余白のパンセ(3)わが青春譜 全寮制高校での3年間


鵜飼清(評論家)

この連載の1回目に少し触れましたが、私が自分の人生のある意味で原点とも考えている高校生活のことを書かせてもらいます。

公立の全寮制高校―東京都立秋川高等学校が、36年間の歴史に幕を降ろしました。起床ラッパで始まり、就寝ラッパで終わる日課の中で結ばれた友情は、いまでも続いています。母校はなくなっても思い出は残る。私が第3期生として草創期に学んだ、全寮制生活での青春を、今ここによみがえらせたいと思います。

平成13年3月10日の土曜日に、秋川高校で「閉校式典」が午後1時から行なわれました。
私は同窓会の幹事なので、午前中に学校へ出かけました。卒業してから10年後に一度訪ねましたが、それからでも20年の歳月が過ぎています。

立川駅から五日市線に乗って見た窓外の景色は、一変していました。西秋留といった駅は秋川駅に変わっています。駅周辺にも昔の面影はほとんどありませんでした。

高校のほうへ歩いて行くと、遠くにメタセコイアの頭がヒョッコリ見えました。線路を横切りしばらくして校門に着くと、写真でしか見たことのなかった大きなメタセコイアの並木道が、メインストリートになっています。一歩一歩踏みしめるように歩きました。私が秋川高校にいたあの頃、背丈の倍ほどしかなかった、これが同じメタセコイアなのだろうか。

メタセコイア並木3期生卒業間近の頃のメインストリート

メタセコイア並木3期生卒業間近の頃のメインストリート

式典が始まるまで、教室棟へ足を向けました。「そうか、ときどき夢に見る教室がこれだったのか」長細く連なる教室棟が、たまに出てくる夢の中の舞台だったのには驚きました。夜の「同窓会惜別の会」は、立川市にあるパレスホテル立川で行なわれました。2週間前に同窓会主体でやることになり、同窓生達があわただしく準備をしたのです。即製のスタッフでも大過なくできたのは、やはり共同生活を経験した仲間たちが協力し合ったからだと思います。

現旧教職員などを含み636人が集まった会場は、熱気にあふれていました。各期生たちが壇上で記念撮影に興ずるなど、旧友や教師たちとの再会にしばし時を忘れました。あの顔、この顔、頭は白くなり薄くなっても笑顔に面影がある。声にあの頃がある。そう…‥‥寮室で話し合った私がいる。

戸山中学のクラスメイトで『秋川高校一問一答』という小冊子を持っている者がいました。「ちょっと貸してくれよ」といって家に持って帰り、父親に見せました。するとおやじが「高校は全寮制がいい」と言い出しました。私だっておぼろげながら旧制高校のバンカラなイメージに憧れ、他の連中とは変った高校生活をしてみたかったには違いないのですが、どうしたらいいか少し迷いもあったので相談したのでした。しかしことは即決されました。こうなれば「行くぞ」と決意を新たに受験しました。

秋川高校の開校は昭和40年です。当時の東京都教育長小尾乕雄氏により全寮制高校の必要性が提唱され、戦後唯一の公立全寮制高校が具体化されました。

教育目標は「心身ともに健康でたくましく、たえず自己の向上に努力し、社会の発展と日本文化の創造に寄与できる自主独立の人材を育成する。」とあります。

私が入学したのは昭和42年で、この年の新入生は233名。これで高校はようやく3学年がそろったのでした。校長は井上義夫氏でした。

4月8日(土)の入学・入寮式の日は、晴れ渡った青空が強烈な印象として残っています。真新しい教室に自分の名前を見つけ、何やらこれからの期待と不安が入り混じった複雑な心境で、うれしさとは違ったものでした。

 

第1学年 1棟31室

寮は玉成寮といって、第1棟から第3棟まであり、それぞれ学年ごとになっています。寮名は東京大学の宇野精一教授によります。「玉」は西多摩の「多摩」に通じ、かつ、玉のように立派な人物を育てるということからきています。

私は第1棟の31室に入りました。1室が8人部屋で、手前と奥で4人ずつに区切られ、勉強机とベッドが1人1つずつ備えられていました。仕切りはありませんが、勉強する側と寝室の側とで分けられていたのです。

最初の夜は、食堂で先輩たちに紹介されました。テーブルには米飯の赤飯と、お頭付きの小さな焼き魚が置かれていたように思います。大食堂でいっせいに食事をするというのははじめてだったし、あっけにとられて、うまいもまずいもありませんでした。

朝は6時に起床ラッパと音楽でたたき起こされます。そしてグラウンドに出て点呼があります。

「なんで俺はこんなところへ来たのだろう」と悔やむも、後の祭りです。ただ校旗掲揚をした旗が、風に揺れるのを眺めるだけ。

渡り廊下を歩いて寮棟から教室棟へ登校する(東京都立秋川高等学校同窓会提供)

私は、すぐにホームシックにかかってしまいました。1人きりになれる時間がないのが辛かったのです。同室の仲間とはうまくいっていましたが、わがままは許されません。それが共同生活だからです。

中学時代には学級委員などして多少なりともリーダーシップをとってきたつもりだった自分が、ここではもっと優秀な人物がいることを実感し、自信をなくしてしまったことにもよると思います。

私は1人になりたくて、夜の学習時間に寮棟の屋上に行きました。遠くに五日市線が車窓の明かりを流して走って行く。拝島から先は立川、もっと先には新宿のわが家がある。ただひたすら帰りたかった、そして無性に哀しかった。すぐ前の2棟では2年生の先輩たちが勉強しています。2棟から3棟まで移動するこれからの年月が、はるかかなたに思われました。

学校から生徒に『自由と規律―イギリスの学校生活―』池田潔著(岩波新書)が配られていました。

しかし当時の私にはむずかしく、読んでも頭には入りませんでした。学校はこれを手本として教育したかったのでしょうが、高遠なる理想と理念が先走りしすぎていたように感じました。今改めて読めば「イギリス人の着実な気風は、幼少の時から運動競技を通じて養成される。『自分の役割を満足に務める』という句がよく使われるが、これこそ彼等の理想とする境地であろう。」「『如何なる』ではなく『如何に』仕事をするかが問題なのである。」といったくだりに感銘されるのではありますが。あの頃もう少し教師と、このようなことを話し合える環境がほしかった。

冬はボイラー室からのスチーム暖房で「カン、カン」と音が鳴ります。私の楽しみは、11時の消灯後にベッドで布団をかぶり、懐中電灯で本を読むことでした。 そのときだけは、自分ひとりだけの時間が持てたからです。

11月10日(火)の開校記念日に、1期生と2期生、3期生の有志がメタセコイアをメインストリート沿いに定植しました。高さ3mほどの、細い枝ぶりの木が立ち並びました。それはまるで当時の自分を象徴しているかのように弱々しく感じました。

メタセコイアは「その生命力は雑草のごとくおう盛であり、その心は天使のごとく清らかである」と西洋のことわざに賛辞されています。「数千万年の長く厳しい自然の試練に耐えて、たくましく生長してきたおう盛な生命力とそのすばらしい成長力とにあこがれ…‥‥」教育目標の象徴として、校樹と定め、その葉を校章にとりいれたのだそうです。

年が明けて、3月2日(土)第2回クロスカントリーがありました。秋川を越えて山道に入り、網代から学校に戻る全12kmのコースです。

私は、授業が終わると1人でこのコースを何回も走っていました。走っている時に、いろいろなことを考えるのが楽しかったからです。クロスカントリーの結果は、19位でタイムは55分43秒でした。もうすぐ1年生が終ろうとしていたこの頃からでしょうか、秋川高校という学校の生徒としてやっていけそうな気がしてきたのは。

 

第2学年 2棟27室

2棟は一室がやはり8人部屋でしたが、机とベッドが対になって備えられていました。これで隣の友人とは距離ができ、少し自分の世界に入れるようになりました。

なんといっても寮生活で良かったのは、大きな風呂に入れること。仲間と一緒に裸の付き合いができる。しかし、最初は悲惨な洗礼が待っていました。「インキン」にやられたのです。授業中もかゆくて仕方がありません。父親からヨードチンキが送られてきたので塗ってみたら、ヒリヒリして一晩寝られませんでした。それもいつのまにか慣れっこになりました。皮膚が強くなっていったのでしょうか。風呂の楽しみは一層増しました。

6月8日(土)から9日(日)まで第4回寮祭がありました。1年生の時は、内向的な自分が祭りへの興味を失わせていました。だから2年生になってからの祭りはとても面白かった。友人の相撲を応援したり、食堂での軽音楽に耳を傾けました。

私達が、ことのほか待ち遠しいのが彼女からの手紙。何しろ男ばかりのむさくるしい世界。外出と外泊が月に一度ずつ許可されていましたが、都心に出た時など女性がみな光って輝いて見えたものです。

だから授業が終わると急いで寮棟に帰り、舎監室前にある各室の郵便受けをのぞく。来ていないと失望の色は隠せません。なかには、わざと女子の偽名を使って出すやつがいて、友人をからかって喜んだりしています。

テストなどは、勉強したやつができるのは当たり前。カンニングなどはしませんでした。してもたかがしれています。衆人環視の生活でそんなことをしても得することはありません。

メタセコイア並木−2020年4月現在−(25期生・縄井理郎君提供)

秋川高校が三宅島の小中高校生を受け入れたとき、新聞やテレビなどで秋川高校の名がよく出るようになりました。

しかし、もともと私達同期には、伊豆七島から入学してきた友人が何人もいました。夏休みに大島に遊びに行ったときは、1年の時同室だった中江智明君の実家でお世話になりました。大島の三原山噴火のときは心配したものです。私達にはとっては、伊豆七島への心情に特別のものがありました。

9月28日(土)から29日(日)まで第4回文化祭が行われました。私は新聞委員になり「文化祭特集」の新聞を作ることにしました。「秋川高校新聞」の歴史といっても、学校が四年しか経っていないし、先輩の新聞委員はどういうわけか傍にいませんでした。私は外泊のときに『編集ハンドブック』(正式のタイトルは覚えていません)を買ってきて、休み時間などを使って勉強しました。活字の大きさが何号か、レイアウトはどういうものかを学び、文字数を計算して割り付けていきました。学校に来る印刷屋さんが丁寧に教えてくれました。担当の教員からは具体的なことを教わった記憶がありません。

その特集を作る中でわかってきたことがありました。教室と寮が結ばれている生活は、どこまでが勉強環境でどこまでが私的な学習環境なのかがはっきりしないということです。私が1年生の時に悩んだのも、そうしたことに原因があったのだと思います。つまり内と外がないのです。

だから文化祭でも、研究発表に深みがなかったりしてきます。とことんディスカッションするということが成立しにくく、ある程度のところでまとめてしまう、ということがあったように思うのです。

協調性と独自性とは相容れ難い。ましてや「生活の場」が公と混在しているとなれば、どうなろうか。人間とはそんなに器用に、お利口さんにはなれない。まだ十代後半ならば、なおさらです。

寮室には食べ物を持ち込んではいけませんでした。だから、夜には五日市から蕎麦屋さんが食堂で出店を開いていました。曜日は決められていましたが、そこでうどんやラーメンを食べました。それがとても楽しみでした。

寮長は室長会議で学校側に規則の改善を要求したりしていたようですが、私はそういうことにはあまり関心がありませんでした。規則があれば適当に合わせればいい、建前はそれとして、こちらは適当に遊ぼうと割り切りはじめていました。あのうどんの味が、今でも忘れられません。

この頃、夢中になって読んだ本が、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』。本の見返しに昭和43年11月10日購入とあります。

旧制高校に漠然と憧れて入った秋川高校でしたが、現実はちがっていました。北杜夫氏が松本高校で体験するバンカラなものは、ほとんどありませんでした。先輩たちとの交流もないし、同期でさえクラスがちがえば、あまり話すこともなかった。私達の頃は、クラスメイトが同室になっていたからです。これが1年生から3年生まで一室に入っていれば、かなりちがっていただろうにと思います。

世代と価値観の相違が生み出す共同生活なら、案外北杜夫的青春記があり得たのかもしれないけれど。それでも私は、自己流に楽しむ旧制高校的青春ができないものかと考えはじめていました。

 

第3学年 3棟17室

3棟はベッドが2段になり、両脇に机が置かれていました。カーテンを閉めると個室のようになります。私は、この3年生の時が一番楽しかった。同室の8人一人ひとりが、当時のまま思い出に残っています。

秋川高校が全寮制であるのは、目的として「都民である保護者が勤務の都合等により一時都を離れたため、保護者と別れて生活しなければならない子弟のために高等学校教育の場を提供し…」となっています。この枠はかなり広範に解釈され実行されていましたが、海外などに行っていたため、日本での再教育を受けるための教育機関としても役立てられていました。

金子成人君もその1人。海外にいたので英語が抜群にできました。私はときどき英語を教えてもらいました。前置詞は記憶から呼び起こすというより、金子君には自然と出て来るように思えました。アメフトが好きで、寮棟の前の広場でボールを投げて遊んだりしていました。

私達が、学校群制度になって初めての都立高校入試でしたが、私が英語の100点をとって喜んでいると、秋川に合格した仲間のほぼ70人が100点をとっていると聞かされてショックを受けました。1年のときに、金子君のような帰国生がいたのだから、これはもうかなわない。

児玉守夫君は、新宿区立戸山中学3年のときのクラスメイト。まさか高校3年で同室になろうとは思いませんでした。文庫本を読み漁り音楽鑑賞が趣味で、よくギターを弾いていました。私とはちがい静かで爽やかな友人でした。

村田里文君とは2年生の時に新聞部で知り合いました。一番話し合った友人です。ある夜、私に彼女からしばらく手紙が来なかったので「会いたいなー、ほんのちょっとでも近くに行けたらなー」というと、村田君がこれから彼女のところへ行こうと言い出しました。そろそろ就寝時間になろうとしていたので、消灯になってから二人でそっと寮を抜け出しました。ただ街灯がポツンポツンとある暗い道をひたすら歩きました。拝島まで来るとさすがに疲れてきました。それでもまだ先へと立川に着いたのですが、電車はすでになく地下道で夜を明かすことになりました。

彼女の家は新宿区の戸山が原にありました。さすがにそこまでは行けません。始発で戻らねばならなりませんでした。私は満足していました。村田君の友情が身に沁みたからです。二人は朝点呼にぎりぎり潜り込んでセーフでした。

3年3棟17室の面々

寺島龍史君はジョン・レノンが好きで、自らもその雰囲気をかもし出していした。いつだったか、私が外泊から帰ると「鵜飼のいない部屋は静かで、勉強がはかどるよ」といわれました。そんなに俺は騒がしくしていたのかと反省するものの、それも長くは続きませんでした。卒業してから一度も会っていない。やはり私が原因なのだろうか。

古谷章君は新聞を読むのが好きで、朝日新聞の「声」欄にある「かたえくぼ」に投稿した記事が載ったと喜んでいました。彼は春菊が食事に何度も出てくるので頭にきていました。それで「春闘委」と称してプラカードを作り、「春菊は飽きた。もう春菊は出すな」と食堂で叫んでいました。彼は卒業後、同窓会の副会長を務めています。

高橋進君は、ハンドボールに夢中の毎日で、スポーツマンタイプの明るい友です。就寝前に彼の机を覗くと、「インスタントラーメンにコロッケを入れると美味いぞ」とラーメンを食べています。

寮棟には相変わらず食べ物は持ち込めなかったので、夜は腹がすいて仕方がありません。それで重宝したのがインスタントラーメンでした。

まずタッパウエアに即席ラーメンの麺を入れ、熱湯を注いで布団の中でしばらく蒸らす。お湯を捨てて、今度は粉末スープを入れ熱湯を注いで食べる。よくカッパえびせんを一緒に入れましたが、コロッケ入りの味は格別でした。カップヌードルやカップラーメンがまだなかった頃の話。最後は洗剤を入れてシェイクすればきれいになりますが、臭いが染みついてしまい、それ以外には使えません。

荒雅敏君とは、こっそり八王子のミュージックホールへ行きました。お互いに大人の風を見せかけるために、サングラスをしたりしてストリップ劇場へ入りました。そんなのはすぐに見破られるはずなのに、大丈夫でした。寮に帰ると、私は友達に頭から水をかけられました。私の家から電話があり、鵜飼はいま風呂に行っているということになっていたのです。タオルで頭をふきふき舎監室へ向かいました。

ある時、ロッカー室から少し煙が出ているので、ドアを開けると荒君が倒れています。ハイライトをいっぺんに四本吸ったら気持ちが悪くなったというのです。

17室では、夜の点呼後カーテンを閉めて、酒盛りをよくやりました。私はよく遊び、ちょっと勉強しました。

夏休みは寮に戻って勉強すると家族にはいっていましたが、実際には自分の時間をうまく使って遊ぶのが目的でした。寮には数人の仲間しかいません。そこで私は、酒はどのくらい飲むと酔うのか試そうと思いました。ウィスキーの赤ラベルを買ってきて、夜こっそりとのみ始めました。なんにも割らずにそのまま顔をしかめながら、一時間ほどで一本呑んでしまいました。しばらくすると目の前がクラクラし始め、ベッドの上段へ潜り込んだのですが、仰向けになると胃が痙攣して口から噴水のようにもどしてしまいました。下でバチバチと吐いたものが落ちる音がしました。後は記憶がありません。朝の点呼には出られず、金子君がかばってくれて先生にはばれずにすみました。シーツは交換されて回収されるのですが、汚れて酒臭いからよーく洗濯して出しました。

こんなことばかりだと、まるで勉強していなかったようだけれど、英語と国語と社会(世界史)だけは基礎学力を維持することを心がけました。一浪したら、大学に入れるだけのことはしておくつもりだったからです。現役で大学合格などは、考えてもみませんでしたが、ほかの友人たちは結構現役で合格しています。

もうすぐ卒業という時、3年生のこの一年があっという間に過ぎ去っていっただけに、なんとも複雑な感慨をもちました。1棟からここまでやっと辿り着いた今、17室の仲間たちとは去りがたく別れがたい。卒業式の前日、最後の夜を決して忘れまいと目を閉じました。

昭和45年3月15日(日)第3回卒業式、卒業生232名。この日も快晴でした。

 

永遠に残れり秋川に

パレスホテル立川で、「同窓会惜別の会」をどのように運営するか式次第を考えながら、私には必ずやりたいことがありました。それは、最後の卒業生である34期生を、会場の皆で送りたいということです。

彼ら44人は、卒業式に教職員、父母だけの寮歌で見送られました。私達は、在校生450人近くに送られています。

「惜別の会」に壇上に上がったのは34期生全員ではありませんでしたが、制服で参加した彼らに盛大な拍手が送られました。

同窓会会長の矢野耕二氏(2期生)は、「最後に三宅島の生徒の力になれてよかった。この自然と寮生活の思い出を三宅島の生徒たちと共有できたのは幸せです」と語りました。

12期生による朝点呼、13期生有志の秋川体操、応援歌斉唱などイベントが続き、「閉会の言葉」で古谷章君(3期生)が「廃校を決めた者を、ここに呼んで胴上げして、床に叩き落としたい」「過去は美化されがちだが、よかったこと悪かったことを総括すべきだ」と締めくくりました。

全寮制高校の失敗が、秋川高校の閉校になったのは事実だが、果たして全寮制教育が失敗だったのだろうか。

私は「開会の言葉」で「母校はなくなっても、同窓会という母港は残る。錨を降ろしてたまには遊びに来いよ」と呼びかけました。

これからの全寮制高校がいかにあるべきかの理念や教育目標は、それを真に体験し経験を積み重ねた者たちの声を聞いて、掲げられるべきでありましょう。

それも青春期をそこで過した生徒たちのいつわらざる声を。全寮制秋川高校の真価が問われるのは、実は同窓生たちの今後の生き方そのものにあるのではなかろうか。

「同窓会惜別の会」の最後は、やはり玉成寮寮歌の合唱です。肩を組み、636名の教職員と生徒が声を限りに歌いました。

「契りし友と 咲かす花 嵐狂へど 散り舞へど 深き心の あればこそ
永遠(とわ)に残れり 秋川に」

追記(惜しいかな、児玉君は2013年6月1日に逝去されました。)

 


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