「子ども」って何だろう~~「子ども観」を考えるための本(AMOR流リサーチ)


ますますひんぱんに聞く「子ども/こども/児童」
そぼ
先々月ぶり! 今回はなにやら「こども」がテーマになっているらしいのだけれど、どこから考えていったらいいか全然わからないよ~。
りさ
自分が「子ども」だからなんじゃないですか?
そぼ
りさっち厳しい! 年は19だから充分大人だと思っているけれど、未熟者という意味ではそうかも。
りさ
日本では2022年から成人の年齢が18歳に引き下げられることになりましたが、今の時点ではまだ未成年ですしね。
そぼ
「こども」がテーマになったきっかけは、最近、「こども食堂」とか「こども園」とか「こどもの貧困」とか、さらには「児童」という用語では「児童虐待」とかを頻繁に聞くようになったから、っていうことだったよね。
「子ども」も「児童」は昔からのテーマで、児童教育、児童福祉、児童文学といった形で、もう当たり前のテーマという気がするのだけれど。
りさ
古くて新しいテーマ、問題だということはいえますね。今言った「子ども食堂」は、貧困といえるような状況のこどもたちに無料または安価で栄養のある食事やそのような場を提供するという活動で、2010年代から活発化し、大きく話題になってきたもののようです。
子どもの貧困が問われるようになったのも2008年頃からで、それと連動していますし、そのような経過の中で2013年には「子どもの貧困対策の推進に関する法律」ができています。
そぼ
「子ども園」ということばも目につくな。小学校に入る前の子どもの行くところは幼稚園か保育園という感じだったけれども。
りさ
正しくは「認定こども園」といって、2006年に成立した「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律」に基づいて、幼稚園と保育所の機能を合わせた一体型の施設として推進されているというものです。
こうした社会の動き中で「子ども・子育て支援法」が出来たのが2012年ですから、「子ども」を巡っていろいろなことが2010年代には大きく動いていますね。
そぼ
だんだんりさっちが池上彰に見えてきたよ……!
そういえば、カトリック教会でも最近まで「カトリック児童福祉の日」が「世界子ども助け合いの日」に名前が変わったということを聞いたな。あまりよくわからない名称だって、一部では評判はよくなさそうだけれど。
りさ
カトリック教会だけでなくキリスト教全体にとっても、子どものことを考えようという動きは今また新たにあるといえるでしょう。
ところで、今年2019年には子どもや児童に関して、とても記念すべき年だということ知っていますか。
そぼ
ううん、知らない。

 

児童の権利に関する宣言60年、条約成立30年
りさ
国際的なレベルでのことなのですが、今年は国連総会で1959年に「児童の権利に関する宣言」が採択されてから60年、そして1989年に「児童の権利に関する条約」が採択されてから30年にあたるのです。
そぼ
へえ~。「児童の権利」が国際的に認知されて60年か。ということは、AMORでこのテーマを取り上げるっていうのも、わりとタイムリーなんだね。
りさ
国連の「児童の権利に関する宣言」は、子どもの人権宣言のようなもので、いっさい差別されてはならないこと、特別の保護が必要なこと、社会保障や教育を受ける権利をもつこと、いかなる虐待を受けてはならないことなど、全部で10項目からの宣言です。
でも、その前提として、1923年に国際連盟の時代に子ども憲章として採択された5項目の「児童の権利に関する宣言」があるのです。まさに20世紀はこども/児童の人権を初めて明確にテーマとした時代なのかもしれません。それは婦人/女性の権利に関しての意識や制度の発展とも平行しているでしょう。
そぼ
そう考えると、子ども/児童のテーマは新しいのかなと思うけれど……。
ところで、その国連の宣言や条約の中での「児童」ってどんな意味で使われているの?
りさ
その条約の第1条では「児童とは、18歳未満のすべての者をいう」となっています。
そぼ
18歳未満かー。日本でも最近18歳以上から選挙権が与えられて、その点では成人とみなされるようになったよね。
りさ
社会的な扱いの上での18歳未満が児童ということは、だいたい就学前の幼児から小学校、中学校、高校の「生徒」が含まれることになりますよね。
このことは社会的な意味での「子ども/児童」の概念として頭に入れておくといいと思います。そうではない人間の意識や観念のレベルでの「子ども/児童」はまた別な側面がいっぱいあります。

 

衝撃の発言――小学校1年生が思う「子ども」
そぼ
その意識や観念のレベルでの子どもなんだけど、最近、衝撃的な経験があったんだ。友達にカトリック信者の学生がいて、所属教会の教会学校が毎年行うサマーキャンプのスタッフをしているんだけど、助っ人を頼まれたんだよね。
りさ
ほほう。それでそれで?
そぼ
で、ちょうど去年、初めて参加した小学1年のK君がもっと大人のスタッフとおしゃべりをしているときに言うんだ。「僕ね、子どものときね、サッカーをしていてね……」って。んん???と思ってさ。
小1なんてこっちから見たら完全に子どもでしょ? その彼が「子どものとき」っていう意識が凄いなと。就学前の幼児期のことを「子どものとき」って言ってるんだろうけど、単純に考えたら、なるほど、小学校に入るときから、ある意味では、「大人」なのかもしれないなって。
りさ
それは、あるかもしれません。小学校1年生になった子ども(といいますけれど)の自意識、幼稚園・保育園のときとは違うという意識は相当強いそうです。
それに、自分たちを振り返っても、小学校1年生のときから「わたし」という意識、自我意識は、継続してずっと今に至っていますよね。だから小学校○年のとき、という年ごとの記憶の整理もされていきます。
そぼ
それはあるよ。自分の成長を見つめている自分がずっといるってね。やっぱり、体が小さいから「子ども」といわれてしまうんだな、社会的には児童と位置づけられてしまうんだな、しょうがないかと思いながら、じっと待っていたというかがまんしていた自分がいたなって。
社会的には18歳未満が児童/子どもなのかもしれないけれど、自我意識のレベルでは、小学校1年、7歳ごろから「大人」、いわば「小さい大人」という気がする。
藤井聡太くんなんかを見ていても、社会的には児童のはずなのに、すっかり声変わりもしていて、立ち居振る舞いやインタビュー対応なんかもすごい大人だよね。
りさ
人間の最初の節目が7歳にあるということは、古代ギリシアの哲学者たちの観察にも含まれていたことです。7年ごとに人間は節目を迎えていくという認識は、相当に深くて今の学校教育にも影響を及ぼしていますし、実はカトリック教会のある慣習にもその影響が見えるほどです。なんだと思いますか?
そぼ
いきなりクイズ? うーん、カトリック教会と子どもというと、幼児洗礼があるね。でもそれは、生まれてからできるだけ早いうちに、という実践のようだから、次は……ああ、初聖体かな。
りさ
そのとおり、前回の特集テーマにもなっていたことです。20世紀の初めまで初聖体の年齢はまちまちかもう少し大きくなってからだったのですが、ピウス10世(在位年1903~14)が初聖体は7歳に達した時点から授けるように勧めたのです。
パンがキリストの体であると認識できるだけの理性の働きが認められる年齢が7歳ということで、それは、学童期の始まりとも重なっていますし、遠く古代ギリシア時代からの人間認識が生きている例といえるかもしれません。
そぼ
そうなんだね。「社会的な意味の児童/子ども」と「自我意識・理性レベルでの子ども」の違いということが気になってるんだけど、そんな古代の「子ども観」の様子がどうだったかすごく興味が湧いてきたな!

 

注目したい本を紹介
りさ
いろいろ探してみて、とても面白い本がありました。梅沢信生著『こども観の歴史』(新読書社 1993年発行)という本です。

そぼ
へー。どんな人が書いたの?
りさ
著者の梅沢信生という方は、1932年生まれ、2010年死去、日本聖書神学校や慶応大学、玉川大学などで聖書・哲学・教育学を修めた方で、ファミリーチャーチ愛隣キリスト教会の牧師さんでありつつ、学校法人横浜二ツ橋愛隣学園理事長や愛隣幼稚園の園長を務め、キリスト教主義の幼児教育に貢献しました。
文字どおり『キリスト教主義の幼児教育』(新読書社)という奥さんとの共著もあるんですよ。

そぼ
すごーい!
りさ
この『子ども観の歴史』は、1978年から1992年までの間に、日本保育学会やその他の学会で発表した内容をもとに、キリスト教および西洋思想における「子ども観」の展開を跡づけている本です。
旧約聖書における子ども観に始まり、新約聖書、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクイナス、ルター、カルヴァン、コメニウス、ルソー、ペスタロッチ、フレーベル、グリム兄弟、アンデルセン、それぞれにおける子ども観が簡単に紹介されているのです。
そぼ
倫理・社会の教科書、あるいは教育思想史のレジュメのような本なのかな。大物揃いだね。
りさ
そう、深く立ち入ることはないのですが、ざっと変遷を見るため、思想のあらましを知るためには便利ですよ。
そして、最後の章は、「子ども観の研究」と題して、1990年代初めに話題になっていたアリエスの『子供の誕生』を巡る議論や、そのころまでの「子ども観」研究の状況が示されていて、今の子ども論の出発点の様子がわかります。
そぼ
そうか、読んでみようかな。りさっち、もし読んでいたら、少し紹介してよ。

 

「子どもは神によって与えられるもの」
りさ
実は、この本を読んで最初に感動したのは、旧約聖書における子ども観のところでした。著者は、旧約聖書のヘブライ語で子どもを表すたくさんの用語を調べていますが、結局のところ、旧約聖書の子ども観は「子どもは神によって与えられるもの」というところに尽きるというのです。
そぼ
ふーん。でもそれは、「子どもは授かりもの」という観念と同じなんじゃ?
りさ
そういう面もありますし、それはそれでとても大事なのだと思いますが、聖書の神は、新約聖書になって明らかにされるものですし、その新約聖書的な意味での神によって与えられるものと考えると、それは、とても深くなってきそうな気がします。
そぼ
で、新約聖書の子ども観はどうだって言ってるの?
りさ
梅沢先生は、新約聖書についてもやはり、子どもを表すさまざまなギリシア語の用語を調べ出し、それから特に子どもがテーマとなっている箇所(マタイ18:1~10、ルカ15:11~32、使徒言行録16:31~34、1コリント7:14、1テモテ2:15)を論じています。
それは略しますが、要約して「『子』の問題は人間の生命、人間の歴史、人間の救いの世代なのを新約聖書では見ることができる。信仰・希望・愛の中心は『子』であり、その子がイエス・キリスト、神の子、救い主として人類に与えられたと述べるところに新約聖書の中心的なテーマがあると言うことができる」(41~42ページ)と言っています。
そぼ
子どもであることが人間であることと等しくなっているような気がするね。
りさ
そうですね。このあとのプラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクイナスの「子ども観」の紹介は彼らの「人間論」の紹介となってきていて、哲学史の授業のようになっています。ようやく今に近いこども論が出てくるのが、案外ルターやカルヴァンのような宗教改革者からですね。宗教改革は教育改革でもあったという側面が感じられます。
そして今回「こども観」の歴史の中では、とてもスケールの大きなコメニウス(生没年1592~1670)という思想家が面白かったです。事物による教育という観点、それに学校教育、生涯教育を体系的に考え、近現代の教育思想に大きな影響を及ぼしているというのです。宇宙論ともつながってくるあたり、子ども観というのは自然や宇宙とのつながりまで考えていくものだということもわかります。
そぼ
自然といえば、自然に帰れと言ったとか言わないとかのジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)も「こども観」の歴史には欠かせないんじゃないかな。
りさ
ええ、ルソーの『エミール または教育について』(1762)は、やはり必読の書だと思います。発想のもとにある二つの思いを、梅沢先生は紹介しています。
「人は子どもというものを知らない。……かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない」(引用は、今野一雄訳、岩波文庫版 1962年、上巻、序文より)。次に有名なことば「万物をつくる者の手をはなれるとすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」(同、第一編冒頭のことば)。
ルソーの評価は難しいですが、論じ合ってみるための刺激は今も少なくないと思いますし、名著であることは確かです。そして子ども観ということが人間観、世界観、自然観、文明観とも関係してくるということが、よりはっきりとしてきます。
そぼ
さっき言っていたアリエスの『子供の誕生』っていうのは?
りさ
はい。フランスの歴史家、フィリップ・アリエス(1914~1984)が社会史研究の立場から書いた『〈子供〉の誕生 アンシャン・レジーム期の子供と家庭生活』(1960年:邦訳 杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房 1980年)のことです。

そぼ
ふむふむ。
りさ
現代のような〈子供〉観は中世にはなく、近世からとくに19世紀を通して形成されてきたものだということを、近世アンシャン・レジーム期のさまざまな社会史資料から明らかにしたものとされているのです。中世には子どもを子どもの特性においてイメージする観念がなかったとか。当時は「小さな大人」と見られていたという情報も刺激でした。
そぼ
さっきのルソーのことばからいうと、子どもを子どもとして認識できていなかった時代が前近代的として批判されているような感じだったから、ちょうど18世紀頃からの教育思想と学校教育制度の発展が現在のような児童観・子ども観のもとになっているとすれば、アリエスのような研究による跡づけも納得できそうだな。
りさ
急に難しいこと言い出しましたね。ともかく、近代現代の子ども観を歴史的に相対化したことと、アンシャン・レジーム期のいろいろな現象を知るためには興味深い書物ですね。ただ、邦訳も字が小さくて。
そぼ
老人みたいなことを言いなさる。
りさ
ともかくこのアリエスの本の邦訳が1980年に出て、日本でも「子ども観」というものに関心が高まったような感じがします。梅沢先生が「こども観の研究」という最終章で、日本における「子ども観」の研究については最近のことだという指摘があります。
日本でも戦後に、石川謙『我が国における児童観の発達』(1949)とか、小川太郎『日本の子ども』(1952)といった教育学者たちの著作があったのが先駆的だそうです。
でも、本格的には1977年に出版された『日本子どもの歴史』全7巻(第一法規出版)、1984~86年に出版された『世界子どもの歴史』(同)が時代を画すようなのです。アリエスの邦訳の影響とも関連しているでしょう。
そぼ
でも、それって最初のほうに言っていた国連の「児童の権利に関する宣言」(1959)や「児童の権利に関する条約」(1989)が出るようになる流れとも連動しているように映るな。ほんとうに古くも新しいテーマなわけだ。
りさ
キリスト教やカトリック教会も日本の近代には、児童福祉で大きな役割を果たしているのですが、日曜学校や教会学校を通しての子どもとの関わり方に関しては、これらの最近の子ども観の研究との関連ももっと見ていきたいですね。もちろんキリスト教学校、カトリック学校での教育論は、教員たちや日本カトリック教育学会に尋ねてみるという手もありますよ。
そぼ
そうそう。オレが直面したのも、教会の中での子どもたちとの関わり方、教会学校やこども会をどうするか、ということだった。
それにつけても、ともかく、きょうりさっちから聞いたことで一番心に残っているのは、旧約聖書の「子どもは神から与えられたもの」という考え方だよ。これだけですべてが尽きるような気がする。
りさ
わたしは、祖母江くんが聞いたという小学1年生の発言の裏にある「自分はもう子どもではない」宣言が印象深いですね。小学生からは「小さい大人」なんですよね。あまり子ども扱いされたくないという意識も強くなるし。「大人になったら」と考え始めるときがもう大人なんですよね、きっと。
その「小さい大人」が体や性の発育によって「大きい大人」になるのが18歳という位置づけだとすれば、国際的な共通認識ともぴったりですしね。
そぼ
中世では「小さい大人」だったというけど、案外、それでいいんじゃないかな。いずれにしても、そんな観点に立ってみれば、子どもに関する歴史や思想展開が新たに見えてきそうだよ。
りさ
ずいぶん大人っぽい言い方!
そぼ
だから、大人だってば。

(企画・構成:石井祥裕/脚色・イラスト:高原夏希=AMOR編集部)


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