“静かなる研究ブーム”~~島原天草一揆(島原の乱)をめぐる最近の出版動向


「島原の乱」については、気がつくかぎり2012年以降のBSテレビの歴史番組でも取り上げられることがたびたびありました。歴史家たちの研究が新生面を迎えていることを背景にしています。概説的にこの歴史的出来事を語る専門書・一般書の主なものをここで一覧にしてみます。教科書で「島原の乱」と教えられているこの出来事や「天草四郎」という人の実像について最近はどのような見方がなされているのか、この出来事をどのように考えたらよいのか、近年の書籍は新たな側面に光を当てています。

 

1.1960年代~1970年代の概説書

最近の概説書の中でも参考文献としてしばしば挙げられる1960年代、1970年代の書物に次のようなものがあります。

1960年 岡田章雄『天草時貞』(吉川弘文館)
1967年 海老沢有道『天草四郎』(人物往来社)
1967年 助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』(東出版)
1967年 助野健太郎『島原の乱』(東出版)
1975年 渋江鉄郎『島原一揆』(昭和堂)
1979年 片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』(時事通信社:再刊「片岡弥吉全集1」智書房 2010年)

これらの文献の中でも、この歴史的出来事が「島原の乱」のほかにも「島原一揆」という名前が出てきます。このうち1967年発行の助野健太郎・山田野理夫『きりしたんの愛と死』は、2010年にフリープレスから復刻版として『キリシタン迫害と殉教の記録』というタイトルで刊行されました。その上巻の「島原の切支丹」「天草の切支丹」の章でこの「乱」についての叙述がありますが、その中でも「島原一揆」と「島原・天草の乱」という二つの呼称が出てきます。この時代からも名称に諸説あるという事実は、教科書的な「島原の乱」という記憶をまず相対化させてくれます。

 

2.研究史の転換点となった「原城跡」発掘調査(1992年~2008年)

最近の「島原の乱」に関する“静かなる研究ブーム”と呼べる動向は、1992年に始まった長崎県の現南島原市による国指定史跡「原城跡」の発掘調査をきっかけとしています。これらに関連する事象を年譜的に記載します。

1992年   長崎県南高来郡南有馬町[当時]の国指定史跡「原城跡」の発掘調査が開始される

1996年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第2集 原城跡』発行

1998年10月 南有馬町にてシンポジウム開催

2000年   石井進・服部英雄編 長崎県南有馬町監修『原城発掘 西海の王土から殉教の舞台へ』(新人物往来社)発行(上記1998年のシンポジウムの記録)

2004年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第3集 原城跡2』

2006年   南有馬町教育委員会(松本慎二編)『南有馬町文化財調査報告書第4集 原城跡3』

2008年2月 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定一覧表登録記念シンポジウム「有馬の城・外交・祈り-西欧外交の原点を求めて」が開催される

2008年11月 服部英雄・千田嘉博・宮武正登編 長崎県南島原市監修『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』(新人物往来社)(上記2008年2月のシンポジウム記録)

2008年   「原城跡」発掘調査が終了する

壮大な発掘調査で、テレビの歴史番組でもこのことはよく紹介され、原城の遺跡の写真、実像想像図(CG)や乱終結の際に殺された人々の遺骨写真などは衝撃的でした。この発掘は、すべての史料の見直しをも迫る一大事業として注目されます。その経過を受けての二度のシンポジウムについての記録書籍(新人物往来社発行)には歴史の見直される瞬間が生き生きと収められています。

 

3.新しい展望へ~2000年代の動向

この発掘事業のさなかから、日本中世史・近世史・キリシタン史に関する研究者の間で、「島原の乱」の歴史的実像をめぐって新たな史的展望を描き出す研究が発表されるようになりました。その中でこの出来事の意義を大きな視野から考えさせてくれる研究者・著者は次の三人ではないかと思います。

(1)一人は、神田千里氏(1949年生まれ。東洋大学文学部教授。日本中世史(中世後期の宗教社会史)専攻)。彼は、2004年に『土一揆の時代』(吉川弘文館)、2005年に『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』(中央公論新社)を発表、また2010年の『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)でも「宗教一揆としての島原の乱」について概説しています。広く世界史動向を見据えながら、室町・戦国期の日本の宗教史の上で「宗教一揆として島原の乱」を位置づけていこうという視点を示しています。ただし、一揆であるといいながらも、教科書的な「島原の乱」という呼称を使っています。

(2)次に、大橋幸泰(ゆきひろ)氏(1964年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。日本近世史・近世宗教史専攻)が注目されます。彼は2001年に『キリシタン民衆史の研究』(東京堂出版)を発表。2008年には神田千里氏の所論への批判説も含む従来研究の検証を意図した『検証島原天草一揆』(吉川弘文館)を発表しています。そのなかで名称問題に関して「この一揆は、一揆発生時はもちろん、近世期を通じて『一揆』の典型例として語り継がれてきた。領主と百姓との緊張関係を維持するのに大きな役割を果たした事件として、近世人にとってこの出来事は『一揆』そのものなのであり、『一揆』こそこの事件の呼称としてふさわしい。したがって、一揆の前半を表す「天草」を加えることとあわせて、この事件は『島原天草一揆』と呼ぶのがもっとも自然である」(同書190ページ)としています。大橋氏はその後、2014年『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社選書メチエ)、2017年には『近世潜伏宗教論:キリシタンと隠し念仏』(校倉書房)を発表しています。

神田氏は室町・戦国の宗教史の側から、大橋氏は近世の宗教政策や潜伏キリシタンの史の側から、島原天草一揆を観ているようでもあります。

(3)これら日本史研究者が示した新しい視点からの「島原天草一揆論」は、上智大学のキリシタン文化研究会からも注目され、2010年12月には上智大学キリシタン文化研究会主催・上智大学史学会共催フォーラム『島原天草一揆再考』という催しが行われました。神田氏、大橋氏の諸説提示に積極的にこたえ、キリシタン史研究の伝統の中でも、「島原天草一揆」を再考しようという姿勢は、大変積極的なものと感じられます。このフォーラムについて、主催者の一人である川村信三師(1958年生まれ。イエズス会司祭、上智大学文学部史学科教授)は、『カトリック生活』2011年2月号での連載「キリスト教史)ステップ・バイ・ステップ」第41回「島原・天草一揆(乱)再考」でレポートしており、神田氏、大橋氏の諸説から示唆を受けた点と、さらに補完すべき観点を挙げるとともに、日本史研究家とキリシタン史研究家の交流がこの事件の真実に迫る上では重要と指摘しています。

(4)そのような動向の中でキリシタン史研究のベテランとして、『日本キリスト教史』(吉川弘文館 1990年)や『日本キリシタン史の研究』(同 2002年)、『キリシタンの文化』(同 2012年)などの主著がある五野井隆史氏(1941年生まれ)が2014年に『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館)を発表しました。本書の特徴は、島原天草一揆(教科書的呼称「島原の乱」を著者は使っています)という事件そのものは、ようやく最後の三分の一(160ページ以降の「島原の乱と百姓とキリシタン」という章)になって語られているということです。それまでは「島原におけるキリシタン」「天草におけるキリシタン」とこの出来事の前史にあたる両地方のキリシタン史概説となっています。キリシタン伝来の最初期からの歴史を思い起こさせることで、この事件の地層にあるものを暗示する形をとっています。神田氏、大橋氏が提起するような歴史論には絡むことなく、淡々と概説するものですが、深く歴史を考えさせてくれるのではないかと思います。また、これから島原天草一揆(島原の乱)を知りたいという人にとって、本書の「島原の乱と百姓とキリシタン」がもっとも適度な概説書ではないかと思われます。

神田氏、大橋氏、五野井氏は、それぞれの研究を相互に参照し合っている研究者たちですので、一般向けに書かれた彼らの著作を通じて、わたしたちの見方をいろいろに刺激し、養ってくれるのではないかと思います。

(AMOR編集部)

 


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