磔刑のイエスからピエタに想う


鵜飼清(評論家)

十字架上のイエス・キリストを見ながら、ときどき感じることがあります。
あのイエスさまは、死んだあとのイエスさまなのだろうか?
いや、まだ生きているイエスさまだろう。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と言ったときのイエスさまではなかろうか。
この言葉の意味もなかなか理解しづらいものとしてわたしのこころを悩ませます。
このあとに、再び大声で叫んで息を引き取った、と「マタイによる福音書」には書かれています。

十字架上のイエス・キリスト像をつくった作者は、果たして生きているイエスを想像したのか、死んだあとのイエスを想像したのか。
その像に向かって祈るわたしは、どちらを想像しているのか。

ミケランジェロのピエタは、明らかに死んだあとのイエスにちがいありません。
カトリック関口教会のルルドでお祈りをして、聖堂に入り祈ったおり、久しぶりにピエタを見ました。このときの、ぼくの心境がよほど疲れていて迷いがあったことは確かで、それだからか、イエス・キリストの倒れた姿、その脚やうなだれた首筋に、なんという憐れなかたなんだろうという思いがあふれたのです。
それは、マザー・テレサの写真展を観たときのようなショックでした。あのときも疲れていて、自分のいままでの人生に疑問を感じていたときでした。「こんな無駄なことをやる人がいたのか」という衝撃です。
イエスは、なんで弱き人たちのためにあれほどまでに「これはおかしい」と言って説いて回ったのだろうか?
そして、十字架上であのように叫び、最期はこのような姿になってしまう。

ミケランジェロ『サン・ピエトロのピエタ』

ロンダニーニのピエタは、正面から見るとマリアとイエスが二人として見えるが、横から見ると、一つになって、つまり一人の姿として見えると言います。
それは、二人で一人を表わしているのではないかという意味と捉えられもします。イエスが死んで、マリアの胎内に戻り、新たな復活をされたのだろうか。
いま、ただ一言確信して言えることは、ぼくはこのイエス・キリストというかたを知って、「生かされていること」に、心底感謝しているということです。
すべての苦しみを背負って亡くなり、そして永遠のいのちを授けられたかたは、わたしたちを温かな愛の恵みに包んでくださっておられるのでしょう。

 


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