ミサはなかなか面白い 62 「わたしたちはいま、記念を行い」


「わたしたちはいま、記念を行い」

答五郎 奉献文は、山のようだ。今は頂点ともいえるところにさしかかってきた。「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう」という対話句について見てきたが、きょうは、その次のところを見ることにするね。第2奉献文ではどうなっているかな、美沙さん。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」。

 

 

答五郎 そこだね。今頂点という言葉を使ったけれど、奉献文の中で、制定叙述とも聖別句ともいわれるイエスの言葉と、今読んでもらった「ささげます」で結ばれる文が本来の頂点というべきところだよ。「信仰の神秘」……の対話句は現代のミサで生まれたものだからね。

 

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問次郎 頂点が二つというわけですか。

 

 

答五郎 いや、イエスの言葉と、ここの部分は2つで一つというべきところなのだよ。特色を理解するために、第1奉献文と第3奉献文をまとめて見ておこう。第4奉献文まで入れると長くなるので、ここでははずしておくね。美沙さん、頼む!

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。では第1奉献文では、「わたしたち―奉仕者と聖なる民―も、いま、御子わたしたちの主・キリストのとうとい受難、死者のうちからの復活、栄光の昇天を記念して、あなたの与えられたたまもののうちから、清くとうとく汚れのないいけにえ、永遠の生命のパンと救いの杯を栄光の神あなたにささげます」

 

答五郎 第2奉献文と比べると、イエスについて述べることも、ささげるものに関しても語句が豊かになっていることがわかるだろう。でも、「……記念して、……ささげます」が肝であることは見ておいてほしい。

 

 

女の子_うきわ

美沙 第3奉献文では、「わたしたちはいま、御子キリストの救いをもたらす受難・復活・昇天を記念し、その再臨を待ち望み、いのちにみちたこのとうといいけにえを感謝してささげます」

 

 

答五郎 第1奉献文と第2奉献文の間くらいの簡潔さといってもよいかな。

 

 

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問次郎 記念だけでなく、第1奉献文と比べると「再臨を待ち望むこと」が入っているのは目立ちますね。「感謝」について触れているのは、第2奉献文と同じですね。

 

 

答五郎  そう、その「感謝する」というのは、ミサの奉献文が形成される歴史の最初のころはこの祈り全体の主動詞で、つまり全体が「……感謝します」という祈りだったらしい。奉献文がラテン語では、「エウカリスティア(感謝)の祈り」と呼ばれるのは、この最初の姿に基づいているようだ。

 

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問次郎 すると日本語の奉献文というのは、意味がずれているのですか。

 

 

答五郎 いや、そんなことはないよ。ギリシア語圏の教会で「アナフォラ」(奉献)と呼ばれていた伝統を意識した日本語表現と聞いている。

 

 

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問次郎 でも、ローマ・カトリック教会の典礼式文に、ここだけギリシア語圏の用語を意識したというのは不自然ではありませんか。

 

 

答五郎 いい質問だ。実はね、「エウカリスティア」だって、感謝だけでなく、「感謝のささげもの」、「感謝のいけにえ」という意味があるのだよ。だから、奉献文も訳としても決してずれてはいない。「感謝の奉献の祈り」とでもいえば、充分かもしれないけれど。ところで、今読んでもらった三つ にもう一つ共通の単語があったのに気づかなかったかな?

 

女の子_うきわ

美沙 読みましたのでわかります。「いま」です。「わたしたちはいま」とか「わたしたちも、いま」とか。

 

 

答五郎 どういうふうに聞いてきたかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 まさに、今ここで、行うことを宣言しているのだと、感じていましたが……。

 

 

答五郎 そう、そうだろうね。自分もこの「いま」の意味合いを考えたくてラテン語の原文を調べてみたことがあるのだけれど、とくに「いま」と訳すべき単語がなくてね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 どんな語句だったのでしょうか。

 

 

答五郎 第1奉献文の冒頭は「ウンデ・エト・メモーレス」(Unde et memores)、第2と第3奉献文の冒頭は、「メモーレス・イジトゥル」(Memores igitur)となっている。ウンデは「その理由で」、イジトゥルは「したがって」で、ほぼ同じ意味だ。「したがって、記念して……」がラテン語の場合の冒頭句となっている。どうして、このような語が入っていると思う?

 

女の子_うきわ

美沙 その前の言葉を受けているのですね。対話句が最近入ったものだとすると…… ! あっ、イエスの言葉の「これをわたしの記念として行いなさい」ですね。

 

 

答五郎 対話句が入ったことによって、切れているけれど、論理としては、「これをわたしの記念として行いなさい」というイエスの言葉を受けて、それに従って、それに答えて、その命令を理由として、「わたしたちは記念し……」という流れになっているのだよ。

 

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問次郎 でも、「したがって、わたしたちは記念を行い……」だと、祈りの感じがしませんね。

 

 

答五郎 たぶん、日本語式文を作った先輩たちもそう感じて「いま」としたのかもしれないね。でも、イエスの言葉に従う行為として、いま自分たちが行っているという、仕組みというか関係性というか、そういうことがはっきりするだろう。日本語でも、じっくりと聞いていれば、その意味は感じられてくるのではないかな。

 

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問次郎 だとすると、ミサは、イエスの「記念しなさい」といういわば命令にこたえて、それに従って「イエスの死と復活の記念を行い」続けることなのですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスと弟子たちの最後の晩餐での出来事と、今、ここでのミサとが直結していることがますます強く感じられます。

 

 

答五郎 そして、やはり重要なのは主動詞である「ささげます」だろう。「ミサは何をすることか」を明らかにする語だ。これについては、また、いろいろと味わえることや考えなくてはならないことがあるので、次回に移そう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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