荒れ野に叫ぶ声


大木 聡(真生会館館長・カトリック社会問題研究所代表幹事)

酒井新二さんは、カトリック社会問題研究所の元・代表幹事であり、元共同通信社社長なども務め、ジャーナリストとして96歳まで執筆なさり、2016年12月18日に、帰天されました。戦後日本社会の激しい変化の中で、第一線のジャーナリストとして活躍し、なおかつカトリック教徒として深い信仰を持って教会の中でも社会問題を中心に発言を続けました。

酒井新二氏

酒井新二さんは、1920年1月4日に東京で生まれ、28年12月24日に神田教会でジャン・マリー・シェレル神父(パリ外国宣教会)から洗礼を受けました。暁星中学、旧制浦和高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、海軍経理学校へ学士入学の後、1942年9月に短現9期主計科士官として、ラバウル、フィリピンなど南方海域を転戦しました。その後、日本国内に転属し、松山海軍航空隊勤時に終戦を迎えました。

その生涯を貫く姿勢の背景には、戦争体験がありました。カトリック社会問題研究所が発行する『福音と社会』290号は酒井新二氏追悼特集であり、多くの関係者が追悼文を寄せています。幾人もが、文章の中で酒井さんの戦争体験に触れており、氏家義一さんは文藝春秋に酒井さん本人が執筆した「二度の原爆遭遇」を引いて、広島原爆を呉で長崎原爆を大村で体験したことを述べています。「あの日の広島市街地の記憶だけは鮮明に残っている」と酒井さんは書きました。

戦後は、1947年に共同通信社に入社し、第一線で記者として活躍され、その実績が認められ政治部長(1962年~1965年)、パリ支局長(1968年~1970年)、編集局長(1972年~1974年)、専務理事(1978年~1985年)などを経て、社長(1985年6月~1991年9月)に就任しました。その後、相談役、顧問を務めました。

『福音と社会』290号に追悼ミサでの森一弘司教の説教も掲載しましたが、その中で「荒野で叫ぶ洗礼者ヨハネの姿と酒井新二さんの生涯とが重なり合う」と述べています。まさに酒井さんは、世間にも教会内にも、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫び続けていたのでしょう。いみじくも、同じ『福音と社会』に共同通信社のご厚意により収録した「編集週報」の一遍に、「”危機”と新聞」(昭和48年10月1日)と題する文があり、日本人の”危機”好きや新聞が”危機”を生み出しているのでは、など現在も問題になっている点を指摘している。その最後で、安易に「終末論」という言葉が使われることを批判し、本来の聖書的意味は単なる破滅ではなく、メシアによる世界救済への希望がそこにあることを、強調しています。新聞に対しては、「その”危機”を克服する道を求める建設的な姿勢が必要である。」と訴えています。問題に目を向けることだけに留まらず、その先を見つめる姿勢の大切さを、常に意識されていたのだと思います。

中央が酒井新二氏、その向かって右が筆者

個人的な思い出としては、酒井さんに初めてお会いしたのは、ぼくが社研のメンバーとなった、90年代の中ごろのことでした。父が社研のメンバーだったので、以前からお名前は知っていましたし、著作なども読んではいました。ジャーナリストとして著名な方であり、体格も良く威厳のある佇まいで、近寄りがたい人なのかもと身構えいたところ、気軽に話しかけてくださり、安心したものでした。

その当時はまだ、東村山にある黙想の家で、春の全国委員会を泊りで開催していました。夜には懇親会があり、その席では取材の裏話や最近の政治状況など、様々な話を聞かせてくれました。熱い話が多かったですが、ご自分のことについて語られた中で印象に残っている話があります。

酒井さんが海軍に入隊したとき、私物として「聖書」を何とか持ち込むことはできないか、と考えたそうです。そこで思いついたのが、「葉隠」なら取り上げることはなかろう、ということです。早速「葉隠」の中身を聖書と入れ替えて、無事に持ち込むことに成功したと、笑って話してくれました。戦地に赴く際にも常に身近に置き続けたと、感慨深げに語っていました。

戦後ジャーナリストとして活躍され、日本社会の在り方に対して積極的に発言されていた背後には、戦争中の経験があったことは確かです。ただ、それらの社会的な、政治的な発言の底には、戦場においても聖書を手放さなかった篤い信仰があったことを忘れることはできません。

今の時代においても、カトリック教会で社会正義に関するような発言をすると批判されることがあります。酒井さんは恐れることなく、第二バチカン公会議以降とくに明確になったカトリック教会の社会正義に対しての理解に基づき、信仰の立場から発言を続けてきました。長く社研のメンバーとして、特に代表幹事としてカトリック社会問題研究所を支えてくれました。

酒井さんは、第二バチカン公会議について「”現実社会”のただ中に身を置こうと決意したものであった。」(社研40周年記念誌「巻頭言」)と評価していますが、その後の迷走によって徹底されていないということを問題にしています。特に日本カトリック教会では、様々な取り組みがなされたが、「カトリック正統主義」とでもいうべき意識が働くことで、社会に向き合うことが妨げられてきました。それに対して、現実世界の真っただ中で、ジャーナリストとして日々変わり行く世界、そこに生じる問題に向き合い続けた酒井さんは、教会に向けて、信徒に向けて、その現実を見つめて歩むように訴えてきたのです。

今、フランシスコ教皇が、社会の中にある教会を意識するように促しています。これから更に、酒井さんの訴え続けた言葉に耳を傾ける必要が強くなるでしょう。

森司教は、追悼ミサの中で「荒れ野に叫ぶ声」ということに触れられました。まさにその声は、人々に悔い改めを勧めるものであり、何よりも神に、イエスに従うことを思い起こさせるものでしょう。

酒井さんの言葉は、このような神に立ち返ることの重要さを私たちに伝え、目を覚ましているようにと促している呼びかけだったのだと、今も確信しています。これからの社研の歩みも、酒井さんが歩まれたように、いつも神と共にあるようにと願っています。

 


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