「中絶」がなければ産まれなかったキリスト教徒の私


石野緑子

私は、「人工妊娠中絶」がなければ存在しなかったかもしれない人間である。

というのは、私は折に触れて「あなたは予定してなかった」と聞かされて育った末っ子だったからだ。そして、私には、実在する兄弟のほかにまだ見ぬ兄か姉がいたらしい。その人は両親の意思によってこの世界に生まれ出ることはなかった。

つまり、「もしその人が生を受けていたら、人生が始まっていなかった確率が一番高いのは私だった」ということだ。そういうことから、私は「その中絶が成されなければ生まれなかった人間」なのだと思っている。

そして私はいま、家族の中でただ一人イエスを主と信じ、その福音を語り広めたいと願う者になった。

 

母体保護法から見る、両親の罪と私のくびき

ちなみにハンドルネームでの投稿だ。両親のプライバシーに配慮したつもりだ。
文字にしても良いのか分からずにいたが、信頼できる人に相談し、この話しを語ることに意味を感じたので筆をとった。

私はプロテスタントのクリスチャンだが、両親はキリスト者ではなく現在親族には私以外クリスチャンはいない。だから、聖書の基準を以てして人工妊娠中絶という選択をジャッジすることは虚しい。

とはいえ、現在の日本の法律をもってしても人工妊娠中絶というものには制約がある。人工妊娠中絶をするためには以下の条件などに該当している必要がある。

「Conditions for artificial abortion in Japan」

「母体保護法に定められた人工妊娠中絶の適応条件」

「一 妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

二 暴行若しくは脅迫によってまたは抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」

――この時点で私の両親には当てはまらない(聞いた限りでは)。中絶されたのは母が父と結婚する前に付き合っていた男性との子どもだったとのことだ。私の家はサラリーマン家庭ではなく、男子の跡継ぎが必要な家庭事情があったことから、長子は「自分たちの子ども」である必要があったということも、中絶が実行に至った要因の一つではないだろうかと予想する。

もちろん本人たちも痛みを持っている。その話しを私にもらしたときの父の表情を思い出すと、それが心の澱となっていることは読み取れた。

だから、そう、この表現はとてもデリケートなものだけれど、あえて言う。私の両親は聖書というメガネで見なくても罪人なのだ。

そんな罪を犯しても新しく切り拓いた2人の人生が祝福されているならば、この話しは片手落ちになる。しかし、この話しが語るに足るのは「そんな苦しみを乗り越えてきたはずの2人は今では互いを呪い合って暮らしている」という点にもある。

面白いことに、私はイエスと出会うまで「自分が生きている意味」を見出せない人間だった。その理由をどこか「機能不全家庭で育ったせいではないか」とも考えていた。つまり「親の呪い」のように感じていたのだ。そこから抜けだせていない状況で、自分には「生まれなかった兄か姉」がいたのだと知ってしまったら、私はますます自分の人生の意味を見失っていただろう。

だから私は、この話を聞いたのが自分がイエスを主と受け入れてからであったということに、神さまから出た意図があるのではないだろうかと思ってしまう。

 

「生まれつきの盲人」に対するイエスの福音

本来、親の過去の痛みなどは知らなくていいことだ。中絶の話しなどその最たる部類だと思う。また、人にはそれぞれ等身大の痛みや過去があるのだから中絶のもたらす痛みがとりわけ重いと言いたいわけではない。

ただ、この話が私にとって恵みになりうるのは、それが本当に偶然だったということにもある。私が両親の人工妊娠中絶の話を聞いたのは偶然だった。偶然父が台所でお酒を飲んでいて、偶然私は同じタイミングで食卓に座っていて、偶然ふと思ったことを話しかけて、そこから聞いたことだった。

そして、自分には「一生会うことのない兄か姉」がいたのだという話を聞いた私は、『イエスの福音を知っていてよかった』と安堵したことを覚えている。私の脳裏には、福音書の「生まれつきの盲人」の話しがよぎっていた。

このくだりはあまりにも有名だけれど、私にとっても印象深い箇所だった。自分の状況が「親の呪い」だと思っていた自分には深く刺さる話しだった。私がキリスト教に希望を見いだすようになったきっかけの一つの聖書箇所である。

そう、私はイエスを主と受け入れていなければ、『私の心が暗いのは誰の罪のせいですか、私ですか、両親ですか』という問いを繰り返す人生を送っていた自信がある。だから「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」と言うイエスを信じてから人工妊娠中絶の話を知ったことは、私にとって何とも言い難い不思議なのである。

 

人間の過ちからも祝福を生み出される神

現在、私は幸せになった。両親の不仲にも変化はないし、私は家を出て経済的にも貧しくなったので外から見ると「それのどこがイイの?」と思われるかもしれない状況ではあるが、それでも幸せになった。

それは「光があの方向にあるのだ、そしていつも私を呼んでいるのだ」「たとえ苦しいことがあっても神さまは私を愛しているのだ」と思えるこの安心感から生まれるものである。何ものにも代えられない、魂の救いの喜びだ。

人工妊娠中絶を手放しに賛成するわけではない。けれど聖書を通して語られているように、神さまは人間の過ちや罪からも祝福を生み出す。私の目に善く見えることも悪く見えることも、私には思いもよらないカタチで神は用いられる。その広さ、長さ、高さ、深さを想うと、私はただただ心が震える。

 

 


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