チマッティ神父


日本のキリスト教カトリックの出版社の一つに、ドン・ボスコ社という会社があります。雑誌『カトリック生活』などを出版しているドン・ボスコ社ですが、その創立者をご存じでしょうか。その人物は、日本に最初に来たサレジオ会の宣教師の一人、ヴィンチェンツォ・チマッティ神父です。

チマッティ神父は1879年7月15日にイタリアで生まれ、1926年に来日し、1965年10月6日に亡くなりました。そのご遺体について不思議な逸話があるのですが、まずはチマッティ神父の経歴と業績をご紹介します。

 

チマッティ神父の経歴

チマッティ神父は、1879年(明治12年)イタリアのエミリ地方ファエンツァで6人兄弟の末っ子として生まれます。母ローザは敬虔なカトリック信徒で、姉サンティーナも修道女になっています。3歳のとき、サレジオ会の創始者ドン・ボスコがファエンツァを訪れ、母が説教台の下で抱き上げて「ドン・ボスコをごらん」と言ったことにより、ドン・ボスコを師と仰ぐようになり、幼少期からサレジオ会の日曜学校に通い、小中学校ともサレジオ修道会の学校を卒業します。卒業後、トリノの近くにあるサレジオ修道会の修練院に入り、17歳で終生誓願を立てます。

1900年、21歳のときに国立パルマ音楽院で音楽教師の資格を取得し、1903年には国立トリノ大学農学部で、自然科学の博士号を取得します。1905年、司祭に叙階されます。

テレジオ・ボスコ著、ガエタノ・コンプリ訳『チマッティ神父 日本を愛した宣教師』(ドン・ボスコ社、新装改訂版 2015年)

1925年、日本行きの団長としてイタリアを出発し、翌1926年2月8日に福岡県の門司港に到着します。宮崎で日本語を勉強し、1927年宮崎教会の主任司祭に着任します。1928年、宮崎教区の教区長となり、田野、高鍋、都城、別府、延岡などに次々と新しい教会を建てます。

1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立するとともに、中津に日本司祭育成を目的とした小神学校を設立します。1933年には宮崎に移転させ(後の日向学院)、同時に東京進出も実現させます。三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都杉並区に修練院、神学校、さらにはサレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校します。ドン・ボスコ社の本部も練馬に移転させます。

その一方で、見放されたお年寄りや孤児たちのために、1933年、宮崎に「救護院」も開設します。その事業を維持・発展させるために、1937年日本人の修道女会「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)を創立します。

第二次大戦中には、キリスト教が外国の宗教として厳しい監視下におかれる中、音楽を通して教会に対する好感度を培うようにつとめました。このコンサートは2000回も開催されたと言います。

70歳で管区長を退任した後は、2年間神学院の図書係となり、図書目録を手書きで作成し、完成につとめました。1952年調布のサレジオ神学院院長に就任し、10年間勤め上げ、83歳で退任しました。そして、1965年10月6日に86歳で亡くなり、「日本の土になりたい」との遺言に従い、府中カトリック墓地に埋葬されました。

 

チマッティ神父の業績

チマッティ神父の最大の業績は、音楽と農業に関することです。来日以来、死去される2年前まで作曲活動を続けています。尋常小学校国語読本の歌詞を使い、31曲作曲したほか、1940年には最初の日本語ミサ曲「鉄砲伝来の歌」など、日本の自然や歴史に関する曲を作り、49曲のオペレッタを含めて作られた作品は950曲にも上ります。

また、自然に深い関心を持ち、農業の教科書や農家のための手引書3冊を出版し、宮崎県の動植物の分類について2冊の本にまとめるなどしています。これらの資料は東京調布市にあるチマッティ資料館に納められています。

 

チマッティ神父のご遺体について

以上のような経歴・業績をもつチマッティ神父ですが、そのご遺体にまつわる不思議な逸話があります。以下は、テレジオ・ボスコ著、ガエタノ・コンプリ訳『チマッティ神父 日本を愛した宣教師』(ドン・ボスコ社、新装改訂版 2015年)の引用です。掲載に関してはコンプリ神父様より許可をいただいております。

1965年10月6日の朝早く、チマッティ神父の様態が悪くなり、院長は会員を集めて、彼の部屋でミサをささげることにした。駆けつけた主治医の森口幸雄氏はその手を握って脈を確かめていた。ちょうど、司祭がミサの終わりに「行きましょう、主の平和のうちに!」と唱えたとき、脈が止まった。チマッティ神父の人生のミサが終わったのだった。

86歳であったチマッティ神父は、あこがれていた天の父のもとで永遠の命をうけ、私たちは、神のもとで取り次いでくださる一人の聖人を得たのである。

葬儀は、彼がその建設を望んだ下井草教会で行われた。その後、「日本の土になりたい」と言っていた本人の望みを実現するために、府中カトリック墓地に土葬された。

調布サレジオ神学院の地下聖堂にあるチマッティ神父の石棺(出典:前掲書『チマッティ神父 日本を愛した宣教師』)

1967年10月4日、調布サレジオ神学院の敷地内に新しい聖堂が完成し、遺体はその地下聖堂に移された。

そして1976年11月26日、東京教区で正式に列福調査が始まった。1977年11月18日、教会の規定に従って棺を開き、東京の白柳誠一枢機卿が立ち会う中、2人の医師が遺体を検証した。医師団は次のとおり証言した。

「遺体はミイラ状態に非ず、死蝋状態に非ず、白骨化せず、全身にやや湿潤す。死臭は存せず、ただし、特別の匂いあり。皮膚は弾力性あり、……軟部組織は柔軟にして弾力性あり、……諸関節は他動的にほとんど正常範囲まで運動可能なり……。以上の所見を総合して、死後12年を経過したる死体としては、われわれ2人の医学常識によっては説明することは不可能なものであることを認めたい」。遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置された。

1991年12月21日、列福調査の結論として、教皇ヨハネ・パウロ2世はチマッティ神父の聖徳についての最終判断を下し、「尊者」の称号を与えた。これは、信仰・希望・愛に基づくその英雄的な生き方を認め、聖人になる資格があるという意味である。

今後、チマッティ神父が福者また聖人として認められるためには、その取り次ぎによる一つの奇跡が必要である。そのために、私たちは今、その取り次ぎを願って、祈りをささげるのである。(p.77~79)

(全文はこちらのページからPDFで読むことができます。)

 

【チマッティ資料館】

開館時間:毎日9時~12時、13時~17時(神父が不在の時もあります。前もってお電話をいただけると幸いです。)
担当者:ガエタノ・コンプリ神父
連絡先:調布市富士見町3-21-12 サレジオ神学院内 チマッティ資料館
電話:042-482-3117 / Fax:042-490-6707
ホームページ:http://www.v-cimatti.com

(AMOR編集部)

 


チマッティ神父” への1件のフィードバック

  1. 調布のチマッチ資料館とコンプリ神父さま。
    わたしが、最初に作ったホームページがカトリック下井草教会。
    当時主任司祭だったコンプリ神父さまに頼まれて作ったのがチマッチ資料館のホームページでした。
    最近は足が遠くなりましたが、仕事の事などを写真のチマッチ神父さまの石棺の前で何度も取り次ぎを願ってお祈りしました。
    その後、波瀾万丈でしたが転職を繰り返し。
    いま思えば平穏な時を迎えています
    感謝。

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