身体と人間と神 峠三吉を読んで


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

ふいに「にんげんをかえせ」という言葉を思い出して、小学生の時に読まされた峠三吉(1917-1953)の『原爆詩集』を青空文庫で見つけて読み返した。読みながら、幼心に人間の身体が異常な仕方で破壊された描写に心底からの恐怖をおぼえたことを思い出した。たとえば当時最も恐ろしかった詩はこれだった。

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥かしいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
だれがほんとうと思えよう

(中略)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類の間にはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

(「仮繃帯所にて」)

幼い私にとって原子爆弾とは人間の身体を異常なしかたで破壊し、人間としての資格を失わせるものだった。女学生と言うには幼すぎたが、詩人の目を通して後ろから被爆地を見ていたのが急に「あなたたち」と呼ばれた気がして、いつ自分もこのように身体を焼かれて「にんげんのむすめ」でなくなるのだろうか、ある日鏡を見たらこのような姿になっていたらどうしようかと恐れて八月を過ごした。子供にとってこのような人体破壊は自分自身の破壊そのものだった。その恐怖に比べれば、ほかのことは二級のリアリティしかもたない。

ところで、三十年近く経った今年読み返してみると、キリスト教徒ではなかった当時とは異なる箇所が目に留まった。

1945, Aug, 6
まひるの中の真夜
人間が神に加えた
たしかな火刑。
この一夜
ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを
待ち伏せる。

(「炎」)

峠三吉という人物について私は正確なことをほとんど知らない。しかし人間がこのように人間を焼くことが、人間が神を火刑にする(その逆ではない)ことであるという言葉は、人間を神の像(「神に似るもの」)として受け取るかぎり、衝撃的ではあるけれども腑に落ちることでもあった。

宗教は人間の精神的・霊的次元に関係するだけではなく、身体を含めた人間全体と、その原像である神との関係に関するものである。身体という物質的な領域は人間と神との関係において二級のものではなく、人間が神と関係する場そのものであり、精神的・霊的領域とともに神の像としての尊厳を担っている。人間が意図して、火によって人間の肉体を異常な形に破壊し、尊厳なき死を強いることは、神を火刑にすることなのだ。いま、私たちは人を生きたまま焼いたりしないまでも、自分自身を含めた人の身体に対してどのような態度をとっているだろうか。そして、それが神に対する態度だとしたら。

 


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