ヴァージニア・ニクソン著『中世末期におけるマリアの母・聖アンナ』


聖家族の絵画にもしばしば登場するマリアの母アンナは聖書外典で登場する人物だが、熱心な崇敬が向けられ、美術にも盛んに描かれるようになった。聖アンナ像を生み出した中世末期の人々の信仰心に目を向けた書を紹介しよう:

ヴァージニア・ニクソン著『中世末期におけるマリアの母・聖アンナ』
Virginia Nixon, Mary’s Mother: Saint Anne in Late Medieval Europe (University Park: The Pennsylvania University Press, 2004), xiii+216 pages

聖母マリアの母、聖アンナなる人物は聖書正典の中に出てくることはなく、2世紀の外典『イエスの幼児物語』における救い主キリストの誕生物語に付属する、母マリアの系図の一部として初めて語られた。そこでは、イスラエルの12部族の一人であった裕福なヨアキムに子孫がなく、神殿で捧げ物をすることを禁じられていたことや、彼が妻アンナの顔を見ずに荒野で40日40夜断食をし、アンナも悲しみにくれていたとき、天使によって子どもを産むであろうと告げられ、マリアを産んだことなどが語られる。ルカ福音書の初めの物語と旧約聖書の長い間子どもを産むことができなかった妻の物語からヒントを得て書かれたものであろう。

本書は聖アンナに対する信心の起こりと初期の段階から最盛期と終焉に至る過程を、信心の対象であった主要な造形作品の特徴の時代的変遷を見ながら分析し、それを通じて背後にあったジェンダー観を最後に明らかにしようとしている。

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外典福音書の一つ『ヤコブ原福音書』に、ヨアキムの妻として現れたキリストの祖母アンナの物語は、彼女に関してもっと知りたいとする一般民衆の欲求にこたえてさらに詳しいものになっていった。以後、東方、西方の両キリスト教圏で聖アンナの物語は語り続けられ、聖人伝説に成長していった。中世の作家たちは、アンナが3度結婚し、すべてマリアという同じ名を与えられる3人の娘を産んだと語っている。

アンナの娘たちは救い主イエスばかりでなく、多くの子どもを産み、それらの中には、洗礼者ヨハネの他5人の使徒と一人の弟子、ラインラント地方の初期(4世紀末)の司教セルウァティウスとマテルヌスが含まれていたことになる。このような物語は興味深いものであったが、聖アンナは中世盛期においてはまだ、多くの聖人のうちの一人にすぎず、中世末期になって初めてヨーロッパで彼女への信心が確固とした位置を占め、特に1470~1530年の間にドイツと低地地方で広まり、盛んになった。彫刻師と画家たちは、需要にこたえて多種多様な彫刻・絵画・版画の作品を生み出した。この人気は16世紀の宗教改革時代初期にまで続いたが、やがて衰える。

聖アンナ信心の隆盛には中世末期の社会的経済的背景があったといわなければならない。それは経済的繁栄に伴う都市商人からなる市民階級が社会の表舞台に登場したことであった。聖アンナへの信心は、富裕な商人家庭の理想像と女性たちの意識を反映したものでもあったのである。15世紀と16世紀初期のオランダでは、聖アンナが幼子イエスと聖母マリアを抱く様子が彫刻のモチーフとなっている。それらは、後期ゴチックのリアリズムと経済的豊かさを窺わせるようにして、当時の玩具・衣装・装身具で飾られ、裕福な中流市民の生活を映し出している。このようなタイプの作品はフランス、スペイン、イタリアではあまり見られず、ポーランド、ボへミア、北欧スカンディナヴィアで広く見られる。大量生産の版画の存在は聖アンナのイメージが一般民衆によっても求められ、もてはやされたことを示している。それらの造形作品の存在は、当時「一つの現象」があったことを示していると、著者は考えている。

聖アンナを描いた立像や彫刻、あるいは絵画に表現された信心の隆盛はどのようにして起こされたのであるか。誰がそれを推進したのであろうか。当時のそれぞれ都市には多くの教会、施療施設をもつ修道院あるいは女子修道院等の宗教施設が飽和状態であった。それは施設拡充や補修のために莫大な資金を要し、台頭してきた富裕市民階層の家庭を切り盛りし、商売を助けた女性からそのための寄進を集められることに着目した。こうして聖職者たちは教会・巡礼地・祭壇を聖アンナに捧げ、このような家庭の女性たちばかりでなく、その夫たちにもアンナを家庭の模範、家庭の保護者として崇めるように推奨したのであった。彼らの娘たちの多くにアンナの洗礼名が与えられ、謙虚で慎み深い家庭の主婦のイメージをもつ聖アンナ像が定着していった。

中世末期は信徒の信心会が生まれ、広がった時代でもあった。聖職者層は聖アンナ信心をこのような運動によって教会の枠内にとどめ、指導できるようにしたと思われる。多くの信心会が結成されたが、聖アンナ信心会がそれに新しく加わった。イエスの祖母の話は有名な『黄金伝説』にも出てくるが、そのあたりまでの中世の救済論ではアンナに救済における何の役割も与えられていなかった。しかし、聖アンナ信心が広がっていくと、彼女にその役割が与えられるようになる。宗教改革者になる以前の修道士マルティン・ルターは聖アンナに誓願を立てるほど、彼女の信心に熱心だったが、やがてそれに距離を置くようになり、聖人崇拝には否定的となっていく。聖アンナ信心が盛んに見られたのは、16世紀の宗教改革運動が広がった地域でもある。宗教改革が歴史に明白な影響を及ぼすようになったとき、聖アンナ信心を反映した造形作品の制作は終わりを告げる。

聖アンナと幼子イエスを抱く聖母マリアのモチーフには初期から近代に一層近づいた時代までに描き方に大きな変化があった。初期のものでは聖アンナが中心に大きく描かれ、主役である。時代を経るとともに、彼女は男性の縁者たちを背景にして一歩後退し、聖母子を後ろから見守るようにして描かれるようになる。著者は最近の研究を紹介しながら、聖アンナ像が経済的変化と女性の役割の変化を反映してきていたことを指摘している。それは中世的女性像から近代的女性像への変貌なしには理解できないと、著者は考えている。

カトリック圏では、北方バロック美術は短い期間であったが、聖アンナを厳格な風格をもった預言者の姿をしたキリストの祖母として描くようになった。そのような聖アンナ像は北フランスのブルターニュ地方で一般的に描かれ、その後、フランス語カナダのケベック地方にもたらされ、特に母親たちの守護の聖人とみなされるようになった。フランスから彫像が聖遺物ともにもたらされ、今でもサント・ド・ボプレの巡礼地は米国からの巡礼者によってにぎわっていることを指摘して、著者は本書を結んでいる。

(高柳俊一/英文学者)

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