなるけど、きょうからいよいよ、狭い意味での「奉献文」という部分に入ろうと思うのだけれど……。

 

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問次郎……すみません。いきなり質問なのですが、狭い意味の「奉献文」と広い意味の「奉献文」について確認させてください。

 

 

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答五郎……ちょっとややこしい感じがするかな。広い意味の「奉献文」とはミサの式次第の中の「感謝の典礼」の中で、これが「供えものの準備」-「奉献文」-「交わりの儀」から成るというときの真ん中の部分を指している。

 

女の子_うきわ

美沙……冒頭の対話句、叙唱、そして「感謝の賛歌」も、式次第としては「奉献文」に入るのですね。

 

 

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答五郎……そう。そして「感謝の賛歌」が終わってから、ようやく狭い意味での「奉献文」という、ひとまとまりの祈りが始まる。たとえば、「まことにとうとく聖性の源である父よ、……」とね。

 

女の子_うきわ

美沙……あっ、第2奉献文ですね、いちばんよく聞きます。ほかに第1、第3、第4というふうに数で呼ばれる奉献文が全部で4つあるのですね。

 

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答五郎……1970年に今のミサが始まったときに奉献文はこの4つになったのだよ。その後いくつかの奉献文が加わっているけれど、基本はこの4つで、ふだんは第2奉献文か第3奉献文が読まれるだろう。

 

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問次郎……狭い意味、広い意味の区別はわかってきましたが、「奉献文」がどうして「文」というのかが疑問です。式次第の一部なら行為を表しているほうが自然です。「準備」とか「交わり」とか。

 

女の子_うきわ

美沙……私も気になっていました。唱えるというか、全体が歌われますよね。全体が大きな祈りですね。
それなのに、なぜ文字で書かれたものを指す「文」というのかしら……。

 

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答五郎……率直な質問だし、考えるべき問題だと思うよ。信者さんたちは慣れているところがあって、この部分で行われていることがミサのもっとも重要なところだということは経験的に知っている。式次第では「文」と書かれていてもあまり気にしない人が多いかもしれない。

 

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問次郎……外からミサを見学したり、式次第を見たりして学ぶ僕らには、やはり呼び名は気になります。

 

 

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答五郎……では考えていこう。まず「奉献文」は日本語のミサ典礼書を作る段階で考えられた呼び名だ。

 

 

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問次郎……もとはなんという言葉なのですか。

 

 

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答五郎……「プレクス・エウカリスティカ」という。「エウカリスティアの祈り」、直訳すれば「感謝の祈り」だけれど、「エウカリスティア」にはたくさんの意味があって「感謝のいけにえ」 「感謝のささげもの」という意味合いがここでは重要だ。なので「奉献」をメインに訳したのにはそれなりに意味がある。ギリシア語圏の教会で古来この祈りが「アナフォラ」(ささげもの・奉献)と呼ばれてきていることも参考にしたといわれている。

 

女の子_うきわ

美沙……では、「奉献の祈り」と呼べばいいのに、どうして「奉献文」なのでしょうか。

 

 

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答五郎……これは推測なのだけれど、昔、ミサがまだラテン語で行われていた時代には、ミサの式次第や祈りの内容を翻訳して信徒が読めるようにした『ミサ典書』があった。その時代は奉献文が一つで「カノン・ロマーヌス」と呼ばれるものだった。これを「ローマ典文」と訳したことがあったらしい。今でいう「第一奉献文」のことで、今も「ローマ典文」が副称として残っている。そのように「典文」と呼ぶ例があるので「奉献文」という言い方が生まれたのかもしれないのだ。

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問次郎……「カノン」ということばの意味は何ですか?

 

 

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答五郎……「カノン」というのは基準とか規範といった意味のラテン語で、いろいろなところで使われている単語だ。教会法もカノンというぐらい。ミサの中でのこの祈りの典範といったニュアンスだ。典文という訳語も適切だろう。もっとも、もっと昔にはラテン語でもさまざまな呼び名があったようで、オラツィオ(祈り)もあれば面白いのはアクツィオ(行い)という呼び名もあった。

女の子_うきわ

美沙……ラテン語で行われていた時代は、司祭がミサ典礼書のこの典文を唱えていたと聞きました。だとすると「文」としてもよかったのかなと思います。

 

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答五郎……実は唱えるというよりも、声を出さない沈黙の祈りとして唱えていたらしい。

 

 

女の子_うきわ

美沙……ええっ? ますます今とは違いますね。今は、信徒たちもと最初から全部聞きますし、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるところでは一生懸命司祭のことばに聞き入ってうやうやしく礼拝を一緒にしますよね。ほんとうに「祈り」だし「行い」だという気がします。

 

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問次郎……たしかに、ミサでもっとも緊張するというか厳粛な気持ちにさせられるところです。

 

 

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答五郎……そこまで感じ取ってくれているとは素晴らしい。たしかに「文」どころではないね。奉献文そのものを味わっていくと、ここで行われていることの豊かさもわかってくる。それを一つの名称にまとめるのは至難のわざなのだ。それを踏まえると、全体としてはひとまとまりの祈りという意味で「文」といい、その内容を「奉献」ということばで示すのは、言葉の限界を考えたら次善の策だったといえるかもしれない。

 

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問次郎……奉献文は「文」にして「文」にあらず。少し謎が残ったほうがよいということですかね。

 

 

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答五郎……では、その豊かさを、次から、まず第2奉献文、続いて第3奉献文を見ながら調べていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 51 主の栄光は天地に満つ!

主の栄光は天地に満つ!

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答五郎……こんにちは。前回は、叙唱から感謝の賛歌へ移っていくところで、「天使」が登場してくるということについて考えたね。

 

 

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問次郎……はい、天使が基本的には神の使いであるということ、また、黙示録などに出てくる神を賛美する不思議な生き物の存在もその系譜も入っていることを見ました。神のもっとも近くにいて、神を賛美したり、神の意志を人に伝えたりする存在ですね。

 

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答五郎……「天使」と聞いて、神話とか伝説の表現法というだけでないことがわかるだろう。

 

 

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問次郎……でも、あくまで、伝統的表現をミサは継いでいるということなのではないですか。

 

 

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答五郎……ある種、古代的な表象ではあっても、現実に関係しているのではないかと思うのだよ。

 

 

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問次郎……でも「わたしは神の使いです」といって現れてくるような存在はないですよ。あったら変人というだけでしょう。

 

 

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答五郎……そうではなく、たとえば、人が語ってくれた何らかの言葉が自分の心に深く響いて、自分を変えるきっかけになったということなどないだろうか。

 

 

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問次郎……なきにしもあらずです。何だったかは言えませんが。

 

 

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答五郎……何かを言われて、心に残り、自分にとっていい意味で成長のきっかけになった言葉。その誰かは、そのまま天使ではないけれど、そうして贈られた言葉は、「神のみ使い」のもたらしてくれたものと感じることができるのではないだろうか。言ったその本人は、全然覚えていないとか……。

 

女の子_うきわ

美沙……「あのとき、あなた、こんなこと言ってくれたわよね。嬉しかったわ」「ええ、そんなことを言ったかな?」的なことでしょうか。ドラマだけではなく、実際にもあるように思います。でも、天使とか、そういうふうに思ったことはないですけれど。

 

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答五郎……もちろん、天使を考えることは神を考えることだから、現代人が神を考えることが少ないとすれば、そうなるだろうね。

 

 

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問次郎……人の言葉でものすごく傷ついたときはどう言えるのですかね。

 

 

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答五郎……そういうときこそ「悪魔」とか「悪霊」とかを考える必要があるのではないかな。

 

 

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問次郎……ああ、そうか。それは事例が多そうです! 「天使」を考えることは「悪魔」や「悪霊」を考えることでもあるのですね。そうか、福音書にも多いですね。それでも、神話的というか……。

 

 

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答五郎……ここでは、あくまでミサの式文に「天使」が出てくるということのリアルさを考えてみてほしいのだよ。ミサに戻ろう。「感謝の賛歌」なのだけれど、前回、聖書のイザヤ書に出てくる賛美がもとになっているといっただろう。イザヤ書6章3節だ。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」です。

 

 

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答五郎……では、ミサの「感謝の賛歌」の同様の部分はどうなっているだろう。問次郎くん。

 

 

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問次郎……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ」ですね。

 

 

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答五郎……イザヤの言葉と似ているけれど、違うところがないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい、イザヤでは「地をすべて覆う」なのに「感謝の賛歌」では「天地に満つ」ですね。

 

 

 

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答五郎……イザヤでは、地上のすべてを覆う、そこを満たして余りあるように、主の栄光が考えられているのだけれど、ミサでは「天にも地にも満ちている」というように、主の栄光の偉大さがさらに全面的になって天までも満たしているように賛美されている。これは、教会で歌われる賛歌になったときに、変えられたというか新たにされた部分らしい。

 

女の子_うきわ

美沙……聖書の言葉がもとにありながら、典礼の聖歌で、考えが発展している場合があるのですね。

 

 

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答五郎……そうだね。そして、この文言どおり、ここで、まさに天上の典礼、つまり天使たちによってささげられている神への賛美と、今地上にある教会の神への賛美が合体しているというわけさ。

 

 

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問次郎……天上と地上、どうも、上と下というふうに空間的にイメージしてしまいます。

 

 

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答五郎……もっともだと思う。この宇宙時代、地球も天体の一つで、闇に輝く星だと知っているからね。結局「天」をどう考えるか、「神」をどう考えるかということだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙……さっきの話ですが、人の言った言葉が、どの人が言ったことかというよりも、その意味から影響を受けたということが大事だということでしたね。それが幸せなほうに働いたときに、そこには「神のみ使い」の働きが考えられるということですね。

 

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答五郎……少なくとも、そのように考えられるのでは、という提案だけれどね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それと似て、どこか、よその場所のことのように天上の典礼を想像しなくても、この式文や賛歌の言葉の意味を噛みしめ、味わう中に、天使もいるし、天上の典礼もあると考えられるのではないでしょうか。それが「感謝の賛歌」で、天上の典礼と地上の典礼のつながりがはっきりと示されるということなのだと思います。

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答五郎……美沙さん、どうしたの、とても深いことを言い当てている感じがする。まさに天使のささやきのようだよ。ともかく、そういったことは、心で感じ取るものではないかと思う。この話題はまたいつか出てくるだろう。次回からはいよいよ狭い意味での「奉献文」に入ろう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 50「すべての天使とともに」

「すべての天使とともに」

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答五郎……みんな、ご復活おめでとう! 隔週になってから毎回がずいぶん久しぶりな気がするけれど、元気だったかな?

 

 

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問次郎……一応、おめでとうございます。でも、どうして、ご復活はおめでたいのですかね。ご降誕もそうですよね。「明けましておめでとう」と意味が違うのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほんとだね。たしかに、自分も疑問に思ったことはあるし、「どうしてなのか」と真剣に考察するに値することだとは思うよ。でも、祝いたくなる気持ちもわかるのだな。今回はあまり突っ込まないことにして、今回のテーマはなんだったかな。

 

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問次郎……叙唱を見ていて、天使が出てきました。このことをちゃんと考えたいと思ったのです。

 

 

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答五郎……たしかにね。まず叙唱の具体例を聞いてみよう。復活の主日に唱えられる「復活 一」を、美沙さん、朗読してもらえるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの日に、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうとい大切な務めです。わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれたまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」

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答五郎……ありがとう。三つの部分があるのがわかるだろう。初めの部分は、「まことにとうとい大切な務め」という句が暗示するように、初めの対話句とつながっているところ。真ん中の文が、この日に祝われる神秘を述べるところで、中心的なところ。深いことが実に簡潔に述べられているだろう。そして「神の威光をあがめ」からは、続く「感謝の賛歌」への移行部だ。「感謝の賛歌」のことも目に入れて考えていく必要があるね。

 

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問次郎……そもそも天使がどうしてここに出てくるのでしょうか。

 

 

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答五郎……天使といって、背中に翼がついている何か子どものような存在をイメージしていなかな?

 

 

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問次郎……実は、そうです!

 

 

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答五郎……それは或る製菓会社の影響かもしれないね。それと「天使」という訳語が影響しているかもしれない。

 

 

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問次郎……天使のもとの言葉は何なのですか?

 

 

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答五郎……ラテン語はアンゲルス、ギリシア語のアンゲロスから来る。「使い」の意味、神の使いだから「み使い」と訳されることもあるけれど、「天使」というのもその意味だ。その役割は聖書から見ないとね。それに、絵で翼が描かれることが慣例とはいえ、そのもとも聖書にある。

 

女の子_うきわ

美沙……本質的なことは、神の「使い」であることなのですね。マリアへのお告げ、ヨセフへのお告げなどが思い出されます。空の墓でイエスの復活を告げた方も、そのみ使いと考えられます。

 

 

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答五郎……聖書には、そのようにして、神の意志や計画を告げ知らせてくれる存在のことがしばしば語られる。キリスト教にとって、どうして天使が大事かというと、主である神、父である神は、人間とコミュニケーションをする方だということが示されているからだと思う。神は人間と絶対的に違った存在ということもいえるけれど、いつも人間に関わる方でもある、絶対に他者なのだけれど、もっとも深く関わってくる方でもある、そこのところの橋渡しをするような役割を「み使い」つまり「天使」がしているのだね。

 

女の子_うきわ

美沙……それはわかりました。でもこの叙唱から感謝の賛歌に移るところは、神をほめたたえる存在としての天使ですよね。

 

 

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答五郎……おおっ、そうだね。神の意志や計画を告げる存在というだけでなく、神を賛美する存在としてここでは出ているね。このことを見るためには黙示録4章、5章あたり。とくに4章8節には神の玉座のまわりに翼をもつ四つの生き物がいて賛美の言葉を言い続けるのだけれど、美沙さん、読んで。

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。あっ、初めのところは、感謝の賛歌の初めのところそのまま!

 

 

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答五郎……もとをたどれば、預言者イザヤが見た幻の中で、主の座の前で「セラフィム」 という存在が主をたたえることばがあるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光、地をすべて覆う」。これも「感謝の賛歌」とほとんど同じですね!

 

 

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答五郎……また黙示録に出てくる翼をもつ四つの生き物のことは、預言者エゼキエルの召命のところで見た幻にも登場する(エゼキエル1章)。話があちこち飛ぶけれど、叙唱から感謝の賛歌への移行部分で、「すべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」ということの背景には、これだけ聖書の中での神賛美の伝統が前提になっているのだよ。わかりやすくいえば、天上の典礼と地上の典礼があって、地上で行われている今の教会の典礼は、天上の典礼と呼応するものであって、一緒に唱和しながら神を賛美しているという理解があるのだよ。

 

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問次郎……天上と地上ということは、レトリックだけではないということですか。でも、なんとなく神話めいていて、現代の人が理解するのは難しいのではないでしょうか。次回、またこのことを考えさせてください。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 49 神の民の祭司職とは?

神の民の祭司職とは?

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答五郎……さて、前回からいよいよミサの奉献文の部になり、冒頭の対話句と叙唱のところに入ったね。その対話句が原文では、会衆の「それは、とうとく、正しいことです」で終わるのが伝統だった。叙唱でも「まことにとうとい大切な務め」といった言い方が出てくるのと関係しているのだがね。

 

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問次郎……はい、その流れで「さいししょく」(祭司職)という用語が出てきたので、お尋ねしたいと思いました。

 

 

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答五郎……そうだったね。簡単にいえば「祭司」とは文字通り、神への礼拝を司る人のこと、「祭司職」とはその務めそのものを指すことばだよ。祭儀の司式者といってもいいかな。

 

 

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問次郎……「司祭」も同じ漢字の組み合わせですよね。前後が違うだけで。

 

 

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答五郎……そう。だからときどき間違えられる。もちろん、意味が重なっているときもあるから、ややこしいのだけれど、教会では「キリストの祭司職」とか「神の民の祭司職」という言い方をしても、キリストの司祭職、神の民の司祭職とはいわないのだ。

 

女の子_うきわ

美沙……祭司という用語は、旧約聖書でもときどき見ました。それとキリストの祭司職との関係はどうなるでしょうか。

 

 

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答五郎……そう、旧約時代、神の民イスラエルの生活が主である神から授けられた律法を中心にかたちづくられていくなか、礼拝祭儀を司る職務が祭司と定められていたのだね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……福音書を読んでいても、祭司長とか大祭司とか祭司長とかという人が出てきますね。

 

 

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答五郎……そう、それが古代ユダヤ教としてだんだん発展してくるなかで、大祭司とか祭司長とか細かな位階もできていたようだ。ただ、キリストの祭司職という言い方がされても、キリストがそれらの祭司制度を引き継いだというわけではないのだ。

 

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問次郎……大祭司、そして祭司長たち最高法院の人たちにイエスは死刑を宣告されたのですよね(マタイ26 ・68他並行箇所参照)。

 

 

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答五郎……まさにそれは象徴的でね。古代イスラエル、それを継ぐ古代ユダヤ教の祭司制度とは、キリストは根本的に断絶している。キリスト教から見れば、古い祭司制度はそこでいわば死んで、全く新たなキリストによる祭司制度が始まったのだ。

 

252164

問次郎……どういうことでしょうか。

 

 

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答五郎……旧約の祭司は神殿でいけにえをささげるのが務めだったのだが、イエス・キリストの場合、前にも見たように(ミサはなかなか面白い 44「あがない」の意味を探ってみよう/ミサはなかなか面白い 45「罪のゆるし」としての「あがない」)、人類の贖いのために自分自身をささげただろう。十字架の出来事がそれだ。そのことを中心として、人類を再び父である神に結びつけた、つまりイエス・キリストによって神と人の間に新しい契約が結ばれたのだ。

 

252164

問次郎……それが「新約聖書」の「新約」のことでしたね。

 

 

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答五郎……そして、そのようなキリストの働きや役割を指して「キリストは神と人の仲介者」という言い方もする。その仲介者としての働きのうちで、神の恵みを人に分かち合わせ、人の神への感謝や賛美や祈りを伝える役割を指して「キリストの祭司職」というのだ。その働きが根源的だから「大祭司キリスト」という言い方もある。このあたりのことは、新約聖書の「ヘブライ人への手紙」が詳しく論じているので、ぜひ読んでほしいな。

 

252164

問次郎……では、キリストの祭司職をもとにして、神の民の祭司職があるのですね。キリストにつながっている人たち、信者みんながもっている祭司職ということですね。

 

 

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答五郎……キリストの祭司職に基づく信者全員の祭司職を今は「共通祭司職」というのだよ。ミサをささげているのが信者全体だといわれるときの土台がそれだ。その中でもさらにコアな奉仕を神と信者たちにする司教・司祭・助祭のいわゆる聖職者の務めは「奉仕的祭司職」といわれる。

 

女の子_うきわ

美沙……キリスト教でいう「祭司」というのはもっと大きな広がりや深さをもっているのですね。

 

 

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答五郎……そういうことなのだ。ちょっと固い話が続いたし、式文の流れに戻るために、ここで祈りに耳を傾けてみよう。美沙さん、復活祭に唱えられる叙唱「復活 一」を読んでみてもらえるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……これですね。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの日に、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうといたいせつな務めです。わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死をうち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」

 

124594

答五郎……ここで「まことにとうといたいせつな務め」と唱えているのは、「わたしたち」つまり神の民の祭司としての務めを神ご自身の前で確認し、その自覚を表しているということがわかるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……キリストが何をしたのか、贖いのいけにえであるという意味も鮮やかに告げられていますね。

 

 

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問次郎……美しい流れの祈りとは思いますが、ここで「天使」が出てくるのが疑問といえば疑問です。

 

 

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答五郎……それはもっともだ。この叙唱の最後は「感謝の賛歌」につながっていくところでもあるので、それも合わせて「ミサにおける天使とわたしたち」について、次回、考えることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 48 「賛美と感謝をささげましょう」

「賛美と感謝をささげましょう」

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答五郎……こんにちは。ミサの「感謝の典礼」について、前回までは「供えものの準備」といわれる部分を見たね。その部分をしめくくるのが奉納祈願だった。そして、すぐに「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」の対話に入るだろう。

 

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問次郎……ミサの最初のあいさつと似ているので、また何か新しいことが始まるなという感じですね。

 

 

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答五郎……ここでは対話はそこで終わらずに「心をこめて神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」と続く。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「賛美と感謝をささげましょう」とみんなが唱えているところで、ミサって、なるほど、信者の共同体が賛美と感謝を神にささげることなのだなあと感じました。

 

 

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答五郎……実をいうとね、このような対話句は日本語版でのアレンジなのだよ。原文では直訳すると「主は皆さんとともに」「またあなたの霊とともに」「心を上に」「主に向けています」「わたしたちの主である神に感謝をささげましょう」「それはとうとく、正しいことです」となっている。

 

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問次郎……なんだかぎくしゃくしていますね。それを日本語版らしくアレンジしたというわけですね。

 

 

124594

答五郎……細かく原文の意味と日本語文の違いを論じるときりがないが、ともかく共通してはっきりしていることは三つのあるのではないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……主がともにいること、神に心を向けること、それから感謝をささげることでしょうか。

 

 

124594

答五郎……解釈はいろいろありうるけれども、まず主キリストが司祭と信者のみんなと一緒にいること、ここからの祈りは父である神に向かってささげる祈りであること、そして、その祈りは、なによりも感謝の祈りであることがいわれていると思うのだ。

 

252164

問次郎……日本語版は「賛美と感謝をささげましょう」というふうに「賛美」を加えているのですね。

 

 

124594

答五郎……どうだろうね。「感謝をささげる」のもとになっていることばは、ギリシア語ではエウカリスティアの動詞形だけれど、そのもとにあるヘブライ語の意味合いは、感謝の気持ちをことばで表すだけではなく、神にいけにえをささげるという行為のことも指していたし、神の恵みが素晴らしい、ありがたいということから神をほめたたえるという意味合いも当然に含まれているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……そのような意味合いを出すために日本語としては補ったというわけなのでしょう。でも、賛美の意味がはっきりと出るのはよいことだと、思います。

 

 

124594

答五郎……日本語で便利なのは、「感謝の祈りをささげる」「感謝をささげる」というように、祈りや気持ちをささげるというふうにいえることだ。原語の雰囲気をよく伝えているなあとつくづく思う。ともかく奉献文と呼ばれる祈りは感謝の祈りであるということが、この原文でも日本語文でも共通の「感謝をささげましょう」によってよく表されているだろう。

 

252164

問次郎……前に(ミサはなかなか面白い 42 根底にあるイエスの食事の記憶)、感謝の典礼全体にはイエスが弟子たちとともにした食事の記憶が根底にあるといわれましたね。そこで、イエスが食べ物を取りながら、天を仰いで、賛美の祈りを唱えたり、感謝の祈りを唱えたりしたことの記憶がここにあるというわけですね。

 

124594

答五郎……おお、そうだ。でも、実は記憶だけではないのだよ。天にいるキリストは、いま典礼のしるしのもとでここにいて、現にこのミサを司式しているというべきなのだ。だから初めに「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」と対話で確認しただろう。

 

女の子_うきわ

美沙……キリストがミサの中にいるという感覚にはなかなかなれませんね。一生懸命見たり聞いたりしているのですが。信者さんたちは、キリストのことを感じているのですね。

 

 

124594

答五郎……いやあ、なかなか、そういう意識になれないことが多いよ。具体的には、その日のその教会でのその神父さんの司式のほうに目が行ってしまってね。

 

 

252164

問次郎……司式者の背後にいる感じなのですかね。

 

 

124594

答五郎……いやあ、たしかに司式者の発話の中で主キリストのことばが語られるときがあるから、そのときはそうだけれども、司式者自身も共同体の代表として、キリストに祈りをゆだね、父である神に祈るという役割のときもあるよ。その変化を見るとき、ほんとうにミサはなかなか面白いものだなあ、味わい深いものだなあという気になるよ。

 

252164

 

問次郎……さっきから気になっているのですが、この初めの対話句の原文では、最後に信者さんたちが「それはとうとく、正しいことです」ということになっているのですね。このフレーズ、どこかで聞いたことがあるような……?

 

女の子_うきわ

美沙……そのあとの祈りの冒頭で、ときどき、「……まことにとうとい大切な務め」というときがありますよね。

 

 

124594

答五郎……そう、その祈りは叙唱というのだよ。広い意味で考えるときの奉献文に含まれるところなのだ。冒頭の対話句が第一の部分としたら、叙唱は第二の部分にあたり、対話句の最後のことば「とうとく、正しいこと」を受けている。対話句の終わりでは会衆が、叙唱の初めでは司祭が、同じように、この祈りが信者全体、つまり神の民である教会が行うべき尊い、大切な正しい務めだという自覚が示されているのだよ。これを神の民の祭司としての務め、祭司職ということがあるのだ。

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問次郎……「さいししょく」……ときどき聞くことばですね。この次、あらためて教えほしいです。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 47 「神よ、あなたは万物の造り主!」

「神よ、あなたは万物の造り主!」

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答五郎……ミサの「感謝の典礼」の最初の部分について前回から見始めたね。「供えものの準備」といわれている理由について考えてみたのだけど……。

 

 

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問次郎……はい。食事型の祭儀とみれば、食卓の準備、食卓の上に食べ物と飲み物を準備する行為の部分と見ることもできるのですが、祭壇にものを供えるという感覚も重ねられているようでした。

 

 

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答五郎……そう考えていいと思うのだが、その意味合いをさらに深く示している祈りがあるのだよ。式次第の中で「パンを供える祈り」と「カリス(ぶどう酒を入れる杯のこと)を供える祈り」と書かれている部分だ。「パンを供える祈り」を読んでもらおうかな。美沙さん。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」(会衆)「神よ、あなたは万物の造り主」。「カリスを供える祈り」もほぼ同じですね。

 

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問次郎……その祈り、聞いたことがあるような、ないような……。

 

 

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答五郎……大きな共同体でささげられるミサでは、奉納の歌が歌われると、この対話的な式文が声を出して唱えられず、少人数とかで歌が歌われないときに、声を上げてはっきりと唱えることとされているからね。たしかに聞いたり聞かなかったりになるだろうね。

 

女の子_うきわ

美沙……わたしも土曜日夕方の主日ミサに出たときには、この祈りが唱えられているのを耳にするし、みんなで「神よ、あなたは万物の造り主!」と応唱するところなんかは好きですわ。

 

 

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答五郎……「神よ、あなたは万物の造り主」という言い方はどういう意味合いのものかな? 「神よ、あなたは万物の造り主ではありません」というわけではないだろう(笑)。

 

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問次郎……もちろんでしょう。この体言止めは「神よ、あなたは万物の造り主です」という意味ですね。賛美のことばだと思います。

 

 

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答五郎……そう、じっさいにね。ここのもとにあるラテン語の式文では冒頭に「ベネディクトゥス・エス」という語句が入っている。直訳すれば「万物の神である主よ、あなたはほめたたえられます」という文になる。つまりは「ほめたたえます」ということなのだけれど、この賛美の気持ちを日本語では体言止めの叫びにしているわけだ。

 

女の子_うきわ

美沙……それは、とてもよく伝わっていますよ。そう思っていましたもの。

 

 

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答五郎……このような創造主である神への賛美を表す言い方は、旧約聖書の詩編にもよくあって、聖書的な
祈り、ヘブライ語で賛美を表す代表的なことばの一つ「ベラカー」にちなんで、「ベラカーの祈り」とも呼ばれている。たとえば詩編104 をそのうち見てごらん。創造のわざを一つ一つ歌いあげながら賛美しているものだ。

 

252164

問次郎……この部分は、主の食卓に食べ物・飲み物を準備するところと考えても、それらが「大地の恵み」つまりは神の創造の恵みであるという考えはもっともですよね。日本語で「いただきます!」というのも、自然の恵み、ひいては神の恵みへの感謝をこめたものだといわれるぐらいですから。

 

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答五郎……その考えは大事だね。ただ大地の恵みだけではなく「労働の実り」ということばもある。大地の恵みのうえで、人間の働きを通して作り出されたという視点も含まれているよね。

 

 

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問次郎……「いただきます」には自然や、神さまだけでなく、作ったり、採ったりしてくれた農家さんや漁師さんへの感謝も忘れないようにということもよく教わりました。

 

 

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答五郎……そうだろう。自然の恵みと人間の労働はつながっているからね。そういう意味での労働への言及がここにはあるのだろうね。それに関係があるのだけど、ミサのここでよく献金が行われるだろう。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。最初は、ミサの最中になぜ募金活動が行われるのかなと思ったこともあるのですが、ときどき、趣旨説明のある場合があってよくわかったときもあります。ない場合でも、教会全体や教会が関係している活動のためなのだというふうには納得できるようになりました。

 

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答五郎……初代教会のときから仲間の教会を助けるためとか、困っている人を助けるためにさまざまな物を持ち寄ってきたという伝統があってね。それがミサの中でも行われるようになって、さらに貨幣経済中心になってからはお金を出すというふうになってきたのだよ。神のためと隣人のためという意味での供えものというわけだね。

 

252164

問次郎……そういったことも含めて「大地の恵み、労働の実り」ということばがあるのですね。

 

 

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答五郎……それらすべてが「あなたからいただいたもの」、つまり神の恵みだという実感がこの祈りににじみ出ているだろう。ただ重要なのは、創造の恵みに基づく賛美で終わっていないということだ。

 

女の子_うきわ

美沙……「わたしたちのいのちの糧となるものです」というところでしょうか。ここは聖体を意味しているのですね。

 

 

124594

答五郎……そうだね。供えものの準備という部分は、聖体になる食べ物・飲み物を主の食卓に準備するということでもあり、奉献文の祈りの中で行われる奉献でささげるものを準備することでもある。そうやって、創造に基づく賛美は、キリストによるあがないのわざを中心とする神への賛美と感謝に展開していくことになるのだよ。

 

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問次郎……いよいよ、奉献文の部に入りますね。難しいと思っていたところなので、ぜひ、お願いします!

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 46 「供えものの準備」といわれるわけ

「供えものの準備」といわれるわけ

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答五郎……こんにちは。「感謝の典礼」のことを考え始めて、前回まではミサでいわれる「あがない」とか     「罪のゆるし」とかの意味について少し考えてみたね。きょうからは、式の進行に従って「感謝     の典礼」の最初の部分を見ていこう。「供えものの準備」という表題で呼ばれるのだけど。

 

252164

 

問次郎……はい、ミサを見ていて「ことばの典礼」が共同祈願で終わったあと、大きく場面が転換するなと感じるところですよね。

 

 

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答五郎……たとえば、どんなふうになっているかな。

 

 

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問次郎……朗読台が中心だったのに対して、祭壇が中心になりますよね。司祭と奉仕者が、そこでいろいろと準備作業をしているという感じです。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それと、献金かごが回されて、一人ひとり財布を出すなど、皆がいそいそと動き出す感じも面白いと思っていました。奉納の歌が始まりますし。

 

 

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答五郎……献金もけっこうな大仕事だと思わなかったかな。その中で、奉納の歌をどうして歌うのかと思うかもしれないけれど、一人ひとりの動きもその共同体としての一つの心で行われているということを表現しようとするものなのだよ。そしてどうなる?

 

女の子_うきわ

美沙……聖体になるパン、「ホスティア」と呼ぶ人もいますね。それとぶどう酒と水の入った小瓶を持つ人、それと献金かごをもつ人、子どもの場合もありますね。その人たちが聖堂の通路の後ろのほうから、迎えに来た侍者を先頭に祭壇の前の司祭たちのほうに向かっていきます。

 

124594

答五郎……それが奉納行列と呼ばれているところだよ。パン、ぶどう酒と水、そして献金が、司祭や祭壇での奉仕者(侍者)たちに受け取られると、そのあとどうなる。

 

 

252164

問次郎……パンが祭壇の器に入れられていたり、ぶどう酒と水の小瓶が祭壇の横の台に置かれていたり、それらを使っていろいろと準備の所作がありますね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……歌を歌うことに集中していて、どんなことをしているかあまり見ていないこともあるわ。

 

 

124594

答五郎……そうした一連の動きの最後に来るのはなんだろう。

 

 

252164

問次郎……奉納祈願ですね。結局、奉納の歌とか奉納行列ということばがここの部分で使われているとすると、「奉納」というのが「供えものの準備」を意味する用語なのでしょうか。

 

 

女の子_うきわ

美沙……字を見ると、神さまの前に「お納め奉る」ことと理解されます。同時に献金もあって、これも供えているのですよね。準備というよりも。

 

 

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答五郎……日本語としてはそうなのだけれど、ミサの用語として注意が払われているのは、「奉献文」の中の「ささげます」と区別する意味があるようだね。奉献文の中のことは「奉献」で、そのための「供えものの準備」を「奉納」と区別しているらしい。だから区別はするけれど、結びつきがあるということを考えるのが重要なのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……「感謝の典礼」の中心、奉献という中心に向けての準備段階という意味ですね。

 

 

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答五郎……そう、わかりやすくするためには、まず行為としては、まさしく「主の食卓の準備」だと考えるのがいいよ。イエスが行った食事でも祈りの前にまず食べ物、飲み物が準備されていただろう。

 

 

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問次郎……あのぉ、ところで、イエスはパンとぶどう酒を使っただけなのに、今は水も準備しますよね。

 

 

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答五郎……ああそうだね。いろいろと理由や経緯があったらしいのだけれど、教会の古くからの慣例と理解しておいていいだろう。2世紀半ばにユスティノスがもう言及しているくらいだから。ともかく行為としては、食卓に食べ物と飲み物を用意する動作と似たことが行われている。しかし、それはどんな食べ物、飲み物かが、ミサでは問題となるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……あぁ、たしかに。ふつうの食事の食卓準備に尽きるものではないですね。その意味合いが「供えものの準備」といわれているのですね。

 

 

124594

答五郎……鋭い! 自分なんかそのことを理解するために何十年もかかったほどなのに。では、どういう意味で、ふつうの食卓準備と違うのだろう。

 

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問次郎……それは、つまり、パンもぶどう酒も、ただの食べ物、飲み物ではなく、キリストのからだ、キリストの血になるものだから、という意味なのではないですか。

 

 

女の子_うきわ

美沙……奉献文でのことばを思い出すわ。「いのちのパンと救いの杯をささげます」というところ。ただの食べ物、飲み物ではなく、それはキリストのからだ、キリストの血だからですよね。

 

 

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答五郎……そうだね。こうして奉献文で告げられ、行われる核心的なこと、つまりそれが「奉献」とか「いけにえ」とか呼ばれているもので、それに向かって準備するところという意味でここは「供えものの準備」といわれているわけだよ。もっとも、「食べ物・飲み物」が供えものとなり、奉献がなされるというところの意味を考えるためには、そこに伴われている祈りを味わう必要がある。すると、びっくりするぐらいに壮大な見方が示されることに気づくのさ。

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問次郎……びっくりするぐらいに……? えぇ、何でしょうか?

 

 

女の子_うきわ

美沙……わたしは、献金の意味も気になりますけれど。

 

 

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答五郎……たぶん、そのこととも関係してくるはずだよ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 45:「罪のゆるし」としての「あがない」

「罪のゆるし」としての「あがない」

124594

答五郎……こんにちは。2週間ぶりだね。今年は、この探究会を隔週で行かせてもらいたいと思ってね。というのも、「感謝の典礼」に入ると、それはミサの核心であるし、どんなこともキリスト教の核心をついていくことになるので、ゆっくり考えながら進めていきたいのだよ。前回は「あがない」というわかりにくいことばの意味について考えたところだった。

 

女の子_うきわ

美沙……ふだん使わない語なので質問したのですが、聖書やミサの祈りで使われている意味では、「ある隷属状態から、神によって解放されて神のものとなる」ことだとわかりました。

 

 

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答五郎……それが基本の意味のようだ。聖書で使われているヘブライ語やギリシア語も、日本語と似たような発想にあるようだよ。隷属状態からの解放という経験は人類史的に普遍的なようだ。

 

 

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問次郎……奴隷解放とか捕虜の釈放とか民族解放とか解放の神学とか、解放は近代・現代でますます重要になっていまよね。

 

 

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答五郎……ところで、「あがない」が「贖い」という漢字で書かれるとき「つぐない」という意味で理解されていることに気づいたことはないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「贖罪」(しょくざい)という言い方のときは、たしかに罪のつぐないの意味ですね。

 

 

124594

答五郎……どうしてそうなるかというと、「あがなう」が相当のお金を払ってあるものを得るということが基本にあるとして、それが罪に関して言われると「相当の代償をもって罪を免れる」という用法になり、そこから広く罪を償うこと、罪滅ぼし、というような意味になるようだ。国語辞典的にはね。そういうときは、「贖う」の漢字が使われるので「贖罪」という言い方も出てくる。

 

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問次郎……「あがない主」というのを漢字にするときは「贖い主」ですね。「償う」の意味をこめているのですか。

 

 

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答五郎……「あがない」と聞いて理解しようと思うとき、混乱が起こるのはそういうところだね。何か隠そう、わたし自身、ずっと理解に苦しんできたよ。でも、そういうとき、新約聖書やミサの祈り、とくに奉献文がヒントになるなあと、読み続けているわけさ。たとえば、イエス・キリストについて語られる次の2箇所を読んでごらん。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。まず1ヨハネ書2章2節ですね。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。次に、4章10節ですね。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」

 

252164

問次郎……キリストが罪を償ういけにえであると、はっきり言っていますね。「あがない(贖い)」に、罪を償うという意味があるのだとすれば、ここはすんなり「贖い主」キリストのことを言っていることになりますね。

 

 

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答五郎……たしかにそうかな。でも、似た言い方で「贖い」がずばり使われている、次の箇所もある。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。1テモテ書2章6節ですね。「この方(=イエス・キリスト)はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」。ほんとうに。でも、ここは「すべての人を解放して神のものとする」ための自己犠牲という意味にも感じられますよ。

 

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答五郎……たしかにそうだね。では、次のところはどうだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……コロサイ書1章13-14節ですね。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」。……あっ。「あがない」すなわち「罪のゆるし」!

 

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問次郎……ふつう「罪のゆるし」というと「罪のつぐない」の結果得られるものと思うのですが……。

 

 

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答五郎……そういうところが面白いだろう。罪に関していわれる「あがない」には「償い」の意味も含みつつ、それ以上に「ゆるし」というところまで含んでいるということだ。聖書でいう「あがない」が根本的には「解放されて神のものとされる」という意味であることがわかるだろう。

 

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問次郎……逆に「罪のゆるし」がそのように「あがない」なのだというほうが、自分には新鮮です。

 

 

女の子_うきわ

美沙……あたしもそうです。罪に関して「償う」とか「赦す」とか「謝る」と言っているかぎりは、狭い人間関係の事柄のようにイメージしてしまいますが、「あがない」、すなわち神によって解放されて、神のものとなるということだといわれると、とても、気が大きくなります。

 

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答五郎……そうだろう。同感だ。最後の晩餐のときに「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26・28)といわれたキリストのことばの意味がよくわかってくるだろう。

 

 

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問次郎……「あがない」を「ゆるし」と説明するところには、解放、そして神のものとなるというプロセスをやはり考えているということなのですね。

 

 

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答五郎……たしかに、罪ということに関わる方向よりも、神のものとなるという神との関係のほうが、はるかに大きな意味をもっている。新約聖書やミサの祈りには、その関係性を表現するたくさんのことばがあるよ。「いけにえ」や「献げ物」、他の関連する表現を味わっていってほしいな。

 

女の子_うきわ

美沙……「あがない」という古風なことばが使われる意味を考えながら、聖書やミサに触れていくことにしますね。

 

 

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答五郎……このテーマにはまたあとで触れるときがあるだろう。次回からは「感謝の典礼」を式の進行に添って見ていこう。次回は「供えものの準備」と呼ばれるところだ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 44:「あがない」の意味を探ってみよう

「あがない」の意味を探ってみよう

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問次郎……答五郎さん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

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答五郎……おめでとう。今年も、ミサについて探究していくことにしよう。2週間休ませてもらったけれどきょうは、「感謝の典礼」の4回目。前回は、現在の「感謝の典礼」になっていく最初のころ、使徒たちの時代には、「主の晩餐」とか「パンを裂くこと」と呼ばれていたというところまで見たね。

 

女の子_うきわ

美沙……はい、その前にこの晩餐を定めたというイエスのことばもふり返りました。その説明で使われた「あがないのいけにえ」の「あがない」ということばがまだよくわからなかったのです。

 

 

124594

答五郎……そうだったね。イエスが、パンについて「これは、わたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯について「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言っていた(マタイ26・26~27)。ほかでもいろいろな言い方があるが、まとめて、これは、「あがないのいけにえ」の意味だと説明したところだね。

 

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問次郎……「あがない」という用語は、教会に来る前は使ったことも聞いたこともなかったのですが、教会に来てずいぶんと聞くようになりました。

 

 

124594

答五郎……「あがない主」キリスト、という言い方は聞いたことがないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……少しはあるかもしれませんが、「救い主」キリスト、という言い方のほうはよく聞くので、同じ意味なのかなとも思っていました。

 

 

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答五郎……「あがない」という語は、日常では使われなく、古語みたいだが、れっきとした日本語だし、漢字にもある。ちょっと書いてみようか。二つあるのだよ。「贖う」と「購う」。

 

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問次郎……「贖」は難しいですが、「購」は、購読とか、購入で使う字ですね。

 

 

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答五郎……そう、「あがなう」も、もともとは相当のお金を払って、あるものを得るということ、簡単にいえば「買い求める」とか「買い取る」とか「買い戻す」という意味なのだよ。二つの漢字とも「貝」偏なのは、貝が貨幣のような役割を果たしていた名残なのだね。

 

女の子_うきわ

美沙……教会で、「贖い主」という字を見たこともあります。

 

 

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答五郎……そうだね、聖書の訳や教会用語として漢字で書く場合は「贖う」とか「贖い主」と書くことになっている。けれど、常用漢字ではないから、平仮名で「あがなう」とか「あがない」と書くね。『あがないの秘跡』とか『人類のあがない主』といった文書のタイトルで見かける。

 

252164

問次郎……そもそも「買い求める」「買い取る」という意味の単語が、聖書というか教会では、イエス・キリストに関して使われるのですか。

 

 

124594

答五郎……聖書では、お金を払って奴隷を解放するという意味の単語を使って、神による救いを表現するという伝統があるのだよ。旧約聖書の『出エジプト記』で述べられている古代イスラエル民族の体験がこのことばで記憶されているのだよ。

 

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問次郎……古代エジプトで隷属状態にあったイスラエルの民がモーセに率いられてそこから脱出するというあの有名な出来事ですね。ということは、「あがない」とは解放という意味なのですか。

 

 

124594

答五郎……たしかにその意味がひとつに含まれるけれど、もう一つの側面、「買い取る」とか「買い戻す」という意味も、ここには含まれている。つまり、エジプトから脱出することができて解放された民は、それで終わるのではなくて、神の民とされる。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19・6)という言い方で書かれているのはそのことだ。

 

女の子_うきわ

美沙……解放されて、自由にされたというだけでなく、そこで神との関係が出来てくるわけですね。

 

 

124594

答五郎……そのしるしとして、契約が結ばれるのだね。そこで、いけにえの血が祭壇つまり神のほうと民のほうに半分ずつ振りかけられて締結が完了する(出エジプト記24・3~8参照)。イエスが「契約の血」ということばで自分のことを言うとき、この契約のことが暗に思い出されているわけだよ。

 

252164

問次郎……すると、人間の商売用語といえる言葉を使って、神によって不自由な状態から解放されて神のものとされるということ全体が言われているわけか。

 

 

124594

答五郎……そう、一種の譬えといえる表現なのだよ。神との関係が含まれることばだから「解放」でも「買い戻す」でもなく、日本語的には古語のような「あがない」ということばが使われるのかもしれない。たとえば、年間主日のミサで唱えられる叙唱1の中心文を読んでもらえるかな。

252164

問次郎……はい。「主・キリストは、過越の神秘によって偉大なわざを成しとげられ、わたしたちを罪と死のくびきから栄光にお召しになりました。わたしたちは、いま、選ばれた種族、神に仕える祭司、神聖な民族、あがなわれた国民と呼ばれ、闇から光へ移してくださったあなたの力を世界に告げ知らせます」

 

女の子_うきわ

美沙……ちょうど、出エジプトの出来事と同じようなことが、キリストによって行われて「わたしたち」が神の民とされていることを言っているのですね。「あがなわれた国民」と言われる意味は、きょうの説明でよくわかりました!

 

 

124594

答五郎……キリストのわざはもっと偉大なのだけれどね。そのことを伝える意味で「あがない」には、もう一つの意味合いが含まれる。マタイによる最後の晩餐でのイエスのことばにも含まれていた「罪のゆるし」という点なのだ。それについては、次回考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)