《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 40:朗読後の「神に感謝」

朗読後の「神に感謝」

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答五郎……さて、「ことばの典礼」だけでも20回目になるが、きょうはもう一度ふり返ってみて、さらに気になるところがあったら考えてみよう。

 

 

 

聖子……見学していて気になったのは、朗読後のところね。

 

 

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答五郎……はぁーん。あそこか。

 

 

聖子……ええ。第1朗読や第2朗読で、朗読が終わると隣にいる、……侍者だったかしら、侍者が「神に感謝」と言うと、みんなが「神に感謝」と言うのが多いかしら。でもある教会では、侍者が「神に感謝」と言ったあと、黙っていることもあるわ。また、ある教会では、朗読者自身が「神に感謝」という場合もあって、さらにみんなが「神に感謝」と答えているところもあるし……。

 

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答五郎……そう、たしかにいろいろなやり方があるね。気になるかい。

 

 

聖子……そう言われると……。朗読の中身のほうが大事なのよね。でも、終わったあと、「神に感謝」と言ってよいのか、よくないのか、迷ってしまって、ほんとに落ち着かないわ。

 

 

 

瑠太郎……福音朗読のあとには司祭が聖書を掲げながら「キリストに賛美」といって、皆も「キリストに賛美」と声を出して答えていますね。

 

 

聖子……それで、なんとなく元気も出るというか、しまるというか。ずっと黙っていたわけだから、声を出して答えたいというのも自然な感情でしょ。

 

 

 

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答五郎……実はね。こういう事情があるのだよ。日本語版『ミサ典礼書』、今行われているミサの基だが、ここでは、朗読が終わると、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言う、ということになっているのだが、会衆はこれを唱えるというふうにはなっていないのだよ。

 

聖子……実際そういうふうにやっている教会もあるわけだから、『ミサ典礼書』に忠実というわけね。 でも、どうしていろいろなやり方になっているのかしら。決まりを無視しているというわけ。

 

 

 

瑠太郎……侍者が言うのは決まりに従っているにしても、一同がさらに「神に感謝」と言うのは、自然な心理からなのではないでしょうか。今のミサは、いろいろなところで、会衆の応唱ですか、この一同の元気な答えというのが大事な部分になっているようですし。

 

 

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答五郎……朗読後のほんの一言に関してなのに、日本の教会では、不思議に大きな討論のテーマになることがあるのだよ。

 

 

瑠太郎……朗読の中身のほうが重要だと思うのですが。

 

 

 

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答五郎……たしかに。実は、ここのところ、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語版、つまり教皇庁の典礼秘跡省から出されている各国語版の底本では、ここの部分は、朗読者が「Verbum Domini 」=「主のことば」(「主である神のことば」の意味)と唱え、それに対して会衆が「神に感謝」と答えるというふうに規定されているのだよ。

 

聖子……そうなの。じゃ、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言い、会衆は言わないという規則は日本の教会だけで決めたことだったの?

 

 

 

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答五郎……そうなのだよ。どうしてかというと、神のことばを聴いて、沈黙を保ったまま黙想することができるように、という意図だったらしい。

 

 

聖子……それだったら、いっそのこと、朗読が終わったらなにも言わないほうがよかったじゃない。

 

 

 

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答五郎……それは一理ある。たしかに侍者が「神に感謝」と言うことにしたために、どうしてもみんなも唱えないと落ち着かないというふうに思われたらしい。他の司式者との対話句と同じようにね。もっとも、ラテン語版には、「神に感謝」を会衆が唱えることになっていて、大方の各国語版も同じようにしているから、外国人の司祭方をはじめ、それを当たり前と思う人が多くいるから、そのやり方が続いているとも考えられているよ。

 

 

聖子……結局どうしたらいいの? まちまちのままでいいの?

 

 

 

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答五郎……とうぶん続くだろうね。近い将来期待されている日本語版『ミサ典礼書』の改訂では、ここの部分は、ラテン語版と同じように、朗読者が「神のことば」(たとえばだけどね)と唱え、会衆が「神に感謝」と答える形にしていくことが予想されている。

 

瑠太郎……ずっと聞いていたのですが、むしろ重要なのは、やはり聖書朗読の中身だと思います。今回、いろいろと学び、教会で聖書が読まれるときは、神が語る、キリストが語る、聖書朗読、とくに福音朗読の中にキリストがおられるのだということが、ぼくにとっては、重要でした。

 

 

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答五郎……たしかに、答唱詩編でも、アレルヤ唱でも、福音朗読のあとの説教でも、信仰宣言でも、そして共同祈願でも、そこにキリストがいるということを意識することが大事だね。

 

 

瑠太郎……ことばで行われるこの式の流れを通じて一貫しているのは、やはりそこにキリストのことば・声・祈り・教え・行いの跡がはっきりと示され、響いて、自分たちを刺激し、力づけていくということではないでしょうか。

 

 

 

聖子……それだけ大事なら、やっぱり「神に感謝!」とみんなで叫びたいわね。

 

 

 

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答五郎……ありがたい二人の言葉だ。では、少し休んで、次からは、「感謝の典礼」という部分を見ていくことにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 39:奉献文にもある“共同祈願”

奉献文にもある“共同祈願”

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答五郎……共同祈願のところを見てきて4回目になる。前回、「困難に悩む人のために祈る」という意向3の趣旨を考えるための参考に、ビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」の一部分を見てみたところ、瑠太郎くんから、共同祈願と奉献文の関係について質問されたのだね。

 

瑠太郎……はい。今はミサの「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」を考えているところで、急に奉献文の例があがったのでちょっと驚きました。

 

 

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答五郎……奉献文については、やがて扱うことになる「感謝の典礼」の中心的なところなので、あとでゆっくり扱うことにしているのだが、共同祈願との関係で少しだけ前もって見ておくことにしよう。奉献文は、ミサの見学でだいたい聞いて親しんでいるだろう。

 

瑠太郎……はい、特に「わたしのからだ」というところや「わたしの血の杯、……新しい永遠の契約の血」はとくに厳かな気持ちになります。

 

 

 

聖子……鈴も鳴るし、皆深々とおじぎをするし。少し緊張するわ。

 

 

 

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答五郎……そこは、聖別句といわれるところで、秘跡制定句と説明されることもあるのだけれど、たしかに奉献文の中心だ。そのあと、「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」となるだろう。

 

 

 

聖子……そこ歌うわよね。感動が極まっているという雰囲気のところね。

 

 

 

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答五郎……そのあと、第二奉献文でいえば、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」とあり、そして、そのあとに「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。」とあるだろう。この「一つに…」という趣旨から続きがあるのだよ。

 

瑠太郎……「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、……」の祈り、そして「また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め……」という祈りのことですね。このあたりは「取り次ぎ」とも呼ばれています。

 

 

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答五郎……そう。その「取り次ぎ」の祈りについて『ローマ・ミサ典礼書の総則』79にきれいな説明があるので、聖子さん、読んでみてくれないかな。

 

 

 

聖子……ええ、ここね。「取り次ぎの祈り-この祈りは天上と地上の全教会の交わりの中で感謝の祭儀が行われることを表し、キリストのからだと血によって得られたあがないと救いに参加するよう招かれた教会と、生者と死者を問わず、そのすべての構成員のために、奉献が行われることを表現する」。ふうっー、ちょっと難しいわ。

 

 

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答五郎……要は、「感謝の祭儀」は天上と地上の全教会、生者と死者を問わず教会の全メンバーによって、その全員のために行われるということを言っているのだよ。「全教会とそのすべての構成員」のために祈るというところは、「ことばの典礼」の共同祈願と似ているだろう。とくに意向1の「教会の必要のため」という趣旨と重なっている。

 

瑠太郎……でも、ここは全教会といって、やはり信仰者のことを前提としているのではありませんか。教皇や司教、またマリア、ヨセフ、使徒、聖人などのことをいうとき、それに復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟というときには。

 

 

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答五郎……でもね。教会のことを狭く考えているとも思われないのだよ、典礼の祈りは。すべての人は神に招かれているという前提で祈っている。福音も聖体もすべての人の救いのためだという精神で祈っているのだよ。神に賛美と感謝をささげ、そして横のつながりでの祈りをしているのだから。

 

瑠太郎……それで、ビザンティン典礼の奉献文(アナフォラ)では、そのような取り次ぎの祈りの中で、困難な状況にある人たちのことも祈っているのですね。

 

 

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答五郎……そう、「取り次ぎの祈り」とはわかりやすくいえば「教会共同体のための祈り」なんだ。キリストを中心とする共同体としての連帯性のもとで祈るという意味では、本来「すべての人のための祈り」である共同祈願と性格としては共通なのだよ。

 

聖子……じゃあ、ミサでは共同祈願が2回あるといってもいいわけ?

 

 

 

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答五郎……そういえるかもしれないね。「ことばの典礼」の共同祈願は、その日の神のことばにこたえてする「すべての人のための祈り」だとすれば、奉献文の取り次ぎの祈りは、「感謝の典礼」でささげられる「すべての人のための祈り」つまり共同祈願というふうにね。

 

瑠太郎……こういう言い方もできませんか。福音にこたえて祈る共同祈願と、聖体のもとで祈る共同祈願というふうに。

 

 

 

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答五郎……なるほど! ずいぶんミサの核心に入ってきたね。たしかにミサには「みことばの食卓」と「キリストのからだの食卓」があるといわれることがあるね(総則28参照)。それぞれの食卓からささげられる共同祈願ということになるね。

 

 

聖子……だんだんともう、「感謝の典礼」のことが気になってしかたがないわ!

 

 

 

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答五郎……そうだね。でも「感謝の典礼」のことに入る前に、次回もう一度「ことばの典礼」全体のことを振り返っておくことにしたいな。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 38:「困難に悩む人々」のために

「困難に悩む人々」のために

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答五郎……共同祈願のことを考え始めて3回目だね。前回は、「すべての人のための祈り」という共同祈願の特質が、意向1では「教会の必要のため」と意向2では「国政にたずさわる人々と全世界の救いのため」という二つの側面から考えられていることを見たね。今回は、意向3の「困難に悩む人々のため」という側面について考えてみよう。

 

瑠太郎……この部分では、最近では『聖書と典礼』の例文などで内戦や自然災害などで苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人などはよく言及されている気がします。これも教会の伝統なのですか。

 

 

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答五郎……実は、前回も引用した「テモテへの手紙 一」2章1~2節で、とくにあげられているのは「王たちやすべての高官のためにも」ということだから、困難に悩む人々のことが特別にあげられているわけではないのだけれどね。実際に困難に悩んでいる人を助けることについての教えは、イエス自身が示しているよね。

 

瑠太郎……はい、イエス自身が、あの当時の社会のなかでさげすまれている人と一緒に食事したり、病気の人をいやしたりしていました。

 

 

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答五郎……それに、たとえば、マタイ25章31~46節の最後の審判についての教えの中でも、飢えている人、渇いている人、旅をしていて宿のない人、服のない人、病気の人、牢獄に入れられている人を助けることは、「わたし」(イエス)を助けることだと語られている。これら「最も小さな者の一人」を助けることがイエスを助けることだといわれているのだよ。

 

聖子……教会の歌で「小さな人々の」という歌があったわね。「♪小さな人々の一人ひとりを見守ろう、一人ひとりの中にキリストはいる」(『典礼聖歌』400)

 

 

 

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答五郎……そう、その歌はまさにそのマタイ25章の教えに基づくものだよ。
ちなみにね、前回も見たユスティノスの『第一弁明』(67章6節)ではね、日曜日の礼拝集会では施しを集めて困難にある人を助けたということが書かれている。「次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」とね。「孤児ややもめ」とは、旧約聖書の時代から社会的弱者の代表のように言及されている人のことだし、そのあとのところは、さっきのマタイ25章の教えとも対応しているのがわかるだろう。

 

瑠太郎……そうしたことは、教会の実践として勧められていることですよね。それが共同祈願の意向にも反映しているということですか。

 

 

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答五郎……「すべての人」に目を注ぐということは、さらに「さまざまな状況や境遇にあるあらゆる人」にも目を注ぐということだし、その場合、祈りによって支えるべき人は、おのずと何らかのかたちで困難な状況にある人ということになるだろう。それは、さまざまあるし、むしろ、それぞれの共同体の中で具体的な状況を考えていっていいようなものだよ。

 

 

聖子……ときどき、何かの献金日にちなむ意向が例文としてあがっているときがあるわね。先週(10月22日=10月の最後から2番目の日曜日)は「世界宣教の日」となっていたわ。

 

 

 

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答五郎……これは、世界中の宣教活動のために霊的援助と物的援助をともにしようという意味で、とくに物的援助のために献金を集めるよね。でも、そのような事業には霊的援助が不可欠だろう。そこで、なるべく献金日が定められているときには、そのことを共同祈願の意向に反映しようという姿勢から例文があげられているわけだよ。困難に悩むという原則を広い意味で考えていることにもなる。どのような宣教活動にも、困難はつきまとうからね。

 

瑠太郎……その意味では、共同祈願は教会の実践の心を表すものともいえるのですね。

 

 

 

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答五郎……そういう見方は大事だね。祈りは言葉だけで終わるものではないからね。実はそこで参考になるのは東方教会の奉献文なんだ。8〜9世紀頃にまとまったとされるビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」には、王や皇帝のための祈りもあれば、教会を構成するほんとにあらゆる人々のことが祈られている。その広がりの中で困難に悩む人たちのことも祈っている。試しに訳した文章があるので、その部分を、聖子さん、読んでもらえないかな。

 

 

聖子……はい、ここね。「(神よ、汚れた霊によって苦しめられた人々を解放し、航海する者たちとともに航海し、旅する人々と道をともにしてください。身寄りのない子どもたちを保護し、とらわれ人を解放し、病気の人を見舞ってください。裁きの場に置かれている人、追放されている人、あらゆる困難と不幸の中にある人々を心にとめてください」。いいかしら。

 

瑠太郎……たしかに、聖書の教えとつながる内容もあるし、世の中にいつもいる弱い立場の人々のことが触れられていますね。教会はイエスや使徒たちの時代からずっと変わらずに、いつもこのような人たちのために祈り、援助しているということでしょうか。

 

 

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答五郎……助け合うという実践にこめられる心を表すために祈りが行われるし、また祈ることによってみんなを実践へと動かしていくこともあるだろうね。

 

 

瑠太郎……答五郎さん、今、読んだ例文は奉献文のものだと言いましたよね。奉献文と共同祈願は別なものと思っていたのですが、関係があるのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほう、そのことか。その点は次回に考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 37:「すべての人」へのまなざし

「すべての人」へのまなざし

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答五郎……こんにちは。ちょっと休んでしまったが、元気かな。前回から「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」のことを考え始めたね。

 

 

瑠太郎……はい。「共同祈願」の「共同」には、結局「すべての人のために」信者「みんな」で祈るという意味が込められているのだということがわかりました。

 

 

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答五郎……では、その「すべての人のため」ということをもう少し詳しく見ていくことにしよう。共同祈願の形式として「招き」と「結び」の間に、いくつか「意向」があり、それに対して短い「応唱」があるということは、もう見学してもうわかっているだろう。

 

瑠太郎……はい。祈りの意向をいくつかのべて応唱を繰り返すところは連願的な部分でしたね。日曜日のミサではだいたい4つあるようですが。

 

 

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答五郎……『聖書と典礼』の例文が4つとなっていて、最後が「それぞれの共同体のために祈る」となっているから4つなのだが、そのもとは『ローマ・ミサ典礼書』の総則70にある。読んでもらえるかな、聖子さん。

 

 

聖子……はい。「意向は通常、次のような順序で行う。a)教会の必要のため b)国政にたずさわる人々と全世界の救いのため c)困難に悩む人のため d)現地の共同体のため。ただし、堅信、結婚、葬儀などの特別な祭儀においては、特殊な機会を考慮して意向の順序を定めることができる」
つまり、日曜日の意向が4つになっているのもこのa)b)c)d)に沿っているのね。

 

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答五郎……a)やb)については、前回読んだ「テモテへの手紙 一」2章1~2節の中の「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」や、ユスティノスが『第一弁明』で記す「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」という表現が背景にあると考えられるだろう。そこに困っている人への祈り、現地の共同体自身のためというある特定の人に向けての祈りもある。

 

 

聖子……すべての人というと、いつも全体のことを考えるのかと思っていたけれど。

 

 

 

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答五郎……すべての人というとき、あらゆる状況にある人々すべてということを考えているのだと思うよ。でも、あらゆる状況すべてに言及することは、この短い祈りの中ではできなくて、そのときどきに、ある状況のことを考えていってもいいわけだよ。

 

瑠太郎……あくまで大枠というか基本原則なのですね。

 

 

 

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答五郎……そうだね。だけれど、この4つの意向の順序は意識する必要があると思う。ほんとうは、各教会で手作りの意向をささげてよいわけなのだけれど、なかなか大変なのが実情だから、つねに、このような意向の類別を意識できるようにするために、『聖書と典礼』も例文を示すことにしているのだよ。

 

聖子……つまり、全部が教会のため、全部が世界のため、全部が困難を抱える人々のため、全部が現地の共同体のためになってはいけないということね。

 

 

 

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答五郎……具体例があるといいかな。次の日曜日10月22日は年間第29主日(B年)になるのだけれど、その日の『聖書と典礼』の意向の例文を見てみよう。ちなみにこの日の福音朗読はマタイ22章15-21節。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)という有名な言葉があるところだ。瑠太郎くん、例文を読んでほしい。

 

瑠太郎……はい。意向1は「キリストとともに歩むわたしたちが、一人ひとりの近くにおられる主の愛を感じとり、あかししていくことができますように」、意向2は「人々が自分だけの価値観にとらわれず、他者の考えにも耳を傾け、世界の将来にふさわしい道をともに求め、協力することができますように」ですね。

 

 

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答五郎……意向1が、キリスト者であるわたしたち、いわば全教会の使命にとって必要なことを願う内容、意向2が、一般の人々が世界全体のために協力し合えるようにと告げているね。

 

 

聖子……ここにあることは、だれにとっても大事なことよね。みんなに共通のよいことのために、教会も祈っているのね。

 

 

 

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答五郎……祈っているということは決して口先だけのことではなく、行動や実践のための決意表明の意味ももつわけだよ。実はこの二つの意向にも示されているような教会へのまなざしと、世界へのまなざしは、第2バチカン公会議(1962~65年)の『教会憲章』と『現代世界憲章』の二つに基づくものだということもいえるのだよ。

 

瑠太郎……少し学んだことがあるのですが、教会が近代世界に対して自己を閉ざしていたような態度をあらためて世界に向かって自らを開き、すべての人の救いと世界がともによくなることを目指して奉仕する姿勢になったということですね。

 

 

聖子……第2バチカン公会議があったから、ミサの共同祈願ができたってことなの?

 

 

 

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答五郎……いやあ、たしかに第2バチカン公会議前のミサにはなかったのだが、むしろユスティノスが語るように初期の教会で行われていたのだよ。だから、共同祈願は復興されたというべきなんだ。その際の教会と世界へのまなざしの向け方を、この公会議は率先して示したということになるだろうね。次は、意向3について考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 36:共同祈願の「共同」って?

共同祈願の「共同」って?

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答五郎……さて、「ことばの典礼」を扱って16回目になるね。テーマを共同祈願に移そう。見たことは?

 

 

瑠太郎……日曜日のミサに行くと行われていますね。僕が行ったところでは、信徒席のところで、一人の人が『聖書と典礼』にある例文を読み上げていました。

 

 

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答五郎……その読み上げるところは「意向」という。ここが共同祈願だと思われることもあるけれど、司祭の招きがあり、いくつか意向が唱えられ、そのたびに一同が応唱し、最後に結びの祈りがあるという流れ全体が共同祈願なのだよ。

 

 

瑠太郎……招きと結びの祈りがあるところは、集会祈願、奉納祈願、拝領祈願とも同じですね。

 

 

 

聖子……そこに、意向がいくつかあって、それぞれに一同が応唱するというところが独自よね。

 

 

 

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答五郎……短い応唱が何度も入るような祈り方を連願ともいうのだけれど、ある意味で共同祈願の形式は、公式祈願と連願が組み合わさった形といえるね。ところで、共同祈願の「共同」ってどんな意味だと思っていたかな。

 

 

 

聖子……信者一同が応唱して、皆が一緒に祈っている雰囲気がよく出てくるからじゃないの。

 

 

 

瑠太郎……それに意向を信徒が唱えるところにも、信者の共同の参加が表されていると思います。

 

 

 

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答五郎……たしかにそうだね。しかもその意向って、『聖書と典礼』に載っている例文を使うことが多いかもしれないけれど、ほんとうはミサをささげている共同体が自分たちで作っていいところなんだよ。すると、そこにも共同参加がよく表されるから、共同祈願というのかもしれないね。

 

 

聖子……思わせぶりね。質問する意味が知りたいわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、ミサ典礼書のラテン語の原文では、共同祈願は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」という。「すべての人のための祈り」といった意味なんだよ。

 

 

瑠太郎……では、共同祈願とは日本のミサ典礼書独自の名前ですか。直訳すると万人祈願でしょうか。

 

 

 

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答五郎……そうなるかもしれない。ともかく、これについては、新約聖書に重要な箇所があるんだ。「テモテへの手紙 一」の2章1~2節を読んでもらえるかな。

 

 

聖子……ここね。「それで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」。少し難しい言葉もあるわね。「執り成し」って。

 

 

 

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答五郎……簡単にいうと、ある人々のために、そのことを神にお願いするというときに、祈る人がその人々のことを神に執り成すということになる。そのような、だれかのために祈るという趣旨を表すために、英語では、共同祈願のことを「インターセッション」つまり「執り成しの祈り」と呼ぶことがある。日本でも他教派ではその意味で「代祷」(その人たちに代わって、その人たちのために祈ること)と名付けている場合があるんだよ。

 

 

聖子……いろいろな名前があるのね。

 

 

 

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答五郎……もっとも、一テモテ書のいう「願いと祈りと執り成しと感謝」をひっくるめて「祈り」と考えていいとすれば、この箇所は、「すべての人のための祈り」という性質をよく教えてくれる箇所となるだろうね。

 

 

瑠太郎……「すべての人」の意味はなんなのでしょうか。

 

 

 

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答五郎……参考になると思うのは、ユスティノスの『第一弁明』という2世紀半ばの書だな。「ことばの典礼」の流れの基本が語られているなかで、この祈願が「共通の祈願」とか「公同の祈願」と訳されるような名前で述べられているんだ。「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」、つまり、「自分たちや今洗礼を受けた人たち、そして全世界のすべての人のために祈ること」とね。

 

瑠太郎……そうだとすると、日本語の「共同祈願」もすべての人のための祈りという意味だともいえますね。

 

 

 

 

聖子……みんなで祈るから「共同祈願」という理解でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……いろいろな名前があるという話だけど、ミサ典礼書のラテン語原文には、実は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」のほかに、「オラチオ・フィデリウム」つまり「信者の祈り」という名前も併記されているんだよ。

 

 

 

聖子……まだあるの? こんがらがらない?

 

 

 

瑠太郎……それに「信者の祈り」って、ミサの祈り全体が「信者の祈り」なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……たしかに。ただ、その中でもとくに、入信して信者の仲間の一員、つまり教会の一員となって初めて信者としての祈りの役目を果たすということが強調されているようだよ。それは意向を唱えるだけでなく、応唱をもって皆が祈りをささげるというところに示されているのだろうね。

 

 

聖子……みんなでみんなのために祈る、それが共同祈願でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……ほう、そうだね。では、次回は、その「みんなのため」、「すべての人のため」ということをさらに詳しく考えていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 35:ミサ全体が信仰宣言!

ミサ全体が信仰宣言!

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答五郎……ミサの信仰宣言で唱える信条についての3回目だね。前回は、ミサの流れ、というか「ことばの典礼」の流れでいうと、聖書朗読で告げられた神のことばに、この宣言をもって応えるという意味があることを見たね。

 

 

 

瑠太郎……はい、キリスト教で長く伝わってきた信条を唱えるということで、ミサが信仰宣言の集いでもあるという面があることを学びました。

 

 

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答五郎……ちなみに、この信条は日本の多くの教会では、読み上げるというか、覚えている文言を一斉に唱えるというやり方で行われていることが多いと思うけれど。

 

 

 

聖子……ええ、あたしが見学したかぎり、いつもそうだったわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、典礼書で「唱える」というときは、実は「唄う」(歌う)ということでもあるんだよ。それなりの節をつけて、叙唱や奉献文が歌われている例は、わりとあるだろう。ほんとうは集会祈願などの祈願でも、ただ読み上げるというかたちのものはむしろ少ないのだよ。「祈りましょう♪~~」という形でね。

 

瑠太郎……でも、信条は長いですし、覚えるのが大変なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……そうともいえるけれど、逆に旋律がついていることで覚えられるようになるという面もあるよ。実はね、日本のカトリック教会では、ニケア・コンスタンチノープル信条に二つ、使徒信条に三つ、新しい旋律が作られて、今年(2017年)の4月16日から使用できるようになっているのだよ。

 

 

聖子……ええ、そんなにたくさん! でも、あんまり聞かないわね。

 

 

 

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答五郎……まだ知られていないのかもしれないし、単純に唱えるものとずっと思われていたのだろうね。日本語の信条が歌われるものとして知られるようになるのは、これからなのだろう。

 

 

瑠太郎……ミサの他の祈りもそうですが、ただ唱えるだけだと、次々と先へ急ぐ感じがします。歌うことで、その言葉一つひとつにとどまって心を込めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……でも、歌っているとこの信条の部分がずいぶん長くなるんじゃないの。それで、早く済ませたくて、ただ唱えているのではないかしら。それに旋律を覚えるのも大変でしょ。

 

 

 

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答五郎……そうなのかな。でも、そんなに早く簡単に済ませて負担が少ないほうがいいという価値観で、みんなミサに来ているのかな。そうだとしたら、何のために来ているのかな、何のためにミサをささげるのかな……と問いかけたくなるよ。

 

瑠太郎……そうですよね。神のことばにとどまり、心をこめて祈り、神と心を通わせるというのがミサの祈りで、そこは、日常の時間とは違う永遠の時間が流れているはずです。そことの交わりがミサの醍醐味なのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……瑠太郎くん、なんか難しいような、かっこいいようなことをいうわね。

 

 

 

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答五郎……ずいぶん深く考えてくれているようだね。いずれにしても、新しい旋律が生まれた機会に、信条の内容にも多くの人が関心をもつようになって、これら伝統的な信条から、キリスト教について新たに学んでいけるとよいかもしれない。

 

瑠太郎……答五郎さん、でも、初めの話のように、ミサ全体が信仰宣言なのですね。

 

 

 

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答五郎……おおっ、そうなんだ。信仰宣言という意味を広く深くとれば、信条を唱えることだけが信仰宣言ではなく、ミサに集まり、神のことばに耳を傾け、それに応えて信仰を宣言し、祈りをし、主の食卓に参加するというミサ全体が最高で最大の信仰宣言なのだということだよ。

 

瑠太郎……熱いですね。つまり、言葉だけでなく、みんなが心を一つにして、一体になって行動しているミサの行為全体が信仰宣言という意味をもっているということですね。

 

 

 

聖子……「体で行う信仰宣言」っていうわけ? 面白いわね。

 

 

 

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答五郎……全体として、信仰宣言であることから、個々のことばの部分だって、それぞれにいつも信仰宣言だということだよ。特にいろいろなところで会衆が言う部分は、短くても信仰宣言だなというところがいっぱいある。たとえば、祈願の結びのところで会衆が応える言葉……。

 

 

聖子……「アーメン」!

 

 

 

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答五郎……そう、これだって「ほんとうに(この祈りのとおりになりますように)」といった意味があるから、信仰宣言といえるだろう。特に聖体拝領のときの「キリストの御からだ」といわれて応える「アーメン」は、聖体のキリストに対するはっきりとした信仰宣言になるよ。

 

 

聖子……それって、はっきり言う人もいれば、おとなしくしている人もいるわ。

 

 

 

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答五郎……たしかにいろいろだね。でも、もっとも短い信仰宣言だと理解できたらはっきり応えるようになるのではないかな。

 

 

瑠太郎……「感謝の典礼」のなかの会衆のことばは、それぞれに信仰宣言のようですね。「信仰の神秘~」のあとの「主の死を思い、復活をたたえよう」とか、聖体に対して、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところにゆきましょう」と言うところも拝領前の信仰告白となっていますね。

 

 

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答五郎……ああ、もちろん、それら個々の文言にも信仰宣言の意味合いは含まれていて、でも、体で行うことも含めて、全体が信仰宣言なのだというところを意識すると、ミサがさらに面白くなるのではないかな。次回からは共同祈願を考えることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 34:ミサで信条が唱えられる意味

ミサで信条が唱えられる意味

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答五郎……さて、前回からミサの信仰宣言で唱える信条について考え始めているね。聖子さん、使徒信条を唱えてみてもらえるかな。

 

 

 

聖子……えっ、はい。「天地の創造主……(略)」ね。

 

 

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答五郎……ありがとう。では、瑠太郎くん。ニケア・コンスタンチノープル信条を頼む。

 

 

 

瑠太郎……はい。「わたしは信じます。唯一の神……(略)」

 

 

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答五郎……ありがとう。日本語の文として使徒信条が200字余り、ニケア・コンスタンチノープル信条が470 字程だから、確かにニケア・コンスタンチノープル信条は倍以上の長さだということがわかる。でも、聞いていてどうだろうか。

 

 

 

瑠太郎  構造というか、流れは似ているので苦にはならないですね。はじめに創造主である父である神のこと、神の子、わたしたちの主イエス・キリストのこと、その生涯の要約、そして聖霊とか教会のことが出てくるというものです。

 

 

聖子……さすが、キリスト教はこのことを信じているんですよ、というエッセンスね。

 

 

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答五郎……それでこそのシンボルム、つまり、キリスト者であることを証明するしるしという感じがするだろう。この信仰宣言をミサでは主日と祭日に行うこととされているのだよ。ということは……?

 

 

 

瑠太郎……主日つまり日曜日のミサ、祭日のミサは、キリスト教の信仰をはっきりと宣言する集会という意味ももつのですね。

 

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答五郎……そうだね。ところでこの宣言ということは、だれに向けての宣言なのだろう。考えたことはあるかな。

 

 

 

聖子……キリスト教はこれを信じています、と宣言するからには、キリスト教を信じていない人、他の宗教の人や、無宗教の人を意識して自分たちのことを主張しているのではないかしら。

 

 

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答五郎……うーん。それもあるかもしれないけど。

 

 

瑠太郎……やはり、ミサの中で唱えているかぎりは、そこは、基本的にキリスト信者たちの集会なのですから、他の宗教の人に向けて宣言する必要はないと思います。「天地の創造主、全能の父である神を信じます。/父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます……」といって、やはり父である神、そして、キリスト、聖霊などに向かって宣言しているのではないですか。

 

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答五郎……たしかにそこは重要だ。信条のもとには洗礼式の信仰宣言があったらしいと言っただろう。そのときも、洗礼式の中で父である神とキリストと聖霊に向かって信仰を告白する形のものだったわけだ。それが公会議で決まった正統信条の宣言文となると、異端に対してとか、他宗教の人々を意識した人間的主張の宣言文のような姿をもつことにもなったのだよ。

聖子……でも、ここで考えているのは、ミサの中での信仰宣言だから、神に向かう宣言という姿がはっきりしてくるのね。

 

 

 

瑠太郎……もう一つ、信者さん自身に向けての宣言という意味もあるのではないですか。それをもって、自分が信じていることを思い起こすというか、意識の中で明確にするという……。

 

 

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答五郎……たしかにそれはあるね。一つの宣言行為がさまざまな方向をもっていて多面的なわけだね。それと、同じ信条文であっても、これがキリスト教の教えのテキストに使われる場合もあるよ。いろいろな役立ち方があるということだ。一つの文もそれが使われる文脈で役割が変化するわけだね。

 

瑠太郎……今は、ミサという文脈での意味を考えているわけですね。

 

 

 

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答五郎……しかも、「ことばの典礼」という文脈の中で、だよね。すると、さらにもう一つ意味が見えてくるんだ。聖書朗読のところで考えたことを思い出してごらん。

 

 

聖子……聖書朗読は全体として「神のことば」が告げられ、それを聞き、受けとめることだったわね。

 

 

 

瑠太郎……そうか、すると、その「神のことば」に信者一同が信仰宣言でもって応答するのですね。

 

 

 

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答五郎……そうだね。「ことばの典礼」の展開として、神のことばを聞いてそれに応える部分にあたる。

 

 

聖子……そういえば、見学したミサで、司祭が「神のみことばに応えて、わたしたちの信仰を宣言しましょう」って呼びかけてくれる場合もあったわ。

 

 

 

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答五郎……ミサの流れの中で自然に感じられるだろう。そのように「神のことば」に応えて、キリスト教の信仰を宣言するというのが、特に主日のミサの不可欠な要素となっているわけだ。

 

 

瑠太郎……教会は日曜日ごとにそうしているのですね。信仰宣言の集いでもあるということですね。

 

 

 

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答五郎……いいことを言ってくれるね。神に向けても、人々に向けても、といわなくてはならないがね。ところでね、ここで言っている信仰宣言は、具体的には信条の唱和だけれど、「信仰宣言」ということを広い意味でとるなら、信条の唱和だけが、ミサの信仰宣言ではないのだよ。

 

聖子……信条だけが信仰宣言ではない!? ええっ、なんてどんでん返しなの。

 

 

 

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答五郎……難しいことではないよ。ミサ全体が信仰宣言なのだということさ。次回、そのことを考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 33:信仰宣言で唱えられる信条とは?

信仰宣言で唱えられる信条とは?

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答五郎……「ことばの典礼」を考えるようになって13回目。少し先へ進めて、次に「信仰宣言」というところを見てみよう。

 

 

 

瑠太郎……はい、昔からのキリスト教の信仰をまとめた信条というものが唱えられますね。

 

 

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答五郎……日本では「使徒信条」が唱えられることが多いかな。もともとここは、「ニケア・コンスタンチノープル信条」を唱えるところだったのだ。クレドと呼ばれてね。クレドとは「(わたしは)信じます」という意味のラテン語で、その信条の冒頭にくる言葉だったので、それが略称となったのさ。今は、「使徒信条」も唱えることができるということになっている。

 

聖子……見学した教会では月一度、「ニケア・コンスタンチノープル信条」を唱える習慣だったような気がするわ。なんか、だらだらと長く唱えるのだなあと思ったわ。

 

 

瑠太郎……「ニケア・コンスタンチノープル信条」というのは、歴史でもならうニケア公会議 (325年)、続くコンスタンティノープル公会議(381年)をとおして出来た信条ですよね。三位一体をめぐる論争を終結させて全教会の統一の正統信条になったとか。

 

 

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答五郎……ほう、よく調べたね。

 

 

瑠太郎……ヨーロッパのキリスト教の歴史は、なんとか勉強しているので。

 

 

 

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答五郎……ミサという典礼祭儀が大きなものになっていく時代にこの信条も生まれたのだけど、ミサに入ったのは、コンスタンティノープルの典礼で6世紀の初め頃だったといわれている。その習慣がヨーロッパ、つまりイベリア半島に伝わり、そこからブリテン諸島のアングロ・サクソン人の教会へ、やがてアングロ・サクソン人の宣教師を通してフランク王国、そしてヨーロッパ全体に広がっていく。

 

 

聖子……ヨーロッパも最初からキリスト教だったわけではなく、この時代にまだキリスト教が広まっていたのね。

 

 

 

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答五郎……そう、日本の歴史でいえば、仏教が伝来して、全国に広まっていくのと同じような時代だよ。

 

 

瑠太郎……今の話だと、ローマのことが出てきませんでしたけど。

 

 

 

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答五郎……よく気がついたね。そうなのだ、ローマの教会で、ミサで唱えられるようになったのは11世紀初めとわりと後からなのだよ。

 

 

聖子……「使徒信条」っていうのは?

 

 

 

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答五郎……これはね、西方教会の伝統的な信条で、もともとはローマ教会の信条から発展したものといわれている。使徒伝来の信条という伝承というか、信頼感をこめて伝わっていったらしい。今の形のものが出来上がるのは8世紀頃、つまりカロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)の宗教政策と関係があるらしい。

 

 

聖子……あらっ、このAMORの齋藤さんのグレゴリオ聖歌の話ともつながっているのかしら。

 

 

瑠太郎……そんなに古いものなのに、ミサでは使われていなかったのですね。

 

 

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答五郎……そうなのだけれど、むしろ信徒の日常の祈りには使われていたらしい。洗礼準備のためにキリスト教の教えを勉強するときの教材のような役割を果たしていたようだ。そのような信仰の教えの要綱、カテキズム、訳して要理というけれど、その底本のような役割をもしていたらしい。今もその伝統があるのだ。

 

瑠太郎……西方世界の信仰教育の伝統を代表する信条ということなのですね。

 

 

 

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答五郎……信条というのは、初代教会で洗礼式が形作られるなかで、問答型の信仰宣言をもとに発展したらしく、それぞれの教会で独自の形式があったようなのだ。ニケア・コンスタンチノープル信条もそのような形式を借りて、公会議が宣言する信条、つまり公会議信条に仕上げられたのだよ。異端説に対して教会の正統信仰を代表する信条という役割も新たにもつことになったわけだ。

 

 

聖子……きょうは、すっかり歴史のお勉強ね。でも、面白いわ。信条って、初めから決まりきったものと思っていたけれど、歴史の中でだんだん発展してきたということね。

 

 

 

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答五郎……それとね、信条の原語はラテン語ではシンボルムといって、ギリシア語のシンボロンから来る言葉なのだ。「証明するしるし」という意味が関係しているらしい。現代のシンボルにもつながる言葉だけれどね。つまり、信条とは「キリスト者であることを証明するしるし、キリスト教の信仰を証明するしるし」ということになるかな。しるしだから、わりと簡潔に信仰の内容を表しているのだよ。

 

瑠太郎……たしかに信仰の要約だなと思います。ニケア・コンスタンチノープル信条にしても、途中少し詳しいところがありますけれど、やはり要約ですよね。

 

 

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答五郎……そうだね、そうかもしれない。ラテン語の文章なんかは、すっきりとしているからね。

 

 

 

聖子……ひょっとして、日本語に訳すと長く感じるようになるのかしら。

 

 

 

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答五郎……それもあるかもしれない。いずれにしても、第2バチカン公会議後の現在のミサになって、ニケア・コンスタンチノープル信条だけでなく、使徒信条も唱えることができるものとなった。それぞれに歴史的な意味があると思うのだ。次回は信条をミサで唱える意味をもっと考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 32:説教が「交わり」である意味

説教が「交わり」である意味

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答五郎……「ことばの典礼」を考えるシリーズも12回目だけれど、前回から説教のことを考え始めているね。ここには司祭はいないので、どちらかというと、聞く側からを考えているわけだけが。

 

 

瑠太郎……ミサの式次第で使われている説教の原語ホミリアが第一に「交わり」を意味する言葉だということが衝撃的でした。

 

 

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答五郎……ただ、「交わり」という意味を大切にするとして、それをどういうふうに理解するかが大事だよ。講義・講演・講話と違って授業のようなやりとりがあってもいいものだという話をしたけれど、それも「交わり」という理解があるからかもしれない。

 

 

聖子……交わりというのなら、その場で、福音のことばについて感想を語り合う集会になってもいいんじゃない?

 

 

 

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答五郎……さて、どうだろう。たしかに信者同士が互いにことばを交わし合うのかもしれないけれど。

 

 

瑠太郎……感想の分かち合いということは、信者の生活の中で意味があるのかもしれませんが、ミサの進行の中だとちょっとそぐわない気がします。

 

 

聖子……何人もの人が感想を述べ合えば、長くなるかもしれないわね。

 

 

 

 

瑠太郎……長くなるかどうかの問題ではないように思えます。要するに感想はそれぞれの人の主観を披露し合うものでしょう。でも、それを礼拝のときに聞きたいものでしょうか。そういうのは、独自の集会で行えばよいのではないでしょうか。

 

 

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答五郎……今の瑠太郎くんの指摘は大切だと思う。「交わり」をどう理解するかという点だね。人間同士お互いに感じていること、思ったことを交わし合うのは、もちろん「交わり」の一つだけれど、説教が「交わり」だというときは、もう一つ、重要な交わりが関係するのではないかな。

 

瑠太郎……はい。やはりなんといっても、神との交わり、神のことばとの交わりだと思います。

 

 

 

 

聖子……でも、お話がどのような意味で、神との交わりになるのかしら。

 

 

 

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答五郎……やはり、司式司祭が通常行うこの説教と呼ばれる話は、その中身がどうというより、形として、神から人へ、神のことばであるキリストから皆へという方向性と力をもって行われるものだと思うよ。もちろん、人がする話ではあるけれどね。そこが、司式司祭が原則として行うということのヒントがあるのだと思われるのだ。『ローマ・ミサ典礼書の総則』で説教について触れているところ(65項)を、聖子さん、読んでみてくれないか。

 

聖子……はい。「説教は、典礼の一部であって、大いに奨励されている。それは、キリスト者の生活の糧に必要なものだからである。説教は、祝われている神秘や会衆の特別な必要を考慮に入れて行われるべきものであって、朗読された聖書の内容の一部、もしくはその日のミサの通常式文または固有式文の一部の説明となるはずのものである」。ずいぶんたくさんあるのね。

 

瑠太郎……「朗読された聖書の内容の一部」というところは、いつも説教に含まれているように思います。説教は、福音についてのお話なのだろうと思っていたぐらいです。ミサの式文の説明ということも課題になっているというのは初耳です。

 

 

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答五郎……「祝われている神秘」や「会衆の特別な必要」を考慮するということは、たとえば、クリスマス(主の降誕)や復活祭のときなどにはっきり現れてくるだろう。そういったことやミサの式文の説明といったことまで含むと、司祭でないとできない役割だなという気がしてくるだろう。

 

 

瑠太郎……その日の聖書朗読を含めて、ミサ全体に通じていてこその役割なのですね。

 

 

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答五郎……そう。だから、単純にこれを福音の感想の交わし合いにしてしまうことはできないだろうね。その日のミサの内容全体を熟知して、この日の神のことば全体を代表するような役割だからね。

 

 

瑠太郎……その日のミサでの神のことばと教会の人々との交わりを代表し仲介するということですね。

 

 

聖子……そういえば、司祭はいつも神さまのように正しいことを少しわかりやすくして伝えてくれるのが説教なのかなと思うときも多いけれど、ときどき、信者さんというかあたしたちと同じような心境や悩みを代弁して語ってくれるときもあるわね。そういうなかで、神のことばをどう受けとめたらいいかをお話ししてくれるときなど、ほんとうに身近になるわ。

 

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答五郎……そう、そういう中でも教えの側面があるだろう。結局、そのようなところが、説教がホミリア、つまり第一に交わり、第二に教えを意味する原語が使われている素晴らしい理由だと思うよ。

 

 

 

瑠太郎……説教がホミリアという意味が少しわかってきました。

 

 

 

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答五郎……まあ、司祭によってアプローチはさまざまだし、同じ司祭でも毎週、日曜日に説教をするのだから、いろいろな切り出し方やまとめ方を工夫しているのだよ。

 

 

 

聖子……その準備のことを想像すると、説教って大変なお仕事ね。

 

 

 

瑠太郎……そういう意味では、説教の時間が長いとか短いとかの問題ではないですよね。

 

 

 

 

聖子……でも、集まっている人が子どもかお年寄りかとか、あたしのように集中力が続かない人とか、状況に応じて考えてほしいわね。「会衆の特別な必要」を考慮して、とあったじゃない!

 

 

 

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答五郎……たしかに、それも重要なポイントだね。だいたいの司祭たちは考えてくれていると思うよ。さて、次回は「信仰宣言」を見ることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 31:「おせっきょう」ではないミサの説教

「おせっきょう」ではないミサの説教

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答五郎……さて、1週間休んでしまったけれど、みんな元気だったかな。「ことばの典礼」を考えるシリーズも11回目になる。10回目まではおもに「聖書朗読」を考えてきたけれど、今回は、少し先へ進めよう。福音朗読のあとに来るものはなんだったかな。

 

 

聖子……「説教」ね。福音朗読のところでは起立していたので、たいてい司祭方は、「皆さん、お座りください」と言って始めるわね。

 

 

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答五郎……この「説教」が「ことばの典礼」の中心だと思っている人が多いのだろうか。

 

 

瑠太郎……前回は、福音朗読が「ことばの典礼」の頂点であり、もう朗読ということ以上に、キリストがそこにおられること、現存することを示すものなのだという点を考えさせられました。

 

 

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答五郎……それでも、「説教」が中心と思う人が多いとしたら、どうしてだったのかな。

 

 

 

聖子……福音朗読までのところが、決められているものに基づいて行われることなのに対して、説教は、司祭がそのときになされる生のものだからではないのかしら。その日にそこに来なければ得られないものでしょ。

 

 

 

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答五郎……それはたしかにそうだ。いわばライブだから、手元に『聖書と典礼』のような冊子もないし、ほんとうにそこで意識して聞かなくてはならないものだから、自然とその場が活気づくのだろう。このライブ感は、たしかに説教の性格だね。ところで、この「説教」という言葉の意味をどう考えていたかな。

 

瑠太郎……特に疑問もなく、すんなりと受けとめていました。「説教」という言葉は、日本語としても普通で、お坊さんや教師がする教えの話という意味でとっていますよね。

 

 

 

聖子……「おせっきょう」というと「叱られる」話という感じもするわ。それで、ミサの説教がそんなお叱りではないので、少しほっとしたというか。でも、上から下へという印象はあるわね。

 

 

 

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答五郎……教会でも一般でもほかに、一人の人が何かの教えを含む話というのがほかにもあるだろう。

 

 

瑠太郎……大学の場合の「講義」、一般向けの場合は「講演」といいますね。

 

 

 

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答五郎……教会にはまた「講話」というのもある。それらの特徴はなんだろうか。

 

 

 

聖子……みんな「講」がつくわね。一人の人が話し、聞く人たちはひたすら聞くという感じね。
小中高の授業だと、もっと、いろいろ生徒とのやりとりとかいろいろな形があるのと比べると。

 

 

 

瑠太郎……講義も講演も、何かのテーマ、題があるということですよね。

 

 

 

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答五郎……それでは、ミサの説教の題とはなんだろうか。

 

 

瑠太郎……うーん(少し考えて)、やはりその日の福音なのではないでしょうか。聖書朗読全体といってもよいのですが、やはりその頂点は、福音ということだったので。

 

 

124594答五郎……そうだね。そう考えるが自然だし、それが大事なことだと思う。ただ、ほんとうは、聖書朗読はその日のミサの祈りの全体ともつながっているから、ミサそのものの意味、そしてまたその日のミサの固有の特徴、たとえばクリスマスのミサとか、復活祭のミサとか、それらが説教の「お題」といってもいいものなのだよ。『典礼憲章』(52、35)とかミサの『総則』とか『朗読聖書の緒言』とか、そのような規範的な本にも書かれている。長くなるから今は読まないけれどね。

瑠太郎……説教は、司祭によっていろいろだなあと思うことがあります。今読まれた福音は、こうでしたねと最初に触れてから話す人や、一見、聖書と関係のない話題から始めて、どう展開してくのかなあと思って聞いていると、最後のほうで、その日の福音とつながっていくという。

 

 

 

聖子……あたしは、どっちかというと、あとでつなげていく話のほうが好きだわ。

 

 

 

瑠太郎……好き、きらいの問題ではないと思うのですが。

 

 

 

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答五郎……はは。感じたままに言うことも大事だよ。ところで、今は日本語の「説教」ということばで考えてきたけれど、ラテン語のミサ典礼書ではなんというかというと「ホミリア」なのだ。もともとはギリシア語のホミーリアから来る。どんな意味の言葉だと思う。

 

 

聖子……やっぱり、お話を指す言葉なんでしょ。

 

 

 

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答五郎……ところがね、ホミーリアの第一の意味は「交わり」なのだよ。もとになる動詞ホミーレオーとなると「~の仲間である、交際する、交わる、友である」というのが第一で、その中に「話し合う」という意味も出てくる。そこからホミーリアの第二の意味で「教えること」が出てくる。

 

瑠太郎……仲間と一緒にいて交わり、語り合うなかで、教える・学ぶということが出てくるとなると、上下関係より横のつながりが強調されるようなことばなのですね。それは目から鱗です。

 

 

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答五郎……だから、さっきいわれた小中高の授業で、教師と生徒たちがいろいろやりとりしながら教案内容を展開していくというやり方もホミーリアに近いところがあるのかもしれない。少なくとも、信者たちがいてこそ行われるのが説教だから、「交わり」という意味は、説教をする側だけでなく、聞く側にとっても大事かもしれない。次回も続けよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)