「民学の会」へ誘われて


私は大学を卒業してから渋谷にある小さな出版社(インタナル出版)に入り、出版とはなにかを学び始めました。あるとき、編集長の林一夫さんから出版人が集まる会に一緒に行こうと言われて顔を出したのが「仮面の会」でした。「仮面の会」は勉強会ではなく、みなが集まり食べて飲みながら話をするといった、いたって自由な会でした。とても楽しくて、例会があると出かけていくようになりました。

銀座にある長崎センタービルのなかに置かれた長崎県人クラブという部屋で行われたときのことです。大出俊幸(当時新人物往来社編集局長)さんに「民学の会」というのがあるけど、一度来てみませんかと誘われました。「民学の会」は飲んで話すだけではなく、勉強もする会だということでした。私は「民学」から「民俗学」を連想し、ぜひ参加したくなりました。

しばらくしてから、「民学の会」の事務局をしている久保艶子さんから『民学のたより』という会誌が送られてきました。そこには「民学の会」の発足にあたっての記事が載せられていました。

 

「あらゆる文化が交錯しぶつかり合っている現代‥‥美学や美術、文学、歴史、民俗学、社会学、心理学、実作者、さらに自然科学などのあらゆるジャンルの専門家のエキス(知的体験)を、一般市民の豊かな生活に注入してぶつけ合ってみれば、われわれが予想もしなかった『民の文化』の核を発見できるかもしれない。そんな刺激的な楽しい広場=民学の会=をみんなで作ってみたくなった。‥‥

民の創造した文化を対象とする『民学』の領域は、広く深く、とてつもなくその器は大きい。しかもなに一つ定義らしきものはなく、どんな結果があらわれるかもわからない。だが、発見と創造にチャレンジする楽しみがあることはたしかだ。

裵永昌氏のデザインによる民学の会のロゴ

(「朝日新聞」1977年11月15日文化欄 金両基氏の文より抜粋)」

 

そして、「民学の会」の世話人の名前が列挙されていました。その一部を紹介します。

 

【世話人】

青木保(大阪大助教授 文化人類学) 福田繁雄(グラフィックデザイナー) 河竹登志夫(早稲田大学教授 演劇学) 金両基(カリフォルニアインタナショナル大教授 民俗学) 岸田秀(和光大教授 精神分析学) 小林一博(出版ジャーナリスト) 久保艶子(主婦) 松永伍一(詩人 民俗学) 水尾比呂志(武蔵野美大教授 美学) 大出俊幸(新人物往来社編集局長 エディター) 大岡信(詩人・評論家) サトウサンペイ(漫画家) 芹沢金圭(けい)介(染色家) 田中日佐夫(成城大助教授 美術史家) 利根山光人(画家) 宇波彰(関東学院大教授 評論家) 米倉守(朝日新聞 ジャーナリスト) 吉野裕子(学習院女子短大講師 民俗学)

といった錚々たるかたがたが関わっておられました。

 

例会の第1回は1978年(昭和53年)3月16日に発足記念シンポジウムとして「民の文化の核を求めて」が開催され、サトウサンペイ(漫画家)、田中日佐夫(美術史)、山田宗睦(哲学)各氏が登壇し、司会は金両基(民俗学)氏となっています。それから年間で5~7回の例会が行われてきていました。

私が最初に参加したのは、1982年(昭和57年)4月4日に行われた第36回の「見学会 窯場見学と話」と題する会でした。講師は陶芸家の河村又次郎氏でした。その例会に参加したあとで、『民学のたより』に感想を書かせていただきました。


「“又焼き”のこころ―北鎌倉日曜美術館―

 

ひと雨きそうな早春の夜。

新宿はゴールデン街の“ぎょろ”なる店にて、水割りのグラスを重ねていた。カウンターの隅にあるテレビを、客がじっと見ている。その夜は、普段のマスターと違い、美人のアルバイト嬢が接客していた。

「おや、NHKは白黒なのか」

「そうみたい、他の局カラーだもの」

8時からのNHK特集“桂離宮”は、確かに白黒で映っていた。

 

大船の駅、日曜日の午後1時。“民学の会”で河村又次郎先生宅を訪ねる日。集合開始である。焼物を見る、窯も見せてもらえる、話も聞ける‥‥それは私にとって、またとない機会だった。北鎌倉へタクシーで乗り着くと、のっけから驚かされた。小さな生け垣の門を抜けると、民俗博物館が置かれていたからだ。北大路魯山人の茶室と住居があった。と分かったのは、河村先生の説明の後なのだが。

そこには、絵で見た“日本”があった。私の目にはどこを見ても、一枚の風景写真として映った。江戸時代初期の建物といわれる住居の中は、天井の高さと、障子の桟に注目が集まった。幾何学模様の桟は処々でその形を変えていたし、天井の伝統の傘は鳥篭のような形で、周囲によく気を遣ったデザインでもあった。と関心のため息の中に、この傘が、魯山人の着想で、茶に使う道具を利用した裏話が入る。なーんだの挿話が、呪術にはまった感覚が陥る教訓である。

切り通しを抜けて、登り窯を見、そのあと河村先生の作品をひとずつ手にとって味わった。土の良さを最大限に生かした、素朴で重量感のある作品群だった。そして、それは、私がいままで憧れていた焼物とのめぐり会いでもあった。

「湯呑みをつくっています」の一言が記憶にのこる。彫刻から焼物に移ったという先生は「湯呑みの横に穴は開けられません」とも話す。ここに独創の極地があろう。自然に溶け込むなかに、ふところの大きさがある。1人の感情がものを生み、育てる。規格されるという呪縛から逃れる術を、焼物は持っている。「私のは又焼きです」とは、流派からも自然であれ、というものの見方への戒めでもあった。

堪能した帰りの電車の中で、「当分は離れよう」という自分がいた。好きなものへ近づいたときの警戒心であろうか。強烈な“日本”の熱射を浴びて、一枚の風景写真が、みるみるセピア色になっていくのを感じていた。

ゴールデン街へ往こう。そしてまた白黒のカラーテレビを見よう。“桂離宮”再放送をカラーでも見ていた私は、妙にハッキリと自分に言い聞かせながら新宿へ急いだ。

(1982年10月15日発行 第16号))

 

初めて参加した「民学の会」の強い印象と興奮度が、稚拙ながらも表現されているように思います。私はこのときから、いままで自分自身で抱いていた庶民への関心を「民」という意識に持ち変えて考えていくようになります。

「民学の会」は2015年(平成27年)5月24日に例会第200回を行いました。そして、2020年(令和2年)2月15日に例会第215回の「クジラと人のこれから、これから」講師 山村和夫(日本捕鯨協会会長)氏まで続いています。

「民学の会」で授かったいろいろな賜物については、これから折々に記していきたいと思います。

鵜飼清(評論家)


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