《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 44 「あがない」の意味を探ってみよう

「あがない」の意味を探ってみよう

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問次郎……答五郎さん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

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答五郎……おめでとう。今年も、ミサについて探究していくことにしよう。2週間休ませてもらったけれどきょうは、「感謝の典礼」の4回目。前回は、現在の「感謝の典礼」になっていく最初のころ、使徒たちの時代には、「主の晩餐」とか「パンを裂くこと」と呼ばれていたというところまで見たね。

 

女の子_うきわ

美沙……はい、その前にこの晩餐を定めたというイエスのことばもふり返りました。その説明で使われた「あがないのいけにえ」の「あがない」ということばがまだよくわからなかったのです。

 

 

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答五郎……そうだったね。イエスが、パンについて「これは、わたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯について「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言っていた(マタイ26・26~27)。ほかでもいろいろな言い方があるが、まとめて、これは、「あがないのいけにえ」の意味だと説明したところだね。

 

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問次郎……「あがない」という用語は、教会に来る前は使ったことも聞いたこともなかったのですが、教会に来てずいぶんと聞くようになりました。

 

 

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答五郎……「あがない主」キリスト、という言い方は聞いたことがないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……少しはあるかもしれませんが、「救い主」キリスト、という言い方のほうはよく聞くので、同じ意味なのかなとも思っていました。

 

 

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答五郎……「あがない」という語は、日常では使われなく、古語みたいだが、れっきとした日本語だし、漢字にもある。ちょっと書いてみようか。二つあるのだよ。「贖う」と「購う」。

 

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問次郎……「贖」は難しいですが、「購」は、購読とか、購入で使う字ですね。

 

 

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答五郎……そう、「あがなう」も、もともとは相当のお金を払って、あるものを得るということ、簡単にいえば「買い求める」とか「買い取る」とか「買い戻す」という意味なのだよ。二つの漢字とも「貝」偏なのは、貝が貨幣のような役割を果たしていた名残なのだね。

 

女の子_うきわ

美沙……教会で、「贖い主」という字を見たこともあります。

 

 

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答五郎……そうだね、聖書の訳や教会用語として漢字で書く場合は「贖う」とか「贖い主」と書くことになっている。けれど、常用漢字ではないから、平仮名で「あがなう」とか「あがない」と書くね。『あがないの秘跡』とか『人類のあがない主』といった文書のタイトルで見かける。

 

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問次郎……そもそも「買い求める」「買い取る」という意味の単語が、聖書というか教会では、イエス・キリストに関して使われるのですか。

 

 

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答五郎……聖書では、お金を払って奴隷を解放するという意味の単語を使って、神による救いを表現するという伝統があるのだよ。旧約聖書の『出エジプト記』で述べられている古代イスラエル民族の体験がこのことばで記憶されているのだよ。

 

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問次郎……古代エジプトで隷属状態にあったイスラエルの民がモーセに率いられてそこから脱出するというあの有名な出来事ですね。ということは、「あがない」とは解放という意味なのですか。

 

 

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答五郎……たしかにその意味がひとつに含まれるけれど、もう一つの側面、「買い取る」とか「買い戻す」という意味も、ここには含まれている。つまり、エジプトから脱出することができて解放された民は、それで終わるのではなくて、神の民とされる。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19・6)という言い方で書かれているのはそのことだ。

 

女の子_うきわ

美沙……解放されて、自由にされたというだけでなく、そこで神との関係が出来てくるわけですね。

 

 

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答五郎……そのしるしとして、契約が結ばれるのだね。そこで、いけにえの血が祭壇つまり神のほうと民のほうに半分ずつ振りかけられて締結が完了する(出エジプト記24・3~8参照)。イエスが「契約の血」ということばで自分のことを言うとき、この契約のことが暗に思い出されているわけだよ。

 

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問次郎……すると、人間の商売用語といえる言葉を使って、神によって不自由な状態から解放されて神のものとされるということ全体が言われているわけか。

 

 

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答五郎……そう、一種の譬えといえる表現なのだよ。神との関係が含まれることばだから「解放」でも「買い戻す」でもなく、日本語的には古語のような「あがない」ということばが使われるのかもしれない。たとえば、年間主日のミサで唱えられる叙唱1の中心文を読んでもらえるかな。

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問次郎……はい。「主・キリストは、過越の神秘によって偉大なわざを成しとげられ、わたしたちを罪と死のくびきから栄光にお召しになりました。わたしたちは、いま、選ばれた種族、神に仕える祭司、神聖な民族、あがなわれた国民と呼ばれ、闇から光へ移してくださったあなたの力を世界に告げ知らせます」

 

女の子_うきわ

美沙……ちょうど、出エジプトの出来事と同じようなことが、キリストによって行われて「わたしたち」が神の民とされていることを言っているのですね。「あがなわれた国民」と言われる意味は、きょうの説明でよくわかりました!

 

 

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答五郎……キリストのわざはもっと偉大なのだけれどね。そのことを伝える意味で「あがない」には、もう一つの意味合いが含まれる。マタイによる最後の晩餐でのイエスのことばにも含まれていた「罪のゆるし」という点なのだ。それについては、次回考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 43:「感謝の典礼」の生まれたての姿

「感謝の典礼」の生まれたての姿

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答五郎……ミサの「感謝の典礼」に目を向けて3回目になるね。前回は、その全体像の根底にイエスが行っていた食事の動作の記憶があるということを見たのだったね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい、いろいろな儀式やことばが連なっている式次第の中心にイエス・キリストがいて、そのイエスとの食事の動作なのだと考えると、理解しやすくなるかもしれないと思いました。

 

 

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答五郎……きょうは、新約聖書を手がかりにして「感謝の典礼」の始まりに思いを馳せてみよう。問次郎くん、1コリント11章23節から25節を読んでもらおうかな。

 

 

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問次郎……はい。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」

 

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答五郎……そう。パンを「わたしの体」、杯を「わたしの血によって立てられる新しい契約」と告げたところで、ここが聖体の制定、主の晩餐の制定と呼ばれていることは知っているだろう。

 

 

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問次郎……はい、ミサの中でもそのようなことばが告げられていますから。

 

 

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答五郎……同じような内容がルカ22章14~20節、マタイ26章26~29節、マルコ14章22~25節にもあって、制定の意味がそれぞれに語られている。美沙さん、ルカ福音書による最後の晩餐のところを頼む。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」

 

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答五郎……マルコ、マタイの記述との比較は省くけれど、「わたしの体」とは「あなたがたのために与えられる」もの、「わたしの血」についても「あなたがたのために流されるもの」とあるところからパンとぶどう酒の杯で表されているのは、イエス自身のいのちのことだとまず考えられるね。

 

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問次郎……「あなたがたのため」というところが重要なのですね。

 

 

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答五郎……そう。自分自身の生涯全体そして最後の十字架上での死が、「あなたがた」つまり弟子たち、ひいてはすべての人のために与えられるささげものであること、罪のゆるしをもたらす(マタイ26・27参照)、つまり、あがないのいけにえであるというイエス自身の自覚、そして新約聖書に反映しているように、使徒たちの理解も告げられていると考えられるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……「あがないのいけにえ」……まだ、あまりよくわかっていないのですが、ともかく、そのような意味合いをこめて、そのあと、「信仰の神秘」と歌われ、「主の死を思い、復活をたたえよう」とみんなが唱えるのですね。

 

 

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答五郎……十字架上の死は復活と一つのことで、それを含んでの「わたしの体」「わたしの血」だよね。「あがないのいけにえ」であるキリストの死と復活によって、神と人類の間に新しい契約が打ち立てられたということが、このパンとぶどう酒の杯で表されているのだよ。

 

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問次郎……12人の弟子たちとの会食がとても大きなスケールの出来事となっている感じがします。

 

 

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答五郎……そもそも、まずキリストの十字架での死、それは復活と切り離せないから、キリストの死と復活全体が、人類史的な意味をもつ出来事、さらには宇宙論的な出来事というべきものなのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それほどスケールの大きな意味深い出来事を記念するために、パンとぶどう酒の杯による食事を行いなさいとイエスが言われたこと、それが「感謝の典礼」の制定ということでしょうか?

 

 

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答五郎……そう。だから、「感謝の典礼」は、イエスの出来事、その生涯の意味を思い起こしながら神に賛美と感謝をささげる祈りを行って、パンと杯をいただく食事をすることがもとになっている。そのかぎりは、外観としては、会食、祈りを伴う宗教的な会食儀礼だったということだ。

 

女の子_うきわ

美沙……そういう行いだから「主の晩餐」と言われているのですね。

 

 

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答五郎……パウロが1コリント11章17~22節でいうのは、共同体の中に分裂があるとしたら、一緒に集まっていても「主の晩餐」を食べることにはならない、ということで、主の晩餐で一つのパンを裂くことはキリストの体にあずかること、賛美の杯は、キリストの血にあずかること(1コリント10・14~18節)だと強調している。何のための主の晩餐なのか自覚を求めているのだよ。

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問次郎……最近、ミサでよく聞く、「主の食卓」という呼び名もあるのですか。

 

 

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答五郎……1コリント10章21節で、「悪霊の食卓」つまり他の宗教の神々に供えられたものを食べる食事との対比で語られている。いろいろな教えの流れの中で、キリストを記念し、キリストの体と血にあずかる食事型典礼の意味が説き明かされているともいえるね。

 

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問次郎……それと、当時のコリントの教会でのあまりよろしくない状態も浮かび上がってきて、それはそれで興味深いです。

 

 

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答五郎……使徒言行録2章42節の簡潔な記述「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」というところの「パンを裂くこと」も主の晩餐を指しているといわれる。ほかに2章46節、20章7節にも同じ言い方が出てくる。

 

女の子_うきわ

美沙……ほんとうにキリストが中心となっている食事、会食ということが、「感謝の典礼」の始まりだったですね。「あがないのいけにえ」という意味はまた今度お願いします。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 42:根底にあるイエスの食事の記憶

根底にあるイエスの食事の記憶

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答五郎……さて、探究は「感謝の典礼」にいったところだが、いいかな。式次第順に見ていくこともひとつの方法だけれど、まず「感謝の典礼」全体を見渡すということが大事だよ。その成り立ちを考えるということかな。

 

 

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問次郎……つまり歴史ということですね。

 

 

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答五郎……たしかに成り立ちは歴史ともいえるのだけれど、その歴史を上から眺めるというよりも、今のミサの形、式次第として展開される感謝の祭儀の流れというか構造というか、いわば“つくり”を見るということかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……今のミサの姿を思って考えていればいいのですね。

 

 

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答五郎……そう、それをいつも念頭に置いておいて考えてほしい。まず「感謝の典礼」の式は、おおまかに言うと「供えものの準備⇒奉献文⇒交わりの儀」というふうに展開していく。

 

 

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問次郎……見た印象だと、共同祈願のあと、献金があって、それから、パンとぶどう酒と水をもって奉仕する人と、集められた献金を入れた籠などが会衆席後ろから前の司祭のところに届けるという動きになりますね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……式次第を見ると、奉納行列とあるところですね。

 

 

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答五郎……そう、「奉納」という言葉はとても日本語的なのだけれど、ラテン語の原語を直訳するとここの部分が「供えものの準備」となるのだよ。ここからの大きな流れをとり結ぶところにひとつの祈願があるのだが……。

 

 

女の子_うきわ

美沙……奉納祈願ですね。

 

 

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答五郎……そう、いわば奉納行列で始まり、奉納祈願で結ばれるところまでが「供えものの準備」の部。それに続くのが「奉献文」、最後が「交わりの儀」だ。

 

 

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問次郎……聖体拝領のところですね。

 

 

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答五郎……そう、簡単にいえばその部分なのだが、その締めくくりはどうなっているだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「拝領祈願」ですね。

 

 

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答五郎……こうした祈願が式の区分の目印になっていることがわかるだろう。ところで、「供えものの準備⇒奉献文⇒交わりの儀」という流れの中で、中心となっているものはなんだろう。

 

 

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問次郎……パンというか聖体でしょうか。

 

 

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答五郎……そうだね。基本的にはね。そして、そこにはぶどう酒もセットされていることを見てほしいね。     いずれにしても、この「感謝の典礼」の中では、パンとぶどう酒の杯が祭壇に用意され、それら     の上に司祭が祈り、皆に分けていくという流れだろう。祭壇ももともとは食卓なのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……ああ、そうなると、感謝の典礼全体は、祈りを一緒にした食事のような流れですね。

 

 

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答五郎……そう。そこで思い出してほしいのは、福音書にたびたび触れられるイエスが中心に行う食事のときの動作だ。もちろん、最後の晩餐で、この感謝の典礼を制定したといわれる部分もそうなのだが、たとえば、マルコ福音書6章30~43節の「五千人に食べ物を与える」という箇所の中の41節を読んでごらん。

 

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問次郎……はい。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」

 

 

124594答五郎……ありがとう。パンに関してみると「取って、賛美の祈りを唱え、裂いて渡した」という行為が浮かび上がるだろう。もちろんその前にパンが用意されていたということがあるけれど。実はこのような動作は、同じようにパンで多くの人を満たした話のほかにも、最後の晩餐(マルコ14・22。ほかマタイ、ルカの同様の箇所)、それからエマオに向かう弟子たちに復活したイエスが現れた場面でも(ルカ24・30)でも出てくる。

 

 

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問次郎……なにか特別なわけがある動作なのですか。

 

 

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答五郎……いやぁ、あの時代のユダヤ教の信仰生活の中で神を賛美しながら食事をするという会食儀礼のようなものが、たとえば過越祭の食事とか安息日の食事というふうに、豊かに行われていたらしい。その中に、食べ物を手にとって神に祈りをささげてから皆に分けるというのは、当然の動作だったようだ。

 

女の子_うきわ

美沙……でも、イエスの食事のときの動作は、さりげなく繰り返されている分、とても印象深く伝わりますね。

 

 

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答五郎……そうだろう。そして、準備されていた食べ物を手にとるまでの部分、そして、手にとって祈りをささげる部分、それを分けていく部分を大まかに分けることができるとすれば、それが、感謝の典礼の三部構造の背景というか根源にあるというふうに考えることができるのだよ。

 

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問次郎……式次第を見ていると、いろいろな言葉や歌や祈願があって、複雑そうに見えますが、「感謝の典礼」の根底には、イエスとの食事、主の食卓があるのですね。

 

 

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答五郎……主の食卓、主の晩餐、パンを裂くことと初期に呼ばれていた事実を次回は見ていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 41:「感謝の典礼」に入ろう

「感謝の典礼」に入ろう

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問次郎……答五郎さん、お久しぶりです。

 

 

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答五郎……おお、問次郎くん、久しぶり。どうしていた?

 

 

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問次郎……いやあ、答五郎さん、「ことばの典礼」を扱っている間、後ろで聞いていたではないですか。美沙も一緒でしたよ。話していたのは瑠太郎くんと、聖子さんでしたけれど。

 

 

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答五郎……ああ、そうだったね。美沙さんもどうも。それに、瑠太郎くんと聖子さんも後ろにいてくれるのだね。でも、「感謝の典礼」に関しては、おもに問次郎くんと美沙さんと語り合いながら、一緒に研究していくことにするね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……よろしくお願いします。まず「感謝の典礼」という名前についてお聞きしたいです。

 

 

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答五郎……そうだね。「感謝の典礼」というのは、ミサの式次第の区分でいえば3番目。「開祭」「ことばの典礼」、そして「感謝の典礼」、最後に「閉祭」とくる。「開祭」と「閉祭」が対応しているように、「ことばの典礼」と「感謝の典礼」は対応し合っているともいえる。

 

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問次郎……でも、なぜ、ミサの中で「感謝」ということがとくに言われるのでしょうか。

 

 

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答五郎……たしかにね。感謝することは一般的なことだよね。ここで特に「感謝の典礼」というのはどうしてかということだね。元の言葉がヒントになる。ここでは「エウカリスティア」だ。ラテン語でもそのまま使われているが、ギリシア語だよ。キリスト教にとって、とても重要な言葉なのだけれど、聞いたことは。

 

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問次郎……最近の本の中で、ときどき目にする気がします。

 

 

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答五郎……そう、簡単に訳せない面もあるから、最近は片仮名で「エウカリスティア」と書かれることも多いかもしれないな。ところで、「感謝の祭儀」ということばを聞いたことはないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……ミサの最後のほうで、司祭が「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」というときのことばですね。

 

 

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答五郎……そう。ここではミサ全体が「感謝の祭儀」といわれている。ただ「エウカリスティア」は第一には「感謝」の意味なのだけれど、それだけでは尽きない意味がある深いことばなのだよ。その意味深さを知ることが「感謝の典礼」の部を探究する一つの目的になるほどだよ。

 

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問次郎……さっそくわからなくなりました。「感謝の祭儀」と「感謝の典礼」とは同じなのですか、違うのですか。

 

 

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答五郎……簡単にいえば、「感謝の祭儀」はミサ全体、「感謝の典礼」ははじめにいったように式次第の区分の3番目を指す言葉だ。でも、ミサ全体の名もほとんど同じになるわけだから「感謝の典礼」の部分がミサの肝心なところであり、核心をなしているということは想像がつくだろう。

 

女の子_うきわ

美沙……感謝、というかエウカリスティアが重要なのですね。どのように理解していったらいいのでしょうか。

 

 

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答五郎……実は、手がかりはやはり聖書なのだよ。そして、ほんとうに深く知るためには、旧約聖書の律法の中で献げ物に関するところ、たとえばレビ記などが記している律法や、詩編の中の神を賛美したり、神に感謝をしたりするところとかがやはり大切な背景になってくる。

 

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問次郎……旧約聖書まで探っていくとなると、大変ですね。一朝一夕にはいきません。

 

 

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答五郎……でも、一日一日、少しずつでも読んでいかないとね。旧約聖書はそうやって親しんでいくと、新約聖書全体、そして教会が行っている典礼の理解も深まるというものだ。

 

女の子_うきわ

美沙……ええ、もちろんそれはそれで頑張ってみたいと思いますが、それでも、わかりやすく教えていただきたいのも、本音です。

 

 

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答五郎……そこまで丁寧に求められたら、わかりやすい理解のしかたも考えてみなくてはね。実際、教会の歴史の中でエウカリスティア、つまり「感謝」という意味のギリシア語が典礼自体や典礼での祈りについて使われていたらしいのは2世紀といわれている。

 

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問次郎……そんなに古いのですか。

 

 

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答五郎……そうなんだ。2世紀初めか前半の文書とされている『十二使徒の教え』や2世紀半ばのユスティノスの『第一弁明』、これについては「ことばの典礼」の研究のときにもなんども触れただろう、それらの中で感謝の典礼の初期の祈り方や行われ方が伝えられているのだけれど、ともかく「エウカリスティア」という言葉がキーワードになっているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……そうですか。すると、今、日本の教会で「感謝の祭儀」とか「感謝の典礼」という言い方をしているのは、そのような初期の言葉遣いにならおうとしているからなのですね。

 

 

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答五郎……そうだと思うよ。また『ローマ・ミサ典礼書』のラテン語の言葉遣いに倣っているだけなのだけれど、それでも、「感謝」という意味をクローズアップさせたのは大きかったと思う。「感謝」はなんといっても、ミサの祈りの基本だからね。

 

女の子_うきわ

美沙……ミサは神の恵みに対する感謝の祭儀で、その中心が「感謝の典礼」にあるのですね。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 40:朗読後の「神に感謝」

朗読後の「神に感謝」

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答五郎……さて、「ことばの典礼」だけでも20回目になるが、きょうはもう一度ふり返ってみて、さらに気になるところがあったら考えてみよう。

 

 

 

聖子……見学していて気になったのは、朗読後のところね。

 

 

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答五郎……はぁーん。あそこか。

 

 

聖子……ええ。第1朗読や第2朗読で、朗読が終わると隣にいる、……侍者だったかしら、侍者が「神に感謝」と言うと、みんなが「神に感謝」と言うのが多いかしら。でもある教会では、侍者が「神に感謝」と言ったあと、黙っていることもあるわ。また、ある教会では、朗読者自身が「神に感謝」という場合もあって、さらにみんなが「神に感謝」と答えているところもあるし……。

 

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答五郎……そう、たしかにいろいろなやり方があるね。気になるかい。

 

 

聖子……そう言われると……。朗読の中身のほうが大事なのよね。でも、終わったあと、「神に感謝」と言ってよいのか、よくないのか、迷ってしまって、ほんとに落ち着かないわ。

 

 

 

瑠太郎……福音朗読のあとには司祭が聖書を掲げながら「キリストに賛美」といって、皆も「キリストに賛美」と声を出して答えていますね。

 

 

聖子……それで、なんとなく元気も出るというか、しまるというか。ずっと黙っていたわけだから、声を出して答えたいというのも自然な感情でしょ。

 

 

 

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答五郎……実はね。こういう事情があるのだよ。日本語版『ミサ典礼書』、今行われているミサの基だが、ここでは、朗読が終わると、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言う、ということになっているのだが、会衆はこれを唱えるというふうにはなっていないのだよ。

 

聖子……実際そういうふうにやっている教会もあるわけだから、『ミサ典礼書』に忠実というわけね。 でも、どうしていろいろなやり方になっているのかしら。決まりを無視しているというわけ。

 

 

 

瑠太郎……侍者が言うのは決まりに従っているにしても、一同がさらに「神に感謝」と言うのは、自然な心理からなのではないでしょうか。今のミサは、いろいろなところで、会衆の応唱ですか、この一同の元気な答えというのが大事な部分になっているようですし。

 

 

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答五郎……朗読後のほんの一言に関してなのに、日本の教会では、不思議に大きな討論のテーマになることがあるのだよ。

 

 

瑠太郎……朗読の中身のほうが重要だと思うのですが。

 

 

 

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答五郎……たしかに。実は、ここのところ、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語版、つまり教皇庁の典礼秘跡省から出されている各国語版の底本では、ここの部分は、朗読者が「Verbum Domini 」=「主のことば」(「主である神のことば」の意味)と唱え、それに対して会衆が「神に感謝」と答えるというふうに規定されているのだよ。

 

聖子……そうなの。じゃ、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言い、会衆は言わないという規則は日本の教会だけで決めたことだったの?

 

 

 

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答五郎……そうなのだよ。どうしてかというと、神のことばを聴いて、沈黙を保ったまま黙想することができるように、という意図だったらしい。

 

 

聖子……それだったら、いっそのこと、朗読が終わったらなにも言わないほうがよかったじゃない。

 

 

 

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答五郎……それは一理ある。たしかに侍者が「神に感謝」と言うことにしたために、どうしてもみんなも唱えないと落ち着かないというふうに思われたらしい。他の司式者との対話句と同じようにね。もっとも、ラテン語版には、「神に感謝」を会衆が唱えることになっていて、大方の各国語版も同じようにしているから、外国人の司祭方をはじめ、それを当たり前と思う人が多くいるから、そのやり方が続いているとも考えられているよ。

 

 

聖子……結局どうしたらいいの? まちまちのままでいいの?

 

 

 

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答五郎……とうぶん続くだろうね。近い将来期待されている日本語版『ミサ典礼書』の改訂では、ここの部分は、ラテン語版と同じように、朗読者が「神のことば」(たとえばだけどね)と唱え、会衆が「神に感謝」と答える形にしていくことが予想されている。

 

瑠太郎……ずっと聞いていたのですが、むしろ重要なのは、やはり聖書朗読の中身だと思います。今回、いろいろと学び、教会で聖書が読まれるときは、神が語る、キリストが語る、聖書朗読、とくに福音朗読の中にキリストがおられるのだということが、ぼくにとっては、重要でした。

 

 

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答五郎……たしかに、答唱詩編でも、アレルヤ唱でも、福音朗読のあとの説教でも、信仰宣言でも、そして共同祈願でも、そこにキリストがいるということを意識することが大事だね。

 

 

瑠太郎……ことばで行われるこの式の流れを通じて一貫しているのは、やはりそこにキリストのことば・声・祈り・教え・行いの跡がはっきりと示され、響いて、自分たちを刺激し、力づけていくということではないでしょうか。

 

 

 

聖子……それだけ大事なら、やっぱり「神に感謝!」とみんなで叫びたいわね。

 

 

 

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答五郎……ありがたい二人の言葉だ。では、少し休んで、次からは、「感謝の典礼」という部分を見ていくことにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 39:奉献文にもある“共同祈願”

奉献文にもある“共同祈願”

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答五郎……共同祈願のところを見てきて4回目になる。前回、「困難に悩む人のために祈る」という意向3の趣旨を考えるための参考に、ビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」の一部分を見てみたところ、瑠太郎くんから、共同祈願と奉献文の関係について質問されたのだね。

 

瑠太郎……はい。今はミサの「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」を考えているところで、急に奉献文の例があがったのでちょっと驚きました。

 

 

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答五郎……奉献文については、やがて扱うことになる「感謝の典礼」の中心的なところなので、あとでゆっくり扱うことにしているのだが、共同祈願との関係で少しだけ前もって見ておくことにしよう。奉献文は、ミサの見学でだいたい聞いて親しんでいるだろう。

 

瑠太郎……はい、特に「わたしのからだ」というところや「わたしの血の杯、……新しい永遠の契約の血」はとくに厳かな気持ちになります。

 

 

 

聖子……鈴も鳴るし、皆深々とおじぎをするし。少し緊張するわ。

 

 

 

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答五郎……そこは、聖別句といわれるところで、秘跡制定句と説明されることもあるのだけれど、たしかに奉献文の中心だ。そのあと、「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」となるだろう。

 

 

 

聖子……そこ歌うわよね。感動が極まっているという雰囲気のところね。

 

 

 

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答五郎……そのあと、第二奉献文でいえば、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」とあり、そして、そのあとに「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。」とあるだろう。この「一つに…」という趣旨から続きがあるのだよ。

 

瑠太郎……「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、……」の祈り、そして「また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め……」という祈りのことですね。このあたりは「取り次ぎ」とも呼ばれています。

 

 

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答五郎……そう。その「取り次ぎ」の祈りについて『ローマ・ミサ典礼書の総則』79にきれいな説明があるので、聖子さん、読んでみてくれないかな。

 

 

 

聖子……ええ、ここね。「取り次ぎの祈り-この祈りは天上と地上の全教会の交わりの中で感謝の祭儀が行われることを表し、キリストのからだと血によって得られたあがないと救いに参加するよう招かれた教会と、生者と死者を問わず、そのすべての構成員のために、奉献が行われることを表現する」。ふうっー、ちょっと難しいわ。

 

 

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答五郎……要は、「感謝の祭儀」は天上と地上の全教会、生者と死者を問わず教会の全メンバーによって、その全員のために行われるということを言っているのだよ。「全教会とそのすべての構成員」のために祈るというところは、「ことばの典礼」の共同祈願と似ているだろう。とくに意向1の「教会の必要のため」という趣旨と重なっている。

 

瑠太郎……でも、ここは全教会といって、やはり信仰者のことを前提としているのではありませんか。教皇や司教、またマリア、ヨセフ、使徒、聖人などのことをいうとき、それに復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟というときには。

 

 

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答五郎……でもね。教会のことを狭く考えているとも思われないのだよ、典礼の祈りは。すべての人は神に招かれているという前提で祈っている。福音も聖体もすべての人の救いのためだという精神で祈っているのだよ。神に賛美と感謝をささげ、そして横のつながりでの祈りをしているのだから。

 

瑠太郎……それで、ビザンティン典礼の奉献文(アナフォラ)では、そのような取り次ぎの祈りの中で、困難な状況にある人たちのことも祈っているのですね。

 

 

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答五郎……そう、「取り次ぎの祈り」とはわかりやすくいえば「教会共同体のための祈り」なんだ。キリストを中心とする共同体としての連帯性のもとで祈るという意味では、本来「すべての人のための祈り」である共同祈願と性格としては共通なのだよ。

 

聖子……じゃあ、ミサでは共同祈願が2回あるといってもいいわけ?

 

 

 

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答五郎……そういえるかもしれないね。「ことばの典礼」の共同祈願は、その日の神のことばにこたえてする「すべての人のための祈り」だとすれば、奉献文の取り次ぎの祈りは、「感謝の典礼」でささげられる「すべての人のための祈り」つまり共同祈願というふうにね。

 

瑠太郎……こういう言い方もできませんか。福音にこたえて祈る共同祈願と、聖体のもとで祈る共同祈願というふうに。

 

 

 

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答五郎……なるほど! ずいぶんミサの核心に入ってきたね。たしかにミサには「みことばの食卓」と「キリストのからだの食卓」があるといわれることがあるね(総則28参照)。それぞれの食卓からささげられる共同祈願ということになるね。

 

 

聖子……だんだんともう、「感謝の典礼」のことが気になってしかたがないわ!

 

 

 

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答五郎……そうだね。でも「感謝の典礼」のことに入る前に、次回もう一度「ことばの典礼」全体のことを振り返っておくことにしたいな。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 38:「困難に悩む人々」のために

「困難に悩む人々」のために

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答五郎……共同祈願のことを考え始めて3回目だね。前回は、「すべての人のための祈り」という共同祈願の特質が、意向1では「教会の必要のため」と意向2では「国政にたずさわる人々と全世界の救いのため」という二つの側面から考えられていることを見たね。今回は、意向3の「困難に悩む人々のため」という側面について考えてみよう。

 

瑠太郎……この部分では、最近では『聖書と典礼』の例文などで内戦や自然災害などで苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人などはよく言及されている気がします。これも教会の伝統なのですか。

 

 

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答五郎……実は、前回も引用した「テモテへの手紙 一」2章1~2節で、とくにあげられているのは「王たちやすべての高官のためにも」ということだから、困難に悩む人々のことが特別にあげられているわけではないのだけれどね。実際に困難に悩んでいる人を助けることについての教えは、イエス自身が示しているよね。

 

瑠太郎……はい、イエス自身が、あの当時の社会のなかでさげすまれている人と一緒に食事したり、病気の人をいやしたりしていました。

 

 

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答五郎……それに、たとえば、マタイ25章31~46節の最後の審判についての教えの中でも、飢えている人、渇いている人、旅をしていて宿のない人、服のない人、病気の人、牢獄に入れられている人を助けることは、「わたし」(イエス)を助けることだと語られている。これら「最も小さな者の一人」を助けることがイエスを助けることだといわれているのだよ。

 

聖子……教会の歌で「小さな人々の」という歌があったわね。「♪小さな人々の一人ひとりを見守ろう、一人ひとりの中にキリストはいる」(『典礼聖歌』400)

 

 

 

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答五郎……そう、その歌はまさにそのマタイ25章の教えに基づくものだよ。
ちなみにね、前回も見たユスティノスの『第一弁明』(67章6節)ではね、日曜日の礼拝集会では施しを集めて困難にある人を助けたということが書かれている。「次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」とね。「孤児ややもめ」とは、旧約聖書の時代から社会的弱者の代表のように言及されている人のことだし、そのあとのところは、さっきのマタイ25章の教えとも対応しているのがわかるだろう。

 

瑠太郎……そうしたことは、教会の実践として勧められていることですよね。それが共同祈願の意向にも反映しているということですか。

 

 

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答五郎……「すべての人」に目を注ぐということは、さらに「さまざまな状況や境遇にあるあらゆる人」にも目を注ぐということだし、その場合、祈りによって支えるべき人は、おのずと何らかのかたちで困難な状況にある人ということになるだろう。それは、さまざまあるし、むしろ、それぞれの共同体の中で具体的な状況を考えていっていいようなものだよ。

 

 

聖子……ときどき、何かの献金日にちなむ意向が例文としてあがっているときがあるわね。先週(10月22日=10月の最後から2番目の日曜日)は「世界宣教の日」となっていたわ。

 

 

 

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答五郎……これは、世界中の宣教活動のために霊的援助と物的援助をともにしようという意味で、とくに物的援助のために献金を集めるよね。でも、そのような事業には霊的援助が不可欠だろう。そこで、なるべく献金日が定められているときには、そのことを共同祈願の意向に反映しようという姿勢から例文があげられているわけだよ。困難に悩むという原則を広い意味で考えていることにもなる。どのような宣教活動にも、困難はつきまとうからね。

 

瑠太郎……その意味では、共同祈願は教会の実践の心を表すものともいえるのですね。

 

 

 

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答五郎……そういう見方は大事だね。祈りは言葉だけで終わるものではないからね。実はそこで参考になるのは東方教会の奉献文なんだ。8〜9世紀頃にまとまったとされるビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」には、王や皇帝のための祈りもあれば、教会を構成するほんとにあらゆる人々のことが祈られている。その広がりの中で困難に悩む人たちのことも祈っている。試しに訳した文章があるので、その部分を、聖子さん、読んでもらえないかな。

 

 

聖子……はい、ここね。「(神よ、汚れた霊によって苦しめられた人々を解放し、航海する者たちとともに航海し、旅する人々と道をともにしてください。身寄りのない子どもたちを保護し、とらわれ人を解放し、病気の人を見舞ってください。裁きの場に置かれている人、追放されている人、あらゆる困難と不幸の中にある人々を心にとめてください」。いいかしら。

 

瑠太郎……たしかに、聖書の教えとつながる内容もあるし、世の中にいつもいる弱い立場の人々のことが触れられていますね。教会はイエスや使徒たちの時代からずっと変わらずに、いつもこのような人たちのために祈り、援助しているということでしょうか。

 

 

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答五郎……助け合うという実践にこめられる心を表すために祈りが行われるし、また祈ることによってみんなを実践へと動かしていくこともあるだろうね。

 

 

瑠太郎……答五郎さん、今、読んだ例文は奉献文のものだと言いましたよね。奉献文と共同祈願は別なものと思っていたのですが、関係があるのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほう、そのことか。その点は次回に考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 37:「すべての人」へのまなざし

「すべての人」へのまなざし

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答五郎……こんにちは。ちょっと休んでしまったが、元気かな。前回から「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」のことを考え始めたね。

 

 

瑠太郎……はい。「共同祈願」の「共同」には、結局「すべての人のために」信者「みんな」で祈るという意味が込められているのだということがわかりました。

 

 

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答五郎……では、その「すべての人のため」ということをもう少し詳しく見ていくことにしよう。共同祈願の形式として「招き」と「結び」の間に、いくつか「意向」があり、それに対して短い「応唱」があるということは、もう見学してもうわかっているだろう。

 

瑠太郎……はい。祈りの意向をいくつかのべて応唱を繰り返すところは連願的な部分でしたね。日曜日のミサではだいたい4つあるようですが。

 

 

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答五郎……『聖書と典礼』の例文が4つとなっていて、最後が「それぞれの共同体のために祈る」となっているから4つなのだが、そのもとは『ローマ・ミサ典礼書』の総則70にある。読んでもらえるかな、聖子さん。

 

 

聖子……はい。「意向は通常、次のような順序で行う。a)教会の必要のため b)国政にたずさわる人々と全世界の救いのため c)困難に悩む人のため d)現地の共同体のため。ただし、堅信、結婚、葬儀などの特別な祭儀においては、特殊な機会を考慮して意向の順序を定めることができる」
つまり、日曜日の意向が4つになっているのもこのa)b)c)d)に沿っているのね。

 

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答五郎……a)やb)については、前回読んだ「テモテへの手紙 一」2章1~2節の中の「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」や、ユスティノスが『第一弁明』で記す「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」という表現が背景にあると考えられるだろう。そこに困っている人への祈り、現地の共同体自身のためというある特定の人に向けての祈りもある。

 

 

聖子……すべての人というと、いつも全体のことを考えるのかと思っていたけれど。

 

 

 

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答五郎……すべての人というとき、あらゆる状況にある人々すべてということを考えているのだと思うよ。でも、あらゆる状況すべてに言及することは、この短い祈りの中ではできなくて、そのときどきに、ある状況のことを考えていってもいいわけだよ。

 

瑠太郎……あくまで大枠というか基本原則なのですね。

 

 

 

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答五郎……そうだね。だけれど、この4つの意向の順序は意識する必要があると思う。ほんとうは、各教会で手作りの意向をささげてよいわけなのだけれど、なかなか大変なのが実情だから、つねに、このような意向の類別を意識できるようにするために、『聖書と典礼』も例文を示すことにしているのだよ。

 

聖子……つまり、全部が教会のため、全部が世界のため、全部が困難を抱える人々のため、全部が現地の共同体のためになってはいけないということね。

 

 

 

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答五郎……具体例があるといいかな。次の日曜日10月22日は年間第29主日(B年)になるのだけれど、その日の『聖書と典礼』の意向の例文を見てみよう。ちなみにこの日の福音朗読はマタイ22章15-21節。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)という有名な言葉があるところだ。瑠太郎くん、例文を読んでほしい。

 

瑠太郎……はい。意向1は「キリストとともに歩むわたしたちが、一人ひとりの近くにおられる主の愛を感じとり、あかししていくことができますように」、意向2は「人々が自分だけの価値観にとらわれず、他者の考えにも耳を傾け、世界の将来にふさわしい道をともに求め、協力することができますように」ですね。

 

 

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答五郎……意向1が、キリスト者であるわたしたち、いわば全教会の使命にとって必要なことを願う内容、意向2が、一般の人々が世界全体のために協力し合えるようにと告げているね。

 

 

聖子……ここにあることは、だれにとっても大事なことよね。みんなに共通のよいことのために、教会も祈っているのね。

 

 

 

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答五郎……祈っているということは決して口先だけのことではなく、行動や実践のための決意表明の意味ももつわけだよ。実はこの二つの意向にも示されているような教会へのまなざしと、世界へのまなざしは、第2バチカン公会議(1962~65年)の『教会憲章』と『現代世界憲章』の二つに基づくものだということもいえるのだよ。

 

瑠太郎……少し学んだことがあるのですが、教会が近代世界に対して自己を閉ざしていたような態度をあらためて世界に向かって自らを開き、すべての人の救いと世界がともによくなることを目指して奉仕する姿勢になったということですね。

 

 

聖子……第2バチカン公会議があったから、ミサの共同祈願ができたってことなの?

 

 

 

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答五郎……いやあ、たしかに第2バチカン公会議前のミサにはなかったのだが、むしろユスティノスが語るように初期の教会で行われていたのだよ。だから、共同祈願は復興されたというべきなんだ。その際の教会と世界へのまなざしの向け方を、この公会議は率先して示したということになるだろうね。次は、意向3について考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 36:共同祈願の「共同」って?

共同祈願の「共同」って?

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答五郎……さて、「ことばの典礼」を扱って16回目になるね。テーマを共同祈願に移そう。見たことは?

 

 

瑠太郎……日曜日のミサに行くと行われていますね。僕が行ったところでは、信徒席のところで、一人の人が『聖書と典礼』にある例文を読み上げていました。

 

 

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答五郎……その読み上げるところは「意向」という。ここが共同祈願だと思われることもあるけれど、司祭の招きがあり、いくつか意向が唱えられ、そのたびに一同が応唱し、最後に結びの祈りがあるという流れ全体が共同祈願なのだよ。

 

 

瑠太郎……招きと結びの祈りがあるところは、集会祈願、奉納祈願、拝領祈願とも同じですね。

 

 

 

聖子……そこに、意向がいくつかあって、それぞれに一同が応唱するというところが独自よね。

 

 

 

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答五郎……短い応唱が何度も入るような祈り方を連願ともいうのだけれど、ある意味で共同祈願の形式は、公式祈願と連願が組み合わさった形といえるね。ところで、共同祈願の「共同」ってどんな意味だと思っていたかな。

 

 

 

聖子……信者一同が応唱して、皆が一緒に祈っている雰囲気がよく出てくるからじゃないの。

 

 

 

瑠太郎……それに意向を信徒が唱えるところにも、信者の共同の参加が表されていると思います。

 

 

 

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答五郎……たしかにそうだね。しかもその意向って、『聖書と典礼』に載っている例文を使うことが多いかもしれないけれど、ほんとうはミサをささげている共同体が自分たちで作っていいところなんだよ。すると、そこにも共同参加がよく表されるから、共同祈願というのかもしれないね。

 

 

聖子……思わせぶりね。質問する意味が知りたいわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、ミサ典礼書のラテン語の原文では、共同祈願は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」という。「すべての人のための祈り」といった意味なんだよ。

 

 

瑠太郎……では、共同祈願とは日本のミサ典礼書独自の名前ですか。直訳すると万人祈願でしょうか。

 

 

 

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答五郎……そうなるかもしれない。ともかく、これについては、新約聖書に重要な箇所があるんだ。「テモテへの手紙 一」の2章1~2節を読んでもらえるかな。

 

 

聖子……ここね。「それで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」。少し難しい言葉もあるわね。「執り成し」って。

 

 

 

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答五郎……簡単にいうと、ある人々のために、そのことを神にお願いするというときに、祈る人がその人々のことを神に執り成すということになる。そのような、だれかのために祈るという趣旨を表すために、英語では、共同祈願のことを「インターセッション」つまり「執り成しの祈り」と呼ぶことがある。日本でも他教派ではその意味で「代祷」(その人たちに代わって、その人たちのために祈ること)と名付けている場合があるんだよ。

 

 

聖子……いろいろな名前があるのね。

 

 

 

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答五郎……もっとも、一テモテ書のいう「願いと祈りと執り成しと感謝」をひっくるめて「祈り」と考えていいとすれば、この箇所は、「すべての人のための祈り」という性質をよく教えてくれる箇所となるだろうね。

 

 

瑠太郎……「すべての人」の意味はなんなのでしょうか。

 

 

 

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答五郎……参考になると思うのは、ユスティノスの『第一弁明』という2世紀半ばの書だな。「ことばの典礼」の流れの基本が語られているなかで、この祈願が「共通の祈願」とか「公同の祈願」と訳されるような名前で述べられているんだ。「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」、つまり、「自分たちや今洗礼を受けた人たち、そして全世界のすべての人のために祈ること」とね。

 

瑠太郎……そうだとすると、日本語の「共同祈願」もすべての人のための祈りという意味だともいえますね。

 

 

 

 

聖子……みんなで祈るから「共同祈願」という理解でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……いろいろな名前があるという話だけど、ミサ典礼書のラテン語原文には、実は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」のほかに、「オラチオ・フィデリウム」つまり「信者の祈り」という名前も併記されているんだよ。

 

 

 

聖子……まだあるの? こんがらがらない?

 

 

 

瑠太郎……それに「信者の祈り」って、ミサの祈り全体が「信者の祈り」なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……たしかに。ただ、その中でもとくに、入信して信者の仲間の一員、つまり教会の一員となって初めて信者としての祈りの役目を果たすということが強調されているようだよ。それは意向を唱えるだけでなく、応唱をもって皆が祈りをささげるというところに示されているのだろうね。

 

 

聖子……みんなでみんなのために祈る、それが共同祈願でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……ほう、そうだね。では、次回は、その「みんなのため」、「すべての人のため」ということをさらに詳しく考えていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 35:ミサ全体が信仰宣言!

ミサ全体が信仰宣言!

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答五郎……ミサの信仰宣言で唱える信条についての3回目だね。前回は、ミサの流れ、というか「ことばの典礼」の流れでいうと、聖書朗読で告げられた神のことばに、この宣言をもって応えるという意味があることを見たね。

 

 

 

瑠太郎……はい、キリスト教で長く伝わってきた信条を唱えるということで、ミサが信仰宣言の集いでもあるという面があることを学びました。

 

 

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答五郎……ちなみに、この信条は日本の多くの教会では、読み上げるというか、覚えている文言を一斉に唱えるというやり方で行われていることが多いと思うけれど。

 

 

 

聖子……ええ、あたしが見学したかぎり、いつもそうだったわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、典礼書で「唱える」というときは、実は「唄う」(歌う)ということでもあるんだよ。それなりの節をつけて、叙唱や奉献文が歌われている例は、わりとあるだろう。ほんとうは集会祈願などの祈願でも、ただ読み上げるというかたちのものはむしろ少ないのだよ。「祈りましょう♪~~」という形でね。

 

瑠太郎……でも、信条は長いですし、覚えるのが大変なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……そうともいえるけれど、逆に旋律がついていることで覚えられるようになるという面もあるよ。実はね、日本のカトリック教会では、ニケア・コンスタンチノープル信条に二つ、使徒信条に三つ、新しい旋律が作られて、今年(2017年)の4月16日から使用できるようになっているのだよ。

 

 

聖子……ええ、そんなにたくさん! でも、あんまり聞かないわね。

 

 

 

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答五郎……まだ知られていないのかもしれないし、単純に唱えるものとずっと思われていたのだろうね。日本語の信条が歌われるものとして知られるようになるのは、これからなのだろう。

 

 

瑠太郎……ミサの他の祈りもそうですが、ただ唱えるだけだと、次々と先へ急ぐ感じがします。歌うことで、その言葉一つひとつにとどまって心を込めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……でも、歌っているとこの信条の部分がずいぶん長くなるんじゃないの。それで、早く済ませたくて、ただ唱えているのではないかしら。それに旋律を覚えるのも大変でしょ。

 

 

 

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答五郎……そうなのかな。でも、そんなに早く簡単に済ませて負担が少ないほうがいいという価値観で、みんなミサに来ているのかな。そうだとしたら、何のために来ているのかな、何のためにミサをささげるのかな……と問いかけたくなるよ。

 

瑠太郎……そうですよね。神のことばにとどまり、心をこめて祈り、神と心を通わせるというのがミサの祈りで、そこは、日常の時間とは違う永遠の時間が流れているはずです。そことの交わりがミサの醍醐味なのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……瑠太郎くん、なんか難しいような、かっこいいようなことをいうわね。

 

 

 

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答五郎……ずいぶん深く考えてくれているようだね。いずれにしても、新しい旋律が生まれた機会に、信条の内容にも多くの人が関心をもつようになって、これら伝統的な信条から、キリスト教について新たに学んでいけるとよいかもしれない。

 

瑠太郎……答五郎さん、でも、初めの話のように、ミサ全体が信仰宣言なのですね。

 

 

 

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答五郎……おおっ、そうなんだ。信仰宣言という意味を広く深くとれば、信条を唱えることだけが信仰宣言ではなく、ミサに集まり、神のことばに耳を傾け、それに応えて信仰を宣言し、祈りをし、主の食卓に参加するというミサ全体が最高で最大の信仰宣言なのだということだよ。

 

瑠太郎……熱いですね。つまり、言葉だけでなく、みんなが心を一つにして、一体になって行動しているミサの行為全体が信仰宣言という意味をもっているということですね。

 

 

 

聖子……「体で行う信仰宣言」っていうわけ? 面白いわね。

 

 

 

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答五郎……全体として、信仰宣言であることから、個々のことばの部分だって、それぞれにいつも信仰宣言だということだよ。特にいろいろなところで会衆が言う部分は、短くても信仰宣言だなというところがいっぱいある。たとえば、祈願の結びのところで会衆が応える言葉……。

 

 

聖子……「アーメン」!

 

 

 

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答五郎……そう、これだって「ほんとうに(この祈りのとおりになりますように)」といった意味があるから、信仰宣言といえるだろう。特に聖体拝領のときの「キリストの御からだ」といわれて応える「アーメン」は、聖体のキリストに対するはっきりとした信仰宣言になるよ。

 

 

聖子……それって、はっきり言う人もいれば、おとなしくしている人もいるわ。

 

 

 

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答五郎……たしかにいろいろだね。でも、もっとも短い信仰宣言だと理解できたらはっきり応えるようになるのではないかな。

 

 

瑠太郎……「感謝の典礼」のなかの会衆のことばは、それぞれに信仰宣言のようですね。「信仰の神秘~」のあとの「主の死を思い、復活をたたえよう」とか、聖体に対して、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところにゆきましょう」と言うところも拝領前の信仰告白となっていますね。

 

 

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答五郎……ああ、もちろん、それら個々の文言にも信仰宣言の意味合いは含まれていて、でも、体で行うことも含めて、全体が信仰宣言なのだというところを意識すると、ミサがさらに面白くなるのではないかな。次回からは共同祈願を考えることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)