神のみ前に声で立つ


石井祥裕(AMOR編集部)

「来た、行った、打った」

コロナ禍2年目の雑感である。仕事柄、教室と研究室兼編集室(複数)、そして今やオンライン会議室の場でもある自宅の自室、そして教会といった場を行き来する生活人の思いである。最近のコロナやオリンピックをめぐる喧騒の中で噴出する、さまざまな意見を目にしつつ耳にしつつも、自分には、専門知識もなく、政治世界・国際社会のウラオモテに関する情報の持ち合わせもなく、菅政権やIOCや日本のオリンピック組織委員会、大手メディアなどに対して批判的な投稿をするような気力も関心も乏しい。そもそも天下国家を論じられるような才能は、生来ない。

そんな最近の生活の中で、くっきりと心に刻み込まれて離れないのは、「来た、行った、打った」としかいえない、新型コロナウイルス感染予防のワクチン接種体験である。「接種券が来た、予約申し込みに行った、ワクチン注射を打った(打ってもらった)」――この経緯に身をゆだねるしかなかった、裸の自分。ここで見事に65歳以上という「高齢者」というカテゴリーに完全に服してしまっている。仕事と生活の中ではさほど意識することのない「高齢者」に分類される「国民」「住民」であることが、ちくっと、ほんの一瞬ささった2回の注射とともに、この体に刻み込まれた。

たぶん、生まれたときから、「それ」は体に刻み込まれてきていたのだろう。母子手帳とともに生まれる前から面倒をみてもらい、保護され、命名され、養われ、予防接種を受け、守られて育てられたこの体であったのだ。両親、両祖父母、その向こうに横たわる長い家族の歴史と、この国の歴史、そして戦後の国家体制、社会政策、教育政策のすべてが自分の体の背後にある。それについて歴史の学びや読書を通して得られてきた見方もそれなりにはある。そして、国や社会や国際社会(世界史)の歴史・存在・しくみを頭でとらえている自分もいるが、そもそも、自分のいのちが宿されているこの体に「それ」ははっきりと自らを刻み込んでいることに、それほど強く意識が向かったこともなかった。考えや観念や意見の前に、こちら側に備えられている、この自分の体の備えとして、国や社会の生態があることに、今回、はからずも気付かされることになった。

 

その一人の声に全集中

そんな気づきを抱えて教会のミサに集うとき、礼拝のもつ一つの力に、これも、あらためて気付かされている。今、教会の礼拝(カトリック教会でのミサ)には、医療現場に身を置く身から自らの積極的な行為として参加を自粛している人もいれば、オンラインでの配信ミサを熱心に視聴、自身でさまざまな努力をしながら、新しい形の参加に努めている人もいる。自分の小教区では、全4地区を2つに分けて地区別で隔週参加というかたちがとられているので、多少の制限はありつつもミサに集うことはできる。しかし、座席は十分な距離が必要とされ、また声を発することを控えている。これがなかなか大変で、司式司祭とマイクをもつ先唱者の声でミサは進んでいくが、うっかり(気を抜くと、あるいは気を入れると)「アーメン」と、声に出しそうになってしまう。ミサの中で、声を出さないことは、案外、強固な意志と注意力がいる。

逆にいうと、「力強く声を出しましょう」といわれていた通常のミサでは、そんなに意志力を使うこともなく、流れに身を任せていただけだったのかもしれない。もちろん、声を出して信仰宣言など唱えることは、意識と意志力が要されることではある。それでも、ときには(あるいはしばしば)「アーメン」など慣性(惰性とはいわないまでも)で行っていたこともあるように思う。

今、ミサのさまざまな対話句、応唱、祈願、詩編、(聖書朗読はもとからそうだが)、信仰宣言などは、先唱者が代表して発されるその一人の声が(司祭の声とも重なり合って)代表する。自分もときどきその奉仕を担当するが、そうではなく他の先唱者のときにも、その声の大切さが心に染みてくる。
その日の礼拝を通しての、神のみ前に立つ我々一同の声だからである。その声に心に静かに耳を傾け、心のすべてを集中させているとき、むしろ共同体の実感が湧いてくる。今、教会生活の中での最大の感動ポイントである。

歌えたら、もちろん、すばらしい。共同体のすべての人が声を出す迫力と生命力も、もちろん、すばらしい。そのような参加が回復するミサを、だれもが希求しているだろう。しかし、今、自分たちのため、周りの人のため、社会のため、ひいては人類のために、さまざまな制約をすすんで受け入れている礼拝実践、その姿を代表する先唱者の声が、この混迷の中で、耳に力強く、心に頼もしい。神のみ前に立ち、その導きにすがり、希望をかけている、我々の正直な姿として。

そして、拝領することのできるキリストの御からだは、地上の国に完全に服している自分に、何か違う力を投入してくれる。神学的にはさまざまに言うことが可能なのだろうが、いずれにしても神の国の力なのに違いない。そこでは「高齢者」になってしまった自分も、一人の幼子にすぎない。たぶん、そのように生きることを諭していたであろう、イエスの教えがあらためて新鮮に思えてくる。喧騒と混迷の中で、その生涯と十字架上のその御体が、あらためて、鈍色の光を帯びてきている。

 


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