スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 40

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン(1)

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

 6時半起床、7時20分出発。ビジャレンテから緩い登りで880mのアルト・デル・ポルティージョの丘を越えてレオンに降りていく。まず国道沿いに町を出ると、分かれ道に久々にモホン(石の道標)があり右の田舎道に入った。ゴミ箱が設置されていてもあふれていたり草が茫々だったりだが、しばらくは昨日の国道歩きのような危険はない。4km先のアルカウエハの村には塔のそばにアルベルゲを兼ねたバルがあり、朝食にした。

さらにバルデラフエンテを抜け丘まで登りきる。ここに新しい大きな十字架があるはずなのだが見つけられなかった。レオン市内に入るには新しい自動車道路の通過がややこしかったが無事に巨大な青い歩道橋を渡って市内に入るルートを確認できた。入り口の道標には巡礼のコスチュームをつけたライオンが描かれていた。語感が似ているがレオンはローマ帝国がここに置いたLegion(軍団)から発した地名だそうだ。とは言えライオンはレオン王国の時代から国章にあしらわれレオンの象徴になっている。

ガイドブックや記録を読むと、マンシージャ・デ・ラス・ムラスからレオンまでの道があまりにも殺伐として危険だ、との苦情が多い。私たちもそのことは同感だが、さりとて巡礼の道がすべて快適で安全であるはずはない。現代は現代なりの危険も不快も受け入れなければなるまい、と思い直した。そもそもエル・カミーノは命懸けの道だったのだから。これまでの旅の中でいくつもの墓標に出会った。頓死(とんし:突然死ぬこと。急死)した人たちの屍を越えて道があると言えば大げさだが、饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)からまた引用すると、

「中世の西欧では巡礼に先立って遺言をしたため、司教から推薦状をもらい、施しをする金をもち、『もっと遠くへ(エ・ウルトレイア)!それっ!神はわれわれを助けたまう』と人々ははげましの言葉をかけ合って歩いて行ったのである。これはサンチァゴ・コンポステーラへの旅立ちの様子である……」

(「エ・ウルトレイア」は歌になっている。2回目の旅でログローニョのサンティアゴ教会に泊まった時、食堂の正面に五線譜と歌詞が大きく飾られていて夕食前に静かに合唱した)

巡礼路と周辺の文化的整備は進行中だ。今や世界中から多くの人(2010年は27万2135人)が訪れるが、1985年には2491人だった。バックパッカーとしてフランコ政権時代(1939~75年)にスペインを体験している章は、暗い抑圧された強烈な記憶と2015年に40数年ぶりに訪れた時の明るさとの対比に驚いたそうだ。1975年にフランコが死去するまで独裁体制の中で巡礼路がもてはやされることはなかっただろう。政治体制が整い開明化して外国からの巡礼者を迎え統計を取り始めるまでに10年かかったことになるが、その時点でも今の盛況ぶりを予測はできなかったろう。

車社会である現代なりの危険性はあるにしろ悲壮感はなく、人々は「エ・ウルトレイア」ではなく、ただ「ブエン・カミーノ(よい道程を)!」と挨拶を交わす。でも昨年の旅でブルゴス手前の難所モンテ・デ・オカ(1162m)を越えた時、まだ薄暗い丘の上に現代のモニュメントを見た。フランコ政権時代に殺害された人々の遺体が埋められた跡に建てられた哀悼と平和への祈念を表す碑だ。エル・カミーノは信仰だけを感じさせるのではない。良くも悪くもスペインの様々な時代が厚く降り積もり、歩く者の心を刺激する。

 


アート&バイブル 3:ひわの聖母

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ『ひわの聖母』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(生没年1696~1770)はルネサンス最後期の画家であり、18世紀のイタリアを代表する偉大な画家として知られており、またルネサンス期の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠とも呼ばれています。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ作『ひわの聖母』(1760年頃、ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵)

ティエポロは、1696年3月5日にヴェネツィアに生まれました。6人兄弟の末っ子で、父親は船乗りでした。修業時代は歴史画の大家であるグレゴリオ・ラッザリーニ(生没年1655~1770)に師事しますが、セバスティアーノ・リッチ(生没年1659~1734)やジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(生没年1682~1754)の影響を強く受けました。1719年にはフランチェスコ・グアルディ(生没年1712~1793)の姉妹と結婚しています。1751年まではヴェネツィアで活躍、その後、ヴュルツブルク、ヴィチェンツァで活動したのち、1762年、スペイン王カルロス3世(在位年1759~1788)に招かれて以後マドリードで活躍します。

ティエポロは稀代のフレスコ画の名手であり、瑞々しく壮麗な作風は底抜けに明るく、きらびやかです。宮殿や貴族の館を飾る天井画は、下方から見上げる「仰視法」を取り入れ、イリュージョンの効果を完璧なものとしています。

1770年3月27日、マドリードで死去。バロック的な躍動感とロココ的な優美な装飾性を兼ね備えていた画風は、生前はヨーロッパ全土で名声を博していましたが、没後は、台頭してきた新古典主義が甘美な装飾性を否定するものであったため、評価も急速に低下していきました。彼の息子ジョバンニ・ドメニコ・ティエポロ(生没年1727~1804)とロレンツオ・バルティッセーラ・ティエポロ(生没年 1736~1776)も画家でした。(以上Wikipedia日本語版ほか諸事典参照)

この絵の中で、幼子イエスが手にしているのはゴシキヒワという小鳥です。ラファエロの「ひわの聖母」でも有名なように、小鳥の額の赤い色はカルワリオの丘で十字架にかけられたイエスの茨の冠のとげを引き抜こうとして、イエスの血の一滴がついたものだという伝説があります。とげの多いアザミの種を食べるところから受難のシンボルとして聖母子の絵にもよく描かれ、中世ヨーロッパでは疫病よけのお守りにも用いられたというお話があります。

 

ラファエロ・サンティ作『ひわの聖母』(1507年、ウフィツィ美術館所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスは手にヒワをつかんでいますが、ヒワの下にマリアの左手がヒワを受け取ろうとしているように見えませんか?

(2)マリアの衣服は伝統的な色、身につけている衣服は赤、但し幼子イエスの足を支える袖の部分は光の具合なのか、ピンクに見えます。そしてベールは白、ベールの裾を幼子がつかんでいます。

(3)幼子イエスの視線はどこに向けられているのでしょうか?

(4)マリアの視線はどこに向けられているのでしょうか? マリアの視線とヒワの視線が同じ方向を向いているように見えますが?

 


特集15 救い主を迎える季節~アドベントからクリスマスへ

イルミネーション真っ盛りのクリスマス・シーズン。日本の都会のクリスマス・モードも華やかですが、その祝い方は全世界でさまざまです。日本の中でも教会・教派、地域によってさまざまです。それらのどの慣習やイベントにもそれぞれの地域や人々のクリスマスにかける思いがこもっているもの、そんな多様なすがたに目を向けていきたいと思います。

.

日キ販のクリスマス

クリスマス・イン・コンゴ ~喜びを共に分かち合う~

赤いアドベント・クランツ~~チロルでの思い出

クリスマスと風土

ロビン・ウィリアムズのクリスマスの奇跡

クリスマス・ギフト(2017年12月22日追加)

 


日キ販のクリスマス

三村あき(日本キリスト教書販売株式会社社員)

日キ販のクリスマスは毎年9月の「クリスマス見本市&キリスト教ブックフェア」に始まります。

日キ販? なんのこっちゃ、という方にご説明しますと、正式名称は日本キリスト教書販売という、キリスト教書専門の書籍の卸会社です。
キリスト教書を出版社から仕入れ、書店へ卸して流通させています。キリスト教書ならカトリック・プロテスタント問わず扱う超教派の会社なので、働いている人の教派も様々。自分の所属教派とは違う話が聞けて、目からウロコが落ちることもしばしばです。

紀伊国屋・丸善ジュンク堂などの一般書店はもちろんですが、主に卸す先は全国にあるキリスト教の専門書店です。銀座の教文館のキリスト教書フロアが全国でも有名です。カトリックの方はサンパウロ、ドンボスコ社、女子パウロ会がなじみ深いかと思います。

キリスト教専門書店の特色は、地域の教会が販売先であるところです。また、教会に付属する幼稚園・保育園への販売も多いため、絵本を幅広く扱います。毎日絵本を目にする仕事です。お子さんに何の絵本を読み聞かせようか悩んでいる方は、日キ販に相談してみるのも良いかもしれません。

そんな日キ販の繁忙期は年に2回。クリスマス前と学校の新学期です。
今回はクリスマス前のお話です。

なんといっても日キ販では「クリスマス=子ども」です。教会学校や、教会付属の幼稚園・保育園ではクリスマスプレゼントを園児に配るのが慣例です。サンタクロースもプレゼントは子どもにしかくれないのですから、当たり前といえば当たり前。キリスト教専門書店のクリスマスは、ほぼイコール幼稚園・保育園へのクリスマスプレゼント商戦だと言っても過言ではありません。

日キ販はクリスマスやノアの箱舟など、聖書物語に関連した子ども用おもちゃやグッズなどを海外(主にドイツのクリスマスマーケット)から輸入したり、国内のメーカーから仕入れています。また、プレゼントには絵本も多く選ばれるため、おすすめのクリスマスの絵本を毎年ピックアップし、カタログを作成してクリスマスに備えます。カタログは幼稚園や保育園にキリスト教専門書店を通じて配布され、園の先生から書店へ注文が入ります。

そしてそれらの商品をキリスト教専門書店にお披露目するのが、日キ販主催で例年行っている「クリスマス見本市&キリスト教ブックフェア」です。日キ販では、この日からクリスマスが始まります。

過去には四谷二コラ・バレの地下で開催したこともありましたが、ここ数年は大田区産業プラザの小展示ホールに落ち着いています。
見本市には、約40の出版社・メーカーが集まり、各自振り分けられたブースで自社商品を展示し、キリスト教専門書店と商談を行います。

今年2017年は、9月22日(金)に見本市を開催しました。
出展するのはキリスト教書の出版社に限りません。絵本出版社や、子ども向けのクリスマスグッズを扱うメーカー、また、ろうそくや、クリスマスカードのメーカーなどなど・・・実に様々な会社に参加をいただいています。
前日は丸一日かけて展示の準備を行うのですが、さらりと手際よく準備をされる出展社さんに比べて、主催者の日キ販はタイムアウトぎりぎりまであーでもないこーでもないと、毎年準備に難儀しています。書庫での作業が多い日キ販は、商品を「見せる」ということを普段は意識しないので、いつまでたってもこの作業に慣れません。

2016年の「クリスマス見本市&キリスト教ブックフェア」の様子(写真提供:クリスチャントゥデイ)

見本市当日には、各出展社さんに、今年のクリスマスにおすすめ!な一押し商品をステージ上で1分間プレゼンテーションしてもらったり、スタンプラリーで全てのブースに回るように誘導するなど、実りある商談会になるよう工夫しています。

昔は書店さん相手に限定した見本市だったのですが、近年は午後に一般開放時間を設けています。イベント開催やその場での展示即売など、一般の方々にもアピールする場を意識して作るようになりました。(今年はひふみんこと、加藤一二三 九段のトークイベントを開催予定でしたが体調不良により直前にて中止になりました・・・)
こうしたイベントを企画することで、キリスト教出版販売業界を知ってもらうきっかけの一助になればと思っています。

日キ販は今年で創業50周年を迎えましたが、会社が設立された目的は何といっても「文書伝道」です。(カトリックでは「伝道」という言葉は馴染みがなく「宣教」ですが。)キリスト教出版社、キリスト教書店、そしてその中を取次ぐ日キ販は言ってみれば三位一体で文書伝道を行っています。教会関係者の方々を始め、一般の方々に広く私たちの働きを認知し利用してもらいたいと思います。

神の愛を人々に広く宣べ伝えたい、という思いはカトリック・プロテスタントに関わらず皆同じです。
プロテスタント系出版社は神学書を毎月がんがん出していて研究熱心。頭が下がります。皆さんにもぜひ手に取ってもらいたいと思います。
「初めに言葉があった」というヨハネ福音書の出だしにある通り、キリスト教は言葉の宗教でもあります。色々な本にちりばめられている、様々に立ち現れる神と、たくさん出会う機会を届けられたらと願います。神の言葉を届ける道具として用いられる会社であることが、日キ販の存在意義であると思うのです。

とにもかくにも、クリスマスというのはキリスト教出版販売業界にとっては専売特許本家本元のイベントですから、ここで活躍できなくてどうするのだ?というわけでこれを読んでくださっている稀有な皆さま、全国のキリスト教専門書店へぜひ足を運んでみてください。
クリスマスへの準備を深める書籍やグッズを手に取ることができるはずです。

どうぞ、皆さま良いクリスマスをお過ごしください。

 


クリスマス・イン・コンゴ ~喜びを共に分かち合う~

コンスタンチノ・コンニ(淳心会司祭)

今は、街中、あちこちでクリスマスツリーが登場し、イルミネーションも輝いていることでしょう。それは、クリスマスがやってきたなということを気づかせてくれる象徴です。事実、クリスマスは人々に喜びをもたらす唯一の世界行事になっていると言っても過言ではありません。ここでコンゴ民主共和国のクリスマス様子を紹介してみたいと思います。

多くの日本人はアフリカが一つの国であるかのように思うかもしれませんし、コンゴがどこにあるか、また、コンゴのクリスマスといってもピンとこないでしょう。

コンゴ民主共和国は、アフリカの54ヶ国のうちの中央アフリカにある一つの大きな国です。コンゴ人をはじめとする多くのアフリカの人々、とりわけキリスト者にとっては、クリスマスは大切な宗教行事です。普段の主日のミサも、コンゴ人にとっては一つの社交の場ですが、クリスマスは一大イベントです。また家族・友人で一緒に過ごし、相互の絆を深める大事な祭日でもあります。

私が最後にコンゴでのクリスマスに与ってから随分時間が経ちましたが、生まれ育った環境ですので、たとえ時間が経過したとしても、その特徴は今も変わらずに忘れられません。

思い起こせば、クリスマスが近づくと、ほとんどの人は嬉しく、ワクワクします。勿論サンタクロースが来るからというより、むしろキリストの誕生によって神の愛が受肉したことを念頭において祝うからです。街中にキラキラと光るクリスマスの飾りつけは少ないものの、一年で一番、お祭りムードで盛り上がることはたしかです。お正月も、大晦日から夜通しで互いに挨拶しながら、「ボヌアネー」(新年おめでとう!)と言います。騒ぐ人も少なくはないですが、日本ほど盛大に祝うことはないのです。

クリスマスの慣例行事といえば、第一に浮かぶのはイブのミサ中に行われる聖劇です。そしてホームパーティーや子どもへのプレゼントの大盤振る舞いも挙げられます。貧しい人も存在するので、この時期に、恵まれていない人々(特に子ども)に温かい愛の手を差し伸べる、深い信仰心による寛大さ・連帯意識の強さも見られます。

日本では、年中無休で営業し続けている百貨店のムードが12月25日の午後から一変してしまいますが、キリスト教徒が約7割を占めるコンゴでは、クリスマスは祝日となっています。しかも、その前後も長期休暇がとれるので、長くクリスマスシーズンを楽しむことができます。

さて、寝泊りしての黙想会・降誕劇のリハーサルなどといった待降節の準備を終えて、ようやく待ちに待ったクリスマスイブを迎えます。故郷では聖堂で、自然のバナナの木が(クリスマスツリーとして)設置されます。このごろは、松の木を利用する教会が増えてきました。

家族連れ、親戚、カップル、友人…がぱりぱり着飾って、ミサに与るために教会へ足を運びます。コンゴ人はミサに与るのを楽しみにしていますが、私は、子どもの頃から一番の楽しみは聖劇の舞台に立つことでした。本番になると、暗記したキリストの誕生の物語を、あふれるほどの参加者の前で演じます。聖劇が終わると、前もって選ばれた本物のイエス(生後一ヶ月の赤ちゃん)・マリア(そのお母さん)・ヨセフ(お父さん)が、派遣の祝福まで馬小屋に座ります(ミサ後、人形の聖家族を入れ替えます)。通常のミサに移って、皆が、身をもって力いっぱい声高々に聖歌を歌い、喜びの内に神に感謝します。クリスマスデーも、第一に礼拝/ミサに与ってくる人がほとんどです。

人々は礼拝を済ませてから家に戻り、ホームパーティーを開始します。そこでは、チキンやヤギなどを振る舞って、楽しく時間を過ごします。その時、プレゼント交換も行われます。街を回りながら、施設の子供たちにプレゼントを配る人もいます。

昨今は、グローバル化する世界にあって、西洋文化の影響が大きいです。コンゴでも年末商戦が徐々に激しくなりつつあり、買い物に出ると不思議なことにキリスト教国でない中国製のクリスマス商品が店に溢れています。その中でも、クリスマスは、キリストの誕生を祝うこと、その誕生の意義を探っていくお祝いであるという意識が、今もまたコンゴ人には強いです。
神の国、文化・言語・宗教の違いを超えて仲良く家族的に助け合う社会を願って、クリスマスを楽しんで祝いたいものです。

 


赤いアドベント・クランツ~~チロルでの思い出

石井祥裕(カトリック東京教区信徒/典礼神学者)

今は昔、もう30年近く前のこと、オーストリアはチロル州インスブルックでの留学生活の思い出を掘り出してみますと……。緯度が稚内ぐらいのところにあるインスブルックは、12月となれば、日没がぐっと早まり夕方といってもとっぷりくれた夜の風情。旧市街にはアドベント・マルクト(市)が店開きしていました。グリューワイン(ホットワイン)というものを知ったのもそのマルクトでのこと。今では、日本でも知られていて、教会のクリスマスのパーティでも振る舞われるようになりましたが、あの頃は珍しく、シナモンの香りの利いた赤ワインが少し寂しくなりがちの冬の夜の気持ちも温めてくれました。

1980年代の終わり、あの頃の日本は、もうクリスマス商戦が盛んなころ、そしてバブルに湧く時代、クリスマスが恋人たちの祭として賑わっていた時期でしたが、そこから渡った伝統的カトリック地域のチロルは、ずっと以前からの質素ですが味わい深い慣習の数々でこの日本人留学生を迎えてくれました。

この季節、アドベント・ジンゲンというミニ・コンサートが主だった教会で行われます。ローカル新聞の催し物欄を見て出向いてみると、バロック式の聖堂にかならずあるカンツェルという説教壇(会衆席の左側の上に階段であがっていく壇)に民族衣裳をまとった若い女性が二人昇り、透き通った歌声でいくつかの歌を披露します。日本では、大々的にクリスマス・コンサートと銘打ったさまざまなコンサートがある季節ですが、素朴な声だけの歌での催しも降誕祭を迎える気持ちを浄め深めてくれました。歌われていた歌はラテン語のものも近世に作られたドイツ語のものもあったかもしれませんが、曲名までは覚えていません。美声を披露するというショーではなく、ほんとうに「神さまにおささげします」という控えめな歌唱や祈りでした。その聖なる美しさにあふれた「天使」たちの姿が心に残っています。

待降節になって教会のミサに行くと、4本のろうそくを据えた大きな輪が吊り下げられています。赤いろうそくでした。いうまでもなくアドベント・クランツ(「待降節の冠」の意味)。待降節の4回の日曜日ごとに一本ずつ点灯されていき、降誕祭の近づきを示し、それを迎える気持ちを高めていくという慣習です。

アドベント・クランツについて少し調べてみました。
この言葉がドイツ語であるように、考案者はルター教会の神学者、教育家ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィヒャーン(生没年 1808-1881) 。1833年に彼は、貧しい子どもたちを集めて、古い農家「ラウエス・ハウス」で世話をしていたそう。クリスマスを待ち望む子どもたちのために、1839年に、古い車輪から木の冠を造り、そこに、20本の小さな赤いろうそくと、4本の大きな白いろうそくを付けアドベントカレンダーに仕立て、待降節の間毎日次々とろうそくに点灯。なかでも待降節主日(日曜日)がわかるように大きなろうそくにしてあったといいます。12月25日が何曜日に来るかで、待降節の総日数は少ないときで18本、多いときで24本になるのでそれに合わせて数は変わりました。ここから4つの日曜日分だけの4本のろうそくを据えるアドベント・クランツにかわり、1860年頃からは、葉のついたもみの木の枝で作られるようになったようです。ルター教会全般に広まっていき、1925年、ケルンのカトリック教会でも行われて以来、ドイツ語圏のカトリック教会、そのほかの国々にまで広まっていきます。

アドベント・クランツの象徴的意味についてはさまざまな解釈を加えられていきますが、あくまで信仰生活上の慣習なので、規定的なものはありません。自然な解釈として、クランツの円は、永遠性の象徴、4本のろうそくの4は東西南北の四方という意味で全世界、ろうそくは世を照らす光キリスト、もみの木の葉の緑は、希望や生命のしるし、であることは考えてよいでしょう。

ろうそくの色についてはさまざまな慣習があるようです。そこに典礼色(祭服の色)を反映させるというところに多少典礼とのつながりをつけていることがわかります。ノルウェーのルター教会では、4本とも紫色。スウェーデンのルター教会では、第1のろうそくが伝統的に楽園の意味の白、他の3本は紫だそうです。カトリックの慣習では、待降節主日の典礼色にちなんで、4本のろうそくのうち第1、第2、第4は紫色で、待降節第3主日は「喜びの主日」(ガウデーテ)とされ、祭服もバラ色を使ってよい日であるところからバラ色にする例があるといいます。アイルランドのカトリック教会では、中央に5本目として白いろうそくを立てる習慣があるようです。多くの場合、4本のろうそくは、紫、赤、バラ色、白で彩られ、この順序で点火されていくようです。

きわめて珍しい例かもしれませんが、チロルなど山岳地帯では、4本のろうそくは伝統的に赤で、そこにキリストによって人類にもたらされた愛と光が象徴されるということです。この赤いアドベント・クランツこそ、私がインスブルックでも見たものでした。赤という色は殉教者の血や、聖霊降臨のさいに炎のような舌として聖霊が降ったことから、今でも殉教者祝日や聖霊降臨の主日の典礼色ですが、チロルの赤いろうそくもまた、救い主の到来への渇望とすでに来ておられる喜びが結びついたような、そして冬の寒い中での暖炉の熱のような、不思議なパワーを感じさせました。

アドベント・マルクト、アドベント・ジンゲン、アドベント・クランツなど待望を彩る時期を終えて迎えた主の降誕は、夜半の荘厳ミサが終わり、家路に着くとその夜中から26日までは、人っこ一人いなくなったかのように車もなく、静かな日々が過ぎています。それはまた信仰生活と社会生活がひとつに溶け合っていた(当時の)チロルのクリスマス。心洗われるような三日間です。

 


クリスマスと風土

齋藤克弘(典礼音楽研究家)

わたくしの担当しているコーナーは一応「音楽の神髄」というタイトルなのですが、今回は少し音楽を離れてクリスマスの文化と風土について語ってみたいと思います。

クリスマス前、日本では大体12月に入るとあちこちで、クリスマスソングがBGMとして流れることは前回も書きました。その他にも、クリスマスツリーが飾られ、イルミネーション(昔は電飾と言いました)が街を明るく灯します。教会の中では、主イエス・キリストが生まれた場面を模したプレセピオ(馬小屋)が飾られ、常緑樹と紅いヒイラギなどの実が装飾されたリース=クランツが置かれ、その輪の中には4本のろうそくが立てられ、日曜日ごとに1本ずつ灯されるろうそくが増えていきます。このようなクリスマス独自の装飾は、なんの疑問もなく行われていますが、ちょっと視点を変えてみると、実は、なんでこういうものが飾られるんだろうと思うことがあるのです。皆さんはそういう疑問を持ったことはないでしょうか。

前回も少し触れましたが、降誕祭にその誕生を祝われるイエス・キリストは、ユダヤのベトレヘムで生まれました。現在のイスラエルですね。イエス・キリストの誕生を記しているのは、イエスの生涯を書き記した4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書の2つで、ほかの2つ、マルコとヨハネの福音書にはその記述はありません。しかも、マタイとルカでは、書かれていることが全く異なっています。これは、キリスト降誕の出来事が作り話ということではありません。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『東方三博士の礼拝』(トレド美術館、1655年頃)

「グレゴリオ聖歌」でもお話ししましたが、この時代には現代のように、スマートフォンやビデオカメラがなかったのはもちろんのこと、その場でメモを取れるようなペンや紙すらありませんでした。福音書が書かれたのはキリストが昇天してからさらに数十年後のこと。それぞれの福音書を書いたマタイとルカが話を伝えようとした人々も異なっていて、いわば、自分が伝えたい興味も違っていたことから、自分が伝える必要がないことは書かなかったわけです。現代のように事実だけを伝えるノンフィクションというジャンルで書かれているのではないのです。

さて、わたくしたちがキリスト降誕の場面としてよく知っているのは、マリアとヨゼフは宿屋がいっぱいで泊まるところがなかったので、馬小屋で休んでいるときにマリアが産気づいて、イエスが生まれた、そしてそこに、天使からその誕生を伝えられた羊飼いたちと東方から3人の博士たちがキリストを拝みに来た、というものですが、ここで当時の時代背景や風土を考えてみると、いくつか不思議なことが思い当たります。

まず 「馬小屋」ですが、当時の地中海の周辺世界では、馬は農耕には使われず、むしろ戦車をけん引する動物として使われていました。ですから、宿屋に馬小屋が併設されていることは考えられません。農耕に使われた動物は牛、ほかにもロバが荷物運びに使われていましたので、これらの動物を泊めるところでマリアはイエスを産んだということになります。

次に、現在、クリスマスは寒さも募る12月に祝われていますが、ルカ福音書では「野宿していた羊飼いたちに」天使がイエスの誕生を伝えたと記されています。しかし、現在のイスラエルでも夜はかなり冷え込み、12月のというこの時期に野宿するのは生命の危険を顧みない無謀な行為と言っても過言ではありません。事実、2~3世紀にかけてアレキサンドリアで活躍した神学者のクレメンスはキリスト降誕を5月20日と推測しています。

キリスト降誕の日が12月25日に祝われるようになったのは、前回も書いたように325年のニカイア公会議頃の後、ローマにおいてですが、 その背景にあるのは、2世紀の殉教者でもある神学者のユスティノスが、ローマ人の太陽崇拝に対して「キリストこそ正義の太陽である」と著作で述べたことから、ローマ人が多く崇拝していたミトラス教の「不敗の太陽神」を祝う冬至祭がキリスト教化されたものとされています。

もう一つ、東方からキリストを拝みに来た博士たちは「3人」と言われていますが、マタイの福音書には博士の人数は書かれてはいません。ギリシャ語では「マゴイ」 と複数で書かれているので、一人ではないことは間違いありませんが、人数については全く触れられていません。では、なぜ3人になったのかと考えると、博士たちが持ってきた贈り物が「黄金」「乳香」「没薬」の三種類だったことから一人が一種類ずつ持ってきたと解釈されて、3人と考えられるようになったようです。ちなみに、のちに、この博士たちには、名前まで付けられています(もちろん、聖書には名前すら書かれていません)。

さて、クリスマスの飾りというと最初にも挙げたクリスマスツリーやクリスマスリース(クランツ)あるいはイルミネーションですね。

クリスマスツリーの起源には諸説ありますが、ツリーに使われる「もみの木」や「ドイツトウヒ」といった木はどれもキリストが生活したイスラエルには自生していません。リース(クランツ)の材料のヒイラギも然りです。イルミネーションに至っては電気がふんだんに使えるようになったこの数十年のものですね。これらもキリストが生きていた時代のイスラエルとは何の関連もないことがわかりますね。

もう一つ、クリスマスというと欠かせないのがサンタクロース。サンタクロースは北ヨーロッパの北極圏あるいはそこに近いところに住んでいて、赤と白の衣装をまとい、トナカイの牽く(ひく)そりに乗って子供たちにプレゼントを届けます。この、サンタクロースのモデル、実在する教会の司教さんです。現在のトルコの小さな村、ミュラの司教のニコラウス。言い伝えでは、隣に住んでいた貧しい家族の娘たちが身売りされそうになったので、とある夜、その家に金貨をそっと投げ入れて、娘たちが安心して暮らせるようにしたことから、子供たちにプレゼントをもってきてくれる好々爺(こうこうや)とされたようです。ちなみに、投げ入れられた金貨は暖炉に下げられていた靴下に入ったことから、靴下を準備する習慣が生まれたようです。

でも、トルコと北極圏ではかなり遠く離れていますよね。中世にヨーロッパで聖人の崇敬が盛んになると、聖ニコラウスの遺骨がイタリアのバーリという町に移されたとされました。ニコラウスのお祝いは12月6日。ヨーロッパではこの日にはミトラ(司教冠)を被り、バクルス(司教杖)を持った聖ニコラウスが地元に住む悪魔を従えて村を練り歩くお祭りが開催されます。聖ニコラウスとサンタクロース、発音があまりに違っているように思えますが、聖ニコラウスのオランダ語読みが「シンタクラウス」。それがアメリカ合衆国の英語読みとしてなまったのが「サンタクロース」なのです。もともと司教だった聖ニコラウスがサンタクロースになってから、北極圏に近いところに住み、赤と白の衣装をまとって、トナカイの牽くそりに乗るようになったのは、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ムーア(生没年 1799~1863)の一連の著書が原型になっています。

さて、このように見てくると、わたくしたちになじみのあるクリスマスの文化というのは、本来の主人公である、イエス・キリストやイエスが暮らした時代、あるいは暮らした土地とはほとんど関係ないものが多いことがわかります。

ヨーロッパの北部、特にアルプスより北の地方はゲルマン古来の宗教の習慣が長く行われていたようです。キリスト教を広めた人たちはそれらをただ否定するのではなく、それらの文化をキリスト教に取り入れて人々にキリストの教えのすばらしさを伝えようとしたのです(神学用語ではインカルチュレーション=Inculturationと言います)。

現代の日本では、これらは多くが商業目的に使われているのは残念な気がしますが、だからといって、また、これらの文化がもともとイエスとは関連がないからと、否定するのではなく、これらを用いてキリストの教えのすばらしさ、神の国の豊かさを伝える、端緒(初めの一歩)にできればいいと思いませんか。

 


ロビン・ウィリアムズのクリスマスの奇跡

2014年に亡くなったロビン・ウィリアムズをご存じでしょうか。私の好きな俳優の一人です。彼はコメディ俳優として多くの人がとらえているようですが、コメディタッチでありながら、すごく深く考えさせられる映画に多く出演している俳優でもあります。彼の遺作とも言えるクリスマスにぜひ見てほしい映画『クリスマスの奇跡』をご紹介します。

事業に成功し、家族を大切にしているボイド(ジョエル・マクヘイル)は、弟の子供の洗礼のため、クリスマスに実家に呼び出され、疎遠になっている父(ロビン・ウィリアムズ)の家でクリスマス・イブを過ごすことになっていました。

サンタクロースを信じている息子のために、クリスマスプレゼントを用意していたにもかかわらず、ボイドは、子供のクリスマスプレゼントをシカゴの自宅に置き忘れてしまいます。何としても息子の夢を壊したくないので、急きょ、8時間かけて取りに帰ることになります。ところが車が故障し、仲の悪い父親と取りに行くハメになります。父親は口が悪くてボイドとは口論ばかりしていますが、外では息子自慢の親バカでした。ボイドの方は本気で父親を嫌っており、そのことに気づいた父親はショックを受けます。

頑固でうるさいおじいさんで、家族に優しい言葉一つかけられない父親ですが、息子に相手にされず寂しく落ち込んだり、息子ボイドを危機から守ろうとします。息子の家への往復は、同じ時間を共有し、徐々にお互いを理解していきます。

無事にクリスマスプレゼントを取りに戻れるのか、親子の関係は? これは見てのお楽しみです。

劇中、同じ警官に何回も違反キップを切られたり、仮設トイレに落っことしたり、笑えるシーンも多く楽しい映画です。子供たちの会話にもシニカルな笑いが潜んでいます。

エンドロールの終わりに出てくる『皆に笑顔を与えた男に捧ぐ』という言葉には、映画のストーリーとは別にロビン・ウィリアムズという名優の死を悼む言葉が隠され、最後まで一人の男の死を悼むものとなっています。

この映画は、クリスマスを舞台にした家族の再生の物語です。主の御降誕を家族とともに祝うことの大切さを教えてくれます。

中村恵里香(ライター)

 

監督:トリストラム・シャピーロ/脚本:フィル・ジョンストン

出演者:ロビン・ウィリアムズ、ローレン・グレアム、ピアース・ギャニオン、ウェンディ・マクレンドン=コーヴィ、ジョエル・マクヘイル、キャンディス・バーゲン、クラーク・デューク、オリヴァー・プラット、ライアン・リー、ジェフリー・タンバー、アマラ・ミラー、ティム・ハイデッカー、アミール・アリソン

原題:Merry Friggin’ Christmas/製作国:アメリカ/製作年:2014/ 上映時間:88分

 


自死された方々の為にささげる追悼ミサ

鳥巣シオリ(ゆりの会 世話人)

「自死された方々の為にささげる追悼ミサ」は2011年、日本26聖人殉教者記念聖堂聖フィリッポ教会で行われたのが初めてで、今年7回目の追悼ミサとなりました。毎年11月の死者の月に合わせて行っております。

今年行われた追悼ミサのお知らせ

ゆりの会(~たいせつな人を自死で亡くされた方のつどい~)の発足に当たり髙見三明大司教様より≪カトリック教会は、長い間、「熟慮のうえで自殺した者」に対して、教会による埋葬を許さないなど、厳しい態度を示してきました。しかし、この旧教会法典(1917年)の規定は、新教会法典(1983年)にはありません。また『カトリック教会のカテキズム』(1997年)では①自殺はいのちと愛に反する行為であるが、②事情によってはその責めが軽減され得る、③教会は神の救いに希望を置いて自殺者ためにも祈る、とあります。日本の司教団は、『いのちへのまなざし』(2001年)の中で、「これからは、神のあわれみとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としている遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体に呼びかけて行きたいと思います」と述べています≫というメッセージをいただきました。この髙見大司教様のメッセージにあるとおり、教会は長い間自死された方々を厳しく裁き排除してきました、このことに、遺族の方々は非常に心を痛め、囚われていることに私自身心が痛み、教会共同体として、「神の憐みとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としている遺族のために」願いを込め、心を込めて毎年追悼ミサをお捧げしています。

御ミサの後、お茶の席を設けていますがそのお茶の席で、「旧教会法の規定に縛られ、長い間そのことに囚われて苦しんできましたが、今日の追悼ミサでやっと解放されました」という分かち合いに、この追悼ミサのもう一つの意義、使命のようなものを感じています。

今年は、昨年長崎の追悼ミサにあずかられた方が「福岡ではこのようなごミサはないのでしょうか」といわれたことに応えたいと、福岡市で追悼ミサを行いました。福岡市での追悼ミサに参加して、福岡の遺族の方々も長崎の遺族の方々と同じように悲しい辛い想いの中で日々を送っていらっしゃることに心が痛み、この追悼ミサが一定の地域に限られず各地域に拡がり多くの自死された方々、そしてご遺族の方々に神様からの慰めと癒しがあることを願うばかりです。

2015年、2016年、と髙見大司教様に司式をして頂いたのですが、今年は残念ながら他の用事が入ってしまい、大司教様司式の追悼ミサではありませんでしたが、代理として長崎駅の近くの白い館の教会として有名な中町教会の主任司祭橋本勲神父様の司式でお捧げすることができました。ある神父様から「場所を固定しないで、各小教区でやるとご遺族の方々が足をはこびやすいのでは」という提案を受けて今年、中町教会で行ったことを機に来年からは他の小教区でも行っていきたいと思っています。

2016年度中の自死者は2万1897人でした。自死者が3万人とピーク時はよくニュースで取り上げられていましたが最近はあまり取り上げられなくなり、関心が薄くなったように感じます。減少傾向にあるとはいえ2万という数字はまだまだ高い数字です。この2万という数字の意味するものは何かを深く読み取り、これからも「自死された方々のためにささげる追悼ミサ」をお捧げして参りたいと思っています。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 39

古谷章・古谷雅子

5月30日(火) エル・ブルゴ・ラ・ネーロ~プエンテ・ビジャレンテ(2)

歩行距離:26km
行動時間:6時間50分

さて、途切れることなく並木が続くがニセアカシヤに樹種が変わった。やがて樹種がデタラメに多様になる辺りから国道と巡礼路の間にあったローカル自動車道がなくなる。国道は大型車がビュンビュン通り、今までの長閑な巡礼路は一変してレオンまで雑然としたほこりだらけの危険な道になってしまった。レリエゴス付近の工事中だったあの巨大な立体交差は今後バイパスを整備するためのものなら巡礼路にとってはありがたいのだが。道端の豚の死骸を思い出す。あのような目に合わないように気をつけて歩こう。

間もなく古代ローマ時代の遺構(国道の反対側で横断が難しく行かず)、小さな集落ビジャモロスを過ぎ、ポルマ川に架かる橋プエンテ・デ・ビジャレンテの向こうが今日の目的地だ。上を通過しただけでは何の変哲もない橋だが、橋脚をつなぐアーチは古くからのローマ橋を上手く残している。17ものアーチは異なる時代の遺物(3~4世紀)だと書いてあるので河原に降りてみた。なるほど、見事だが個々の違いはよく分からなかった。

巡礼路はこの橋の下に架かる木の橋を渡って村に入る。ここには2つのアルベルゲがあるが、村の入り口にあるエル・デルフィン・ベルデに行ってみた。オスピタレロにダメもとで個室の有無を聞いたら、ここはドミトリーだけだが同じ敷地内にオスタルがあると教えてくれた。1階がレストランなので気づかなかった。行って見ると若い主人は感じがよいし夕食もどのみちそこでとることになるので泊まることにした。古い建物をリフォームした小ぎれいな宿で水回りもよい。ベランダに出てみると国道の車がうるさいが、扉を閉めれば遮音は大丈夫。さすが石の建物だ。物干し場はアルベルゲと共用。日課作業を手早く終えて町の探検に出た。

この町は国道沿いに店が並んでいるだけでなんの趣もないと記録に書いている人が多いが、現代の生活もそれなりに面白い。小屋ほどもあるゴミ箱を巨大な収集車の荷台に積みかえる作業を見たり、パン屋で土地の人の買うものをチェックしつつ簡易席でビールを飲んだりした。おまけのタパスはタダでは申し訳ないほど大きくて美味しいブルスケッタだった。ニンニクとチーズとポテトをたっぷりのせてキツネ色に焼いてある。半端な時間のおやつには立派過ぎるほどだった。

夕食はオスタルで。はち切れんばかりに太った可愛い幼女が、おばあちゃんと「せっせっせ」のような手遊びをしている(ママは料理しているので)のを見ながら定食を食べた。ヌードル入りの野菜スープかひよこ豆の煮込み、ポークチョップか魚煮込み(アサリやエビも入っている)。いつも通り別々に頼んで分けたが、どれも本当に美味しくて、とても食べきれないと思えた量がすべて胃袋に収まった。デザートはチョコレートとホイップクリームがたっぷりの自家製シュークリーム。巡礼路の田舎料理はこの日が最後だ。

巡礼路では普通の食事が滋味に富み何とも美味しかった。特に豆の煮込み料理(コシード)は何度も出てきたが飽きなかった。川成洋編『スペイン文化読本』(丸善出版、2016年)の中でスペイン料理研究家の渡辺万里先生はその特徴をあまたの保存食の発展したものと説明している。カルタゴ人によってスペインにもたらされたガルバンソ(ひよこ豆)は痩せた土地でも栽培でき保存も可能なのでイベリア半島全域に広がった。魚介類の干物も広まった。過酷な自然条件が保存食による兵糧の確保を強いたのだが、その伝統が長く引き継がれているのだ。もう一つ面白かったことに豚肉のことがある。田舎料理ではメニューに牛、羊、兎等もあったが、なんといっても主役は豚だった。前記の本から引用すると、

「ところで、現代のコシードには豚肉が欠かせないが、昔からそうだったわけではない。カスティーリャ王国が徹底的な異教徒の排斥に取り掛かると、彼らがスペイン国内に残るには、キリスト教へ改宗するしかなくなった。そこで、改宗者の真偽を問う手段として、イスラム教徒もユダヤ教徒も宗教上の戒律で食べない豚肉が用いられるようになったのである。すなわち、豚肉を入れたコシードを食べることは、改宗者たちにとって一種の踏み絵となり、豚肉を食べていないと密告されると過酷な異端審問が待っているという時代が始まる。こうして、以後のスペインの食卓には、それまで以上に豚肉の存在が重要なものとなっていく。……」

モサラベ建築のところでもふれたが、宗教についての政策はどちらの側でも時代により寛容と偏狭、共存と排斥が揺れ動いた。その結果が料理にまで及んだ、というのも興味深いことである。

明日はレオンまで13km歩くだけだ。夜更かし寝坊もできるのに、習慣づいた眠気が襲ってきて9時30分、外はまだ明るいが就寝。