Inner Voice


Maria. M. A

3歳になった娘は、最近、ときどき嘘をつく。トイレに行っていないのに、「行った。」と言ったり、手を洗っていないのに、「洗ったよ。」と言う。あやしいなと思った時には、少し大げさに手の平の匂いをくんくんと嗅いで、石鹸の匂いがするかをチェックする。他にも、ミルクをコップに注ぐのをやろうとしてこぼしたり、一度にたくさんのものを運ぼうとして、落としたり……。大人と同じように自分もやってみたい、という気持ちが強く、ダメと言われていることでも私の目を盗んでやっては失敗する。そういう時、娘は、しまったと思うのか、申し訳なさそうな表情で私の顔を見て、静かに「ごめんなさい」と言う。

嘘をついたとき、約束をやぶったとき、誰しもが罪悪感を抱いた経験があるだろう。人間には生まれながらに良心が与えられている。その不思議に、私はなぜか神様の存在を強く感じる。神さまを信じている人にも、信じていない人にも、誰の心にも等しく存在する良心。生まれて3年しかたっていない娘でさえも、やって良いこと、悪いことを知っている。そしておもしろいことに、その声を聞いた時に、どうとらえ、どう行動するかは、人間の自由にゆだねられている。もしも声を無視して、聞こえないふりをしていたら、だんだんとその声は小さくなり、いつかはその声に気が付けなくなってしまうのかも知れない。

私は、良心とは心のある特別な場所だと考えている。聖書に出てくる、自分の心にある神殿と言われるところ。魂と呼ばれるものなのかも知れない。神さまに由来するその特別な聖域。大人になって、何か人生における大きな決断をしなければいけないとき、私はその場所に問いかける。YESかNOか、GOかSTOPか。大切なことは、そこがすべて知っているような気がするからだ。まずはじめにそこに問いかけ、そのこたえを聞いてから、次に、どうしてそのこたえになるのかを自分のレベルで考えるようにしている。

学生時代、倫理の授業の中で、良心が間違うことはあるのか?ということについて話し合ったことがある。私は、良心は間違わないと考えている。あるとすれば、良心の声を人間が間違えて受け取ってしまったり、良心の声を聞いた後の人間の行為・行動が間違ってしまうことがあるのではないかと思う。

娘はこれから先、何度も私の言ったことを守らなかったり、小さな嘘を繰り返し、そのたびに(あぁ、やっぱりママの言うとおりだった)と思うのだろう。今は私の声と共に生きている娘も、いつかは心の中で自分に語りかける声に気が付く時が来るのだろう。いつ、どんな風に気が付くのか、今からその時を楽しみにしている。

(カトリック信徒、日本出身、シンガポール在住)


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