明治150年追憶の庭 横浜外国人墓地を訪ねて


明治の宣教師の墓がたくさんありそう、という知識で一度、行きたかった横浜外国人墓地をこの11月23日、初めて訪ねてきました。今も生きている墓(つまり新しい故人が葬られる場所)であるため、ふだんは非公開なのですが、週末や祝日には維持費用の募金を兼ねて一部を公開する活動があります。とてもよい声の男性ボランティアの方が門に立って声掛けを、二人の女性ボランティアの方が受付をしていました。

幼きイエス会のシスター方の墓

この墓地は、ペリー艦隊隊員が事故死したときの埋葬や、攘夷運動の犠牲となった外国人の埋葬が、そもそもの発端といいます。ペリー来航とともに不可逆の近代史に入りこんだ日本の、その近代の始まりが、流血とともに始まったという事実が生々しく迫ってきます。

それから150年の記憶。横浜山手地区全体にも息づいていますが、とくに墓地は、葬られている人の生涯と事跡へのさまざまな糸口となっているようです。小春日和の陽光と緑が重なる十字架の霊園でのひとときでした。幼きイエス会(ニコラ・バレ、旧称サン・モール修道会)のシスター方のお墓も複数あり、とくに1923年帰天者のシスターの名を刻む墓が目を引きました。関東大震災の犠牲者にちがいないと思いました。

さて、公開区域には二人の宣教師の墓があります。

 

ネイサン・ブラウン 聖書日本語訳の歴史で欠かせない人

一人は夫妻で葬られているネイサン・ブラウン(Nathan Brown, 生没年1807~86)という米国のバプテスト派牧師です。横浜に来たのが1873年。浦上信徒の配流が終わり、キリシタン禁制高札が撤去後の最初の来日宣教師の一人でした。山手の仮住居に横浜第一浸礼教会というバプテスト派の教会を設立します。

ブラウン夫妻の墓

当時、プロテスタント各派で聖書翻訳委員社中ができていて、彼も1874年に加入しました。そこで、有名な「バプテスマ」問題を起こします。有名なヘボンらがバプテスマを「洗礼」と訳すのに対して、彼は、「浸礼(しづめ)」と訳すべきだと主張したのです。結局委員の投票で「バプステマ」となったそうです。これは、現在の新共同訳でも「洗礼」と書いて「バプステマ」と読み仮名を付けるというあたりの問題の始まりでした。

この問題をきっかけに彼は聖書翻訳委員社中を1876年に脱退。そして、独力で新約聖書の翻訳に取り組み、1879年に委員社中に先んじて日本初の完訳新約聖書を刊行します。その名称はなんと万葉仮名で『志無也久世無志与』(しんやくぜんしょ)というものです。ギリシア語シナイ写本とヴァチカン写本を底本にした点で、「大正改訳」と呼ばれる聖書訳に近いこと、翻訳本文が仮名文字主義であったことが一大特徴といわれます。

マルコ福音書(まるこでん ふくいんしょ)1章1節の訳は「かみのむすこ ゑすきりすとの ふくいんの はじめ」です。

ブラウン夫妻の墓の説明版の拡大

日本語を愛し、かつ聖書を庶民のものにしようとした意気込みがあふれている訳といわれています。あとの翻訳論からは問題視される点も多いと聞きますが、21世紀の今から見直すべきものが少なくないのではと感じます折しもこの12月には口語訳として新たな聖書訳『聖書協会 共同訳』というものが日本聖書協会から出版されます。聖書と福音を日本人へという課題は、変わらずに続いています。墓碑の文字まで見られませんでしたが、ブラウンの墓には“God bless the Japanese”と書いてあるとのこと。その生涯と業績が、多角的なメディア時代の今、新たに目の前に現れた気がしました。

 

エヴラール神父にみる宣教師の二重性

もう一人は、ブラウンからは一世代年下となるパリ外国宣教会のフェリクス・エヴラール神父(Félix Evrard, 生没年1844~1919)です。あまり知られていない人ですが、調べてみると、さまざまな歴史との意外なつながりがいくつも見つかり驚きました。

エヴラール神父の墓

1864年、20歳のときパリ外国宣教会に入会し、1867年司祭になると、その年のうちに日本に渡り、浦上信徒の捕縛事件、つまり浦上四番崩れ(特集10参照)に遭遇したというのです。1868年から78年まで開港直後の新潟に赴任。宣教はほとんど進まなかった中でも日本語の習得に努めたそうです。東京・築地教会に赴任したあと、1880年から1903年までずっと、当時横浜に置かれていた駐日フランス大使館で書記官および通訳を務めます。それと並行して、新潟から名古屋へと宣教旅行をし、名古屋では、配流された浦上信徒の世話をしたというのです。以後、北陸(敦賀まで)、宇都宮と活動展開は広く、1898年、再び築地に戻り、東京大司教総代理などの要職を経たあと、最後は横浜のサン・モール修道会付司祭となり、若葉町教会でも働いたことがこの墓地に葬られる流れでした。

エヴラール神父の墓石の聖体の模様

この略歴から浮かぶのは、一つには、明治の宣教が、まぎれもなく、浦上信徒配流の歴史と交差しながら始まっていることです。忘れてはならない事実でしょう。二つめは、フランス人宣教師の居場所がフランス外交使節の役割と密接に結びついていたことです。エヴラールの場合は、早くも1882年に政府から勲五等雙光旭日章を授かるほどで、晩年には瑞宝章も受けています。そのことが墓石の前の説明版でも強調されていたことが、なにか引っかかりました。その生涯が宣教への貢献でもあったのと同時に、近代国家日本の建設への功績でもあったこと、その後者のほうが目立たせられていることです。この墓地に、さまざまな分野での近代日本への貢献者とともにいるという、そんな外国人宣教師の位置づけに、いろいろと考えさせられたのです。エヴラールは、1919年帰天。75歳まで生きられた体力、そして日本語能力がその仕事を助けたことでしょう。

墓石に刻まれていた聖体の模様になにかほっとさせられた私です。

石井祥裕(AMOR編集長)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

seventeen − 15 =