マルコ・マリ・ド・ロ神父を描いた本

マルコ・マリ・ド・ロ神父という方をご存じでしょうか。フランスのノルマンディ地方の貴族の家に生まれ、大政奉還した翌年の慶応4年に日本にいらっしゃって、その生涯を長崎の外海地方の信徒たちのために捧げた方です。外海地方では愛を込めて「ド・ロ様」と今も呼ばれ、親しまれています。

そのド・ロ様の生涯をここでご紹介するよりもさまざまな作家の方がその生涯を本にしています。現在入手できるものは、6冊あります。1人の神父のことを6人もの作家の方が評伝や小説、マンガにしていることは珍しいと思いましたので、明治150年の特集でご紹介したいと思います。

まず、ド・ロ様の簡単な生涯を表にしてみました。

出津救助院跡

1840年3月27日 フランスのノルマンディー地方に生まれる。
1865年 司祭に叙階される。
1867年 パリ外国宣教会に入会。
1868年 布教のため来日。
1873年 大浦天主堂付となる。
1875年 大浦天主堂の隣に長崎公教神学校(旧羅典神学校)を建設。
1878年 外海地区(黒崎教会、出津教会)の主任司祭に着任。
1882年 出津教会聖堂を建設、ここを布教の拠点とした。
1883年 出津救助院を建設、ここを社会福祉事業の拠点とした。
1885年 外海の貧しい人々が、自分の村で働き、生活できるようにするためにイワシ網工場を建設。
1886年 ド・ロ診療所を開設。
1898年 出津の野道に共同墓地を新設。
1914年11月7日 大浦天主堂にて死去。
1915年 大浦天主堂司教館竣工。

ここで私がド・ロ神父の生涯を説明するより、優れた作家の方々が描いた本を紹介したいと思います。本は刊行年順に並べてあります。
各本のタイトルをクリックしていただくと、簡単な紹介を書いてあります。

片岡弥吉 『ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯』(NHKブックス276、日本放送出版協会、1977年)

著者の片岡弥吉氏は、キリシタンの研究者です。禁教時代のことや、高山右近などのキリシタン、殉教について詳しく調べられ、今キリシタン研究の定番となっている本をたくさん書いていらっしゃいます。
『ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯』は、日本におけるド・ロ神父のことだけでなく、その背景となるフランスのノルマンディにまで取材に行き、出生証明書から日本出発までを調べています。
その生涯を年代ごとに描くのではなく、「印刷・出版事業」「最初の医療救護活動」「孤児養育の使命と十次会」「外海の土地と人々」「社会福祉と聖ヨゼフ会」「農業と漁業のすすめ」「外海での医療救護活動」「有能な建築技師」「土木技師」「ド・ロさまの移住開拓事業」「ド・ロさまの人がら」「故郷恋しからずや」「聖者の死−−その労空しからず」といったようにその働きを紹介しています。
この本が後のド・ロ神父の生涯を描いたものの定番になっています。

 

森禮子『神父ド・ロの冒険』(教文館、2000年)

森禮子氏は1980年代82回芥川賞を『モッキングバードのいる町』で受賞した小説家です。プロテスタントの信者である彼女がなぜ、カトリックのド・ロ神父を書くことになったのかは、「フィールド・ノート」に書かれています。
『神父ド・ロの冒険』は、小説家森禮子氏らしい切り口でノルマンディの聖歌での様子から日本で死を迎えるまでが描かれています。

 

西岡由香『愛のひと ド・ロ神父の生涯』(長崎文献社、2009年)

西岡由香氏は、長崎生まれの漫画家です。ですので、この作品はマンガです。1864年にプチジャン神父が来日し、信徒発見のエピソードではじまっています。後にローマでド・ロ神父と出会い、ド・ロ神父を日本に同行させるところから、ド・ロ神父の日本での活動を描いています。小説や評伝などを読むのはちょっと……という方には、マンガで簡潔に読めるので、オススメです。

 

『外海のキリシタンとド・ロ神父』(長崎巡礼協議会、2010年)

「第1章 外海のキリシタン」「第2章 ド・ロ神父の足跡」の2章仕立てになっています。1章はキリシタンの布教の歴史から、禁教令と潜伏時代、移住、復活までが書かれています。2章は、ド・ロ神父の足跡が簡潔に書かれています。
本書の特徴は、外海の美しい景色とキリシタン遺物、ド・ロ神父資料館に残されたものやド・ロ神父のつくられた教会の写真が存分に使われた美しいものという点です。写真が中心になっていますので、ただ見ているだけでも心が洗われるような出来になっています。外海に足を運ぼうと思う方にぜひ見ていただきたいものです。

 

谷真介『外海の聖者 ド・ロ神父』(女子パウロ会、2014年)

谷真介氏は、児童文学作家です。子供向けの本をたくさん書かれています。『キリシタン伝説百話』や『聖書物語』『キリシタン大名高山右近』などのカトリックをテーマにした作品もたくさんあります。『外海の聖者 ド・ロ神父』は、浦上四番崩れからド・ロ神父の死まで外海での活躍だけでなく、長崎での女部屋の創設や横浜での活躍など、幅広く紹介している小学校高学年から中高生向け評伝といってもいいかもしれません。

 

岩崎京子『ド・ロ神父と出津の娘たち』(女子パウロ会、2014年)

岩崎京子氏は、1959年に児童文学者新人賞を受賞するなど、日本の児童文学賞を数々受賞した児童文学者です。『ド・ロ神父と出津の娘たち』は、ド・ロ神父様が外海に来てからの様子が女部屋創設に参加した女性たちとの交流を通して、描かれています。これまでご紹介した5冊にはない、神父と女性たちの会話などを通して、ド・ロさまの活動が生き生きと描かれています。また、本書の特徴は、外海での活動が主となっており、生涯全般を描いたものと違い、出津教会完成までとなっています。ド・ロさまの活動と女性たち、それぞれが目の前で動いているかのような物語になっていて、一気に読み進められる作品です。

 

この6冊はそれぞれに特徴があります。興味のある本を手にとって、慶応4年から大正3年までド・ロさまと呼ばれ、外海の人々に愛されたド・ロ神父様の生涯を感じてみてはいかがでしょうか。

 


エンドレス・えんどう 14

服部 剛(詩人)

『深い河』の中で描かれるインドの旅も、いよいよ登場人物たちがガンジス河と出逢う場面に入っていきます。

私たちはたいてい、朝起きて、いつもの道を駅へと歩き、時間通りの電車に乗り、日中は働き、日が暮れた後、家路に着く。そんな繰り返しの毎日を生きている人が多いと思います。もし、当たり前の日常を、あくせく生きる世の人々を、慈しみの眼差しで見つめるならば、一人ひとりは本来、かけがえのないものだと気づくでしょう。それと同時に、私たちが生きる日本という島国にいるだけでは見えない領域の世界があることを、『深い河』に描かれるインドという国は語っています。

僕は先ほど、スマートフォンを手に<メメント・モリ>の言葉を検索すると、その意味は「死を想え」というものでした。確かに、人は心から「死を意識する」とき、真の意味でかけがえのない一日を生き始めるでしょう。しかしながら、日々の繰り返しを生きているような私たちが「死を想い」ながら生きることは、なかなか難しいことです。そんな私自身が「日々の中で意識していることは何だろうか?」と考えると、「世界にたった一人の自分」という存在の不思議さについて思い巡らせていることに気づきます。「自分という存在は、時代も国も両親も、自ら選んで生まれてきたわけではない」のですが、「“今、ここ”に自分がいて、息を吸っては吐き、存在していること自体が、よく考えると不思議だな…」という感覚になり、心の奥から「自分という存在は天に創造された固有の存在である」という密かな確信が芽生えてくるのです。

人生の最期の場所を求める人々が辿り着くガンジス河の畔(ほとり)では、今日も遺体が火葬されており、河には遺灰が流され、その河にインドの人々や巡礼者が沐浴して、河の夕景を染める西陽に向かい、無心で手と手を合わせている――。そこには、大自然の彼方からこの世に働きかける<神>と<私>の命の繋がりを感じながら「生かされている」と実感する、人間本来の魂の歓びがあるのではないか、と私は思うのです。


アート&バイブル 8:聖カタリナの神秘の結婚

ロレンツォ・ロット『聖カタリナの神秘の結婚』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

図1:『レカナーティのお告げ』(1534年頃、レカナーティ市立絵画館所蔵)

ロレンツォ・ロット(生没年1480頃~1556)はベネツィアに生まれました。家族や友人、弟子も持たず、イタリア各地を放浪しました。存命中は作品に評価が与えられず、経済面でも苦労が絶えなかったというエピソードが残っています。晩年はロレートの修道院(ロレートは「聖母の家」があることで有名な町。特集16「聖家族崇敬が生まれた状況」参照)にて穏やかに暮らしたといわれています。彼の作品で比較的知られているのは、お告げの絵(図1)です。マリアが驚いて逃げ出そうとしているような姿は当時としては奇想天外な描き方で、それゆえ奇妙に感じられていたことでしょう。

 

【鑑賞のポイント】

本日、紹介する作品『聖カタリナの神秘の結婚』(図2)では、アレクサンドリアの聖カタリナに指輪を渡す幼子イエスの姿とそれを敬虔に拝跪(はいき:ひざまずいて拝むこと)して受け取るカタリナの姿が描かれています。アレクサンドリアの王女カタリナは、美貌と博識でもって名高い女性でした。

図2:『聖カタリナの神秘の結婚』(1523年、ローマ、国立古典絵画館所蔵)

彼女は、砂漠の隠者によってキリストの花嫁に迎えられると告知されます。しかしそのとき洗礼を受けていなかったのでキリストに拒まれます。カタリナはその後、洗礼を受けて心の平安を得て、キリストと“神秘の結婚”をします。この“神秘の結婚”は幼児のキリストがカタリナに結婚指輪を授ける姿で表されます。カタリナは王女であるため、通常は王冠を被り豪華な身なりで描かれています。

カタリナは時のローマ皇帝に見初められ求婚されますが、キリストの花嫁たることを誓った彼女は、異教徒である皇帝との結婚を拒みます。皇帝は100人の哲学者をカタリナのもとへ遣わして議論させ、彼女の信仰を打ち破ろうとしますが、逆に哲学者たちが論破され、キリスト教に帰依することとなりました。

怒った皇帝はカタリナを刺のある車輪に縛りつけ、車裂きにしようとしますが、天使が現れて車輪を粉砕してしまいます。最後には、彼女は斬首され、殉教します。古代から中世にかけて尊敬を受け、祭壇画などに数多く描かれ、愛された聖女です。

 


特集17 明治とキリスト教<その1>

AMOR2月の特集テーマは、「明治とキリスト教<その1>」です。

今年は明治維新150周年にあたり、NHK大河ドラマ『西郷どん』をはじめさまざまな企画がメディアを賑わせています。現在の日本人の意識、感覚、精神性とキリスト教の関係を新たに問いかけるウェブマガジンとして、幕末の動向を含め明治という時代は、避けては通ることのできない対象です。

今年に入って特集発信が当月の終わり頃になっていて、紙の雑誌の通例とは真逆の展開かもしれません。実は、考えていきたい、どのテーマも一回で完結できるようなものではないこと、どのテーマもさまざまな側面に目を向けながら掘り下げていくべきものであることを覚え始めているからです。今回も「明治とキリスト教」を考えていくためのアプローチを分かち合っていただきたいと思っています。まず、二つの「窓」明治とキリスト教の関係を知るための図書紹介コーナーと近代キリスト教事始めに関する2つのトピックを紹介するコーナーで、この大きく深いテーマに着手していきたいと思います。

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「明治」と「キリスト教」を知るために――図書紹介

トピック1 日本近代キリスト教事始め~それは外国人居留地から始まった

トピック2 キリスト教の「神」が生まれた時代

マルコ・マリ・ド・ロ神父を描いた本(2018年3月13日追加)

日本の殉教者の血は実を結ばなかったのか――明治150年のカトリック教会の宣教政策を考える(2018年3月22日追加)

 


「明治」と「キリスト教」を知るために――図書紹介

1.明治キリスト教史を一望する驚くべき共同討議……『近代日本とキリスト教 明治篇』

幕末明治期における近代キリスト教の始まりと近代日本の歩みは不可分に結びついているともいわれます。明治維新150年という今年、その問題意識に立つとき、驚くべき共同討議の実績に出会いました。

『近代日本とキリスト教ー明治篇ー』(基督教学徒兄弟団)

それは、1956年に発行された『近代日本とキリスト教』です。発行元は、基督教学徒兄弟団で、明治篇と大正昭和篇の2巻からなっています。その「序」は、戦後の新しい日本の建設に必要な、宗教的視点からの近代日本の研究を遂行しようとの意志表明が果敢です。発行元の基督教学徒兄弟団とは1946年4月に創立されたプロテスタントの信仰団体。「明治篇」の討議には、同兄弟団の柱である久山康(1915~94年)、北森嘉蔵(1916~98年)をはじめ、高坂正顯(1900~69年)、山谷省吾(1889~1982年)、小塩力(1903~58年)、亀井勝一郎(1907~66年)、椎名麟三(1911~73年)、猪木正道(1914~2012年)、隅谷三喜男(1916~2003年)、武田清子(1917年~ )といった錚々たるメンバーが参加しています。

第1章「明治維新とキリスト教」、第2章「自由民権の時代とキリスト教」、第3章「欧化主義とキリスト教」、第4章「国家主義の台頭期におけるキリスト教」、第5章「三十年代のキリスト教」、第6章「明治末年のキリスト教」。明治日本の社会状況の変遷を時系列で押さえ、主にプロテスタントのキリスト教の歩みを追いながら次々と論じていく形式で、まなざしは一般思想界、文学界、学界の動向へも及んでいます。

巻末の「幕末明治キリスト教年代表」は三段組で、上段「社会・文化」、中段「キリスト教」、下段「海外」と各次元に目を注ぎながら、明治日本のキリスト教を大きな視野で展望しようとしています。

もちろん、この書の中でカトリック教会の動向についてはわずかしか触れられていません。カトリック教会にとっての明治という時代、あるいは明治の日本のカトリック教会の動向、さらに他教会、正教会などの教会のことも包括的に総体的に見ていくという課題は、21世紀のわたしたちに投げかけられているのかもしれません。1950年代半ばの熱き語り合いが、そのような課題にも大きな刺激となりそうです。

 

2.近代カトリック教会史を知るために不可欠な書……高木一雄著『日本カトリック教会復活史』『明治カトリック教会史1』『明治カトリック教会史2』

次に紹介するのは、カトリックのキリスト教史研究家、高木一雄氏による幕末明治のカトリック教会の歴史に関する3部作。かつてキリシタン文化研究会の叢書「キリシタンン文化研究シリーズ」の一部として1978年に発行されていた『明治カトリック教会研究1・2・3』に基づいて、2008年に教文館から発行されています。

池田敏雄『人物中心の日本カトリック史』(サンパウロ、1998年)

高木一雄氏は1928年生まれ。福島県の公立中学校の教諭として、また、退職後は神奈川県の県史編集室勤務をしながら、近代カトリック教会の歴史を研究し、上掲のほか『日本・ヴァチカン外交史』(聖母の騎士社、1984年)、『大正・昭和カトリック教会史』全4巻(同、1985年)が主著となっています。『カトリック東京教区年表』(カトリック東京大司教区発行、1992年)の編集も大きな業績で、そのほかキリシタン殉教に関する一般向けの著作もあります。特に近代カトリック教会史に関する著作は詳細な史料の提示をベースに叙述していくもので、いっけん難しそうに思えますが、現実にあったことを地道に確かめながら歴史を考えていくための確実な土台を共有させてくれるものです。一つひとつの事実に関与した無数の人々の思いや働きに目を向けることができ、一つの時代状況に肉薄する感覚を味わうことができます。

たとえば、明治3部作最初の『日本カトリック教会復活史』は、第1章「近代日本の夜明け」に続いて第2章は「日本カトリック教会の復活」と題され、フランス艦隊の極東進出から安政の修好通商条約による開港までから述べていきます。以後、第3章「外国人居留地とキリスト教」、第4章「攘夷運動とキリスト教」、第5章「幕府外交とローマ・カトリック教会」と展開され、第5章最後に扱われるのが「浦上村の切支丹捕縛事件」すなわち浦上四番崩れです。

日本カトリック教会復活史というのが書名ですが、外国人居留地という場所は、プロテスタントの宣教、ハリストス正教会の宣教にとっても同じように出発点となっていったところ。また浦上四番崩れ、続く維新政府による浦上信徒配流事件の顛末によりキリスト教布教黙許時代が始まることを考えるなら、このあたりの事情は、近代日本史全体、また日本のキリスト教全体にとっても無視できない歴史の舞台裏となるものです。広い目でこの時代を見ていくために不可欠な書といえるのではないでしょうか。

 

3.明治キリスト教をかたちづくった人々を知るために……キリスト教文化学会編『プロテスタント人物史―近代日本の文化形成』、池田敏雄著『人物中心の日本カトリック史』、高橋章編『近代日本のキリスト者』

明治のキリスト教といって思い浮かぶ人物はだれでしょう。おそらくもっとも有名なのは内村鑑三ではないしょうか。カトリックの宣教師としては、別項で紹介されるプチジャン神父、ド・ロ神父でしょう。ところが明治のキリスト教を形づくった人々はたくさんいます。そして、プロテスタントの何人かは、近代日本思想史・文学史にも名を残した人々がたくさん。その人たちのことを知るための群像劇的入門書とでもいえるような本がいくつか発行されています。

キリスト教文化学会編『プロテスタント人物史』(ヨルダン社、1990年)

キリスト教文化学会編の『プロテスタント人物史―近代日本の文化形成』(ヨルダン社、1990年)は表紙(画像参照)に記されているような人物が、言論・思想・教育・文学・社会改良・女性向上・国際交流・文化後援者といった項目に分類して、それぞれ生涯と思想・業績の主なものが紹介されています。近代日本の文化・思想の形成にどれだけのキリスト者が寄与し、影響を及ぼしたかを概観することができます。

池田敏雄著『人物中心の日本カトリック史』(サンパウロ、1998年)は、日本のカトリック教会の歴史に足跡を残した人物をそれぞれ簡潔に紹介するもの。池田敏雄師は聖パウロ修道会司祭で、かねて聖人たちや殉教者たちなど、人物伝を通してカトリックの歴史を伝えてきました。この本は、ザビエルをはじめとする「キリシタン創立時代」の章、26聖殉教者や高山右近などを紹介する「キリシタン受難時代」に続き、プチジャン司教などを紹介する「キリシタン復活時代」に続いて、「明治の開拓時代」(ド・ロ神父ら6人)、「明治後期・大正・昭和初期の時代」(18人)、「軍国主義による苦難の時代」(20人)、「戦後の布教時代」(4人)、「教会現代化の時代」(4人)の各時代の人物が紹介されます。広い意味で幕末・明治後期までの人物ではよく知られた人はごくわずかで、一般に知られていない宣教師や修道女、邦人司祭に関する貴重な情報源となっています。だれしもが経験した近代日本の歴史を背景に信仰と宣教に生きた人々の生きざまの一端をかいまみるのに大変優しい案内となっています。

高橋章編著『近代日本のキリスト者たち』(パピルスあい、2006年)もこうした人物紹介的な歴史入門書と貴重なものです。明治・大正・昭和・戦後(最後は遠藤周作)に活躍した23名の人物が簡潔に紹介ささています。活躍期が昭和の初めまでの人としては(生年順にあげると)C. M. ウィリアムズ、ニコライ、津田仙、マラン、新島襄、ケーベル、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造、別所梅之助、山室軍平らが並び、近代日本のキリスト教諸教会と時代全体に目を配り、また知られていない人物をも掘り起こそうとしています。このような全キリスト教的な視野(エキュメニカルな展望)はこれからもますます必要となっていくとすれば、本書は先駆的な企画だったといえると思います。

  (AMOR編集部)


トピック1 日本近代キリスト教事始め~それは外国人居留地から始まった

今年は、安政条約160 周年のほうが重要

近年、150 年記念が相次いでいます。カトリック教会では、2012年には、カトリック横浜司教区で横浜における最初の教会設立から150 年、2015年には信徒発見150 年、続いて大浦天主堂献堂150 年、2017年、浦上四番崩れ150 年も記念されました。こうして、21世紀の今、幕末明治維新期のカトリック「再宣教」の歩みが回帰してきます。これからすべての歩みが150 年という周期をもって思い起こされていくでしょう。

しかし、近代キリスト教の歩みを全体としてふり返ってみるとき、はっきりとした始まりがあることに気づかされます。それは、1858年からの米国をはじめとする諸国との修好通商条約、いわゆる安政の五カ国条約の締結です。今年は明治維新150 年というよりも、安政の五カ国条約締結から160 年ということも意識したいと思います。そこでの取り決めにより1859年に長崎、神奈川(横浜港)、箱館が開港。他は諸事情から延期され、1867年に兵庫開港、大阪開市、1868年に新潟開港、江戸開市となります。

これらの出来事が、カトリックの再宣教、他の諸教会の宣教の始まりを告げるものとなります。まだキリスト教の禁制下にあった徳川幕府時代には、表向きには宣教ではなく、宣教師も通訳官として入り、神学校もラテン語塾という建前で始まるなど苦心の活動は知られるとおりです。また、どうして、日本の近代キリスト教がこれらの都市から始まったのかは、日本の開国事情がそうさせていたのだということは、逆に新しい発見です。

 

宣教師みんな“外国人居留地仲間”

そして、開港地、開市地にできた「外国人居留地」がすべての宣教活動の最初の拠点となっていきます。横浜居留地は1859年から山下町を中心に造成、箱館の居留地は、1859年の開港から元町一体、長崎居留地は大浦一帯の海岸を埋め立て)1860年から造成。新潟は1868年開港後も外国人の来住が少なく、居留地は形成されず。1868年1月に開港された神戸港関連では、神戸村に外国人居留地が形成。1868年に開市された東京は築地鉄砲洲(現中央区明石町)に居留地が形成され、大阪では1868年開港に伴い、宇治川と木津川の分岐点にある川口に外国人居留地が形成されたという次第です(このあたりは、図書紹介コーナーの高木一雄著『日本カトリック教会復活史』が詳しく経緯を述べています)。

フランス、イギリス、アメリカ、ロシアからやってくる、カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸教会、ロシアの正教会もすべての布教活動は、これら外国人居留地が舞台であり、拠点となっていました。近代キリスト教の歴史知識は、教会・教派ごと分けられた縦の動向として語られることが多いですが、すべては開国(開港・開市)に基づく外国人居留地での活動という意味で共通の特徴を帯びています。

明治初期の神戸居留地

大浦天主堂の献堂(1865年)から始まる信徒発見(潜伏キリシタンのカトリック司祭発見)の出来事は、旧幕府からの迫害(浦上四番崩れ)、引き続き明治維新政府による浦上信徒配流政策へと引き継がれ、その顛末と政府の文明開化、欧米諸国との交渉前進の中で、徳川時代以来の切支丹禁制の高札が撤去され、布教黙許時代に入ります。浦上、さらに今村・伊万里のカトリック信徒への迫害政策が、結果的に、その後の全キリスト教諸教会の宣教の前史となっていることにも、今日からは目を向けなくてはなりません。

 

今も外国宗教?

ちょっと前までは、キリスト教というと「外国の宗教」というイメージがあったのかもしれません。カトリック教会では、たしかに1960年代前半、約50年ちょっと前まではラテン語でミサが行われていたのですからじっさいにそうであったでしょう。しかし、今やどの教会の礼拝に出ても日本語で行われていて、日本で宗教というと神道・仏教・キリスト教とあげられて、すでに日本に定着している宗教という目があるのかもしれません。ですが、近代宣教の始まりの舞台をみて、その前衛基地となっていた港町や外国人居留地の姿を想像すると、日本という国におけるキリスト教の位置は、160年前、150年前とあまり変わっていないのではないかとさえ思えてきます。

明治の歴史を見ることは、現代日本のキリスト教に足元を見直す作業にほかならないと思います。この時代を生きた宣教師や信徒たちの足跡を自分たちの内面で感じ取っていきたいと思います。

「新ながさきキリシタン地理」のシリーズもその意味で、併せてお読みください。

(石井祥裕/AMOR編集長)


トピック2 キリスト教の「神」が生まれた時代

キリスト教が「神」というのは当たり前

キリスト教は神を信じ、神の子、救い主であるイエス・キリストを信じる宗教ということはよく知られていると思います。この神を「神(かみ)」とすることはもう定着していて、違和感を抱く人が少ないどころか、この語はキリスト教の専売特許の用語と思われているかもしれません。信者からも、信者でない人からも。しかし、日本には神道が昔からあり、神とはもともと日本宗教のもの。キリスト教の神を「神」と漢字表記し、「かみ」と呼ぶことが通例となり始めたのは、まさに明治からのことです。近代の日本語訳聖書の歴史をひもとくと、そこにたどりつくまで紆余曲折があったことがわかります。海老沢有道氏の『日本の聖書―聖書和訳の歴史』(日本基督教団出版局、1964年)がこのあたりを調べるのに重要な書物ですが、これを踏まえて批判的な検討を加えた鈴木範久氏の「『カミ』の訳語考」は、この問題に関するきわめて的確な論文です(『講座宗教学4 秘められた意味』東京大学出版会、1977年、281~330頁)。

 

「神(かみ)」という訳語が一般化した経緯

鈴木氏の所説に沿って、「神(かみ)」という訳語が定着するまでの経緯を簡単に見てみます:

(1)キリシタン時代、ザビエルがラテン語のデウス(神)を当初「大日」と訳したことは有名だが、ただちにその問題性に気づき、キリシタン時代のカトリック宣教の中では、ラテン語の「デウス」がそのまま使われた。一部で「天主」を使う例も見られた。

(2)近世中国では、「上帝」「天主」が使われていた。やがて中国人の礼拝との区別を問題とする論議(典礼問題)を経て、教皇庁は「天主」のみを公認し、中国的な信仰対象である「天」「上帝」は禁じた。

(3)ところが清朝中国に列強が進出し、英米人宣教師による布教が進むなか聖書の中国語訳に際して、Godの訳語として「上帝」か「神」かの大論争が起こった。英国系宣教師は「上帝」、米国系宣教師「神」をとり、併存するようになった。他方「天主」という訳語も提案されたが、承認されることはなかった。
(このあたりの文化の翻訳の問題については、柳父章著『「ゴッド」は神か上帝か』岩波書店、2001年が扱っていて重要)

1881年(明治14年)の新約聖書(国立国会図書館デジタルコレクションより)

(4)近代日本キリスト教の聖書誕生の先駆者であるギュツラフによるヨハネ福音書の訳(1837年)では、神が「ゴクラク」と訳されていた。ベッテルハイムによる翻訳(1855年)では、神は「シャウテイ」つまり中国での訳語「上帝」と訳されていたが、その改訂版(1873年)では「神」と訳されている。他方、有名なヘボンとブラウンによる1872年のルカ福音書、ヨハネ福音書の訳でも「神」と訳されている。その後、1880年に完成し諸教派の代表委員からなるいわゆる委員会訳(明治訳)でも「神」となり、以後定着する。

(5)このような経緯において、中国で「上帝」か「神」かの論争で問題になったほどの議論は生じなく、あっさりと決まったという。その背景に、(a) 中国語訳で「神」とする訳が日本にも流布していたこと、(b) 復古神道において「神」は創造者、至上者との観念をおびていたこと、(c) キリシタンが「天主」と訳していたことから「天主」が避けられたことがあるという。

 

カトリックでは長く続いた「天主」と「神」の二重状態

このようにプロテスタントの宣教師たちの共同翻訳事業を通じて「神(かみ)」という訳語が一般化していきました。カトリックの近代日本語訳にもプロテスタントの和訳事業に関わった高橋五郎が協力していたため「神」は自然に入ってきた一方、他の教会著作や祈りの中では「天主」も使われています。明治の終わり、1910年に出たラゲ訳新約聖書も「神」を採用し、カトリック教会の準標準訳となっていく過程で、「神」がカトリックの側では一般化していくようになったようです。

それでも、教会生活や教理教育書(カテキズム)、祈りにおいては「天主」が使われるという二重状態が長く続きます。そこで、『カトリック大辞典』第1巻(1940年)では、「神」という項目の冒頭に次のような断りを入れています。「カトリックではデウス (Deus) に対して天主の語を用い、教理に於いては神の語をつとめて避けることになっている。従って本辞典に於いても従来の慣習上已むを得ざる場合の外、特に教理に関しては教外者の理解を妨げざる限り成るべく神の代りに天主の語を用いることにした」。その上でこの「神」の項目の中で、哲学的な神論の文脈では「神」、キリスト教の教理に関するところでは「天主」を用いるという苦心をしています。

神が避けられた背景に、国家神道、天皇=現人神論との対峙があったことも知られているところです。ともかくこのような二重状態は、1959年に解消され、カトリックでも神呼称は統一されました。戦前からの変化が背景の一つであることはいうまでもありません。それでもなお、四半世紀祈りの生活では不思議な二重化がありました。ほんの四半世紀前の1993年まで、聖母マリアへの祈り、現在の「アヴェ・マリアの祈り」は「天使祝詞」または「めでたし」と呼ばれていて、そこでは、「天主の御母聖マリア、罪びとなるわれらのために今も臨終のときも祈りたまえ」と祈られていました。「神の母聖マリア」という言い方も教会で広まりつつあったなか、すでに暗唱して親しんでいた祈りのためか、我が口が「てんしゅのおんははせいマリア」と唱えていても、違和感も問題意識も生まれませんでした。

 

「神」問題再び?

上で紹介した鈴木範久氏は、キリスト教の神を日本語の「神(かみ)」と訳すことからキリスト教用語として一般化したなかで、神の均質化、画一化が起こってきた反面、多義化も進行したと指摘しています。日本の「カミ」との違いや緊張関係が宣教の場面で鋭く意識されたときもありますが、日本の「カミ」にしても多様化、多彩化し、また、キリスト教の「神」に対してさまざまな見方、考え方が湧き出てきているのが現代かもしれません。

上記新約聖書のヨハネ福音書の冒頭部分(クリックで拡大、国立国会図書館デジタルコレクションより)

最近、カトリック信徒であるジャーナリストの南条俊二氏は『なぜ「神」なのですか -聖書のキーワードのルーツを求めて-』(燦葉出版社、2011年)で、「神(かみ)」という訳語が果たして適当であったのか、上述のような経緯の洗い出しと、再検討を提案しています。あっさりと定着しているかのような「神(かみ)」という用語の無力さを指摘しているという意味では、注目に値する問題提起です。

2016年には、「カミッてる」ということばが流行りました。プロ野球の世界で出てきた言い方です。新聞やネットニュースでも「神対応」「神疑問」といった、おそらく宗教とは無関係と思われる次元で「神」用語が目立つようになりました。耳をとめてみると、日本語世界のなかの「神(カミ)」という語感には案外なじむような、自然な感覚に驚かされます。そうした表現の余韻の中、教会で、ミサで、また典礼書・日本語訳聖書・神学書などで「神」という文字が出てきて、我が口で「かみ」と発音するとき、なんとなく違和感が増してきているのも事実です。気にしすぎでしょうか?

上述のような経緯を知ると、キリスト教の神が「神(かみ)」とされるようになってたかだか150年、今は普遍化しているといっても、ほんの5、60年のことにすぎません。しかも、日本語世界古来の「神」という漢字、「カミ」という音の世界にいわば間借りしているのも同然。にもかかわらず、キリスト教宣教というと、“間借り人がやたら偉そうなことを言う”だけにすぎなかった面があるのではないでしょうか。

「神(かみ)」という語を使うことの問題性やそこに本来含まれている緊張関係を新たに意識化することを、明治を思い起こす意義の一つと考えるのはいかがでしょうか。

(石井祥裕/AMOR編集長)


アート&バイブル 7:玉座の聖母子

フラ・アンジェリコ『玉座の聖母子』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

フラ・アンジェリコには「べアート(至福の人)」という呼称が冠されることがあります。これは彼を讃えるものですが、カトリック教会は正式に彼を「福者」としたことがなかったにもかかわらず、「ベアート・アンジェリコ」の呼称は広く流布されていました。ヨハネ・パウロ2世はこの現実に気付き、1982年10月3日、正式に彼を「福者(べアート)」に列しました。名前の通り、彼の描いた作品は、見る人を祈りに誘います。心に清らかな光を受けたように感じられるのは、祈りながら描いた彼の生活に根ざしていると思います。

彼の代表作品は、今もフィレンツェのサン・マルコ(修道院)美術館で見ることができ、修道院の各部屋に仲間の修道士の祈りの題材を描いたという点でとてもユニークな修道院・美術館です。またこの修道院に世界で一番、有名な「受胎告知」のフレスコ画があります。

フラ・アンジェリコ作『玉座の聖母子』(1437年、ウンブリア国立美術館所蔵)

この『玉座の聖母子』はペルージアのサン・ドメニコ修道院の小聖堂の祭壇のために描かれたもので、三連祭壇画の中央の部分に「玉座の聖母子」が置かれ、その左右には「聖ドメニコと聖ニコラオ」と「洗礼者ヨハネとアレキサンドリアの聖カタリナ」が配置されていました。

 

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスの頭の後ろに描かれている光背には赤い十字架があり、フラ・アンジェリコの作品の特徴となっています。

『玉座の聖母子』中央部

(2)子イエスは右手をあげ、2本の指を立てて祝福を与える姿です。左手には赤いバラの花を一本携えています。

(3)左右に立つ天使たちがバラの花が入った籠を捧げており、これはイエス・キリストの与える祝福が数多く用意されていることを示しています。

(4)左右に立つ天使の服の色彩も赤(愛と情熱)と青に金の星(知性・落ち着き)というマリアの服と同じ色彩で描かれています。

(5)イエスを抱きかかえる聖母の顔も、幼く見えるほどに若く、お告げの時のマリアが少女に近い年齢であったことが伺えます。

(6)フラ・アンジェリコの描く天使は、清らかで、かつ女性の姿です。天使を女性の姿で描くことはフラ・アンジェリコの残した影響の一つです。

(7)天使の服や羽根は鮮やかな色彩で描かれており、また額には聖霊の炎が描かれています。

 


新ながさきキリシタン地理 3

「宗教改革500年式典」が長崎にもたらしたもの

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

2017年11月23日(木)、カトリック浦上教会(長崎市)にて、
日本福音ルーテル教会・日本カトリック司教協議会共同主催
「宗教改革500年共同記念――平和を実現する人は幸い」が行われた。

2017年は、
マルティン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルクの地にて、
95箇条の提題を発表した1517年から500年の年で、
国内外で様々な催しが企画された。

丘の下から見た当日の浦上天主堂

とくにこの浦上天主堂での式典は、
数ある国内の「宗教改革500年イベント」でも最大級のものであり、
時期も最後ということでまさにクライマックスの様相を呈しており、
ずいぶん前から取材を予定しており楽しみにしていた。

2008年に、同じく11月に長崎で行われた
「ペトロ岐部と187殉教者列福式」があり、それを彷彿とさせた。
この「式典」が長崎にもたらしたものは、
まずは県外からの人であった。
しかし「列福式」の時と違っているのは、
カトリック以外、ルーテル派の信徒もまた集まっていることである。

そのルーテル派の信徒たちを浦上天主堂にて待ち構えていたのは、
午前中の橋本勲神父(カトリック中町教会主任司祭)からのユーモアと笑いであり、
昼食用に浦上教会信徒が無償で振舞ってくれたおにぎり2個とお茶であった。
(東京から来ていた神父さんが感激していた!)

橋本神父の話は、大変貴重なもので、
今式典で一番沸いた場面で、
はじめにしてクライマックスのように思われた。
内容としては、
県外の人にはあまり馴染みのないものであったかもしれないが、
長崎の地の凝縮された「ミクロコスモス」が、
惜しむことなく開陳された。
「沈黙の民」としばしば呼ばれる長崎の人が、
なかなか外の人に話さない貴重な内容だったように思う。

冒頭には「免罪符」についての軽妙洒脱な話で、
ルーテル派の信徒の心をつかみ、
浦上キリシタンの「崩れ」の話、
「浦上五番崩れとしての原爆」の話、
「十字架型の平和」の話へと転じ、
最後に「キリスト一点しぼり」という橋本神父独特の言い回しで、
キリスト教信仰の核心を再確認した。
(ビールは「一番搾り」です、と笑いもとった!)

こちらの式典での橋本神父の講演の詳細は、
『福音宣教』2018年3月号(2月15日発売、オリエンス宗教研究所)
に掲載されている。

会場にはバチカン、ドイツからの来賓も

この式典の後、
私は郷里が長崎であり土地勘があることから、
二組の方々に長崎市内を案内した。

一組目はルーテルの信徒ご一行である。
まずご案内したのは、
同じく浦上の地にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」である。

橋本神父が本島等市長の話を引用した際に出た「被害と加害」ではないが、
原爆においても、
日本による「加害」の歴史もまた存在する。
戦争捕虜だった英米人も、連行された朝鮮人も被爆した。
それに際して、
日本人の手によってこうした碑が建てられていることに救いを感じる。

この碑建立を企画・実行したのがルーテル派牧師で、
長崎市議会議員でもあった岡まさはるであった。

この碑の前にいた際に、
ルーテル派牧師というご縁か、長崎は今も出会いの町ゆえか、
さらに知り合いの東京から来たルーテル派の牧師さんと出会い、合流した。

そこから長崎駅前にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」へ。
こちらも観光ガイドブックに載らないスポットであろう。
まさに「原爆加害の歴史」を伝える場である。

その後夕食をともにし、計らずして「一番搾り」もともにした(笑)。

浦上天主堂から車での帰りに、「主の平和」

翌朝は、もう一組、
東京から来たAMORでもおなじみの同門カトリックの方をご案内。

カトリック関係の方は長崎に来られることが多い。
「たまにはキリシタン関係以外を」とのご所望で、
大村藩蔵屋敷跡地(現中町教会)、
光永寺(福澤諭吉逗留地)、
シーボルト記念館、
亀山社中、
長崎歴史文化博物館などへ。

「十字架型の平和」。
どちらが左右かは知らないが、
カトリックとプロテスタント、
「キリスト一点しぼり」ができただろうか。

そんな想いを胸に、郷里長崎から東京へ戻ってきた年の瀬であった。

 


エンドレス・えんどう 13

服部 剛(詩人)

ある神父さんと久々に再会し、お互いの近況報告をしているうちに、僕はさまざまな場面を思い起こしました。話題はひょんなことから、かつて深層心理に興味を持ち、読みふけったユングの学説に及びました。「我々が今、見ている風景というのは、深層心理の現れなのです」と、神父さんはユングの著書の記憶を辿るように語りました。

遠藤はユングの思想に影響を受け、人間の魂の領域に拡がる無意識の世界について思いを巡らせました。

『深い河』の7章では、インドを旅する登場人物たちがナクサール・バガヴァティ寺の地下へと入っていきます――。そのとき、すり減った石段を下りる美津子は心の中の世界に入っていくような感覚を受けました。暗がりの中で旅人たちを待ち受けていたのは、女神・チャームンダーの像で、添乗員の江波は、次のように語ります。

「彼女は……印度人の苦しみのすべてを表しているんです。長い間、彼等が苦しんできたすべての病気にこの女神はかかっています。コブラや蠍の毒にも耐えています。それなのに彼女は……喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている。」(*1)

この箇所を読んだ僕の心に、人々の苦しみを共に背負うチャームンダーの姿は、遠藤文学で描かれている<無力なイエス像>のイメージに通じる、という思いが湧いてきました。『深い河』の3章を振り返ると、十字架上で頭を垂れるイエスの姿に重ねて、旧約聖書のメッセージが引用されています。

「彼は醜く、威厳もない。
みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見すてた
忌み嫌われる者のように、
彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った」

遠藤は『深い河』を書くための取材旅行でインドを訪れたとき、美術館に展示されたチャームンダー像の前で思わず足を止め、しばらく立ち止まっていたそうです。遠藤は、その悲愴なる女神の姿に、女手ひとつで自分を育ててくれた、在りし日の母の姿を重ねていたのかもしれません――。そして同時に、あまねく人の心の底に宿るであろう<母なるもの>の囁く声に、遠藤は静かに耳を澄ましていたのでしょう。

 

*1 遠藤周作『深い河』(講談社)より引用。