特集14 メメント・モリ(死を覚えよ)

11月――カトリックでは「死者の月」とする伝統があり、追悼行事や墓参が行われます。もちろん、11月1日の「諸聖人」(祭日)、11月2日の「死者の日」から始まる季節の感覚です。この慣習が生まれたヨーロッパでは日が格段と短くなり、冬の準備を始める季節。それは1年のサイクル、すなわち生活全体の更新期とも考えられ、死者の国との交わりの季節とも感じられていたようです。
そこで生まれた慣習の一つが10月末のハロウィンです(「オール・ハーロウズ・イヴ=諸聖人前夜祭」からその名が由来)。この日本ではまだ“新しい”風物詩との関連も探りながら、生者と死者の交わり、「生と死」というテーマについての思索を始めてみましょう。「メメント・モリ」(死を覚えよ)の心で……

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ハロウィンと諸聖人をめぐる謎

アメリカでのハロウィンの一日

いのちへのケアとキリスト教の核心

(写真提供:松橋輝子)


ハロウィンと諸聖人をめぐる謎

いったいハロウィンとは何なのか。キリスト教とは関係があるのかないのか。その起源を調べてみると、どうしても教会の祭日「諸聖人」との関係を見なくてはならない……。そう思って両方を調べていくとどちらも謎めいてくるのだ。少し長くなるが、それぞれの起源に関する情報を吟味してみよう。

 

1.ハロウィンの起源をめぐる謎

(1)一般的な起源論

一般的に信じられている概要という情報は、こんな次第である。ハロウィンは、古代ケルト人の祭りに起源がある。それはもともと「サーウィン祭(サムハイン)」と言う。ケルト人の暦では、新年は11月1日に始まり、その前日10月31日の夜は聖なる日とされていた。その日死者の霊がこの世とあの世の境界を自由に往来する。中には悪さをする霊魂が来ることもあり、それらをだますために魔女や骸骨などに扮装するのだ。簡単にいえばそのような宗教的起源をもつ。そして、この祭りがキリスト教の諸聖人の祝日とつながり、諸聖人前夜祭と位置づけられて広まり、現在に至るのだ……という。ハロウィンという今日の名前自体、オール・ハーロウズ・イブ(=諸聖人前夜祭)から来るのもそのような経緯を示している。しかし、ハロウィンという習俗を教会が受け入れていることは少ない。

ケルト人の祭りは、その後ブリテン諸島で伝承されていたが、17世紀以後は、イングランド南部で廃れたのに対して、スコットランド、アイルランドを中心に続けられていた。19世紀になるとアメリカ合衆国に移住したスコットランド人やアイルランド人を通じてハロウィンの慣習が持ち込まれ、最初は違和感をもたれていたようだが、20世紀には全米的に受け入れられ、コマーシャリズムとも連動し現在に至るという。1990年代からこの米国型ハロウィンがヨーロッパにも進出しているらしい。

 

(2)近代の民俗復興の産物らしい

ハロウィンとキリスト教の関連を強く論ずる説は、宗教民族学や民俗学でいわれているもの。11月から新年を数えるケルト人のいわば生命更新儀礼として死者にまつわる祭りがあり、この日を教会が諸聖人、ひいては死者の日の規準になったのだと見ている。

しかし、最近は、このようなハロウィンのケルト由来を疑わしいとする説が有力になりつつある。サーウィン祭=サムハイン自体、史料的に不確かだという。ケルト人の死者の祭りは、逆に、中世後期にすでに西方教会で一般化していた11月1日の諸聖人や11月2日の死者の日の影響を受けて生まれたとまでいうのである。アイルランドは、もっとも早くキリスト教が浸透した地域だからである。ハロウィンは、むしろ、近代のケルト文化ルネサンスの産物で、19世紀に取り上げられて結晶し、20世紀に普及したというのは、教会や家庭、地域での世俗的習俗としての展開ぶりから、この説は納得できるものがある。教会との疎遠感もわかる。

 

2.諸聖人の祭日の起源をめぐる謎

このように、ハロウィンの起源論に関してつねに参照される11月1日の諸聖人の祭日。実はこの祭日の起源論にもケルト起源説がたびたび浮かび上がる。ところで、「諸聖人」の祭日は、現在の日本のカトリック教会の名称。ラテン語では、Sollemnitas Omnium Sanctorum, 英語では、Sollemnity of All Saints, またはAll Saint ‘s Day、ドイツ語でもAllerheiligen と「すべての聖人の祭日」なので全聖人祭ともいえるので、そうしてみる。以下、ドイツや米国の主要なカトリック大事典から起源論情報を整理してみると:

 

(1)聖霊降臨の主日の次の主日

すべての聖人のことをまとめて祝うという慣行の最初の証言は、400年前後のヨアンネス・クリュソストモスという教父のもの。アンティオキアかコンスタンティノポリスで聖霊降臨の主日の次の主日が「全聖人の主日」と呼ばれていた。どの程度普及していたかは不詳だが、復活節の趣旨を引き継ぎ、キリストの復活に全聖人が参与しているという意味をよく示すものであることは確かで、ビザンティン典礼の教会では、現在もこの日を全聖人の主日として祝う。日本のハリストス正教会の用語では「衆聖人の主日」と呼ばれている。西方でもこの聖霊降臨の主日の次の主日を「諸聖人の日」として祝う慣行が伝わっていたことが5世紀から7世紀の史料に見える。

 

(2)5月13日というローマの記念伝統

しかし、ローマでは別な伝統が浮かび上がる。609年か610年に教皇ボニファティウス4世(在位年608~615)がビザンティン皇帝フォカス(在位年602~610)からパンテオン(万神殿)を譲り受け、教会堂に建て替えて「おとめマリアと全殉教者のための聖堂」として建設、5月13日に献堂された。以後、5月13日に全殉教者ひいては全聖人を記念したという。ただし、単なる献堂記念日だったという説もあるし、この日付の起源についても二つの説がある。ローマ古来のレムリアという5月9、11、13日に祝われる死者の悪霊を宥める祭祀に関連があるという説、他方、5月13日は以前からシリアで全殉教者を記念する日であり、それを踏まえてこの日がその聖堂の献堂日になったという説もある。ただこの聖堂との関係でローマには5月13日の記念日が伝統となっていったようだ。

 

(3)11月1日の全聖人祭は8~9世紀に成立

ヨーロッパの教会で11月1日という日が浮かび上がるのは8世紀末のこと。

一つにはアイルランドの司教・修道院長であったオエングス(生没年750頃~824頃)が書いたアイルランドやローマの諸聖人に関する『祝日考』という書物。7~8世紀のアイルランドでは、4月20日にヨーロッパの全聖人を祝っていたが、800年に近い頃から11月1日の全聖人祭が生まれたと報じている。

トリーアの黙示録写本。黙示録7章9-11節の挿絵。あらゆる民族から選ばれた人々によってたたえられる小羊。キリストと諸聖人の集いの原風景といえる。

同じ8世紀末にイングランドのヨークで作られた暦にも11月1日の全聖人祭の記録がある。これを有名なアルクイン(生没年730~804)が奨励し、友人のザルツブルクのアルノ(785年より司教、798年より大司教)も当地で11月1日に諸聖人祭を祝った。ヴィエンヌ司教アド(在職860頃~866)がルートヴィヒ1世敬虔王(生没年778~840、皇帝在位814~40) にこれをフランク王国(西ローマ帝国)全土に広めるように請願。これを受けてルートヴィヒ1世が835年の勅令で11月1日を全聖人の祝日とするよう全国に義務づけた。その後、ローマでも教皇グレゴリウス7世(在位年1073~85)がローマ伝来の記念日5月13日より11月1日を優先するように定め、以後、ヨーロッパで一般化した。こう見ると、アイルランド、イングランドの慣行が全ヨーロッパに流入し、やがてローマに逆輸入されていったという景色が見える。

なお、11月1日の全聖人祭の翌日11月2日は10世紀の終わりからベネディクト会クリュニー修道院でのすべての死者を追悼する日としての実践が始まり、やがて全ヨーロッパに浸透するようになる。

ちなみに教皇シクストゥス4世(在位年1471~1484)が全聖人の祭日に八日間の祝いを付加し、1955年まで続いていた。日本語の旧称「万聖節」という呼び名はこの八日間を含めてのものであったわけだ。

 

(4)なぜ11月1日になったかは闇の中

では、なぜ、ヨーロッパで11月1日が全聖人祭として定着したのだろうか。11月1日の祝いの起源はどこにあるのか。これについてはおおまかにケルト起源説とローマ起源の説の二つがある。

ケルト起源説は、ハロウィンの起源として論じられるケルト暦での新年への移行儀礼「サーウィン祭(サムハイン)」を前提として、この日にアイルランドの教会で全聖人祭が設定され、そこからイングランドを経て、大陸ヨーロッパへ伝わったのではないかという説。

それに対してローマ起源だったという説もある。きっかけとして言及されるのは教皇グレゴリウス3世(在位年731~741)が732年にローマの聖ペトロ大聖堂(現サン・ピエトロ大聖堂)に「すべての使徒、殉教者、信仰告白者、そして全世界のすべての義人と完徳の人々のため」の礼拝堂を献堂したという事実。献堂式の日が定かではないが、当時イングランドのヨーク司教エグベルト(在職732~766)がグレゴリウス3世から大司教の位を授けられるというやりとりがあり、彼がローマの上述の礼拝堂の献堂日を踏まえて11月1日の全聖人祭を移入したのではないかという説である。

 

3.謎が謎を呼ぶ、ハロウィンと諸聖人

こういうわけで、11月1日の諸聖人祭(全聖人祭)の起源が最終的にはどこにあるのかは不明というしかない。ケルト暦との関連性は自然なので、それを重要視すれば、現在11月全体を死者の月と考える慣習までそこに由来するのかと思ってしまうが、はたして? いずれにしても、アイルランドやイングランドからヨーロッパ全土に広まっていたという流れは当時のキリスト教のヨーロッパでの広がり具合から見て、肯定できるものがある。ただし、アイルランド土着の宗教を何とかキリスト教化しようとして発生したわけではどうやらないらしい。ハロウィンが土着宗教の要素をもっていたにしても、ハロウィンという名前が11月1日の諸聖人祭(全聖人祭)の存在を前提としているのであり、そのかぎりはやはり再構成的な祭礼行事ではないのかと考えられる。

一方、教会の諸聖人祭も今日ではいささかインパクトが弱い。特別なことが行われるわけではなく、ただミサの祈りや聖書朗読がそれをテーマにしているだけである。どうしてか、それは、ミサはいつも奉献文の中で、諸聖人やすべての死者のことを祈っているからである。ミサがいつでもキリストの復活祭(死と復活の神秘の祝い)であるように、これとの関係の中で諸聖人祭でもあり、すべての死者の追悼ミサでもある。

起源論としては、謎めいているハロウィンと諸聖人の関係だが、少なくとも諸聖人の記念はキリストの神秘でいつも息づいている。

(石井祥裕/典礼神学者)

 


アメリカでのハロウィンの一日

一昔前までは、アメリカの映画かテレビの中でしか見られなかったハロウィンが最近では急に巷でブレーク。あの「お化けカボチャ」ジャックオーランタンが“目を光らせ”、和菓子屋にも「ハロウィン」ののぼりが立つ始末。仮装行列が派手に行われ、保育園の年中行事にも10月がハロウィンの月。
でも、由来元のアメリカでは、どのように行われるものなでしょう。小学校低学年のころに米国在住経験のある方に、写真とともに思い出を語っていただきました。(編集部)

 

アメリカでのハロウィンの一日

松橋輝子(東京藝術大学大学院修士課程在学)

ジャック・オー・ランタン(日本で作ったものですが、サイズ、方法は、アメリカのときと同じです)

ハロウィンの季節になると、9月末ころからスーパーにはたくさんのハロウィンかぼちゃが並びます。農家などでは、ハロウィン・カボチャと一緒にあつあつのアップル・サイダーを売っており、これもまた、秋の到来を印象づけます。

そして各家庭で、ハロウィン・カボチャをくり抜き、ジャック・オー・ランタンを作ります。夜になると、中にろうそくを入れます。ハロウィン当日の衣装は、数週間前くらいから考え、魔女やドラキュラ、その他の思い思いのキャラクターの衣裳を、かつら、フェイスペイントなども含めて用意します。

ハロウィン当日は、学校に仮装して行きます。そして校庭で全校生徒による大規模なパレードを行います。先生方も仮装します。保護者ももちろん見に来ることができます(授業がはたして当日あったのかは、忘れてしまいました)。

魔女の衣裳の友達

放課後、小学生は仮装したまま、お菓子を入れるハロウィン柄のバケツなどをもって近所を回ります。近所の家に行っては、「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」)と言ってお菓子をもらうのです。各家庭では、いつ子どもたちが来てもいいようにたくさんのお菓子を袋詰めして用意しています。お菓子は市販のハロウィンっぽいもの、いわゆる「ジャンキーなお菓子」がほとんどです。

帰って、お菓子を広げますが、あまりに数が多いので、各家庭のベビーシッターに持って帰ってもらうことが多いです。

いくつか写真を紹介します。米国ニュージャージー州ショート・ヒルズ(Short Hills)の ディアフィールド(Deerfield)小学校での様子です。(クリックで拡大)

写真1

写真2

写真3

写真1:店頭に並ぶハロウィン・カボチャ
写真2:ミニー・マウスの格好をした私、隣は姉
写真3:校庭でクラスメート勢ぞろい。先生もてんとう虫の仮装。心地よい気候の季節の行事です

 


いのちへのケアとキリスト教の核心

田畑邦治(白百合女子大学学長、NPO法人 生と死を考える会副理事長)

1.哲学・教育・ケアの接点を探して

いのちの現場に問われて

今日まで35年余りにわたる私の教職の経験は、ケアの哲学・死生観の教育とキリスト教精神の出会いを探るものであったように思います。私は大学の研究所での事務の仕事を経て、最初の教職の場は、看護系の短期大学でした。そこで、キリスト教学や人間学を担当することとなったのですが、相手は臨床の場で働くことを目指す看護学生でしたから、果たして自分の専門用語が通用するものかどうかについて、いつも問われるばかりでした。

他方、社会活動の場としては、死別体験者の悲しみの分かち合いから発足したNPO法人「生と死を考える会」において、教養講座の講師や会の役員として、こちらもまたある意味で臨床的かつ実践的な人生との関わりの中で、自分の死生観が問われるということを経験してきました。

 

いのちの問題と哲学の使命

哲学・教育・ケアという分野の根源にあるキーワードともいうべきものは、やはり「いのち」であると思います。哲学史の流れからも、20世紀以降の現代哲学は、「現象学」や「生の哲学」や「実存哲学」に代表されるように、人間の現に生きているいのちの事実から出発して人間存在を考えるようになりました。

そういう20世紀西洋哲学の現場に身を置いた日本人哲学者・九鬼周造(1888-1941)は、哲学は決して「乾燥した抽象の学」ではなく、「生の鼓動を聞き、生の身ぶるいを感じる」ことにその本領がある、といった趣旨の発言をしています(九鬼周造「仏蘭西哲学の特徴」、『九鬼周造全集』第3巻、岩波書店、1981年)。

20世紀哲学の中で、私がもっとも刺激を受けた哲学者はエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)です。彼の哲学は「他者」の問題に集中していますから、教育やケアを考える上で無視できないのはもちろんですが、これまでの哲学のありかた全般を問いに付すほどの革命的な意義をもっていると思われたのでした。

レヴィナスの難解な哲学を明晰に解説したイギリスの哲学者コリン・デイヴィスは、レヴィナスの哲学は「哲学の企て全体の方位修正」であったとし、次のように言います。

「(レヴィナスにおいて)哲学的テクストの任は、「他者」について語ることではなく、「他者」に声を与え、「他者」の声がそれをかき消すノイズを通してなお聴きとられるような、語法を見いだすために自ら行動することになったのである。……レヴィナスの提示する倫理……そこにあるのは、「他者」の声は聴き取られなければならないという、一つの情熱的な道徳的確信だけである。」(コリン・デイヴィス『レヴィナス序説』p.268‐269)

哲学の本来の姿が、そういう他者の声を聴く語法の発見である、ということは、日本で臨床の哲学の中心的な役割を果たしてきた鷲田清一もまた強調しているところです。哲学はこれまで「語ること」を本業としてきたが、それは正しいことであったか。むしろ「聴くこと」にこそ、哲学が真の力を発揮できる場があるのではないか、と(鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』阪急コミュニケーションズ)。

 

生と死の尊厳に背く時代と教育の課題

ところで、一人一人のいのちの声がケアの心で聞き届けられるために、教育の責任は大きいと思います。教育現場は「競争」原理に浸透されて、いのちへのケアの側面がなおざりにされてはいないでしょうか。この問題にいち早く気づいていたアメリカの数学者・教育哲学者であるネル・ノディングスは『学校におけるケアの挑戦―もう一つの教育を求めて』(佐藤学監訳、ゆみる出版)の中で、人間の生存にとって何よりも大切なケアの精神が教育の場で教えられていないことに警鐘を鳴らしたのでした。教育の場にいる私自身、これははっとさせられることでした。

「ケアすることとケアされることは根本的な人間のニーズである。私たちは誰もが他の人からケアされる必要がある。幼いとき、病気のとき、老いたとき、その必要性は緊急かつ、いたるところにある。……(しかし)患者は医療制度の中でケアされていないと感じている。クライアントは福祉制度の中でケアされていないと感じている。老人はそれらの制度が提供する施設の中でケアされていないと感じている。子どもたち、特に青年たちは学校の中でケアされていないと感じている。」(11-12頁)

 

2.いのちの哲学―隠れたるいのち

哲学も教育も、第一義的にまず人間のいのちに向かい合い、そのいのちの声調に傾聴し、いのちのケアへの励ましになるべきだ、という認識は私の中でますます強くなってきました。しかし、この課題が至難なものであることは誰にも明らかなことです。その至難さの前で、諦めずに、理想を追求することができるのは、私にはキリスト教の福音とその伝統を汲む哲学の刺激が何よりの力となっています。キリスト教は何にも増していのちの尊厳とその偉大な完成を伝えるものだからです。

ところで、あまりに頻繁に使われる「いのち」はそれがあまりに多義的であるため、有意義な共通理解は難しいのですが、こと人間のいのちに限定してみるとき、いのちはただ生物学的な要素だけで語りつくされることはできず、一人ひとりの人格・感情・意志など、独特なニュアンスを有するものである、ということが注目されるべきです。いのちはこの意味で、隠れたるものであり、丁重な聴取の心をもった人にだけその内面の秘密を打ち明けてくれる、そういう内的でデリケートなものです。

ミシェル・アンリ(1922‐2002)という哲学者は晩年の名著『キリストの言葉―いのちの現象学』(武藤剛史訳、白水社)の中で、人間のいのちのこうした内面性を重視して、人間のいのちは、外面(世界一般の視野)からは直ちに見ることのできない「心」という情感性(受苦・喜び)を持って生きている存在であり、たんなる「理性」的存在ではない、と繰り返し述べています。

アンリの思想から意識させられることは、われわれは世界内的なものばかりに眼を向けて、他のすべてのものよりもはるかに価値あるはずのこのいのちを忘れ去り、優先順位を逆転させていないか、ということです。

 

3.〈いのち〉とキリスト教

聖書における〈いのち〉

われわれはいのちをまず身体的なものと考える習性を持っていますが、聖書では当然ながらもっと広く高い意味をもっています。ヨハネ福音書では「永遠のいのち」と頻繁に言われますし、それは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では「神の国」と同じ意味を持ちます。つまり、人間のいのちは生物学的・医学的意味を超えて、深まりゆくものであるとされています。いのちは神の内に生きているものであり(ルカ20:27‐38ほか)、いのちは単なる器官(モノ)ではない。それは根源的に神(超越)との密接なつながりをもっており、したがって。対象化(モノ化)できない尊厳を有するものです。

 

おわりに―愛によって完成するいのちの神秘

先日、私は通っている教会のミサの中で、当日の典礼が用意してくれた次の祈りに心が惹きつけられました。ミサや礼拝では、聖書の言葉が中心になるのは当然ですが、御言葉の前後に祈られる祈りが、その日の御言葉の神学を短く要約している場合があって、それはとても助けになるものです。

「愛の源である神よ、神と人々を愛し抜かれたキリストを思い起こして祈ります。主の死と復活の神秘にあずかるわたしたちが、その愛の勝利を力強くたたえることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」(奉納祈願)

愛の源である「神」と、その愛を極みまで生きた「キリスト」。そのキリストの死と復活にあずからせていただく「私たち」の人生の目的が「愛の勝利」の「賛美」である、と。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 35

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(2)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

この日も、終点のレオンまでの配分にメドがたったので、カルサディジャ・デ・ラ・クェサから9km先のテラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスで切り上げることにした。そうなると昼頃には着くので、たまにはきちんとした昼食を食べようということになり、次の村レディゴスはバルにも入らずに通過した。道中や宿泊予定地に城も教会もないというのは珍しい。体を休めろということかもしれない、と都合よく考えた。

テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオスという地名は、12世紀にエルサレムを守るために組織されたテンプル騎士団の支配下にあったことによる。その頃の巡礼路は現在よりも700mほど南にあったという。2つのアルベルゲがあるが、村の手前の新しい建物の方に入ってみた。最近できたアルベルゲは個室があるものが多い。ここも自動車旅行の家族やグループも想定していて、快適そうだ。早く着いたのでシャワー・トイレ付きの2人部屋を確保できた。広い庭に洗濯場、物干場が整備されている。

日課作業を済ませてから村の中に行ってみた。人口は90人ほどなので、独立したバルやレストランがあるわけではなくそれぞれのアルベルゲで食べることになる。村の中のアルベルゲは田舎風で質素だが楽しいしつらえで、メニューも地元食が主だ。昼食はこちらでとることにした。ジャガイモ入りトルティージャ(卵焼き)や季節の野菜とチーズの入った田舎風パイ、パン、ビール。既に食堂は祝祭かと思うほどたくさんの人がビールやワインでデキ上がっていたが、この人たちは1日にどれくらい歩いているのだろうか?

ランチタイムが一段落したところで私たちのそばのテーブルでシェフ自身が昼食を始めたが、グラスに赤ワインを注いで周りを気にせず優雅に食べることに専念していたのも日本人には珍しく思われた。村を歩いてみたが、目当てにしていた6月末には使徒サン・ペドロ祭が行われるという煉瓦造りの教会の入り口は漆喰で塗り込められ普段は使われている様子はなかった。

この国には2時頃の昼食後シエスタ(午睡)の習慣があるが、貧乏性な私たちはその間も活動し、その代りに早々と就寝してきた。この日は部屋に戻り、初めてノンビリとシエスタをした。またレオンに到着する日もほぼ見通しがたったので、インターネットのホテル予約サイト経由でレオンの宿泊の予約を済ませた。前々回レオンでは当日見つけたアルベルゲのドミトリーに泊まったが、設備も雰囲気も非常によくないところだった。大きな街に着いて解放感からけじめのなくなりがちの若い巡礼者たちを避け、今回はブルゴスのオスタルで薦めてくれたところを予約できた。

夕食はアルベルゲの食堂で一斉開始だが、テーブルはグループ別。本日の定食はサラダかカスティージャ風豆スープ、メルルーサ筒切りのソテーか肉、ヨーグルトかアイスクリーム、ミネラルウォーターやワインはいつも通り好きなだけ。ワインが飲み放題といっても、理由はある。巡礼路に限らず、スペインは水事情がよくない。中世の「巡礼案内」には「巡礼は、悪しき水を飲まぬことが肝要である」と書かれているそうだ。ところによっては水が有毒で命にかかわった。旅人は煮沸などもできない。だから得体のしれない水ではなくワインやビールが日常の飲み物になっていたのだろう。「悪しき水」は追剝(おいはぎ)や野犬と並んで巡礼が出会う危険の一つでもあったのだ。昔から整備されていた泉でも、今は「飲めない」と表示されていることも多い。私たちは必ず水のボトルを購入し、持ち歩いた。

ついでに言えば、昔は渡河も難儀だった。渡し守はしばしばわざと船をひっくり返して盗賊と化したそうだ。巡礼路の架橋は寄進の対象になるほどのありがたい事業だった。昔の巡礼が異様に長い杖を持っていたのは縋りつくためだけではなく、追剥や野犬と戦う武器であり、渡渉する時の道具でもあったからだ。

 


アート&バイブル 1:結び目をほどくマリア様

今月から「芸術を楽しむ」では、カトリック司祭稲川保明師による美術に関するシリーズ「アート&バイブル」を開始します。これは、主任司祭を務めるカトリック東京教区関町教会(東京都練馬区)にて2014年6月から開講しているキリスト教絵画の鑑賞会の内容を提供してくださるものです。わかりやすい解説、鑑賞のヒントにご期待ください。(編集部)

 

結び目をほどくマリア様

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

2013年3月13日、新教皇フランシスコが選出されました。新教皇が教皇に選ばれた翌朝、8時ごろ、宿舎である「マルタの家」から小さな花束を手に持って出かけました。それはサンタ・マリア・マジョーレ教会(ローマ)の聖堂の奥にあるイコンに描かれた聖母マリアに祈りを捧げるためでした。新教皇は教皇としての最初の日を教会と教皇自身へのご加護を求めて聖母マリアにお祈りすることで始められたのです。

この新教皇様の聖母マリアへの献身的な信心、崇敬心は母国アルゼンチンではよく知られていることでした。まだ若かりし頃、1986年、ホルヘ・マリオ・べルゴリオ神父はドイツのフランクフルト市にあるイエズス会が運営する聖ゲオルグ神学院に在籍していました。その神学院から列車で3時間ほどのところにあるアウグスブルグという町には、ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会があり、そこに「結び目をほどく聖母マリア」の絵があります。ベルゴリオ神父は、その絵に深い感銘を受け、複製を作る許可を得て、故国アルゼンチンに持ち帰り、絵はがきにして、親しい人々に贈っていたのです。

「結び目をほどく聖母マリア」ザンクト・ぺーター・アム・ペルラッハ教会(アウグスブルク)に1700年に寄贈された絵画

後のことですが、この絵はがきに感銘を受けたブエノスアイレスの人々はサン・ホセ・デル・タラール教会に高さ180cm、幅110cmの絵として複製し、この聖母マリアへの信心が広まったとのことです(このエピソードはドン・ボスコ社発行の『カトリック生活』2014年8月号に紹介されています)。

この絵が描かれた背景にあった物語は次のようなものです。ドイツの貴族ヴォルフガング・ランゲルマンテルという人が妻から離婚を望まれたことを悩み、レム神父のところに行き、相談しました。当時、ドイツの結婚式では、生涯添い遂げることを象徴的に表すために結婚の誓いを立てた新郎新婦の二人の手を白いウエディング・リボンで結ぶということをしていたそうです。ところが気がつくと何故か、この夫婦のウエディング・リボンが固く絡まり合っており、レム神父はマリア様のご像の前で、祈りながら、そっとその結び目をほどこうとしますが、なかなかうまくゆきません。それでも祈り続けていると・・・。

聖母マリアは結婚生活の困難だけでなく、人生のあらゆる苦しみや縺れてしまった人間関係を「最初の一歩」に戻そうと手伝って下さるのです。

 


エンドレス・えんどう 10

服部 剛(詩人)

先日、静岡・修善寺で行われた川端康成についてのイベントに行きました。『伊豆の踊子』をベースにしながら川端の生涯を辿る映像がスクリーンに映し出され、主人公の書生がトンネルの闇に入っていくことで、物語は旅の次元に入っていきます。

遠藤周作の『深い河』も、遠藤自身が意識して書いたかどうか定かではありませんが、同じ次元に入っていく場面があります。それは各々の人生の答を探してインドまで来た旅人たちを乗せたバスがトンネルに入ってゆく、次の場面です。

真暗な樹のトンネルをしばらく通ると、突然、遠くに光の一点が見えはじめた。臨死体験者たちは闇のトンネルの奥に光の一点を見るが、その体験と同じように闇の遠くで蛍火のような明りが少しずつ大きくなる。(*1)

聖地・ヴァーラーナスィという町に入ると同時に、登場人物らの脳裏にはそれぞれの過去の記憶が甦ってきます。 「人に歴史あり」と誰かが言ったように、私達一人ひとりの道を想うとき、歴史になっていることに気づきます。そこには人知れず喜びも悲しみもあるでしょうが、時にはそっと自分に〈今までよく歩いてきたねぇ…〉と囁いてみてもいいと思います。それは自分が歩いてきた道を味わい深く肯定する心となり、さらなる明日への道となってゆくでしょう。

「記憶」について、もう一つ大切なことは、「もしも、あの時――」という人生の岐路を思い返すと、忘れ得ぬ場面が今の自分につながっている、とわかります。その体験を自分の意識にのぼらせることで、現在を輝かせることができる気がします。

僕の例で言うと、高校三年生の時の失恋を思います。(惨めで、情けなくて、格好わるかった、でも、あの頃のどん底の自分がいたからこそ、僕は詩を書き始めた)など、人それぞれに歴史を振り返ると、過去の出来事から密かな深いメッセージを感じることでしょう。

『深い河』の登場人物たちのように、時には旅に出ることが人生の大事なきっかけを生むものです。それと同時に、一見、何の変哲も無い日々を歩むことが、実は<旅そのもの>であり、あなたをあなたの物語へと誘う<密かなトンネル>は、日常の中に潜んでいるのです。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 34

古谷章・古谷雅子

5月28日(日) カリオン・デ・ロス・コンデス~テラディージョス・デ・ロス・テンプラリオス(1)

歩行距離:25.8km
行動時間:6時間

快適な個室だったので、朝もいつもよりのんびり過ごした。6時20分出発。昨日確認しておいたカリオン川を渡る道を進む。国道を横切ってからは静かな田舎道になる。国道を行けば途中にムデハル建築の教会や古代ローマ時代の遺跡があるのだが、やはり静かな田園の中の巡礼路を行くことにした。水が近いせいか思ったよりも木立があり樹種も多様だ。ニセアカシヤもある。カッコウの鳴き声を聞きながら10kmを順調に歩き、8時15分大休止。この先は木々がなくなりまた一面の麦畑で右側は刈入れ間近な色だ。

17km近く歩きカルサディジャ・デ・ラ・クェサの町。カルサダとは古代ローマ時代の石畳の道のことだそうだ。ベンチと泉があり、一休みしていると太ったネコが何匹も走ってきて私たちの食糧を取ろうとする。最初はおねだりだったのが次第に暴力的になり辟易して早々に出発した。樹木や建物がないと黄色い矢印はないが、道中にはモホンというホタテ貝の意匠でエル・カミーノを示す石の道標がある。それでも迷いやすいところもある。しかし今はGPSが解決してくれる。

章はいわゆるガラケーなるdocomo携帯を持っていった。これは家族との間の緊急事態や万が一の場合の通信用で、基本的には無料のWORLD WINGを申し込んであれば使った分だけの安い料金で済む。その他には雅子がAndroidスマホ、章がiPad miniタブレットを持っていたが、特別な料金契約はせず、契約電波を使う通信機能は切っておいた。こうしておけば料金は日本での例月分だけだ。スペインでは大方の宿舎でfree Wi-Fiがあり、宿泊手続きの時にパスワードを教えてくれる。それでインターネットがつながるのでメールや新聞も日本と同様に受送信できる。

問題は屋外、特に平原や山を歩いている時だ。道案内には地図が必要だが、Google mapはインターネット環境がないとみられないし、ダウンロードして保存できない。しかし、事前にダウンロードしておける優秀な無料地図もある。GPS機能は契約電波とは無関係にタダで キャッチできるので地図と連動させれば現在地は常に確認できた。スマホにはOpenCycleMap、タブレットにはMAPS.MEという地図を出発前に入れていった。特に前者は自転車旅行者用に細い道や水場などのポイントが入っている。

「Geographica」というアプリで一日の距離、高低差、時間、トラック(軌跡)等の行程を記録することもできた。余りに便利だと昔のような読図の醍醐味や心細さがないのが贅沢な悩みになってしまう。とはいえ、バッテリーが無くなれば使えないのだから、基本はやはり紙の地図とコンパスということになる。「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の詳細なガイドブックと初回に現地で入手したミシュランの地図こそが頼もしい道連れとなった。アルベルゲやホテルの場所や収容人数、距離数が予め分かるのでペース配分、日程調整に無駄がでない。

 


スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 33

古谷章・古谷雅子

5月27日(土) ボアディージャ・デル・カミーノ~カリオン・デ・ロス・コンデス(2)

歩行距離:25km
行動時間:7時間5分

シルガから宿泊地カリオン・デ・ロス・コンデスまでは県道を6kmほどだ。ここは人口2400人、ブルゴスに葬られている英雄武人エル・シッドゆかりの古い大きな町だ。彼の3人の娘たちがこの地の公爵達(コンデス)に嫁いだものの大切にされなかったことに立腹したエル・シッドが婿たちを皆殺しにしてしまったそうだ。中学生の頃観たチャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンのハリウッド映画『エル・シド』のイメージよりも相当暴れん坊だったようだ(映画は父を決闘で殺したエル・シッドへの憎しみと彼への恋心に苦しむヒメーネスとのラブロマンス)。

小さな画像はクリックで拡大

この町ではサンタ・クララ修道院とサンタ・マリア教会にそれぞれアルベルゲがあるのだが、私たちは前者に泊まるつもりだった(後者は歌うシスターとの夜の集いで有名だ)。前者には別棟にシャワー・トイレ付きの個室オスタル部があるはずなので、前期高齢者としてはここらでゆっくり休息したかった。早く着いたこともあり2人部屋が取れた(2人で€50、私たちにはかなり贅沢だが喜捨と考えよう)。塀の中には広い中庭を囲んでロの字に建物があり、正面は受付、右手はアルベルゲ部、左手がオスタル部で、居室から全体が見下ろせる。自炊設備や洗濯場・物干し場はアルベルゲ部にあるので、そちらへ入るための鍵の隠し場所などをオスピタレロ(宿泊の世話人)が説明してくれたが修道院だけあって非常に管理が行き届いている(居室に行くまで3か所の錠を開けなければならない)。

個室は極めて簡素だが清潔で静かだ。西英仏独伊語で規則が表示されていた(静寂を守ること、使用したシーツやタオル類は廊下の籠に入れて出立することなど)。日課作業も自分のペースで快適に終わらせ町に出た。修道院には飲食施設はない、またスペインの宿泊施設では珍しく Wi-Fi もない。オスピタレロが教えてくれた「ラ・ムラージャ」というレストランとバルを兼ねた店で free Wi-Fi が使えるというのでまずはそこでカーニャ(生ビール)と軽食。地元でも人気の店のようだ。

町の地形はメセタの中では高低差がある方で複雑だ。高台にいくつか教会があるが、反対側は木々の緑豊かなカリオン川に落ち込んでいる。まずサンタ・マリア教会を見てから、町を出るルート偵察を兼ねて立派な石のカリオン橋を渡ってみた。サン・ソイロ修道院という歴史的な建物の中庭の回廊を見たかった。しかし私たちとは無縁の富裕層が宿泊する豪華な五つ星ホテルに改造されて、奥までは入れなかった。町に戻り、丘の上のロマネスク様式の教会とルネッサンス様式の教会を外側から見る。

町中では楽しみにしていたサンティアゴ教会(今は資料館)の正面装飾を見ることができた。やや長くなるが、前述の村田先生の書物から引用すると

「扉口上部に、エバンゲリストの象徴に囲まれたキリストを中心に12使徒の彫像が横一列に並び、その下に、タンバンを欠いたアーチがある。その単純な構成がみごとだ。それがすっきりしているだけに、彫刻が引き立つ。12世紀末、ゴシックへ移行しつつあるときの制作だけあって、立体的であり、リアルな訴求力がある。そして、ここで注目すべきは、その弧帯に、ロマネスクにはめずらしい職人たちの姿が刻まれているということだ・・・」

ふつうは楽器を持った老人が並ぶところに、コンパスを持った建築家、鋏を持った美容師、ロクロを回す陶工など当時の職人の姿が彫られている。先生は、巡礼宿駅の発展による都市化に伴う様々な職業の市民の蝟集と、ギルド成立への動きの反映ではないかと述べられている。このような地理的・時間的発展の痕跡が道中の楽しみでもある。

夕食はまた「ラ・ムラージャ」で。田舎では早めの時間でも定食(メヌー・デル・ディア)を食べることが出来た。庶民向けの定食ではしばしば地元の季節ものが出てくる。この日も不思議な野菜と生ハムの煮込みが出てきた。大きめの芽キャベツのような球が6、7個。わあ、美味しい!これはアーティチョーク(アザミの蕾)の芯だった。デザートもフワフワのホイップクリームに大きなイチゴがたっぷりで満足した。

ここではちょっと興味を引くことがあった。次々と杖や車椅子の高齢の男女が入ってくる。介助人がついている人もいる。殆どの人が楽しげにアルコール飲料を飲んでいる。窓際の席だったので様子を見ていると道路の反対側の「Nuestra Señora de las Mercedes(慈悲の聖母マリア)」と正面壁に掘られた美しい建物からやってくるのだ。(おそらく教会が経営している)老人施設だったのだ。今日は土曜日の午後だから外出も自由らしい。高齢者もおしゃれをしてバルに来る、ということが当たり前のお国柄らしい。

この日は到着後の街歩きと見物が長く、合わせれば30kmを超す距離を歩いた。しかし夜は話し声も聞こえない修道院らしい完璧な静寂の中でゆっくりと休むことが出来た。

 


新ながさきキリシタン地理 2

二つのキリシタン神社――枯松神社と淵神社・桑姫社

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

 

日本には、そして世界にも勿論、
三つだけのキリシタン神社というものがあるらしい。
その中の二つが長崎市にある。

一つは、最近テレビでも取り上げられるようになった
有名な枯松神社である。

枯松神社(〒851-2326 長崎市下黒崎町枯松頭)

場所は、遠藤周作文学館がある外海・出津地方の
すぐ手前にある黒崎地方にあり、
黒崎教会前のバス停で降りて、
山道を20分ほど登ると枯松神社はある。
バス停前には、「外海潜伏キリシタン文化資料館」があるので、
そこに行けば、枯松神社の話が聞くことができる。

こちらは外海出身の日本人預言者バスチャン
の師であるサン・ジワン(西洋人)を祀った祠であり、
潜伏キリシタンたちが集まり、
オラショ(口承の祈り)を伝承した場である。
禁教時代に箱物は作れないので、
枯松神社は明治に入って建立された。
祈りの岩を前にして、オラショの伝授がなされた。
祈りの岩より上に登ると、
大きな石の上に白い小石がおもむろに置いてある。
皆でその白石を十字架の形に配列して祈り、
祈りが終わると石をばらして立ち去ったという。

キリシタンは目に見える証拠を残さない。

枯松神社への途上の山道に咲くやまゆり

バスチャンと言えば、
日繰り(教会暦)と予言が有名だ。

潜伏キリシタンには、
浦上―外海―五島ルートと、
平戸―生月ルートの二つがあり、
後者には、日繰り(教会暦)が伝わっていないと言われる。
外海地域では、日繰りをたよりにミサが行われた。

バスチャンの予言とは、
迫害が厳しくなった折にバスチャンが遺したもので、
以下の内容である。

「七代経てば、黒船に乗って神父がやってきて、
毎週でもコンヒサン(告解)することができ、
どこででもキリシタンの教えを歌って歩けるようになる」

フランス人宣教師プティジャンの「信徒発見」は、
ちょうどそれから七代後だったということである。
長崎側では、これを「神父発見」と言う。

まさに「彼待つ」神社というところか。
枯松神社はバスチャンの墓という説もある。

黒崎の中心地域は松本地区といい、
住民の姓も、
松本、松下、松山、松森、松谷、松尾などなど、
ほとんど松がつく姓だそうだ。
「枯松」を中心とした地区ということなのだろう。

もう一方のキリシタン神社、
淵神社・桑姫社は、
もっと市街地にある。

淵神社・桑姫社(〒852-8012 長崎市淵町8-1)

桑姫とは、キリシタン大名の大友宗麟の孫娘であり、
桑姫自身も「マギセンシャ」という霊名を持つキリシタンである。

豊後・大分の地から、長崎の淵地区に来て、
養蚕の文化を伝えたため、桑姫の名がついた。

宣教師をはじめ、
キリスト教をもたらした人は同時に、
文明をも、もたらしたように思う。

ある意味、宗旨とは関係なく、
万民に役に立つことを伝えるのであろう。
「ド・ロさまそうめん」などというのは、その典型だ。

ちなみに、三つ目のキリシタン神社は、
東京都にある。

伊豆大島にある、オタイネ明神である。
朝鮮半島から連れてこられて徳川家康の側室となった
キリシタン・おたあジュリアを祀った社である。

東京近郊の方は、行ってみるのもいいかもしれない。