《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 40:朗読後の「神に感謝」

朗読後の「神に感謝」

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答五郎……さて、「ことばの典礼」だけでも20回目になるが、きょうはもう一度ふり返ってみて、さらに気になるところがあったら考えてみよう。

 

 

 

聖子……見学していて気になったのは、朗読後のところね。

 

 

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答五郎……はぁーん。あそこか。

 

 

聖子……ええ。第1朗読や第2朗読で、朗読が終わると隣にいる、……侍者だったかしら、侍者が「神に感謝」と言うと、みんなが「神に感謝」と言うのが多いかしら。でもある教会では、侍者が「神に感謝」と言ったあと、黙っていることもあるわ。また、ある教会では、朗読者自身が「神に感謝」という場合もあって、さらにみんなが「神に感謝」と答えているところもあるし……。

 

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答五郎……そう、たしかにいろいろなやり方があるね。気になるかい。

 

 

聖子……そう言われると……。朗読の中身のほうが大事なのよね。でも、終わったあと、「神に感謝」と言ってよいのか、よくないのか、迷ってしまって、ほんとに落ち着かないわ。

 

 

 

瑠太郎……福音朗読のあとには司祭が聖書を掲げながら「キリストに賛美」といって、皆も「キリストに賛美」と声を出して答えていますね。

 

 

聖子……それで、なんとなく元気も出るというか、しまるというか。ずっと黙っていたわけだから、声を出して答えたいというのも自然な感情でしょ。

 

 

 

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答五郎……実はね。こういう事情があるのだよ。日本語版『ミサ典礼書』、今行われているミサの基だが、ここでは、朗読が終わると、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言う、ということになっているのだが、会衆はこれを唱えるというふうにはなっていないのだよ。

 

聖子……実際そういうふうにやっている教会もあるわけだから、『ミサ典礼書』に忠実というわけね。 でも、どうしていろいろなやり方になっているのかしら。決まりを無視しているというわけ。

 

 

 

瑠太郎……侍者が言うのは決まりに従っているにしても、一同がさらに「神に感謝」と言うのは、自然な心理からなのではないでしょうか。今のミサは、いろいろなところで、会衆の応唱ですか、この一同の元気な答えというのが大事な部分になっているようですし。

 

 

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答五郎……朗読後のほんの一言に関してなのに、日本の教会では、不思議に大きな討論のテーマになることがあるのだよ。

 

 

瑠太郎……朗読の中身のほうが重要だと思うのですが。

 

 

 

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答五郎……たしかに。実は、ここのところ、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語版、つまり教皇庁の典礼秘跡省から出されている各国語版の底本では、ここの部分は、朗読者が「Verbum Domini 」=「主のことば」(「主である神のことば」の意味)と唱え、それに対して会衆が「神に感謝」と答えるというふうに規定されているのだよ。

 

聖子……そうなの。じゃ、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言い、会衆は言わないという規則は日本の教会だけで決めたことだったの?

 

 

 

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答五郎……そうなのだよ。どうしてかというと、神のことばを聴いて、沈黙を保ったまま黙想することができるように、という意図だったらしい。

 

 

聖子……それだったら、いっそのこと、朗読が終わったらなにも言わないほうがよかったじゃない。

 

 

 

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答五郎……それは一理ある。たしかに侍者が「神に感謝」と言うことにしたために、どうしてもみんなも唱えないと落ち着かないというふうに思われたらしい。他の司式者との対話句と同じようにね。もっとも、ラテン語版には、「神に感謝」を会衆が唱えることになっていて、大方の各国語版も同じようにしているから、外国人の司祭方をはじめ、それを当たり前と思う人が多くいるから、そのやり方が続いているとも考えられているよ。

 

 

聖子……結局どうしたらいいの? まちまちのままでいいの?

 

 

 

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答五郎……とうぶん続くだろうね。近い将来期待されている日本語版『ミサ典礼書』の改訂では、ここの部分は、ラテン語版と同じように、朗読者が「神のことば」(たとえばだけどね)と唱え、会衆が「神に感謝」と答える形にしていくことが予想されている。

 

瑠太郎……ずっと聞いていたのですが、むしろ重要なのは、やはり聖書朗読の中身だと思います。今回、いろいろと学び、教会で聖書が読まれるときは、神が語る、キリストが語る、聖書朗読、とくに福音朗読の中にキリストがおられるのだということが、ぼくにとっては、重要でした。

 

 

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答五郎……たしかに、答唱詩編でも、アレルヤ唱でも、福音朗読のあとの説教でも、信仰宣言でも、そして共同祈願でも、そこにキリストがいるということを意識することが大事だね。

 

 

瑠太郎……ことばで行われるこの式の流れを通じて一貫しているのは、やはりそこにキリストのことば・声・祈り・教え・行いの跡がはっきりと示され、響いて、自分たちを刺激し、力づけていくということではないでしょうか。

 

 

 

聖子……それだけ大事なら、やっぱり「神に感謝!」とみんなで叫びたいわね。

 

 

 

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答五郎……ありがたい二人の言葉だ。では、少し休んで、次からは、「感謝の典礼」という部分を見ていくことにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー著『世俗化の弁証法:理性と宗教について』

名誉教皇ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーはどの立場から評価するにしても、第2バチカン公会議後の時代に足跡を残した神学者であることは間違いない。教皇として彼が発信したメッセージの背後にある精神を覗かれる一書の紹介:

ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー『世俗化の弁証法:理性と宗教について』
Jürgen Habermas/Joseph Ratzinger, Dialektik der Säkuralisierung: Über Vernunft und Religion (Freiburg: Herder Verlag, 2005), 64 pages

本書は、小冊子であるが、教理省長官ラッツィンガー枢機卿(生年1927)が教皇に選出され、ベネディクト16世となる2年ほど前(2003年)にドイツ、バイエルン州カトリック・アカデミーで、批判哲学のフランクフルト学派の一人ハーバマス(生年1929)と、現代社会における宗教の貢献をめぐって討論した時のそれぞれの発題を収めたものである。

ハーバマスはコミュニケーション理論、社会理論において同じフランクフルト学派の創立者であるマルクス主義的なテオドール・アドルノ(生没年1903~1969)やマックス・ホルクハイマー(生没年1895~1973)の次の世代の哲学者であり、本来プロテスタント・福音主義教会の背景をもっているため、この二人からはある距離を保っている。それでも、すでにカトリック教会の保守派という評判の神学者ラッツィンガーがハーバマスと同じ会合に出席し、友好裡に議論を行ったことは一般の人々から驚きをもって受けとめられた。

【さらに読む】
本書は、バイエルン州カトリック・アカデミーの会長フロリオン・シュラーの前置きで始まっているが、2人が用意し、まず自らの立場を語った発題内容を収録したもので、二人が交わした討論の部分はない。討論内容と雰囲気は『ライニシャー・メルクール』2004年1月22日号の詳細な記事と要約を読まなければよくつかむことができないと思われる(『ライニシャー・メルクール』は1946年から2010年までボンで発行されていた保守的カトリック系週刊新聞。2010年以降は『ディー・ツァイト』紙の中の「キリスト者と世界」という折込付録の形をとっている)。シュラーはほとんど同年輩の2人の知的巨人の出会いと友好裡に行われた議論がもたらす意義を強調している。

テーマは、いわゆるポストモダン市民社会における共通の倫理価値と基準の必要性をめぐるものであった。ハーバマスはそれを伝統的な教会に求め、多元的な市民社会に通用するように教会がもっている倫理的認識を今日に訴える言語で表現するように求めた。それに対してラッツィンガーは、現代の宗教的空白において台頭しつつある宗教的病理現象に憂慮の念を表明しながら、理性の側に立つ世俗思想と伝統的立場に立つ教会が互いに聴く力をもつようにならなければならないと応答している。

それまで、ラッツィンガー枢機卿が神学者として、キリスト教とカトリック教会の立場から政治的社会的な根本問題に関心を示していたことは、彼が教皇になってから出版された論文集『信仰・真理・寛容』の中の諸論文を読めばわかる。だから、彼がこのような討論会で、世俗的理性を代表する市民社会の弁護者ハーバマスの挑戦を受けて立ったのは決して突飛なことではない。彼はハーバマスに対して18世紀の啓蒙主義的理性を基礎とする古典的西欧市民社会が他の世界観をもつ宗教の脅威を受けるばかりでなく、人間存在の尊厳の保持が生命科学の進歩によって限界に来ていることを指摘した。ラッツィンガーが代表したキリスト教的立場からの主張の核心は、多元化した市民社会を分裂から救うものは、市民的価値に先行し、それを裏付ける根底が何であるかの認識であるという点にある。

(高柳俊一/英文学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 39:奉献文にもある“共同祈願”

奉献文にもある“共同祈願”

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答五郎……共同祈願のところを見てきて4回目になる。前回、「困難に悩む人のために祈る」という意向3の趣旨を考えるための参考に、ビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」の一部分を見てみたところ、瑠太郎くんから、共同祈願と奉献文の関係について質問されたのだね。

 

瑠太郎……はい。今はミサの「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」を考えているところで、急に奉献文の例があがったのでちょっと驚きました。

 

 

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答五郎……奉献文については、やがて扱うことになる「感謝の典礼」の中心的なところなので、あとでゆっくり扱うことにしているのだが、共同祈願との関係で少しだけ前もって見ておくことにしよう。奉献文は、ミサの見学でだいたい聞いて親しんでいるだろう。

 

瑠太郎……はい、特に「わたしのからだ」というところや「わたしの血の杯、……新しい永遠の契約の血」はとくに厳かな気持ちになります。

 

 

 

聖子……鈴も鳴るし、皆深々とおじぎをするし。少し緊張するわ。

 

 

 

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答五郎……そこは、聖別句といわれるところで、秘跡制定句と説明されることもあるのだけれど、たしかに奉献文の中心だ。そのあと、「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」となるだろう。

 

 

 

聖子……そこ歌うわよね。感動が極まっているという雰囲気のところね。

 

 

 

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答五郎……そのあと、第二奉献文でいえば、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」とあり、そして、そのあとに「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。」とあるだろう。この「一つに…」という趣旨から続きがあるのだよ。

 

瑠太郎……「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、……」の祈り、そして「また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め……」という祈りのことですね。このあたりは「取り次ぎ」とも呼ばれています。

 

 

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答五郎……そう。その「取り次ぎ」の祈りについて『ローマ・ミサ典礼書の総則』79にきれいな説明があるので、聖子さん、読んでみてくれないかな。

 

 

 

聖子……ええ、ここね。「取り次ぎの祈り-この祈りは天上と地上の全教会の交わりの中で感謝の祭儀が行われることを表し、キリストのからだと血によって得られたあがないと救いに参加するよう招かれた教会と、生者と死者を問わず、そのすべての構成員のために、奉献が行われることを表現する」。ふうっー、ちょっと難しいわ。

 

 

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答五郎……要は、「感謝の祭儀」は天上と地上の全教会、生者と死者を問わず教会の全メンバーによって、その全員のために行われるということを言っているのだよ。「全教会とそのすべての構成員」のために祈るというところは、「ことばの典礼」の共同祈願と似ているだろう。とくに意向1の「教会の必要のため」という趣旨と重なっている。

 

瑠太郎……でも、ここは全教会といって、やはり信仰者のことを前提としているのではありませんか。教皇や司教、またマリア、ヨセフ、使徒、聖人などのことをいうとき、それに復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟というときには。

 

 

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答五郎……でもね。教会のことを狭く考えているとも思われないのだよ、典礼の祈りは。すべての人は神に招かれているという前提で祈っている。福音も聖体もすべての人の救いのためだという精神で祈っているのだよ。神に賛美と感謝をささげ、そして横のつながりでの祈りをしているのだから。

 

瑠太郎……それで、ビザンティン典礼の奉献文(アナフォラ)では、そのような取り次ぎの祈りの中で、困難な状況にある人たちのことも祈っているのですね。

 

 

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答五郎……そう、「取り次ぎの祈り」とはわかりやすくいえば「教会共同体のための祈り」なんだ。キリストを中心とする共同体としての連帯性のもとで祈るという意味では、本来「すべての人のための祈り」である共同祈願と性格としては共通なのだよ。

 

聖子……じゃあ、ミサでは共同祈願が2回あるといってもいいわけ?

 

 

 

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答五郎……そういえるかもしれないね。「ことばの典礼」の共同祈願は、その日の神のことばにこたえてする「すべての人のための祈り」だとすれば、奉献文の取り次ぎの祈りは、「感謝の典礼」でささげられる「すべての人のための祈り」つまり共同祈願というふうにね。

 

瑠太郎……こういう言い方もできませんか。福音にこたえて祈る共同祈願と、聖体のもとで祈る共同祈願というふうに。

 

 

 

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答五郎……なるほど! ずいぶんミサの核心に入ってきたね。たしかにミサには「みことばの食卓」と「キリストのからだの食卓」があるといわれることがあるね(総則28参照)。それぞれの食卓からささげられる共同祈願ということになるね。

 

 

聖子……だんだんともう、「感謝の典礼」のことが気になってしかたがないわ!

 

 

 

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答五郎……そうだね。でも「感謝の典礼」のことに入る前に、次回もう一度「ことばの典礼」全体のことを振り返っておくことにしたいな。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


タラントンのたとえばなし

タラントンのたとえ話(マタイ25章14~30節)はけっこうよく知られているたとえ話である。

ある人が旅に出るとき、自分の財産をしもべたちに預けた。それぞれの力に応じて、あるものには5タラントン、あるものには2タラントン、あるものには1タラントンを預けた。5タラントン預かったものは町に出てそれで商売をして5タラントン儲けた。2タラントンを預かったものも、同じように2タラントン儲けたが、1タラントンを預かったものは出て行って穴を掘り、そこに埋めておいた。

さて主人が帰ってきて、しもべたちと預かった金の精算をした。預かった金と同額のもうけを生み出したしもべは主人のお褒めをいただくのだが、土に埋めておいたものは「主人の厳しさをおそれて地に埋めておいた」とこたえて、主人の怒りを買う。「怠け者の悪いしもべだ。私が蒔かないところから刈り取り、ちらさないところからかき集めることをしっていたのか!」といって預かったものを取り上げられ、外の暗闇に放り出されてしまった。

心のともしび・幸せの訪れ

https://tomoshibi.or.jp/happiness/happiness-093.html

このたとえから「タレント(才能)」という言葉が生まれたのだそうだ。つまりこれまでの解釈は、タラントンは神から預かった才能や能力を意味し、それを活用してもうけた人はほめられ、その才能を土に埋めて使わなかったひとはとがめられるというのがこれまでの普通の解釈であった。

ところがこのたとえ話は腑に落ちないところがいくつかある。

そのひとつは「タラントン」が今のお金でどのくらいかというと、ほとんど億単位の金なのだそうだ。とても庶民に手の届く額ではない。それくらい才能とは高価なものだと意味するというだろうが、それにしてもあまりに巨額である。

その二つめは、そんな巨額の金を預かったら、とても恐ろしくて使えないと思うのが庶民である。私もきっとそうしたであろう。その庶民が「怠け者」とのそしりを受けるのは、小さきもの貧しきものの見方であるイエスには全くふさわしくない。

その3つめは、1タラントンを預かってそれで投資をしたら、全部損をして失ってしまったとしたらこの主人はどうしたのだろうか? そこが書いていないところも腑に落ちない。

そうした疑問を持ちながらこの箇所を読んでいたときに、とても明快な解釈をしてくれた牧師がいた。富田正樹牧師である。同志社香里高校の聖書科の先生であり、キリスト教資料集の編著者であり、「信じない人のためのイエス入門」という書を書いた人であり、なおかつ徳島北教会の牧師でもある。

富田牧師は「実はこの物語は、この世の資産家たちがいかに貧しい者を搾取するのか、裕福な者はもっと裕福になり、貧困者はもっと貧困になってゆくという事実を、イエスが庶民の側に立って怒りを代弁したたとえ話であると解釈できるのです」と述べている。金が金を生んでいく、持てるものはますます豊かに、持てないものはますます貧しくなっていく格差を拡大していくはなしであって、イエスがそういう側には立たないことは明白であろう。「今の世の中はかくも不公正にできている」ということをイエスはいいたかったのではないだろうか。それはイエスの時代だけでなく現代の世界も全く同じことが言えるだろう。

ただ、このたとえの冒頭には「天の国はまた次のようにたとえられる」(マタイ25章14節) という言葉で始まっているのが気になるのだが………。

ついでながら、ルカ19章には「ムナのたとえ」がある。このタラントンとよく似た話であるが、こちらはあまり話題にはならない。

二つを読み比べてみると、まずお金の単位が違った。当時の労働者の1日の稼ぎとなるのが1デナリ、その200日分の稼ぎ200デナリが1ムナ、その60ムナが1タラントンにあたるという。1ムナは200万円くらいで1タラントンはやはり億単位の額である。

さらにルカの方は10人の雇い人にみな平等に1ムナをあたえ、「私が帰ってくるまでこれで商売をしなさい」と指示する。タラントンにはこういう指示はなく、単に預けておくだけである。

で、もうけた額に応じて、町を管理する権利をあたえた。5ムナも受けたものには5つの町を治めさせたのである。金儲けのうまい人物に町を任せたら、きっとその町は繁栄するであろう。

このムナの話の方が少しは合理的なような気はするが、金を包んでしまっておいたものに厳しいのはタラントンの話と同じであり、「誰でも持っている人はさらにあたえられるが、持っていないひとは持っているものまでも取り上げられる」という格差拡大の結論も同じである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 38:「困難に悩む人々」のために

「困難に悩む人々」のために

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答五郎……共同祈願のことを考え始めて3回目だね。前回は、「すべての人のための祈り」という共同祈願の特質が、意向1では「教会の必要のため」と意向2では「国政にたずさわる人々と全世界の救いのため」という二つの側面から考えられていることを見たね。今回は、意向3の「困難に悩む人々のため」という側面について考えてみよう。

 

瑠太郎……この部分では、最近では『聖書と典礼』の例文などで内戦や自然災害などで苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人などはよく言及されている気がします。これも教会の伝統なのですか。

 

 

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答五郎……実は、前回も引用した「テモテへの手紙 一」2章1~2節で、とくにあげられているのは「王たちやすべての高官のためにも」ということだから、困難に悩む人々のことが特別にあげられているわけではないのだけれどね。実際に困難に悩んでいる人を助けることについての教えは、イエス自身が示しているよね。

 

瑠太郎……はい、イエス自身が、あの当時の社会のなかでさげすまれている人と一緒に食事したり、病気の人をいやしたりしていました。

 

 

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答五郎……それに、たとえば、マタイ25章31~46節の最後の審判についての教えの中でも、飢えている人、渇いている人、旅をしていて宿のない人、服のない人、病気の人、牢獄に入れられている人を助けることは、「わたし」(イエス)を助けることだと語られている。これら「最も小さな者の一人」を助けることがイエスを助けることだといわれているのだよ。

 

聖子……教会の歌で「小さな人々の」という歌があったわね。「♪小さな人々の一人ひとりを見守ろう、一人ひとりの中にキリストはいる」(『典礼聖歌』400)

 

 

 

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答五郎……そう、その歌はまさにそのマタイ25章の教えに基づくものだよ。
ちなみにね、前回も見たユスティノスの『第一弁明』(67章6節)ではね、日曜日の礼拝集会では施しを集めて困難にある人を助けたということが書かれている。「次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」とね。「孤児ややもめ」とは、旧約聖書の時代から社会的弱者の代表のように言及されている人のことだし、そのあとのところは、さっきのマタイ25章の教えとも対応しているのがわかるだろう。

 

瑠太郎……そうしたことは、教会の実践として勧められていることですよね。それが共同祈願の意向にも反映しているということですか。

 

 

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答五郎……「すべての人」に目を注ぐということは、さらに「さまざまな状況や境遇にあるあらゆる人」にも目を注ぐということだし、その場合、祈りによって支えるべき人は、おのずと何らかのかたちで困難な状況にある人ということになるだろう。それは、さまざまあるし、むしろ、それぞれの共同体の中で具体的な状況を考えていっていいようなものだよ。

 

 

聖子……ときどき、何かの献金日にちなむ意向が例文としてあがっているときがあるわね。先週(10月22日=10月の最後から2番目の日曜日)は「世界宣教の日」となっていたわ。

 

 

 

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答五郎……これは、世界中の宣教活動のために霊的援助と物的援助をともにしようという意味で、とくに物的援助のために献金を集めるよね。でも、そのような事業には霊的援助が不可欠だろう。そこで、なるべく献金日が定められているときには、そのことを共同祈願の意向に反映しようという姿勢から例文があげられているわけだよ。困難に悩むという原則を広い意味で考えていることにもなる。どのような宣教活動にも、困難はつきまとうからね。

 

瑠太郎……その意味では、共同祈願は教会の実践の心を表すものともいえるのですね。

 

 

 

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答五郎……そういう見方は大事だね。祈りは言葉だけで終わるものではないからね。実はそこで参考になるのは東方教会の奉献文なんだ。8〜9世紀頃にまとまったとされるビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」には、王や皇帝のための祈りもあれば、教会を構成するほんとにあらゆる人々のことが祈られている。その広がりの中で困難に悩む人たちのことも祈っている。試しに訳した文章があるので、その部分を、聖子さん、読んでもらえないかな。

 

 

聖子……はい、ここね。「(神よ、汚れた霊によって苦しめられた人々を解放し、航海する者たちとともに航海し、旅する人々と道をともにしてください。身寄りのない子どもたちを保護し、とらわれ人を解放し、病気の人を見舞ってください。裁きの場に置かれている人、追放されている人、あらゆる困難と不幸の中にある人々を心にとめてください」。いいかしら。

 

瑠太郎……たしかに、聖書の教えとつながる内容もあるし、世の中にいつもいる弱い立場の人々のことが触れられていますね。教会はイエスや使徒たちの時代からずっと変わらずに、いつもこのような人たちのために祈り、援助しているということでしょうか。

 

 

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答五郎……助け合うという実践にこめられる心を表すために祈りが行われるし、また祈ることによってみんなを実践へと動かしていくこともあるだろうね。

 

 

瑠太郎……答五郎さん、今、読んだ例文は奉献文のものだと言いましたよね。奉献文と共同祈願は別なものと思っていたのですが、関係があるのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほう、そのことか。その点は次回に考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 37:「すべての人」へのまなざし

「すべての人」へのまなざし

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答五郎……こんにちは。ちょっと休んでしまったが、元気かな。前回から「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」のことを考え始めたね。

 

 

瑠太郎……はい。「共同祈願」の「共同」には、結局「すべての人のために」信者「みんな」で祈るという意味が込められているのだということがわかりました。

 

 

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答五郎……では、その「すべての人のため」ということをもう少し詳しく見ていくことにしよう。共同祈願の形式として「招き」と「結び」の間に、いくつか「意向」があり、それに対して短い「応唱」があるということは、もう見学してもうわかっているだろう。

 

瑠太郎……はい。祈りの意向をいくつかのべて応唱を繰り返すところは連願的な部分でしたね。日曜日のミサではだいたい4つあるようですが。

 

 

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答五郎……『聖書と典礼』の例文が4つとなっていて、最後が「それぞれの共同体のために祈る」となっているから4つなのだが、そのもとは『ローマ・ミサ典礼書』の総則70にある。読んでもらえるかな、聖子さん。

 

 

聖子……はい。「意向は通常、次のような順序で行う。a)教会の必要のため b)国政にたずさわる人々と全世界の救いのため c)困難に悩む人のため d)現地の共同体のため。ただし、堅信、結婚、葬儀などの特別な祭儀においては、特殊な機会を考慮して意向の順序を定めることができる」
つまり、日曜日の意向が4つになっているのもこのa)b)c)d)に沿っているのね。

 

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答五郎……a)やb)については、前回読んだ「テモテへの手紙 一」2章1~2節の中の「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」や、ユスティノスが『第一弁明』で記す「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」という表現が背景にあると考えられるだろう。そこに困っている人への祈り、現地の共同体自身のためというある特定の人に向けての祈りもある。

 

 

聖子……すべての人というと、いつも全体のことを考えるのかと思っていたけれど。

 

 

 

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答五郎……すべての人というとき、あらゆる状況にある人々すべてということを考えているのだと思うよ。でも、あらゆる状況すべてに言及することは、この短い祈りの中ではできなくて、そのときどきに、ある状況のことを考えていってもいいわけだよ。

 

瑠太郎……あくまで大枠というか基本原則なのですね。

 

 

 

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答五郎……そうだね。だけれど、この4つの意向の順序は意識する必要があると思う。ほんとうは、各教会で手作りの意向をささげてよいわけなのだけれど、なかなか大変なのが実情だから、つねに、このような意向の類別を意識できるようにするために、『聖書と典礼』も例文を示すことにしているのだよ。

 

聖子……つまり、全部が教会のため、全部が世界のため、全部が困難を抱える人々のため、全部が現地の共同体のためになってはいけないということね。

 

 

 

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答五郎……具体例があるといいかな。次の日曜日10月22日は年間第29主日(B年)になるのだけれど、その日の『聖書と典礼』の意向の例文を見てみよう。ちなみにこの日の福音朗読はマタイ22章15-21節。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)という有名な言葉があるところだ。瑠太郎くん、例文を読んでほしい。

 

瑠太郎……はい。意向1は「キリストとともに歩むわたしたちが、一人ひとりの近くにおられる主の愛を感じとり、あかししていくことができますように」、意向2は「人々が自分だけの価値観にとらわれず、他者の考えにも耳を傾け、世界の将来にふさわしい道をともに求め、協力することができますように」ですね。

 

 

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答五郎……意向1が、キリスト者であるわたしたち、いわば全教会の使命にとって必要なことを願う内容、意向2が、一般の人々が世界全体のために協力し合えるようにと告げているね。

 

 

聖子……ここにあることは、だれにとっても大事なことよね。みんなに共通のよいことのために、教会も祈っているのね。

 

 

 

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答五郎……祈っているということは決して口先だけのことではなく、行動や実践のための決意表明の意味ももつわけだよ。実はこの二つの意向にも示されているような教会へのまなざしと、世界へのまなざしは、第2バチカン公会議(1962~65年)の『教会憲章』と『現代世界憲章』の二つに基づくものだということもいえるのだよ。

 

瑠太郎……少し学んだことがあるのですが、教会が近代世界に対して自己を閉ざしていたような態度をあらためて世界に向かって自らを開き、すべての人の救いと世界がともによくなることを目指して奉仕する姿勢になったということですね。

 

 

聖子……第2バチカン公会議があったから、ミサの共同祈願ができたってことなの?

 

 

 

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答五郎……いやあ、たしかに第2バチカン公会議前のミサにはなかったのだが、むしろユスティノスが語るように初期の教会で行われていたのだよ。だから、共同祈願は復興されたというべきなんだ。その際の教会と世界へのまなざしの向け方を、この公会議は率先して示したということになるだろうね。次は、意向3について考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 36:共同祈願の「共同」って?

共同祈願の「共同」って?

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答五郎……さて、「ことばの典礼」を扱って16回目になるね。テーマを共同祈願に移そう。見たことは?

 

 

瑠太郎……日曜日のミサに行くと行われていますね。僕が行ったところでは、信徒席のところで、一人の人が『聖書と典礼』にある例文を読み上げていました。

 

 

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答五郎……その読み上げるところは「意向」という。ここが共同祈願だと思われることもあるけれど、司祭の招きがあり、いくつか意向が唱えられ、そのたびに一同が応唱し、最後に結びの祈りがあるという流れ全体が共同祈願なのだよ。

 

 

瑠太郎……招きと結びの祈りがあるところは、集会祈願、奉納祈願、拝領祈願とも同じですね。

 

 

 

聖子……そこに、意向がいくつかあって、それぞれに一同が応唱するというところが独自よね。

 

 

 

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答五郎……短い応唱が何度も入るような祈り方を連願ともいうのだけれど、ある意味で共同祈願の形式は、公式祈願と連願が組み合わさった形といえるね。ところで、共同祈願の「共同」ってどんな意味だと思っていたかな。

 

 

 

聖子……信者一同が応唱して、皆が一緒に祈っている雰囲気がよく出てくるからじゃないの。

 

 

 

瑠太郎……それに意向を信徒が唱えるところにも、信者の共同の参加が表されていると思います。

 

 

 

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答五郎……たしかにそうだね。しかもその意向って、『聖書と典礼』に載っている例文を使うことが多いかもしれないけれど、ほんとうはミサをささげている共同体が自分たちで作っていいところなんだよ。すると、そこにも共同参加がよく表されるから、共同祈願というのかもしれないね。

 

 

聖子……思わせぶりね。質問する意味が知りたいわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、ミサ典礼書のラテン語の原文では、共同祈願は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」という。「すべての人のための祈り」といった意味なんだよ。

 

 

瑠太郎……では、共同祈願とは日本のミサ典礼書独自の名前ですか。直訳すると万人祈願でしょうか。

 

 

 

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答五郎……そうなるかもしれない。ともかく、これについては、新約聖書に重要な箇所があるんだ。「テモテへの手紙 一」の2章1~2節を読んでもらえるかな。

 

 

聖子……ここね。「それで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」。少し難しい言葉もあるわね。「執り成し」って。

 

 

 

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答五郎……簡単にいうと、ある人々のために、そのことを神にお願いするというときに、祈る人がその人々のことを神に執り成すということになる。そのような、だれかのために祈るという趣旨を表すために、英語では、共同祈願のことを「インターセッション」つまり「執り成しの祈り」と呼ぶことがある。日本でも他教派ではその意味で「代祷」(その人たちに代わって、その人たちのために祈ること)と名付けている場合があるんだよ。

 

 

聖子……いろいろな名前があるのね。

 

 

 

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答五郎……もっとも、一テモテ書のいう「願いと祈りと執り成しと感謝」をひっくるめて「祈り」と考えていいとすれば、この箇所は、「すべての人のための祈り」という性質をよく教えてくれる箇所となるだろうね。

 

 

瑠太郎……「すべての人」の意味はなんなのでしょうか。

 

 

 

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答五郎……参考になると思うのは、ユスティノスの『第一弁明』という2世紀半ばの書だな。「ことばの典礼」の流れの基本が語られているなかで、この祈願が「共通の祈願」とか「公同の祈願」と訳されるような名前で述べられているんだ。「ここに共に集って、自分共と、照明にあずかったその人と、また全地に居るすべての人々のために、公同の熱い祈りをささげること」、つまり、「自分たちや今洗礼を受けた人たち、そして全世界のすべての人のために祈ること」とね。

 

瑠太郎……そうだとすると、日本語の「共同祈願」もすべての人のための祈りという意味だともいえますね。

 

 

 

 

聖子……みんなで祈るから「共同祈願」という理解でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……いろいろな名前があるという話だけど、ミサ典礼書のラテン語原文には、実は「オラチオ・ウニヴェルサーリス」のほかに、「オラチオ・フィデリウム」つまり「信者の祈り」という名前も併記されているんだよ。

 

 

 

聖子……まだあるの? こんがらがらない?

 

 

 

瑠太郎……それに「信者の祈り」って、ミサの祈り全体が「信者の祈り」なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……たしかに。ただ、その中でもとくに、入信して信者の仲間の一員、つまり教会の一員となって初めて信者としての祈りの役目を果たすということが強調されているようだよ。それは意向を唱えるだけでなく、応唱をもって皆が祈りをささげるというところに示されているのだろうね。

 

 

聖子……みんなでみんなのために祈る、それが共同祈願でいいじゃない。

 

 

 

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答五郎……ほう、そうだね。では、次回は、その「みんなのため」、「すべての人のため」ということをさらに詳しく考えていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』

前々回紹介した『トリエント――公会議で何が起こったか?』の著者オマリーが2008年に発表した第2バチカン公会議についての書を紹介する。日本では、司教団によって『第二バチカン公会議公文書』の改訂公式訳が2013年に出ており、この公会議の経緯や意義についての新しい視点が求められるところである。その刺激の一つにしたい:

ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』
John W. O’Malley, What Happened at Vatican II, Cambridge, Massachusetts. : The Belknap Press of Harvard University Press, 2008,xi+380 Pages.

第2バチカン公会議の経過については、1965年から2006年にかけて各国語に翻訳されて出版されたジュセッペ・アルベリゴの『第2ヴァティカン公会議史』をはじめ、日本語に翻訳された小史を含めて、いく冊の本がすでにある。カール・ラーナー(生没年1904〜1984)は、公会議後数十年経た時点を「教会の冬の時代」と呼んだが、半世紀を経た今日、この公会議で意図されたものは何であったかをあらためて考える必要がある時期が来ているようである。

公会議は教皇ヨハネ23世(在位年1958〜1963)が開催のスローガンとしてアジョルナメント(教会の現代化)をあげたが、今日では公会議のルスースマン(〔仏〕Ressourcement =源泉回帰)が教会当局によってスローガンとして折に触れて強調される時代となっている。ルスースマンとは手っ取り早く言えばリサイクルのことである。確かに、ルスースマンは本書の著者オマリーがあげる三つ、アジョルナメント(現代化)、デヴェロプメント(未来志向)とともに過去との連結を保証するものであるが、今日盛んに使われる意味では、第2バチカン公会議から純正な要素をリサイクルして再解釈するということ、それがスローガンになっているのである。

【さらに読む】
イエズス会司祭である教会史家オマリーは、教会史における幾多の公会議を歴史的に概観し、近代、特に、「長かった19世紀」の背景をふり返ったあと、4会期にわたった第2バチカン公会議の成果を分析している。そして個々の論点を超えて、この公会議が教会のために何を達成し、将来にどのような方向を示しているかを語ろうとしている。

「長かった19世紀」は、間にレオ13世(在位年1878〜1903)のやや開放的な時期もあったが、グレゴリウス16世(在位年1831〜1846)の治世に始まる、近代主義に包囲された教会のカルチャーから理解されなければならない。イヴ・コンガール(生没年1904〜1995)が日記で記しているように、冷戦時代においてこのカルチャーのゆえに、教皇庁は、イタリア国内での共産主義政府樹立によるバチカン包囲への恐怖感によって、世俗世界への対立姿勢を強めていた。だから「長かった19世紀」は、20世紀が後半に入りまもなくの第2バチカン公会議開催直前まで続いたと言える。その姿勢は、数々の近代主義的傾向の排斥に見られるものである。

著者は、教会典礼用語としてのラテン語がすべてを統括する普遍主義を象徴していたことを指摘する。ハンス・キュング(生年1928)は自叙伝の中で、公会議の最初の文書がもっと重要であるはずのテーマでなく、典礼についての憲章であったことに対して滑稽感ともに幻滅感をもったと回想しているが、著者は『典礼憲章』の採択は、公会議において重要な、象徴的出来事として受け止めている。それは、以後、公会議で「起こったこと」、特に19世紀に高揚した教会の中央集権的メンタリティとの決別を象徴しているからである。

ヨハネ23世の「アジョルナメント」は、「現代世界を恐れるな」ということであった。当時もっぱら進歩的若き神学者として評価が高かったラッツィンガー(生年1927。教皇ベネディクト16世としての在位年2005〜2013)は、『第二バチカン公会議をふり返って』(原著1966年、再版2009年)という小著の結論として、「教会は喜ばしい時にも、悲しむべき状況でも、心の単純な人々の信仰に生きている。……彼らこそが新約の希望の灯火を後世に伝えるのである」と述べている。しかし「単純な人々の信仰」には、たしかに信徒のローマと教皇に対する強い愛着がつきものであるが、ローマ中枢の聖職者主義的カルチャーとは無縁であったのではなかろうか。オマリーの説明をたどれば、公会議の結末をなす重要な文書『現代世界憲章』は『典礼憲章』から出発したうねりの帰着、大団円であったのである。

『現代世界憲章』は、もっとも激しい議論を経て出来上がった文書であった。ルター派の義認論的人間観を意識したドイツ司教団は、フランス語圏の顧問が作成した原案に賛成しなかった。おそらくその背後には、よく言われるようにアウグスティヌスから出発するラッツィンガーの考え方があったのかもしれない。彼は公会議閉幕の典礼が「バロック的」雰囲気を醸し出したとコメントし、以下のように述べている。「しかし、公会議後の仕事はもっと深いところに及ぶ。ローマで起こったことは与えられた使命の公文書化にすぎない。その遂行が今や始まるのである」。つまり、それらの文書が現実に教会の制度に受肉されていくかどうかが問題なのだということであろう。

近代世界は、技術の次元にとどまるものではない。重要なのはそこに生きる人々である。著者によると、第2バチカン公会議は、外面的様相においても内面的姿勢においても、第1バチカン公会議とはまったく異なる教会の姿を夢想する一種のユートピアを掲げた。第2バチカン公会議で起こったのは、長すぎた「19世紀」の影と決別し、近代世界に対して識別の眼差しをもって積極的に関わらなければならないと考えた多数の司教たちの考え方が優位に立ったということである。しかし『教会憲章』で打ち出された司教の「共同性=コレジアリタス」の原理は、世界代表司教会議(シノドス)の制度化へと矮小化され、結果的にはそれを超えることなくとどまり、一極集中型の制度自体を本質的に変えるためにはさほどの影響を与えなかった。

オマリーの冷徹な歴史眼は、この公会議がそれまでと同様の権力中枢で開かれ、その名前(バチカン)を戴き、その組織の助けによらなければ成果を上げることができなかったという矛盾を内包していた事実を見抜いている。保守派は、かつて国務長官だったパウロ6世の後ろ盾によって最後まで結束を保っていた。ハンス・キュンクは、保守派の頭目オッタヴィアーニ(生没年1890〜1979)枢機卿が公会議閉幕時に「我々は勝利した」と喝破した、と記している。その後、改革を推進しようとするならば、さらに保守派の助けによって行わなければならないというジレンマが第2バチカン公会議の行く手にはあったというのである。

(高柳俊一/英文学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 35:ミサ全体が信仰宣言!

ミサ全体が信仰宣言!

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答五郎……ミサの信仰宣言で唱える信条についての3回目だね。前回は、ミサの流れ、というか「ことばの典礼」の流れでいうと、聖書朗読で告げられた神のことばに、この宣言をもって応えるという意味があることを見たね。

 

 

 

瑠太郎……はい、キリスト教で長く伝わってきた信条を唱えるということで、ミサが信仰宣言の集いでもあるという面があることを学びました。

 

 

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答五郎……ちなみに、この信条は日本の多くの教会では、読み上げるというか、覚えている文言を一斉に唱えるというやり方で行われていることが多いと思うけれど。

 

 

 

聖子……ええ、あたしが見学したかぎり、いつもそうだったわ。

 

 

 

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答五郎……実はね、典礼書で「唱える」というときは、実は「唄う」(歌う)ということでもあるんだよ。それなりの節をつけて、叙唱や奉献文が歌われている例は、わりとあるだろう。ほんとうは集会祈願などの祈願でも、ただ読み上げるというかたちのものはむしろ少ないのだよ。「祈りましょう♪~~」という形でね。

 

瑠太郎……でも、信条は長いですし、覚えるのが大変なのではないですか。

 

 

 

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答五郎……そうともいえるけれど、逆に旋律がついていることで覚えられるようになるという面もあるよ。実はね、日本のカトリック教会では、ニケア・コンスタンチノープル信条に二つ、使徒信条に三つ、新しい旋律が作られて、今年(2017年)の4月16日から使用できるようになっているのだよ。

 

 

聖子……ええ、そんなにたくさん! でも、あんまり聞かないわね。

 

 

 

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答五郎……まだ知られていないのかもしれないし、単純に唱えるものとずっと思われていたのだろうね。日本語の信条が歌われるものとして知られるようになるのは、これからなのだろう。

 

 

瑠太郎……ミサの他の祈りもそうですが、ただ唱えるだけだと、次々と先へ急ぐ感じがします。歌うことで、その言葉一つひとつにとどまって心を込めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……でも、歌っているとこの信条の部分がずいぶん長くなるんじゃないの。それで、早く済ませたくて、ただ唱えているのではないかしら。それに旋律を覚えるのも大変でしょ。

 

 

 

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答五郎……そうなのかな。でも、そんなに早く簡単に済ませて負担が少ないほうがいいという価値観で、みんなミサに来ているのかな。そうだとしたら、何のために来ているのかな、何のためにミサをささげるのかな……と問いかけたくなるよ。

 

瑠太郎……そうですよね。神のことばにとどまり、心をこめて祈り、神と心を通わせるというのがミサの祈りで、そこは、日常の時間とは違う永遠の時間が流れているはずです。そことの交わりがミサの醍醐味なのではないでしょうか。

 

 

 

聖子……瑠太郎くん、なんか難しいような、かっこいいようなことをいうわね。

 

 

 

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答五郎……ずいぶん深く考えてくれているようだね。いずれにしても、新しい旋律が生まれた機会に、信条の内容にも多くの人が関心をもつようになって、これら伝統的な信条から、キリスト教について新たに学んでいけるとよいかもしれない。

 

瑠太郎……答五郎さん、でも、初めの話のように、ミサ全体が信仰宣言なのですね。

 

 

 

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答五郎……おおっ、そうなんだ。信仰宣言という意味を広く深くとれば、信条を唱えることだけが信仰宣言ではなく、ミサに集まり、神のことばに耳を傾け、それに応えて信仰を宣言し、祈りをし、主の食卓に参加するというミサ全体が最高で最大の信仰宣言なのだということだよ。

 

瑠太郎……熱いですね。つまり、言葉だけでなく、みんなが心を一つにして、一体になって行動しているミサの行為全体が信仰宣言という意味をもっているということですね。

 

 

 

聖子……「体で行う信仰宣言」っていうわけ? 面白いわね。

 

 

 

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答五郎……全体として、信仰宣言であることから、個々のことばの部分だって、それぞれにいつも信仰宣言だということだよ。特にいろいろなところで会衆が言う部分は、短くても信仰宣言だなというところがいっぱいある。たとえば、祈願の結びのところで会衆が応える言葉……。

 

 

聖子……「アーメン」!

 

 

 

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答五郎……そう、これだって「ほんとうに(この祈りのとおりになりますように)」といった意味があるから、信仰宣言といえるだろう。特に聖体拝領のときの「キリストの御からだ」といわれて応える「アーメン」は、聖体のキリストに対するはっきりとした信仰宣言になるよ。

 

 

聖子……それって、はっきり言う人もいれば、おとなしくしている人もいるわ。

 

 

 

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答五郎……たしかにいろいろだね。でも、もっとも短い信仰宣言だと理解できたらはっきり応えるようになるのではないかな。

 

 

瑠太郎……「感謝の典礼」のなかの会衆のことばは、それぞれに信仰宣言のようですね。「信仰の神秘~」のあとの「主の死を思い、復活をたたえよう」とか、聖体に対して、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところにゆきましょう」と言うところも拝領前の信仰告白となっていますね。

 

 

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答五郎……ああ、もちろん、それら個々の文言にも信仰宣言の意味合いは含まれていて、でも、体で行うことも含めて、全体が信仰宣言なのだというところを意識すると、ミサがさらに面白くなるのではないかな。次回からは共同祈願を考えることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 34:ミサで信条が唱えられる意味

ミサで信条が唱えられる意味

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答五郎……さて、前回からミサの信仰宣言で唱える信条について考え始めているね。聖子さん、使徒信条を唱えてみてもらえるかな。

 

 

 

聖子……えっ、はい。「天地の創造主……(略)」ね。

 

 

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答五郎……ありがとう。では、瑠太郎くん。ニケア・コンスタンチノープル信条を頼む。

 

 

 

瑠太郎……はい。「わたしは信じます。唯一の神……(略)」

 

 

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答五郎……ありがとう。日本語の文として使徒信条が200字余り、ニケア・コンスタンチノープル信条が470 字程だから、確かにニケア・コンスタンチノープル信条は倍以上の長さだということがわかる。でも、聞いていてどうだろうか。

 

 

 

瑠太郎  構造というか、流れは似ているので苦にはならないですね。はじめに創造主である父である神のこと、神の子、わたしたちの主イエス・キリストのこと、その生涯の要約、そして聖霊とか教会のことが出てくるというものです。

 

 

聖子……さすが、キリスト教はこのことを信じているんですよ、というエッセンスね。

 

 

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答五郎……それでこそのシンボルム、つまり、キリスト者であることを証明するしるしという感じがするだろう。この信仰宣言をミサでは主日と祭日に行うこととされているのだよ。ということは……?

 

 

 

瑠太郎……主日つまり日曜日のミサ、祭日のミサは、キリスト教の信仰をはっきりと宣言する集会という意味ももつのですね。

 

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答五郎……そうだね。ところでこの宣言ということは、だれに向けての宣言なのだろう。考えたことはあるかな。

 

 

 

聖子……キリスト教はこれを信じています、と宣言するからには、キリスト教を信じていない人、他の宗教の人や、無宗教の人を意識して自分たちのことを主張しているのではないかしら。

 

 

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答五郎……うーん。それもあるかもしれないけど。

 

 

瑠太郎……やはり、ミサの中で唱えているかぎりは、そこは、基本的にキリスト信者たちの集会なのですから、他の宗教の人に向けて宣言する必要はないと思います。「天地の創造主、全能の父である神を信じます。/父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます……」といって、やはり父である神、そして、キリスト、聖霊などに向かって宣言しているのではないですか。

 

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答五郎……たしかにそこは重要だ。信条のもとには洗礼式の信仰宣言があったらしいと言っただろう。そのときも、洗礼式の中で父である神とキリストと聖霊に向かって信仰を告白する形のものだったわけだ。それが公会議で決まった正統信条の宣言文となると、異端に対してとか、他宗教の人々を意識した人間的主張の宣言文のような姿をもつことにもなったのだよ。

聖子……でも、ここで考えているのは、ミサの中での信仰宣言だから、神に向かう宣言という姿がはっきりしてくるのね。

 

 

 

瑠太郎……もう一つ、信者さん自身に向けての宣言という意味もあるのではないですか。それをもって、自分が信じていることを思い起こすというか、意識の中で明確にするという……。

 

 

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答五郎……たしかにそれはあるね。一つの宣言行為がさまざまな方向をもっていて多面的なわけだね。それと、同じ信条文であっても、これがキリスト教の教えのテキストに使われる場合もあるよ。いろいろな役立ち方があるということだ。一つの文もそれが使われる文脈で役割が変化するわけだね。

 

瑠太郎……今は、ミサという文脈での意味を考えているわけですね。

 

 

 

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答五郎……しかも、「ことばの典礼」という文脈の中で、だよね。すると、さらにもう一つ意味が見えてくるんだ。聖書朗読のところで考えたことを思い出してごらん。

 

 

聖子……聖書朗読は全体として「神のことば」が告げられ、それを聞き、受けとめることだったわね。

 

 

 

瑠太郎……そうか、すると、その「神のことば」に信者一同が信仰宣言でもって応答するのですね。

 

 

 

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答五郎……そうだね。「ことばの典礼」の展開として、神のことばを聞いてそれに応える部分にあたる。

 

 

聖子……そういえば、見学したミサで、司祭が「神のみことばに応えて、わたしたちの信仰を宣言しましょう」って呼びかけてくれる場合もあったわ。

 

 

 

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答五郎……ミサの流れの中で自然に感じられるだろう。そのように「神のことば」に応えて、キリスト教の信仰を宣言するというのが、特に主日のミサの不可欠な要素となっているわけだ。

 

 

瑠太郎……教会は日曜日ごとにそうしているのですね。信仰宣言の集いでもあるということですね。

 

 

 

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答五郎……いいことを言ってくれるね。神に向けても、人々に向けても、といわなくてはならないがね。ところでね、ここで言っている信仰宣言は、具体的には信条の唱和だけれど、「信仰宣言」ということを広い意味でとるなら、信条の唱和だけが、ミサの信仰宣言ではないのだよ。

 

聖子……信条だけが信仰宣言ではない!? ええっ、なんてどんでん返しなの。

 

 

 

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答五郎……難しいことではないよ。ミサ全体が信仰宣言なのだということさ。次回、そのことを考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)