ミサはなかなか面白い 73 「教会に平和を願う祈り」の含み


「教会に平和を願う祈り」の含み

答五郎 こんにちは。少しずつ春めいてきたね。今回もすぐ入るよ。前回は「主の祈り」の副文まで見たが、きょうはその次の部分、日本の『ミサ典礼書』の式次第で、「教会に平和を願う祈り」という見出しがついているところを見ていこう。

 

 

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問次郎 「平和のあいさつ」は皆さんが相互に動きのある部分なので、面白いなと思っていたところでした。

 

 

答五郎 まず「教会に平和を願う祈り」と「平和のあいさつ」の部分は、刷新前のミサ典礼書にも部分的はあったのだけれど、相互のあいさつというのは、現代のミサになって復興された部分なのだよ。順番に見ていくけれど、まず「教会に平和を願う祈り」……、美沙さん、読んでもらおうか。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える』。わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください」。

 

答五郎 どうかな、見学して聞きながら、ここの部分をどう感じていたかな?

 

 

女の子_うきわ

美沙 意味はわかりやすいと思っていました。ああ、キリストは平和を与えてくれた方なのだな、と。キリストと今のわたしたちが、このことばですぐつながる感じがします。

 

 

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問次郎 調べてみると、ここはヨハネ福音書の14章27節の文言なのですね。その前には(14・25~26)では聖霊が与えられることを約束することば、その後には(14・27の後半)、「わたしはこれ(=平和)を、世が与えるように与えるのではない」ということばが続いています。

 

答五郎 聖書本文での前後関係を見ることとミサの式文の前後関係を見ることは両方とも大事だね。まず、聖霊の派遣の約束との関連でいえば、思い起こされるところがあるのだけれど。

 

 

女の子_うきわ

美沙 復活節のミサで読まれるところではないでしょうか。

 

 

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問次郎 で、調べてみると(ぼくは調べ係)、復活節第2主日に毎年読まれるヨハネ福音書20章19~31節の中にありました。はい、読んで。

 

 

女の子_うきわ

美沙 飛び飛びに「あなたがたに平和があるように」が2回(19節と21節)、そして「聖霊を受けなさい」(22節)、さらに3回目の「あなたがたに平和があるように」(26節)があります。

 

 

答五郎 面白いね。14章の箇所で約束されたことが、イエスが復活して弟子たちのところに来たときに、ほんとうに実現したというくだりだよ。聖霊が与えられたし、「あなたがたに平和があるように」ということばで、ほんとうに平和が与えられているのだよ。

 

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問次郎 それは、ひょっとすると次の「主の平和が皆さんとともに」と関係がありますか。

 

 

答五郎 もちろん、ほとんど同じことばだといってよい。この文言やあいさつのことは次回見ることにするけれども、約束された聖霊と平和の授与が復活した主が現れたときに実現したという経緯は重要だと思うよ。

 

 

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問次郎 ヨハネ14章27節の続きに「わたしはこれ(=平和)を、世が与えるように与えるのではない」とありますが、そうなると、キリストの与える平和とは何かということになりますね。

 

 

答五郎 聖体拝領の部分が「交わりの儀」と呼ばれるのと同時に「平和の儀」という性格があることを教わるのがここの部分なのだよ。実は、この「教会に平和を願う祈り」は、刷新前のローマ・ミサ典礼書で、平和の賛歌のあとに司祭が唱える聖体拝領前にそれを準備する三つの祈りがあって、その最初の祈りがもとになっているのだよ。古い翻訳から読んでみてもらおう(長江惠訳『主日・祝日用 ミサ典禮書』1950年より)。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「主、イエズス・キリストよ、御身は使徒たちに『われなんじらに平安を残す。われ、なんじらにわが平安を與(あた)う」とのたまえり。願わくは、わが罪に御眼を注ぎ給(たま)うことなく、かえつて、御身の教會の信仰を顧み給え。しかして御身の聖旨(みむね)に従い、教會に平安と一致とを與え給わんことを」

 

答五郎 訳が文語体なので、違ってみえるけれども、ラテン語の原文は一箇所を除いて今と全く一緒なのだよ。ちょっと驚くかな。ただ、その違いが重要。前は「わが罪に」となっているところが、今は、「わたしたちの罪」となっているのだ。結局、前の聖体拝領前の祈りは三つの祈りを通して自分の罪を意識して祈っているニュアンスが強かったのだよ。

 

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問次郎 「わたしたちの罪」と変わったことで何が変化したのでしょうか。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしたちの罪」の「わたしたち」は、そのあとの「教会」と同じ意味ではないかなと思っていました。教会とは信者全体だから、つまりここの「わたしたち」なのではないかと。

 

 

答五郎 そうだと思うよ。「わたしたち」は事実としてのわたしたち、生きているわたしたちで、罪や過ちを犯すけれども、ここの(直訳だと)「あなたの教会」つまり「あなたに呼び集められた民」であるところの信仰を見てくださいと願っている。神の民としてあるべきあり方と、現実の自分たちのあり方がずれていることもあるけれども……というニュアンスかな。でも、前回見た『十二使徒の教え』でも「あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように」と、神の国が完成するときにおける教会の一致という主題で切実に祈られていただろう。教会としての根本の願いといえるのではないかな。

 

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問次郎 皮肉な見方をすると、ここで「教会に平和と一致をお与えください」と願っている裏には、宗教改革以降の教会の分裂や相互の争いが意識されているのかもしれないと思うことがあります。

 

 

答五郎 実は、そうなのだよ。ここはエキュメニズムの精神の祈り、すなわち教会一致あるいはキリスト教一致を願うという現代キリスト教の精神が反映されている祈りといわれている。聖書(ヨハネ福音書)に基づき、しかも、刷新前のミサ典礼書の文言をほとんど引き継いでいるのに、一言変えただけで、祈りの置かれている文脈やその展望ががらりと変わっている例だね。

 

女の子_うきわ

美沙 エキュメニズムとか教会一致というテーマがミサに出てくるとは、少し驚きますが、前回学んだ主の祈りの副文では「現代に平和をお与えください」と、世界全体の平和が祈られていたとすると、ここでは、教会の平和と一致というふうに主題が絞られてきているのですね。

 

答五郎 たしかに、そのような流れがあるね。そして、平和のあいさつに続くという意味で、世界、全教会、各共同体で、キリストの平和の実現を願うという方向性が見えてくる。ちなみに、ここで、教会に平和と一致を願うだけでなく、文言を足して「世界に」「人類に」……と祈られる場合がある。式文にはないけれど、おそらくミサ典礼書の総則の表現を考慮しているのではないかと思われる。こんなふうに書いてあるからね。次回考えることのイントロとして読んでもらおう。

 

女の子_うきわ

美沙 82番ですね。「続いて行われる平和のあいさつによって、教会は自らと人類家族全体のために平和と一致を願い求め、秘跡において一つになる前に、信者は教会の交わりと相互の愛を現す」

 

 

答五郎 現代の教会は、教会と世界をすっぱり分けているわけでない。教会というなかで世界や全人類のことがいつも考えられているのだよ。しかも、それぞれの共同体の場からね。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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