ミサはなかなか面白い 77 「百人隊長のことば」


「百人隊長のことば」

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問次郎 きょうは、さっそく本題に入ってください。先週、聖体拝領前の信仰告白のことば「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」が日本のミサだけだという話を聞いて驚いたので……。

 

答五郎 そう、ラテン語規範版の式文にあることばは全然違うのだよ。直訳的にするとこうだ。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」

 

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問次郎 ええっ? なんだか長くて、とても覚えて言えるようなものではないですね。それにどう聖体拝領と関係があるのかな。「ただ、一言おっしゃってください」ですし……。

 

答五郎 これも福音書から来ることばだよ。マタイ福音書8章8節。イエスがカファルナウムに入ったときに、百人隊長がやって来たというところのエピソードだ。その百人隊長は、「わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言ったのだ。それを聞いてイエスが「わたしが行って、いやしてあげよう」と言ってくれたことに対して、百人隊長が答えたのがこのことばだ。福音書ではどうなっているかな。

 

女の子_うきわ

美沙  「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(新共同訳)。ほとんど同じですね。最後の「僕」が「魂」に変わっているのがラテン語式文ですね。

 

答五郎 とはいってもね、現代のミサ典礼書で初めてマタイから取って入れたわけでもないのだ。

 

 

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問次郎 どういうことですか?

 

 

答五郎 今のミサ典礼書、これは第2バチカン公会議後に刷新されたものだよね。それまではトリエント公会議後の1570年に発布されたミサ典礼書に従って行われていたわけだ。百人隊長に基づくここの式文は、すでにその中にあって、それが現代のものにも残された形なのだよ。日本の戦前の「ミサ典書」(チト・チーグレル訳『羅馬彌撤典書』光明社発行 1935年)に訳があるので見てみよう。少し前から、前後の注記を含めて読んでもらおうか。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。——(司祭 拝領者に向ひて聖体を顕示しながら唱へる)「世の罪を除き給ふ、天主(かみ)の羔(こひつじ)を見奉れ。主よ、我は不肖にして主を我が舎下(やのした)に入るゝに堪へず、唯一言をだに曰はゞ、我が心癒えん」(三回唱へる)――。たしかに同じ!

 

答五郎 司祭が聖体授与の前に会衆に向かって唱える祈りのうちの一つだったということは、つまり、信者が一緒に唱えることばではなかったのだ。しかも、ラテン語だ。

 

 

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問次郎 文語訳だと、時代劇のよう。「我は不肖にして」というのも、主君の前で家臣がへりくだる感じに聞こえますね。

 

 

答五郎 もっとも、今の拝領前の信仰告白のことば「主よ、あなたは神の子キリスト……」も、司祭が「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と唱えて招いたあと、続いて「会衆とともに唱える」となっているのだ。つまり司祭と会衆が一緒に唱えることばなのだよ。

 

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問次郎 普通には、会衆が唱えることばのように聞いていました。

 

 

答五郎 それは、会衆用ミサ典礼書が与える印象といってもいいのかもしれない。会衆だけがいうことばのように記しているものもあるからね。でも、総則を見てごらん。拝領への招きについて述べる84項の後半……。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「次に司祭は、パテナあるいはカリスの上で聖体のパンを信者に示し、信者をキリストの会食に招き、信者とともに、定められた福音のことばを用いて、謙虚な信仰心を起こす」ですね。

 

答五郎 つまり「司祭は、……信者とともに」なのだよ。司祭が一人で唱えてきたことばに信者も合流したというのが正確な経緯だ。

 

 

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問次郎 そうだったですか。たくさんあるなかの一つだったならば、これもそんなには目立たなかったのかもしれませんね。司祭のへりくだる気持ちの表現で「我は不肖にして」が三度も繰り返されるというのはその昔のミサの雰囲気を想像させるようです。トリエント公会議後入ったものなのですか。

 

答五郎 いや、ずいぶん古い。10世紀にはローマ典礼のミサに入ったという。もっと古くは東方典礼のいくつかにもあり、その源は4~5世紀の教父たちが聖体の尊さを教えるために、百人隊長のことばを引き合いに出していたというのだ。案外、普遍的な伝統だといえる。

 

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問次郎 それを聞くと、日本のミサ典礼書は、ずいぶん大胆にここを変えていることになりますね。

 

 

答五郎 そうなのだけれど、そうなった背景もむしろちゃんとしているよ。さっき総則の一節を読んだけれど、そこには「定められた福音のことばを用いて、謙虚な信仰心を起こす」とあっただろう。その福音書のことばについて、当初は適当なものを選ぶこともできるという解釈があったらしいのだ。ペトロの信仰告白を基にしたのは、日本の教会なりの態度決定だったわけだ。実際、百人隊長のことばを聞いてどう感じたかな。

 

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問次郎 はっきり行って、難しいです。長いだけでなく……

 

 

女の子_うきわ

美沙 わたしも、神の小羊の食卓に招かれた幸いが告げられたすぐあとに、「わたしはふさわしい者ではありません」と言うなんて素直ではないなと感じました。屈折しすぎているというか。ペトロのことばのほうが明快です。招きにこたえて、聖体をいただくことに対するまっすぐな気持ちが表れていますし。

 

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問次郎 そうだよ。「わたしはふさわしい者ではありません」と言っておきながら、実際には聖体をいただくのだから。

 

 

答五郎 なるほどね。そういう感じ方は大事だよ。自分も日本型の信仰告白しか知らないから、百人隊長のことばをここで使っていたらどう感じたかなどわからない。ただ、ペトロの告白を使うほうが、食卓に招かれ、聖体を受けられる喜びやキリストと一致する喜びがこもっているとは思う。キリストに従っていく気持ちをきっぱりと言うのも「謙遜な信仰心を起こす」ことではないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 わたしもそう思います。

 

 

答五郎 ここは、本来、いろいろと可能性があるところのはずだ。旧来の司祭の祈りをそのまま残しただけというのでは、今のミサにとってはもったいない。もっと多様性があってもよいだろうね。いくら教父の時代に根ざす考え方や東方典礼にも事例があったとしても、実は、それらの時代からすでに聖体拝領への意識に、いろいろと問題や偏向も生じたと聞くからね。

 

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問次郎 ええっ、どういうことですか? 毎週が驚きだな。

 

 

答五郎 聖体拝領の歴史的な変遷の話だ。結局、そのことと現代のミサがもっていこうとしている聖体拝領、つまり交わりの儀のあり方がどうかということさ。でないと、拝領前のことばについても判断ができないだろう。

 

 

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問次郎 歴史といっても2000年もあるじゃないですか。

 

 

女の子_うきわ

美沙 いえ、ぜひ、そこの聖体拝領、交わりの儀の変遷をお聞きしたいです。

 

 

答五郎 では、ミサの式次第をたどっていくという流れを少し中断して、その歴史を見るということを次から数回続けていくことにしよう。いろいろ率直な意見をありがとう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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