ミサはなかなか面白い 60 「信仰の神秘」


「信仰の神秘」

答五郎 さて、奉献文でも、イエス自身のことばが告げられるところを見てきたね。「わたしの記念としてこれを行いなさい」というところまでがそうだった。そして「記念」の意味を考えてみたね。

 

 

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問次郎 はい、生きていた間の最後の晩餐で、遺言のように、弟子たちに「わたしのことを覚えておいてほしい、忘れないためにいつもこの晩餐の典礼を行うように」と言われているのかなと思っていました。

 

答五郎 その記念の意味合いは、さらに奉献文のこのあとの部分でまた重要になるのだけれど、その前に一つ対話句があるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい、ここですね。「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」。ここは、「しんこう~の~、し~んぴ~」と印象深く歌われますし、それに皆がこたえて歌うところも聞くだけで自然に覚えてしまいました。

 

答五郎 実は、もう一つ「主の死を仰ぎ、復活をたたえ、告げ知らせよう、主が来られるまで」という文言もあるのだけれど、あまり使われていないようだ。

 

 

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問次郎 信者のほうで、どちらかを選ぶのは難しいのでしょうか。

 

 

答五郎 まあ、そうだね。ところでね、カトリックの典礼で、奉献文の中に、このような対話句ができたのは、第2バチカン公会議(1962-65年)の後のミサの改革における一つの画期的なことだったのだよ。

 

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問次郎 へえ、そうだったのですか。

 

 

答五郎 まず、奉献文は、公会議前までのラテン語のミサの時代はカノン・ロマーヌス、ローマ典文とかローマ・ミサ典文とか訳されるけど、今の第一奉献文だけだった。しかもラテン語なのはもちろんだけれど、前に考えた聖別の行われる、とても神聖な祈りとして、声を立てずに沈黙のうちに唱えられるというものだったのだよ。

 

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問次郎 としたら、信者にとってはなにも聞こえず、何を唱えているかもわからなかったのですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙  とすると、まず奉献文は声を出して祈る祈りになったのが、第一の変革だったのですね。

 

 

答五郎 そう、そして国語になって、少なくとも何を祈り、告げているのかがわかる祈りになった。

 

 

女の子_うきわ

美沙 そして、今度はその中心部分に対話句が入ったというわけですね。

 

 

答五郎 長い伝統となっていたローマ・ミサ典文も元来は短い祈願がつなげられて長くなったようで、会衆が一つひとつ「アーメン」と応唱するものだった。その限りでは、司式者と会衆とのやりとりとがあったといえるのだけれどね。

 

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問次郎 この対話句は、新しくつくられたものなのですか。

 

 

答五郎 「信仰の神秘」という文言「ミステリウム・フィデイ」というラテン語だけれど、実は、昔のローマ・ミサ典文では、カリスについての文言の中にあったのだよ。「これはわたしの血の杯、新しい永遠の契約の血。信仰の神秘。あなたがたと多くの人々のために流されて罪のゆるしとなるもの」といった流れかな。そこにあった「信仰の神秘」ということばを、御血だけでなく、御体も含めて聖体全体に対して唱えることばとなって、対話句が成立したのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 今、「信仰の神秘」ということばが聖体を意味しているというふうにおっしゃいましたが、聞いていて、ずっと、ここに「信仰のもっとも深い神秘がある」という意味で、考えていました。

 

答五郎 もちろん、その意味でとっていいと思う。聖体を意味しているといったけれども、聖体ということ自体、何か物質的なものではなく、イエスの死と復活という出来事を示し、そこでご自分をささげられたイエス・キリストの存在、その体、そのいのち全体が今ここにあるという意味だからね。

 

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問次郎 うーんと、ぼくなんかは、「信仰の神秘」というと、信じるという行為の不可思議さをいうのかなと思っていました。

 

 

答五郎 もちろんそれもあるけれど、それよりここでの信仰は「信じられていることがら」を指すといってもいい。信仰という主体的な行為というよりも、客観的な内容という意味でね。それは、究極的には、イエス・キリストによってなされた救いのわざの神秘、イエスの死と復活の神秘、これを主の過越の神秘ともいう。つまるところは、キリストの神秘ということでもあるのだよ。そこのところを、聖体の秘跡に焦点を合わせて考えてみようという意味のことばだと思う。実は、このあとの一同の応唱が、その神秘を主の死と復活の神秘だと明らかにしているだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 ああ、そうなのですね。でも、神秘は神秘なのだから、意味を決め込むこともないのではないでしょうか。人の言語で、ここまでを意味しているというふうに……。

 

 

答五郎 ややっ、これは一本も二本もとられたな。たしかにね。ただ、信仰の神秘と聞いて、そこには幾重もの意味があるという、その深さを知るためには、測ろうとすることも必要だし、意味があるのではないかな。実際、「神秘」、ラテン語でミステリウム、ということばは、キリスト教の中ではとっても、重要なことばになっている。日本では、「秘義」(ひぎ)と訳されてもいたのだけれど、ちょっと難しい造語だったようだし、音で聞いてもわかりにくかったからか、ミサでは最初から「神秘」と訳され、発声されてきているのだよ。

 

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問次郎 「神秘」のほうが、一般にも使うことが多いですし、違和感はなかったです。

 

 

答五郎 ただ、それもいろいろな意味で受けとめられていることばだろう。それだけに、キリスト教的な意味というか、ミサでいう「信仰の神秘」ということばの意味は、そんなに深く考えられていないのではないかなと思うのだ。ところでね、一同の応唱のことばにも秘密が隠されているのだよ。それについては次回にしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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