人間の価値 詩篇8章3~4節


佐藤真理子

あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

(詩篇8章3~4節)

神様は人間をご自身の似姿として、極めて「良い」存在として創造しました。一人一人が、神様の作った唯一無二の存在なのです。最近「普通」という言葉について考えさせられます。本来一人一人が異なる存在ならば、「普通」という言葉もあまり実体のないものなのではないかと思うのです。

雪の結晶は、その結晶が地上に至るまでに通ってきた軌道が一つとして同じでないため、同じ形のものが存在しないのだそうです。それは人にも当てはまることのような気がします。一人として同じ人生を歩む人はいないので、同じ人は一人もいないのです。

日本の社会では、人と同じペースで同じことをするように強いられることがよくあります。何らかの基準で順位がつけられることもしばしばあります。決められたレールを踏み外さないよう強いられることもあります。

勿論、協調性はとても大切なものですが、時に実体のない「普通」という観念が私たちにプレッシャーとしてのしかかることがあるような気がします。一人として同じ人間がいない以上、「普通」という概念自体、本当はナンセンスなものではないかと私は思うのです。

 

私たちはそれぞれ個性を持ったユニークな存在です。世の中に一人として同じ人間はいません。もし皆が全く同じ人間だったら、世の中が立ちいかなくなってしまいます。一人一人が違うからこそ異なる役割を果たすことができ、その上で私たちの生活も成り立っているのです。

生きていると、しばしば様々な形で順位のようなものがつけられることで、自己評価が左右される経験があるかもしれません。しかし、人が人に価値を定めることなど本当は不可能なのです。例えば、じゃんけんは組み合わせによって勝ち負けが変わります。私たちにも似たような側面があるように思います。つまり、それぞれの強みや弱みがあり、それが個性となっていて、強さに順番などつけられないのです。

神様の作品である私たちもそのような存在です。それぞれ異なる存在で、それぞれの賜物があるので、比べることなどできないのです。

 

時々「社会不適合者」という言葉を聞くことがあります。私は、歴史を動かし、世の中をより良くしてきた人間は皆、多かれ少なかれ「社会不適合」的な側面を持っていたのではないかと思います。私たちは不完全な社会に生きています。現状に異を唱えないことが、問題を改善に向かわせないことがあるのです。先駆者、パイオニアと呼ばれる人々は、世の中に自分を合わせたのではなく、各々が正しいとした信念に世の中を合わせようとしてきました。民主主義、平和主義の発端、奴隷制度撤廃、性差別問題、人種差別問題、子供の人権問題、ハラスメントや学校教育の問題、いじめ問題の改善の背景には少なからずこのような人々の動きがあります。不登校問題一つとっても、コロナ禍で、これまでの学校教育の形態自体が機能しない中、そもそも教育において登校を絶対的なものとして強制することが正しかったのかどうか問い直されているのではないかと思います。

聖書には「この世と調子を合わせてはならない」という言葉があります。時には、大切なことの基準を「普通」「みんな」といった実体のないものに合わせるのではなく、本当に正しいとされるものに合わせる必要がある時があります。

 

ローマ人への手紙7章8節には、「罪は戒めによって機会を捉える」という言葉があります。「○○してはならない」という基準がなければ罪は存在しません。法律がなければ犯罪は存在しません。律法を違反して初めて罪は存在するのです。律法は罪を示すレントゲンの役割を果たします。旧約聖書は、神の基準を示すための律法が記された書です。守ろうとしても罪のある人間には守ることができません。しかし、キリストは罪を一切持たないので、律法を犯すことがありませんでした。キリストとともに生きるとき、私たちは、この神の基準を生きるのです。

 

一人一人が、「普通」でも「この世」でも「みんな」でも「社会」でもない基準をキリストによって生きることで、逆に「社会」のレベルが高潔な基準に近づくことがあります。そのようにして世界はより良く変わっていくのです。これは余談ですが、個性重視の教育、また社会福祉や性差別撤廃が進んでいる北欧諸国の政策と、近代化の際その国々で大きく広がっていた聖書主義の信仰に結びついた価値観には少なからず因果関係があるように私は思います。

日本には「事なかれ主義」という因習があります。しかし、問題に対処することが必要な時があります。悪事に対して「悪い」と明確に示すことは、復讐することではありません。勿論一時的には大変なことですが、勇気ある一人一人のその正しい対処が、悪事を起こしてしまう人自身を、そして現在と未来の同じ問題で苦しむ大勢の人々を救っていくのです。

 

私たちは一人ひとり、究極的に価値のある存在です。人を創造した、唯一人間に価値を定めることのできる神が、そのように聖書の中で語っています。聖書には「魂を殺せない人を恐れるな」という言葉があります。実態のない「普通」や「みんな」を恐れず、一人一人が自信をもって何にも束縛されることなく自由に生きてほしいと願います。

私たちの基準は人ではなく、神です。神は愛です。愛が、私たちの生きる基準です。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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