重荷をゆだねる 詩篇55篇22節


佐藤真理子

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。

(詩篇55篇22節)

時に、神様は不思議な方法を使って私たちにメッセージを伝えます。

以前、私はある出来事でとても不安な状態になってしまっていました。そんな状態になるのは久しぶりで、来る日も来る日も苦しんでいました。そんなある日、SNSを見ていると、二人の人が同じみ言葉をシェアしていました。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。

(詩篇55篇22節)

その後、Youversionという聖書アプリを開くと、その日のみことばは、同じ詩篇55:22でした。

また、そのアプリのプランという信仰の励ましの言葉が綴られているコンテンツを開くと、そこで取り上げられていたのも詩篇55:22でした。その日、私は四回続けて同じみことばを目にすることになりました。

その翌日、私は聖書日課の手助けとなるデボーション用の本としてコーリー・テン・ブームの「日ごと新たに」という本を開きました。すると、その日の聖書箇所がなんと、やはり詩篇55篇22節だったのです。

二日間かけて、立て続けに五回、私の前に同じみことばが示されたのでした。このみことばをしっかりと受け取ったとき、心には安心と喜びが広がりました。その直後に、私が心配していたことは起こらなかったことがはっきりとしました。私の勝手な不安が現実となったのではなく、みことばが示したことが真実だったのです。

これまで、いつもみことばに励まされてきていましたし、大切なことを決めるときは特に、みことばを求めてきました。しかし、ここまではっきりと立て続けに異なる形で5回も同じ御言葉が示されたことははじめてでした。

神様がその言葉をどうしても私に伝えたいのだとわかりました。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。」この言葉は信仰と深く結びついています。信仰とは神への信頼だからです。その出来事を通して、私の中にまだ神様に委ねきれていなかった部分があったことに気づかされました。これまで、私は時に自分で担う領域と神に委ねる領域を分けていたことに気づかされることが度々あったのですが、今回もまたそうだったのです。

詩篇55:22のみことばが五回もほぼ同時に私の目の前に現れたことで、私は主が生きていることを改めて目の当たりにしました。もちろんこれまでも何度もそのようなことがありました。しかし、5つのパンが五千人に配られる奇跡を目の前にしても、またその直後に四千人に配られてもまだキリストを信じられない弟子たちのように、荒野でマナを食べ物として供えられてもまだ主を信じられなかったイスラエルの民のように、私も神様が自分にしてくださったことをすぐに忘れてしまう弱さがあるのを思わされます。それゆえに、何度でも、もう一度主が生きていること思い出すことができるよう、このような出来事が起こります。

自分の領域と神様の領域を分けることは、自分の重荷を増やすことにつながります。しかし、実際自分のことを自分で背負うと、とても重いのです。人にはどうにもできない領域があります。人にはその日の終わりのことも、翌日どんなことが起こるのかもわかりません。いつ自分の命が終わるかもわかりません。自分に大きな影響を及ぼすことほど、自分ではどうにもできないのです。「もしこうだったらどうしよう」と考えること自体が、ただ自分を蝕むだけの無益な労力に終わることは多々あります。

だからこそ、神への信頼が必要です。「あなたの重荷を主にゆだねよ。」の次にはこう書いてあります。「主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」正しい者とは、主により頼む者です。

自分の感情や目の前の状況がどうあれ、「揺るがされるようなことにはならない。」という信頼を持つよう、このみことばは示しています。

この言葉をそのまま信じ、生き方の道しるべとするよう聖書は求めています。

回心前、奴隷船で働いていた讃美歌アメージング・グレースの作詞家ジョン・ニュートンは生前このような言葉を語っています。

「心から本当に信仰している者はすべて同じルールに従って歩み、同じ事柄を気にかけます。すなわち、神の言葉が彼らの羅針盤であり、イエスは彼らにとって、正義の北極星であるとともに太陽でもあります。……主は、最初に呼びかけるとき、そしてこれに基づいて御業を行われるとき、各人の状況、気質、才能、さらには主が彼らに委ねていた個々の役割と試練に配慮します。すべての者が折に触れて試されますが、人生という航海を他の人よりも遥かに順調に歩む人もいます。しかし、「風の翼に乗って歩かれ」(詩篇104:3)「手のひらで水を量」(イザヤ40:12)る、主は、たとえ誰であれ、いったん預かった者を嵐の中で滅び行くままにはしないでしょう。」

(ジョン・ニュートン著・中澤幸夫編訳『「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた奴隷商人の自伝』143頁)

私たちの歩みうちに、神様の支配できない領域はありません。主への信頼は、みことばを確かなものとして信じること、それと同時に、それ以外のことに惑わされないということでもあります。聖書の中で、神に対する反対勢力としてサタンについて書かれていますが、それはヨハネの福音書では「偽りの父」と描写されています。その「偽り」は私たちの心に不安として入り込みます。不安になっていたとき、私はインターネットの情報などを目にしてそれに強く影響を受けていました。しかし、実際は、み言葉通り「決して揺るがされることはな」かったのです。

私たちは情報があふれた時代に生きています。もちろん有益な情報が得られることも多々ありますが、その情報を与えている人は、私たちのことを知りません。しかし、神様は私たち一人一人を個人的に知っており、私たちの周りの状況も全てご存知です。神様ご自身が私たちの、またこの世界の創造者だからです。信仰は、神を決して過小評価せず、神を神とすることです。

神は私たちを愛しています。そして、神は「良い」方です。聖書には神が人を祝福し、幸せにした出来事が多々記録されています。神はご自分の御子をさえ惜しまず、私たちの罪を代わりに贖う存在として与えました。それほどまでに愛しているのです。神を信頼することは、神の愛を信頼することです。

心に不安が芽生え、疑いが芽生えると、私はこの言葉を心に思い起こします。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

(箴言3章5節)

「自分の悟りに頼るな。」とは、「自分を信じる」という価値観を美徳とする文化において、受け入れがたい言葉かもしれません。しかし、冒頭で説明したような出来事に多々直面する私は、「自分の悟り」が不確かであることはなんと幸いなことだろうと思います。あらゆる情報をもとに思い描いた不安は、真実ではないということだからです。私を愛している全知全能の神が支配している世界で生かされている私には、主の言葉なるみことばが真実なのです。

これは、主を愛する全ての人にあてはまる原則です。行く道すべてにおいて主の愛の業を認めることができるのです。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。

(詩篇55篇22節)

重荷をおろし、それを主に渡して、このみことばを握りしめて歩んでいきましょう。

生きていれば時々心の中にこんな声が聞こえるかもしれません。「あなたは無価値で、あなたのこの先の歩みにも光はない。」

しかし、私たちが信じたとき心の中で聞いたのは、「わたしはあなたを愛している」という声ではないでしょうか。私たちが聞くべき声は、私たちを貶め失望させる偽りの声ではなく、真実を語る、私たちを愛している人の声です。その方はこう言っています。

「私はあなたを愛している。私はあなたに将来と希望の計画を持っている。私は不可能を可能とする神で、だれも私の計画を覆すことはできない。私は必ずあなたを幸せにする。」

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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