SIGNISでの学び――暴力、広告、宗教


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

私は2019年にSIGNISのプロジェクトの一つであるウェブマガジンAMORに参加し、それと同時にSIGNISから様々な学びの機会をいただくことになりました。多くの機会のうち重要な一つは、世界的な新型コロナウイルスの流行の中、2020年7月にインドのNISCORT Media CollegeがMagimai Pragasam博士を講師としてオンラインで開催したメディア教育コースです。この講座を通じて学んだこととともに、とりわけ宗教が自らを広告宣伝するときの姿勢について考えたことを共有したいと思います。

 

メディアは子供と青少年にとって第三の親である

この講座では、とりわけ子供と青少年に対するメディアの影響力に注目しました。子供にとってまず影響力を持っているのは、両親やそのほかの保護者です。次に大きな影響力をもつ、いわば第二の親は、学校の先生です。そして、メディアは「第三の親」として、子供と青少年に対して絶大な力をもっているのです。ですから、メディアが彼らにどのようなメッセージを送っているかに気をつけなければなりません。

 

暴力の潜在的な影響

講座の中で特に印象深かったのは、映画における暴力の分析と、広告の分析です。暴力の分析では、映画の暴力的な場面がどのように撮影されているか、作中でどのような暴力が正当化され、どのような暴力が悪とみなされるのかの傾向などを扱いました。また、そのようなメディア上の暴力的な場面を見ることによって、無意識の領域では視聴者自身が暴力をふるったりふるわれたりする経験をすることになることがわかりました。

さらにMagimai博士は、暴力は殴る蹴る、ものを破壊するといった身体的・物質的なものだけでなく、無視したり、わざと不機嫌に接したりといった、より心理的で巧妙なものでもありうることを指摘しました。では、メディアの影響力を考えたとき、その巧妙な暴力とは一体どのようなものだと考えられるでしょうか。

 

自尊心の操作という暴力

一般に広告は、商品やサービスの存在を顧客や顧客になる可能性のある人に知らせるものであり、商品やサービスは顧客が抱えている問題を解決するために作られます。実際世の中には、これがあってよかったと思う商品が沢山あります(私は最近、ねじまわしを買ったおかげで古い家具を解体することができました)。では、広告が視聴者に対する暴力になってしまうのはどんな場合でしょうか。

それは、自尊心の操作だと言えます。広告の基本的なパターンの中には、問題を抱えてみじめな思いをしている人が、ある商品を手に入れてそれを解決するというものがあります。それはたしかにその通りですが、「この商品なしではあなたはみじめで無価値な存在なのだ。さあこの商品を買いなさい」というメッセージを送っているように思われる広告をよく見かけます。いわば、「自尊心を買う」ように誘導するのです。

人間は根本的な欲望として、まず「生物として」生き延びたいと思っています。たとえば、私たちは住宅や暖房器具などを求めます。次に、他者に勝ることによって、「社会的存在として」生き延びたいと願います。特に容姿、パートナーの獲得、社会的地位などに関係する商品や広告はこの欲望を強く刺激します。十分な自尊心と判断力があれば、買い物は自由で楽しい経験になるでしょう。しかしそうでなければ、商品の購入と自分の価値を必要以上に結びつけてしまい、苦しむことになるでしょう。

 

尊厳を「買う」のではなく「思い出す」

暴力と広告についての授業を受けて、次のように考えました。一般的な商品ならば、自尊心を操作するような売り方をしても許容されるのかもしれません。しかし、宗教はメディアを通じて別の方法で語りかけるべきではないでしょうか。そもそも、神は私たちに全てを与えてくれています。ご自身の像である人間としての尊厳も、存在そのものも私たちに与えてくださいました。子供や青少年をはじめとして宗教が人々に「思い出して」もらうべきは、私たちはもともと自分や他の人の様々な思惑や操作を超えた配慮のもとにいること、何かを買ったり獲得したりすることと関係なく、本来尊厳があるということだと思います。

 


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