第3章 いつくしみ Compassion


本連載は、イエズス会のグレゴリー・ボイル(Gregory Boyle)神父(1954年生まれ)が、1988年にロサンゼルスにて創設し、現在も活動中のストリートギャング出身の若者向け更生・リハビリ支援団体「ホームボーイ産業」(Homeboy Industries)(ホームページ:https://homeboyindustries.org/)での体験談を記した本の一部翻訳です。「背負う過去や傷に関係なく、人はありのままで愛されている」というメッセージがインスピレーションの源となれば幸いです。

 

ギャング出身*の親しい仲間たちにささげる(*訳注:「ギャング」とは、低所得者向け公営住宅地等を拠点に、市街地の路上等で活動する集団であるストリートギャングを指します。黒人や移民のラテン・アメリカ系が主な構成員です。)

 

グレゴリー・ボイルGregory Boyle(イエズス会神父)

訳者 anita

 

 ペマ・チョドロンは、米国生まれのチベット仏教の尼僧です。彼女によると、いつくしみを最も正確に測るものさしは、私たちが底辺にいる人たちに奉仕することではなく、私たちが彼らと家族的な絆で結ばれていることを認める覚悟がどれだけあるかです。1987年、ドローレス・ミッション教会は、1986年に移民改革統制法が制定されたのを受けて、不法滞在中の移民たちの聖域の教会となることを決めました。すると間もなく、メキシコや中米から来た不法入国者の男性たちが、教会内に寝泊まりするようになり(「グアダルペ・ホームレス・プロジェクト」)、女性や子どもたちは修道院で寝泊まりするようになりました(「ミカエルの家プロジェクト」)。

 この動きは、大きな注目を集めました。初期の頃はメディアが殺到しました。何でもそうですが、注目を集めると反対勢力も出てきます。当時、私にとって、小教区の留守電の伝言メッセージを聞くのは気の重い仕事でした。いつも複数の嫌がらせのメッセージや、殺人をほのめかす(あるいはほのめかす以上の内容の)メッセージが入っていました。

(……)

 ホームレスが教会内に寝泊まりするようになると、彼らの存在を証明する痕跡が必ずわずかながら残っていました。日曜日の朝、私たちはできるだけ換気しようとしました。ラグマットに、カーペットクリーナーをまき散らし、狂ったようにそうじ機をかけました。50名近く(その後は100名)が昨夜泊まったことを思い起こさせる、充満する残留物をやっつけるために、教会の周りにポプリと芳香剤を戦略的に設置しました。ドローレス・ミッションで唯一、香を焚いたのは、日曜日の朝7時半のミサにあずかる信者たちが集まってくる前でした。とはいえ、私たちがどんなに力を尽くしても、臭いは残りました。不満が起こり、別の教会に行く、という信者も出てきました。

(……)

 臭いはつねに圧倒されるほどきつくはありませんでしたが、ただしっかり鼻につきました。イエズス会士たちは、「直せないならば、いっそのことフィーチャーしよう」と思い立ち、ある日曜日のミサの説教の中で、私たちは信者たちの不満を取り上げることにしました。当時、神父の説教はよく対話形式にしていたので、私は、「さて教会はどんな臭いがするでしょう?」と会衆に問いかけました。

 信者たちはギョッとし、目をそらし、婦人たちは、手元のハンドバックの中をごそごそして何かを探し始めます。

 「さあ、皆さん」と私は投げかけました。「教会はどんな臭いがしますか?」

 「足の裏の臭いがする」とドン・ラファエルが大きな声で発言します。彼は、年寄りで、人にどう思われるかなんてお構いなしです。

 「そのとおりです。では、なぜ足の裏の臭いがするのですか?」

 「大勢のホームレスの男性たちが昨晩寝泊まりしたから?」とある女性が言います。

 「では、なぜそれを私たちが許しているのでしょう?」

 「私たちがそうすると約束したからです」と別の人が口を開きました。

 「では、そもそもなぜそんなことを約束するんでしょうか?」

 「イエス様ならばそうするから」

 「それならば…教会は今、どんな臭いがしますか?」

 一人の男性が立ち上がり、「約束の臭いがする」とわめきました。

 歓声が上がります。

 グアダルペが両腕を激しく振り回しながら、「バラの香りがするわ」と言いました。

 会衆席いっぱいの信者たちは、ドッと笑い、他人の臭いを自分の臭いとして受け入れる家族的な絆を新しく結んだのでした。教会内の悪臭は変わりませんが、それをどのように受け止めるかが変わったのです。ドローレス・ミッションの信者たちは、米国の小説家で詩人のウェンデル・ベリーが出した「自分とは違う生きざまを想像できるようにならないといけない」という指令を体現するようになったのです。

 聖書学者たちは、新約聖書で、山上の説教として有名な「真福八端(しんぷくはったん)」の原文には、「心の貧しい人々は幸いである」「平和を実現する人々は幸いである」「義に飢え渇く人々は幸いである」とは書かれていないと主張します。さらに正確に訳すと、「心が貧しいならば…平和を実現するならば…あなたは正しい場所にいる」です。なにしろ、真福八端は、霊性ではありません。これは地理です。どこに立つべきかの立ち位置を教えてくれるのです。

 いつくしみとは、他者の痛みを感じるだけではありません。彼らを、自分の中へと引き寄せることです。神が愛するものを愛するならば、いつくしみの内に、「底辺」を生む境界線は消されます。「神がいつくしみ深いように、あなたもいつくしみ深くあれ」とは、何かを排除しようとする垣根をとっぱらうことを意味します。

 

TATTOOS ON THE HEART by Gregory Boyle

Copyright © 2010 by Gregory Boyle

Permission from McCormick Literary arranged through The English Agency (Japan) Ltd.

本翻訳は、著者の許可を得て公開するものですが、暫定版です。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

thirteen − 11 =