ミサはなかなか面白い57 「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」

 

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答五郎 さて、前回から奉献文の中で告げられるイエスのことば、いわゆる秘跡制定のことば、聖別のことばと呼ばれるものについて考えているね。ポイントはなんだったかな。

 

 

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問次郎 最後の晩餐のときのイエスのことばを思い起こして、引用して読み上げているというだけではなくて、ミサの中に現存しておられる主が今告げることばであるということが重要ということでした。

 

女の子_うきわ

美沙 それと、その今告げられるパンと杯についてのことばは、聖別の働きをもつという点も重要でした。それについて「聖変化」というだけでは不十分だというお話に入ったところでした。

 

 

124594

答五郎 そのことを考えるために、まず杯についてのイエスのことばを奉献文で確認してみよう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい」ですね。

 

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答五郎 このことばも、四つの新約聖書の本文が踏まえられていることがわかるよ。ざっと見ると、一コリント10・25「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」、ルカ22・20「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」、マルコ14・24「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」、マタイ26・27~28「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 

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問次郎 奉献文中の「わたしの血」は四か所すべてに、「多くの人のために流されて」はマルコ、マタイ、「罪のゆるしとなる」はマタイ、「新しい契約」は一コリントとルカ、「契約の血」はマルコ、マタイですね。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしの血の杯」ということばは見当たりませんね。それと「永遠の契約」という句も。

 

 

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答五郎 よく気がついたね。「わたしの血の杯」は、たぶん一コリントとルカの「この杯は」という切り出し方を背景にしていると思われる。「永遠の契約」という句はたしかにこれらの四つの本文にはなくて、典礼の祈りにおける独自な伝統らしい。

 

女の子_うきわ

美沙 「ぶどう酒」ということばも、この中には出てこないのですね。

 

 

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答五郎 前後を見ると、ぶどう酒の杯であることがわかる。聖別のことばの前後に「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」ということばがあるのだ。これはマルコ14・25だが、マタイ26・29にもルカ22・18にもある。基本趣旨は同じでも、少し語句のまとめ方が違っている。

 

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問次郎 そう見てみると、「杯」もかなり重要なようですね。

 

 

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答五郎 そう、たしかにね。それは、聖体の秘跡というか感謝の祭儀が生まれる過程でも重要だったし、今の典礼でも、杯、つまりカリス(ラテン語)の役割が大きいのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 奉献文ですぐあとに「いのちのパンと救いの杯をささげます」というフレーズがありますが、そこも関係しているのでしょうか。

 

 

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答五郎 おそらくね。それはそのときまた触れることにして、聖変化といわれることに関して考えよう。新約聖書の4つの本文でも、典礼文の中でも、パンとぶどう酒についてイエスが告げることばの中で、肝にある語句はどれだったと思うかな。

 

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問次郎 煎じ詰めると、「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」というところになりますか。

 

 

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答五郎 そこで、パンという食べ物がキリストの体という別なものになり、ぶどう酒という飲み物がキリストの血という別なものに変わるというふうに考えると、それは、たしかに聖体への変化、聖なる変化、神秘的な変化ということになる。

 

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問次郎 たしかに、自分もちょっと化学変化への連想にひっぱられそうになりました。

 

 

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答五郎 「聖変化」とは正確にいえば「聖実体変化」ということで、中世の神学者たちがどのような意味で、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるのかを詳しく議論し考えた結果をまとめた用語なのだ。その意図自体は正しいのだけれど、用語だけが一人歩きすると、あるものが別なものに不思議に変化することだけに関心が行ってしまい、手品とか魔術のように想像してしまうこともあったのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」の「わたしの」というところが大事なのではないでしょうか。だれかれのものではなく、キリストについてだけのユニークなものというところが。

 

 

252164

問次郎 そのユニークさを説明しているのが(典礼文でいえば)「あなたがたのために渡されるわたしのからだ」とか「あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」というわけか。

 

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答五郎 ほんとうにそうなのだと思うよ。すべての人の罪からのあがないのために、キリストは我々に自分自身を与えた……それは究極的には十字架上の死と復活をとおして、実現したこと、そのことが、今もいつも聖体として与えられるという、とても、大きな事がここでは起こっているわけなのだ。

 

252164

問次郎 たんなる物の変化というわけではないのですね。

 

 

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答五郎 そう、キリストと我々の関係の変化というか、新しい関係が決定されたという出来事が大事なのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「新しい永遠の契約」というのがそれなのですね。

 

 

124594

答五郎 そうなのだよ。キリストの死と復活によって神と人類の新しい契約が結ばれた、それはとても大きなこと、人類史がひっくり返るような画期的な出来事だったのさ。そのことを思い起こし、それだけでなく、今、キリストのからだと血を受けるという中で、その契約関係の中に立ち返り、その契約がキリストによって結ばれていることをたえず喜び祝うというところに、ミサらしさがあるといってもよい。

 

女の子_うきわ

美沙 お祝いの感覚は祭りになくてはならないものですね。

 

 

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問次郎 でも、ミサがあまりお祭りの感じもしないな……。

 

 

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答五郎 「契約」ということを深く考えると祝う意味が出てくるのではないかと思うよ。続きは、また次回に考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 56 「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」

56 「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」

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答五郎 ミサについて式次第の順に見てきて、ようやく一つの頂点にさしかかっているかもしれない。

 

 

252164

問次郎 はい。第2奉献文を見始めて、きょうはいよいよイエスのことばのところになりました。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」ですね。歌のときは「からだ」で結びますね。余韻の中で「である」と語っていると聞いています。

 

124594

答五郎 たしかにそれは、日本の典礼文ならではの工夫だね。ともかく、この言葉、ミサでは、どんなふうに聞こえているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それは、やはり「主イエスは、……仰せになりました」とあるので、イエスの言葉なのだな、とかなり、緊張します。

 

 

252164

問次郎 「仰せになりました」とあるので、あの最後の晩餐のときの言葉を今、唱えて思い出させているのだと、聞いています。聖書にも出ているあの場面の言葉を思い起こさせられます。

 

 

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答五郎 では、聖書の文言を見て確かめよう。美沙さん、ピックアップして読んでくれるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26・26)、「取りなさい。これはわたしの体である」(マルコ14・22)、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)ですね。

 

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答五郎 もう一つ、パウロの手紙にもあるよ。ここだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(1コリント11・24)ですね。

 

 

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答五郎 これらを奉献文の文言と比べるとどういうことがわかるかな。

 

 

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問次郎 4つに共通なのは「これは、わたしの体である」で、そこにルカの「あなたがたのために与えられる」に近い「あなたがたのために渡される」が加わっている感じですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それに「取って、食べなさい」はマタイの文言と同じです。

 

 

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答五郎 こう見ると、マタイとルカを軸にまとめられた言葉だということがわかるね。今見ているカトリック教会の奉献文は、ローマ典礼の伝統的な文言を基本にしているのだけれど、それ自体、聖書にある文言をもとにまとめられているようだね。

 

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問次郎  先ほど、答えたことですが、奉献文のその文言を聞きながら、最後の晩餐のときの言葉を読み上げているのだという受けとめ方では何か不十分だったでしょうか。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「秘跡の制定句」と紹介されているのを見たことがあります。それは、パンについての言葉と、杯についての言葉のことですね。

 

 

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答五郎 たしかにその面がある。「わたしの記念としてこのように行いなさい」ということばが1コリントやルカにあって、それが奉献文のイエスの文言にも受け継がれている。だから、ここから聖体の秘跡が始まったということだね。総則が「制定の叙述と聖別」と書いている前半にあたる。制定の叙述だから、前回見たような「主イエスはすすんで受難に向かう前に……」といった過去の出来事を想起させる「語り」を指して言っていると思う。パンと杯に関する言葉はただ過去に告げられた言葉の読み上げではないというニュアンスでね。

 

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問次郎 そこが、「聖別」と後半に書いてある意味なのですね。ずっと話題になっていることですが。

 

 

124594

答五郎 そう。「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」という言葉の役割がここで重要になるのだよ。あの最後の晩餐のときのイエスの言葉を思い出させるだけではないのだよ。

 

252164

 

問次郎 聖体の秘跡が制定された原点に立ち返るということとでしょうか。

 

 

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答五郎 それも少し近いように思うが、それだと、こちらから、過去の出来事に立ち戻っている感じだね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスが「今」語っているということでしょうか。

 

 

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答五郎 実は、そうなのだよ。この晩餐のときのイエスの言葉は、ただ聖体の秘跡を定めたというだけでなく、今、ここで、与えられる、そしてミサに参加する人が受けることになる食べ物、飲み物がイエスの体・イエスの血なのだということを語る言葉なんだ。そして、そのようなものにする言葉だという、その役割、働きのことを「聖別」と言っているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 ただ単に、聖体の秘跡の由来を教えるためにイエスがいわれた言葉を読み上げて思い出しているだけではないということですね。

 

 

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答五郎 イエスのことを過去に生きた人としてミサで追憶しているというわけではないのだからね。何度も、「現存」ということを考えてきただろう。

 

女の子_うきわ

美沙 「主は皆さんとともに」ですね。

 

 

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答五郎 ミサのどの部分、どの次第の中でも、キリストが今、その共同体にいつもいてこそ、行うことができているミサだということを、ここでこそいちばん考えなくてはならないのさ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 今の話の中で、いわゆる「聖変化」ということがもう言われていたのでしょうか。パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるということですね。

 

 

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答五郎 それはそうなのだが、その言い方の中で何か足りないものがあるのではないかな。それがまさに「聖変化」という言い方、理解のしかたの足りないところでもあるのだけど……。イエスの晩餐での言葉をよく聞きながら考えてごらん。

252164女の子_うきわ

問次郎・美沙  ああ……、はい。

 

 

124594

答五郎 ただ単に、パン=わたしの体、ぶどう酒=わたしの血ということだけを言っているだろうか? そこには大事なことが一緒に含まれているのではないかな。……引き続き次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 55 「主はすすんで受難に向かう前に……」

「主はすすんで受難に向かう前に……」

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答五郎 こんにちは。元気かな。第2奉献文に入って、冒頭の神の聖性をたたえる句と、供えものがキリストのからだと血になるよう、聖霊の働きを願う祈りのところを見てきたね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ええ、わずか数行の中にも、いろいろなことが含まれていると思いました。

 

 

124594

 

答五郎 祈りの中で言われていることと、それを何と捉えるかという理解のための言葉と両方が出てくるから複雑に聞こえるかもしれないね。ついて来られているかな。

 

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問次郎 えーと、ここでは「聖霊の働きを願う祈り」、つまりエピクレーシスとか「聖別」というのが、理解のための概念ですね。

 

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答五郎 それぞれ抽象的にはなるけれど、いつもこの祈りの流れに即して使っているから、そのことも忘れないでほしいね。ここで「聖別」という言葉を使っていても、聖別一般というより、供えものがキリストのからだと血となることをいつも指していっているということだよ。

 

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問次郎 このところに関しては、「聖変化」と書いている解説書をちらっと目にしたことがあります。それと同じことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 供えものがキリストのからだと血となることを指していう言葉としては同じだといえるのだけれど、ミサの祈りの中にも、また総則の用語でも「聖変化」という言葉は出ていないよ。ラテン語でも伝統的にコンセクラチオ(聖とする、聖別する)という単語だった。しかし、他の言語(ドイツ語)などでは確かに「変化」を意味する言葉が解説書や要理書で使われたこともあって、その影響があったのではないかと推測できる。これも理解用語で、基本的には聖別と同じ意味だけれど、今、典礼書では使われていないという経緯だけをちょっと頭に入れておいてほしい。

252164問次郎 なるほど、またあらためてお尋ねします。では、きょうの箇所の初めは僕が読ませてもらいますね。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」から始まるところですね。

 

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答五郎  そうだね。そのあと、パンについての言葉があって、「食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました」と、杯についての言葉が続く。このことは、ミサの中でもっとも厳粛に感じられるところだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。司祭が声高らかに節をつけて唱え、またホスチアの入っている器を持ち上げて示して、みんながおじぎを……、杯についてもそうなりますよね。見学していても緊張するところです。

 

 

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答五郎 そうだね。奉献文とは文というだけなく、歌われる祈りだし、さらに言葉だけでなく、体も使って動作して礼拝するということまで含む、大きなものだということがわかるだろう。

 

 

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問次郎 この祈りは言葉だけではないということですね。

 

 

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答五郎 そう、とても多面的といえるかもしれない。個人でひっそりと祈るのとはずいぶん違うだろう。ところで、理解の手掛かりになるかどうか、総則(79-d)でここの部分は「制定の叙述と聖別」と呼ばれている。「制定」ってなんのことだと思う?

 

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問次郎 パンについて「みな、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」というところ、杯について「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)」というところですよね。

 

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答五郎 まあ、そうだ。簡単にいえば、パンはキリストのからだ、杯から飲むものはキリストの血であるということが定められているのだよ。その意味では、聖体の制定だということになる。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これをわたしの記念として行いなさい」までが制定なのではないでしょうか。使徒たちが続けていくべき新しい行いを定めた、命令した、という意味で。

 

 

124594

答五郎 ほんとうにそうだね。聖体の制定というだけでなく、聖体の祭儀、感謝の祭儀、つまりミサそのものを制定したともいえる言葉だ。「制定の叙述」といっている以上、パンと杯についての言葉が告げられた前後関係まで含めて大事だといえるだろうね。

 

252164

 

問次郎 最初の「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」というのも、いかにもナレーションですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ここは、有名な最後の晩餐のところですよね。福音書にもある場面が読まれていると思っていました。

 

 

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答五郎 イエスが最後の晩餐で聖体を制定したということが書かれている福音書は、マタイ、マルコ、ルカの三つだけだよ。マタイ26・26~30、マルコ14・22~26、ルカ22・15~20だ。ただ、その部分を見ても、今の冒頭の文章がそのまま出てくるところはないよ。

 

女の子_うきわ

美沙 そうかもしれませんが、そう聞けます。三つの福音書の話全体を踏まえた自然な語りだなと思って、違和感はありません。

 

 

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答五郎 実は福音書のようにイエスの生涯を語る文脈とは違うけれど、もう一つ大切な箇所が1コリントの11・23~25にあるのだ。パウロが、自分が主から受けたものを皆に伝えるのだといって語るところだよ。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」というふうに語っていく。

 

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問次郎 語りだし方は奉献文の雰囲気と似ていますね。あ、逆か。奉献文の語りだしがパウロの語り方に近いのか。

 

 

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答五郎 今あるほかの奉献文、たとえば第3奉献文ではどうなっているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました」となっています。

 

 

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問次郎 あっ、語りだしは、1コリントとほとんど同じですね。

 

 

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答五郎 三つの福音書の場合、最後の晩餐の叙述には、ユダの裏切りの予告とかいろいろな出来事が含まれて複合的な物語になっているのだよ。ただ、要約すると、奉献文の短い語りともそんなには違わないだろう。

 

女の子_うきわ

美紗 杯の前のナレーションも含め、1コリントやマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のそれぞれの語り方が背景にあって、奉献文の個々の語りが成立しているのですね。「制定の叙述」という意味も広い意味で考えたいです。「これをわたしの記念として行いなさい」と言って、この典礼を定めたイエスの言葉に教会がずっと従っていて、2000年近くもミサが行われ続けているというのはすごいことだなと思います。

 

252164

問次郎 でも、総則ではここは「制定の叙述と聖別」といわれているのでしたね。どういう意味で聖別 なのでしょうか。ふりだしに戻すようですが……。

 

 

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答五郎 きょうは少し長くなったし、そこのところは次回にしよう。ともかくミサを見学して、奉献文の言葉を味わっておいてほしい。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


フレデリック・J・ボームガートナー著『閉ざされた扉の向こうで―教皇選挙の歴史』

日本にも久方ぶりに教皇選挙権をもつ枢機卿が誕生した。教皇選挙の歴史を物語る本を紹介しよう。2000年以降に刊行されたキリスト教の歴史・聖書・霊性に関する洋書をセレクトして紹介してきたこのシリーズも最終回。異例の長編だが、貴重な歴史に関する概観として注目したい:

フレデリック・J・ボームガートナー著『閉ざされた扉の向こうで―教皇選挙の歴史』
Frederic J. Baumgartner, Behind Locked Doors: A History of the Papal Elections (New York: Palgrave Macmillan, 2003), xv+272 pages

21世紀に入り、2005年にはベネディクト16世、2013年には同教皇の退位に伴い、フランシスコが教皇に選出された。近年の選挙にともない、教皇選挙とはどのようにして行われるのか、あるいはどのように過去に行われてきたのかに新たな関心が集まった。本書は2003年に出版されたものだが、このような関心にちょうどよく対応するものであった。著者は米国カトリック史学会の会長を務めたことがあるカトリック史学界の長老である。

コンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙は、西欧中世が形成される黎明期を前史として、11世紀に教皇権が西欧全体に広く認められ、教皇庁に莫大な収入が入るようになり、イタリア半島の中央を占める国家となった時代の到来とともに始まるのである。以下、少し長くなるが、注目すべき教皇選挙の歴史概観が得られるので、著者の叙述に沿って見ていこう。

 

4世紀までのローマ司教
教皇の権威は全カトリック教会に及ぶ。それは、使徒たちの指導者であり、また最初のローマ司教であるペトロの後継者であることに由来し、初代教皇は使徒ペトロだということになっている。しかし、著者によれば1~2世紀の信者は彼を司教(エピスコポス)とは考えていなかったであろうと述べている。2世紀以後、あちこちのキリスト教共同体は司教をそれぞれの教会の指導者として選ぶようになったが、250年までのローマの教会の事情を示す記録はほとんど残っていない。400年頃の記録はペトロがリヌスを後継者として任命し、さらにアナクレトゥス、クレメンスが彼に続くように支持したとしている。354年に編纂された『リベル・ポンティフィカーリス』(教皇に関する文書)は、最初の2世紀のローマ教会の記録としてはあてにならないと考えられている。3世紀半ばのカルタゴの司教キプリアヌスは、ローマの司教をペトロの後継者と尊敬の念をもってみなしながらも、自分も司教として同じ権威をもっていると考えていた。

さて、コンスタンティヌス大帝は325年にニカイア公会議を招集し、この会議にローマの司教シルヴェステル1世は二人の司祭を派遣した。コンスタンティヌスは最初のキリスト教徒の皇帝で、彼の統治法が帝国内の主要な都市の司教の選出に影響を与え始めるようになった。彼の教会に対する莫大な寄進はローマに集中したため、ローマの司教は財産の管理者としての能力を持たなくてはならなくなった。この皇帝の息子はアレイオス派の異端をローマの教会に押しつけようとし、この時、ローマの教会は二派に分かれてそれぞれの指導者が暴力に訴えて争うようになる。ローマの司教はこの時期に初めて「パパ」と呼ばれるようになった。それまでどこの司教もパパと呼ばれていた。それが4世紀に入ると帝国内の主要都市の司教(大司教)に限って使われるようになり、西方ではローマ司教だけの呼称として使われるようになった。だが、ローマの司教が「パパ」と呼ばれるようになったことはその選挙方法が変わったことを意味せず、依然として司祭たちと民衆が実際の選出権をもっていたのである。

 

派閥争いに支配された教皇選出
しかしローマ司教(パパ)の選出には、しだいに地方政治の次元と帝国政治の次元の両面から政治的意図が絡むようになる。特に門閥が要素として加わった。インノケンティウス1世(401~417。以下、年号表示は在位年)は西ゴート族によるローマ略奪(410年)の時、皇帝の宮廷に滞在中であった。彼の後、ギリシア人ゾシムス(417~418)が選ばれ、2年後、彼の支持者だった人々はエウラリウスを選出したが、彼の敵はボニファティウス1世(418~422)を選ぶという騒動になった。そこで、ホノリウス帝が介入し、最初エウラリウスを支持したが、彼の支持者が少なかったのでボニファティウス支持に回った。ホノリウスは同時に別々の選挙が行われた場合、もう一度全教会が一致して決めなければならないと命じた。ボニファティウスの後継者、ケレスティヌス1世(422~432)は反対なく全員一致で選ばれた。

これに続く、レオ1世(440~461)までの四代も騒動なしに選ばれた。レオ1世は外交交渉でガリアにいたとき、ローマ不在のまま選ばれた。聖ペトロ大聖堂に葬られた最初の教皇である。ゲラシウス1世(492~496)は、自らを「キリストの代理者」と呼び、有名な「両剣論」、すなわち、現世には二つの権威、教皇に代表された教会と皇帝に代表された国家があり、教会が上位にあると主張した最初の教皇である。ギリシアの司教たちと東方の皇帝に対する強硬な路線は、彼の後継者アタナシウス2世(496~498)が選出されたことで協調路線に変更された。しかし、ローマの聖職者の間では強い反対派がおり、彼の死の後、反アタナシウス派は両親が異教徒であったサルディナ出身のシンマクスを、親アタナシウス派はラウレンティウスを選び、それぞれバチカンとラテラノに拠点を置いて対立した。両派は衝突をくり返したが、東ゴート王国のテオドリック王(493~526。アレイオス派支持者)がシンマクスを選び、教皇として着座した(498~514)。しかし、ラウレンティウス支持者たちはなお10年間も抵抗した。

以後の教皇選挙も必ずと言ってよいくらい同じように派閥争いが続き、東方の皇帝やゲルマン人の王の介入を求めたり、その口実を与えたりした紛糾の連続であった。レオ1世とともに輝かしい功績を残したのは大グレゴリウス(1世)である。590年の彼の選挙については資料があまり残されていないが、ローマ市民を代表する聖職者と元老院によって一致して選ばれたようである。その彼もローマ貴族の家柄の出で、卓抜した行政官としての訓練も受けていた。さらに彼は教皇に選ばれた最初の修道士であり、ローマの教会の役職に修道士を好んで就けた。

 

カロリング朝フランク王国の台頭のもとで
西方ではフランク王国が台頭し、神聖ローマ帝国への道を歩み始め、ローマの教会ではフランク王国支持派が勢力を増し、聖職者の中のコンスタンティノポリス支持派と対立するようになった。767年、信徒であったコンスタンティヌスが教皇に選ばれ、同時にローマの公爵の称号を取ったとき騒動が持ち上がった。1年後の768年、より正統な手続きによってステファヌス3世(768~772)が選ばれた。対立教皇とされたコンスタンティヌスはラテラノ聖堂から引き出され、両目をくりぬかれ、投獄された。ステファヌス3世は教会会議を開いてコンスタンティヌスの選挙の無効を宣言させた。この時以来、教皇選挙はローマの聖職者全員が選挙権をもつが、被選挙人は枢機卿のみと定められた。しかしローマの貴族はまもなく選挙権を取り戻し、1059年までそれが続いた。

その次に、ローマの聖職者によって一致して選ばれたハドリアヌス1世(772~795)の治世は長くおよそ24年にわたり、教皇庁がカール大帝(シャルルマーニュ、王として768~814)と密接な関係を樹立した時代であった。彼を継いだレオ3世(895~816)はローマ聖職者によって一致して選ばれたが、強力な反対派が生まれたため、カール大帝の宮廷に亡命し、その軍の保護下でローマに戻った翌年の800年、ローマを訪れたカール大帝にローマ皇帝の冠を授けた。続く二人の教皇の選挙は平穏に行われたが、824年の選挙はフランク支持派と反対派に分かれて激しく争われ、4ヶ月の硬直状態の後、カールの子ルートヴィッヒ1世(814~40)の調停でエウゲヌス2世(824~827)が選ばれた。

 

ニコラウス2世による教皇選挙改革 
962年からの神聖ローマ帝国時代には、教皇はいわば皇帝のローマにおける行政官となってしまい、その支持と任命を実質的に受けることとなった。ベネディクトゥス9世(1032~1044、復位1043~46、再復位1047~1048)の選挙の時ほど事態が混迷したことは珍しかった。皇帝冠を受けるためにローマに到着したとき、皇帝ハインリッヒ3世(1039~56)は3人も教皇がいることを発見し、全員を廃位させ、自分好みのクレメンス2世(1046~1047)を教皇座に着けた。彼は続く10年の間に3人の教皇を任命し、選挙の手続きを無視した。彼の子ハインリッヒ4世(1056~1106)は6歳で即位したため、皇帝側は教皇庁の支配権を失った。こうして皇帝の権力から独立して、教皇選挙制度の抜本的な改革を行うチャンスがめぐってきた。

11世紀半ば、イタリア半島の中央部で得た膨大な収入による財力により、教皇の地上的権力は神聖ローマ皇帝に匹敵するまでになっていた。1059年1月ブルガンディア出身のフィレンツェ司教ゲラルドゥスがローレーヌ公爵から送られた軍隊の支持を受けてローマに入り、ラテラノ大聖堂で教皇ニコラウス2世(1058~1061)として聖別式を行った。これはビザンティン皇帝の即位式の要素を取り入れたものであり、以後、教皇聖別式が選挙後の儀式となった。ニコラウス2世は1059年教皇選挙の手続きを決める教会会議を招集し、教令を発布した。その基本はステファヌス9世が、769年に選挙人をローマの聖職者に限り、被選挙人を枢機卿に限った改革の路線を受け継ぐものであったが、最も重要なのは一定の条件の下にローマ以外の人間も被選挙人として認めたことであった。教皇座に着く人物をローマ出身の聖職者以外にも求める可能性を認めることによって、教皇の全教会に対する普遍的権威を真剣に考え始めたことが窺われる。

ニコラウス2世は、シチリア島を含む南イタリアを支配していたノルマン王国と同盟を結び、神聖ローマ帝国の皇帝に対抗して教皇権の独立性を維持しようとした。その結果、以降の中世を通じて、イタリア半島における皇帝派と教皇派の紛争が長く続くことになる。特に教皇グレゴリウス7世(1073~1085)と皇帝ハインリッヒ4世の争いでは、「カノッサの屈辱」(1077年)でいったん教皇が勝利したように見えたが、ハインリッヒ4世は教会会議を招集してグレゴリウス7世を弾劾し、ローマを占領。グレゴリウス7世はノルマン王国に逃れてそこで没した。彼はローマの司教以外はパパの称号を使うことを禁止する勅令を発布し、教皇至上権の確立の第一歩を画したが、死後、彼が指名した3名の枢機卿の中から後継者が選ばれることを命じていたので、事態は紛糾し、改革派がヴィクトル3世(1086~1087)の選挙にこぎつけるまで1年を要した。

 

ローマ市民の反発と支持の間の教皇たち
1086年以後の歴代の教皇は修道士、修道院長出身であった。修道院長は純粋な信仰と行政能力に長けていると考えられたからである。モンテ・カッシーノの修道院出身で1086年選出されたヴィクトル3世はローマ出身ではなかったことから、ローマ市民の反発を受けてモンテ・カッシーノで没するが、その後継者としてフランス人司教枢機卿がウルバヌス2世(1088~1099)として教皇に選出された。これがニコラウス2世の定めた規定による最初の教皇選挙であったようである。ウルバヌス2世の治世は第1回十字軍の派遣によって知られているが、彼自身は十字軍のエルサレム占領の2週間前に没している。ローマで教皇選挙が行われ、パスカリス2世(1099~1118)が教皇となった。この教皇はローマ市民の反対に遭い、19年間の長い治世の終わりの数日前までローマの外にいた。

パスカリス2世の後継者ゲラシウス2世(1118~1119)の選挙も1059年の勅令通りに行われた。49人の枢機卿、ローマの聖職者、有力市民が一致して助祭枢機卿であった彼を選挙した。しかし、ローマ市では反対派の勢力が強かったので、選挙はラテラノ大聖堂ではなく、ある修道院で行われ、聖別式はナポリ近くのガエタで行われた。その後ゲラシウスはローマに戻ることができず、フランスに亡命し、1119年クリュニーで没した。

4人の司教枢機卿がゲラシウスとともにフランスに亡命しており、彼の意向を受けて現地で選挙を行い、カリストゥス2世(1124~1130)を選び、ローマの枢機卿たちの同意を得るために手紙が直ちに送られた。カリストゥス2世自身は自分の選挙の合法性について確信しており、ヴィエンヌ大聖堂での即位式の準備に直ちに取りかかった。14ヶ月たたないうちに、彼はローマに入り、ローマ出身でなかったにもかかわらず、熱烈に群衆から歓迎された。本来改革派であったが、グレゴリウス7世の遺産である帝国との敵対関係のしこりをもたず、皇帝ハインリッヒ5世(1106~1125)とヴォルムス協約(1122年)を結び、没する2年前までに教皇側に有利に叙任論争にけりをつけることができた。しかし、教皇選挙が規則に従って粛々と行われるという希望は砕かれ、ローマにおけるノルマン王国支持派貴族と、皇帝支持派貴族の党派対立が始まった。

 

枢機卿団による「閉ざされた部屋での選挙」(コンクラーヴェ)の始まり
しかしこの間、教皇選挙一般に今日に至る重要な仕組みが形成された。一つは、ローマの枢機卿たちはいわゆる枢機卿団意識を持ち始めた。「枢機卿団」という言葉は1148年に初めて使われた。枢機卿団は7人の司教枢機卿、ローマの主要な教会の数の28人の司祭枢機卿、18人の助祭枢機卿から成り立っていた。続く時代に枢機卿の数は減少し、20人以下になった。ローマ以外の司教が枢機卿に任命されるようになったが、司祭枢機卿と助祭枢機卿はローマの聖職者の独占物となった。さらに、教皇制は君主制の様相をますます呈し始め、その権威が増大していった。それとともに、教皇庁の官僚機構が整備され、枢機卿たちは教皇の顧問となり、法的問題に関与し、教皇勅令に名を連ねるようになった。一時期、「ローマ教会の元老院」が使われたが、後世まで続く名称は「クリア」である。1200年までに教皇が枢機卿を招集して行う枢機卿会議(コンシストリウム)が始まり、数人の教皇の下ではそれが毎日行われた。

具体的には教皇グレゴリウス9世(1227~1241)と皇帝フリードリッヒ2世(1215~1250)の争いが発端である。1240年までに二人の間に軍事衝突が頻発し、皇帝軍はローマを封鎖した。グレゴリウス9世は皇帝を弾劾するためにローマに教会会議を招集したが、皇帝軍はローマに来る枢機卿や司教を捕縛。グレゴリウス9世が没したときには12人の枢機卿しかおらず、うち2人は捕縛されていた。おきまりの親皇帝派と反皇帝派の争いが起こり、どちらの側も3分の2を獲得することができず、会議は夏の終わりの暑さの中で続いていた。ローマの政府の長官オルシーニは枢機卿たちを設備の充分でない建物に枢機卿たちと彼らの従者と共に閉じ込め、枢機卿が病気になっても医者が入ることを禁じた。一人の枢機卿が死亡し、ローマ市民が、亡くなった教皇の遺骸を暴くと脅かした結果、枢機卿たちは最初の投票で多数を獲得した人物を教皇にすることに合意し、ケレスティヌス4世(1241)が教皇となった。このときの選挙が「コンクラーヴェ」と呼ばれるものの最初であった。「コンクラーヴェ」(conclave)の語源は「クム cum +クラーヴェ clave=鍵とともに、鍵によって」である。このように「閉ざされた部屋」で選挙をすることが慣習となるのは30年後のことである。以後の教皇選挙はコンクラーヴェで行われ、今日まで教皇選挙の歴史はコンクラーヴェの歴史だということになる。

しかし、中世末の教会分裂の時代をもたらしたものはこのコンクラーヴェが機能しなかったことによる。1270年、クレメンス4世の後継者選びのコンクラーヴェはヴィテルボの宮殿で行われたが、紛糾し、長引き、ヴィテルボ市民は最後には聖霊が自由に働くためにと屋根を取り払ってしまった。もちろん、枢機卿たちはヴィテルボ市に聖務停止を執行すると脅し、仮の屋根がつくられたのだが、教皇選挙で聖霊が働くという考え方はこのとき初めて現れた。ヴィテルボ市民の行動の裏にはアンジュウ公とフィリップ3世がいたと見られていたが、フランシスコ会総長ボナヴェントゥラが、コンクラーヴェが早く結論を出すことを求め、シリアの十字軍で教皇使節であったテオバルド・ヴィスコンティを選ぶように勧告し、彼がグレゴリウス10世(1271~1276)として教皇に即位するまで、前任者が没してから40ヶ月もかかっていた。

 

グレゴリウス10世の定めた手続き
グレゴリウス10世は即位後、1274年のリヨン公会議で勅書『ウビ・ペリクルム』を発布してコンクラーヴェの手続きを定め、教皇没後10日後に行われなければならず、開催地は教皇が没した都市、その都市が聖務停止の罰を受けているならば近い都市で行われなければならないことを定め、該当の都市の行政官は選挙が適切に行われるように配慮しなければならないこと、コンクラーヴェのために隔離される枢機卿は、一人の召使い、必要な場合二人しか許されないこと、全員がカーテンで仕切られた一つの部屋で睡眠しなければならないこと、コンクラーヴェにはいった瞬間から互いに連絡してはならないこと、さらに食事についての細かい規定を定め、5日目以降パンと水と少量のブドウ酒に限られるように定められた。コンクラーヴェの間中、枢機卿たちは教会を守るため以外の仕事を一切禁じられた。枢機卿たちはコンクラーヴェの間収入を引き出すことが禁じられた。多少の変更があったものの、教皇選挙は1274年の形を維持することとなった。グレゴリウス10世没後のコンクラーヴェでインノケンティウス5世(1276)が選ばれ、このときの選挙は模範的とされたが、これはむしろ例外であった。選挙のたびにフランス王や強力なローマ貴族の利害が衝突して選挙が長引き混迷することが多かった。

そのなかでも、ボニファティウス8世(1294~1303)は、教皇の力と富と威信を享受した人物であった。その即位の直後からボニファティウスの選挙は無効だとする主張が広まった。フランス王フィリップ4世(1285~1314)がイングランドとの領土争いで戦費が必要になり、フランスの聖職者に税金を課したとき、ボニファティウス8世は教会会議を開いて教皇の許可なくして聖職者に課税できないと宣言させた。1301年フィリップは一人の司教を反逆罪で投獄したとき、ボニファティウスは教皇の権威が現世の君主のものを超えると宣言する勅書『ウナム・サンクトゥム』を発布した。

 

アヴィニョン教皇時代から西方教会大分裂へ
ボニファティウスの後継者、ベネディクトゥス11世(1303~1304)が早く没したのちのコンクラーヴェは一年も続き、枢機卿の中で候補者を絞れず、フィリップ4世が承認したボルドー大司教ベルトラン・デ・ゴットが選ばれ、彼はリヨンでクレメンス5世(1305~1314)として即位した。クレメンスはローマ居住の義務をなかなか果たさず、1309年にようやくローマに向かったが、病を得てアヴィニョンに留まることになった。こうしてアヴィニョン教皇の時代が始まる。

その70年間のあいだ136名の枢機卿のうち112名がフランス人であった。アヴィニョンはプロヴァンスにあったのでフィリップ4世の領土ではなく、教皇の臣下ナポリのシャルル王のものであり、1229年以来教皇に寄進されたヴェネサンに隣接していた。クレメンス5世が同地で没したとき、コンクラーヴェが初めてイタリア以外の場所で行われた。以後、度重なるローマ市の要請にもかかわらず、ローマの群衆による暴動を枢機卿たちは恐れ、コンクラーヴェはアヴィニョンで行われた。

これまで122年間、教皇の61パーセントはローマ以外の都市であったが、アヴィニョン時代の教皇がローマ司教でありながら、帰還の意図をまったく示さないことは教会にとってスキャンダルであった。グレゴリウス11世(1370~1378)はシエナのカタリナの言葉に動かされてローマに帰還したが、健康を害して没した。彼の遺言によって教皇選挙は党派的衝突を避けるためにローマの外で、しかも度々場所を移動してもいいとの指示によって行われた。しかしコンクラーヴェはローマ出身の教皇の選挙を要求する群衆の叫び声の喧噪の中バチカンで行われた。枢機卿たちは妥協策としてバリのイタリア人大司教バルトレメオ・プリニャーノを選び、彼はウルバヌス6世(1378~1389)と称した。ローマ出身者でない人物が選ばれたと聞いた群衆は暴徒化し、枢機卿たちの宮殿、特に新教皇の宮殿を略奪した。しかし枢機卿たちが彼の指示を拒絶したとき、ローマ市民は彼の支持にまわった。ウルバヌス6世は激しい気性で、2ヶ月以内に12人の枢機卿がローマを逃げ出し、残ったのは4名だけになった。その後、3人も逃げ出し、1378年8月2日、枢機卿たちは選挙の無効と教皇座の空位を宣言し、ウルバヌスに対して教皇の称号を用いないように要求した。彼らはフォンディで選挙を行ったが、3人のイタリア人枢機卿はフランス人枢機卿の策略にはまって欠席し、ジュネーヴ大司教枢機卿がフランス人枢機卿によって選ばれ、クレメンス7世(対立教皇 1378~1394)と称した。

ウルバヌスとクレメンスは互いに相手とそれぞれの側の枢機卿を破門し会い、クレメンスは自分の枢機卿を新たにに任命した。ウルバヌスはローマ市民の支持を得て、教皇座を明け渡す意志を示さなかったので、クレメンスはアヴィニョンに教皇座を占めた。両方の側に正統性の根拠があった。二人の没後、両方の側の枢機卿はそれぞれの教皇を選出した。こうして以後、西方教会における教会大分裂の時代が続く。

 

改革公会議の時代
この大分裂が収拾されるのはコンスタンツ公会議においてである。それまですでにローマの教皇を正統な教皇のリストにあげる伝統が確立していた。コンスタンツの都市の商人たちの倉庫でコンクラーヴェが開かれ、説教、「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」(創造主である聖霊来てください)が歌われた後、これまでで最大数の50人による選挙が行われ、有力なローマの貴族の家柄で、教皇を出してきたコロンナ家のオドンネが選ばれ、マルティヌス5世(1417~1431)と名乗った。ローマ市は荒廃していたが、以後、教皇はローマに居住することになり、自分からはけっしてローマ市以外に居を構えることがなくなった。マルティヌスに始まり、20世紀後半にヨハネ・パウロ2世が登場するまで、教皇はイタリア人でなければならないとする強力な伝統も生まれた。

コンスタンツ公会議は、公会議によって教皇の権力を拘束しようとした公会議至上主義によって知られている。マルティヌスの跡を継いだのはエウゲヌス4世(1431~1447)であった。彼はコンスタンツ公会議の間、公会議至上主義の枢機卿たちのリーダーだったが、教皇に選ばれるやいなやその立場を変え、公会議の敵となった。彼はバーセルに招集された公会議をフィレンツェに移すように提案したが、バーセルに残った参加者たちが彼を廃位し、サヴォイの前の公爵をフェリクス5世(対立教皇)として選出した。エウゲヌス4世の功績はバーゼル公会議に対抗してカトリック君主たちを味方につけるために、枢機卿団をスペイン人4人、フランス人2人、イングランド、ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ポルトガルそれぞれ1名というように初めて国際化したことである。

エウゲヌス4世の死後ニコラウス5世(1447~1455)が教皇になった。対立教皇フェリクス5世は枢機卿に任命されたのち没し、それによって対立教皇は消滅した。ニコラウスの死後、15人の枢機卿がバチカンにコンクラーヴェのために集まり、以後6回を除いて現在までバチカンがコンクラーヴェの場所になった。この時以来、コンクラーヴェの規則や設備は実質的には変わっていない。枢機卿が連れてくることを許される随員がはっきりと定義され、他の枢機卿と話すことが許されていない枢機卿のために他の枢機卿の随員を通して接触する、秘書というよりも助言者的人物とはっきりこの時規定された。

 

ルネサンス時代から現在へ
しかし、教皇をめぐる駆け引きや混迷が終わったわけではない。ニコラウス5世の死後の選出は長引き、77歳のスペイン人アルフォンソ・ボルハが暫定的に枢機卿たちの合意で教皇となり、カリストゥス3世(1455~1458)と称した。彼の死によってコンクラーヴェが行われ、カリストゥスによって任命された人文主義者アエネアス・シルヴィウス・ピッコリミニが教皇となってピウス2世(1458~1464)となった。

彼が教皇の座に着いたことはコンクラーヴェがルネサンス時代に入ったことを意味する。以後の教皇選挙には、イタリア貴族家間の教皇座の奪い合い、オスマン・トルコの脅威、ドイツ、オーストリア、スペインにまたがるハプスブルク家の神聖ローマ帝国とフランス王国の外交的あるいは軍事的圧力が、宗教改革とバロック時代を通じて加わった。

啓蒙主義から19世紀にかけては、コンクラーヴェに集まった枢機卿にはそれぞれの出身国、特にフランスとオーストリア政府の意向が反映し、調停がつかなかった時にはコンクラーヴェは長期に渡った。コンクラーヴェが今日のように公明正大に新教皇を選挙できるようになるのは19世紀末から20世紀になってである。ちなみに、新教皇が選出されたかどうかを告げるための黒い煙、白い煙の習慣は1294年頃始まったが、明確化したのは1823年のレオ12世(1823~1829)選出の時以来の比較的に新しい習慣である。

 

現在
ピウス10世以後、教皇選挙の手続きは厳格に規定された。パウロ6世はコンクラーヴェに参加する枢機卿の年齢を80歳以下とし、ヨハネ・パウロ2世は1996年の使徒座憲章によって教皇選挙手続きを詳細に規定した。従来慣習の抜本的な変更として、投票数の3分の2の秘密投票によって新教皇を決定することが明記された。さらにコンクラーヴェの内部の事柄について厳重な秘密厳守を、違反したときは破門の罰に処すると命じた。これによって教皇選挙はスピードアップされることになった。ヨハネ・パウロ2世は、盗聴が行われることを警戒し、念入りに探索するように命じたほどである。21世紀になっての最初のコンクラーヴェはヨハネ・パウロ2世の改革をもとに、かつ同教皇の終焉が予想されていたため、新教皇選挙も準備ができており、ベネディクト16世も早々に選ばれたのである。

(高柳俊一/英文学者)

※教皇選挙の歴史については、『新カトリック大事典』(研究社刊)第2巻の項目「教皇選挙」も参照のこと。


ミサはなかなか面白い 54 「いま聖霊によってこの供えものを……」

「いま聖霊によってこの供えものを……」

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答五郎 こんにちは。前回は、ようやくという感じで、第2奉献文に入り始めたね。そのほんの最初の、「父よ」にかかわる表現だけでもいろいろ見どころがあっただろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。聞き流してしまうような句にも、神とはどういう方なのかについて考えさせるいろいろなことが含まれていました。

 

 

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答五郎 きょうは、早速というか、ようやくというか、続きを見よう。「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」。何か気になることはあるかな。

 

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問次郎 「とうといものにしてください」は、前の「まことにとうとく」と同じようなことでしょうか。
「とうとい」というのはつまり「聖なる」ということだと……。

 

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答五郎 そう理解していいね。ここの前半の祈りはラテン語の原文だと、さらに面白いので見ることにしよう。“Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica”となる。
「とうといものにしてください」と訳されている「サンクティフィカ」は、「聖なるものとしてください」「聖としてください」「聖化してください」とでも訳せる動詞だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「いま聖霊によって」という「いま」が重要だと感じていたのですが、それはありますか。

 

 

124594

答五郎 実は「いま」を意味する直接の単語はここにはないのだよ。あるのは「エルゴ ergo」という接続詞でね。「それゆえに」「したがって」という意味だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 なるほど、神はまことに聖なる方で、すべての聖性の源である方だから、それゆえに、この供えものを聖なるものにしてくださいという、関連が示されているのですね。

 

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答五郎 ただ、日本語で「それゆえに」とか入れると、論述ではいいのだけれど、式文ではふさわしくないと思われたのかもしれないね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ところで、気になったのですが、原文に「霊」はあっても「聖霊」とは言われていませんね。

 

 

124594

答五郎 たしかに「聖霊」でなく、「あなたの霊」となっている。結局は聖霊のことだから「聖霊によって」としていると思う。ところで、日本語に訳されていない単語(rore)があって、直訳すると、「あなたの霊のしずくによって聖なるものとしてください」と言われているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「しずく」ですか! 美しいですね。それに前の句の「聖性の源」が「聖性の泉」とも訳せる単語だったことを思い出します。

 

 

252164

問次郎 泉としずく。水つながりか!

 

 

124594

答五郎 実はこの「しずく」にはもっとほかにも深い意味が隠されているのだけれど、それについては、このAMORの特集9「聖霊」の中に「聖霊のしずく」という記事があるので参照してほしい。ともかく「まことにとうとく」から始まり、「とうといものにしてください」まで、「聖なる」ということがテーマだということは確かめておこう。

 

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問次郎 つまりは聖体に関係するわけですね。次が「わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」ですから。

 

 

124594

答五郎 そうだね。ちなみに、このように聖霊の働きを求める祈りを「エピクレーシス」という。ギリシア語で、上に向かって叫ぶ、祈るというところから来ている典礼学の用語だ。まあ、覚えなくていいのだけれど、奉献文の伝統的な要素の一つなのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 さきほど、原文には「いま」という単語はないといわれましたが、結局、聖性の源である神から
の霊が、いまここで働くように祈るという趣旨からすると、「いま」というのも、とても大事な意味合いを表現しているのではないでしょうか。

 

124594

答五郎 ほう。日本語の式文を作った先輩たちが泣いて喜びそうだ。たしかに働きを願う以上、いま、ここでの働きだからね。これも、ちなみになのだけれど、ここは「聖別」のためにエピクレーシスともいう。「聖別」ってわかるかな。

 

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問次郎 いままさにいわれた「とうとういものにしてください」、つまり「聖なるものにしてください」「聖体にしてください」ということですよね。

 

 

124594

答五郎 ズバリそうだよ。「聖別」 というと、日本語として硬いし、「別」って何とも言われそうだけれど、要するに「聖なるものとする」「神のものとする」という意味だと覚えておけばよい。ラテン語ではコンセクラチオだ。いろいろな文脈で使われる単語だけけど、奉献文の中では、たしかに「聖体にする」という意味で、パンとぶどう酒が聖体になるのには、聖霊の働きが必要だという考えが示されているところでもあるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 第3奉献文も、比べて見ているのですが、ここですね。「あなたにささげるこの供えものを、聖霊によってとうといものとしてください。御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」

 

252164

 

問次郎 「御からだと御血になりますように」というところで、司祭が十字架のしるしをしていて、重々しく、大切なところなのだという気持ちが高められますね。

 

124594

 

答五郎 そして、次にいわゆる聖体の制定と呼ばれる叙述に入っていくから、だんだんと重々しさが加わっていく。そういう祈りの情調の深まりを感じることも大事だね。次回はその制定の叙述を見てみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 53 「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

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答五郎 さて、いよいよ狭い意味での奉献文を見ていくことにしよう。「感謝の賛歌」が「天のいと高きところにホザンナ」という句で終わって、いよいよ、ひとまとまりの長い祈りを始めるところだ。

女の子_うきわ

美沙 何かとてもあらたまって、厳粛に感じられるところですね。

 

 

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答五郎 その感覚はどこから生まれるのか。ここで行われることの大切さ、深さといったものを感じさせ
るところだね。それは見学しているだけでも感じられるだろう。では、はじめの一括りの祈りを、問次郎くん、読んでもらえるかな。

 

252164

問次郎 はい。「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」ですね。

 

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答五郎 ぜひ味わってほしい。まず冒頭の父である神への呼びかけの部分「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」だ。ここで示されていることは、奉献文全体が、父である神に向かう祈りであるということだよ。

 

252164

問次郎 それはわかりますが、「父よ」を修飾する句が、少しわかりにくいですね。「まことにとうとく」というのは、「ほんとうに大切な」という意味でしょうか。それに「聖性」(せいせい)という言葉も抽象的な感じがします。

 

124594

答五郎 それは正直な疑問だと思うよ。自分も長い間同じように思っていた。「とうとい」は、普通漢字で書くと「貴い」や「尊い」だから、大切なとか、尊重されるべき存在を連想するだろうね。だが実は、ここにも日本語訳の問題があって、ここの意味を味わうには、ほんとうは原文を見る必要が出てくるのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「とうとい」を平仮名にしているところに意味があるのではないかしら。

 

 

124594

答五郎 ともかくここの原文は、“Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis.”となっている。はじめの「とうとく」はサンクトゥス、聖性と訳されている言葉もそれに関連するサンクティタスだよ。今は「聖なる」と訳されることばを、かつて「とうとい」と訳していたことがあって、それが使われている部分といえる。ちなみに、「源」と訳されていることばは直訳だと「泉」で、つまり「源泉」と訳してもよいようなのだよ。つまり「主よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉です」というのが、現代語風の直訳になる。

 

女の子_うきわ

美沙 ということは、直前の「感謝の賛歌」の賛美の調子が続いていることになりますね。「聖なるか
な、聖なるかな、聖なるかな」と歌っていた流れが受けられているのですね。

 

124594

答五郎  まったくそうだ。神の聖なるあり方を実感して、重ねた賛美しているという句になる。

 

 

252164

問次郎 「聖なる」というのはどういうことなのでしょうか。

 

 

124594

答五郎 キリスト教ではいろいろなところで、この「聖なる」ことが神についていわれる。主の祈りでもそうだろう。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」とね。「聖」であることは、神とはどんな方かを示す重要な側面なのだが、ことばでは説明しにくいかな。

 

女の子_うきわ

美沙 厳かさとか、清さとかを感じて聞いていますが。

 

 

124594

答五郎 人間を超えた存在という意味もある。この言葉で神に呼びかけるということは、なにか人間を超えた、深く、高い存在を感じていることの表れであり、畏れ多い気持ちとセットになっていることに気づかないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 ミサ全体の厳かさは、聖なる神への祈りだからなのですね。

 

 

252164

問次郎 神が聖なる方であるということは、人間を超えていて近づき難い、畏れ多い存在だということを
強調しているのでしょうか。

 

124594

答五郎 ところがね。キリスト教の神は、ただ、ひとり聖なる方で、人間が近づいてはいけないような方、「神聖不可侵」という言葉があるけれど、そのような触れられない方、近づけない方というわけではないのだよ。そのことを示すことばがこの最初の句の中にあるのだけれど。

 

女の子_うきわ

美沙 「聖性」ですね。神は、「聖性の源」「聖性の泉」ですから、他のいろいろなものも「聖」になるための源泉が神だということがいわれているのですね。

 

124594

答五郎 新約聖書のパウロの手紙の中で、たとえば、ローマの信徒への手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(1章7節)としばしば書かれている。キリスト者となった人たちは神によって、そしてキリストによって、聖なる者とされた人たちだということなのだ。

 

252164

問次郎 神は近づき難い方ではなく、神から人に近づいてきてくれて、人を聖なるものとしたということ
になるのか。

 

124594

答五郎 そうなのだよ! 神は、もちろん人間とは異なる、人間を超えた存在なのだけれども、近づき難い方ではなく、人間に近づいてきて、その聖性という本質を分け与えてくれたというところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるのだ。

 

252164

問次郎 神は、超えた方であるけれど、わたしたちの中に入り込んできた方でもあるのですね。遠いのに近い……逆説的なのに、なにか深い感じもします。

 

124594

答五郎 そこで、聖霊の働きということが出てくるのだよ。それは次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』

バチカン市国サン・ピエトロ大聖堂を訪れたことのある人ならば、すぐに思い出すあの独特な制服をまとった衛兵たち。スイス衛兵として知られているが、なぜ、彼らがその役割についているのか……500年に及ぶその歴史を説く書を紹介しよう:

ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』
Robert Royal, The Pope’s Army: 500 Years of the Papal Swiss Guard (New York: Crossroad, 2006), xi+210 pages.

本書は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でだれもが目にする、あのスイス衛兵の歴史を取りあげている。彼らの本当の任務は儀式の華麗さを際立たせるためのものではなく、文字通り教皇を守ることにある。教皇は現在と違って19世紀末のイタリア統一まではイタリア各地に領土をもつ世俗君主でもあった。これらの領土を守るために教皇は君主として傭兵を抱えていた。歴史をたどると、スイス人衛兵隊は中世末の対立教皇の時代から宗教改革後のヨーロッパの国際政治情勢の中で弱体となった教皇の地位を再び高める政策の一環としてユリウス2世(在位年 1503~1513)によって結成されたものである。

枢機卿としてスイス傭兵の優秀さを知っていたユリウス2世はスイス政府に200人の傭兵隊がほしいと頼み込んだ。傭兵に対する報酬、贅沢品、略奪品の分け前という点で教皇庁は不利に立たされたが、150人限定で傭兵募集が認められた。ユリウス2世は150人のスイス護衛隊をパヴィアの戦闘で中核として投入し、勝利を得てミラノを占領した。この時、教皇はスイス人護衛兵たちを公に「教会の自由の守護者」と宣言し、教皇の鍵と教皇領の紋章の旗と自分の家であるロヴェーレ家の紋章の付いた旗を与えた。彼が死の床でスイス衛兵隊について「彼らは余に奉仕し、ローマ教会の信仰が今日あるようにしてくれた」と語ったとされている。

【さらに読む】
ローマ略奪(1527)を経て定着

ユリウス2世の次の教皇レオ10世(在位年 1513~1521)は、オスマン帝国の勢力拡大に脅威を感じ、スイスに1万3000の兵力を派遣するように要請した。スイス政府は一万まで承認したが、神聖ローマ帝国皇帝の選挙が間近いことがあって実際には兵力を送らなかった。レオ10世の死去とともにオランダ人の教皇ハドリアヌス6世が即位したが、彼が目指した教会改革はまったく実現せず、その死後の教皇選挙では、フランスに支持されたメディチ家出身のクレメンス7世が1523年に選ばれた。その頃までにローマは美しい姿を取り戻し、有力貴族の館ができ、ピアッツァ・ノヴァのサピエンツィア大学の建物がミケランジェロの設計に基づいてラファエロによって完成された。しかしクレメンス7世は、神聖ローマ帝国皇帝と対立し、戦争となる。皇帝は北イタリアのパヴィアでフランス軍を打ち破り、フランス王を捕虜としたのち南下してローマを占領した。ローマ市は1526年と1527年の2度にわたる略奪を受ける。教皇はカステロ・サンタンジェロ城に逃れ、籠城した。ことに1527年の略奪は熾烈を極め、クレメンス7世は囚われる寸前にバチカンから42名のスイス衛兵に守られて、ほうほうの体で城に逃げ込んだ。スイス衛兵隊はスペインとドイツの傭兵からなる皇帝軍との戦いで、この一日の戦闘だけで隊長を含む4分の3の兵力を失った。華麗なルネサンス都市の容貌は変わり果て、ローマ市民はこの大殺戮・略奪の間、恐怖のどん底に陥れられた。クレメンス7世は、7ヶ月間籠城したのち、農夫に変装して抜け出し、ローマの北のオルヴィエトに逃れた。彼はそこで偶然、英国のヘンリー8世から派遣された使節と出会った。自らの離婚に関する件でのことである。1530年、和議が成立し、教皇はスイス衛兵に守られてボローニャに赴き、カール5世の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式に出席した。

他国介入に対する抑止力として

クレメンス7世の後継者パウロ3世(在位年1534~1549)は、フィロナルディ枢機卿の強い勧めで、やっと1537年、スイス衛兵隊再建に乗り出した。枢機卿がこれを勧めたのは、オスマン帝国に対する備えと当時強力な軍事力をもつスイスとの結びつきがあれば、他国が教皇庁に圧力をかけることを抑止できるという理由からであった。この背景には、ローマ略奪の悪夢から解放されるために教皇庁が取った施策があった。クレメンス7世は皇帝軍がローマを去ったあと、ミケランジェロをローマに呼び、システィナ礼拝堂の最後の審判の仕事を完成させた。それはあたかも略奪時のローマ市民の苦難を反映しているかのようであったが、後任のパウロ3世にとっては悲劇の記憶の浄化となった。1546年、パウロ3世は、ドイツ兵にかわって、スイス人兵士を護衛部隊として望むことを表明し、おりしもローマに滞在していたスイス軍人フォン・メッゲンにそれを依頼した。ルツェルンの市長だったメッゲンは、人文主義者で、中近東での軍事経験のあった甥のヨストを司令官候補として推薦した。ヨスト・メッゲンは有能な司令官であると同時に外交官であり、教皇庁とカトリック諸国の絆を強めさせ、カトリック改革の推進役を果たした。彼のもとでスイス衛兵隊は安定期に入ったのである。

フランス革命とナポレオンの時代の変遷

教皇庁がフランス革命政府とナポレオンとの対応に苦慮する時代を迎える。ローマは革命軍に占領され、革命軍は不人気にもかかわらず共和主義を押しつけ、市民は反発した。ピウス6世、7世ともにローマから連れ去られて幽閉され、不利な政教条約を押しつけられた。この時期の革命政府によってスイス衛兵隊は解散させられた。しかし、ピウス7世がローマに帰還すると、スイス衛兵隊の再建を企図した。ローマにはまだ36人の元衛兵と5人の隊長が残っていたので、この仕事は簡単であった。ナポレオンはローマをフランス帝国の「自由な帝国都市」にし、教皇と教会を支配下に置こうとしていた。1809年、フランス軍司令官ラデ大佐の指揮でフランス軍がクイリナーレ宮殿に現れ、ピウス7世を幽閉所に連れていったが、その時、彼は無駄に血が流されないよう、スイス衛兵に武装解除を受けることを命じた。1814年、ナポレオン帝国が崩壊し、教皇がローマに戻ったとき、スイス衛兵隊は直ちに再建された。

イタリア統一から現代まで

1870年、北部からイタリア統一軍がローマに進軍してきたのは、ちょうど第1バチカン公会議の開催時であった。教皇の不可謬性についての決議後の状況下、教皇ピウス9世はスイス衛兵隊に統一軍が城壁を破った際には降伏するように命じた。領土を失い、サン・ピエトロ大聖堂周辺のわずかな土地に閉じこもる「バチカンの囚人」になることによって、かつての教皇領とローマ市の実効支配はイタリア王国に移ったが、教皇がそれらに対する主権を放棄したのでなく、事態はいわゆる「ローマ問題」として残存した。1929年にムッソリーニ政権との間でラテラノ条約が締結されたことで、教皇はそれらの領土権の主張を放棄し、正式にバチカン市国が成立する。教皇の夏の別荘であったクイリナーレ宮殿は、王宮から第2世界大戦後は大統領官邸に変貌する。ラテラノ条約締結後、スイス政府はスイス衛兵隊が外国の軍隊でなく、単に警察力でもなく、誰でも衛兵となるために政府の許可を必要としないと宣言した。しかしバチカン市国はれっきとした主権国家であり、教皇所有の土地は治外法権の下に置かれた。

教皇の身辺警護とバチカン市国領域の警護がスイス衛兵隊の最大の使命となったのは、第2次世界大戦後半のナチスドイツ軍のローマ占領期間であった。バチカン上層部とスイス衛兵隊幹部はナチス政権が教皇ピウス12世を拉致しようと試みた場合、どうしたらよいかと憂慮していた。すでに連合軍がローマに迫りつつあった1944年3月12日、ピウス12世は教皇在位5周年を祝っていた。ファシスト政権の集会禁止令は及ぶことなく、サン・ピエトロ広場には数万の人々が教皇の演説を聴きに押しかけていた。バチカン当局は、イタリア解放戦線の地下組織が教皇演説終了と同時にドイツ軍撤退を要求するデモ行進を行う準備をしているとの情報を得ていた。広場の要所要所にバリケードを設け、スイス衛兵を配備することによって衝突は回避された。

1960年代、第2バチカン公会議には世界中から2000人以上の司教が集まることとなり、警備が最大の問題となった。パウロ6世は、スイス人衛兵隊を除く他の警備隊を1970年に廃止したため、警護のすべての責任がスイス人衛兵隊の責任となった。しかしパウロ6世がこのことを発表する直前の1970年12月アジア歴訪の旅で、マニラを訪れたとき、ある人から刀で斬りつけられた事件があったばかりであった。スイス衛兵隊はそれから近代的組織に生まれ変わったが、それでも今度は1981年サン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2に対する暗殺未遂事件が起こる。教皇の警備という任務がますます現実性を持つことになった一面である。こうしてスイス衛兵隊の任務は、表面的には伝統的な儀式を華麗に彩るところにあるが、各国情報機関と緊密に協力・連携して教皇を警護する役割も持つようになっているのである。

(高柳俊一/英文学者)


ミサはなかなか面白い 52 奉献文の「文」って何?

奉献文の「文」って何?

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答五郎……季節はもはや初夏という感じだね。ミサの「感謝の典礼」に入ってだいぶなるけど、きょうからいよいよ、狭い意味での「奉献文」という部分に入ろうと思うのだけれど……。

 

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問次郎……すみません。いきなり質問なのですが、狭い意味の「奉献文」と広い意味の「奉献文」について確認させてください。

 

 

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答五郎……ちょっとややこしい感じがするかな。広い意味の「奉献文」とはミサの式次第の中の「感謝の典礼」の中で、これが「供えものの準備」-「奉献文」-「交わりの儀」から成るというときの真ん中の部分を指している。

 

女の子_うきわ

美沙……冒頭の対話句、叙唱、そして「感謝の賛歌」も、式次第としては「奉献文」に入るのですね。

 

 

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答五郎……そう。そして「感謝の賛歌」が終わってから、ようやく狭い意味での「奉献文」という、ひとまとまりの祈りが始まる。たとえば、「まことにとうとく聖性の源である父よ、……」とね。

 

女の子_うきわ

美沙……あっ、第2奉献文ですね、いちばんよく聞きます。ほかに第1、第3、第4というふうに数で呼ばれる奉献文が全部で4つあるのですね。

 

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答五郎……1970年に今のミサが始まったときに奉献文はこの4つになったのだよ。その後いくつかの奉献文が加わっているけれど、基本はこの4つで、ふだんは第2奉献文か第3奉献文が読まれるだろう。

 

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問次郎……狭い意味、広い意味の区別はわかってきましたが、「奉献文」がどうして「文」というのかが疑問です。式次第の一部なら行為を表しているほうが自然です。「準備」とか「交わり」とか。

 

女の子_うきわ

美沙……私も気になっていました。唱えるというか、全体が歌われますよね。全体が大きな祈りですね。
それなのに、なぜ文字で書かれたものを指す「文」というのかしら……。

 

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答五郎……率直な質問だし、考えるべき問題だと思うよ。信者さんたちは慣れているところがあって、この部分で行われていることがミサのもっとも重要なところだということは経験的に知っている。式次第では「文」と書かれていてもあまり気にしない人が多いかもしれない。

 

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問次郎……外からミサを見学したり、式次第を見たりして学ぶ僕らには、やはり呼び名は気になります。

 

 

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答五郎……では考えていこう。まず「奉献文」は日本語のミサ典礼書を作る段階で考えられた呼び名だ。

 

 

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問次郎……もとはなんという言葉なのですか。

 

 

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答五郎……「プレクス・エウカリスティカ」という。「エウカリスティアの祈り」、直訳すれば「感謝の祈り」だけれど、「エウカリスティア」にはたくさんの意味があって「感謝のいけにえ」 「感謝のささげもの」という意味合いがここでは重要だ。なので「奉献」をメインに訳したのにはそれなりに意味がある。ギリシア語圏の教会で古来この祈りが「アナフォラ」(ささげもの・奉献)と呼ばれてきていることも参考にしたといわれている。

 

女の子_うきわ

美沙……では、「奉献の祈り」と呼べばいいのに、どうして「奉献文」なのでしょうか。

 

 

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答五郎……これは推測なのだけれど、昔、ミサがまだラテン語で行われていた時代には、ミサの式次第や祈りの内容を翻訳して信徒が読めるようにした『ミサ典書』があった。その時代は奉献文が一つで「カノン・ロマーヌス」と呼ばれるものだった。これを「ローマ典文」と訳したことがあったらしい。今でいう「第一奉献文」のことで、今も「ローマ典文」が副称として残っている。そのように「典文」と呼ぶ例があるので「奉献文」という言い方が生まれたのかもしれないのだ。

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問次郎……「カノン」ということばの意味は何ですか?

 

 

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答五郎……「カノン」というのは基準とか規範といった意味のラテン語で、いろいろなところで使われている単語だ。教会法もカノンというぐらい。ミサの中でのこの祈りの典範といったニュアンスだ。典文という訳語も適切だろう。もっとも、もっと昔にはラテン語でもさまざまな呼び名があったようで、オラツィオ(祈り)もあれば面白いのはアクツィオ(行い)という呼び名もあった。

女の子_うきわ

美沙……ラテン語で行われていた時代は、司祭がミサ典礼書のこの典文を唱えていたと聞きました。だとすると「文」としてもよかったのかなと思います。

 

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答五郎……実は唱えるというよりも、声を出さない沈黙の祈りとして唱えていたらしい。

 

 

女の子_うきわ

美沙……ええっ? ますます今とは違いますね。今は、信徒たちもと最初から全部聞きますし、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるところでは一生懸命司祭のことばに聞き入ってうやうやしく礼拝を一緒にしますよね。ほんとうに「祈り」だし「行い」だという気がします。

 

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問次郎……たしかに、ミサでもっとも緊張するというか厳粛な気持ちにさせられるところです。

 

 

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答五郎……そこまで感じ取ってくれているとは素晴らしい。たしかに「文」どころではないね。奉献文そのものを味わっていくと、ここで行われていることの豊かさもわかってくる。それを一つの名称にまとめるのは至難のわざなのだ。それを踏まえると、全体としてはひとまとまりの祈りという意味で「文」といい、その内容を「奉献」ということばで示すのは、言葉の限界を考えたら次善の策だったといえるかもしれない。

 

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問次郎……奉献文は「文」にして「文」にあらず。少し謎が残ったほうがよいということですかね。

 

 

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答五郎……では、その豊かさを、次から、まず第2奉献文、続いて第3奉献文を見ながら調べていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 51 主の栄光は天地に満つ!

主の栄光は天地に満つ!

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答五郎……こんにちは。前回は、叙唱から感謝の賛歌へ移っていくところで、「天使」が登場してくるということについて考えたね。

 

 

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問次郎……はい、天使が基本的には神の使いであるということ、また、黙示録などに出てくる神を賛美する不思議な生き物の存在もその系譜も入っていることを見ました。神のもっとも近くにいて、神を賛美したり、神の意志を人に伝えたりする存在ですね。

 

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答五郎……「天使」と聞いて、神話とか伝説の表現法というだけでないことがわかるだろう。

 

 

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問次郎……でも、あくまで、伝統的表現をミサは継いでいるということなのではないですか。

 

 

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答五郎……ある種、古代的な表象ではあっても、現実に関係しているのではないかと思うのだよ。

 

 

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問次郎……でも「わたしは神の使いです」といって現れてくるような存在はないですよ。あったら変人というだけでしょう。

 

 

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答五郎……そうではなく、たとえば、人が語ってくれた何らかの言葉が自分の心に深く響いて、自分を変えるきっかけになったということなどないだろうか。

 

 

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問次郎……なきにしもあらずです。何だったかは言えませんが。

 

 

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答五郎……何かを言われて、心に残り、自分にとっていい意味で成長のきっかけになった言葉。その誰かは、そのまま天使ではないけれど、そうして贈られた言葉は、「神のみ使い」のもたらしてくれたものと感じることができるのではないだろうか。言ったその本人は、全然覚えていないとか……。

 

女の子_うきわ

美沙……「あのとき、あなた、こんなこと言ってくれたわよね。嬉しかったわ」「ええ、そんなことを言ったかな?」的なことでしょうか。ドラマだけではなく、実際にもあるように思います。でも、天使とか、そういうふうに思ったことはないですけれど。

 

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答五郎……もちろん、天使を考えることは神を考えることだから、現代人が神を考えることが少ないとすれば、そうなるだろうね。

 

 

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問次郎……人の言葉でものすごく傷ついたときはどう言えるのですかね。

 

 

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答五郎……そういうときこそ「悪魔」とか「悪霊」とかを考える必要があるのではないかな。

 

 

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問次郎……ああ、そうか。それは事例が多そうです! 「天使」を考えることは「悪魔」や「悪霊」を考えることでもあるのですね。そうか、福音書にも多いですね。それでも、神話的というか……。

 

 

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答五郎……ここでは、あくまでミサの式文に「天使」が出てくるということのリアルさを考えてみてほしいのだよ。ミサに戻ろう。「感謝の賛歌」なのだけれど、前回、聖書のイザヤ書に出てくる賛美がもとになっているといっただろう。イザヤ書6章3節だ。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」です。

 

 

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答五郎……では、ミサの「感謝の賛歌」の同様の部分はどうなっているだろう。問次郎くん。

 

 

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問次郎……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ」ですね。

 

 

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答五郎……イザヤの言葉と似ているけれど、違うところがないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい、イザヤでは「地をすべて覆う」なのに「感謝の賛歌」では「天地に満つ」ですね。

 

 

 

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答五郎……イザヤでは、地上のすべてを覆う、そこを満たして余りあるように、主の栄光が考えられているのだけれど、ミサでは「天にも地にも満ちている」というように、主の栄光の偉大さがさらに全面的になって天までも満たしているように賛美されている。これは、教会で歌われる賛歌になったときに、変えられたというか新たにされた部分らしい。

 

女の子_うきわ

美沙……聖書の言葉がもとにありながら、典礼の聖歌で、考えが発展している場合があるのですね。

 

 

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答五郎……そうだね。そして、この文言どおり、ここで、まさに天上の典礼、つまり天使たちによってささげられている神への賛美と、今地上にある教会の神への賛美が合体しているというわけさ。

 

 

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問次郎……天上と地上、どうも、上と下というふうに空間的にイメージしてしまいます。

 

 

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答五郎……もっともだと思う。この宇宙時代、地球も天体の一つで、闇に輝く星だと知っているからね。結局「天」をどう考えるか、「神」をどう考えるかということだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙……さっきの話ですが、人の言った言葉が、どの人が言ったことかというよりも、その意味から影響を受けたということが大事だということでしたね。それが幸せなほうに働いたときに、そこには「神のみ使い」の働きが考えられるということですね。

 

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答五郎……少なくとも、そのように考えられるのでは、という提案だけれどね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それと似て、どこか、よその場所のことのように天上の典礼を想像しなくても、この式文や賛歌の言葉の意味を噛みしめ、味わう中に、天使もいるし、天上の典礼もあると考えられるのではないでしょうか。それが「感謝の賛歌」で、天上の典礼と地上の典礼のつながりがはっきりと示されるということなのだと思います。

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答五郎……美沙さん、どうしたの、とても深いことを言い当てている感じがする。まさに天使のささやきのようだよ。ともかく、そういったことは、心で感じ取るものではないかと思う。この話題はまたいつか出てくるだろう。次回からはいよいよ狭い意味での「奉献文」に入ろう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 50「すべての天使とともに」

「すべての天使とともに」

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答五郎……みんな、ご復活おめでとう! 隔週になってから毎回がずいぶん久しぶりな気がするけれど、元気だったかな?

 

 

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問次郎……一応、おめでとうございます。でも、どうして、ご復活はおめでたいのですかね。ご降誕もそうですよね。「明けましておめでとう」と意味が違うのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほんとだね。たしかに、自分も疑問に思ったことはあるし、「どうしてなのか」と真剣に考察するに値することだとは思うよ。でも、祝いたくなる気持ちもわかるのだな。今回はあまり突っ込まないことにして、今回のテーマはなんだったかな。

 

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問次郎……叙唱を見ていて、天使が出てきました。このことをちゃんと考えたいと思ったのです。

 

 

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答五郎……たしかにね。まず叙唱の具体例を聞いてみよう。復活の主日に唱えられる「復活 一」を、美沙さん、朗読してもらえるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの日に、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうとい大切な務めです。わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれたまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」

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答五郎……ありがとう。三つの部分があるのがわかるだろう。初めの部分は、「まことにとうとい大切な務め」という句が暗示するように、初めの対話句とつながっているところ。真ん中の文が、この日に祝われる神秘を述べるところで、中心的なところ。深いことが実に簡潔に述べられているだろう。そして「神の威光をあがめ」からは、続く「感謝の賛歌」への移行部だ。「感謝の賛歌」のことも目に入れて考えていく必要があるね。

 

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問次郎……そもそも天使がどうしてここに出てくるのでしょうか。

 

 

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答五郎……天使といって、背中に翼がついている何か子どものような存在をイメージしていなかな?

 

 

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問次郎……実は、そうです!

 

 

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答五郎……それは或る製菓会社の影響かもしれないね。それと「天使」という訳語が影響しているかもしれない。

 

 

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問次郎……天使のもとの言葉は何なのですか?

 

 

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答五郎……ラテン語はアンゲルス、ギリシア語のアンゲロスから来る。「使い」の意味、神の使いだから「み使い」と訳されることもあるけれど、「天使」というのもその意味だ。その役割は聖書から見ないとね。それに、絵で翼が描かれることが慣例とはいえ、そのもとも聖書にある。

 

女の子_うきわ

美沙……本質的なことは、神の「使い」であることなのですね。マリアへのお告げ、ヨセフへのお告げなどが思い出されます。空の墓でイエスの復活を告げた方も、そのみ使いと考えられます。

 

 

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答五郎……聖書には、そのようにして、神の意志や計画を告げ知らせてくれる存在のことがしばしば語られる。キリスト教にとって、どうして天使が大事かというと、主である神、父である神は、人間とコミュニケーションをする方だということが示されているからだと思う。神は人間と絶対的に違った存在ということもいえるけれど、いつも人間に関わる方でもある、絶対に他者なのだけれど、もっとも深く関わってくる方でもある、そこのところの橋渡しをするような役割を「み使い」つまり「天使」がしているのだね。

 

女の子_うきわ

美沙……それはわかりました。でもこの叙唱から感謝の賛歌に移るところは、神をほめたたえる存在としての天使ですよね。

 

 

124594

答五郎……おおっ、そうだね。神の意志や計画を告げる存在というだけでなく、神を賛美する存在としてここでは出ているね。このことを見るためには黙示録4章、5章あたり。とくに4章8節には神の玉座のまわりに翼をもつ四つの生き物がいて賛美の言葉を言い続けるのだけれど、美沙さん、読んで。

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。あっ、初めのところは、感謝の賛歌の初めのところそのまま!

 

 

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答五郎……もとをたどれば、預言者イザヤが見た幻の中で、主の座の前で「セラフィム」 という存在が主をたたえることばがあるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光、地をすべて覆う」。これも「感謝の賛歌」とほとんど同じですね!

 

 

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答五郎……また黙示録に出てくる翼をもつ四つの生き物のことは、預言者エゼキエルの召命のところで見た幻にも登場する(エゼキエル1章)。話があちこち飛ぶけれど、叙唱から感謝の賛歌への移行部分で、「すべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」ということの背景には、これだけ聖書の中での神賛美の伝統が前提になっているのだよ。わかりやすくいえば、天上の典礼と地上の典礼があって、地上で行われている今の教会の典礼は、天上の典礼と呼応するものであって、一緒に唱和しながら神を賛美しているという理解があるのだよ。

 

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問次郎……天上と地上ということは、レトリックだけではないということですか。でも、なんとなく神話めいていて、現代の人が理解するのは難しいのではないでしょうか。次回、またこのことを考えさせてください。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)