ブルガーコフ作『巨匠とマルガリータ』(上・下)


『巨匠とマルガリータ
ブルガーコフ:著、水野忠夫:訳、岩波文庫、2015年
定価:上1,070円+税 443ページ、下1,020円+税 403ページ

 

石川雄一(教会史家)

 

近・現代ロシアは文学史に残る文豪を数多く輩出してきました。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなど枚挙にいとまがありませんが、近・現代ロシア文学を代表するとされる者の中にはウクライナ人がいたことをご存じでしょうか?特に近代(19世紀)においては『鼻』や『検察官』で知られるゴーゴリ、現代(20世紀)においては本記事で紹介するブルガーコフをその一例として挙げられるでしょう。

周知の通りウクライナの主権国家としての歴史は短く、かの地は長い間、ロシア帝国やソ連の一部といった“ロシア”の一部とみなされてきました。ウクライナ人作家がロシア文学史に組み込まれてきた要因としては、上記の政治的な理由に加え、彼らのほとんどがウクライナ語ではなくロシア語で著作を残したことも指摘できます。いずれにせよ本記事では「ウクライナ文学」か「ロシア文学」かという難問に足を踏み入れることは避け、紹介に徹したいと思います。

 

さて、ゴーゴリはロシア文学のみならず近代日本文学にも影響を及ぼしたことで知られるため、ご存じの方も少なくないでしょう。一方のブルガーコフはいかがでしょうか?彼は後述するような波乱の人生を送り、著作の多くがソ連共産党の検閲を受けたため、スターリンが没した後のいわゆる「雪どけ」以前はあまり知られていない作家でした。

 

1891年5月3日にキーウ(キエフ)で神学校教師の子として生まれたミハイル・ブルガーコフは、キエ フ大学医学部を優秀な成績で卒業しました。そんな彼が青年期を過ごしたのは激動の時代でした。つまり若きブルガーコフは、第一次世界大戦の勃発とロシア革命による帝政打破、それに続く、共産主義革命陣営である赤軍と反共陣営である白軍が戦ったロシア内戦の時代に生きたのです。反革命の白軍側の軍医として働いたブルガーコフでしたが、1919年に医師を辞め、文学者として生きることを選びました。ですが、元白軍であったブルガーコフは共産党に警戒され、彼の作品はゴーリキーら文人の評価を受けたにもかかわらず、反革命的であるとして発禁処分となります。ブルガーコフは演劇にも手を出しましたが、それらも上演を禁じられました。そしてブルガーコフは失意の内に、1940年に48歳の若さでこの世を去りました。

 

『ドクトル・ジバゴ』を彷彿とさせるような波瀾万丈の人生を送ったブルガーコフの作品は、虚構の世界と現実の世界が奇妙に入り混じることで生じるユーモアと社会批判が特徴的です。ほとんどの作品(虚構の世界)が権力(現実の世界)による検閲対象となった著者が、虚構と現実の交錯という技法を取るのも納得できるのではないでしょうか。

 

今回紹介する『巨匠とマルガリータ』も虚構と現実の交雑が印象深い作品です。

ある春の夕方のモスクワの並木道、文芸雑誌の編集長ベルリオーズと「宿なし」というペンネームの若い詩人イワンが対話をしている場面から物語は始まります。どうやらベルリオーズは、イワンがイエスを題材に書いた詩が気に入らなかったようです。ベルリオーズはイワンがイエスを生き生きと描写したことを批判し、ナザレのイエスという人物が実在しなかったことを力説します。

ベルリオーズがイエスに関する「神話」はキリスト教がでっち上げたオリジナリティのない作り話であると講釈していると、二人の議論に興味を抱いたらしい外国人風の中年男性が会話に割り込んできます。黒魔術師を名乗る外国人は、ベルリオーズの説く無神論やイエスに関する話を聞いた後に、「イエスは実在していた」と告げます。

カントなどを反駁しながら論を展開してきたベルリオーズは、「イエスは実在していた」という証拠を黒魔術師に求めないわけにはいきません。ベルリオーズの訴えに対して黒魔術師が「いかなる証拠も要求されません」と答えると、場面は急遽転換し、ユダヤ駐在の総督ポンティウス・ピラトゥスを主人公とした物語が始まります。時は紀元1世紀のニサンの月14日のエルサレム、ピラトゥスはユダヤ最高法院が死刑判決を下した男との面会を前にしていました……。

 

上記の導入部からもブルガーコフの虚構と現実の交錯という技法が看取できると思います。この後、古代エルサレムを舞台としたピラトゥスの物語と現代ロシアを舞台とした物語が交互に語られる形で物語が展開していきますが、その際に古代の物語は現実的に、現代の物語は寓話的に語られていくのも興味深い点として指摘できるでしょう。

 

ウクライナとロシアへの関心が高まる今日、ウクライナで生まれてロシア語で著作を残した作家ブルガーコフらの作品を読むことは意義深いと思われます。特にブルガーコフの作品は虚構と現実が見事に入り混じっており、白か黒かの単純な二項対立では説明できない世界観が魅力です。善か悪か、敵か味方か、「ウクライナ」か「ロシア」かといった二元論に限定されない考え方を知る上でも、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に学ぶ点は多いのではないでしょうか。


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