ミサ曲11 通作ミサ


齋藤克弘

 

これまでは、ミサ曲の主な内容と各曲がどのようにしてミサの中に取り入れられてきたかを見てきました。わたくしたちが「ミサ曲」として知っているものは、これまで見てきたように、それぞれの曲の成り立ちも、ミサに取り入れられた経緯も全く異なっています。しかし、ある時代からこれらが「ミサ曲」という、いわば、組曲のような、あるいはセットのような楽曲として作られるようになりました。では、なぜこれらが組曲のようにセットで作曲されるようになったのかを考えてみたいと思います。ちなみに、組曲のようにセットで作られるようになったミサ曲を「通作ミサ(曲)」と呼びます。

「通作ミサ」を一人で作曲した最初の作曲家は、フランスの詩人でもあり音楽家でもあったギョーム・ド・マショーです。因みにギョームは

自然の女神と3人の娘から祝福を受けるマショー

名前、ドは英語の前置詞 of 、マショーは地名で、日本で言えば、江戸時代から明治時代に活躍した、中浜の万次郎と同じですね。ギョーム・ド・マショーは14世紀前半の音楽史の区分でいうとアルス・ノーヴァの時代に活躍しました。アルス・ノーヴァとは「新しい技法」というような意味で、それまでの時代のものを「アルス・アンティクァ(古い技法)」と呼んだのに対した呼称です。ちょっと差別的な感じはしますが、今から600年も前のことを現在の視点に立った考えで批判することはできないと思います。

さて、ギョーム・ド・マショーは一人の作曲家として初めてミサ曲すべてを作曲したわけですが、それ以前にはそれぞれの曲がまったく関係なく作られたというわけではありません。というよりも、アルス・ノーヴァの時代からは作曲家(作曲者)が個人として明らかになってきましたが、アルス・アンティクァの時代までは、作曲者の名前があまり知られていないのです。

このような時代の技法を受け継ぐミサ曲として、「トゥルネーのミサ(曲)」と呼ばれているミサ曲があります。このミサ曲はもともとは当時、教皇庁があったアヴィニョン付近で作曲され、最初は、キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイが同一の技法(おそらくは同一の作曲者)によって作曲され、のちにグロリアとクレドが加えられたと考えられています。このミサ曲がアヴィニョン近郊で作曲されたにも関わらず「トゥルネーのミサ」と呼ばれるようになったのは、この曲の写本がトゥルネーの大聖堂で伝えられてきたことからこのように呼ばれています。

さて、アルス・ノーヴァの時代からは、先に挙げたギョーム・ド・マショーを皮切りに一人の作曲家がミサ曲をひとまとめとして作曲する「通作ミサ」が作られるようになったのでしょうか。ミサ曲として歌われる4つの賛歌と信仰宣言はすべて会衆が歌うものでした。ところが会衆がラテン語を理解できない地域に教会が広まっていくと、ミサ曲は会衆を代表する聖歌隊(主に教役者)が歌うものになっていったのです。アルス・ノーヴァの時代にはこれらの聖歌隊が活躍するところは、主に大きな司教座聖堂や貴族の宮廷礼拝堂になっていき、そこではまず、教役者であり作曲家である音楽家がミサ曲を作るようになっていったのです。

ルネッサンス時代以降、作曲家は教役者から一般の信徒に中心が移っていき、ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナを皮切りに信徒の作曲家が活躍するようになっていきます。ルネッサンス時代以降は、また、音楽ばかりではなく文化の中心が教会から貴族の手に移っていった時代でもありました。ですから、そのあとのバロック、ロココ、古典派と時代が下ってくると、皆さんもよくご存じの有名な作曲家たちが、教会音楽家として、あるいは、貴族の援助のもとに多くのミサ曲を作っていったのです。また、ルネッサンス以降の時代は、いろいろな楽器が改良され、音も大きく鳴るものが作られるようになります。そして、大きな特徴の一つは、作曲家だけではなく演奏家も、ルネッサンス以前の教役者中心から、一般信徒が活躍する時代になっていきます。特にバロック時代以降は宮廷や教会から給与をもらって演奏する職業音楽家が数多く誕生した時代でもあります。このように、ある意味でいえば、教会や貴族と言った宗教界と統治者からの保護があったからこそ、多くの音楽家が活躍することができたと言っても過言ではないでしょう。

(典礼音楽研究家)


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