こころと信仰


こころって何でしょうか。

こころない言動、こころの狭い人。

こころの強い人、こころがときめく等等。

こころを使った表現は数えきれないほどあります。それくらい人にとってこころは大切なものです。

人には心があります。

では他の生物には心がないのでしょうか。

昆虫の世界を見てみると、仲間同士で合図を交わしながら敵を撃退する行動などがありますが、これは心というより本能的な行動に思えます。 一方、動物鳥類も含めての世界では、心があると思える行動が見受けられます。

動物には仲間を助けたりする光景が見られますし、猫どうしのじゃれ合いや、犬と猫との遊びの中に、ちょっかいを出したりいたずらしたりして、自分の感情が表に出ているような心があるような仕草に見える光景をよく目にします。

わたしの飼い犬も、わたしが家に帰るとうれしくてうれしくて、腕の中に飛び込んできます。

これらの行動には心が感じられます。

では、心はどこにあるのでしょうか。

「ハート心臓にある」という人もいますし、「頭の中にある」という人もいます。

多分「ハート心臓にある」という人は、驚いたり感動したり心が動いたりすると心臓がときめくことから「ハート心臓にある」というのだと思います。

わたしは、「頭の中にある」論者です。

動物は脳の中に色々な記憶情報を蓄積します。また忘れていきます。これが重要です。

人は蓄積した情報を使って、次にとるべき行動を判断します。この判断の中で一義的にすべての動物が同じ行動をとるのであれば、心は存在しないのかもしれません。

頭に蓄積した情報の量、内容そしてここが大事なところですが、個々の経験やその時の状況などの情報などから、動物の一義的な行動ではなく不確定な判断や思いとなって脳内を駆け巡ります。一説には、その時々の手足からの信号や五感の刺激もこころへと駆け巡るそうです。 瞬間瞬間の想いは蓄積されて記憶に残り、思考のきっかけがあると感情や新たな思いとして蘇るのだと思います。

忘れるということも不確定な要素を深めるでしょう。(個人的な持論です

というと、非常に冷たい、心無い整理のように聞こえますが、感情や個々の思いは、この判断の発露だと思っています。

ですから、正しく間違えなく記憶し、忘れることの無いコンピュータは、正しく一義的に判断できますが、不確実性を含みません。

言い換えれば、コンピューターは、一見集めた情報から相手を思いやったように見える行動を導き出すことはできるでしょうが、心をもつ人造人間を作ることは至難と思います。

では個人にとって、心が満足する正しいと思える判断をするにはどうしたらよいのでしょうか。

先人の知恵や経験をその一助にしたり、仲間や意識の近い人たちの意見を聞くことも心の糧になるでしょう。

わたしには信仰という糧があります。

宗教というと堅苦しいですが、長らく人間に寄り添ってきた宗教には、尊い知恵があります。

人間として共感できるものをたくさん見つけ目事が出来ます。

信じるということ。

心に寄り添った教えは自分に大事なものを伝えてくれます。

ある時は希望に、ある時は自分を振り返る一助として、本当に苦しんで苦しんで行き場のない閉じた状態の時には救いにたどり着きます。

信仰は心を豊かにする。

また人生の指針を与え、救いを与える。

わたしは、信じているものを追いながら、そして助けられながら、心豊かに過ごしたいと思います。

あき(横浜教区)


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