ミサはなかなか面白い 95 朗読は聴くものといわれても……


朗読は聴くものといわれても……

瑠太郎 こんにちは。すぐ前回の話の続きです。聖書は文字ではなく、聴くものだということで、朗読の大切さは納得したのですが、ミサを見学していると、皆、聖書朗読のときに、『聖書と典礼』(オリエンス宗教研究所発行)を見ているように思います。あれは、どうなのでしょうか。

 

答五郎 ああ、そうだね。ああいう、配布資料を見ているのはどうかということだね。建前をいうと、あのような冊子は、意味があって、その主日のミサで朗読される聖書の本文を掲載して、実際にわかるようにしておくということがまず一つの目的だ。

 

聖子  でも、プロテスタントの教会だと礼拝に行くときに、自分の聖書を持っていくというのが普通だと聞きましたし、実際そのようなことを見学のときに見たことがあります。聖書と賛美歌集が出席に必須だと……。

 

 

瑠太郎 カトリック教会のミサの場合は、あの『聖書と典礼』が配られることで、その日の聖書の本文と祈願、それに答唱詩編やアレルヤ唱などがわかりますね。そのほかの聖歌集は聖堂に置いてあって、それを手にしていきますね。

 

 

聖子  ミサに参加するためには身軽ですよね。

 

 

 

答五郎 身軽かどうかは別として、あのような冊子が、前回も見たような、聖書朗読配分のしくみに従って、聖書を読んでいく、正確にいえば、聴いていくための参考資料になることは確かだろう。ほんとうは、事前に読んでおいて、朗読のときは、しっかり朗読者の朗読に耳を傾けておくのがいいのだよ。それと、ミサのあとに、もう一度、朗読された本文を味わうために使うのもまた大事だね。

 

聖子  でも、聖堂を出るときに、返していく人が多いですよ。

 

 

 

答五郎 確かに、実際、「持ち帰って役立ててください」とわざわざアナウンスされる場合もある。ミサの直前に来て、その日の聖書の箇所をミサの間ちょっと見て、帰りに返していく……、それも現代の人々の参加の姿の一つだね。

 

瑠太郎 ということは、理想的なのは、あのような冊子は、ミサの前に目を通しておいて、ミサの最中は、それらを見ずに、朗読者の朗読にしっかりと耳を傾け、ミサ後も持ち帰って、また聖書の本文や答唱詩編やアレルヤ唱、祈願などと一緒に味わう、黙想するということなのでしょうね。

 

答五郎 いうとおりだよ。とくに朗読配分のしくみを実際の本文でもって把握するための手段として『聖書と典礼』や『毎日のミサ』(カトリック中央協議会発行)は最適なものだ。

 

瑠太郎 あれほど冊子類が工夫されて発行されるのは日本独特ということも聞いたのですが、どうなのでしょうか。

 

 

答五郎 もともと、『聖書と典礼』のような冊子は、100年以上前にヨーロッパで始まったものでね。はるかに欧米諸国のほうが先輩だよ。まだラテン語で行われていた祈りをそれぞれの国の言葉で訳して、冊子に掲載して、少なくとも、聖書のどの箇所が読まれ、どんな祈願が行われているかを簡単に参照するために始まったのだよ。信徒の典礼参加を推進する大きな武器となっていったわけだ。

 

瑠太郎 なるほど。でも、今のお話だと、ラテン語典礼の時代だったから、それが必要だったということですから、第2バチカン公会議後、1965年からでしたっけ、典礼が基本的に各国の国語で行われるようになったら、その意味では不要になったと思うわけですが……

 

答五郎 そこはさっきいっただろう! 逆に、新しい聖書朗読配分や日本語で行われることとなった、その主日の祈願を示すという新しい役割が生まれたわけだよ。

 

 

瑠太郎 そうでした。そこに戻ってきましたね。ならば、やはり信徒は、それらを見て学びつつ、聖書朗読はやはり聴くようにすることが大事なわけだ。

 

 

答五郎 司祭によっては、福音朗読のときに、あえて『聖書と典礼』は見ないようにと指示する場合もあるようだけれどね。でも、そんなことも一律に規制したら、ミサが窮屈になりかねないね。

 

聖子  日本語は、アルファベット文化圏だと、音声を文字化しているだけだけれど、漢字という文字で意味を判別したり、同音異義語ですか、同じ読みでも漢字が違ったりすることが多いから、自然と文字を頼りにする傾向があるのではないでしょうか。

 

答五郎 それは、あるヨーロッパ人の宣教師の神父もよく言っていた。ヨーロッパ人なのに、日本人以上に漢字に詳しい神父さんだった。それと、どうしても文字に頼る理由はほかにもあるよ。読むものが特別だからだよ。

 

瑠太郎 ああ、そうか。聖書はやはり昔のものですし、遠い文化圏のものですね。そして、古代のヘブライ語とかギリシア語とかで書かれているものですものね。

 

 

答五郎 そう、どうしても、翻訳であるために、言い回しが難しいものとか、独特のものがあって、それは、聴いただけでは目が回りそうなこともしばしばだろう。そこが、日本の教会の多くの人が、文字で本文を追っていく、もう一つの理由だろう。アブラハムとかイサクとか聞き慣れない、民族の人々の名前や地名は、カタカナの外来語扱いになるけれど、それらの発音がとても難しい場合があるしね。

 

聖子  でも、たとえば福音などは、同じような箇所が読まれることが多いわけで、もう暗記するほどに聴き込んでいていいのではないでしょうか。

 

 

 

答五郎 そうだね。結局、話は、ぐるぐる周りだけれど、どんなに遠い時代の遠い文化圏で生まれた書物でも現代日本語で読んでいく、聴いていくための補助資料であることをわきまえることが大切だよ。ミサの聖書朗読は、やはり聴くものであってほしいと思うよ。

 

瑠太郎 それは、朗読する人の力量にもかかっているのでは? ほんとうに朗読ならば、冊子を見るなといわなくても、自然と耳を傾けるだけになっていくのではないでしょうか。

 

 

答五郎 おお、それは手厳しいが、実際そうだよ。朗読者の読み方がまったく伝わってこない、響いてこないものだと、自然に冊子を見ることになるのかもしれないね。実際、『朗読聖書の緒言』は、朗読者の読み方についてほんの一言言っているだけなのだよ。

 

 

聖子  ここですね。「聞き取れる声で、はっきりと、味わえるように読む朗読者の読み方が、何より、朗読によって神のことばを集会に正しく伝えることになる」(14項)。でも、「味わえるように読む」ことって無限に深い課題ですね。

 

 

答五郎 でも、ほんとうに聴いて味わえることを、朗読者も会衆席の人もみんな心を合わせて目指していったらいいだろうね。なんといっても、聖書のことばを伝える読み手の声は、神の現存、キリストの現存の味わいにほかならないのだから。そして心を合わせてそれを聴くことが神の現存のあかしになるのだよ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

10 − nine =