キリシタン時代の祈りと識別


デ・ルカ・レンゾ

キリシタン時代には、現代と変わらないくらいの信者数がいて、典礼の様々な行事が盛んに行われていました。絶えない戦争や差別などがあって、多くのキリシタンが「イエスの十字架を担う」体験をしました。当時出版された本を見ても、キリシタンたちの信仰生活を養うものが多かったことがわかります。ここで、祈りと識別を中心に紹介したいと思います。

 

識別しながら活動するザビエル

ザビエルはインドに派遣されましたが、宣教する間、日本と中国に対する使命を感じるようになりました。本人はその体験を伝える手紙を残しました。

日本についての情報を得てから、私は日本へ行くべきか否かを決定するためにながいあいだ(熟考)しました。主なる神が、日本において神に仕えるために日本に行くことが私の使命であると、私の内心に確信を抱かせる(恩恵を)お与えになることをお望みになってからは、……

(『ザビエル全書簡』、河野純徳訳、平凡社、1999年、447頁)

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ザビエルにとっての来日は、神から頂いた呼びかけであったようです。同時に自分の限界を感じながら、その使命を与えた神様にすがる姿勢を示しました。本人の表現を見ましょう。

深い謙遜を持ち、自分自身の力を頼まず、精神力を強め、大いなる信頼を神に捧げ、主なる神が与えてくださる恩恵をよく用いる時、弱い者は誰もいません。

(同93頁)

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このように、日本の宣教は識別の結果として始まったことになります。

ザビエルは日本語を学ぶ時間がとれないうちに亡くなりますが、当時の日本人に深い印象を与えました。本人も驚きながら以下の報告を残しています。

私たちはこの町〔山口〕に幾日も逗留して、街頭や家の中で説教しました。多くの人々はキリストのご生涯を聞くのを喜び、ご受難の件(くだり)に至ると涙を流しました。

(同28頁)

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誰から見ても、その誠実さが溢れでていたことは、それを聞いた日本人の心を動かしました。

 

子供たちも宣教師

ザビエルは最初から、宣教師不足を補うために、積極的に子供たちを宣教活動に参加させました。ザビエルの活動からほぼ15年が経ってからアルメイダ修道士がその様子を伝えました。

子供達皆はキリシタンの祈りを知り、彼らの多くは教理全体を知るほど信仰教育を学んでいた。一人に異教徒、もう一人にキリスト教徒の演技をさせ、神の法と異教徒の法について議論させていた。

(豊後発1564年10月14日付、アルメイダ書簡)

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これを参考にすれば、子供たちが人々の前で議論できるように養成されていたことが分かります。また、当時の教会に新鮮さと想像力があり、ロレンソ了斎修道士の「漫才」など、日本でしか発達しなかった説教方法もありました。

さらに、聖劇を用いることによって感覚に訴える宣教方法を使い、日本人の信仰養成を計りました。モンテ神父は1564年の状況を伝えます。

ここ〔豊後〕主の降誕祭は盛大に祝われる。(信者は)聖書の新と旧約の数多くの場面を上演する。アダムからノアまでの全体は日本語で詩化されている。ほとんどのキリシタンはこのような詩を丸暗記し、歩く時、祭りに参加する時に繰り返して歌っている。これは、この人々にとって〔信仰養成のため〕最高な方法である。というのは、世間的な歌から離れ、主の歌を学ぶことによって聖書の大部分を学ぶことになり、信仰を深める大きな助けとなるからである。

(ポランコ神父宛、モンテ神父書簡、豊後より1564年10月9日付、筆記者訳)

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当時の人はキリスト教を異質なものとして感じていなかったと断言できると思います。

 

聖書や祈りに親しむキリシタン

宣教発展を考慮すれば、要理本は必然でしたが、本来、修道者あるいは祈りの生活に慣れている信者向きである『霊操』も、『スピリツアル修行』の名前で1607年に出版され、広く愛読されていました。

『霊操』の御降誕の箇所は以下のように訳されています。

キリシタンの修行の中で特別に徳深く、殊更デゥス(神)のご内証(意志)に相叶う修行というのは、御扶け手ゼズ・キリシトのごパッション(受難)を信心をもって繁く観想申し上げることである。この儀を扱われた諸学匠も、このように徹っせられている(学問的に透徹し尽くす)のである。また道理と、証 (証拠)をもって瞭らかにわかっている。そのわけは、ごパッションの観念をもって御主ゼズ・キリシトは、我らのアニマ(霊魂)を深くご大切に思召して、そのアニマをお扶けになり、諸善をもって荘厳されるためにどれほどのご苦患をお凌ぎになったかを思い巡らすことによって、我らの心はそのご大切に燃え立つのである。

(『スピリツアル修行』、教文館、1994年、95頁)

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キリシタン達にとって聖書や祈りに親しむことは、一人ひとりの個人的な関わりを養う過程になっていました。

 

秘跡に憧れたキリシタンたち

当時のキリシタン数からすれば、司祭が足りなかったということもあって、典礼の行事、また、秘跡に与ることを大事にしていました。山口のキリシタンたちについての報告を見ましょう。

あちら〔山口〕のキリシタンたちは約8年間教理を教える人がいないにも関わらず、主はその教会を保って下さいます。キリシタンたちは毎日曜日神父が送った祭壇と祭壇画のある小聖堂に集まります。そこで、最初の祈りを捧げた後、彼らの一人が俗語で書かれた我が信仰のことを朗読し、それを最もよく理解できた人が説明します。彼らの間で統領が定められ、病人や困っている人々を訪問し、自分たちで集めた献金で助けます。彼らは集会を開いて死者を葬ります。ある者はこの町(府内)まで来て赦しの秘跡を受けたり、また神のことを聴きに来たりして数日滞在します。神父は時々手紙を送って彼らを励まします。このように異教徒の中にいる彼らは長い間(信仰を守り)続けています。

(アイレス・サンチェス書簡、府内より1562年10月11日付)

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秘跡に与ることのみならず、その準備や与ることのできないときの対策などを学んでいました。当時の教授ペトロ・ゴメスの「コレジヨ講義要綱」に、

こんちりさん〔悔い改め〕とは、真実に深き後悔の事也。然れば、いか成悪虐極りたるキリシタンなりと言ふとも、心に真実のこんちりさん砕し、こんまん〔掟〕を申べき仕合あらん時は、必らず申べしと思ひ定むるにおいては、仮令当座にこんひさん〔告白〕を申さずとも、有程の罪科を悉く赦し給ひて、がらさ〔恩恵〕を賜るべきもの也。

(ペトロ・ゴメス 『イエズス会日本コレジヨの講義要綱』Ⅲ 尾原悟編著、教文館、1999年、265頁)

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迫害が広まる前からキリシタン達は赦しの秘跡を受けなかったとしても、神様からの赦しが得られることを学んでいました。弱い人々を見捨てるはずがない神への信仰として養われていたからこそ司祭不在の時にも希望を持ち続けていました。

 

御聖体と祈りを中心にした投獄生活

迫害を受けながらも、キリシタンたちが工夫して秘跡に与る方法を見つけました。後に殉教者になった福者カルロ・スピノラが大村に近い鈴田の牢から送った手紙を見ましょう。

「私たちは同じ方法で生活を続け、日夜いろいろの霊的修業に専念し、ときどき詩篇を歌い祝日でない日には苦業をし、私たちが持ち得る最大の慰めである天使のパンで養われています。ミサを唱ずる為に必要なものを牢内に入れることが出来たことや、牢が狭いので私たちが何をしているのか番人には解らないことは、神の特別な御摂理です。ローソクはつぼの中に立てます。」

「この聖なるパンは霊的にも肉体的にも私たちに力を与え、この天の萄葡酒は私たちを暖め私たちに熱意を与えます。それによって苦しみが苦しみとは感じられないばかりではなく、私たちはもっと大きな苦しみを耐え忍ぶ事を望み、あれほど寛大に我らの為に生命を与え給ぅたキリストのためには、千の生命を捧げたい、と希望する力を得ます。」

「私たちに宿を与えた人々が焼かれたと同じように、私たちも焼かれるという噂が長崎から入ったとき、私たちはみな大きな喜びと熟に満ちあふれました。」

(福者カルロ・スピノラ、1620年2月18日付書簡、『鈴田の牢』61~62頁より)

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殉教者たちもその教えたり学んだりすることを実行する機会が与えられ、有効に活かしたことになります。

 

終わりに

まとめれば、以下のことが言えると思います。

●キリシタン時代に、短期間で世界に通用する深い信仰が芽生えた。
●当時の社会に受けいれられやすい宣教方法を見いだした。
●失敗を恐れずに様々な試みをした。修正しながら発展し続けた。
●創造的な教会。言語と人材不足を補う工夫を見いだした。
●最初から外面的な要素より内面的な信仰が大事にされた。
●地元の文化に驚くほど受けいれられた。

 


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