『目覚めていなさい』


私は月2回、CLC (Christian Life Community) の例会に出席する。その例会では、最初に次の日曜日の福音書の箇所を読んで30分くらい黙想をして、そのあと短く分かち合う。

アドベント(待降説)の最初の日曜日のミサで読まれる福音はマルコ13章33〜37節であった。「目覚めていなさい。いつ主人が帰ってくるからわからないから。」という内容である。このころの福音は「賢い5人の乙女と愚かな5人の乙女」をはじめ、似たような話が多い。前回のタラントンのたとえ話も同じように、主人が帰ってくるのを待っている設定である。

それを黙想して分かち合ったら、開口一番「この福音をそのまま読むと、『これじゃあ、寝られないじゃん』と当然ながら思ってしまうのだが………」という素朴な質問が出てきた。

次に出てきた質問は、この日の福音の「主人の帰ってくる日」というのはなにを意味するのであろうか? 世の終わりとか終末とかいう答えも考えられるだろう。あるいは待降節にちなんで「救い主の誕生」というのも答えになるであろう。

しかし、私が黙想のなかで思い浮かべていたのは、「死の場面」であった。とくに加賀乙彦著『宣告』に描かれるような死刑囚の刑の執行を思い浮かべていた。いつだかわからないけれど必ずやってくる死刑の執行の日が「主人の帰ってくる日」ではないかと、それがいつ来るかわからないけれど、いつ来てもいいように準備をしておくことが「目覚めていること」ではないかと思った。

考えてみたら「私たちひとりひとりもいつ刑が執行されるかわからない死刑囚なのである」といったのはビクトル・ユゴーだったか。それは死刑囚ほど差し迫ってはいないかもしれないが、「その日」はいつか必ずやってくる。だからそれがいつ来てもいいように、備えておくことが「目覚めている」ということではないか。

この結論を得て、とても納得したのである。

http://www.glocallife.net/entry/death-penalty

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師  現聖パウロ学園高校「宗教」担当講師)

『目覚めていなさい』” への1件のフィードバック

  1. この年になると身の回りのひとが
    少しずついなくなっていきます。
    確かに順番が一歩づつ近づいてくるのを感じます。

    何をどのように準備したら良いのでしょう。
    私が思ったこと。

    旅立ったあとにその人は、子供たちや友人たちの心のなかに思い出として生き続けます。
    良い思い出として生きて欲しい。
    そう思うと、普段の私生活の在り方が問われるのではないでしょうか。
    目覚めていなさい。

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