黒澤明『静かなる決闘』


映画監督の黒澤明は、戦争を直接題材にした映画を遺していない。『トラ・トラ・トラ』(日米合作映画)で、真珠湾攻撃をめぐる日米両国の動きを題材にした映画に取り組んだが、撮影中に監督を解任される。強度のノイローゼが原因と言われるが、結果として戦争映画は完成しなかった。

全30作品の映画の中で『一番美しく』は、太平洋戦争の末期、若い女性たちが女子挺身隊として働く工場での生活を描いているが、戦争そのものを語る内容ではない。戦場の場面が出てくるのは『静かなる決闘』の野戦病院である。しかし、この映画も戦争映画ではない。

『生きる―黒澤明の世界―』(都築正昭著 マルジュ社)より

黒澤が戦争をどのように意識していたのかを考えてみると、それはむしろ戦後の日本社会に関わるものとしての意識だったように思われる。戦後は戦中があって、戦後となる。自明のことだが、黒澤が戦争から戦後につながるものとして捉えたのはなんだったのか。

『静かなる決闘』は、軍医の藤崎(三船敏郎)が中田上等兵の手術をした際に、梅毒菌に感染されてしまうことからドラマがはじまる。中田が悪性の梅毒患者で、藤崎が小指の傷から感染してしまうのだった。

戦争が終わり、藤崎は婦人科医の父親(志村喬)が経営する病院に勤めることになった。藤崎には6年間帰りを待ち続けた許婚者の美佐緒(三條美紀)がいた。美佐緒はひたむきに藤崎を愛し続けるが、藤崎は梅毒感染の兆候があることから婚約解消をほのめかす。藤崎は「純潔なのに汚れた体」と自分を責めた。

ある日、警官が酔漢に襲われる事件が起き、藤崎が往診すると、加害者は野戦病院で手術をした中田だった。藤崎は中田に治療を勧めるが、中田は応じない。しかし、数日たって中田が妊娠している妻を連れて藤崎の病院を訪れた。中田は梅毒をこじらせて重症であり、妻も感染していた。やがて、妻は子どもを死産する。中田は病気におかされた無残なわが子を見て発狂してしまうのだった。

ある日、藤崎は美佐緒のことを心配する父親に真実を打ち明ける。

父親「しかし、恭二、……それにしても、正直にありのままを美佐緒さんに話すべきじゃないかな……お前のことを、あきらめて貰うためにも」

藤崎「僕がもし正直に全部話したとします。あの人は必ず、5年でも10年でもなおるまで待つといいます。……いやぼくが病気だと知ったら、それこそ殺されてもよその人のところへはお嫁にいかないでしょう。誰とも結婚しないで、一生僕の世話をやくというに決まってます」

父親「…………」

藤崎「僕はそんな所へ、あの人の青春を追い込む勇気はありません」

あくまでも理性で欲望を抑え込もうとする藤崎である。しばらくして、美佐緒は他家に嫁ぐことになる。

藤崎の性に対する異常なほどの潔癖性、そして禁欲性、他者に対するヒューマニズムは黒澤自身を反映していると見てよいだろう。

黒澤は戦争というものから炙り出された不条理な面を、他者のせいにすることを避けた。「純潔なのに汚れた体」は、まさしく戦争体験者すべてに共通するものとして捉えられている。国粋主義や軍国主義の責任になすりつけても、所詮最終的には自分自身に返ってくるものである。藤崎は梅毒感染で中田を責めはしない。お互いに治療しようと語りかける。

社会が罪を負っているなら、それは個人としての自分に問題があるからではないのかと追求するのである。純粋でストイックに生きる人間を、黒澤は描き続ける。そこに黒澤の真骨頂があると見るべきであろう。

藤崎は患者のために献身的に働く。それは自分の苦悩を忘れようとするかのように。病院に出入りする巡査が父親に話しかける。

「うちの署長がね、ここの先生を称して何といってるかご承知ですか……医者の中には時としてああいう聖者がいるもんだって」。

それに父親が応える「自分より不幸な人間のそばで、希望を取り戻そうとしているだけです。幸せだったら、案外俗物になっていたかもしれません」

黒澤はこの映画の前に『酔いどれ天使』をつくっている。黒澤のヒューマニズムは医師を主人公として、のちの『赤ひげ』にもつながっていく。戦後社会を生きる人間ドラマは、復員兵が絡む『野良犬』にも通じて描かれる。

黒澤は『トラ・トラ・トラ』(1969年)の監督解任後『どですかでん』を撮るが、翌年の1971年に自宅で手首を切り自殺未遂を起こしている。そこから再起して『デルス・ウザーラ』『影武者』そして『八月の狂詩曲』などを作り続けた。
戦後73年になり、「人間黒澤明」に注視しながら、黒澤映画をもう一度観なおしたいという気持ちが湧いてきている。

鵜飼清(評論家)

【参考資料】
『黒澤明(下)その作品研究』(都築政昭著 インタナル出版)
『追悼 黒澤明 妥協なき映画人生』(アサヒグラフ)

『静かなる決闘』クレジット
上映時間:95分/製作国:日本/初公開年:1949年
監督:黒澤明/企画:本木荘二郎、市川久夫/原作:菊田一夫/脚本:黒澤明、谷口千吉/撮影:相坂操一/美術:今井高一
出演:三船敏郎、三條美紀、志村喬、植村謙二郎、山口勇ほか

 

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