スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 44

古谷章・古谷雅子

6月3日(土) フィステーラやムシアへの遠足

宿題の三つ目は、新大陸発見前までは「陸の果てるところ」と思われていた岬へ行くことだった。NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会著『聖地サンティアゴ巡礼(増補改訂版)』(ダイヤモンド社、2013年)から引用すると

「スペインの最西端にある岬フィステーラは地の果てという意味を持つ。中世ではガリシアのこの地が生と死の境目となる場所と考えられていた。巡礼の旅の締めくくりに昔の人は、まず海で身を清め、身に着けていた衣類を燃やし、西の果てに沈む太陽を眺めて、古い自分に別れを告げたという」

サンティアゴからフィステーラまでは、100km近くある。さらにムシアまでは30km、歩くと4日かかる。そのまま巡礼者として徒歩で向かう人もいるが、アルベルゲやモホン等は十分ではない。私たちは一人€40、スペイン語と英語の両方の説明付きのガイドツアー(バス)で行くことにした。30人ほどの参加者だが、徒歩でエル・カミーノを終えた人もいれば一般観光客もいる。ガイドのセニョリータの人柄と素晴らしい天候のおかげで10時間の強行遠足も和気藹々として楽しかった。

バスで走るとガリシア州が如何に緑豊かなところかよく分かる。建物の外見はもちろん異なるが、雨が多いので農村のたたずまいは日本に似ている。途中、14世紀の石橋を残す静かな村プエンテ・マセイラ、海に直接滝がなだれ込むエサロの滝に寄り、昼頃港町フィステーラに到着。海鮮を食べさせる店が軒を並べている。昼食は各自なので、私たちは旅行社の日本人研修生のC子さんと3人でSさんが推奨した「エル・プエルト」という景気のよい店に入った。テントの下のテラス席に座りスペイン語の堪能なC子さんのおかげで首尾よく名物のスープ、盛り合わせ、白ワインを注文した。塩茹でしてオリーブオイルをかけただけの魚貝の美味しいこと、さすがガリシアの海辺だ。ペルセベス(カメノテ)と奮闘していると隣のテーブルの現地の人が親切に食べ方(剥き方)を教えてくれた。最後にリキュールのサービスもあり、昼間から解放感いっぱい。内容は違うだろうが、昔の巡礼もここまで来た人たちは(おそらくパンとチーズぐらいしか食べていなかったのではないか)、海の幸で精進落としをし、ホタテの貝殻を持ち帰ったのだろうか。

それぞれに満足した客を再びバスに乗せ灯台の近くまで行く。まさに陸の果てるところだ。岩場を歩き、岬のモホン0km地点の先で大西洋に向き合う。中世の人はどんな感慨を持ってこの「地の果て」に立ったのだろう。昔のしきたりをなぞる巡礼がいるのだろう、岩場には衣類を燃やすことを禁じる看板があった。それにしても午後の日差しにきらめいて眼下に広がる海は期待以上に美しかった。もし徒歩で来たならこの感激はさらに倍加しただろう。

さらにバスはムシアを目指した。時間の関係からか町で下車せずに岬の駐車場へ。ここが本当のゴールだ、という人もいる。聖母マリアが舟に乗って出現して伝道に行き詰っていた聖ヤコブを励ましたところと伝えられ、「舟のマリア聖堂 Santuario de Nuestra Señora da Barca」がある。新しい建築のような印象には訳がある。2013年12月25日クリスマスの朝、雷がこの教会に落ちて燃え上がり、屋根や内部は丸焼けになってしまったのだ。この年は前述したように7月にrenfeの鉄道事故があり、ガリシアにとっては胸の痛む劇的な年として記憶されているようだ。

今は修復され、また近くの丘には落雷を象徴する割れ目の入った高さ10m以上の巨大な石のモニュメントが作られている。丘から紺碧の海に向かって白い石畳が続いて、フィステーラと同様、というかそれ以上に美しく緊張感のある風景を成していた。茫々たる大西洋、雄大に湧き上がる雲、押し寄せては砕ける波、髪を逆立たせるような強い風。波や風のように激しい動きにシンクロナイズし、日常では感じることのないざわざわとした説明のつかない激情が湧いてくるのだった。

バスがサンティアゴ市内に戻ったのは夜の(といっても明るいが)7時過ぎ。ランチでも見学でもお腹と胸がいっぱい、ということで、宿の近くのレストランで定食を軽く食べる。

 


アート&バイブル 5:聖母子と聖クララ

オラツィオ・ジェンティレスキ『聖母子と聖クララ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 生没年1563~1639)は、バロック期に活躍したイタリアの画家です。カラヴァッジョ(生没年1573~1610)から大きな影響を受けた画家の一人です。娘のアルテミジア・ジェンティレスキ(生没年1597~1651頃)は、当時としては珍しい女性画家でした。

オラツィオ・ジェンティレスキ作『聖母子と聖クララ』(1615~19年頃、国立マルケ州美術館所蔵)

オラツィオ・ジェンティレスキ、本名オラツィオ・ローミは、ピサに生まれ、1570年代後半からローマに移り住みます。その間、風景画家アゴスティーノ・タッシと交流を持つようになり、ロスピリオシ宮殿、クイリナーレ宮殿などの壁画制作に参加したと推定され、その他にもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(『キリストの割礼』)、サン・ニコーラ・イン・カルチェレ教会、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(『キリストの洗礼』)、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂などでもフレスコ画の制作に携わりました。したがって、ローマの主たる聖堂で、ジェンティレスキの作品を見ることができます。

しかしながら、ジェンティレスキが最も影響を受けた画家は、当時ローマにいたカラヴァッジョでした。ジェンティレスキはカラヴァッジョとともにローマの通りで騒ぎを起こしたことも伝えられており、1603年にはカラヴァッジョに対する訴訟の証人として法廷に立ったという記録があります。

カラヴァッジョがローマから去った後はディティールの正確さや色彩・色調の明るさを発展させてゆき、マニエリスムの影響も見られるようになりました。1613年から1619年にかけてはマルケに滞在、1621~1623年にはジェノヴァに移り、その後、パリに移ってフランス王妃マリー・ド・メディシス(生没年 1573~1642)に仕え、1626年にはイングランドに赴いて国王チャールズ1世(在位1625~1649)のもとで働き、余生をイングランドで送りました。彼の作品は徐々に型にはまったものになりましたが、イングランドの貴族社会からの評判はよかったようです。1639年ロンドンで死去。

(Wikipedia 日本語版、小学館『世界美術大事典』などを参照)

 

カラヴァッジョ作『ロレートの聖母』(1604~1606年、サンタゴスティーノ教会所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)カラヴァッジョの影響を受けたといわれるジェンティレスキですが、人物を照らす光はやわらかく画面左上から、右下へと人物を包んでいます。カラヴァッジョの影響からジェンティレスキ独自の画風へと変わりつつある一枚であり、聖母子と聖クララの親密さが優雅に表されています。幼子の口元と手に注目してみてください。口元は何かを語りかけるように、手がクララの胸元(心)に触れようとしているように見えます。

(2)クララはアッシジのフランシスコの精神を最も純粋に受け継いだ聖人であり、アッシジではフランシスコと並んで称される聖人です。ジェンティレスキも聖クララに特別な尊敬を抱いていたことは、この絵の中で、幼子イエスを包む白い布とクララが身に着けているベールや肩掛けが同じ白(純粋、無垢、清らかさ)であることが強調されていることからわかります。聖母マリアの衣服はクララよりも世俗の人々の服装に近く、カラヴァッジョの描いたロレートの聖母などの姿に似ているように思います。

 


「えきゅぷろ!」はどう作られたのか? 実行委員カトリック代表がふりかえる、本音と葛藤

宗教改革500周年を迎えた2017年。教会が対立から対話への大きな足跡を残しつつある中、日本でもそれを象徴するイベントが数多く開催された。中でも「えきゅぷろ!」は次代の諸教派を担う青年たちが活躍したことで大いに注目された。当日の様子はすでにキリスト教各メディアで詳しく報道されている。

「えきゅぷろ!」は本年2018年も開催される見通しとなっており、その実行委員会でカトリック青年代表の黒須優理菜(くろす・ゆりな)さんに、イベントを振り返りつつ今後の展望について話を聞いた。これからのエキュメニカル運動、教会一致運動の姿と困難、やりがいについて考えたい。

 

 まず、「えきゅぷろ!」(エキュメニカルプロジェクト)について詳しく教えてください。

2017年8月19日にカトリック成城教会で開催された、超教派の青年によるイベントです。当日は120人以上の青年を様々な教派からお迎えしました。

えきゅぷろ!実行委員会・カトリック青年代表の黒須優理菜さん

そもそも、宗教改革500年の2017年、いろんな教派の青年が集まって活動しようということになったのですが、発端はルーテル教会の青年たちでした。私は2016年のヤンフェス(注1)にカトリックの青年として招かれました。そのときにルーテル教会の意志として2017年に向けてエキュメニズムの活動をしていきたいと聞かされ、カトリック側にその後持ち帰った際、学び合えたらいいよねという話になりました。私はそもそもプロテスタントのことはよく知りませんでしたし、存在や違いは知ってはいたけど対立しているイメージが先行して敢えて触れてこなかったんです。

それと同じ頃にカトリック清瀬教会で、カトリックとプロテスタントについての勉強会をしようという動きがあって、そこの青年から私に協力してほしいという話が来たんです。もし可能ならばということで。その話をルーテル教会の青年に繋いだところ、せっかくなら大きなイベントをやろうということになりました。

あんなに大きい大会になるとは夢にも思っていなかったですね。せいぜい交流イベントくらいかと。ちなみに日本基督教団の青年たちとの繋がりもヤンフェスが一つのきっかけでしたし、それ以前から交流してきた青年たちもいました。

 

注1:「ヤング・フェスティバル」 1977年に日本福音ルーテル教会市ヶ谷教会高校生会を中心に始まり、その後名称変更。2012年に市ヶ谷教会の宣教60周年を記念する形で復刻、2016年に行われた5回目のイベントでは他教派にも広く参加を呼びかけた。

 

それでイベントに向けて体制を整えて行ったわけですね。
当日のプログラムはずいぶん練りこまれていて、考え抜かれた内容でした。

私は礼拝とパンの分かち合いプログラムの担当チームでした。当初から礼拝は何かしらの形でしたかったんです。それをしないと意味がないですから。それに先生方のトークセッションを加えての二本立てにしていくことになりました。

礼拝のプログラムを作る段階はすごく大変でしたね。毎回ミーティングでは4~5時間ぶっ通しで議論しました。それでもまとまらなくて。

一番の問題は聖餐式、パンの扱いです。これをどうするか。三教派しかいないのに聖餐の頻度も意味合いもぜんぜん違うわけですし、私たちカトリックとしては譲れないところのものがあったんです。これはキリストの体である、という教義を否定したくなかった。どうして一緒に聖餐できないのかというと、実体変化によってパンではなくなるからです(注2)。キリストの体になります。ルーテル教会ではパンでもありキリストの体であるという共在説を採ります。日本基督教団からは象徴説という言葉を教えてもらいましたが、でも教団内部の教派によってさらにそれぞれの理解がある。

当日のグループディスカッションの様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

他教派の青年たちは、カトリックさえ良ければ礼拝の中で聖餐できるよねっていう立場だったのですが、同じものを食べていることにならないじゃないですか、それって。それでは意味がないと思ったんです。カトリックのミサの感謝の典礼でパンを分かち合うというのは神と人との繋がりとともに、教会の中の私たちが同じものにあずかるということに意味があると思うんです。同じものを食べていても違う理解で食べているとしたら、それは別のものを頂いていることになると思いました。それでは意味がなくなってしまうんです。私たちカトリックとしては、パンをご聖体、キリストの体ではないと考えるのには抵抗がありました。譲れませんよね。

それで礼拝の中では聖餐はしない方向が決まりました。世界的な大きな合同礼拝でやってないものを青年だけで決めてできるわけがありません。やってしまって教義的に大丈夫なのかも判断できないし。それで礼拝と分けたんです。

 

注2:「実体変化」 聖変化、化体説とも。主の晩餐の制定句(1コリント11章23~25節、ルカ22章14~20節、マタイ26章26~29節、マルコ14章22~25節)に基づいて、キリスト者は古代から、祭儀で拝領されるものはイエスの体と血であると確信してきた。その神学的説明は早くから哲学用語を用いて行われ、「実体」が変化するという表現は5世紀後半から現れる。12世紀から教会公文書にも用いられ、トマス・アクィナスによってアリストテレス哲学の用語で補強された。宗教改革者たちは思弁的に過ぎるとしてこれを退け新たな聖餐論を展開したが、カトリック教会はトリエント公会議で「パンとぶどう酒の聖別の後、キリストが真に、現実に、実体的に (substantialiter) パンとぶどう酒の形色 (species) のもとにあり」、「聖別によってパンの実体がことごとくキリストの体の実体に変化し、ぶどう酒の実体がことごとくその血の実体に変化する」と宣言し、実体変化説の路線を確認。パンとぶどう酒の究極的な現実は、人間にご自身をお与えになるキリストご自身であるということが表明されている。

 

そういったこだわりがイベントそのものを一段と深めたと思います。

使徒言行録(2章46~47節)にある通りですが、同じ場所で同じ食卓を囲んで祈るというのは教会の原点だから、せめてそれはしたいよねって話し合いを続けました。

教会の原点に立ち戻りたい。そこでは教派になんか分かれてないし、もちろん「キリスト教」が確立していたかという別の問題はありますけど、やっぱり一緒に食卓を囲んで祈るという原点に立ち戻るということで、種無しパンを焼いて、礼拝の外で、一緒に食べるという企画になりました。

逆に、礼拝の中で同じものを食べることにこだわるなら、パン以外なら何を食べても抵触しないんじゃないかって意見もあったくらいです。疲れてましたね。そうしてようやく礼拝の外でならみんなでパン食べれるじゃんって気付いたんです。

そのような話し合いがあったからこそ、お互いがパンや聖餐式をどう考えているのか、知る機会になったのだと思います。

「えきゅぷろ!」の収穫は、お互いの違いがわかったことです。何が違って対立していたのか。500年間、私たちの間で壁になっていたのは何だったのか。その壁そのものを知ることができました。それがあっても、結局最終的に同じものを信じていたんだってことにたどり着けたかなって。教義の統一は青年の仕事ではないかもしれませんが、私たちが信じてるのは同じキリストです。そこへの道が違うだけなんだろうなって思った。全部を一致させるというよりは、協働することができるというのが私たちにとっての答えです。教義的にどっちかにそろえることも将来的にはありえるのかもわかりませんけど、青年の段階では、やり方は違っても同じ方向を向いているんだ、ということを再確認することにすごく価値があるんじゃないかと思っています。

 

当日までこぎつけるのは大変だったことと思います。

実は私はあんまり(笑)。むしろいろんな人たちと連絡を取り合っていたメインの方々は大変だったと思います。代表は走り回っていましたし。青年だけではできなかったことです。チームプレーでやれたことはもちろんですが、先生方(カトリック:福島一基神父、シスター原敬子、日本福音ルーテル教会:浅野直樹牧師、日本基督教団:堀川樹牧師)が協力的だったのが大きいですね。パンフレットの宗教改革についての説明とか。これ作るの、めちゃくちゃ大変だったんですよ。私は上智で習ったことしか知らなかったから。作った文章を半分削られました。カトリックの人が書いたと丸わかりになるので、たとえ事実として合っていたとしても、視点が変われば別の見え方になるし、反発も出るかもしれません。それでルーテル教会の浅野直樹先生にご同席頂いて、書きながら校閲して頂きました。トークセッションでご登壇頂いたシスター原先生(上智大学神学部助教)にもご覧頂いたんですけど、シスターからは、全面的に向こうに合わせろということでした。逆にそこでカトリックが譲れないとか言ったら「えきゅぷろ!」が台無しになっちゃうし。お互いが歩み寄るためにはそれが本当に重要かなって。

当日の様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

宗教改革についての説明をはじめ、合同礼拝の式次第もそうなんですが、どこの教派にも寄りすぎていないんです。それで批判的な感想はほとんどなかったですね。すごく良かったとみなさん言って下さいました。

礼拝の話に戻りますが、3つの教派のスタイルから引っ張って作り上げたんです。日本基督教団の「証し」、礼拝を挟む前奏と後奏、聖書朗読があって祈って歌ってを繰り返すスタイルや、さらに全体のバランスに合わせてそれを3回に収めようとか、信仰宣言はルーテル教会に合わせるとか、主の祈りはカトリックと聖公会が使ってるものに合わせようとか。

聖歌の選曲もその姿勢で貫いています。今回の実行委員会の三教派からバランスよく採用しています。

それで、どの教派の人にとってもパンフレットを見ないとわからないものに仕上がりました。それが公平でよかったかなって思います。カトリックからは共同祈願を「教会の祈り」として取り入れてもらえました。そしたら他の教派のみんなが「カトリックに合わせて祈りは短くしよう」って。

お互いにすり合わせた結果ですね。

 

すり合わせるというより、お互いに高めあって、新しい合同礼拝のスタイルが出来たのではないでしょうか。

今後は、もっと他の教派にも入ってもらって豊かにしていきたいですね。

しかし、そもそもルーテル教会とカトリックが元々すごく近いから出来たことなのもかもしれません。それに日本基督教団も理解のある人たちが関わってくれていたんです。来年度は、聖公会やもっといろいろな教派、たくさんの方と交わる機会にできたらと思います。

(つづく)

聞き手(文責):石原良明(webマガジンAMOR編集部)


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 43

古谷章・古谷雅子

6月2日(金)

モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)再訪
ボタフメイロ(吊り香炉)の焚かれるミサ参列

最初の旅でレオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラを歩いた時は、到着の翌日にはマドリッドに戻らなければならない日程だった。最終日は到着後に巡礼認定事務所で証明書を受けたり(かなり時間がかかる)、列車のチケットの購入もしたりしなければならないので、モンテ・ド・ゴソはスタンプを押しただけで通過してしまった。しかしここは東からの巡礼路上で初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が遠望でき、下っていけばあと5kmで長い旅が終わるという心にとめるべき地点ではあったのだ。それで、もう一度訪れることにしたのだ。

市内からモンテ・ド・ゴソ行きの路線バスで20分ほど。車道から傾斜地に造成された住宅街を抜けて巨大なモニュメント(元ローマ法王の訪問記念碑)のある丘に登った。今一つ明澄でない空の下、尖塔を認識するのは難しかったが、ここにたどり着いた人々の解放感と感動の雰囲気に満ちている。中には帰途上の人もいる。往復を徒歩という人はかなりいるようだ。前の旅でも自宅の前から歩きだした人、帰りも歩く人に会った。丘の下方にはアルベルゲが兵舎のように何棟も並んでいる。大部分の人はここに泊まり、翌朝に余裕をもって市内に入る。11時までに巡礼証明書を受けた人の国名や人数が大聖堂で行われる12時のミサで読み上げられ祝福されるのだ。

さて、そのミサだが、世界最大と言われる吊り香炉ボタフメイロ(ガリシア語で「煙をまき散らすもの」)によって聖堂内に清めのお香が振り撒かれる儀式を是非見たかった。

儀式は決められた記念日や団体や個人が寄   進する場合しか行われない。二日後の聖霊祭では行われるらしいので事前偵察のつもりで大聖堂に行ってみた。すると入堂待ちする長蛇の列ができている。これから特別なミサが始まるらしい。もしかしたら最後にボタフメイロ儀式もあるかもしれない。入って分かったことだが、軍隊を祝福するミサのようだ。この国ではよくあることなのか? 大掛かりな合同演習があったのか、各連隊旗(?)を直立不動で支える兵士の一群が前に配置され、横には軍楽隊が並んでいる。兵士たちが既に着席しているところへ一般人がぎっしり入り、ミサが始まった。

私たちは祭壇の左手翼廊に立ったが参列者が多くて祭壇付近の様子は見えないしミサはすべてスペイン語(カスティージャ語)で執り行われるので私たちには分からない。しかし非常に厳粛な雰囲気だ。1時間ほどでミサが一段落すると中央に吊り下げられていたボタフメイロがするすると降りてきた。人の高さまで降りたら火を着け、はじめだけ人の手で、それからは滑車の反対側のロープを強めたり弱めたりして揺らしていくということだ。細部は見えないが白い煙が勢いよく噴出し始めた。パイプオルガンが朗々と鳴り響き、合唱が始まる。滑車の反対側のロープは5本の持ち手に分かれていて、それを深紅色の特別な僧衣をまとった5人のティラボレイロス(ガリシア語で「香炉持ち」)が巧妙に操って次第に振れ幅を増大させていく。なんと力強く見事なチームワークだろう。

参列者が固唾をのんで見守る中、ボタフメイロが20m程の高さまで上り、意志が乗り移った生き物のように凄まじい勢いで翼廊両端の天井にほぼ達する弧を描きながら往復して煙と香りを振り撒き、堂内の人々を清める。振れ幅がだんだん小さくなりながら降りてきたところで最後は別のティラボレイロスが抱え込んでボタフメイロを止めた。堂内の緊張が一気に解けた。この間5、6分であったと思うが恐ろしいほどの緊張と感動で参列者は完全に一体化していた。この儀式は長旅の果てにたどり着いた巡礼者の異臭を消すために11世紀に始まったと書いてあるものが多くみられるが、むしろ魂の浄化を劇的に体験化する儀式だろう。

これでミサの終了である。しかし今日はこの後に、軍楽隊の演奏が続いた。ワグナーの「楽劇タンホイザー序曲」、教会内でこの曲を聞くとは思わなかった。このあと堂内を巡ってから、日に照らされた現実世界へと外に出た。

二つの課題が1日で済んだのは望外の幸運か。しかし疲れた。宿に戻ってしばし休憩してからSさんに会い、フィステーラへの遠足の相談等を済ませた。明日の日帰りバスツアーの予約が取れた。スーパーマーケットで朝食や遠足のおやつを買って帰る。宿のキッチンには冷蔵庫も電子レンジも食器も揃っているので、朝食はずっと自炊で済ませることができた。

ようやく時間的なゆとりもできたので完歩祝いをすることにして、Sさんに教えてもらった「ペティスコス・ド・カルデアル」というしゃれたバルレストランに行った。カウンター席だったがリオハのワインを頼み、隣のオランダ人一行と話しながら美味しいタパスやコメ料理を食べた。スペイン在住だという日本人の女性画家も話しかけてきて(美味しいものを食べに時々サンティアゴに来るそうだ)、久々ににぎやかな夕食を楽しんだ。

 


エンドレス・えんどう 12

服部 剛(詩人)

遠藤文学について時々語らう年上の友とバーへ行き、カウンターで『深い河』についての話になりました。

文学に造詣の深い彼は、グラスを傾けながら少し眉間にシワを寄せて、「なぜ遠藤さんは晩年になってインドに赴き、仏教的な世界観を書くに至ったのだろうか?」と、僕に問いかけました。クリスチャンではない彼にカトリック信仰を押しつけたくはないと思う一方、彼が「遠藤さんは最終的に浄土宗のことを書いた」と結論的に述べるので、僕は小さな疑問を感じていました。

僕は彼に反論するでもなく、彼と僕の間にあるものを探るように本音を静かに語りました。「もし、クリスチャンの僕が<キリスト教のみが正しい>と言ったら、それはナンセンスだと思います。人間は得てしてカテゴライズしたがりますが、遠藤さんは宗教について、すべての人間にとっての<カテゴリーを越えた世界>を探しに、インドへの旅に出たのでは、と思うのです」

空のグラスをカウンターに置くと、彼は「そう言われると、何も返せないなぁ…」と、ため息をつきました。しばし沈黙の間、遠藤の同志である井上洋治神父と生前に数回、お会いした時の面影が、ふと僕の心に浮かびました。その時、井上神父が穏やかに語られたメッセージを思い出し、僕は彼に伝えました。「すべての人にとって山の上の空は、一つです」――目を閉じて、深く頷く彼の横顔を見ると、在りし日の遠藤の真意が少し、届いた気がしました。

遠藤は『深い河』の主人公・大津に井上神父を投影しています。そして、大津の手紙には、遠藤と井上神父が生涯探究した<信仰の本音>が込められています。若き日に大津を棄てた美津子が自らを<愛の火種のない女>と思っていることについて、大津は手紙の中で次のように記します。

玉ねぎ(神)は成瀬(美津子)さんのなかに、成瀬さんのそばにいるんです。成瀬さんの苦しみも孤独も理解できるのは玉ねぎだけです。あの方はいつか、あなたをもう一つの世界へ連れていかれるでしょう。それが何時なのか、どういう方法では、どういう形でかは、ぼくたちにはわかりませんけれども。玉ねぎは何でも活用するのです。(*1)

* * *

『深い河』の登場人物たちが導かれてゆくように、目に見えない<玉ねぎ>は僕たち一人ひとりに今日もかかわろうとしているのかもしれません。それぞれの日々が他の誰でもない、その人独自の道となってゆくように。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用、括弧内は筆者注。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 42

古谷章・古谷雅子

6月1日(木) レオン~サンティアゴ・デ・コンポステーラ

移動距離:鉄道で400km
行動時間:5時間半

予約した列車は午後2時過ぎ発車なので、午前中にレオン大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ大聖堂)に行った。ブルゴス大聖堂に次ぐ、スペイン・ゴシック様式の優れた聖堂建築と言われている。壁を最小限に減らし、内部には世界最大級の規模のステンドグラスの窓から光が降り注いでいる。ステンドグラスの合計面積は1700㎡以上に及ぶそうだ。洗練された美しい煌めきはこの世ならぬところとこの世をつなぐ橋のような力そのものだと感じる。殆ど思考の逡巡や吟味の余地を残さない圧倒的な空間だ。

聖堂を出て、一転して世俗的な「市場」に行ってみた。卸ではなく誰でも買える。食材を見るのはどこでも興味深く楽しい。豚足をはじめ豚のさまざまな部位が多いのにちょっと驚く。

オスタルは12時チェックアウトなので荷物を取りに戻り、車中のおやつや飲み物をスーパーマーケットで調達しがてら駅に向かった。1度目の旅の後、サンティアゴからマドリッドまで一等車に逆方向で乗った。その時は疲れて殆ど寝てしまい途中の記憶がない。今回は二等車。座席は日本のように回転はしない。車両の真ん中だけ向かい合わせで半分が進行方向と逆向きになる。私たちの席はその真ん中逆向きで、大きなテーブルがあるものの向かいの人にはちょっと気を使うが、途中で結構入れ替わりが無駄なくある。renfeの運営は効率よし、である。

道中後半にかなり高齢の素朴な雰囲気のご夫婦が座った。列車が大きな川に差し掛かると、男性が突然「Rio Sil!」と指差した。私たちに教えてくれたのだ。シル川は1度目の旅でポンフェラーダの町から出る時に渡ったはずだ。しかし鉄道で渡るところは町中ではなく自然の中の歴々たる流れにかかる高架橋だ。男性はこの川にとても感動しているようだ。それからは堰を切ったように風景の説明をしてくれた。私たちは挨拶と食べ物の注文以外のスペイン語は分からないのだ。そのことは通じたようだがモノともせずに迸るようにスペイン語で話してくれる。スペインの東、西、そして南のポルトガルへの三叉路である地点、植物が枯れている現象、さらに話は長崎と広島の原爆のこと、アメリカへの批判など、私たちも引き込まれ何故かかなりのことが理解できたのは今考えると不思議だ。またまさにスペイン現代史を生き抜いてきたにちがいないお歳の方の話を聞きたかった。共通の言葉がないことを心から残念に思った。ついに列車が緑麗しいガリシア州に入った。男性は景色に見入り、「Galicia!」と感動的にうなずき、まもなく下車して行かれた。

さて、2015年の旅で7月22日にサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた時、大聖堂の前で抗議集会らしきものを見た。翌日マドリッドのホテルのテレビで、それが2013年7月24日にここで79名の死者を出した鉄道脱線事故の補償を求めるものだとわかった。聖堂の中で追悼ミサが行われていたらしい。そんなことを思い出しているうちに私たちの乗った高速列車は無事に定刻に到着。駅には日本人女性Sさんが待っていてくださった。

実は出発前に、この地に住み、ガリシアのことを紹介しているSさんと連絡を取っていた。私たちは前回時間がなくてできなかった3つのことを体験したいと思っていた。

1 「モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)」再訪
2 「ボタフメイロ(香炉)」の焚かれる巡礼者のためのミサ参列
3 「フィステーラ(地の果て)」訪問

順調に歩き予備日が余れば、という不確定要素が大きいので、宿や交通機関について問い合わせたのだ。大変親身に相談にのってくださり、この後すべて順調に行ったのはSさんのお陰であった。この時期に大規模な医学学会がこの地であるために早くから宿泊施設が満杯になり、Sさんのお知り合いの方が所有されているアパートの一室、いわゆる「民泊」を手配してくださっていた。実際アルベルゲすらあぶれるほどだったらしい。

宿は大聖堂に近い便利なところだ。3つの居室の中のシャワー・トイレ付きの部屋に5泊できることになった。共用のタブ付きバスルームやキッチンもある。オーナーはここにはいないが、毎日掃除、タオルの交換もあるしWi-Fiも使えるし、他の同宿者も静かで、大変快適に過ごせた。

この日は宿に落ち着いた時刻が遅く、近所のバルで簡単に夕食を済ませた。

これで、「エル・カミーノのフランス人の道」を不規則な順ではあるが歩きとおしたことになり、記録は終わりとなるのだが、前述した3つ宿題は巡礼路と分かちがたいことなので、これらを含む最後の4日間のことも補足として記録に入れようと思う。

 


アート&バイブル 4:聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)

シャルル・ル・ブラン『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、第2回で紹介した芸術家です。19歳の若さで宮廷画家としてすでに仕事を依頼されていました。彼の豪華で強烈な個性は絵画だけにとどまらず、下記のようにヴェルサイユ宮殿の装飾など美術工芸品にも影響を与えました。イタリアにおけるルネッサンスの天才たち、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロたちが建築や建築の装飾などを手掛けたことと共通しているかもしれません。

繰り返しになりますが、ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれました。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)とともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学びます。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』(1655年、ルーヴル美術館所蔵)

1658年以降、建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。フーケの失脚後、彼らはヴェルサイユ宮殿を造るのです。ル・ブランは、ルイ14世(在位年 1643~1715)によって、1664年、王の「第一画家」とされ、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。1690年2月22日没。(以上、Wikipedia日本語版ほかを参照)

 

【鑑賞のポイント】

(1)この絵の中心には、聖母マリアと幼子イエスが描かれていますが、眠りに入った幼子に布をかけようとしている人物はアンナ(マリアの母)と思われます。

(2)アンナとマリアの間に両手をあわせて幼子を礼拝する様なポーズをとっている人物はザカリア(洗礼者ヨハネの父)です。

(3)マリアの肩越しにもう一人の幼子・洗礼者ヨハネを心配そうに見守っているのはヨゼフです。

(4)ヨゼフの隣にいて、眠る幼子を指さしながら、我が子ヨハネがイエスを起こさないように腰帯を引いて抑えようとしているのはエリザベト(ヨハネの母)です。幼いヨハネは「ねぇ、あそぼうよ!」という感じでイエスに手をのばしています。

(5)マリアが指を立てて、「あのね。今やっと寝たところなのよ。起こさないでね」とことばが聞こえてきそうです。

(6)よく見るとヨハネがよりかかっているのはヨゼフが作ったゆりかごのようです。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 41

古谷章・古谷雅子

5月31日(水)  ビジャレンテ~レオン

歩行距離:13km
行動時間:3時間15分

さていよいよ今回のゴール、標高838mのレオン到着だ。トリオ川に架かる橋プエンテ・カストロを渡ると歓迎の小さな案内所があり、係員がスタンプを押したり地図を配ったり、アルベルゲの手配を手伝ったりしていた。私たちは     大聖堂のそばに宿が決まっていたので黄色い矢印と歩道に埋め込まれたホタテ貝のレリーフを辿りながらセントロ(旧市街中心)に向かった。人口15万人の都会だ、入り口から中心地までかなり歩く。

そもそも2015年にエル・カミーノの最後の300kmだけを体験するつもりで歩き始めたのはここレオンからだった。その時はマドリッドからバスで到着したのが午後で、アルベルゲを探し、翌日の準備をしてから街に出たものの、ざっと街並みと近代のガウディ設計のカサ・デ・ロス・ボティネスを見ただけ、翌朝は暗いうちから西に向かった。だから巡礼路上で最も充実した施設で栄えたという中世からの古都については殆ど知らなかった。

キリスト教徒最初の王国であるアストゥリアスの首都が10世紀にレオンに遷都されレオン王国となり、レコンキスタに対するイスラムの反攻に備えるために城壁をめぐらした。その城壁は今も旧市街を部分的に取り囲んでいる。その中に歴史の多重堆積を表す魅力的な場所がたくさんある。今回はそれらのいくつかを見るつもりで11時前に予約済みのオスタルに行き、荷物を預かってもらった。しかし見物前にしなければならないことは、翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きの鉄道の手配である。ベルネスガ川を渡って新市街のレオン駅に行って見ると、伝統建築の旧駅舎が閉鎖されて機能的だが味のない新駅舎に代わっていた。鉄道好きの章もちょっとがっかりしていた。

旧スペイン国鉄は2005年に解体し、スペイン国鉄(略称:renfe)とスペイン鉄道インフラ管理機構(略称:adif)の2つの会社になった。renfeは輸送、販売など運営を担当、adifは鉄道のインフラ(路線や駅など)を担当ということで、新駅舎外壁にはadifと書かれている。窓口運営はrenfeだ。日にち、時間、下車駅をメモした紙をだし、無事希望通り翌日午後発の切符が買えた。近くのバルで軽く到着祝いをして宿に戻った。この路地一帯は聖堂と同様ローマ時代の遺構の上だ。宿の名称も「カスコ・アンティゴ(旧住宅街)」で、地下の自炊キッチンの床は一部が透明になっていて遺構が見られる。外観は中世の路地だが建物内部は現代的に改装されている。表通りに出れば大きなスーパーマーケットもあり便利至極。

見る時間も限られているので、レオンではサン・イシドロ教会(ロマネスク)、大聖堂(ゴシック)、旧サン・マルコス修道院(ルネッサンス)の三つを見ることにした。すべて宿から徒歩圏内だ。教会は4時まで休憩に入ってしまったので、今は5つ星パラドールとなったサン・マルコス修道院から始めた。荘厳華麗な建物は16世紀に建てられ完成は18世紀という。もともとは12世紀にサンティアゴ騎士団の本拠で巡礼の救護所でもあったそうだ。正面100mにも及ぶファサード中央に「マタモロス(モーロ人殺しのサンティアゴ)」が彫られ、たくさんのホタテ貝の装飾とともにエル・カミーノの中間宿駅であったことを誇っている。一昨年はアストルガに向かって払暁前の暗い中この前を通り過ぎたのだった。

一休みして、一番見たかったサン・イシドロ教会へ。ここは聖イシドロ(6~7世紀、セビージャ大司教としてスペインのカトリック教会の基盤を作ったという)が祀られている。ガイドツアーに参加しないと内部が見られない。スペイン語はハナから諦め、消去法で英語のツアーに申し込んだ(一人€5)。10人ほどのグループだ。11世紀にロマネスク・モサラベ様式で建造されたがその後改修が加わり原形は正面入り口にのみ見られる。回廊の雰囲気も気にいった。しかし圧巻は同時代ここに建てられたパンテオン・レアル(レオン王家の霊廟)で内部は当時のフレスコ画で埋め尽くされている。宗教的な故事のみならず民衆の労働も描かれていて題材の面白さにも強い感銘を受けた。

ガイドツアーでかなり聴き取りにエネルギーを使い疲れ果てたのと、感性が限界に達したような気がして大聖堂は翌日の午前中に行くことにした。スーパーで翌朝用食品を買い、宿に戻って自炊キッチンの冷蔵庫に入れておく。一休みして、夕食は街中で€9.9の定食。パスタ、卵のミートソースかけポテト添え、フルーツサラダ。卵の本体が目玉焼きだったのでちょっと意外だったが、スペインでは単純な卵料理を侮るなかれ。ミートソースのしっかりした味に感心した。

今日はこれまでの旅と合わせて「フランス人の道」800kmを完歩したのだからもう少し贅沢をしてもよいのだが、私たちのエル・カミーノ歩きにはまだ宿題が3つも残っているのだ。それを果たしに明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラを再訪する。決して単調でも退屈でもなかったブルゴス~レオン間の楽しい経験を反芻しながらの鉄道旅だ。

 


ことばの窓 6

 

文学や芸術は、ときに哀しみを浄化するであろう。なかには様々な天気を通り抜けた後に、日向(ひなた)を見出す詩人がいてもいい。日々の出来事を旅人のように味わい、自らを謳歌(おうか)する権利も、人間にはある。「これからのわたしの日々に、神様は一体どんな舞台を用意しているのだろう?」――そんな好奇心と鼓動で歩むように、今日も風は囁いている。

(服部 剛)

※今回の詩は、マエキクリコ著「キリシタン月刊詩」(私家版)・「トンボ(4号)」に掲載されています。

 


クリスマス・ギフト

このゲームは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に聖人を学ぶ「嘉島理華のドキドキ☆聖人伝」のクリスマス特別編です。
前回の話から地味につながっていますが、聖人伝要素は皆無です。

読む速度にもよりますが、エンディングまで30分ほどかかります。
また、エンディングは2つありますので、是非トゥルーエンドに到達してください。

この物語は「ミサはなかなか面白い」の第21回以降をご覧いただくと、より一層楽しむことができます。

皆様があたたかくクリスマスを迎えることができるよう、お祈りしております。

 

【注意事項】
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