イースターはいつ祝われる? ――その日程をめぐる歴史について


石川雄一(教会史家)

2022年は4月17日がイースターにあたります。テーマパークのイベントやデパートなどの商業戦略でイースターの認知度が日本でも昔に比べて高まったとはいえ、クリスマスのように広く定着はしていません。それはなぜでしょうか。神学的に考えるならば、ナザレのイエスという歴史上の人物の生誕を祝うイベントは客観的事実として万人に受けいれられますが、イースターはイエス・キリストの復活という信仰の事柄を祝うためキリスト教徒以外は受けいれ難いという側面があるように思えます。

ですがもっと実際的な理由として、クリスマスが毎年12月25日という決められた日に祝われるのに対して、イースターは「春分の日の後の満月の次の日曜日」というややこしいルールをもった移動祝日であるという点が挙げられるのではないでしょうか。この記事では、イースターの日程が複雑なルールで決められるようになった経緯を概観してみます。

 

ユダヤ教の過越祭がもとにある

教会で復活祭と呼ばれる行事は、世間一般ではイースター(Easter)という英語名で知られています。ですが、英語のイースターやドイツ語のオースタン(Ostern)の語源は諸説あり、実ははっきりとはわかっていません。一方でフランス語のパック(Pâques)やイタリア語のパスクア(Pasqua)は、「過ぎ越し」を意味するパスカ(Pascha)というギリシア語(聖書の書かれた言葉)やアラム語(イエスの話した言葉)の影響を看取できます。

「過ぎ越し」とは旧約聖書に書かれる故事(出エジプト記12章)で、ユダヤ人は「過越祭」を大切なお祭りとして祝ってきました。そして、最後の晩餐や磔刑、復活といった出来事は「過越祭」の時期に起きたため、復活祭のことを「過越祭」を意味するパスカに由来する言葉で呼ぶようになりました。

 

陰陽暦? 太陽暦?

イエスの誕生日は聖書に書いていないため様々な理由から後世の人々が12月25日に祝うこととしたクリスマスと異なり、イエスの死と復活は「過越祭」に起こったと聖書に書いてあります。そのため復活祭はユダヤ教の「過越祭」の日を参考にして決めればよいのですが、ユダヤ教は陰陽暦という暦を導入しているため、一般的に用いられているグレゴリオ暦(西暦)とは異なる計算をしなくてはなりません。

日本の旧暦や古いローマ暦など陰陽暦は歴史的には広い地域で用いられていましたが、計算上の不具合があったためカエサルが太陽暦に基づくユリウス暦を導入しました。その後、教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改正してグレゴリオ暦を制定しました。ですが、東方正教会はカトリック教会が制定したグレゴリオ暦を認めなかったため、今日でも正教では一部を除いてユリウス暦が使用され続けています。

以上のような経緯から、ユダヤ教の陰陽暦による「過越祭」、ユリウス暦による東方正教会の復活祭、グレゴリオ暦によるカトリック教会の復活祭はそれぞれ異なる日に祝われることとなりました。ちなみに今年の「過越祭」は4月15日の日没から開始し、正教会の復活祭は4月24日に祝われます。

 

復活祭日を巡る論争

復活祭はいつ祝うべきなのかという論争はキリスト教史の初期から見られます。中でも激しく議論されたのは、「過越祭」の日程に合わせるべきか、それとも日曜日にするべきか、という点でした。つまり、曜日に関係なく12月25日に祝われるクリスマスのように「過越祭」の日に復活祭を祝うべきか、それとも日付にではなく復活を象徴する日曜日という曜日に祝うべきかどうかが争点となったのです。すでに暦の問題で混乱が生じていた教会は、「過越祭」か日曜日か、でさらに分裂することとなりました。地域によっては二度も復活祭を祝うこともあり、復活祭の日時の不一致は教会のみならず政治的権力者からも問題視されていました。というのも、ローマ皇帝コンスタンティヌスは帝国再建のためにキリスト教の力を利用しようと考えており、政治と宗教は切り離せなくなっていたからです。

新しい宗教であるキリスト教の勢いを利用してローマ帝国の再起を目指したコンスタンティヌス大帝は、313年にキリスト教を公認して、325年のニケア公会議で教義を定めさせました。旧弊を打破して帝国を刷新しようとした大帝にとって、キリスト教がいつまでも古い「過越祭」の日程に拘泥することは望ましくありませんでした。そこで彼は「過越祭」派ではなく、日曜日派に加担する形で論争の終結を図りました。

世界史の教科書にも載っているニケア公会議の主な議題は教義論争でしたが、同時に復活祭の日程も重要な問題として取り上げられました。さらに、コンスタンティヌス大帝自身も帝国内での復活祭の日程の一致を求める書簡を発布しました。こうして復活祭の日は、クリスマスと異なり、日付ではなく曜日によって決められることになったのです。つまり、「過越祭」が行われる「春分の日の後の満月」の「次の日曜日」が復活祭となったのです。

 

ウィットビー教会会議

ここまで復活祭がなぜ「春分の日の後の満月の次の日曜日」に祝われるようになったのか、その経緯の概略をお示ししました。ですが、ニケア公会議や皇帝の書簡をもってしても復活祭の日程の論争に終止符を打つことはできませんでした。その一例として、筆者が研究している英国の教会史での事件を一つ紹介します。

時は7世紀後半、日本の戦国時代のように英国に数々の王様が群雄割拠しており、教会も政治状況と同じように分裂していました。具体的には、アイルランドの影響を受けた北部を中心とするケルト系キリスト教と大陸からの宣教を受けいれた南部のカトリック教会に分かれていたのです。北のキリスト教と南のキリスト教は、典礼や風習が違うのはもちろんの事、復活祭の日程も異なっていました。

さて、北の王国を治めるオスウィという王様はケルト系キリスト教を信じていましたが、お后様の聖エアンフレッドはカトリックに帰依していました。四旬節の断食を終えて復活祭を祝うオスウィ王は大宴会を開いて楽しく過ごそうと考えましたが、后のエアンフレッドは断食を続けています。何事かと尋ねると、彼女はまだ復活祭を迎えていないというではありませんか。ケルト系キリスト教とカトリック教会の間では復活祭の日程が違うということを知った王様は「天的秘跡を行う際に不一致があってはならない」として教会会議を開催しました。こうして開かれたウィットビー教会会議(664)で復活祭の日程が議論され、結果的にカトリック教会が英国の主流となりました。英国でカトリック教会が優勢となる歴史的端緒であるウィットビー教会会議開催の背景にも復活祭の日程論争があったのです。

ここまで復活祭の日程を巡る議論の歴史を瞥見してきましたが、その複雑さに驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。歴史上、「春分の日の後の満月の次の日曜日」を別の表現にしようとした努力もありました。例えば19世紀には数学者のガウス(1774-1855)が復活祭の日程を計算する方法を編み出しましたが、難しい数式は素人目には何のことやらわかりません。

20世紀半ばに開かれた第二ヴァティカン公会議は典礼刷新の一環として、『典礼憲章』の補遺で復活祭をクリスマスのように固定祝日とする可能性を示唆しました。もしかすると、復活祭が複雑な規則に従う移動祝日ではなくなる日が来るのかもしれませんね。

 


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