愛という注解 ヨハネの手紙第一4章16節


佐藤真理子

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

ヨハネの手紙第一4章16節

 今回は、私が聖書理解についてこれまで教えられてきたことをシェアしたいと思います。

 私はカトリックの大学と大学院、またプロテスタントの神学校で神学を学びましたが、その際専攻したのは聖書学でした。キリスト教の教派はそれぞれ独自の教理を持っていますが、それはそれぞれの聖書理解によって構築されています。また神学、聖書学には自由主義的か否かといった立場があります。こういった神学の地図のようなものをはじめはあまり理解していなかったので混乱することが多々ありました。それぞれの場所では出発点というか前提条件となるもの自体が全く違っていて、一歩外に出ればそれとは異なる世界が広がっているとしても、その前提条件自体を問うことはできないような力を持っていました。私は異なる考え方を目の当たりにし戸惑うのと同時に、根本的に、また本質的に同じものは何だろうかとも考えさせられました。

 神学や聖書学を学ぶと、教理や歴史、聖書の時代の資料や哲学、教会と関わってきた哲学、写本について、また本文批評、聖書原語、解釈学の講義を受けることになりました。神学の地図のようなものをおぼろげながらも把握しだすと、とても興味深く感じました。私が学んでいたことはとても魅力的で、知ることが楽しくて仕方がなくなりました。しかし次第に、「聖書をもっと知りたくて学んでいるのに、なぜか聖書と遠くなる気がする。」という気持ちも抱くようになりました。聖書の矛盾点や写本の信憑性、新しい学説、新しい解釈、神学のトレンドなどに焦点を当てて学んでいるうちに、聖書を疑う気持ちも出てきました。何度か聖書のあるテーマについて徹底的に調べることに努め論文を書きましたが心のどこかで「私の結論は正しいのだろうか。」という気持ちが拭えませんでした。学んでいた学校に関わらずそう感じました。

 次第に私は啓蒙主義以前の聖書理解、教父や宗教改革者たちの書を読むのが好きになりました。それらを読むと心が燃えたからです。そして、それらの聖書解釈は教会史と深く結びついていることも興味深く思いました。心が燃える聖書解釈は、歴史を動かす力を持っていたのです。
 しかし、そのように聖書解釈によって歴史が動かされると教会では直後に必ず分裂や戦いが起こります。そのこともまた興味深く感じました。

 実のところ、私が最も「聖書を深く知ることができた」と感じたのは、神学校を出た後でした。それまで「聖書についての本」はたくさん読みましたが、聖書自体を読む時間が殆どとれませんでした。それまでは通読にも時間がかかりましたが、その頃から私は聖書を読むことが本当に生きる糧となったので、いつのまにか通読し終わっているという事が多くなりました。何度も聖書全体を読むことで、一つの個所で疑問を持っても「聖書全体から見える神様の意図」によって理解しようとするようになりました。「聖書によって聖書を読む」ことによって以前抱いていた「聖書から遠くなる」という気持ちは克服されていきました。聖書と親しくなるような感覚、また聖書が私の心を読んでいるような感覚も覚えました。聖書は不思議な本で、何度読んでもそのたびに心の響く個所や、響き方が違います。そのようにして得たことについては深い確信のようなものがありました。

 そして、私が「心が燃える」と思った聖書理解を提示してきた人々も、このように聖書を読んでいたのだろうと思うようになりました。そして、この「心が燃える」ような、自分に暖かいものが広がる感覚は聖霊によるものだと感じました。歴史を動かす聖書解釈というものは、聖霊が働くことによって生まれ、聖霊が働くからこそ教会が変わったのだろうと思うようになりました。

 ジョージ・ミュラーは、「聖書についての本よりも、聖書自体を読むことの方がずっと大切だということ」「聖書全体を読むこと」「聖霊によって読むこと」の大切さを語っています。また「人から得る知識は人を高慢にさせるが、聖霊によって聖書を読んで得た知恵は人を謙遜にする。」と語っています。

 聖書は「書かれた目的」のある書物です。その目的は聖書が語っています。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。ヨハネの福音書20章31節」

聖書には長い歴史がありすぎて、解釈が複雑化することのほうが当たり前で、子供のように単純に読むことが逆に難しい現状があります。

しかし、例えば、ドイツ製の車があったとして、その説明書を車に乗る目的以外をもって読むとおかしなことが起こります。そこに「このボタンを押すとエンジンがかかる。」という文章があったとします。それを「この言葉の意味を深く知るためにドイツ語で読み、また『ボタン』『押す』『エンジン』の解釈をあらゆる用法や資料を用いて調べよう。」としても、その説明書が伝えたいのは「エンジンをかけるためにはこのボタンを押しなさい」ということであってそれをしないならその説明書は無意味です。それが聖書になると、この単純な作業が非常に難しくなります。

 また、先ほど述べたように、教会史においては歴史が動くと同時によく分裂や戦いが起こります。それは聖霊によって与えられた真理が独り歩きして偶像化することによるものだと思います。その真理自体は素晴らしくても、それが神様以上のものとなると誰かが傷つく結果となります。だからいつも、聖書の解釈は神に照らし合わせる必要があります。

 神とは何でしょうか。

「神は愛です。(1ヨハ4:16)」もし私たちがある人からの手紙を受け取ったならば、書いた人に直接意図を確かめるのが最も正確に読める方法です。また、書いた人を知るほどにその手紙を正確に理解できます。聖書もまた、究極的な著者である神との関係なしには読めないのです。

また、神についての真理を聖書から理解しても、それで誰かを傷つけるならば、もはやその真理は真理から外れてしまいます。

 私はこの文章で神学や聖書学は無意味だと言いたいのではありません。それは私に多くのことを教えてくれましたしこれからもそうです。でも、そういった知識を持っていなければ聖書を正確に理解できないとは考えていません。聖書の理解を求めるときに、人の言葉が助けになることも勿論あると思いますが、はじめにしてほしいのは、神様に聞くということです。

 私たちは、いつも愛によって聖書を読むべきです。愛は間違いを犯しません。神は愛です。愛から外れるならば、その聖書理解は間違っています。愛から外れることは神から外れることだからです。愛は無意味な線引きもしなければ人を傷つけることもしません。しかし真理を曲げることもありません。

聖書解釈は、今も様々なところで様々なテーマで議論を引き起こしています。私は「この考え方は正しい、これは間違っている。こうすることは正しい、これは間違っている。」といったことに焦点を当てる前に、愛を追求すべきだと思います。愛こそが、聖書の全体を通して最も強く打ち出されたメッセージだからです。キリストがたった一つ私たちに課した戒めは「神を愛し、人を愛しなさい。」ということです。

聖書を読むときに用いるべきは、「愛」という注解書です。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)

東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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